0-3. プロローグ 魔女の目覚め
「貴方は、要らない」
ジャンの表情が引き攣った。恐怖を通り越して怒りが込み上げる。
「さっきからなんだその態度は。私のしていることにケチをつけないでほしい!」
にやついた笑みのまま、鞭を持ち上げる。
「価値がないのは、ミスター本條、君じゃないか!?」
宙空に鞭がうねる。しなやかに、蛇のように走る鞭は寸分違わず聖夜に狙い澄まされていた。ヒュッと、風切り音が空を裂く。
猛烈な音声が響く。風切り音が重なった。
「あ、ぐぁ……」
ジャンの右手がひしゃげる。関節があらぬ方向に曲がっていた。鞭はとうに彼の手元を離れていた。
激情に任せた聖夜の蹴りが、ジャンの片手を再起不能にした。
「こんなことをして、許されると……ッ!?」
二の句を継がせぬ勢いで、腹部に掌底を叩き込んだ。ジャンの口から吐瀉物が漏れる。華麗に躱し、反転を加えた一撃を横腹に蹴りこむ。くの字に折れた体躯に、追撃の殴打を加える。一撃、二撃、三撃と惨劇は留まることを知らない。ジャンの体が踊っているような錯覚さえ覚える。
不意に、ジャランと鉄が鳴った。
「ハァッ! ハァッ!」
少女が激しく身を捩っていた。無機的な瞳が初めて感情を映し出す。
興奮、していた。双眸に憎悪が浮かんでいる。彼女が何を訴えていたのか、聖夜は確信する。
「助けなどいらない。欲しいのはありったけの憎悪と恨みをぶつけられる自由」
――そうでしょう?
肘鉄で鉄鎖を引きちぎる。少女が歓喜の表情を露わにする。
生まれてきた時からつまらなかった。何に対しても充足感を得られなかった。退屈な日常。終わりの見えない平坦な道。全てを容易くこなせた彼には、世界はあまりにも息苦しかった。そんな人間は死んでいるも同然だ。飽いていたのだ。全てに。
だが、今は……。
「生きている。確かに生きていると実感できる! ああ、素晴らしきかな我が生!」
これ以上にない、充足感を噛みしめている。
解放された少女が不思議そうにこちらを見やっているのに気づく。聖夜は少女の目前に至ると、片足を折り跪いた。少女の手を取り、微笑む。
「今日から私が君の神だ。そして君は私の主となる。どうか、名前を聞かせてほしい」
歪な言葉が紡がれる。少女はなんら意に介することなく、返答した。
「……エルミーユ」
「では、魔女エルミーユ。我が主よ。私からの贈り物で御座います」
告げる聖夜の目の先には、地べたに蹲るジャンの姿があった。生贄は、へ? と間抜けな声を漏らす。
その油断を突くように、聖夜はジャンに迫り。
何の躊躇もなく両足をへし折った。
「あああぁぁああああぁぁああああぁあああぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああああああぁぁぁぁああぁぁぁああぁああぁああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
醜い絶叫が上がる。その様相は、屠殺される豚に酷似している。
「これで召し上がりやすくなったでしょう」
では、どうぞ。差し出される生贄。その顔が極度に青ざめる。
魔女の口許が、三日月を描いた。
ジャンが体を動かそうともがく。想像を絶する痛みさえ忘れ、生にしがみつこうと必死になる。彼は懇願するように叫んだ。
「や、やめろ……。わ、私はお前の神なんだぞ!?」
「ちがう……よ?」
魔女が小首を傾げる。その眼は捕食者のソレだ。
彼女は背後に立つ聖夜を一瞥し、笑みを浮かべた。
「彼……神。おまえ、ちがう」
「そうじゃないッ! 私が神だッ!」
「ちがう」
「違わないッ!」
「ちがう」
子供じみた水掛け論が繰り広げられる。禅問答は止まることをしらない。
繰り返される問答の間に、ジャンが体を壁際に寄せようとする。這いずる様は虫みたいだ。伸ばした手の先には、一振りの鞭があった。
問答無用で右腕を踏み抜いた。
「あがぁッ!?」
「静かにしろ。エルミーユが喋っている」
骨が折れた感触が靴底に伝わる。汚らわしい感覚を振り払おうと、軽く足を振った。
ジャンが憎悪の篭った瞳でエルミーユを睨みつける。
「早く助けろ! 私はお前の神なんだぞ!?」
エルミーユの顔に影が差す。
再び禅問答が始まるかと思いきや、彼女は抱えていた遺骨をギュッと抱きしめた。
「神……お母さん殺さないっ!」
「なっ!?」
「お前、神ちがう!」
そもそも、彼女はジャンを神と認めていなかったのだ。
よくよく考えてみれば、ジャンは彼女の母を最初に神だと教えた。しかし、その神をジャンが殺したのだ。そしてジャンが新たな神を僭称した。子供心にも、単純な矛盾に気づいたのだろう。神は神を殺さない。殺せないし、死んでしまう神はただの人間だ。神は不死でなければならない。
故に、彼女は自身の母とジャンを人と見ていた。神と認めたのは……人間離れしていると認めたのは自分だけなのだ。
その事実を理解した瞬間、全身を快感が駆け巡った。
感情のままに両腕を掲げる。
「さあ! 時は来た! 主よ、今こそ貴方の望みを果たすとき!」
そう、復讐を。
魔女の遺骨が抱きしめられ、その娘の殺意が膨れ上がった。それは悲痛で、悲哀に満ちており、今まで聖夜が見てきた何物よりも純粋な悪意を孕んでいた。
人の憎悪が露出する。たまらないと、聖夜は舌なめずりした。口許が緩む。
魔女の腕が持ち上がる。
「いいな……いいな。『肉がある』、『うらやましい』、『どこも痛くない』、いいな……いいな」
瞬間、不可視の何かが膨れ上がった。確かに空間が変質したのを肌に感じる。それが呼び水だったかのように、ジャンが身を捩りだした。
「あ、あがっ、あぐぁ……。ぐかかあああっぁぁああ!」
意味不明な悶絶を上げながら、ジャンの関節が曲がり始める。体が軋む音がする。ぶちぶちと血管が切れ始める。血が石造りの床を塗りつぶす。目から血の涙が溢れだした。
「なるほど、素晴らしい! これが魔法か!」
感嘆の念を禁じ得ない。この世ならざる神秘をまたひとつ目撃できた。名状しがたい充足感が心を満たす。やはり、魔女ならこうでなくては。
卓の上に置かれた魔女の教典を手に取る。
苦痛にもがくジャンを余所に、ページを捲る。
「『魔女とは、生まれ持って業を背負っている罪深い人間のことである。その呪われた血筋は、外法の術の使用を可能とする。その魔女の中で、一際業の深い人間は教わらずとも魔の術を操る。彼女らが抱えているのは、決して許されない大罪である』」
パタン、と本を閉じた。眼前の現象に対する理解が深まる。
「なるほど、大罪か。キリスト教で定められた七つの大罪だとすると、エルミーユは……強欲か?」
まるで子供が母親に玩具を無心するかのような気安さで欲しがるエルミーユに、聖夜は強欲の影を見た。
推測する聖夜の横で、新たな魔法が行使される。
「いいな……いいな。『なんで、おまえだけ』、『母さん……骨だけ』、『ずるい、ずるい』」
「いや、これは嫉妬かな?」
強欲以上の――嫉み、妬みといった感情がエルミーユの言葉には多分に含まれていた。それは、子供ならば誰しもが口にする言葉。ずるい、なんであの子だけ。だが、本来ならばその言葉は大人に窘められるか、頭ごなしに封殺されるだろう。よしんば欲求が認められたとしても、子供の欲しがるものなど所詮は玩具に過ぎない。
ましてや、それが体の部位などであるはずがない。
「いいな……いいな。――『眼がある』
魔女が、覚醒する。
体の捩れていたジャンから、とうとう奇声が止んだ。欲求を受け止めていた体が、欲求を超えた本気の嫉妬の前に瓦解し始める。比喩ではなく、現実として崩壊の現象が現れる。止んだ声は病んだ精神すら焦がしつくされたことを表し、五感すら溶かされていることを証明していた。これ以上にない証左に、聖夜は彼女の闇を見た。美しい女性に潜んだ魔の本性。その脅威は魔法などではなく、その身の内に眠る醜悪な感情だということを。
「イイッ! 最高だッ! こうでなくては! 美しいものには毒がある。万国共通の認識だろう? ただ漫然と咲き乱れているより、毒々しく可憐に咲いている方が良いに決まっている! 美しいだけのものに価値などない!」
――そう、私が真に惹かれたのは彼女の醜さだったのだ!
人が人でなくなる瞬間を目前に、聖夜は呵呵大笑する。
眼前の男は既に人としての尊厳を失っていた。形という概念から、人権という視点から、人徳という考えから。ありとあらゆるものに見放されていた。
魔女の言葉をなぞるように、その身が崩れ始める。
肉がある、どこも痛くない、母さん……骨だけ。嫉妬が作用し、すべてが男に害を齎す。
それは言葉の裏返し。肉が削げ落ち、全身が鞭打たれるように痛覚を発し、魔女の母のように骨だけになる。言葉の裏返しは意趣返し。意趣返しは仇返し。仇を仇で返す復讐。そんな感情を年端のいかない少女が抱いている。
男の体が腐乱し始める。脂ぎった体が、バターのように溶け始める。皮肉気に、その顔は笑みを刻んでいる。嘲笑ではなく、狂笑。全てを諦め狂い果てた笑いだ。しゅわしゅわと、炭酸のように皮膚から泡が飛散する。溶解が加速する。髪は抜け落ち、皮膚は爛れ、顔は子供が描いた似顔絵の模倣と化している。歪な光景は、まるで胡蝶の夢のよう。現実と空想の境界線を取り除いたかのようだった。泡沫の夢は終幕を迎える。男の双眸が虚空を凝視した。視線の先の魔女が、嗤う。
「『眼』大丈夫?」
どろりと溶け、ぼろりと落ちる。男の視界が暗転した。否、何も映さない。無窮の闇が脳裏を占める。男の全身は、あますことなく魔女の嫉妬にその身を以って応えた。
部屋の隅の排水溝に、男だった液体が零れ落ちる。幻想は終わりを告げ、男は蜻蛉の如く姿を消した。眼前の醜悪な情景に、魔女はただ嗤っている。
「命乞いすら許さぬ無慈悲さ。いえ、いっそ慈悲深いと言えましょう。たいへん素晴らしかったです」
子のねだりを止めるべき大人が嗤い、称賛する。虚脱感に呆然とするエルミーユにその言葉は届いていない。
復讐を果たした彼女に、一体何が残るのだろうか。足許の汚穢じみた水たまりに視線を落としながら、聖夜は反芻する。
彼女にとって、復讐がすべてだった。それを成し遂げた彼女には何も残らない。残るものがない。全て、奪われてしまったのだから。
彼女の瞳に光はない。
「ないのなら、与えよう」
黄色の水たまりを一瞥し、エルミーユの肩を掴む。
「君に虚無しかないのなら、私が理由をくれてやろう。君の生存理由、達成すべき目的を」
少女の耳元で悪魔は囁く。甘く、重く、それでいて軽やかに。
「魔女に仇なす敵を殺しましょう」
さも、当然のことのように先を続ける。
「あの屈辱を、苦しみを、憎悪を感じた者は君だけじゃない。この男のような者がいる限り、世界中で君と同じ人間が苦しむ。その苦しみを取り除いてやりたくはないかい? 解放してやりたくないかい? 復讐を、代行してやりたくはないか? きっと誰もが君に感謝し、崇める。一種の信仰さ。君が魔女の象徴になるんだ。君を錦の御旗に、世界中の魔女が蜂起する。君なら他者の痛みが分かるから」
一気呵成に捲し立てる。言葉の真意を理解する度、少女の瞳に光が戻り始める。
言葉の端々に散見する聖夜の野望。それらの達成は一見不可能だが、彼にはそれがとても容易に思えた。
思えば、自身の才はこのためにあったのかもしれない。
一人の少女を世界の頂点に君臨させるために、授かったのかもしれない。そう錯覚してしまうほどに、聖夜の狂気は加速していた。
もう、戻れない。戻る気などない。
ゆっくりと手を差し出す。
呼応するように魔女も手を差し出して――。
二人の、世界への叛逆が始まった。