16
結局、大神沙耶のことが頭にいっぱいで、午後の授業は頭に入らなかった。
帰りのホームルームを終えたあと、森斗はすぐさま荷物をまとめにかかる。彼女と接触したのは間違いだったと思いながらも、彼女に会いたい気持ちがそれを上回っていた。沙耶の様子がまるで森斗の予想と正反対だったからだ。
「んあ? お前、美術部には来ないのか?」
春臣から尋ねかけられる。
廊下に出ていた森斗は、教室に顔だけ出して答えた。
「まだ、本を借りていないんだ。用事が済んだらすぐに行くよ」
「なんだよ、本が決められなかったのか? 優柔不断だなー」
思わず早足になってしまう。
学校図書館前の廊下までやってくると、すでに多くの生徒が自動ドアを出入りしていた。生徒たちが図書館を訪れる理由は本を借りるためだけではない。勉強スペースで宿題を済ませたり、部室代わりに利用したりする生徒がいるのだ。
森斗も自動ドアを通って入室する。
カウンターの方を見ると、沙耶はすでに文庫本を読みながら待ってくれていた。
彼女は隣にいる図書委員に「貸し出し作業、お願いね」と一言伝えた。
そばまでやってきた森斗に向かって、沙耶は小さく会釈をする。
「先輩、本は用意してありますよ」
「ありがとう。本当に仕事が速いね」
好きですから、と沙耶は答えてカウンターの下に手を伸ばした。
「一度に借りられるのは四冊までなんですけど、色々とそれらしいものをピックアップしておきました」
彼女はそこから選んでおいた図書を引っ張り出す。
「こちらは銃器の歴史に関する本で、火薬の発明から最新技術までが紹介されています……といっても発行が二年前ですから、本当に最新ってわけではないですが。こちらは格闘技大全という本で、様々な格闘技が写真と共に掲載されている男子生徒に人気の一冊です。こちらはいわゆるライトノベルですね。銃器と格闘技が出てきます」
他にも、と沙耶は何冊かさらに本を提示した。
森斗はその中から気になったものを選んでいく。
さりげなく一番気になってしまったのが、彼女がライトノベルと呼んだ文庫本だった。まさか、漫画のようなイラストの入った小説があるとは驚きである。てっきり、こういった娯楽要素の強いものは学校図書館で扱わないのだと思っていた。
そして、何より驚いたのは――本について語る沙耶がとても生き生きしていたことである。彼女は本当に大神沙耶なのか、校門前で怯えた表情をしていた生徒と同一人物なのか、確信が持てなくなってしまうほどだ。
「先輩、どうしました?」
彼女に言われて、自分が面食らって惚けていたことに気づいた。
森斗はつい安心して、思わず本音をこぼしてしまう。
「……いや、元気そうで良かったと思って」
途端、である。
森斗を見上げる沙耶の瞳に大粒の涙が浮かんだ。
ひっく、としゃくり上げる彼女。
こんな目立つ場所で泣かれては困るので、森斗はカウンター裏に回り込むと、彼女の手を掴んで本棚の影に連れ込んだ。郷土資料のコーナーには生徒たちの姿が見えないので、とりあえず周囲から注目を浴びる事態は防げるだろう。
沙耶は壁を背にして、必死に涙を堪えるようにしている。
思いきり泣かせるわけにもいかず、森斗は彼女が耐えている姿を見ているしかない。
ハンカチを取り出して、沙耶は目尻に溜まった涙を拭き取った。
「高等部は中等部よりも、もっと噂が広まってますよね。兄が死んだのは、昨日の今日だっていうのに……」
「……ごめん。僕も、その、色々と聞いているから」
大神煌と直接的に関わるまで、彼女のことは遠くにある悲劇だと思っていた。だが、森斗はもはや関わってしまった。沙耶のことをただの他人だと割り切ることができない。真実を告げられないことがとても辛い。
きみの兄は僕が殺したんだ。
森斗はそう言ってしまいたくてたまらなかった。
だが、それを教えてどうなる? グリム機関の秘密を知った一般人は捕らえられて、機関に関わる記憶を消されると言われている。その具体的な方法を森斗は知らない。もしかしたら、一般的な生活に戻れない体になるかもしれない。あるいは、ただ単に命を奪うことで済ませてしまう可能性だってある。
真実は絶対に伝えられない。
でも、ただの上級生として気遣うことは悪いことではないはずだ。
「僕は噂で聞いたことしか知らない。でも、きっと大変だと思ったんだ」
「……ありがとうございます、先輩」
沙耶はハンカチで口元を押さえる。
「会ったばかりの人から心配してもらえるなんて、思ってもいなかったんです……。だから、思わず涙があふれそうになってしまって。だけど、私はもう大丈夫ですから心配しないでください。私、いつも暗い顔をしてるから、平気そうに見えないですけど」
自嘲気味に笑みを浮かべる彼女。
だが、それでも笑顔であることには変わりなかった。
「人の死を喜ぶことはできません。だけど、兄が亡くなって……私は自分と兄を切り離して考えられるようになってきました。今まで、私は自分を兄の付属品のように思っていたんです。だけど、今は違います。私は私なんだと思えるようになって、そのおかげで他人から色々言われても傷つくことが少なくなりました」
「そうか……」
森斗は微かな安堵を覚える。
グリム機関のエージェントとして、異端者たちを倒すことが正しいのだと思っていた。だけど、今回の一件でその考え方の成否が分からなくなった。大神煌を討ったことが、果たして大神沙耶のためになったのか……。でも、どうやら沙耶本人の様子を見た限りだと、少なくとも全てがマイナス方向に傾いたわけではないようだ。
「……あぁ、そうだ。本でしたよね?」
沙耶が先に本来の目的を思い出す。
「そうそう、僕は本を借りに来たんだった」
森斗は彼女と一緒にカウンターまで戻った。
カウンターの裏側に回って、沙耶がレジに付いているような読み取り機を手に取る。
彼女はすでに立派な図書委員の顔をしていた。
「先輩、学生証を貸してください。貸し出しに必要ですから」
言われて、森斗はポケットの財布から学生証を引っ張り出す。
学生証を受け取ると、沙耶はそれを読み取る前にじぃっと注視した。
「……狩屋森斗さん。先輩、あの狩屋森斗さんだったんですね」
「えっ、僕も何か噂になってるの?」
「高等部の二年一組に美少女転校生が二人も来たって、中等部でも噂になっているんですよ。その二人が美術部に入部したことや、狩屋森斗っていう人が銀髪の転校生と仲良くしているらしいってことも」
目立つようなことはしていないし、シルフィと仲良くなれたわけでもないのだが……。
森斗の脳内を大量のハテナが埋め尽くす。
沙耶は学生証を読み取ったあと、貸し出す図書のバーコードも読み取っていった。
彼女がピックアップしてくれた四冊が森斗の手元にやってくる。
森斗は四冊の図書をスクールバッグの中に押し込んだ。
「ありがとう、助かったよ」
「これも図書委員の仕事ですから。用事があったら、また声を掛けてください。美術部の美少女転校生について、私もとても気になっていますから。良かったら、二人のお話を聞かせてください」
イタズラっぽく微笑む沙耶。
この子は僕なんかが思っているよりも強い子なんだな、と森斗は再認識する。
「それはまた機会があったらね」
彼はそう言って、混雑してきた学校図書館をあとにした。
×
多少時間は使ってしまったが、まだまだ放課後は始まったばかりである。
森斗は一人遅れて、第二校舎の美術室に顔を出した。
「みんな、来たよ――」
「――お帰りなさいませ、ご主人様! てへっ☆」
瞬間、彼の目に飛び込んできたのは……エプロンドレスを身にまとったマリアである。
彼女の格好はかなり本格的だ。頭にはレースのヘッドドレス、スカートは床に着きそうなほどの長さ。どこかで買ってきたようなものではなくて、本格的なヨーロピアンメイドを目指して自作したものであるようだ。ご丁寧に金属トレイまで抱えている。
「いいよー、いいよ、いいよー。可愛いよー。もう一枚、いっとこうか?」
春臣が四方八方から、ときには床に這いつくばるようにして、携帯電話のカメラ機能でマリアを撮影している。
マリアの方も扇情的なポーズを決めて、彼の写真撮影に付き合っていた。
「流石は私、何を着ても似合ってしまいます!」
ちなみにシルフィの方はといえば、彼女はイーゼルに立てたスケッチブックに向かって絵を描いている最中である。ただ、マリアと春臣のしていることが気になるのか、時折チラチラと二人のことを見ていた。
コツコツとブーツをならして、マリアが森斗に近寄ってくる。
「どうですか、森斗さん? 西園寺さんの魅力にメロメロになったでしょう?」
森斗は一拍置いて質問を返した。
「……ウェイトレス?」
「えぇえええ、ちょっと、森斗さん!? メイドが分からないんですか!?」
金属トレイでぽんぽんと叩いてくるマリア。
正直に森斗は答える。
「メイドとウェイトレスって同じものだと思ってた」
「そいつはあり得ねえぞ、森斗ぉ!」
春臣はそう言って、彼に向かって一冊の漫画本を叩きつけた。
漫画は『英国メイド物語シャルマ』というタイトルで、表紙には緻密な画風で少女メイドの立ち姿が描かれている。銀髪ショートカットで、どことなくシルフィを思わせる容姿だ。少々目つきが悪いところも似ていた。
「お前はこれを読んで、メイドのなんたるかを理解しろ! ついでにシャルマの可愛さも理解するんだ! そして、秋葉原で買ったシャルマの薄い本も読ませてやる! 男性の本能に忠実なお前なら、メイドの良さもシャルマの可愛さも必ず理解できるぞ!」
「あ、うん、分かった……」
シャルマの薄い本って何なんだろう? 番外編とか?
森斗は色々と疑問に思ったが、ややこしいことにしたくないので口には出さなかった。
漫画本のオススメを終えて、春臣がほっこりとした顔で携帯を見始める。どうやら、撮影したマリアの写真をチェックしているようだ。
その一方、ウェイトレス扱いされたマリアはまだ荒ぶっていた。
「ぐぬぬ、メイドと認識してもらえなかったのもアレですが、何よりも森斗さんが全然ときめいていなさそうなのが悔しいです! えぇい、こうなったら奥の手です……いでよ、魂の六十デニール!」
彼女は椅子に片足を乗せると、おもむろにスカートの裾をめくりあげる。
すると、黒地のストッキングに包まれた彼女の美脚が露わになった。格子柄が脚部のラインに合わせて膨らんでいる。表面は艶やかな光沢を持ち、それでいてわずかに肌の色を透けさせていた。
マリアがさらにスカートを引き上げると、ストッキングを吊っているガーターベルトまでも見ることができた。健康的な太ももに吊り紐がピッタリと張り付いている。吊り紐の先を視線で追いかけるが、その先は残念ながら深淵ばりに深い暗がりの中だ。
「ほら、JKでメイドで黒ストでガーターですよ!? これで興奮しなかったら男の子じゃないですよね。携帯電話で写真を一枚いかがですか? いや、森斗さんが相手だったら動画だって許しちゃいます。言って欲しい台詞も随時受付中です!」
「ううむ、これはなかなか……」
森斗は思わずマリアの脚線美を鑑賞してしまう。
どうして、こんなにも女性の脚部は男性を魅了してしまうのか……。
そして、森斗が指先でストッキングをなぞろうとした時のことである。
ヒュッと風を切る音が耳元で聞こえたかと思うと、彼の背後にある掲示板に鋭く削られた鉛筆が突き刺さっていた。
気が付けば、シルフィがこちらにゴミでも見るような目を向けている。
「……集中できない。私のそばで変態的行為には及ぶな」
「ありゃりゃ、仕方ないですねー」
マリアは残念そうに椅子から足を下ろした。
シルフィが掲示板まで投擲した鉛筆を回収しに来る。
その際、マリアが彼女に向かって耳打ちをした。
「本当はシルフィさんも着たいんじゃないですか?」
「そっ、そんなことはないぞ……」
掲示板に半分ほど突き刺さった鉛筆を抜き取るシルフィ。
彼女の背中にぴったりとくっついて、マリアがさらに問いかけた。
「そうですか? シルフィさんはフリフリのお洋服が大好きだと、風の噂で聞いたことがあるのですけど……。それに、ほら、」
マリアがなぜだか森斗の方に視線をやる。
シルフィも彼女に釣られて、思わず彼に目を向けてしまった。
森斗は女子二人から視線を向けられて、よく分からずに疑問符を浮かべている。
一体全体、シルフィとマリアは何の話をしているんだろう?
「……いいんですか?」
マリアがニヤッと愉悦に浸る。
シルフィは彼女を振り切ると、
「何が『いいんですか』だ。私はもう知らないぞ!」
作業台に戻って、また黙々とスケッチブックに向かって絵を描き始めた。
面白くないですねー、とマリアがため息をつく。
「今日のところはこれくらいにしておきましょう。ですが、美術部のロッカーには素晴らしいクオリティのコスチュームがなぜかいくつも眠っています。これから、シルフィさんを第二第三のコスチュームが襲うことでしょう……」
彼女はそう言うと、ロッカーがあるバックヤードに引っ込んだ。
しゅるしゅると衣擦れの音が聞こえるので、その場で着替えているのだろう。ちゃんとした仕切りがあるわけでもないのに大胆なことをする子である。
「抜け駆けするなよ。まだ勝負を仕掛けるタイミングじゃない」
森斗の肩を掴んで、シリアスな表情で警告する春臣。
彼はいつの間にかスクールバッグを抱えていた。
「あれ? 春臣はもう帰っちゃうの?」
「残念ながら今日はアルバイトなんだ。やむを得ないがさっさと帰るぜ」
春臣が森斗にわら半紙を一枚手渡す。
それはまだ記入されていない入部届だった。
「長山先生は教官室にいるから、とりあえず入部届だけ出しておけよ。シルフィちゃんとマリアちゃんは先に提出しちゃったから」
「分かった。細かいことまでありがとう」
展示パネル……の向こう側で着替えているであろうマリアに一瞥くれてから、春臣は泣く泣く美術室から出て行く。
森斗はサラサラと入部届に記入して、それを持って教官室のドアを叩いた。
部屋の中から「入っていいぞー」と野太い声が帰ってくる。
ドアを開けて入ると、すぐさま天井に届きそうな巨大パネルが目に入った。どうやら、複数のパネルを組み合わせて一枚に合体させているらしい。淡いパステル調の色合いをした抽象画で、シャボン玉のような円がパネルの上を漂っている。
で、その絵を描いているのはヒゲ面の大男だった。
趣味は山ごもり、特技は熊を投げること――という風にしか見えない男である。
「長山先生ですか? 入部届を書いてきました」
「ん、そこに置いておけ」
森斗に目もくれることなく、長山は作業机の方を指さした。
作業机にはシルフィとマリアが先に提出した入部届が置かれている。そして、文鎮の代わりとして美少女フィギュアが上に重ねられていた。よくよく見ると、先ほど春臣から渡された漫画のヒロインのシャルマにそっくりである。
フィギュアの下に入部届を差し込んで、森斗は教官室をそっと退室する。
すると、セーラー服に着替えたマリアが待ちかまえていた。
「提出できました?」
「先生から一言あるのかと思ったけど何もなかったね」
そこで、森斗は彼女もまたスクールバッグを持っていることに気づく。
「マリアも帰るところなの?」
「えぇ、私もちょっと用事があるんです。本当はメイド服の魅力で森斗さんをメロメロにしたかったのですが、どうも森斗さんには響かなかったようですね。思い切ってガーターベルトまでチラ見せしたのに……」
「いやいや、非常に魅力的だったよ。素晴らしいものを見せてもらった」
マリアに言った通りに動画撮影しておけば良かった、と今になって後悔する森斗。
後悔先に立たずだな、と今日も新しい教訓を得る。
「それでは、また明日」
にこりと微笑むマリア。
彼女はそれから、唐突に森斗の耳元に顔寄せる。
帰るんじゃなかったのかと彼が疑問に思っていると、マリアが小さな声で耳打ちをした。
「午後六時、駅前のハンバーガーショップで待っています」
「……えっ?」
「二人きりで話したいことがありますから」
森斗に確認する間も与えないで、彼女はそのまま美術室から出て行ってしまう。
ただの冗談ではないのだろう……狩人としての勘が森斗にそう伝えていた。




