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とは言ったものの、死ぬほど疲れていることには変わりない。
森斗はマンションに帰ったところで力尽きて、そのままベッドに倒れ込んだ。だが、死ぬほど疲れていると同時に腹も減っている。ベッドに寝転がったまま、駅前の『腹筋バーガー』でテイクアウトしてきたハンバーガーを食べた。
疲れ切ってファーストフードに頼ることなんて、去年までは一度もなかったことだ。シルフィとマリアに出会ってから、自分は良くも悪くも俗世に馴染んだのだろうと森斗は感じる。このまま堕落しすぎないかが心配だ。
森斗は枕元の写真立てに手を伸ばした。
そこに飾られているのはシルフィとマリアのコスプレ写真だ。二人の眩しいバニーガール姿が収められている。シルフィは真っ赤な顔でこちらを睨み付け、マリアは一方で満面の笑顔を振りまいていた。
二人のこんな顔もしばらく見ていない。
命令違反になるかもしれないが、三人だけで話せる場所を探してみようか?
だが、それでは二人の任務を邪魔してしまうかもしれない。
森斗が携帯電話を握りしめていると、ピピピピピ――と着信音が鳴った。
あまりにも突然だったので驚いた。
携帯電話の画面にはシルフィからの着信だと表示されている。
生唾を飲む。
会話はするなと命令されていた。だが、それでもシルフィは連絡してきたのだ。とてつもないピンチに陥って、SOSを求めてきたのかもしれない。けれど、それよりも、何よりも、森斗は彼女の声が聞きたくて仕方なかった。
着信音はかなり長く続いている。
森斗は意を決して通話ボタンを押した。
『――もしもし、森斗か?』
聞こえてきたのはシルフィの声である。
彼女の声は少し怯えているようにも感じられた。
「シルフィ、今はどこに!?」
『どこって、マンションの自室だが……』
森斗は安堵のため息をつく。
どうやら、危機的な状況というわけではないようである。
「きみの声を聞くことができて嬉しいよ、シルフィ。だけど、会話はしないようにって命令されているはずじゃないか? 電話だって……」
『電話はなるべくするなとしか言われていない』
拗ねたように言ったシルフィ。
『グリム機関の特殊回線を使っているから盗聴もしにくい。上が言っているんだから間違いないだろう。それに……マリアは律儀に命令を守っているようだが、私は自分が納得できない命令だなんてくそ食らえだ』
「きみはまた、そんな悪い言葉遣いを……」
森斗がそう言うと、彼女はくすぐったそうに笑った。
声だけを聞いていると、シルフィの状態はそれほど悪くないように思える。だけど、彼女は極度の恥ずかしがり屋で、強気な振りをしているけど恐がりで、一人で思い詰めてしまうところがある。声を聞いたくらいでは安心できない。
シルフィが言った。
『……美術部に顔を出せなくてすまなかった』
「春臣が二人のことを心配していたよ。あまり事情は追求してこなかった。彼は実にいいやつだ。ただ、僕がシルフィたちと喧嘩してしまったせいで、二人が美術室に来なくなったのではないかと考えているらしい」
『お互いのことを避けているわけだから、喧嘩をしているということにすれば辻褄が合うな。今回の言い訳はその路線で行ってみよう。さしあたって、お前が私たちのスカートをめくったということにでもしておいてくれ』
風評被害、という言葉が脳裏をよぎる。
「それはあまりにもひどい。きみたちのスカートの中身を見たいのか、見たくないのかで言ったら、一人の男子として確かに見てみたいと思っている。だけど、ただそれだけの理由でスカートをめくったりするほど、僕は精神が弱くない」
『み、見てみたいとか言うな!』
携帯電話から大声が飛んできた。
森斗は思わず一瞬だけ耳を離してしまう。
「……内容はともかくとして、喧嘩をしているという方向性で話は進めておく」
『それは助かる。今回の事件が片づいたら、私とマリアからも説明する』
シルフィは静かなトーンで言った。
『日常生活の方はどうにか上手くやっているよ。森斗にお弁当を作ってもらえなくても、それなりに健康を気遣ったものを食べている。定期検診とカウンセリングもサボってない。仕事にも集中できているから、森斗は心配しないで待ってくれたらいい』
「心配しないでって……」
森斗の気持ちが高ぶる。
東京支部で輝夜から教えられたことを彼は無視できなかった。
「……シルフィ、ごめん。人狼化の訓練に付き合えなくて」
『なっ、お前がどうしてそのことを!?』
「輝夜さんが教えてくれた。僕が出動禁止になっていなければ、人狼化の訓練を始めることができたって。彼女から聞かされるまで、僕はきみが苦しんでいることすら知らなかった。僕がもっと頼れる人間であれば……」
『森斗が気に病むことじゃない』
優しい声のシルフィ。
彼女は幼い子供を諭すように言った。
『お前が私のことを守ると言ってくれたとき、私は……その、とても嬉しかったわけだ。あのときは確かに守られてばかりだった。だが、すでに私は狩人として復活した。もう守られているばかりではいられない』
シルフィは決意を言葉にする。
森斗は静かに彼女の声を聞いた。
『確かに人狼化は恐ろしい。だけど、私は自力で人狼化の恐怖を打ち破ると心に決めた。以前よりも強い自分になって、森斗……今度は私がお前を守る! だから、私のことは心配しなくていい。今日はそのことを伝えたかったんだ』
シルフィの言葉を噛みしめる森斗。
彼女は自分が不安になったからではなくて、森斗を励ますために電話をしてくれた。命令違反になるかもしれないのに、それでもなお声を聞かせてくれた。森斗はそれだけで十分に嬉しくて、胸が熱くなっていた。
『……何とか言ったらどうだ。黙られると恥ずかしいだろ』
赤面するシルフィが容易に想像できる。
森斗は素直にお礼を言った。
「ありがとう、とても励まされたよ」
『まぁ、お前を励ますために電話したわけだから、元気になってもらえないと困る。それにお礼を言いたいのは私の方だって同じだ。結局のところ、そもそも、私も森斗の声が聞きたくて仕方なかったのだからな……』
シルフィの声が小さくなっていく。
森斗は信じられなくて思わず聞いてしまった。
「きみが僕の声を聞きたかったっていうの?」
『う、うるさいっ! ――あっ、いや、うるさいといっても黙って欲しいと思っているわけじゃなくて、通話を切って欲しいとも思っていなくて、ただ、その、私を惑わせるようなことは言うなということだ。それで……』
彼女が唐突に言ってきた。
『森斗、あとで写真を撮らせろ』
「写真って……きみのやつみたいな?」
森斗は写真立てを手に取る。
コスプレ写真の中から、バニーガール姿のシルフィがこちらを睨んでいた。幼い容姿、小学生のように低い背丈、未発達の肢体。だけど、指先に塗られている赤いマニキュアや、唇に薄く塗られたリップや、真っ赤なレオタードの光沢が淡い色気を放っている。
『私みたいなやつじゃなくていい。もっと普通のやつだ』
携帯電話の向こうにいるシルフィも怒り気味だ。
『……お前だけに写真を握られるのは不公平だ。だから、私の手元にもお前の写真を置いておきたい。私は絵描きだけではなく写真も趣味だから、ドイツ製の素晴らしいカメラも持っている。それで森斗を撮影してやるから覚悟しておけ』
写真に撮られる覚悟って、一体どんな覚悟なのだろう?
森斗には想像もつかないが、写真くらいならいくらでも結構だ。
「分かったよ。きみの頼みならいつでも受け付ける」
『そうか……それなら、さっさと切り裂きジャックのやつを倒さないとな』
安心した様子のシルフィ。
『長話をしすぎたようだ。また明日、挨拶はできないが学校で会おう』
「また明日、シルフィ」
通話を終える。
シルフィの声はなおも森斗の胸に響いている。これは大げさな表現かもしれないが、生きている実感というやつを久々に感じたかもしれない。それだけ、森斗の体は奥底の方から熱くなっていた。
女の子と話すことって、どうしてこんなに力が湧いてくるのだろう?
でも、他の子だとこうならない気はする。
シルフィはやっぱり特別なのかもしれない、と森斗は思った。
携帯電話が再び鳴り出したのはそのときだった。
森斗は慌てて、相手も確認せずに通話に応じる。
『――もしもし、森斗さんですか?』
聞こえてきたのはマリアの声だった。
「マリア? いきなりどうしたの?」
『どうしたも、こうしたもないですよ。森斗さんが西園寺さんの声を聞きたがっているんじゃないかと思って、電話してあげたに決まっているじゃないですか。まぁ、私も森斗さんの声を聞きたかったのでおあいこですね』
「うーむ、その気遣いは流石だ……」
それにしてもシルフィと同じタイミングなのが興味深い。
シルフィとマリアの二人は案外似たもの同士なのかもしれない。
『ずっと電話中だったようですけれど、もしかしてシルフィさんと話してました?』
「よく分かったね」
森斗がそう答えると、
『まったく……本当に一途なんですから!』
マリアは彼女にしか分からないことで驚いていた。
×
翌日の放課後。
シルフィは電車を乗り継いで秋葉原のゲームセンターを訪れていた。
といっても遊びに来たわけではない。切り裂きジャックの出没情報を元にして、シルフィが秋葉原周辺の警戒を任されたからだ。付近には運送屋を装ったグリム機関の車両が駐車していて、車内には戦闘班の面々が待機中である。
最初は大通りを中心に歩いていたのだが、シルフィは何度も声を掛けられるのでうんざりとしていた。
携帯電話を片手に「何のコスプレですか?」だとか「写真、撮らせてください」だとか言い寄ってくる男たち。安物の衣装を身につけて「ここで客引きしていいのは、うちの店だけなんだけど?」と凄んでくる女たち。
本当にうんざりだ。
都内にはグリム機関の私服エージェントたちが多数配置されている。監視カメラもリアルタイムでチェックしている。警察官だって大量に導入されているのだ。ジャックが発見されたら必ず連絡が入る。
シルフィはアサルトライフル型のコントローラーを構えて、巨大スクリーンに映っているゾンビを次々と撃ち殺していった。今回もハイスコアルートである。人目を避けてゲームセンターに入ってきたはずなのに、気がつくとまた人だかりができていた。
「……気分が乗らない」
コントローラーを投げ捨てる。
最終面がクリア寸前だったけど、そんなこともどうだっていい。
シルフィがゲームセンターから通りに出ると、いつの間にか日が落ちていた。だが、それでも秋葉原の人通りは減っていない。彼女は少しでも人目を避けようと、お気に入りのパーカーのフードを被った。
小腹が空いたので、屋台でケバブサンドを購入する。
アニメ系グッズショップの軒下で一口ほおばると、ジューシーな肉のうまみと同時にソースの酸味と辛みが広がった。
「……これかりゃいな」
美味しいことには美味しいけれど、やっぱり甘口にしてもらえば良かった。
辛さとは痛みだ。だから、辛いものが好きなのは、痛いものが好きな変態と同じだ。
――という話を知人から聞かされて驚いた。
困るのは最近になって、辛いものが段々好きになってきている事実である。
コスプレ姿を見られるのが嬉しいと思ってしまったように、森斗と出会ってから自分が変態になってきているような気がして、シルフィは戦々恐々としている。変態には変態がお似合いだと神様が言っているのだろうか?
「お、お似合いって……」
独り言を漏らすシルフィ。
店から出てきた女子高生がちょっとびっくりしていた。
シルフィは森斗との電話を思い返す。
実は昨日の会話を密かに録音していて、あとで聞き返そうとしていると森斗が知ったら――彼は一体どんな反応をするだろうか?
「…………」
自分はやっぱりおかしくなっているのかもしれない。
このまま、胸の中が森斗のことで一杯になってしまったらどうなるのだろう?
シルフィは首を横に振る。
ケバブサンドの包み紙をゴミ箱に捨て、それからパーカーのポケットから携帯電話を引っ張り出した。空腹を満たしたら仕事だ、仕事! 携帯電話で美希から送られてきたジャック・ジョーズの画像ファイルを確認する。
有名俳優の息子だけあって顔立ちはかなりいい。これだけ容姿に恵まれているなら目立って当然だが、それでも生き残っているのだから不思議だ。オンとオフの切り替えが相当上手いに違いない。犯罪都市を中心に活動しているのも頭がいい。
だが、残虐非道な行いもここまでだ。日本に来た以上、絶対に逃がさない。ここはジャックが活動拠点にしてきた犯罪都市とは違うのだ。調子に乗ってインペリアルを追ってきたのが運の尽きであると教えてやる。
そのとき、シルフィの携帯電話に着信音が入った。
ディスプレイに『葛原美希』と表示されて、彼女はすぐに応答する。
「美希か? 何があった?」
開口一番に美希が言った。
『切り裂きジャックが発見されたわ』
ぞくっとする言いようのない刺激が背中を走る。
ついに来たか、とシルフィは生唾を飲んだ。
『場所は上野のホテル街よ。携帯電話に座標を送っておいたわ。近くに待機している戦闘班と合流して、目撃場所に急行してちょうだい。相手は移動しているけど、追跡しているから座標はリアルタイムで更新されるわ』
「上野か……それなら走った方が早いな」
彼女は携帯電話を肩と頬で挟んで、しゃがみ込んでブーツの紐を結び直した。
このブーツもグリム機関が開発したものである。一見すると普通だが、鋼鉄が仕込まれているので象が踏んでも壊れない。このブーツで思い切り蹴り飛ばせば、グールの頭蓋骨くらいなら砕くことができる。
『走った方が――って、あなた何を考えているの!?』
美希の素っ頓狂な声。
「殺人鬼が死体を増やす前に倒すんだ」
シルフィはスクールバッグを肩に提げて走り出した。
車道は帰宅ラッシュで大変な混雑だ。戦闘班が裏通りから車を回しても、到着は予定より遅れてしまうだろう。だが、シルフィだったら人混みの中を全速力で駆け抜けられる。鈍い人なら、風が駆け抜けたようにしか思わない。
美希が携帯電話の向こうから訴え続ける。
『一人で戦っては駄目よ、シルフィさん! せめてマリアさんの到着を待って――』
「そんなの一秒だって待てるものか!」
シルフィは高架下を駆けた。
このくらいの全力疾走なら準備運動にちょうどいい。
声のボリュームが思わず大きくなる。
「森斗が苦しんでいる!」
『……森斗くん?』
美希が意外そうに聞き返した。
「あいつはバカみたいに真っ直ぐなやつだ。出動禁止になったのだって、切り裂きジャックがインペリアルを追ってきたからじゃないか。だけど、あいつは真っ直ぐだから自分に責任を感じている。私の訓練に付き合えないことだって……」
森斗は優しすぎる。
仲間を犠牲にしない。無駄に敵を殺さない。彼はそんな当たり前のことを守ろうと努力している。だが、それはグリム機関の方針と相反する思想だ。組織との軋轢を生み、自分自身に不要な枷を填めることになる。トップクラスの狩人ですら、そんなことは考えようとしないのに……ルーキーの森斗には荷が重すぎる目標だ。
優しすぎるから余計に苦し。
だから、今は誰かが彼のために戦わなくてはいけない。
『シルフィさん、あなたこそ気負う必要はないはずよ。森斗さんの穴を埋めるのは、あなただけではなく戦闘班の……いいえ、グリム機関の仕事だわ。一人で背負い込むことはない。だから、先走ることだけは――』
シルフィは携帯電話の通話を切る。
自分は間違っているかもしれないと思っても、それでも体が止まらなかった。自分を助けてくれた森斗だって、グリム機関の命令を振り切って駆けつけてくれたのだ。だから、それと同じだけの覚悟を見せなくてはいけない。
美希やマリアから立て続けに着信が入ったが、シルフィは取り合う気になれなかった。着信音を無視して、秋葉原から上野までの道のりを走り続ける。通りかかった人たちには、その音が救急車のサイレンのように遠のいて聞こえたかもしれない。
数分で上野の駅前までやってくる。
駅前の騒がしさは秋葉原以上だ。帰宅ラッシュで通行人が四方八方からひっきりなしに集まっている。疲れ切った顔をしている社会人、飲み屋を探している暢気な大学生、何かを待っている女子高生。場所が変わると人混みの雰囲気も大違いだ。
シルフィは立ち止まって周囲を見渡した。
グリム機関の車両、エージェントの姿は見当たらない。
どうやら、走った方が早いというシルフィの読みは当たっているようだ。
駅前の人混みを抜けて、信号が変わる寸前で横断歩道を渡りきる。
五月のくせに蒸し暑い。日没から時間が経過したのに気温の下がる気配がなかった。着ているものを脱ぎ捨てて、下着になってしまいたい気分である。そして、まるで獣のように異端者に襲いかかるのだ。
上野のホテル街に入ると、連れ立って歩く男女を何人も見かけた。恋人同士だとか、お客とプロだとか。シルフィはこういう場所が大嫌いだ。自分たちのすぐそばで殺人鬼が犯行に及んでいると知ったら、こいつらはどんな顔をするのだろう?
微かな血の匂いが漂ってくる。周囲の人間は気づいていないが、狩人としての訓練を受けたシルフィなら察知することができた。血の匂いをかぎつけた人食い鮫のように、彼女は殺戮の現場に引き寄せられていく。
携帯電話に表示された座標も間近だ。
シルフィは細い路地に向かって角を曲がる。
瞬間、路地の中央に立ち尽くしている人影を発見した。すらりとした長身で、透けるような金髪で、右手には折りたたみナイフを握っている。そして、何よりも濃密な血の匂いと、視界が歪みそうなほどの殺気を纏っていた。
「見つけたぞ、切り裂きジャック!」
シルフィは大声で呼びつける。
ジャックはナイフを握ったまま、その場から動かない。
「……周囲から気配は感じられない」
それから、首だけを動かしてこちらを見た。
「一人だけで飛び出してくるやつを待っていたんだ」
ジャックの瞳は暗がりの中で赤く輝いている。それは紛れもない異端者の証で……彼が人間の姿を保ったまま、変異を終えていることを示している。ジャックは文字通りに人間の皮を被った怪物なのだった。




