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誰もいないところに逃げるしかない。
それならば、シルフィとマリアの行き先は最初から一つに決まっていた。
二人は全力で走り続けて、どうにかバラのないバラ園に到着する。生徒だけでなく一般客も訪れる文化部発表会でも、この場所は相変わらず可哀想なくらいに寂れていた。雑草だらけの花壇も、風に吹かれて溜まった落ち葉も放置されている。
バラ園は校舎を増築したときの問題で、三方を窓のない面に囲まれている。これ以上はどこにも逃げられないが、背後から突然襲われることはない。あとは正面から襲いかかってくるグールたちを片っ端から倒していくだけである。
「倒していくだけって、そんなに簡単なら苦労はしませんよ!」
マリアはシルフィから手を離して、制服の中におもむろに手を突っ込む。
背中から引っ張り出したのは、愛用している日本刀よりも少し短い小太刀だった。
彼女は小太刀を構えて、グールたちの前に立ちはだかる。
その一方、シルフィは息を切らして地面にうずくまっていた。
短い距離を走っただけで、上半身が尋常ではないくらいに熱くなっている。包帯の下で傷口が開いて、血が滲んでいるのが分かった。セーラー服の裏地が血に濡れて、気持ち悪いぐらいにぴったりと肌に貼り付いている。
「……可愛いシルフィさんには、指一本触れさせませんからね!」
マリアは小太刀を振りかざして、襲いかかるグールを次々と迎え撃った。
グールの数は二十体ほどにまで増えている。そして、いずれも包丁やナイフといった刃物で武装していた。ただのグールとは思えないほどに動きのキレがいい。さながら格闘訓練を受けた熟練兵士のようだ。
マリアはグールの攻撃を小太刀で受け止めて、手首を返してナイフを弾き飛ばした。トドメを刺そうとして突きを繰り出すが、素手になったグールは大人しく引き下がる。そして、今度は別のグールが左右から当時に襲いかかってきた。
「チームプレイとは生意気ですね!?」
垂直に跳び上がって、グールたちの攻撃を回避する。
マリアは猫のように体をひねって、グールたちに一発ずつ回し蹴りを叩き込んだ。
だが、それでも倒すには至らない。
よろめいたグールと後退するようにして、新たなグールが攻撃を仕掛けてくる。着地の隙を狙った絶好のタイミング。そいつは大振りのナイフでマリアを切り払おうとしてきたが、彼女は間一髪のところで体を反らした。
マリアの脇腹が鋭く切り裂かれる。
傷は浅かったが、血が勢いよく地面に跳ねた。
「私も加勢するぞ、マリア!」
シルフィはスクールバッグを開けて、その中からグルカナイフを取り出そうとする。
どうにか指を引っかけて、革製の鞘から引っ張り出した。
そのとき、グールの一体がシルフィめがけて突進してくる。
彼女は迎え撃とうとするが、グルカナイフを持った腕が上がらなかった。
「シルフィさんは下がってください!」
マリアが反応して、シルフィを襲おうとしたグールの背中を袈裟に斬る。
グールを斬り伏せることはできたが、今度は彼女の背中ががら空きになってしまった。
次なるグールがマリアに飛びかかる。
マリアが地面に組み伏せられたのを見て、シルフィは無我夢中でグルカナイフを握ったまま飛びついた。ほとんど上から覆い被さるようにして、全体重を掛けてグールの背中にグルカナイフを突き立てる。
まるで素人のような攻撃方法だが、どうにかグール一体を始末することができた。マリアが解放されて飛び起きる。シルフィの両手にはそれだけで血が滲んで、どっと吹き出てきた汗が傷口に染みて痛みを覚えた。
自分が足手まといになっているのはシルフィにも分かっている。マリア一人だけなら、ここから逃げ切ることも、応援が到着するまで戦い抜くことも可能だ。手持ちの武器がなくても、それくらいやってのける。
「マリア、私を置いて逃げろ!」
シルフィは精一杯に声を振り絞った。
「どのままでは二人とも死んでお終いだ! 森斗のところに行ってくれ!」
命令違反ばかりしている自分とは違って、マリアは内部監査班の所属――グリム機関のルールに忠実な人間だ。足手まといを助けようとして、自分までピンチに陥るのは機関の人間として間違っている。容赦なく切り捨てるのが一流のエージェントだ。
そのはずなのだが、
「置いて逃げる? 何を言ってるんですか、シルフィさん!」
マリアはたった一人でグールの群れと戦い続けた。
「森斗さんに助けてもらって、あんなに嬉しそうな顔をしていたじゃないですか! 死ぬことが怖くない人間なんていません。私だってここで死ぬのは怖いですよ。嫌ですよ。だけど、シルフィさんを見捨てて逃げるよりはマシです!」
小太刀でグールを切り捨てる。だが、死角から別の攻撃が次々と飛んできて、マリアの体には猛烈な勢いで傷が増えていった。奮闘しているだなんて前向きな捉え方はできない。なぶり殺しにされているのも同然だ。
マリアの血がパッと飛び散って、シルフィの頬にべったりと付着する。
彼女は両足がガクガクと震えるのを感じた。
そのとき、屋上の方から鋭く切り裂かれるような音が響いてくる。
続いて、ガシャンとフェンスに突き刺さった音がして、シルフィは何が起こったのかを理解した。彼女は自分の体で直接受けたので覚えている。先ほどの切り裂かれる音は、ジャックのナイフが放ったものだ。
第二校舎の屋上で森斗が戦っている。
フェンスに衝突したということは、追いつめられている可能性が高いだろう。
マリアも気づいてはいるようだが、グールの相手をするだけで精一杯だ。
「森斗、まさか死んだりは……」
最悪の事態が脳裏をよぎる。
シルフィの心臓が破裂しそうなほどに脈打った。
まさか、あいつに限ってそんなことはあり得ない。森斗は大神煌も、インペリアルも倒してみせた。そう簡単に負けたりするものか。落ち着け、自分。ここで取り乱したら、ますますマリアの足を引っ張るだけだ。
被害を顧みないで襲いかかってくるグールたち。
マリアがグールの群れに押し倒される。
「シルフィさん、逃げて――」
彼女の必死な叫び声。
必要なのは冷静になることではない。自分にとっては臆病と同じことだ。
仲間たちに危機が迫っているのに熱くならなくてどうする!
あいつは絶対に呼び戻すと言ってくれたじゃないか。
「――マリア!」
シルフィは人狼の姿を強く思い浮かべる。例えば大神煌であり、大神煌の変異形態をコピーしたインペリアルであり、今までの任務で戦ってきた異端者たちであり――両親を殺した宿敵である人狼だ。
自分は二度と人間に戻れないかもしれない。だが、それでもいい。マリアが言ってくれたように、仲間を見捨てたりするよりはずっといいはずだ。二度も救ってくれたあいつを信じて、自分はただ真っ直ぐに進めばいい。
刹那、シルフィの血液が沸騰したように熱くなった。
被っていたパーカーのフードと、制服のスカートが内側から押し上げられる。
彼女の体から生えてきたのは、オオカミによく似た耳と尻尾だった。
シルフィは体の内側から活力が湧いてくるのを感じる。両腕から上半身にかけての痛みも皆無だ。包帯がはらはらと地面に落ちると、傷痕一つないまっさらな肌が現れる。大怪我は一瞬のうちに完治していた。
あぁ、何でもかんでもぶっ殺してやりたい。
シルフィはグルカナイフを掴んで、グールの群れに飛びかかる。
目についた腕も、足も、胴体も、首も、片っ端から跳ね飛ばしてやった。解体の能力なんてものがなくても、人狼化した彼女に掛かれば何だってバラバラにできる。マリアを襲っているやつはあっという間に細切れだ。
バラバラにされたグールは黒い灰になって散る。
マリアは助かったこと以上に、シルフィの姿を見て驚いていた。
「……シルフィさん、あなた人狼化を!?」
彼女は信じられないように言った。
だが、すでに人狼化しているのは一目瞭然である。銀髪に覆われた頭からは獣の耳が、スカートの下からは獣の尻尾が生えていた。そして、エメラルド色だった瞳は血のような赤色に輝いている。
「すまなかった、マリア。一人で戦わせて……」
小さな体躯がグールたちの間を駆け抜けた。
グールの首が吹き飛んで、まるで噴水のように血しぶきが上がる。
人狼化を済ませてから十秒も経過していないのに、グールの数は半分以下に減っていた。
マリアが彼女の背中に声を掛ける。
「ここは私に任せて、シルフィさんは森斗さんのところに行ってください!」
彼女の体はすでに傷だらけだが、それでも闘志に溢れていた。
任せても大丈夫だと、シルフィは直感する。
「……分かった。行ってくる」
彼女はグールの群れから離れて、校舎の壁を勢いよく駆け上がった。
人狼化したシルフィの身体能力ならば、小さな足がかりだけでも四階建て校舎をのぼることができる。屋上にたどり着くまでわずか数秒。だが、今の彼女にとってはその数秒ですらもどかしくて仕方がなかった。
×
森斗がフェンスまで弾き飛ばされた直後。
意識を失い掛けている彼に向かって、ジャックがゆっくりと歩んできた。
渾身の正拳突きを受けたせいで、彼が身につけている革製ジャケットは八つ裂きになってしまっている。そのため、ジャケットの下に身につけていた何かが露わになっていた。形状はグリム機関でも使われているボディアーマーに似ているが、金属的な光沢を持っていて、太陽光をギラギラと反射されている。
「きみたちが防弾チョッキを着るように、俺だって対策の一つくらいしているんだ」
ジャックは金属ベストの肩ひもに指を引っかけた。
じゃらり、と音を立てる。
金属ベストを構成しているのは微細な金属片だ。それぞれが鋭いカミソリのようになっている。素手で触ろうものならばズタズタにされることだろう。森斗は微細な刃を全力で殴りつけて、ジャックの解体能力を誘発させてしまったのだ。
「……きみには気づいて欲しかった。インペリアルと戦ったとき、彼はこいつの存在を一発で見抜いてみせたんだ。ジャケットの膨らみ方で気づいたというから大したものじゃないか。けれども、きみにはその洞察力がなかった」
薄れている意識の中で、森斗は迂闊だったと今更思わされる。
暑苦しいジャケットなんて着ているのだから、何かあるはずだと気づくべきだった。
ジャックが目前まで迫ってきているのに反撃することができない。それどころか、視界が霞んでいて顔もよく見えなかった。血が目に入っていて、瞬きするのも辛い。このまま目を閉じたら、そのまま意識を引きずり込まれそうだ。
「きみたちがインペリアルを本当に倒したのかい? 俺は不思議でならないよ。赤頭巾は人狼化に迷いがあった。狩屋森斗、悪いけれど……きみはインペリアルより遥かに弱い。何があったら、インペリアルに勝てるのだろう? もう一人が強いのかな?」
首筋に冷たい感触を覚える。
ナイフを当てられていることは分かっているのに体が全く反応しなかった。
森斗の体からは止めどなく血が溢れている。落下防止用のフェンスを伝って、屋上の地面に血溜まりができつつあった。出血に伴って、抵抗する力も抜け落ちていく。自分は死の淵に立っていて、足を掴まれて引きずり込まれようとしているのだと感じる。
「……少しは楽しめたけど、これでは不満だな。でも、このあとにはお楽しみが残っているからいいや。この学校に集まった人間たちを片っ端からグール化させていく。俺が脱出するまでの時間を稼いでもらわないと」
「や、めろ……」
微かに声が出た。
この場所にいる人間を全てグール化していくだって?
森斗の脳裏には春臣や沙耶、毎日を共にするクラスメイトたち、諸岡や長山といった教師たち、そして街角で見かけるこの街の人々の姿が浮かんでいた。完全な巻き添えだ。ここに集まっている人間だけで千人近い。彼らが全てグール化したら、被害は校内だけには留まらない。この街ごとグールに占拠される。
ジャックがニヤニヤして問いかける。
「どうせ、最後は情報操作するんだろう? どれだけ死んでも同じだ」
「まだ、だ……」
森斗には手に取るように分かった。
こいつが切り裂きたいのは肉体だけではない。相手がむせび泣きながら、ママに助けを求めるまでいたぶりたいのだ。心を切り裂いてしまいたいのだ。女と男で随分と態度が変わるものである。ただ、どちらにせよ最悪なのは間違いない。
時間を掛けて解体されるか、絶望に打ちひしがれながら殺されるか……。
だが、それでも諦めることができない。
自分でも驚くほど、森斗は痛みの中で冷静さを保っていた。
この場所に来ているなら、きっと彼女はやってくる。
「……やってみろよ、切り裂きジャック」
森斗はハッキリと言ってやった。
「僕を解体してみろ。絶対に耐えてやる」
「男がそんなことを言うのは珍しいな。心が強いのは大抵女の子の方なのに……」
ジャックがナイフを逆手に構える。
自分から挑発してみたくせに、いざ解体されるとなると背筋が凍りそうだ。自分はどこまで耐えられるのだろうか、と森斗は考える。皮膚と筋肉の間に刃物を差し込まれて、ゆっくりと剥がされたりするわけだ。拷問の技術を持った人間はグリム機関にだって大勢いるが、実際に拷問されて耐え抜ける人間は数えるほどしかいない。
振りかざされたナイフがギラリと輝いている。
ジャックは哀れむような表情を浮かべた。
「きみなら解体してやってもいい。だけど、時間稼ぎはもう終わりにしようか。楽しむだけは楽しんだから、あとはグリム機関から逃げるだけさ。せっかくの勇気も無駄だったね。でも、せっかくだから……形が残らないくらいには切り裂いてやるよ!」
ナイフが振り下ろされる。
森斗の眼前に迫る刃の輝き。
これで自分も人間ミキサーだ。
そう思った瞬間――
「――助けに来たぞ、森斗!!」
校舎の壁を駆け上がって、小さな赤色の影がフェンスを跳び越えてきた。
トレードマークの赤いパーカー。
頭から生えている獣の耳と、スカートを押し上げている獣の尻尾。
シルフィが人狼化して、グルカナイフ一本を携えて駆けつけてくれたのだ。
彼女は森斗の頭上を飛び越えながら、ジャックに向かって猛然と襲いかかる。
「切り刻まれたお返しだッ!」
シルフィの放った一撃が、ジャックの右腕をナイフごと跳ね飛ばした。
右腕がネズミ花火のように回転して、スプリンクラーのように血をまき散らしている。
彼女はグルカナイフを切り返して、ジャックの胴体を横薙ぎにしようとした。
森斗は「胴体は狙うな!」と叫ぶが――忠告は間に合わない。
グルカナイフは金属ベストと衝突した瞬間、解体の能力を誘発させてバラバラに分解されてしまった。勢い余って、逆くの字の刃がブーメランのように飛んでいく。シルフィの体は素手の状態でジャックの前に放り出された。
「きみも甘かったな、赤頭巾!」
奇襲を凌いで、余裕を取り戻したジャック。
だが、シルフィからの猛攻は続いた。
彼女は素手で金属ベストに掴みかかったのである。
人狼化で強化されたパワーに任せて、全力で金属ベストを引きちぎる。微細な刃が食い込んで、治ったばかりの手のひらが切り刻まれた。解体の能力が誘発して、ナイフで切り刻むような痛みがシルフィの両腕に……それどころか全身に襲いかかってくる。
シルフィが力を込めるほど、彼女の体は切り裂かれていく。
金属ベストが引きちぎられると同時に、屋上に血の雨が降り注いだ。
痛みに耐えて、シルフィは胸から声を絞り出す。
「地獄の底で――」
それが背中を押した。
先ほどまでピクリともしなかった森斗の体が跳ね起きる。シルフィの作ってくれた最後のチャンスを無駄にしたくない。彼はそれだけを思って立ち上がった。無意識のうちに構えを取って、ジャックのがら空きになった胴体に狙いを定める。
だが、相手の方だって死ぬつもりはない。
予備のナイフ最後の一本を抜いて、ジャックはそれを屋上の地面に突き入れた。
瞬間、屋上そのものが解体される!
足下が無数の瓦礫と化して、重力に引っ張られて自由落下を始めた。
体が浮き上がるような感覚を覚える最中、森斗は基本に従って強く前に踏み込む。
足場が崩れていようとも、両足が地面を掴めるのなら技を繰り出せる。
森斗は瓦礫を強く踏みしめながら、
「――悶え続けろッ!!」
渾身の突きをジャックの胸部に叩き込んだ。
本来は自分が受けるはずの反動も、攻撃力と化して相手に伝わっていくのを感じる。空中に浮き上がったジャックには衝撃を受け流せる場所がない。森斗の放った突きの威力は完璧に伝わりきっていた。
ジャックの左胸に大きな風穴が出来上がる。
瓦礫が階下の教室に墜落すると同時に、彼の体は教室の壁まで吹き飛ばされた。
屋上の真下は音楽室になっていて、この時間は幸いながら一般人の姿はない。音楽室は瓦礫の山で、まるで爆撃でも受けたような有様だ。崩落した天井に押しつぶされて、立派なグランドピアノが潰れてしまっていた。
森斗はよろめきながら、壁まで吹き飛ばされたジャックの元に歩み寄る。
ジャックの肉体はすでに白い灰になって崩れ始めていた。
「……狩屋森斗。きみたち、強いじゃないか」
森斗は首を横に振る。
「三人集まってこれだと、狩人として一流にはほど遠いよ」
「そうか。それなら俺も異端者としてはまだまだってことか……」
ジャックは目の焦点が合っていない。
話している相手の姿も見えなくなっているようだ。
「あの世にも人間と異端者はたくさんいるんだろうな……。生物が動いているのを見ると、気持ち悪くて耐えられない。ナイフとか、金属のボウルとか、そんなのだけでいい……。また、たくさん殺さないと……」
「あんたが誰も殺さなくて良くなることを僕は願ってるよ」
さよなら、と最後に声を掛ける。
ジャックは返事をすることなく、静かに永遠の眠りについた。
間もなく全身が灰になって、彼の肉体は完全に消滅するだろう。
森斗はきびすを返して、すぐさまシルフィの元に戻る。彼女は屋上の崩壊に巻き込まれながらも、どうにか下敷きを逃れていた。だが、ジャックの攻撃を受けて全身傷だらけで、大量の血液を失っている。
大きな瓦礫に横たわっているシルフィ。
森斗は彼女をそっと抱き寄せた。
「……シルフィ、大丈夫!? 僕の声が分かるよね!?」
「あぁ、よく聞こえるよ……」
シルフィはまぶたを開き、エメラルド色の瞳をこちらに向ける。
そのときになって、森斗はようやく気づかされた。
彼女はすでに人狼化を解除して、普通の人間に戻っていたのである。
オオカミの耳と尻尾もすっかりなりをひそめていた。ただ、全身を切り刻まれた傷は残ったままである。出血は止まっているようだが、どうやら傷を回復している途中で人狼化を解除してしまったらしい。
「……ちゃんと治ってから戻れば良かったよ」
シルフィが恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「でも、森斗が振り返ったときに人狼化が解けていなかったら、お前はきっと私のことを心配すると思った。だから、早く戻らないといけない……その一心で願い続けていた。そのおかげで、私は元に戻ることができた」
彼女は問いかける。
「……森斗、私はお前を守れたかな?」
「もちろんだよ、シルフィ」
森斗はひたすらに彼女の体を抱きしめた。
そうでもしなければ、嬉しさが全身から溢れ出てしまいそうだからだ。大声で騒いだり、どこかに向かって走り出したり、わけの分からないことをするかもしれない。それくらいにシルフィが助けてくれたのが嬉しかった。
柔らかい感触も心地いい。
「あっ――」
気づいてしまったようで、シルフィが声を上げた。
「も、もしかして、私、切り裂きジャックに切り裂かれて……」
「きみが思っている通りに、ほとんど裸になっている」
金属ベストを引きちぎったせいで、シルフィは全身を解体の能力に襲われた。
体を切り刻まれているのだから、着ている服もボロボロになって当然である。
「ごめん、シルフィ。離れるね」
「は、離れたら私の裸がお前に見られちゃうだろうが!」
「それなら、もう少しだけこうしてるよ。血が抜けて寒いんだ……」
お言葉に甘えて、森斗はシルフィの細い体をぎゅーっと抱きしめる。
柔らかい感触、伝わってくる体温。
ジャックを倒すことができて、本当に良かったと森斗は思った。
「……なぁ、森斗」
胸元に顔を埋めていたシルフィが不意に問いかけてくる。
「私はさっきまで人狼化していたわけだが、その、あの……獣臭いか?」
「えっ、うーん、何しろ血塗れだからなぁ……」
「頭の辺りは血を被ってないはずだ」
彼女が言った通りに、銀色の髪にはあまり血が跳ねていなかった。
森斗はシルフィの髪に顔を埋めて、おもむろに匂いを嗅いでみる。少しだけ汗と血の匂いが混ざっているけど、驚いてしまうくらいに心地いい。自分の中を彼女の匂いで一杯にしてみたいとすら思える。
シルフィが恐る恐る尋ねた。
「……なぁ、やっぱり獣臭いのか?」
「そんなことはない。とても好きな匂いがするよ」
「そ、そうか。それならよかった……」
彼女の体重が掛かるのを森斗は感じる。
どうやら、少しくらいは信頼してくれたようだ。
森斗とシルフィがそうやって身を寄せていると、
「――やっと登り切りましたよ、もう!」
校舎の壁面にかぎ爪ロープを引っかけて、マリアが四階の音楽室までのぼってきた。
彼女はそこで、抱き合っている森斗とシルフィを発見する。
「仲睦まじくていいですね、まったく……」
マリアがすっかり呆れていると、上空からヘリコプターのローター音が聞こえてきた。
ようやく救援部隊のお出ましだ。




