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グリム機関の赤頭巾  作者: 兎月竜之介
グリム機関の赤頭巾
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 狩人たちの間で言われている通説がある。

 曰く、狩人の拳はライフルの弾丸よりも避けにくい。


 これは決して誇張表現ではない。狩人たちは射撃訓練、格闘訓練をどちらも受けているが、総じて近接格闘に長けている場合が多いのだ。異端者たちの中には発砲を見てから回避できるものもいる。そういった敵を倒すためにはやはり接近戦しかないのである。


 銃弾は真っ直ぐすぎる、という意見もある。銃口から放たれた瞬間から、銃弾は使用者のコントロールを離れてしまう。だが、人間の拳は完全に振り抜かれるまで、使用者が読み合いの一要素としてコントロールできる。


 速度だけでいったら、人間の拳は銃弾よりも圧倒的に遅い。だが、速度だけで勝負は決まらないのだ。速い拳が相手に当たるのではない。心理を揺さぶった拳が相手に当たるのである。だから、狩人の拳はライフルの弾丸よりも避けにくい。


 初撃。

 森斗の放った左の拳は、体をひねったインペリアルの胸元をかすめていた。


 燕尾服の布地が裂けて、露わになった肌から血液がほとばしる。コンクリートの地面を蹴った右足から、腰、背骨、肩を伝って、威力がダイレクトに左腕へ繋がっていた。牽制の一発とは思えないような、かすっただけで皮膚が破れるほどの衝撃。


 だが、同時にインペリアルも左の手刀を突き出している。

 それは森斗の右耳をわずかにかすめていた。だが、それだけで刃物で切り払われたかのように右耳が傷つく。そして、出血すると同時にひどい耳鳴りが森斗を襲った。かすめた時の衝撃がバランスを司る三半規管を揺さぶってくる。


 インペリアルの右側をすり抜けるようにして、森斗は渾身の右膝をやつの腹部に叩き込もうとした。ねらい目は右脇腹、すなわち肝臓だ。だが、インペリアルは空いている右手で森斗のニーキックを軽やかに受け流す。


 立ち位置が入れ替わって、森斗とインペリアルは再び向かい合った。

 二人は改めて構えを取り直す。

 そして、先ほどの短い攻防で森斗はハッキリと確信していた。


 インペリアルは間違いなく武術に精通している。それはボクシングのようなスポーツ格闘技ではない。軍隊式の近接格闘術でもない。自らの肉体を究極的に鍛え上げる――森斗が学んだ古武術と同じカテゴリーの技術だ。


「……きみは東洋の武術を使うのだな?」


 インペリアルが皮膚の裂けた胸元に触れた。


「かすっただけで衝撃が伝わってくる。全身で生み出した威力の伝達率が極めて高い。それゆえ、わずかに触れた一点からでも破壊を起こすことができる。クリーンヒットしていたら、肋骨ごと胸部を持って行かれていただろう」

「それは……あんたも同じことじゃないか?」


 森斗の右耳からは、どくどくと真っ赤な血が流れ落ちている。

 出血は首筋を伝って、シャツの中まで染み込んできていた。


「指先がかすめただけで、まるで刃物のように耳が切れた。どこの武術かは知らないけれど、現代の格闘術には残されていない技術の一つだ。吸血鬼なのに武術が使えるのか? そんなの聞いたこともない」


 香港の狩人が殺された一件を思い出す。

 狩人は正面から殴り合った末に、関節技をかけられて殺されていた。そこに超常的な能力を使った痕跡が残されていなかったので、犯人が異端者なのか、同僚の狩人なのか断定できなかったのである。だが、今ならば納得できる。インペリアルには超常的な能力を使わなくても、素手で狩人を倒せるだけの実力があるのだ。


「むしろ、疑問に思っているのは私の方だ。どうして、超越者たちは超常の能力を手に入れた途端、己を鍛え上げることをやめてしまうのか。そこで努力を怠るから、仕向けられた狩人たちに滅ぼされてしまうというのに……」


 インペリアルは血染めの手を森斗に向ける。

 先ほどとは構えが変わった。


「私は争いを好む質ではない。だが、努力を怠ったせいで狩られてしまうことほど屈辱的なことはないと思っている。故に世界を渡り歩きながら、私は各国に古くから伝わる武術を学び続けた。時間だけはたっぷりとあったからね」


 瞬間、まさに鼻先という距離にインペリアルが出現する。

 ……いや、別に突然出現したわけじゃない。彼は会話をしながら、徐々に森斗との距離を詰めていたのだ。視覚、聴覚では認識できないほど、巧みに間合いの内側まで接近していたのである。踏み込み自体も尋常ではなく速い。


 インペリアルが素早い左右のラッシュで攻め込んできた。森斗はラッシュを手のひらで弾きながら、返した手のひらでそのまま掌底を打ち込もうと試みる。だが、相手は森斗よりも長いリーチを巧みに利用して、拳で反撃できる数センチ外の位置を維持していた。


 不用意に踏み込んだりしたら、相手の拳を正面からガードせざるを得なくなる。古武術の技で威力を殺すことはできるが、それでも腕の一本は間違いなく折られてしまうだろう。素手による打撃戦では少々分が悪い。


「それなら――」


 森斗は首を振って、インペリアルの拳をギリギリのところで回避する。拳が頬をかすめて、カミソリのように皮膚がスパッと切れた。それに臆することなく、森斗はインペリアルの右袖を掴む。そして、そこから彼の体を投げ飛ばしにかかった。多少の体格差があろうとも、相手の体重が前に掛かった瞬間、懐に潜り込めば……。


 だが、インペリアルの姿勢は崩れなかった。

 森斗の体がふわっと浮き上がる。相手を投げ飛ばそうとしていたはずが、逆にこちらの軸足を払われていた。仰向けになって、背中からコンクリートの地面に落ちていく。そして、彼を地面に縫いつけようとばかりに、インペリアルが手刀を突き下ろしてきた。


「ぐっ……」


 背中から叩きつけられた瞬間、森斗は反射的にインペリアルの手刀を両手で掴む。

 縫われていた両手の傷がざっくりと裂けたのを感じる。


 森斗は焦った。

 インペリアルは正体不明の超能力を使っているのではない。全身の筋肉をフル活用して、ただ純粋に攻撃を放ってくるだけだ。それでも、こちらに攻撃の機会が与えられず、体勢を崩させることもできないのは、そもそもの技術レベルに天と地の差があるからである。十七歳のルーキーと、飛行機がない時代から生き残った吸血鬼では、戦いの年期というものに大きな開きがある。ありすぎる!


 だが、ここで倒さなければ勝ち目はない。

 砂漠で吸血鬼に覚醒したというエピソードから、おそらくインペリアルは太陽光を苦手としていない。彼を確実に殺せるとしたら、方法はおそらく三つ――銀製の武器を使うこと、脳を破壊すること、全身を粉微塵にすることだろう。

 どれもこれも、徒手空拳の森斗には使えない方法ばかりである。だから、インペリアルが人間であるうちに倒さなくてはいけないのだ。実力差があっても泣き言は言ってられない。わずかな可能性に賭けて攻撃を続ける。


 森斗は腕をたぐるようにして、インペリアルに対して三角締めを仕掛けた。

 インペリアルの右脇下から右足を差し込んで、ふくらはぎの裏側で後頭部を押さえ込む。そして、右足に左足を引っかけてフックのように固定した。両足のフックを引き絞って、インペリアルの喉を締め上げていく。


「ごぁっ――」


 苦しげなうめき声を上げるインペリアル。

 彼の左腕までは拘束できていないが、この不自然な体勢では効果的な攻撃を放つことはできない。インペリアルの呼吸が止まるか、拘束から逃れられるかの勝負である。相手のダウンを取ったのに、急いて追撃しようとしたのが間違いだ。


 しかし、インペリアルはそれでも焦らない。

 彼は人差し指と中指を立てて、森斗の左脇腹に突き立てる。そして、まるで切れ味の悪い刃物を押し込むようにズブズブと押し込んできた。まるで筋肉の継ぎ目を見極めて、その間に穴を開けるかのように、二本の指が森斗の腹部にめり込んでくる。


 どんな技だ、くそっ!

 思わず悪態を付きたくなる森斗。

 肉を抉られる激痛に力が緩んで、せっかくの三角締めが振りほどかれてしまう。


 起きあがり様に確認すると、本当に杭でも打ち込まれたように脇腹に穴が空いていた。斬られた右耳とは比べものにならないくらいに出血がひどい。体の半分くらいをサメに噛みつかれているような痛みだ。傷口の大きさとダメージが対応していない。


 全身からどっと脂汗がにじみ出る。

 インペリアルにも先ほどの三角締めは多少効いたらしい。赤くなった首筋を気にして、白手袋に包まれた手のひらでさすっている。とはいえ、受けたダメージ量に明かな差が生じているのは間違いない。


 立ち技でも、寝技でも、徒手空拳では張り合えない。

 ならば、と森斗は再びインペリアルとの距離を詰めた。


「――フンッ」


 インペリアルが槍のように鋭い前蹴りを放つ。

 前蹴りは森斗の腹部を捉えるが、ここまでは彼の計算通りだ。全身を使って威力を最大限に殺しながら、上手く後ろに向かって吹き飛ばされる。地面に積もっていたほこりが舞い上がって、煙幕のようにインペリアルの視界を塞いだ。


 インペリアルが目を細める。

 突如、白い煙の中から森斗が再び突進してきた。


 森斗の攻撃を回避しようと、バックステップで間合いの外に出るインペリアル。

 ……が、彼の目前に白銀に輝く刀身が迫っていた。

 攻撃を仕掛けてきた森斗の両手に、二本のグルカナイフが握られていたのである。


 後ろに大きく吹き飛ばされたのは、診療台の脇に放置されていたスクールバッグの元に移動するためだった。香港の狩人が殺されたと一報を受けて、森斗もシルフィも今日に限ってはメイン武装を持ち歩いていたのである。スクールバッグにグルカナイフが入っているはずだという森斗の予想は当たっていた。


 間合いを見誤ったインペリアルに左右からグルカナイフが襲いかかる。

 回避不能の距離。


 だが、インペリアルはとっさに反応を見せた。

 グルカナイフを握っている森斗の両手――それをさらに外側から握り込んだのである。

 当然、両手をふさがれた森斗の正面はがら空きになってしまう。


「くっ――」


 間合いを騙すことはできた。

 だが、インペリアルの反応速度に勝てなかった。


 そして、インペリアルの頭突きが森斗の顔面に突き刺さる。一瞬、視界がブラックアウト。眼鏡がひしゃげて壊れる。鼻と口の中が血で一杯になるのを感じる。脳が揺さぶられて、立っているはずなのにどっちが天井で、どっちが地面なのか分からなくなった。


 ……しくじった。

 しっかりと地に足を着けなければ衝撃を殺せない。森斗は(インペリアルも同じ技術を使えるようだが)構えを取ることで、まるでアースのように衝撃を地面に逃がすことができる。けれども、それもちゃんと両足で踏ん張っているからできることなのだ。


 次に頭突きを受けたら、今度は頭蓋骨ごと粉砕されてしまう。

 でも、視界がぐにゃぐにゃになっていて立つこともままならない。

 両腕を取られていて、相手はこちらの体勢を崩してくる。


 視界の端にシルフィの姿が映った。

 彼女は診療台に拘束されて、ほとんど首しか動かすことができない。だけど、それでも精一杯に森斗の戦いを見守ってくれている。シルフィだって、いつ気を失ってもおかしくない状態なのだ。けれど、森斗がインペリアルに勝つのを待っている。


「森斗、吸血鬼なんかに負けるんじゃないっ!!」


 シルフィから励ましの言葉。


「私のことを守るんだろ! 守ってくれるんだろ、森斗!」


 ぎぃ、と歯を食いしばる。

 森斗は身長差を逆手にとって、突き上げるようにインペリアルのあごへ頭突きを入れる。

 地面に衝撃を受け流す技術は、当然ながら下から突き上げる攻撃に弱い。


「がぁっ……」


 インペリアルが低い声で唸る。

 けれども、一撃では森斗の両手を放してはくれなかった。

 森斗を二度目の頭突きが襲おうという瞬間――


「――戦闘班、突入ッ!」


 正面シャッターをド派手に爆破して、完全武装の戦闘員たちが倉庫に飛び込んできた。

 インペリアルは正面シャッターに背を向けて、新手の勢力に背後を取られた形である。

 彼はとっさに森斗を突き倒すと、


「警告なんて必要ありません。一斉射撃ッ!」


 戦闘班がアサルトライフルを掃射するよりも先に変異を済ませていた。

 瞳が血のような赤色に染まり、口元から鋭い八重歯が覗き出る。


 無数に放たれた銀弾が肉体に着弾する寸前、インペリアルの肉体は霧となって消え失せた。吸血鬼の異端者がたびたび習得している超常の力――霧化である。弾丸は霧散したインペリアルの体をすり抜けて、周囲にある棺型の物体を破壊した。


「決闘は終了だ、少年。ここからは私も全力でやらせてもらう!」


 白い霧になったインペリアルは、そのまま倉庫奥の暗がりに一旦身を潜める。

 森斗はどうにか起きあると、すぐさま誰かが体を支えてくれた。


 先ほどから声が聞こえていたように、駆けつけてくれたのはマリアである。

 彼女は腰のベルトから、メイン武装の日本刀を提げていた。


「全く無茶をする人ですね。美希さんから事前に聞いた話だと、あなたは現実的な考え方をするクールな少年だったはずなんですけど」


 彼女は森斗の体調を気遣う。


「脇腹の怪我は大丈夫ですか? あと、さりげなく眼鏡が粉々ですよ」

「痛さはヤバいけど、中身は傷ついてないみたいだ。眼鏡も伊達だから問題ない」

「はっ? あの眼鏡って伊達だったんですか?」


 とりあえず貼っておいてください、とマリアから絆創膏のようなものを手渡される。

 それはグリム機関が開発した医療品で、止血と縫合が必要な傷を一時的に保護できる優れものだ。あくまでその場しのぎであるけれど、チクチクと縫ってもらえる状況ではないので非常にありがたい。


「あと、丸腰はやめてくださいね。本当に生きているのが不思議ですよ」


 マリアが自動拳銃を手渡してくれる。

 森斗は持てあました右手のグルカナイフを床に置いた。


「……なぜ、この場所に来られた?」


 拘束されているシルフィが、やっと聞こえるような声で問いかけた。

 彼女の目はうつろで、いよいよ意識が保てなくなってきているらしい。


「私たちが出動したのは『脱走した狩屋森斗を追いかけるため』なんですよ、シルフィさん。あなたを助けるために動くことはできませんでしたが、別の名目さえあれば動けたのです。森斗さんの規則違反に助けられる形になりましたね」


 マリアは小さくため息をついた。


「この話を上に通してくれたのは美希さんです。あとでお礼を言ってくださいね」


 生きて帰れたらですけど、と彼女は日本刀の柄に手をかける。


 インペリアルは霧化して、暗闇にその姿を溶け込ませたままだ。棺の足下はぼんやりとライトアップされているが、倉庫は奥に行くほどさらに暗くなっている。戦闘班がアサルトライフル付属のライトで照らしても、完全に倉庫全体を明るくすることはできない。


 天井の照明が切られています、と戦闘班から報告。

 マリアが目だけを動かして敵の位置を探る。


「厄介ですね。障害物が多いせいで、一斉射撃の効果も薄いですし……」

「シルフィを助けたいけど、あそこまでいくと暗闇の範囲内だ」


 森斗は明るさと暗さの境界線を見据えた。

 自分たちがいる場所から、シルフィが拘束されている診療台まで二十メートルもない。その気になれば数秒で駆けつけられる。けれども、診療台の周囲は霧化したインペリアルの待ち伏せできるギリギリの暗さだ。


「このまま朝になって、あの吸血鬼が日光消毒されたりしませんかね?」

「それはないと思う。砂漠生まれみたいだから」


 仕方ないですね、とマリアが一歩前に踏み出す。


「この場で勝負を付けようとは思っていません。私がインペリアルを引きつけるので、森斗さんはシルフィさんを救出してください。あとは東京支部のシェルターにでも逃げ込んで、みんなで始末書でも書きましょう」


 暗闇に向かって進んでいくマリア。

 森斗は彼女から離れると、インペリアルが襲ってくるタイミングを待った。

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