13 悩める三人の高校生
「朝日が眩しいわ……」
オフィスで朝を迎えるのは今日で何日目だろうかと、グリム機関所属のエージェントである葛原美希は思い返そうとした。
グリム機関東京支部のオフィスは、都心にある高層ビルの内部に存在している。高層ビルは複数の企業が利用していることになっているが、実際はそれが全てグリム機関の施した偽装工作だ。実際は全ての企業がグリム機関の関連会社なのである。
革張りの椅子に深く腰を鎮めて、美希は目を覚ますために煙草を吸っていた。最上階に近しいこの場所には、遮蔽物に遮られることなく強烈な朝日が差し込んでいる。それもまた、今はほどよい眠気覚ましになってくれていた。
美希はウェーブのかかった茶色の髪を手で梳く。シャワーくらい浴びておこうか。暇ではないのは明け方くらいなものである。思い切って、自宅まで一度戻ってみるのもありだろうか。スーツも新しいものに着替えておきたい。
一時間も掛からないと思うが、誰か留守を任せられるやつは……。
美希は周囲を見回す。
オフィスの様子は一見したところ一般企業と変わらない。パソコン、ファイル、資料の山、徹夜明けで疲れた表情の構成員たち。ただ、資料の中身を覗いたら最後、平穏な現実世界には戻ってこられない。そこには世界中の異端者に関するデータがまとめられている。凄惨な事件現場の映像も容量が足らなくなるほど存在する。
森斗とシルフィが大神事件に関わるより前から、東京支部は慌ただしいことになっていた。上層部は事態を把握しているようだが、美希の階級では全てを知ることができない。何を考えているか分からない上と、何も知らされずに働き続ける下を中継するだけだ。
「美希さぁーん……」
そのとき、情けない声を上げてオフィスに駆け込んでくるのが一人。
美希の後輩である女性エージェントの不知火理緒である。
彼女も美希と同じくスーツ姿だが、見た目はただのOLといった感じだ。どうしてグリム機関のような場所にいるのか、見た目からは想像が付かない。ただ、そんな理緒の柔らかな容姿が激務のオフィスでは癒しとなっていた。
「理緒、どうしたの?」
美希がいる目の前で、理緒はデスクにべたーんと突っ伏した。
「香港支部から報告が来たんですよ。狩人一名が死体になって発見されたって!」
「はぁっ!?」
思わず聞き返してしまう美希。
「香港の事件は昨日解決したはずじゃないの。異端者は殲滅。シルフィが勝手に仕事を離れたあとも、残りのメンバーで十分に対応できたわ。まさか、打ち上げで酔っぱらったあげく、川にでも落っこちたんじゃないでしょうね?」
「それが、まぁ、実に不自然でして……」
理緒は抱えていたファイルを開いて、資料に改めて目を通した。
「異端者を倒したあと、狩人はグリム機関が用意した住まいに戻りました。そのあと、深夜になって外出しています。コンビニに行ってくると同僚に言葉を残していました。それから連絡が付かなくなって、今朝方になって路地裏に倒れていたのを発見されたと」
「すでに死んでいたのね?」
「そのようです。けれど、不可解なのが一点ありまして……彼には争った形跡があったのですが、なぜか異端者と戦った形跡が見つからないんです」
確かにそれは不可解だ、と美希も同意する。
異端者は多くの場合、肉体が大きく変質している。そして、魔法や超能力といった超常的な技を持ち合わせていることもある。異端者との戦闘が行われると、そういった物理法則を無視したような破壊の痕跡が残るものなのだ。
理緒がぱらりと資料をめくる。
「けれど、狩人の全身には打撲の形跡があり、直接的な死因は首を絞められたことによる窒息死でした。正面から殴り合ったあと、絞め技を掛けられて殺されたとしか思いません。とはいえ、殺されたのは一流の狩人ですから――」
「……相手も狩人である可能性があるわね」
美希は煙草の煙をふぅーっと吐いた。
「正面からの殴り合いになるほどだもの。相手は顔なじみだったとも考えられる。ただ、それだけで全ての筋が通るわけでもない。あくまで仮説の一つと考えておきましょう。東京支部が追っている問題に影響が出なければいいけど……」
「ですね。本当、久々にしんどいくらいに忙しいですから」
自宅に一度帰宅する前に、まずは忠告だけでもしておくべきか。
美希は携帯電話を手に取ると、担当する狩人に朝一番の電話を掛けた。
×
「――えぇ、分かりました。十分に注意しておきます」
上司である美希との連絡を済ませて、森斗は携帯電話の通話を終わらせた。
狩人が死亡したという話は頻繁でこそないが、かといって珍しい話というわけではない。人知を越えた怪物たちとの戦いに身を置く以上、仲間の死は幾度となく経験することになる。不幸中の幸いなのは、森斗はまだ面識ある相手を失っていないことだろう。
ただ、一応は「注意しておきます」と言ってみたものの、どのように注意すればいいかは不明瞭である。敵の正体も、狩人を襲った意図も分からない。姿形のない何かを警戒するのは骨が折れる。
森斗は念のため、愛用している自動拳銃を持っていくことにする。学生服の下にホルスターを着用して、自動拳銃と換えのマガジンを忍ばせた。異端者対策のために銀の弾丸を装填しておく。人間相手でも威力は十分過ぎるほどだ。
それから、スクールバッグに教科書とノートがちゃんと入っているかを確認する。昨日、遊ぶのに夢中ですっかり宿題を忘れてしまったので、またミスをやらかしては大変だとチェックは念入りだ。
スクールバッグを肩に掛けて、森斗はマンションの自室から出る。
それから、ちょうど真下であるシルフィの部屋に向かった。
香港の事件も気になるが、それと同じくらいに気になるのが昨晩のことである。
シルフィが(ノンアルコールビールで)べろんべろんに酔っぱらって、森斗の部屋まで乗り込んできたあげく、お姫様抱っこで送還されたことについて、果たして彼女はどんなリアクションを見せるのだろうか。
「いざ――」
森斗がインターフォンの呼び鈴を押そうとしたところで、
「うわっ、なんだ……いたのか」
ドアを押し開いて、セーラー服+赤パーカー姿のシルフィが自室から出てきた。
彼女は昨晩のことなど何もなかったかのように、ただ純粋に森斗が待ちかまえていたことに驚いている。
「私たちは同僚だが、わざわざ待ち合わせて登校することはないと思うぞ? マリアだって朝の待ち合わせについては何も言わなかったじゃないか」
「いや、まぁ、せっかくだからと思って……」
状況を確かめようと迎えに来たのが、逆に不信感をあおる結果になってしまったか。
先に登校した方が良かったかな、と森斗は判断違いを後悔する。
ただ、シルフィは昨晩のことを何も言い出してこない。おそらくは酔っている最中のことを何も覚えていないのだろう。ポストに鍵が投げ込まれていることも、自分が酔っぱらっている間にしてしまったのだと勘違いしているのかもしれない。
森斗とシルフィはマンションを出ると、二人並んで登校ルートを歩いていった。
周囲には稀野学園に向かう中高生の姿がチラホラと見える。通りかかったバスを見ても、今の時間帯、乗客は学生ばかりになっていた。これが先日まで、人狼の脅威にさらされていた街の風景だとはピンと来ない。
「香港の一件についてはどう思う?」
シルフィがエメラルド色の瞳を向けた。
森斗は自分なりに考えて答える。
「狩人同士の喧嘩……なんてことはないよね?」
「ないだろうな。だとしたら、とっくに犯人は割れているはずだろう。狩人が狩人を殺す場合があるならば、それは上が本気で仕組んだ暗殺だけだ。それはそれで、非常に厄介なパターンだがな……」
苦々しい表情のシルフィ。
不利益をもたらす存在であれば、たとえ狩人であろうとも容赦なく攻撃する。それがグリム機関の方針だ。そういった事例が森斗の耳に入ってこないのは、裏切り者の存在が上にもみ消されているからである。
「けれど、暗殺するにしてもやり方がおかしい」
森斗は不可解な状況に頭を悩ませる。
うーん、とシルフィも唸った。
「暗殺するなら正面から殴り合う必要はない。ならば異端者の仕業か? だが、正面から殴り合う理由が見つからない。死体で見つかった狩人は好戦的な男だったと聞いている。異端者と一人でやり合ってしまう可能性は否定できないが……」
チラリとシルフィのことを見やる森斗。
確かに異端者と一対一でやり合ってしまう狩人は存在するだろう。
一応、口に出すことは流石に控えておく。
「敵対組織の異端者か、あるいは人間の暗殺者か……いずれにせよ、まともな相手ではないだろうな。香港を狙ったところも気になる。私が放り出した一件の残党がいたのか。それとも、全く別の勢力なのか。ぐぬぬ、情報が少なすぎる」
シルフィが悔しがってギリギリと奥歯を噛みしめる。
人狼化していなくてもそこそこ尖っている八重歯が覗いていた。
そうこうしているうちに二人は稀野学園にまでやってくる。
下駄箱で上履きに履き替えるところで、シルフィが森斗に向かって尋ねた。
「……そういえば、今日のお弁当は作ってきたのか?」
「ちゃんと作ってきてあるよ」
森斗はスクールバッグを指さす。
「というか、あんなに色々と言ってたけど、やっぱり期待してくれてるんだね」
「べ、別に期待しているわけじゃない。約束が守られないのは困るという話だ。購買や学食を利用しても良いが、変に注目を浴びてしまうのが目に見えている。ならば、最初から私たちだけで固まってしまった方がいいだろう?」
勘違いするなよ、とシルフィ。
「分かった。なるべく勘違いしないようにする」
森斗は彼女の忠告を素直に受け入れるが、シルフィはなぜだか不服そうな顔をしている。
二人が二年一組の教室に入ると、そこにはすでに春臣の姿があった。
彼はクラスメイトの男子たちと話していたのだが、二人のことを見つけるとおもむろに近寄ってきた。そして、森斗の肩をガッと抱き寄せると、怪訝そうな表情をしているシルフィから引き離した。
春臣が小声で問いかける。
「おいおい、森斗。シルフィちゃんと一緒に登校とはどういうことだ?」
「……たまたま会ったから、一緒に来ただけなんだけど」
同じマンションで一人暮らしをしている事実は、伏せておいた方が良いだろうと森斗は判断する。自分たちが同業者であることを察知されるような情報は与えたくない。知らない方が春臣のためにもなる。
「お前がどんな方法でシルフィちゃんと仲良くなったかは知らないが……すでに俺たちは男子どもの間で評判だぜ? なんたって、美少女転校生を二人まとめて入部させたんだからな。今朝もクラスメイトたちから質問されまくりだ」
「うーん、別に特別なことはしていないよ?」
何の気なしに答える森斗。
春臣が言った通りにクラスメイトからの視線はひしひしと感じられる。
だが、本当に特別なことはしていないので反応のしようがない。
「優秀な答えだ。やつらから質問されても、そう答えておけば問題ない。クラスメイトのやつらにシルフィちゃんとマリアちゃんを奪われてたまるかってんだ。だが、俺にはどうやってシルフィちゃんと二人で帰れたのか教えてくれよ、マジで」
それから、春臣は席に着いているシルフィに声を掛けた。
「おう、シルフィちゃん。今日は顧問の長山先生がいるから、入部手続きも済ませられるし、絵を描くことだってできる」
その言葉を聞いて、シルフィの表情が微かに明るくなる。
「それは良かった。何かに集中したい気分なんだ」
「なんだったら、絵の描き方は俺が教えるぜ? これでも高校に入ってからの一年間、かなりガチで絵の練習はしてきたからな。なんたって、美大を目指してるからな。趣味でそこそこ描いてるくらいのやつには負けてないつもりだ」
ここぞとばかりにアピールをする春臣。
ただ、シルフィには暖簾に腕押しといった感じだ。
「ありがとう、春臣。絵で困ったら質問させてもらう」
優しくあしらわれたことに気づいていないようで、春臣は軽やかなステップを踏んで森斗の席まで戻ってくる。
「やったぜ、森斗。シルフィちゃんにありがとうって言われちゃったぜ!」
「いいなぁ……。僕だったら、そう簡単にお礼を言ってもらえないよ」
それこそ、命懸けになるくらいの気合いが必要だ。
上機嫌になった春臣と話をしているうちに、予鈴が鳴ってホームルームの時間が迫る。
廊下からクラス担任の諸岡が入ってくると、ばらけていた生徒たちが渋々といった様子で席に戻り始めた。
諸岡が教壇からクラス全体を見回す。
「誰かが休むという連絡は受けていないが……西園寺が見当たらないな?」
生徒たちの注目がマリアの机に集まる。思い出されるのは昨日のことだ。転校初日から遅刻しそうになった彼女は、上履きを叩きつけるような足音と共に現れた。あのときのインパクトはなかなか忘れられるものではない。
「誰か、西園寺から連絡を受けたものは――」
そして、諸岡が生徒たちに質問しようとしたときである。
校庭の方からヘリコプターの飛ぶ音が聞こえてきた。
都心から多少ズレてはいるが、稀野学園がある場所も東京都下である。頭上をヘリコプターが飛んでいくこともたまにある。だが、今日に限ってはプロペラの回転する音が、かなり低い位置から聞こえていた。
窓際の生徒が指さして叫ぶ。
「おっ、おい、ヘリコプターが降りてくるぞ!」
途端、クラスメイトたちが一斉に窓側に詰め寄った。
一同揃って考えていることは同じだろう。
森斗とシルフィ、それから春臣も席を立って校庭の様子を観察する。
案の定、空から舞い降りてきたヘリコプターには『西園寺グループ』という文字がでかでかと書かれていた。
ヘリコプターが校庭に着陸すると、側面ドアが引き開けられる。そこから出てきたのはもちろんマリアだった。彼女にスクールバッグを持たせる執事の姿まで見える。執事って。マリアを送り届けると、すぐさまヘリコプターは離陸した。
ヘリコプターをぽかーんとして見送る生徒たち。
その機影が見えなくなった頃、マリアが廊下から教室に飛び込んできた。
「寝坊したにもかかわらず、あっと驚く方法でホームルームに間に合わせましたよ! 流石は西園寺さん、クールで大胆で知的です! 今日も一日、楽しくいきましょうね☆」
クラスメイトたちの間で拍手が起こる。
あきれを通り越して、一周回って感動してしまったのだった。




