1-6.日常の崩落
不思議なにおいがした。それは甘く、酸っぱく、少女が夢見る幻想のように、現実味に欠けていてふわふわとしている。
踊るように散らばった物は、わたがしのような鮮やかなピンクを彩っており、横たわる肢体はとても華奢なものだった。
床の上を滑る液体は、濃厚な紅を宿していた。ともすれば、美しさに目を奪われるほどに。
まるで、夢のようだった。現実から乖離した、御伽噺のような夢。
愛とか、希望とかを信じたくなるような—
——酷い悪夢だった。
崩折れた死体からは、漏れ出るように内蔵物が床にぶちまけられている。淡い赤色の、ぶよぶよとした肉塊が饐えた臭いを放っていた。綿をぶちまけた人形のように、腸をぶちまけた人間がそこにいた。
「嘘……でしょ?」
その顔を知らないと言いたかった。耳鳴りが酷い。視野狭窄に陥る。焦点が一点にのみ絞られていく。顔が、顔が、顔が……。
「おかあ……さん?」
認めてしまった。視野が一気に広くなる。
少女の頭脳が、無残にも意志に反して状況を推察しようとする。
眼球が横にずれた。母の次に、最後の肉親が肉塊となって目に入る。
かつて父と呼んだ塊は、横の母を見遣ったまま固まっていた。視界が、ブレる。
呼吸が不規則になる。耳鳴りが、心臓の音が騒がしい。足に力が入らない。
体が、崩れ落ちる。前傾姿勢のまま、母の体と向き合う。連綿と続く赤、緋、朱。少女の日常を塗り替える勢いで、紅色が伝い落ちていく。握った手は人のものとは思えないほどに冷たい。否応なしにも、歴然たる事実が突きつけられる。
「いや、嫌だよ……。死んでるはずないよね? 治るよね?」
卑屈な笑みを浮かべ、虚ろな眼差しを湛えながら少女はゆっくりと両の手を母の腹部へと持ち上げた。
歪な人形のように、あちこちが折れ曲がった肉体を愛おしそうに撫で上げる。
裂傷と臓物を漏出させる腹部へ添えられた手が、またたく間に朱に染まっていく。
「温かい……。なんだ、お母さん生きてるんだ。よかったぁ」
視神系を騙すように、しきりに温かいと繰り返す。母の体温だけが少女の安寧を保っていた。
しかし、それも一瞬。
「あれ……? 止まらないよ、血が、止まらない!」
穴という穴から血が漏出する。床の溝が朱に満たされる。川の流れのように鮮血が床面を伝い、魔女の足下を僅かに濡らす。
魔女は、嗤っていた。
「見たか。これが、奪われるっていうことなんだよぉ!」
頬の入墨が狂笑に歪む。視界の少女はかつての誰かのように現実から逃げようとしていた。一心不乱に事実を否定していた。しかし、魔女は知っている。そんなものは長続きしないということを。
「……おい」
口元を弓なりに歪めたまま、少女を軽く小突く。
眼下の少女は懸命に何かを集めていた。両手が血に塗れている。魔女の笑みが一層深まった。
少女は、臓器を掻き集めていた。人形の綿を詰め直すように、母の臓物を纏めては腸に押し込んでいる。既に、正気は失せていた。
「いいねぇ、最高に狂ってんよ」
涙を流しながら手を血に濡らす少女を嗤う。
少女が魔女に振り向いた。
—————現実を教えてやろう。
魔女の双眸が、獰猛に輝いた。
嗜虐に満ちた言葉が紡がれる。
「お前の両親は……死んだよ」
告げる。
少女の動きが止まった。
「あたしが、殺した」
虚ろな目と視線が合った。
光は、完全に失せていた。
「嘘だ……。ねぇ、なんで?」
滂沱と涙を流しながら、少女が魔女に縋り付く。
「ねぇ、なんでそんな嫌なこというの!? なんで死んだなんて言うの!?」
度し難いほどに、愚かしい。
絡みつく腕を振りほどいた。少女の体が乱雑に突き飛ばされる。
「憎いからさ」
唾棄するように吐き捨てた。
睨めるように少女を見る。温厚そうな顔立ち、言動。仕立ての良い服。それら全てが、少女が温室育ちであることを示していた。
「……憎いんだ」
確かめるように、呟いた。歯軋りが鳴る。
「だから、あたしは……」
右手を少女に向けた。
躊躇いや迷いはなかった。
二の句を継ぐべく、口唇を震わせる。
「お前を−−−−!」
振り上げられた拳。それに被せるようにして、少女の懐が鳴った。
場違いな音楽が辺りを満たす。
聞き慣れた音に少女が我に返り、反射的に耳元に携帯を寄せる。
魔女が不審気に周囲を見回す。
耳元からは、親しみ慣れた声が聞こえた。
いつになく疲れた声音が耳朶を叩く。
『今すぐ外に出ろ』
観念したような声に、急速に自分が冷えていく感覚を覚えた。両親の死、殺害者。魔女を自称する女。自分の置かれた状況が如何なものなのか。
理解した後は早かった。
少女は、弾かれるように駆け出した。自分が殺人者の近くにいることなんて考えたくなかった。背後から怒号が響く。
体がひたすらに、友人の命令を実行する。
走り、走って、駆け抜けた。
外気に肌が晒される。脳内の警鐘が騒々しい。恐怖に突き動かされるまま、駆ける。
父と母の顔が思い浮かんだ。置いていった両親が気掛かりだった。罪悪感が胸中を埋めていく。だが、戻る気はない。
今はただ、自分が助かりたかった。