0-1. プロローグ 魔女の目覚め
左右の壁に人影が躍る。ぼんやりとした明かりの中、靴音が嫌に響く。照らされる光景は依然と変わらず、辟易とする。かれこれ十分は歩いているが、眼前の景色は異様なまでに変化がない。闇に包まれる中、体感時間も狂い始める。胸元の懐中時計を取り出し、光を当てる。
「まだ数分しか歩いてないのか」
ため息と共に時計を仕舞う。指定されていた空港便にも間に合いそうになく、自身に呆れるばかりだ。
運の悪さはそれに尽きない。道中、聖夜は開かれた空間で鉄線のようなものを見つけた。正方形状に配置されたそれは、察するに昇降機の装置の一部なのだろう。つまり、正規の入口は執務室であり、書斎は非常用の入口だったと考えられる。
「エレベーターを使えればどれだけ楽か」
暗闇の中、寂寥感からか独りごちた。
一本道の景色には何の変わり映えもない。考えることもなく、自然と耳にした叫び声が思い出される。
これまで聖夜は自身の直感に従って行動してきた。声の主は、この先にいると彼の本能が告げている。だが、もしそれが本当ならば、果たして叫び声は外にまで届くのだろうか。
聖夜は少し自信をなくす。
「気のせい……だったのか?」
それにしては、やけに明瞭だった。加えて、叫び声は二度聞こえた。気のせいであるわけがない。
軽く頭を振り、無駄な思考を脳内から追い出す。気のせいだなんて思っていたら、ここまで来るはずがない。
引き返すことのできない道を進む中、もう一度悲鳴を脳内で再生させる。声の音程から、年齢を推定できるかもしれない。
――不意に、幼い悲鳴が空洞に木霊した。
「これは……!」
記憶に新しい声と合致する。続くようにして、鼻先が汚泥のような悪臭に触れた。思わず眉間に皺が寄る。
闇の先に、光が点り始めた。懐中電灯の光ではない。もっと強く、不安な光だ。
自然と足が早くなる。忍ばせていた靴音が連続して響く。五感を通して、声の主がこの先にいると告げていた。
「私の勘は正しかった……!」
悲鳴に交じり、濁声が聞こえ始める。同時に、鋭い音が耳朶に触れた。悪臭が加速度的に酷くなる。その臭いはおぞましい。人外のものを彷彿とさせる。
口の中が乾く。焦りの代わりに歓喜が身を焦がす。気分はまるで神秘を解き明かす考古学者のようだった。
光は次第に明度を増していく。声の主を助けるという目的は、その姿は目撃することにすり替わっていた。今はただ、自身の予測が的中したことが喜ばしい。
――段差が途切れる。階下の終端には扉もなく、光がだだ漏れだった。ひと一人分の石造りのアーチを潜り、先を急ぐ。
視界に収まったのは、石畳の続く一本道だった。その左右にあるものを捉えて、聖夜は絶句する。
「これは……」
間断的に続く鉄格子。乾いた血。格子を握り締めたまま白骨化した死体。鼻につくのは鉄錆の臭い。追い打ちをかけるように、眼球が動く。
巨大な鉄球をぶら下げた鉄鎖が死体に絡みついている。死体の肉は爛れ、爪が剥がれ落ち、全身は傷だらけだった。自分で引っ掻いたのか、頭皮の肉が凝固した血と共に指先に付着していた。その表情は腐敗しつつも、苦痛を残していた。破けた服装から、女性だったことが窺われる。死体でありながら均整のとれた体であり、生前は美しかったであろう顔をしている。……だが、どんなに美しかろうと死んだものは腐食する。
どろりと顔の肉が垂れる。眼球は今にも腐れ落ちそうだ。その双眸は虚空を映し出していた。彼女は死の間際に何を思ったのだろうか。
周囲を見回すと、細工は違えど同じような光景が広がっていた。体の部位が欠損しているもの、臓腑を剥きだしにされたもの、前衛芸術のように体を折り曲げられたもの。種々雑多、多岐に渡り惨殺の跡が残っている。
あまりにも悪趣味だった。地獄を切り取ったかのような光景。人であるなら、手出しはしないであろう畜生の行いだ。
水たまりに水滴が跳ねる音がした。反射的に視線が動く。壊死した死肉の先から、血が滴り落ちていた。石造りの床に鮮血が咲いている。
聖夜の脳内を驚愕が駆け巡る。常識が彼を引き戻るようにと急かす。だが、彼に撤退の二文字はなかった。それどころか、眼前の景色に恐れさえなしていなかった。
一歩、足を進める。自然と双眸が左右に揺れる。
左右を占める牢獄に、まるで名画のギャラリーのような錯覚を覚える。未知と神秘を求める点で、芸術と外道は似ているのかもしれない。そもそも、芸術と銘打ってしまえば汚いものも綺麗に見える。
惨殺された死体がいつか見た絵画と重なった。見たことのないものを見る興奮が全身を貫く。束の間の陶酔感に聖夜は酔いしれた。
「命を扱ったアートか。こんな非合法なものは滅多に見られないだろうな」
どんなに金を払ってもお目通りできるものではない。罪悪と恐怖は金に勝る。こんなことができるのは、何の矜持もない人間か――
「狂っている……」
――生粋の狂人だけだろう。
聖夜の口許が弧を描く。自分の底に潜んでいた本性が姿を現した。
醜く、穢れた……しかし、それでいて美しく本能に忠実な欲望の化身。これこそが真の自分なのだと確信する。