1-7.日常の崩落
『何をした……?』
無機質なオペレーターの声がインカム越しに響く。
その声音は、いつもより攻撃的なように聞こえる。
……分かっている。自分のやったことくらい。
ビル風の勢いが増す。
僕は淡々と言葉を返した。
「銃弾を、外しました」
放った弾丸は、魔女の肩を掠めて後方で爆散した。爆発により魔女を殺害するつもりが、咄嗟にバリアを張られてしまったため無意味と化してしまった。
それも全て……。
『誰かと、通話していたな?』
僕が、栗栖さんに連絡を取ったからだ。
『誰だ?』
喉が乾く。
スコープの先では、バリアの内側で魔女が肩を押さえて喚いていた。栗栖さんは数瞬前に家から逃げ出し、少し離れたところで糸が切れたように倒れこんだ。
状況は、限りなく悪い。
心を凍結させ、返答する。
「知り合いの民間人です」
『何故撃たなかった? 情が邪魔をしたのか?』
「……」
何も返せない。返せるはずがない。言い訳も、言い分もない。
僕は、失敗したのだ。
『期待していたのだがな。……状況終了。撤退しろ。装甲車を下に寄越してある』
嘆息と共に告げられる。失笑の混じった声。
器具を片付け始めた途端、不穏な言葉が耳朶に届いた。
黒塗りのスナイパーが、手のひらから滑り落ちる。
『生きていれば、次も使ってやる』
……そうだった。
魔女の暗殺に失敗したのだ。次がある筈がない。明日もない。
激昂した魔女から逃げきれなければ、未来はやってこない。
水を打ったように現実に立ち返る。スコープから見た光景のように、視野狭窄に陥っていたのか。打って変わったように視界が広くなる。
落とした携帯を拾い直し、政府の工作班の人間に後片付けをお願いした。
最低限の物を装備して、駆け出す。
屋上の扉を荒々しく開け、エレベーターを経由して地上50階から1階へ。弾かれたように走った。1秒も無駄にすることはできない。
予め、ビルの構造は頭に叩き込んである。セパレーターに区切られたオフィスを縫うようしてすり抜ける。
エントランスまで辿り着くと、その先に装甲車と運転手が手招きをしているのが見て取れた。
僅かな間を一気に駆け抜け、後部座席に身を滑らせた。
ドアを閉めるより先に車が発車した。
ドライバーの顔はいつになく青い。
「このまま真っ直ぐ、全速力で走れ」
用意させておいた武装を確認し、装着する。
手榴弾、接着爆弾、カービンライフル、ナイフ、M1911、懐に携えた武器を一瞥し、運転席に背を向ける。
ミラー越しに、運転手と目が合った。運転手は忙しなく瞬きを繰り返し、手元が凍ったようにぎこちない。やはり、死に行く人間に碌な人材を寄越すわけがないか。
インカムを数度叩く。雑音に塗れて何の声も拾えない。僕は、捨てられたのだ。
だが、僕は生きねばならない。
——脳裏に、母の顔が浮かぶ。
死ぬわけには、いかない。
カービンライフルの先端でバックのウィンドウを破り、即席の銃座を用意して構えた。
片膝をシートにつけ、狙いをつける。
「……ドライバー、もっと早く走れ」
運転手は、全速力を出してなどいなかった。ここに派遣されたということは、彼は何かのミスや責を問われたということなのだろう。軍側の、僕の逃亡を幇助したという最低限の言い分として機能しているだけなのだ。言わば、彼は僕の敵だ。僕を死地に追いやる人間そのもの。
しかし、彼もまた自分の命が惜しいのだ。
故に、僕は発破をかける。
「死にたくなければ、全力でアクセルを踏み込め」
一瞬、困惑したのだろう。だが、直後に装甲車が唸りを上げた。
強烈な風音が窓を叩きつける。あまりのスピードに手元の銃を持って行かれそうだ。
しかし、このスピードは必然。
ゆっくりと、緩慢とも言える速度でカービンライフルを構え直す。
「敵は、直ぐ近くまで来ている」
銃身の先を見据えるように、引き金に手を掛ける。弓状のトリガーがやけに重い。まるで、圧力が掛かっているかのようだ。
いや、それもそのはず。
比喩でも何でもなく、魔女はもう
「目の前にいる」
射程距離、つまり。僕の視界の中にいた。