08
つつがなく放課後。
ホームルームが終わった途端、シルフィとマリアは案の定クラスメイトたちに取り囲まれてしまった。部活の勧誘だったり、どこか遊びに行こうという提案だったりと様々だが、彼らを振り切って真っ先にシルフィは教室から廊下に出てしまう。
彼女を追いかけるようにして、森斗とマリアも教室をあとにした。クラスメイトたち(特に男子)からの「なんなんだあいつ……」という視線をハッキリと背中に感じる。その視線から逃げるようにして、早足でシルフィを追いかける。
二人が追いついたことに気づいて、シルフィはぶっきらぼうに言い放った。
「……なんだ、放課後まで一緒にいることはないだろう?」
「いえいえ、放課後に仲良くしてこその友達ではないですか。それに私にとっては、あなたの行動範囲を把握しておくことも仕事の一つですしね。急ぎのミッションもありませんから、シルフィさんの用事に付き合いますよ」
ニコニコとして答えるマリア。
シルフィが今度は森斗に問いかける。
「で、お前は?」
「僕はきみたち以外に話せる相手がいない」
三人の間に一瞬、かなり冷えた感じの空気が立ちこめた。
「まぁ、なんだ、その……人には人の事情というものがあるからな」
万物に適用されそうな、けれども効果の薄そうなフォローをするシルフィ。
マリアがすぐさま話題を変更する。
「そういえば、シルフィさんはどちらに向かわれてるんですか? 昇降口とは真逆の方向……特別教室がある第二校舎の方に私たちは進んでいるようですけど」
「美術部に入部しようと思ってな」
シルフィがさらりと答える。
体が跳ねるほど驚いたのは森斗だった。
彼は驚きのあまりに右肘を消火栓にぶつけてしまう。
「あいたっ……ええと、シルフィは美術部に入部するの?」
「私が美術部に入部するのがそんなに意外か? 私はこう見えても絵を描くのが好きなのだ。ドイツにいた頃は交通安全ポスターの応募で表彰されたこともあるぞ。放たれた弾丸と走り出した車は急に止まれない――という標語付きでな」
「いや、そういうことじゃなくて、」
森斗はぶつけてしまった右肘をさすった。
「狩人って部活に入ってもいいんだね。知らなかったよ」
「お前の先入観、不自由過ぎるだろ……」
シルフィが可哀想なものを見る目をする。
あらあら、といった感じでマリアは苦笑いした。
「一般人と仲良くなりすぎないように、とは言われていますけどね。うっかり恋人を作ったりして、それを人質に取られたりしたら厄介ですから。ブラックな話ですけど、人質に取られた時点でスッパリと切り捨てられる精神力があるなら問題ありませんけどね」
「機関の外で友達を作るならそこそこにしておけってことだ」
うんうん、とうなずいているシルフィ。
彼女は森斗に向かって忠告する。
「だから、友達を作るのはお前の勝手だ。だが、あまり深入りしすぎると敵に利用されたときに厄介なことになる。仲良くなりすぎないように注意しつつ、万が一のときはスパッと切る――これができるなら、部活に入ろうが、友達を作ろうが自由だ」
「まぁ、その友達が全然できなくて困ってるんだけどね」
冷えた空気が再び三人の間に立ちこめる。
美術室の前に到着したのはそのときだった。
「き、気を取り直して部活見学をしましょうか。私も気になりますから」
「お、おう……」
マリアに促されて、シルフィは美術室のドアを押し開ける。
まず最初に飛び込んできたのは、微かに漂っている絵の具の香りだった。このにおいを嗅ぐと、森斗は「あぁ、美術の時間だなぁ……」と感じる。整然と並んでいる作業台、バックヤードを雑に仕切っている展示パネル、ホコリが薄く積もっている石膏像。クラス教室と違った開放的な雰囲気がどことなく心地よい。
顧問の姿は見当たらないが、部屋の隅で絵を描いている男子生徒が一人いた。
剣山を思わせる髪型の彼は、イーゼルにスケッチブックを立てて素描をしている。少し離れたところには、中身が半分ほどなくなった食パンの袋が置いてあった。昼食で半分食べてしまったのかもしれない。
男子生徒たちは三人の存在に気づいて、自分の目を疑うように二度見した。
「ん……おっ、おぉっ!?」
彼は椅子を跳ね飛ばすほどの勢いで、すぐさま三人の方に駆け寄ってくる。
「シルフィ・ローゼンと西園寺マリアじゃねーかっ! ていうか、森斗。どうして、お前が美少女転校生たちと親しげなんだよ!? 俺はこの世界が不公平であることを嘆かずにはいられねえぞ、マジで!」
すると、三人が一斉に「誰?」という顔をした。
森斗的にはどこかで見たような覚えがなくもないが……。
男子生徒は自分のことを指さして主張を繰り返す。
「同じクラスの真田春臣だよ! クラスで自己紹介したとき、リフティングしながら徳川の歴代将軍を暗唱するって一発芸やったろ? 相当なインパクトだったはずだ。転校生二人は知らなくても仕方ないけど!」
首をひねる森斗。
「そんなことあったかなぁ……ゴメン、全然覚えていないんだ」
「いや、いいよ。俺の方だって、今朝までお前の存在忘れてたし。シルフィちゃんと教室から出て行くところを目撃してなかったら、今でもちょっとポカンとしてただろうし。お互い様ってことだな。俺のことは春臣って呼べ。俺も森斗って呼ぶから。な?」
落ち込むのも早かったが立ち直るのも早い。
春臣は二人の美少女に向かって質問した。
「で、美術室にどんな用事があるわけ? 忘れ物ってわけじゃなさそうだが」
「美術部に入部しようかと考えているんだ」
シルフィが答える。
すると、春臣は抱きつきたいのを堪えるかのように小刻みに震え始めた。
「おおう……マジか。美術部にドイツ人美少女転校生が来ちゃうか。部員は俺だけしかいないから、騒がしくはないし、場所も広く使えるぜ。ドイツでも美術部に入ってたりしたの? 専門的にやりたいことってある?」
「美術部に入っていたことはない。やりたいことは色々だ」
「色々かー。それなら、ちゃんと先生に聞いた方がいいかもな。今日はいないけど」
春臣が残り二人の方に振り返る。
「そっちの二人は?」
「シルフィさんが入部するなら、私も入ろうかなと考えています」
「僕はあまり絵を描くのが得意じゃない」
マリアとは違って、森斗の反応はあまり芳しくない。
森斗にとって絵を描くこととは、美術の授業で良い成績を取る方法でしかないからだ。楽しむために絵を描いた覚えはほとんどない。幼稚園児だったころには、お絵かきくらいならそれなりにしていたかもしれないが。
心配するなよ、と春臣が胸を張って言った。
「美術部の活動は絵を描くだけじゃないからな。別に創作活動を強制してるわけじゃない。といっても、やる気があればちゃんと技術は上達すると思うぜ。顧問の長山先生は予備校でも講師をやってるからな。ここの卒業生には美大生もいるくらいだ」
彼は描きかけのスケッチを指さす。
「先生が予備校に行っている間は自由に活動。先生がいるときは色々教えてもらえるって感じだな。部費は全然ないから、その辺は自己負担になっちまうが、何をやっちゃ悪いってのは特にない。模型を作っても、編み物をしてもいい」
それから、と春臣はバックヤードにあるロッカーの一つを開けはなった。
ロッカーにぎっしりと収納されているのは、とんでもない量の漫画本である。大人気シリーズから幻の打ち切り作品、無造作に積み上げられた週刊漫画雑誌、ひっそりと安置されているエロ漫画まで、そのバリエーションは多岐にわたっている。
価値がいまいち分かっていない森斗とシルフィ。
漫画本の山に一番反応したのはマリアだった。
「ふおぉ、こっ、これはっ!」
彼女がロッカーから引っ張り出したのは、単行本や漫画雑誌とは違った薄型の本である。映画のパンフレットと同じような体裁だ。ただ、それも一応は漫画本であるはずなのに、バーコードや商品番号が印字されていない。
「最近になって商業デビューされたアンリエット先生の……しかも、再販されていない幻の同人誌じゃないですか! どうして、こんなレア同人誌がこんなところに!」
目を皿のようにして、同人誌を見つめるマリア。
春臣がまるで自分のことのように誇らしげに言った。
「おっと、その同人誌の価値が分かるとは……マリアちゃんはかなりの通だな。そいつは卒業した先輩が脱オタするとかで置いていった品だ。まあ、あの先輩は根っからのオタクだから、脱オタなんて絶対無理だけどな」
「こ、これ、読ませていただいてもよろしいですか?」
「美術部に入部するなら、ここにある漫画は読み放題だぜ! 森斗はどうだ?」
春臣から話題を振られるが、森斗の反応はやはり芳しくない。
「僕、漫画を読んだことがないんだよね」
「えっ、なんだよそれ! お前、本当にわけの分からないやつだな!」
彼の言葉に森斗は反論する。
「いや、僕はわけの分からない人間ではないはずだ。至って普通だと思う」
「いやいや、普通じゃねーよ。お前がどうして、クラスで浮いてるのか分からないだろ? 変わり者だからだよ。とりあえず、みんなが知ってるような漫画を読んでおけ。ジャンプも買っておけ。絶対に損はしないから」
「そもそも、本自体もあまり読まないというか……」
「うちの学校図書館って結構すごいんだぞ? そっちも一度覗いてこい。お前には人生を楽しむための材料が足りなさすぎる」
「そうですよ、森斗さん!」
春臣に続いて、マリアまでもが森斗に猛烈なアピールをしてくる。
「私と一緒に美術部に入部して漫画を読みあさりましょう! 漫画は日本の宝です! 世界が漫画を求めているのですよ! 春臣さんと二人で男の漫画道を突っ走ってみたらいかがでしょうか? 漫画は青春、青春は漫画ですから!」
判断材料を求めるように、森斗はシルフィの方に視線を向けた。
シルフィは「好きにすればいいだろ……」とそっぽを向いてしまう。
思い返してみると、小学生の頃は漫画を読んだりアニメを見たりしたくて仕方がなかった。だが、森斗の父親――狩屋深山はそれを許してくれなかった。その頃、ちょうど父は妻を失ったばかりで、家を空けて仕事ばかりしているか、帰ってきても森斗を厳しく躾けるかのどちらかだった。
中学生になると、今度はあまり漫画やアニメなどに興味が湧かなくなってきた。深山が心の平生を取り戻した一方で、森斗はとにかく強くなることしか頭になかったからである。異端者の存在を知らず、のうのうと生きているクラスメイトたちのことを見下していた節もあった。調子に乗っていたのだ。
で、今は?
「……じゃあ、僕も美術部に入部して漫画を読む」
森斗がそう決断すると、春臣は彼の肩をバシバシと叩いた。
「よく言ってくれた。お前はこれから正体不明の狩屋森斗なんかじゃなくて、美術部員の狩屋森斗だ! あぁ、部員が一気に三人増えて、そのうち二人は美少女転校生とか……俺って完全に主人公体質だな。こういう出会いは大事にしたいからな。せっかくだから、俺たちはこれから親友になろうぜ!」
「えっ、親友は一身上の都合があって無理なんだけど……」
「一身上の都合!?」
ショックで背筋がピンと反り返る春臣。
森斗は先ほど受けた忠告をしっかりと覚えていた。
機関の外に友達を作るならばそこそこにしておくこと。うっかり仲良くなりすぎると、別れを惜しむのが辛いし、友達を人質に取られたときに困るし、秘密組織のエージェントとして不都合が発生してしまう。
春臣が大げさに涙目になる。
「いいよ、いいよ。いきなり親友になろうとか言われてドン引きするのは仕方ねえよ。少しずつ友好を深めていけばいいさ……ということで、今日は顧問の長山先生もいないから、これからどこかに遊びにでも行かないか?」
「それは悪くない発案ですね!」
マリアが景気よく反応した。
彼女は読み終わった同人誌を閉じて本棚に戻す。
「私とシルフィさんはこの街に来たばかりですから。気軽に遊べそうな場所を教えてもらえると嬉しいですね。ゲームセンターとか、カラオケとか。私、こう見えてゲームもカラオケも得意なんですよ。流石は西園寺さん、できる女です!」
「顧問がいなければ入部申請もできないからな。私も構わないが」
少々気が抜けたように賛成するシルフィ。
ワンテンポ送れて、森戸がおずおずと発言した。
「僕、ゲームセンターもカラオケも行ったことがないんだけど……」
春臣が区切りをつけるようにパンッと手を叩く。
「それなら決定だ。どっちも駅前にあるから俺が案内してやるよ。そうと決まったら、とりあえず学校から出ようぜ」
彼はそう言って、手際よくスケッチブックとイーゼルを部員専用のロッカーに片づけた。
食パンの袋もスクールバックに突っ込む。
四人は美術室をあとにすると、ひとまず昇降口から校舎を出た。
左手に見える校庭からは野球部のかけ声が、校舎からは軽音部が演奏する楽器の音色が、体育館からはバスケットボールの弾む音が聞こえてくる。森斗は日頃、部活が始まる頃には下校してしまうので、こうして生徒たちが活動している音が聞こえるのは新鮮だった。
四人揃って徒歩通学だったので、自転車を取りに行く必要もなく正門を抜ける。
正門前には高等部の生徒だけではなくて、隣接する中等部の生徒もチラホラと見られた。高等部と中等部は一部施設を共有しており、中高の生徒が交流する機会は結構多い。体育祭や学園祭などのイベントも同時に行ったりする。
駅前に向かって歩き出す。
そのとき、何かが引っかかって森斗は立ち止まった。
気づいたのは彼だけだったようで、他の三人は駅前方向に歩き続けている。
森斗が気になったのは、校門前でバスを待っている一人の女子生徒だった。中等部の制服を着ていり、背中が丸まってうつむいている。表情も暗くて、可愛らしい顔立ちが台無しだ。思わず近づくのを避けてしまいそうな……そんな陰気さをまとっている。
彼女が誰かを森斗は知っていた。
大神沙耶。
森斗とシルフィが昨晩倒した異端者――大神煌の実妹だ。
調査班がまとめて寄越した資料の中には、沙耶の写真とプロフィールも含まれていた。彼女は稀野学園中等部の三年生で、兄とは違って大人しい性格であるとか。目立たないでいることが彼女の処世術なのだろう。
ただ、それでも沙耶は厄介ごとに巻き込まれ通しであるらしい。兄が起こした問題が彼女にまで飛び火して、いわれのない被害を受けているのだとか。同性からの扱いは特に悪いものだと調査で分かっている。
そして、大神煌が死亡したことは彼女にも伝わっているはずだ。だが、彼の死体はバラバラになっている。警察は捜査をしているが、犯人が見つかることは絶対にない。グリム機関の処理班がそうなるように情報操作しているからだ。
彼女は今、どんなことを考えているのだろうか? 実兄が禁忌を犯していたこと、異端者だったこと、多くの女性を襲っていたことは知っているのだろうか? 今回の事件に陰の組織が関わっていると感じたことは?
大神煌の死について、根も葉もない噂が飛び交っている。それにはグリム機関が情報操作したものだけでなく、世間一般の人々がただの興味本位で、面白おかしく流布しているものだってある。それはきっと彼女を傷つけているだろう。
沙耶は時折、他者の視線を気にするように周囲を見回している。
それは特定の誰かを恐れいているというよりは、社会全体を怖がっているように見えた。彼女には今、一緒に遊べる友達や、相談事のできる相手がいるのだろうか……いや、その答えは端から見ているだけでも明白だった。
異端者である大神煌が排除されたことで、彼とグールたちに襲われるかもしれなかった多くの女性たちが救われた。傷つけられた人々の無念を多少は払うこともできたろう。けれど、それが最善の選択だったかどうか……森斗には断言できなかった。
「――森斗」
呼びかけられて、森斗はとっさに振り返る。
そこには先に行っていたはずのシルフィがいた。
「大神沙耶か……辛そうな表情をしているな」
視線の先にいる大神沙耶は、ちょうどバスに乗り込むところだった。元気がないことが小さい背中からも見て取れる。バスに揺られている姿は、これから牢屋にでも送り込まれるかのように物憂げだ。
シルフィが森斗に言葉を投げかける。
「気になるかもしれないが、あれは私たち狩人の仕事じゃない。私たちの仕事は異端者を素早く、確実に排除することだ。そこから先のことは処理班の担当だろう。私たちが全力で戦うように、処理班は全力で後処理に努める」
沙耶を乗せたバスが見えなくなった。
「だから、森斗が気に病むことではないんだ」
「そうなのかな……」
「あまり深く考えすぎるな。考えすぎは戦いの勘を鈍らせてしまう」
シルフィに言われた通りに、森斗はひとまずこの場で思考を打ち切ることにする。
すぐに答えの出る問題ではない。大神煌を倒すのに全力は注いだつもりだ。だけど、実力不足は重々承知している。自分にもっと力があれば結果は変わったかもしれないが、過去のもしもを考えていたらきりがない。
「ありがとう、シルフィ」
「えっ!?」
森斗の言葉に面食らっているシルフィ。
「なんだ、いきなり。私はお礼を言われるようなことはしていないぞ……」
「さっきのこと、シルフィなりに励ましてくれたんじゃないの?」
「あ、あれは違うぞ! 私が出撃禁止になっている間、お前が不抜けていたら問題だから発破を掛けたというだけでだな――」
そこで、先に行っていた春臣とマリアから声が掛かる。
「なにやってんだよ、二人とも。置いていくぞ!」
「靴ひもでも解けましたかー? ゲーセンの人気ゲームは早い者勝ちですよ!」
今すぐ行くよ、と返事をして駆け出す森斗。
クドクドと何か言っていたシルフィだが、今度は自分一人だけ遅れていることに気づくと、「あぁ、もうっ!」と嘆いてパタパタと走り出した。