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この世のものとは思えない物体を完食して、森斗は無事に自室まで帰ってきた。
普通サイズよりも大きめな椀に、まるでゴムのような感触の麺がどっさりと入っている。乗せられている大量のキャベツともやしが山を作って、そこに追加の油とニンニクが掛けられていた。すり下ろされたニンニクのせいで、美味いかどうか以前に辛い。辛いものが苦手なシルフィには食べられないだろうな、と森斗は思った。
一方、春臣は想像を超えた油っぽさに苦戦していたようである。普通盛りをどうにか食べ終えた頃には、戦意を失って真っ白に燃え尽きていた。森斗が「あとでまた並ぼうか!」と言ったら、青い顔をして逃げていった。
森斗はこういった感じで、少しずつ『自分の街』を攻略し続けている。
四月まではただ単に住み着いているだけで、ここが自分の街だという気はしなかった。けれども、最近は毎日を過ごすごとに愛着が湧いてきている。稀野学園のことも含めて、なるべくならこの場所を離れたくなかった。
「海外に異動にならなくて本当によかった……」
森斗はベッドの上で独り言を言った。
切り裂きジャックが日本にやってきた時点で、その可能性は十分にあったのである。自分の街から離れるだけではなく、シルフィやマリアとも離ればなれになる。一流の狩人なら受け入れるべきだが、森斗にその心構えはまだない。
腹が落ち着くのを待って、森斗は汗を流すために風呂に入った。
新しいマンションであるため、ボタン一つで風呂を沸かすことができる。一介の学生にはもったいない設備だが、優良物件を確保できたのもグリム機関のおかげである。家賃から電気水道ガスまで、それらもグリム機関が支払ってくれる。
森斗は風呂場の鏡を使って、全身の傷痕をチェックした。
大神煌やインペリアルとの戦いで負った傷はすでに完治している。グリム機関の発達した医療技術のおかげで、手術跡すらなくなりかけていた。五月も半ばになって、これから気温は上がっていく一方だから、傷痕がなくなるのは本当にありがたい。
風呂から出ると、森斗は最初にパソコンを立ち上げた。
蒸し暑い夜が続いているので、ボクサーパンツだけを身につけている。
森斗はパソコンをインターネットに接続させて『ジョニー・ジョーズ事件』について調べることにした。
ジョニー・ジョーズは殺人鬼ジャック・ジョーズの父親だ。ジョニーには彼と同じく、アメリカ人の有名女優である妻がいた。ジョニーと妻の二人が起こした事件こそ、十数年後も取り上げられる『ジョニー・ジョーズ事件』だった。
それは全米どころか全世界を揺るがせた事件で、グリム機関の特別な情報網を使わなくても簡単に調べることができた。事件のあらましにはジャックの名前も多く出てくる。事件当時、彼は五歳くらいだったはずだ。
森斗は事件についてまとめたサイトを読み進める。
事件後、ジョニー・ジョーズは自らの犯行について暴露本を出版していた。サイトには暴露本から引用された文章が数多く掲載されている。抜き出された文章を読むだけでも、事件の残酷さや醜悪さは嫌と言うほど理解できた。
蒸し暑さとは別に、森斗の背中に嫌な汗が滲み出てくる。
出動禁止にされているとはいえ、敵について何も知らないのは嫌だった。だけど、森斗は正直に言って……事件について調べたことを後悔している。ジャックの生い立ちについて知ることができたが、それ以外の不要なことまで知りすぎてしまった。
異端者にならなくても、人間にはどうしようもなく邪悪な部分がある。犯行に及んだジョーズ夫妻も、十数年経過しても事件を面白おかしく取り上げているワイドショーの制作者も、極めて普通の人間のはずなのだ。
森斗は嫌気が差してブラウザを閉じる。
そのとき、パソコンのディスプレイに小さなアイコンが表示された。
グリム機関が開発した専用通信ツール――簡単に言えばスカイプっぽいソフトの呼び出しである。パソコンについているカメラを使って、相手の顔を見ながら通話できるのだ。だが、普段は携帯電話で事足りるので、あまり使われていない。
アイコンに表示されている名前は――シルフィ・ローゼン。
森斗はすぐさまアイコンをクリックして、彼女からの映像通信に応答した。
ディスプレイ一杯にシルフィのバストアップが映される。
彼女が首の辺りにまで包帯を巻いているので、森斗は思わず声を荒げてしまった。
「どうしたんだ、シルフィ!?」
『――ふっ、服を着ろ、バカ森斗!!』
シルフィに言われて、森斗はようやく自分の格好に気づいた。
タオルで汗を拭いてから、手近にあったジャージに着替える。
森斗がパソコンの前に座り直すと、シルフィはまだ顔を赤くしていた。
彼女は真っ白で清潔感のある患者服を着せられている。首筋から胸元にかけて包帯が巻かれているだけでなく、画面の端に映っている両手も包帯ぐるぐる巻きになっていた。よくよく観察すると、腕からは点滴の管が伸びている。どうやら、ベッドの上で上半身を起こして、ノート型パソコンで通信しているようだ。
赤面していたのが、ようやく元の顔色に戻ってくる。
顔色は悪くないようだが、決して良いわけではないらしい。いつものような視線の鋭さがなくて、全身から気迫が感じられない。まるで牙を抜かれてしまった猛獣のようだ。戦うために生きているシルフィのことだからなおさら心配である。
森斗は改めて問いかけた。
「シルフィ、体は大丈夫?」
『命に別状はない。こうして東京支部の病室で療養させられている。輝夜が全力を尽くしてくれたから、怪我の回復も速いそうだ。そんな顔をして心配することじゃないぞ、森斗。こうしてちゃんと話しているじゃないか』
自分は果たしてどんな顔をしていたのか?
森斗には確かめる勇気がなかった。
ともかく話を進める。
「その傷はジャック・ジョーズにやられたの?」
『あぁ、完全にしてやられた……』
シルフィが本当に悔しそうに言った。
『切り裂きジャックの属性は『解体』だ。どれだけ貧弱な刃物を使っていても、まるで溶け始めたバターのよう全てを切ってしまう。さらにはたった一つの切り傷から、無数の亀裂が発生する。私だってジャックに切られたのは二回だけだ』
彼女は両手を持ち上げてみせる。
シルフィの両手は包帯が巻かれて、まるで埋葬されているミイラみたいになっていた。これではものを持つどころか、指を動かすこともできない。グリム機関の医療技術でも、動かせるようになるまで一週間以上掛かるだろう。
『恐ろしいのはそれだけではない。ジャックの『解体』は無生物にも通用する』
シルフィの両手が小刻みに震えていた。
『あいつは折りたたみナイフで電信柱を切り倒して見せた。一突きで乗用車をバラバラにすることもできた。私自身も攻撃を受け止めた際、グルカナイフを一本失っている。本当に小さな傷が命取りだ』
「それは確かに恐ろしい話だ……」
森斗は思案する。
ジャックの前にはボディアーマーを着込んだりしても意味を成さない。電信柱を切り倒すような切れ味を前にしたら、防刃チョッキだろうと何だろうと紙切れ同然だ。それどころか、重くて動きにくいだけである。
それに加えて、障害物を盾にすることもほとんど意味がない。壁を背にして隠れても、その壁ごと解体される可能性があるからだ。相手にペースを掴まれたら、こちらはひたすら反射神経で回避する必要がある。
「……近接戦闘は避けるしかないな」
森斗の判断にシルフィがうなずいた。
『狙撃が有効なのは間違いない。実際、グリム機関の狙撃チームが出動している。狩人たちも心得があるものは射撃系の装備で固めているようだ。私の場合は、その、調子に乗っていたからグルカナイフしか持っていなかった……』
シルフィとて射撃ができないわけではない。
グリム機関の狩人であれば一通りの銃器を扱えて当然だ。
ただ、これは内緒の話なのだが――シルフィは銃器全般の扱いがとても苦手である。その中でもスナイパーライフルによる狙撃は群を抜いて下手だ。ナイフの扱いがこれほど上手くなければ、間違いなく落第扱いされていたことである。
当然、森斗にも言えるわけがない。
「シルフィ、本当にひどい目にあったね……」
森斗は画面越しに彼女の姿を見つめる。
包帯の下には無数の傷が走っているはずだ。輝夜ならば傷痕一つ残らないようにしてくれるだろうけど、それでも森斗は胸の張り裂けそうな思いだ。シルフィの白い肌に傷が付けられたと考えるだけで、いてもたってもいられなくなる。
シルフィが動きにくそうに腕を組んだ。
『だが、致命的な被害はない。私が怪我した以外だと、携帯電話を取られたくらいだ。データは完全消去されて修復もできないから、森斗の情報も相手には流れていない。この先、半月は戦えなくなったのが痛いが……』
「僕はシルフィが傷ついただけでも心苦しいよ」
悔やまずにはいられない森斗。
シルフィはうつむいて首を横に振った。
『私は傷ついて当然だった。全部、自業自得なんだ……』
彼女の体が小刻みに震え始める。
少しはマシだった顔色もあっという間に青ざめてしまった。
『この前、私はお前のことを守ると言った。それなのにこのザマだ。ジャックはわざと、私に人狼化するための時間を与えてきた。だが、私は人狼化することができなかった。森斗の前で誓ったはずなのにできなかった……』
シルフィの両腕に力がこもる。震える体を押さえつけようとしているのだが、ほとんど力が入っていないのが森斗にも見て取れた。手術を受けた昨日の今日では、肘を曲げることだって難しいはずなのだ。
『人狼化さえできていれば、両腕の怪我も瞬時に治っていた。切り裂きジャックをあの場で倒すこともできていた。パソコンの画面越しにお前と話すこともなかった。私が臆病だったせいで……私は傷ついて当然だ。臆病者で薄情者だ!』
「傷ついていい人間なんていないよ……」
『やめてくれ、森斗!』
森斗の言葉にシルフィは激しく反発する。
『お前は優しすぎる。私のバカみたいな失敗で、お前が心を痛める必要なんてない。森斗に優しくされると、私の胸まで苦しくなってくる。私は森斗に助けられてばかりで、迷惑を掛けてばかりで、それなのに守ってやることもできなくて……』
腕に巻かれた包帯に涙の滴が落ちた。
シルフィは声を出さないようにして泣いているのだ。
うつむいているから、彼女がどんな顔をしているのかは分からない。
だが、森斗は彼女の弱い部分を知っている。復讐を成し遂げるために生きていること。戦えなくなれば、心の支えが失われてしまうこと。そして、何よりも弱いままの自分でいること。シルフィは誰かに弱さを知られるのが怖い。
「僕の方を見て、シルフィ!」
森斗は大きな声で呼びかける。
シルフィはビクッと体を震わせて、恐る恐る顔を上げてくれた。
「この前、きみは僕に電話をしてくれた。僕はシルフィの言葉にとても励まされたよ。八方塞がりの状態で、きみの声を聞くことができてどれだけ嬉しかったか……。だから、シルフィは悔やんだりしなくていい。離ればなれの間も、僕はきみに守られていたんだ」
学校にいれば顔を合わせることはあった。
お互いの心も触れ合うことはなかった。
だけど、あのときの電話で森斗は知ることができた。自分とシルフィは会話すら許されなくても、いつも心で通じ合っている。お互いのことを心配して、励まし合って、守ってあげたいと思っている。
「シルフィの判断は間違っていなかった。不安を残して人狼化して、二度と帰ってこられなくなるよりも……こうして、また話せることが僕はとても嬉しいよ。きみも同じことを思っていてくれるなら、それ以上のことはないと思っている」
『わ、私もっ――』
シルフィの血色が良くなってくる。
彼女はとても小さな声で言った。
『森斗と話せることが嬉しい。その、生きてて、良かったなって……』
それを聞いて、森斗も思わず頬が緩んでしまう。
シルフィは画面を直視できないのか、ずっと顔を背けたままだった。
森斗は彼女に向かって語りかける。
「……シルフィは戦うために生きている。それは僕も分かっている。だから、シルフィがどうしても人狼化を必要としているなら、そのときは僕がきみを絶対に呼び戻すよ。いつでも、どこでも、絶対にきみのところに行くから」
シルフィがハッとした表情で振り向いた。
森斗と彼女はじぃっと見つめ合う形になる。
シルフィの頬は桜色に染まって、唇にはわずかながらツヤがあった。何かを言いたそうに口が小さく開いている。そこからしっとりと濡れた舌が見えた。瞳は未だに潤んでいて、頬をつついたら涙がこぼれてきそうだ。
『あ、ありがとう……』
彼女はすぐにまた顔を背けてしまう。
声は小さかったけれど、森斗の耳にはちゃんと届いていた。
シルフィは熱くなった頬を両手で冷まそうとするが、包帯でぐるぐる巻きになっているせいで腕が上がらない。その間にも彼女の頬は赤みを増していき、対比されるように透き通るような肌の白さが目立っていた。
『明日の文化部発表会、楽しみにしているぞ』
「傷は大丈夫なの? 安静にしていた方が……」
森斗は心配そうに彼女のことを見る。
シルフィが声を大にして言った。
『必ず行く! あまり話せないかもしれないが、絶対に見に行く!』
精一杯な彼女が可愛く思えて、森斗もこれ以上は強く言えない。
あとは当日の体調次第だ。
本当にやばくなったら、そのときは担当医の輝夜が止めてくれる。
「……そうか、ありがとう。きみの作品もちゃんと飾ってあるよ」
森斗の言葉を聞いて、シルフィは表情を緩めた。
『あぁ、分かった。少し疲れたから、私はもう寝ることにする……』
通信が終わる。
パソコンの画面には『シルフィ・ローゼンとの会話を終了しました』と素っ気なく表示されていた。会話した時間は十分にも満たなかったが、大怪我をしたシルフィの体力を削るには十分だったのだろう。
森斗がソフトを終了させようとしたとき、画面に新しいメッセージが表示される。
それは先ほどの会話を録音していたことを知らせる旨だった。
重要な連絡を聞き間違えたりしないように、ソフトを導入した時点から会話が録音されるように設定されているだ。
メッセージをクリックすると、先ほどの会話が録画映像となって再生された。
――ふっ、服を着ろ、バカ森斗!!
聞こえてくるシルフィの声。
彼女の怒った声ですら、今の森斗にとっては聞き心地が良かった。




