0.プロローグ 魔女の目覚め
ストックがあるうちはどんどん上げていきます。
よろしくお願いします。
世の中には狂人というものが存在する。
建前だけが横行する現実で、皆本性を隠している。故に見つからない。狂人だと露見することがないから、そんなものは存在しないと言えてしまえる。
しかし、確かに狂人は存在する。
それは本来の性格、環境、問わず種々雑多な理由があるだろう。ほんの僅かな契機で己が内に眠る狂気を垣間見る者もいる。
――本條聖夜もその一人だった。
「ジャンさん、これは……?」
魔女の教典、聖夜の手の中にある本のタイトル。絢爛豪華な調度品、立ち並ぶような本棚の数々。納められた本は全て内外問わずどこかしらの国に関する書物、または経済、文化と甚く真っ当なものが揃えられていた。その中で一際異彩を放っていたのが、魔女の教典だった。
聖夜は革張りのソファーから立ち上がり、その一冊を手に取った。誰何された対面の老人は朗らかに笑う。
「いや、ただの伝承ですよ。私がここに務める前から置いてあったものです」
如何にも好々爺といった風貌。ジャンと呼ばれた老人はえくぼを形作る。
「民俗文化みたいなものでしょうか?」
聖夜の指がページを飛ばす。次々と飛来する文字を、双眸が正確に捉えていく。語られる内容は、魔女が現世に存在するといったものだった。
「魔女……俄かに信じられませんね」
「そんなものは存在しませんよ。……さぁ、話の続きをしましょう。掛けて下さい」
ソファーを手で示され、一過性の興味を捨て聖夜はソファーに腰かけた。革が軋んだような音をたてた。
本條聖夜は外交官だ。若くして才覚を発揮し、日本の顔として多岐に渡る国と自国を繋げてきた。私生活も順風満帆、24という若さで結婚し今では6つになる子供もいる。金にも不自由しない、公私共に完璧な人物。極めつけには端正な容姿、非の打ちどころがない。そんな彼は、どことなく人生に飽いていた。
だからだろうか、その本に僅かながら興味が湧いたのは。
「では、今度の首相訪問にむけた詳細を決めましょう」
「そうですね、貴方の指定する日ですと――」
ただ、このときは既に忘れていた。本のことも、魔女のことも。
そんなものは存在しないとばかりに。
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「それでは、失礼します」
「とても有意義な会談でした。気を付けてお帰りください」
両者の話し合いは満足のいく結果で終結した。ジャンの邸宅の前で、聖夜は笑いながら礼を言う。使用人が扉を閉じたのを皮切りに、聖夜の表情から笑みが剥げ落ちた。
「作り笑いというのも存外疲れるものだ」
まるで打って変ったかのような口調。別人に思えるような態度が露わになる。
彼は懐中時計を取り出すと眉間に皺を寄せた。純金の外装が簡素な音と共に閉じられる。
「急がないと帰りの便に乗り遅れるな……」
焦慮が表情に浮かぶ。懐から車の鍵を取り出すと、寄せてあった黒塗りの外車に差し込んだ。乗り込もうとした瞬間、耳朶に女性の声が触れた気がした。
気のなしか、女子の……それも幼い女の子の悲鳴が聞こえた。絹を裂くような声が続いて届き、予感は確信へと変わる。
慌てて邸宅へと踵を返した。
扉を開けると、驚いた使用人の顔が目に入った。錠をかける寸前のようだった。その脇を通り抜けホールへと直進する。
螺旋階段とシャンデリア、真紅のカーペット。豪奢な装飾が間断的に視界に飛び込んでくる。ゆるやかなアーチを描く階段の左右の分かれ道、直感を頼りに左へと進んだ。背後から掛かる使用人の制止の声を振り切り、駆け出す。悲鳴は近くまで来ている気がした。
目につくドアを片っ端から開けていく。自分が何故こうも活発に動いているのか、その理由すらわからないままに行動する。
応接間、寝室、浴場、物置、コレクションルーム、音楽鑑賞室、徐々に館の主の傾倒する趣味へと部屋が変貌していく。
ここじゃない、ここじゃない。直感を頼りに開けた部屋は、書斎だった。扉を閉める寸前、脇の本棚が目に映る。視力が良いと称賛される瞳が、一冊の本のタイトルを捉えた。
――魔女の教典。
扉の隙間に足を捻じ込み、部屋に入る。衝動的に本を手に取ると、妙な取っ掛かりを覚えた。まるで、本の奥に何かがあるような……。
直感のままに本に手を伸ばす。絹の手袋はしっかりと本の突端を掴み、拍子抜けするほど簡単に引き抜いた。本棚から無理に抜かれ、間隙ができたことで左右に置かれていた本が僅かに揺れる。目をとられたその先に、聖夜は奇妙な形状をした凹みを捉えた。
縦に細長い窪み。それは、意図的でないとつくれないものだ。故意に設えられた窪みに、聖夜は暫くの間思慮する。
背後からの足音が大きくなった。館の従者が近づいてきている。連鎖する扉の開閉音に聖夜の額から嫌な汗が垂れる。
悲鳴を聞いたとはいえ、自分が行っていることは立派な犯罪だ。不法侵入という単語が脳裏を掠める。だが、それでも後悔はなく、何故か使命に駆られている感覚がしていた。誰かが助けを呼んでいる気がした。それに応えることこそ、自分に求められているものだと確信していた。
扉の開閉音が近い。聖夜は窪みを再度見つめ、視線を手元に落とした。本のタイトルは魔女の教典。先ほど、執務室でジョンと会話していた時にも見かけたものだ。ひとつの館で、それも違う部屋で、同じ本を取りそろえたりするものだろうか。疑問が浮上すると同時に、窪みの存在と合致して氷解する。即座に魔女の教典を横倒しに窪みへ突き刺した。本の底部が窪みに寸分違わず収まった感覚を覚える。その次の瞬間、本棚が振動し始め、その奥に姿を隠していた壁面が露わになる。
「なん……だ、これは?」
壁面は、否、本棚の背後にあったのは地下へと続く階段だった。石造りの冷たい階段が目前に姿を現す。立派な大理石の床と一線を引く境界線に、聖夜は知らずのうちに畏怖する。この先に足を踏み入れるのは不味いと本能が叫んでいた。隠し階段の先にあるものなんて碌なものじゃない。
「ミスター本条! どこにいるんですか!?」
拙い英語で誰何する声が廊下に響く。音源は近い。迷っている暇はないと、聖夜は本を正位置に戻し階段へと足を踏み出した。
本棚が元の位置に戻り、光源がなくなる。徐々に狭まる光の中、階段のすぐ真横に懐中電灯が備え付けられているのを見つけた。手に取って、電源を入れる。閉じきった闇の中を一条の光が裂いた。
一歩足を進めると、嫌に靴音が響いた。光を頭上に翳すと、そこに天井はなく石造りの螺旋階段が身を巻くようにしてあった。蛇を連想させるような作りだ。恐らくだが、会談に使用された執務室の本棚にも同じ仕掛けが施されているのだろう。
視界の先に続く足場は、螺旋階段の中腹に繋がっていた。
「……ここにもいない」
背後で扉の開閉音が聞こえ、続けて呟きが零される。従者が書斎に入ってきたようだった。だが、本棚の仕掛けには気づかずそのまま部屋を後にする。
「間一髪だったか……」
自分の声が嫌に耳につく。音が反響しているのだろう。
引き返すことを念頭に、背後の閉じた壁面を見遣る。見て触れたところ、壁の横に窪みがあるのを見つけた。脱出の切っ掛けを掴むと同時に、失望の念が溢れる。
本は持ってくるものだったのか。一冊は入口の鍵、もう一冊は出口の鍵ということなのだろう。だから館に二つ魔女の教典があった。いや、書斎も入口になり得ることを考えるともっとあってもおかしくはない。出入りに二冊必要なら、四冊は持っていても当然だ。
出るために必要な一冊も、きっと書斎に隠されていたに違いない。
益体のない思考が脳裏を渦巻く。本能は後悔していなくとも、理性が激しく後悔している。
聖夜は諦観と共に階下を見下ろす。退路が断たれた以上、進むしかない。
苦虫を噛み潰したような表情で彼は歩き出した。
彼に続くように、靴音が高らかに反響する。