03
結局のところ、処理班は死体袋を三つ抱えて帰ることになった。
「最後の一人は情報を吐いたんだ。わざわざ殺す必要はなかったじゃないか」
森斗は閉ざされたバスルームに声を掛ける。
タトゥー男から情報を聞き出したあと、森斗たちはシルフィにあてがわれたマンションまで来ていた。グリム機関が森斗たちのために押さえてくれた場所で、ちょうど森斗が使っている部屋の真下にあたる。
現在、シルフィはバスルームで血糊と汗を洗い流している真っ最中だ。親玉が誰であるかを話せば助けてやる――と言っておきながら、彼女は知っている限りのことを洗いざらい話したタトゥー男を最後に殺してしまったのである。
ザザァ、と聞こえてくるシャワーの音。
シルフィがツンとした態度で言ってのける。
「別に助けるとは言ってない。楽にしてやると言ったんだ」
「そういう問題じゃなくて……」
自分の想像が甘すぎたのだ、と森斗は反省した。
確かに見た目は可愛い。可愛すぎる。目つきの悪さなんて些細な問題だ。だが、彼女の仕事はプロフェッショナルのやり方ではない。殺戮マシーンのやり方だ。グールを殺すことに躍起になっていて、情報を聞き出すという目的を忘れて、敵を皆殺しにすることでミッションを終えようとしていた。
「最後の男は知っていることを全て話した。拷問に掛ける意味も、最後に命を奪う意味もなかった。あいつは完全に心が折れていた。放っておいたところで、グール化を悪用して人を襲ったりはしなかったはずだ」
森斗の言葉にシルフィが反論する。
「フンッ……やつが再び悪事を犯さない保証はどこにもない。私たちのことを異端者に伝える可能性だってあるだろう。私からしてみたら、始末しない理由の方が見当たらない。あの場からはさっさと撤収したかったしな」
とりつく島もない、とはこのことだ。
シルフィの言い分も尤もだが、あのときの彼女は明らかにタトゥー男を殺したがっていた。彼を殺すための口実を欲しがっているようにしか見えなかったのだ。ただ、彼女の判断があながち間違いではないので、森斗は強く追求することができない。
「余計な殺しをやらないってのは、別に当たり前のことだと思うんだけど……」
森斗はフローリングの床に直に座って、深夜なのに明るい東京の空をぼんやりと窓越しで眺めていた。女性の部屋を訪ねるのは初めてなのに、彼は自分でも不思議なくらいにドキドキもワクワクもしていない。
というのも、シルフィは数時間前にこのマンションに移ってきたばかりで、まだ積まれている段ボール箱も開けていないのである。そもそもモノが少なくて殺風景だ。備え付けの冷蔵庫が時折ブゥーンと不気味な音を立てるばかりだった。
それよりも、なによりも、血まみれのグルカナイフ×2が無造作に放り出されているのがいただけない。銀でコーティングが施されているグルカナイフは、西洋イメージの異端者に対して高い攻撃力を持つ。代わりにメンテナンスをしておこうかと森斗が言ったら、シルフィにジロリと睨み付けられてしまった。
事件を解決したいという気持ちはあるのだろう。そうでなければ、わざわざ仕事を放り出して香港から飛んできたりしない。この事件にどんな思い入れがあるのかは分からないが、せめて解決意欲があることだけでも喜ぶべきだろうか……。
「情報は手に入ったんだ。話を進めるぞ、森斗」
シルフィの声から苛立ちが伝わってくる。
この場で振り返ったら、彼女のシルエットを磨りガラス越しに拝めるかもしれない。
森斗はそんなことを考えていたが、グルカナイフで解体されてしまうのは嫌だったので、すぐさま思考をまともな方向に戻した。
「あいつらの親玉の名前が分かったのは大きいな」
親の敵であるかのように、シルフィが憎らしげにそいつの名前を呼ぶ。
「大神煌……森斗、彼はお前の知り合いであるそうじゃないか?」
「知り合いってわけじゃないよ。大神は僕が通っている高校の上級生で、この周辺ではかなりの有名人なんだ。中高生であれば名前は必ず聞いたことがある。とにかく目立つ人だから、名前は知らなくても顔を覚えている生徒も多い」
キュッと蛇口を締める音が聞こえてくる。
どうやら、シルフィは体を洗い始めたらしい。微かに石けんの匂いが漂ってくる。
森斗は音を立てないように、床に座ったままバスルームの方ににじり寄った。
まさか、こんなところで死ぬほどやらされた匍匐前進を使うことになるとは……。
「大神はモデルや芸能人になっていないのが不思議なくらいの美形男子だ。突っ立っているだけで女性からモテる。年下、年上を問わず何人も愛人を抱えているんだ。愛人関係を受け入れる女性もいるらしいけど、酷く傷つけられたり、捨てられる人も多いらしい」
「後ろから包丁で刺されないのが不思議だな」
再びシャワーの流れる音。
森斗は上体を反らしてバスルームを覗こうとしたが、案の定、バスルームに続いているドアがしっかりと閉ざされていた。彼は作戦を諦めると、再び匍匐前進でベランダに面した窓際まで戻っていく。
「仕返しする気持ちになれないくらいに酷いことをされてるって噂だ。それに大神の周りにはたくさんの手下がいる。一ヶ月ほど前からだったか、暴力団の関係者も周囲で見られるようになった……ちょうど暴行事件が始まった時期と一致する」
ただ、それは森斗が学校や街角で立ち聞きした話である。
大神煌については調査班が調べているから、あとで改めて確認しておくべきだろう。
「他には?」
「あとは、そうだな……母親と妹の三人暮らしだってことくらいしか知らないな。大神の家族だけあって、二人とも美人だって評判だよ。父親については話を聞いたことがない。離婚したのか、亡くなったのか――」
「聞いていたところ、大神煌は人間のクズと考えて間違いなさそうだ。やつが異端者でなかったとしても、さっさと始末しておいた方が社会のためだろう。私がグルカナイフで引導を渡してやる……」
過激な発言をするシルフィ。
森斗は意味もなく手元の携帯電話をいじった。
「日本は法治国家なんだから、そう簡単に人は殺せないってば」
「フンッ、こんなことになる前にぶっ殺してしまえば良かったんだ……」
シルフィの過激発言は留まることを知らない。
殺意が可視光線となってバスルームから漏れだしている、ような気さえする。
森斗は急いで話をまとめることにした。
「とにかく、大神の暗殺作戦は上が考えてくれるはずだ。それまで待機だな」
「必要な話は終わりか。なら、さっさと帰れ」
用事が済んだ途端にこの扱い。
自分たちは本当に異端者を倒せるのだろうかと不安になってくる。
「はいはい、今出て行くから――」
腰を上げようとする森斗。
だが、ふと気になることがあってフローリングに座した。
八重歯やツメ、体毛の伸びたグールの体質変化は、力を分け与えた親玉――すなわち大神煌の特性を受け継いだものだ。グールたちが多くの女性を性的に暴行していることは、まず間違いなく大神の影響である。
だとしたら、大神は異端者としてどのような変異を遂げているのか?
この場で彼の正体を見極めることができたら、こちらとしても対策が取りやすい。対抗策の準備に時間が掛かれば、それだけ被害者が増えることになる。優秀な狩人であれば、きっと現時点で正体が分かるはずだ。
森斗は頭をひねって考えてみる――が、答えは簡単に出てこない。
仕事を始めて二年目のルーキーでは知識量にも限界がある。森斗は自分の実力不足を情けなく思った。戦闘技術にはそこそこの自信があるけれど、それ以外のことはからっきしだ。半人前どころか、四分の一人前の実力しかない。
森斗が落胆していると、バタンと音がしてシルフィがバスルームから出てくる。
そして、振り返った彼が目撃したのは――
「あいすぅー、あいすぅー、とっても美味しいあいすくりーんっ!」
小さなタオルを首に引っかけて、脱衣所から出てくる素っ裸のシルフィだった。
彼女は森斗の存在に気づいていないのか、おもむろに冷蔵庫を開けると手を突っ込んでアイスクリームを取り出した。それは日本のコンビニで購入できるハーゲンダッツ、カップ型の緑茶味である。
シルフィはふたを外すと、付属している紙スプーンでアイスを食べ始めた。
彼女の瞳がキラキラと輝いて、頬が林檎のように赤く上気する。
「お、美味しいぞ、これっ! どういうことだっ!? グリーンティーの苦みがアイスの上品な甘さを引き立てている……こ、これは、三つ買ってきて正解だったな! あとで、もっと買ってこないと……はむっ、はむっ! ――あっ!?」
一つ目を食べ終わったところで、シルフィはようやく森斗がいることに気づく。
彼女は痙攣したように口をパクパクとさせた。
「お、お前、さっき帰ったんじゃ……」
森斗はまじまじとシルフィの肢体を観察してしまう。
陶磁器のように白い肌。肌を伝う拭き残しの雫が輝いている。流石はグリム機関の狩人だけあって、とても健康的な体を持っている。けれども、全体のシルエットは驚くほど華奢で、グールの首を真っ二つにできるとは到底思えない。おそらくアレは、彼女の卓越した技術がなせる技なのだろう。
上から下まで観察したところで、彼女が両手両足に真っ赤なマニキュアを塗っていることに気づく。そして、彼女の鉛筆でも乗っかりそうな長いまつげであるが……シャワーを浴びた後も残っているところを見ると、美希の言った通りに付け睫毛ではないようだ。本当に容姿に恵まれた少女である。
森斗とシルフィの目が合う。
彼は真顔で言った。
「髪の毛が銀色だと、ほかのところも――」
「――地獄の底で悶え続けろッ!!」
シルフィの体が宙に浮かび上がり、横回転、綺麗な後方回し蹴りが放たれる。
森斗の頬に突き刺さるシルフィのかかと。
これでは異端者と決着を付ける前に死んでしまうぞ。
真横に吹っ飛んで壁に叩きつけられながら、森斗はそんな感じの危惧を抱いた。
×
森斗は夢を見ている。
それはまだ彼が中学生だった頃の夢だ。このときは東京ではなくて、父親――狩屋深山と一緒に地方都市の一軒家で生活していた。芝生の生えそろった自宅の庭で、森斗は父と二人で日課の稽古をしているところだ。
森斗は学校指定のジャージを着て、父の深山は陶芸職人のような作務衣を着ている。森斗の機嫌はハッキリ言って悪かった。狩人になるための技術で喧嘩をして、クラスメイトをべっこべこにたたきのめしたあと、深山にこっぴどく叱られたのである。
どうしても納得ができない。喧嘩をふっかけてきたのは相手が先だ。森斗が自宅で謎の稽古を積んでると知って、空手部やら柔道部やらの連中が喧嘩をふっかけて来たのである。森斗のことを格下の標的としか見ていない態度が、彼の怒りをなおのこと誘った。
で、五人ほどを相手に完勝した。
そのあと、深山に思い切りゲンコツで殴られた。
「お前には当たり前のことを守って欲しいんだよ、森斗」
深山がそんなことを言う。
基本の型を繰り返しながら、ムスッとした顔で森斗が聞いた。
「当たり前ってなんだよ、父さん。強いやつは弱いやつに倒されるってのが当たり前なんじゃないのか? 僕はイヤだよ、こんなに練習してるのに負けるだなんて……」
「別に負けろだなんて言ってないだろうが」
縁側に腰掛けている深山が言葉を返す。
「俺が言っている当たり前ってのは、お前が思っているような自然の摂理とは違うやつだ。勝負に勝つことは大切だぜ? だが、それよりも大切なことがたくさんある。戦わずして勝負を収めること。戦うときは相手を不用意に傷つけないこと。そして、仲間に被害が及ばないようにすること。俺はそれを怠ったからな……」
表情に陰が差す深山。
「なんだよ、俺にはこんな訓練ばかりやらせて……」
森斗だって父の言いたいことは分からないでもない。
いつも明るい父親が後悔していることはたった一つしかない。その話を聞く度に、森斗は自分も大人にならなければと思う。だけど中学生の頃は、まだまだ自分の心をコントロールすることができなかった。狩人としてのデビューが迫る中、当たり前のことなんてどうでもいいと思っている節すらあった。
でも、高校生になって狩人の仕事を始めてからは、この当たり前を守ることがどれだけ難しいかを実感してきた。自分が生き残るだけで精一杯では話にならない。異端者を抹殺することしか考えられないようでは視野が狭い。もっと余裕を持って、当たり前が守れなければ半人前だと痛感する毎日なのだ。
夢の中で、森斗は基本の型を繰り返している。
深山が「やめっ!」と言ってくれないあたりが、夢の非常に厄介なところだ。
――――
――
「――うっ、いま何時だ!?」
ガバッと起きあがった森斗。
彼が寝かされていたのは自室のパイプベッドだった。昨日着ていたコート姿のままで、腹の上には無造作に毛布が掛けられている。枕元のデジタル時計は七時半を示して、カーテンの引かれている窓からは明るい朝日が差し込んでいた。
シルフィの後方回し蹴りを喰らってからの記憶がない。どうやら、あのまま一晩中眠っていたようである。シルフィが運んできてくれたのだろうか? 戦闘班や調査班の仕業かもしれないが、彼らはまず最初に意識を確認するだろう。仮にも頭部にダメージを受けて気絶してしまったのだから……。
眼鏡を掛けたあと、自室を見回して森斗はハッと気づかされる。
いつの間にか、ごちゃっとしていた彼の部屋が綺麗になっていたのだ。教科書やノートが本棚に収められて、仕事の資料もファイリングされている。シンクに溜まっていた洗い物も綺麗に済まされて、ゴミはゴミ袋にしっかりと分類されていた。
これもシルフィがしてくれたことなのだろうか? 根っからの綺麗好きなのか、それとも気絶させてしまったお詫びのつもりなのか、どちらにせよ掃除のお礼は言った方がいいだろう。掃除に気が回らない森斗にとっては非常にありがたいことだ。
そこで、彼の視線がテーブルの上に止まる。
テーブルの上に雑然と何かが積み上げられていた。
積み上げられて山になっていたのは、森斗が所有しているグラビア雑誌だった。
飾らない言い方をすればエロ本だ。
瞬間、背骨を引っ張られるような悪寒が森斗の全身を駆け抜ける。
グラビアの傾向は様々である。芸能界で活躍中のグラビアアイドルから、デビューしたばかりの清純派、妖艶なオーラを放っているお姉様系など、水着から裸体まであらゆる方向性を網羅している。
これを、シルフィに、見られたのか!?
ゴミ箱に突っ込むでもなく、淡々とグラビア雑誌を積み上げていく彼女を想像して、森斗はピンの抜けた手榴弾を首にかけられるような恐怖を覚えた。だが、部屋中に散らばっていたグラビア雑誌がひとまとめになっているのは非常に嬉しい。
森斗は本棚の隙間にグラビア雑誌を差し込もうとする。
そのとき、コートのポケットに入りっぱなしだった携帯電話が鳴った。
「は、はいっ!」
慌てて応対する。
『おはよう、森斗くん。ちゃんと起きていたかしら?』
聞こえてきたのは上司である美希の声だった。
「今、ちょうど起きたところでした」
森斗の目が右手に掴んでいるグラビア雑誌に止まる。
そこには胸元のはだけたスーツ姿の女性が映っている。真っ赤なゴシック体で『美人の女上司から誘惑されたらどうする?』とあおり文句が書かれていた。女性の扇情的な視線が森斗を強烈に射抜く。
『いきなりだけど作戦を伝えるわね』
「あっ、段取りが決まりましたか……」
『シルフィからの提案を上が採用したわ。今夜、大神煌を倒してもらうわ。あなたとシルフィの二人で力を合わせるの。顔を合わせてから一日しか経ってないけど、優秀なあなたならできるわよね?』
「……もちろんです!」
森斗は大きな声で答えると、グラビア雑誌を本棚に押し込んだ。