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グリム機関の赤頭巾  作者: 兎月竜之介
グリム機関の赤頭巾
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17

 シルフィは道行く人々の間をすり抜けて、立ち尽くしている森斗の前までやってくる。狩人らしい軽やかなステップワークだ。通行人に肩をぶつけられた自分が、森斗はなおのこと間抜けに思えてくる。


「ここでは人が多すぎる。場所を変えるぞ」


 彼女はそう言って、すぐさま駅とは反対方向に歩き始めた。


 森斗は言葉を発する余裕もなく彼女を追いかける。

 待ち伏せされていたのは間違いない。マンションに帰ると見せかけて、こっそりと跡をつけてきたのだろう。尾行を見つけるための技術は一通り習っているはずなのに、全く気づかなかった自分が情けない。


 ……いや、それよりも気になるのがマリアとの会話のことだ。シルフィには聞かれてしまったのだろうか? 聞かせたくはないと森斗は思う。自分を殺すか否かで揉めている仲間の会話など、何があったとしても聞かせられるものか。


 盗聴器とか付けられてはいないよな、と森斗は自分の体を今更になってチェックする。

 見つけたところで意味はないが、とにかく心の動揺を落ち着かせたかった。


 シルフィが立ち止まったのは、雑居ビルに挟まれた小さな社の前である。一応だが鳥居もある。お稲荷様のようで、ホームセンターにでも売っていそうなサイズのキツネの石像が置いてあった。どことなく不気味な雰囲気をたたえている。周囲に人の気配はなくて、少し離れた場所を電車が通過する音が聞こえてくる。


 真っ赤な鳥居の前で、真っ赤なパーカー姿のシルフィがくるりと振り返った。

 思い詰めたような表情。

 彼女は森斗に向かって言った。


「……私が話したいのは昨晩のことだ」

「昨晩のこと?」


 頭の中がこんがらがっていた森斗はすぐに反応することができない。

 一拍。

 瞬間、べろんべろんに酔っぱらったシルフィの姿がフラッシュバックした。


「あ、あぁ! 昨日のことか! ――って、えぇっ!? 昨日のことを覚えてたの!?」


 飲んでいたのはノンアルコールビールだったが、シルフィの酔っぱらい方は尋常ではなかった。呂律も回っていなかったし、自分の足で歩くこともできなかった。泥酔である。あれで記憶がハッキリしているとは思いもしない。

 シルフィの頬が恥ずかしさから真っ赤に染まる。


「自分でも不幸だと思っているが、私は酔っぱらった最中のことを全て覚えているのだ。お前のところに押しかけたこと、ベッドに倒れ込んだこと……あぁ、思い出しただけで顔から火が出そうだ。だが、何よりも我慢できないことが一つある」

「……自分の体に自信がないこと?」

「それは違う! なんで、そんなことばかり覚えているんだ!」


 八重歯を剥き出しにして怒るシルフィ。

 噛みつかれてしまいそうで、森斗は思わず一歩下がる。

 シルフィが腹立たしげに銀色の髪をわしゃわしゃといじくった。


「私が言おうとしていることは、だ。お前に弱音を聞かれてしまったことについてだ!」

「あぁ、そのことか。いや、それしかないか……」


 森斗だってハッキリと覚えている。

 昨日の夜、シルフィは異端者と戦わせてくれと訴え続けていた。相手はグールでもいい。とにかく戦いたい。もしも、戦わせてくれないと……具体的なことは言っていないけれど、このままでは駄目になってしまいそうな気配が立ちこめていた。


 昼間のシルフィはとても強気だった。一般人の振りをするのも仕事のうちだから、学生生活も楽しんでやろうと意気込んでいた。ゲームセンターで遊んだり、公園で駄菓子を食べたり、美術室で絵を描いたり……実際にとても楽しそうだった。

 けれど、それはあくまで表面上のことなのだろう。


「……やっぱり、出動禁止になったことを気にしていたんだね」

「気にするさ。だが、そんな素振りを誰にも見せたくなかった。だというのに、まさかお前相手にあれほど弱音を吐いてしまうだなんて不覚だ。不覚過ぎる! どうして、お前の前でばかり醜態をさらしてしまうのか!」


 鳥居の根本に蹴りを入れるシルフィ。


「八つ当たりなんかしない方がいいって……」


 そして、森斗が彼女のそばに駆け寄ったときである。

 シルフィが突然飛び上がったかと思うと、空中で体をひねって回し蹴りを放ってきた。


「あっぶな!」


 間一髪、森斗はスクールバッグで回し蹴りをガードする。弁当箱が中で割れていたりしたらどうしよう……いや、今はそんなことを考えている場合ではないはずだ。

 着地したシルフィがチッと舌打ちをした。


「失敗したか。だが、次は避けさせないぞ」

「いやいや、ちょっと待ってよ! せめて、僕がどうして蹴られるのか教えてってば!」


 森斗はじりじりと彼女との距離を取る。

 シルフィはスクールバッグを道路に投げ出した。


「私が弱音を吐いたことについて一切合切を忘れてもらう。私は処理班の訓練も一通り受けているからな。どの辺を蹴っ飛ばせば、人間の記憶が消えるのかは知っている。ただ、一週間分くらいはまとめて消えてしまうかもしれないが……」

「立派な記憶喪失じゃないか! そんなの嫌だよ! 酔っぱらって弱音を吐いちゃったのはシルフィの責任だから、僕の記憶を消すことで解決しようとしないでってば! 僕は別にシルフィが弱音を吐いたことは気にしないからさあ!」

「私が気にするんだ!」


 素早いステップで踏み込むと、シルフィは頭部狙いで右足を振り上げる。

 森斗は再びスクールバッグでガードしようとするが、彼女の動きはガードを誘ったフェイントだった。右足を振り上げると見せかけて、そのまま大きく前に踏み込ませる。当然、森斗のボディはがら空き状態である。

 あっ、これ完全に本気のやつだ。


 シルフィの掌底が森斗の腹部を狙う。彼は空いている右手で、とっさに彼女の掌底を払い落とした。が、その掌底には力がこもっていない……すなわち再びフェイント。シルフィは森斗の腰に手を回すと、彼の体を軸にしてぐるりと背後に回った。


 まさか、身長差が三十センチもあるのにバックドロップを狙っている!?

 もしかして、どの辺を蹴っ飛ばせばという発言自体がフェイクだったのでは――


「記憶吹っ飛べっ!」


 シルフィが全力を込めて森斗を投げ飛ばそうとする。


 だが、森斗もやられているばかりではなかった。

 彼が身につけている近接戦闘の術はグリム機関で習ったものだけではない。幼い頃から、父・狩屋深山に師事して格闘術を学んできた。それは狩屋の血筋が代々受け継いできた――大まかに言うならば古武術と呼ばれる類のものだ。

 狩人同士の揉め事で使ってしまうことになるとは……。


 森斗は重心を落として、足裏の外側に向かって力を込める。

 途端、彼の体はその場にどっしりと安定する。シルフィはおそらく、森斗に対して彼の体重以上の重さを感じていることだろう。やっていることは基本の構えを取っただけなのだが、それでも体格の劣るシルフィが相手なら効果絶大だ。


「ぐっ、外れない……」


 森斗は腰に回ったシルフィの腕を外そうとするが、彼女もそう簡単には離れてくれない。悩むこと数秒――森斗はシルフィに組み付かれたままで、人間メリーゴーランドの要領でくるくると回ることにした。


「うぇっ、あっ、森斗、お前……」


 シルフィの体が浮いて、森斗の腰に掴まったまま振り回される。両足が地面から離れてしまったら踏ん張ることもできない。あとは森斗の目が回ってしまうか、シルフィの腕力が負けてしまうかの勝負だろう。


 犬の散歩をしている中年男性が通りかかった。

 なにやってんだ、このバカップル――という視線が突き刺さる。


 シルフィの体は遠心力に負けてぽーんと投げ出されると、小さな社を囲んでいる垣根に突っ込んだ。垣根に沈み込んでいる彼女の姿は、パジャマ姿でベッドに横たわっている昨晩のシルフィを森斗に思い起こさせる。


「ねぇ、僕は別に弱音を吐いてもいいと思うんだ。僕だって気にしないよ」

「だから、私が気にするんだ!」


 パーカーに葉っぱを付けたまま、垣根から降りてくるシルフィ。

 街灯に照らされている彼女の頬がキラキラと光っている。


 化粧でもしていたのかと錯覚したが……それはシルフィの頬を伝う涙だった。

 涙だった!?


 森斗は表情に驚きを隠せない。

 泣くのか? シルフィが? 大神沙耶のような一般人の少女ではなくて、グールをグルカナイフで解体してみせる彼女が……だが、いや、あの大神沙耶に強い部分があったように、シルフィには弱い部分があるのだ。誰だって強い部分と弱い部分はある。シルフィは戦闘面でも、メンタル面でも強い少女だ。だから忘れてしまっていた。


 不覚なのは自分の方じゃないか、と森斗は思う。

 シルフィが出動禁止になっている間、彼女を守るのは自分の役目ではないか。それなのに、彼女の心が傷ついていることに気づけなかった。気づこうともしなかった。蹴り飛ばされそうになっても当然だろう。


「私は戦うために生きているんだ」


 涙混じりにシルフィが言った。


「両親が人狼に殺される瞬間を見てしまったとき、私は心に誓ったんだ……私はあいつらを絶対に許さない。異端者どもを絶対に殺し尽くしてやる。そうしなければ、私はあの日の光景に囚われたままだ。両親を殺された無力な私のままじゃないか!」


 目尻に大粒の涙が浮かんでは、頬を伝って流れ落ちていく。

 シルフィは悔しそうに地団駄を踏んだ。


「だけど、私一人の力には限界がある。異端者たちは次々と生まれてくる。あいつらを殺し尽くすことなんてできない。叔父様は言っていたんだ。殺すために戦っていても救われはしないって。全くその通りだ。戦いに終わりなんかないんだ」


 投げ捨てられたスクールバッグを彼女は見る。

 そして、腹立たしげにそれを蹴り飛ばした。


「勉強や趣味に打ち込んで、復讐を忘れようとしたのだって一度や二度じゃない。だけど、その度に昔のことが思い出される。目の前で人狼に食い殺される両親の姿だ。異端者どもを殺し尽くさないと、あの地獄のような光景から解放されないんだ!」


 シルフィは涙に濡れた頬に爪を立てる。


「それなのに出動禁止だって? 冗談じゃない! 戦闘中に人狼化してしまうだなんて最悪の過ちだった。そんなことをしたら、グリム機関からどんな処分を受けるのか分かっていたはずなのに……それでも自分を抑えきれなかった」

「シルフィ、もしかして――」

「……分かっていた。マリアが来た時点でな」


 森斗が問いかけるよりも先に彼女は答えを述べた。


「さっきの話も私の対応についてだろう? 私が再び人狼化した場合、速やかに殺すようにと言われたのだろう。分かっているさ。能力をコントロールできないハイブリッドがどうなるのか、ちゃんと前もって調べておいたんだ」

「……ごめん」


 今はただ、謝ることしかできずに森斗はうつむく。

 シルフィが問いかけた。


「お前がどうして謝ったりするんだ? グリム機関の命令は絶対じゃないか」

「それでも謝るよ。僕はさっき、きみを殺さなくちゃいけないだなんて話をしていた。それは上からの命令だけど、友達のすることなんかじゃない。殺すことになったら、なるべく悔いが残らないようにしたいだなんて考えていた」

「それでいいんだ、森斗。異端者狩りの妨げになるなら、私の命なんて必要ないさ」

「――必要ないだなんて嘘だっ!!」


 腹の底から声が出た。

 それは同時に心の奥底から出た言葉でもあった。マリアから命令を伝えられて悩んでいたけど、これでようやく分かった。躊躇わないように離れるのではなく、悔いが残らないように思い出を作るのでもない……自分で考えた答えがようやく分かった。

 森斗はシルフィに歩み寄る。


「僕は決めたよ、シルフィ」


 彼女は面食らったようで、その場から離れようとはしなかった。


「……僕はきみを絶対に守る。たとえきみがまた人狼化して、元に戻れなくなったとしても、僕だけは絶対に諦めない。グリム機関はきみを処分しようとするかもしれない。だけど、僕だけは最後まできみの味方でいるよ」

「森斗……」


 彼の立ち姿を見上げるシルフィ。

 しばらく見つめ合ったあと、彼女はパーカーの袖で涙をぐしぐしと拭った。


「それがお前の言っている……当たり前を守るっていうことか?」

「うん。何があってもきみを守る。それが今の僕にできることだと思うから」


 さらりと言ってのける森斗。

 すると、シルフィがチラッと視線を逸らした。


「……なんかそれ、少し恥ずかしいな」

「えぇっ!? でも、これが僕の正直な気持ちなんだけど……」


 回りくどく言うのは苦手だしなあ、と森斗。

 シルフィは指と指を突き合わせて、珍しくモジモジとしている。


「そういう言葉って、お姫様とかに言うやつじゃないのか?」

「……そうなのかな? とにかく、僕の気持ちは伝えたから。記憶を消さないでもらえると非常に助かる。一週間分の記憶が飛んだら、またシルフィと出会うところからやり直さないといけないから。また初対面からってのも、それはそれで楽しそうだけどさ」


 一人の少女と知り合う喜びを二度味わうなんて、世界中を探したとしてもそうそうある話ではないだろう。

 シルフィは「また、お前はそういうことを平気で……」と辟易した様子である。


「お前とまた初対面からやり直すなんて、そんな面倒くさいことはやってられるか! 森斗の記憶は消さない。それでいい。そもそも、物理的ダメージで記憶を消すなんてことは、処理班でも一部の人間にしかできないことだからな」

「……それじゃあ、さっきのはただの八つ当たりだったわけ?」


 八つ当たりだ、とシルフィ。

 それにしては攻め方が本気過ぎなかったか、と森斗は思い返した。

 シルフィが咳払いをして話題をそちらに持って行く。


「そ、そうだ! 私が組み付いたとき、お前は一体何をしたんだ? なんだか、体が急にずしーんと重くなった気がした。あんな技術はグリム機関で教わっていないぞ!」

「あぁ、それは父さんから教わった構えの基本形で――」

「――あっ、昼間の狩屋先輩じゃないですか!?」


 不意に声を掛けられる。

 森斗とシルフィが同時に振り返ると、中等部の制服を着た少女が駅前通りの方から駆けてくるところだった。それが大神沙耶であるのに気づいたのは森斗だけではなく、ちゃんと調査資料を読んだシルフィもである。

 シルフィがスクールバッグを拾いながら、ジロリと森斗のことを見た。


「……接触したのか?」

「学校図書館で偶然知り合ってしまったんだ。正体はバレてないよ」

「ずいぶんと元気そうだ。写真と印象が違うな……」


 森斗が思っていたことはシルフィも同じであるらしい。

 異端者の遺族に出会って戸惑っている様子だったが、彼女はわずかに表情を緩めた。


「これで私たちも少しは報われるというものだ」


 そして、沙耶が二人の前までやってくる。

 彼女は森斗とシルフィの顔を交互に見た。


「も、もしかして、ドイツから来た転校生って……」

「私だが……なんだ、そんなに珍しいのか?」

「すごく可愛い人だって聞いていたんです。私より背が小さいんですね!」


 沙耶も比較的小柄な部類に含まれるが、シルフィはさらにその上……ではなくて下を行っている。二学年も下の生徒に身長を抜かれてしまうのが、背の低い中高生にありがちな悲しい宿命なのだった。


 あまり深く関わらない方が良いな、とシルフィが視線で語る。

 森斗もこの場は同意してアイコンタクトを返した。


「私たちは先を急いでるのでな」

「ごめん、また学校で会えたらね」


 二人は沙耶の横を通り過ぎて、駅前通りの方に戻ろうとする。


「そんなっ、せっかく噂の転校生に会えたのに……」


 追いすがろうとする沙耶。

 彼女の体がトンッとシルフィの背中にぶつかる。


 そのとき、脇腹に異物が差し込まれるのをシルフィは感じ取っていた。

 瞬間、立っていられなくなるほどの激痛が彼女の背中を駆け抜ける。


「ぐっ――」


 うめき声を上げて、シルフィはコンクリートの地面に崩れ落ちた。

 倒れた彼女を抱き起こしながら、森斗は彼女を突き飛ばした沙耶のことを見る。


 沙耶はいつの間にか、小さな果物ナイフを両手で握りしめていた。それでシルフィを背後から刺したのだろう……刃だけではなく柄の部分までが血に染まっている。よほど力一杯に突き刺さないとそうはならない。


 状況の理解が難しい。

 自分たちが大神煌を殺した犯人だとバレていたのか? そのための復讐であると考えられなくもない。でも、昼間に見た沙耶の涙が演技であるとも思えない。ならば、どうしてシルフィを刺したりするのか。


 シルフィの体を支える手のひらにジットリとした感触がある。彼女の着ている赤色のパーカーが、さらに深い赤色に染まりつつあった。早く応急手当をしなくてはいけない。グリム機関のエージェントである彼女は重傷を負っても普通の病院は使えないのだ。


 沙耶が淀んだ瞳をこちらに向けている。

 彼女は歪んだ笑みを浮かべると、突如として果物ナイフを自分の喉元に向けた。


「森斗、あいつを止めろッ!」

「くっ……ごめん、シルフィ」


 森斗はシルフィの体を地面に下ろす。

 そして、すぐさま沙耶とお距離を詰めると、彼女が持っている果物ナイフを叩き落とした。素人の握り方ならば武装解除は容易い。沙耶を地面に組み伏せて、ひとまず自力では動けないように拘束した。途端、沙耶は抵抗する素振りもなく大人しくなってしまう。唐突に気を失ってしまったのだ。


 おそらく、相手はその瞬間を待っていたのだろう。

 うずくまっているシルフィの傍らに一人の男が立っていた。


 彫りの深い顔立ちをした白人男性だ。その肌は白いと言うよりも青白い。艶やかな黒髪をオールバックになでつけている。年齢は二十五、六ほどだろうか。社交パーティーに着ていくような燕尾服を堂々と着こなしており、まさに紳士と呼ぶにふさわしい出で立ちだ。


 彼はシルフィの腰に手を回すと、おもむろに――跳躍した。

 まるで、紳士は吸い込まれるように雑居ビルの屋上まで飛び上がる。落下防止フェンスの外側、屋上の縁にピタリと着地した。重力を感じさせないような軽やかな動きである。彼はその場所で満月を背負っていた。


 異端者。

 そう認識した瞬間、森斗は学生服の下に隠し持っている自動拳銃を抜いていた。


「――シルフィを離せ。お前はグリム機関を敵に回した!」

「それも承知。私はきみたちを敵に回すことも厭わない」


 紳士は平然と言い放つ。

 シルフィは彼の腕から脱しようとするが、脇腹を刺されているうえに相手は異端者……どうあがいても逃れられるはずがなかった。抵抗するほどに傷口から血が溢れ出てくる。彼女の顔色は徐々に青ざめていった。


「……う、撃てっ! 撃ってくれ、森斗!」


 弱々しい声で訴えるシルフィ。

 雑居ビルの屋上と地面――撃てば当てられる距離だ。だが、相手は異端者である。発砲した瞬間、シルフィの体を盾にして弾丸を防ぐくらいのことはやってのけるかもしれない。こちらが狙いを外さなくても必中とは限らない。


 森斗は撃てない。

 シルフィは目に涙を浮かべて訴え続けた。


「撃ってくれ! なぜ撃たないんだ!? 相手は異端者だぞ、撃たなくちゃ駄目だっ!」


 引き金に指は掛かる。

 だが、どうしても……。


「それがきみの答えなのだな、少年」


 紳士が独り言のように呟いた。

 彼は森斗に向かって語りかける。


「一応は伝えておこう。私の名前はインペリアル。きみたち、グリム機関のエージェントからはそのように呼ばれている。シルフィ・ローゼンはもらっていくよ。機会があればすぐに会えるだろう」


 そして、インペリアルと名乗った異端者は再び跳躍した。

 彼はビルの屋上を渡って、あっという間に森斗の前から姿を消してしまう。新米狩人では到底追いつける速度ではない。路地には自動拳銃を構えたままの森斗と、気を失ったままの沙耶だけが残されるのだった。

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