01 グリム機関の赤頭巾
薄汚い路地裏を赤色のシルエットが逃げている。
追跡者は三人。
深夜のコンビニにたむろしていそうな、バイクを吹かして走り回っていそうな、駅前通りでナンパでもしていそうな――そういった類の若者たちだ。分かりやすく判別するため、彼らのことを『ヒゲ男』『ピアス男』『タトゥー男』と仮に呼称する。
逃げ回っている赤色のシルエットはとても小さい。
少なくとも成人女性には見えない。
街頭に照らし出される顔立ちからは幼さが感じられる。
彼女はビロードのような光沢がある素材の真っ赤な頭巾をかぶっている。その下はロリータ調のドレスを着込んでいるが、ことごとくどぎつい赤色を基調としていた。暗がりでは闇に良く溶け込み、月明かりの下では異様に目立つ色合いだ。
彼女の動きは素早く、まるでテールランプが尾を引くように軌跡を残している。追跡者のヒゲ男、ピアス男、タトゥー男は大汗をかいているのにもかかわらず、赤頭巾の少女は疲れた様子一つ見せない。小石をまたぐかのように、軽々と路上のゴミ箱を飛び越える。その身のこなしは山猫のように俊敏で鋭い。
丁字路を右に曲がって、彼女はビル同士の隙間に入り込む。
が、ここで行き止まり。
赤頭巾の少女は、彼女の背丈の倍はあろうかというコンクリート壁に突き当たってしまう。飛び越えることはおろか、よじ登ることすら難しいようにしか見えない。遠くから電車の通る音が聞こえてくるだけで、近くに第三者の気配はない。助けを呼んでも無駄だろうし、第三者がいたところで助けてくれる確率は低いだろう。
彼女が振り返ると、ちょうど三人の追跡者が追いついてきたところだった。
三人とも汗まみれだが、瞳はギラギラと強く輝いている。この程度ではへこたれていないらしい……否、むしろ先ほどの逃走劇がさらに彼らの欲望を強くかき立てたようだ。標的が逃げようとするほど、なおのこと追いつめたくなる嗜虐的心理である。
ヒゲ男が上着のポケットから、これ見よがしに折りたたみナイフを取り出す。
彼はナイフを開いて、その切っ先を赤頭巾の少女に突きつけた。
「俺たちの狩りをよくも邪魔してくれたじゃねえか! お嬢様学園の生徒なんか、俺たちでもなかなかヤれないんだぜ。あとは人気のないところに連れ込むだけだったのに……お前さえいなければっ!」
ヒゲ男の怒鳴り声が赤頭巾の少女に叩きつけられる。
だが、彼女はまるでキャッチセールスをあしらうように彼の言葉を聞き流していた。
反応がないと見て、今度はピアス男が声を張り上げる。
「どう落とし前を付けてくれるんだよぉ! 女どもが逃げちまったことも、この俺に付けてくれた傷のこともよぉ!」
ピアス男は右のまぶたを大きく腫らしていた。よほどの勢いで殴られるか、堅いものをぶつけられなければこんな怪我はしない。そして実際のところ、赤頭巾が投げた缶ジュースの直撃を受けていたのだ。アルミ缶が裂けて、中身が吹き出すほどの衝撃だった。
「ジャケットまでジュースまみれ、血まみれだっ! 金を払ったって済まされねぇぜ!」
それから、タトゥー男も下卑た笑いを浮かべて距離を詰めてくる。
「お嬢様とヤれなかったのは残念だが、代わりにこいつをヤっちまえばいいだろ? こういうクソ生意気な女を真っ裸にして、白目剥くほど痛めつけるのが俺は好きなんだ……ぐへっ、ぐへへへへっ!」
変化はすでに起こり始めていた。
少女に迫る三人の若者たち。
彼らの肉体が少しずつ大きく、強靱に変化し始める。瞳は血走り、八重歯が鋭く突き出て、大きく裂けた口からは唾液がしたたり落ちた。服が裂けてしまいそうなほどに筋肉が盛り上がり、肌の色はどす黒くなっていく。髪の毛が倍以上に伸び、体の所々から針金のような体毛が突き出した。
衝撃的な出来事は人間の脳に強く、深く刻み込まれる。それ故に時間がとても長く感じられる。グロテスクな肉体の変化は、すぐ目前で目撃していたら数分の出来事に感じられるほど印象的である。だが、実際はわずか十秒に満たない間だった。
三人の若者は今や、見まごう事なき怪物に変化していた。
こういった怪物の呼び名は決まっている。
グールだ。
彼らは極度の興奮状態に陥り、その身を怪物グールに変身させたのである。
だが、対峙する赤頭巾の少女は怯える様子を見せない。それどころか、不敵な笑みを浮かべているのだった。その表情からは余裕が感じられる。彼女を本気で狩ろうとする若者たちが、その表情を目の当たりにしてどう反応するかは想像に難くない。
グール化したヒゲ男が、右手の折りたたみナイフと一緒に、左手の鋭いツメを彼女の首筋に突きつける。
そのまま少しだけツメを前に突き出せば、少女の皮膚が大きく裂け、そこから大量の血液が噴き出すことだろう。人間の肉体と、異形のものに変化した肉体では、そもそもの頑丈さが比較にならないのだ。
「なァに余裕をぶっこイてんだァ、赤頭巾チャンよォオ……ッ!? グールになっタ俺たちにかかれば、人間のてめェは豆腐みたいにバラバラにできるンだぜぇ……」
「――話にならない」
少女が彼の言葉を切って捨てる。
「オオカミは赤頭巾を狩る側だと、いつから思いこんでいた?」
瞬間、彼女の右手が真一文字に振り抜かれた。
そして、ゴロン……とグールの生首が地面に落ちる。ボウリング玉を投げ捨てたような、人間の頭部の重さをリアルに感じさせる音が響く。そして、切り離された胴体からは噴水のように高く高く血液が吹き上がった。
グール化したヒゲ男の首が跳ね飛ばされた。
残り二体のグールは、その耐え難い事実を認識して気圧される。
「なッ、こ、こいつ、首ヲ切断しやガったのか!?」
「こんナ小さな女に……ありエねぇっ!!」
現実を受け入れたくない気持ちを露わにする二人。
振り抜かれた少女の右手には刃物が握られている。それは大振りのナイフ、あるいは小型の両刃剣と表現できるだろう。刀身が逆くの字に折れ曲がった独特なデザインをしている。そして、刃にはグールの血液がべったりとまとわりついていた。
戦わなければ死が待っている。
それを理解して、ピアス男のグールが自分を奮い立たせるように雄叫びを上げた。
「うっ……う、うォオオオオオオオッ!!」
彼は両腕を振り上げて、赤頭巾の少女に襲いかかる。コンクリートビルの壁面を鋭く伸びた爪がガリガリと削り取った。太く、長くなった彼の両腕は、完全に道を塞いでいる。爪が触れたら切り裂かれ、掴まれたらトマトのように握りつぶされてしまうだろう。
ツメが振り下ろされる。
が、グールの両腕は少女に届かない。
寸前、少女は両手を空に向かって振り抜いていた。
大振りのナイフを握っていたのは右手だけではない。左手にも一本、同じものが握られていた。そして、彼女は二本のナイフでグールの両腕を高速で切り上げていたのである。ピアス男のグールはそれを視認できなかったが、自分の両肩から先が軽くなっていることだけは感じ取っていた。
音もなくグールの両腕が斬り飛ばされ、ネズミ花火の如く回転しながら血液を吹き出す。突如襲いかかってきた激痛に、彼の目玉はひっくり返って白目を剥き、悲鳴も上げられずに引きつったような声をわずかに漏らした。
少女は大きく前に一歩踏みだして――叫んだ。
「地獄の底で悶え続けろッ!!」
二本のナイフをグールの腹部に突き立て、目にも留まらぬ速度で皮膚を、筋肉を解体していく。そこから吐き出されるのは薄汚れた血液と、鼻の曲がりそうな匂いを放つ臓物だ。だが、少女の手つきは芸術的とも表現できるほど鮮やかだった。
少女の口元がニヤリと歪む。
出来上がった死体が地面に崩れ落ちて、残すところはタトゥー男のグールだけである。
「ヒィイイッ! こっ、殺さレるゥウウウウッ!!」
彼の判断は素早かった。
残された一体は情けない悲鳴を上げて、大きく後ろに跳び下がる。それからビルの壁を連続で蹴り上げて、さらに屋上へと逃げようと試みた。そこから屋根伝いに逃げ切ろうという算段なのは明白だった。
が、ここで二発のくぐもった銃声が路地裏に鳴り響く。
死角から放たれた二発の弾丸が、グールの左右の太ももを貫いたのである。
タトゥー男のグールは空中でバランスを失い、壁蹴りに失敗……その体は十メートル以上の高さから激しくアスファルトの地面に叩きつけられた。巨大化した肉体の重さから、アスファルトに亀裂が走る。
コツン、と足音。
三体の無力化を確認したところで、丁字路の陰から一人の少年が姿を見せる。
赤頭巾の少女とは対照的に、現実的な黒いコートを身にまとっている。顔立ちは悪くはないが、周りに大勢の人がいたら埋もれてしまいそうな印象だ。跳ね返りの強い髪質と、縁の太い眼鏡をしているところが数少ない記憶に残りやすいポイントだろう。
革グローブに包まれた彼の右手には、無骨なデザインの自動拳銃が握られている。ツヤがない黒のフレームで、銃口には消音器が取り付けられていた。足下には使用済みの空薬莢が二つ落ちている。
少年は空薬莢を拾いながら、赤頭巾の少女をいさめるように言った。
「……危うく逃がすところだったじゃないか、シルフィ」
シルフィと呼ばれた少女は、返り血に濡れた頭巾をそっと脱いだ。
赤頭巾の下から露わになったのは、透き通るように美しい銀色の髪、エメラルドのようにきらめく瞳、艶やかな桜色の唇……まるで西洋人形のような顔立ちの少女だった。ほぼ一瞬の出来事であったが、激しい戦闘を終えた彼女の頬は赤く上気していた。
少女の身長は145センチあまりで、背丈が175オーバーはある森斗と並ぶとなおのこと小さく感じられる。彼女は現在十六歳なのだが、幼げな顔立ちのせいもあって年相応にはどうしても見えなかった。
シルフィ・ローゼン――それが生粋のドイツ人たる少女の名前である。
愛想良くすれば可愛らしい風貌の少女なのだが、彼女の目つきはジトッと濡れたように陰っていた。常に睨み付けているようにしか見えない。幼顔と低い身長のおかげで、その鋭い目つきのトゲトゲしさがどうにか抑えられている状態だった。
「別に……森斗が仕留めなくても私が追撃できた」
シルフィがぶっきらぼうに言ってくる。
彼女の視線が「邪魔しやがって……」と克明に語っている。
森斗と呼ばれた少年は、両足を撃ち抜かれたグールを見下ろした。
否、すでに彼はグールから人間に戻っていた。
鋭い八重歯やツメも元通りになり、伸びた体毛も抜け落ちている。巨大化していた肉体は小さくなって、人間のときから比較的大柄ではあったが、先ほどのグール形態を見ているとなんとも貧相に思えてしまった。
呼吸はしている。
タトゥー男は拳銃で両足を撃ち抜かれ、地面に叩きつけられて全身打撲を負いながらも、ギリギリ生きながらえていたのである。森斗とシルフィの間で視線を右往左往させながら、彼は自分の不運を呪っているようだった。
「シルフィが追いかけていたら絶対に殺していたよ。無駄な殺しはダメだ」
「化け物を殺して何が悪い」
「何が悪いって……」
森斗はため息を一つして、それから路地に向かって呼びかけた。
「処理班のみなさーん、袋は二つでお願いします!」
すると、路地の奥から真っ白な防護服を着た人々が現れる。掃除機のような洗浄器具を担いでいるもの、洗浄液の入ったタンクを担いでいるもの、グールが入るサイズの袋を抱えているものなど、彼らにはそれぞれ個別の役割が与えられていた。
「いやいや、シルフィさん。ずいぶんと派手にやってくれましたね」
「すみません、みなさん。僕がもっと早く行動を起こしていたら良かったんですけど……」
森斗が頭を下げると、処理班の一人が否定するように右手を振る。
「ハハハ、大丈夫ですよ。我々もプロですから、これくらい朝飯前です」
「班長、これ終わったら上がりですよね? 飲みに行きましょうよ、飲みに!」
「おっと、今年の新人は元気が良いな。肉料理で吐くんじゃないぞ?」
彼らはとても慣れた手つきで、迅速にグールたちの死体を運び出てし、それから現場に残った血痕を処理していく。血みどろの惨状だった路地裏が、先ほどの惨劇など嘘のように綺麗になってしまうのだった。アスファルトの亀裂までなくなっている。
「く、くそ……どうして、俺たちがこんな目に……」
タトゥー男がギョロリとした目つきで二人を睨み付ける。
「どうして、だと? 自業自得、因果応報だ」
幼さの抜けきらない声で言い放つシルフィ。
彼女はタトゥー男の傍らにしゃがみ込むと、ナイフの尖端を彼の胸に突きつける……いや、突きつけるという表現は間違っている。先端が皮膚を貫き、筋肉を裂き、肋骨にまで到達して食い込んでいるのだ。
タトゥー男が吐血してうめき声を漏らす。
「お前たちに力を与えたのは誰だ? 教えれば楽にしてやる」
シルフィは問いかけるが、彼はうめき声を漏らすばかりで答えようとしない。
すると、彼女は大振りのナイフでゆっくりと若者の胸を裂き始めた。
「強情なやつだ。どれだけ耐えられるか……」
ナメクジが這うような速度で、ゆっくりと、刻みつけるようにして体に問いかける。頭巾から垂れたシルフィの銀髪が、タトゥー男の血液を吸って赤く染まっていった。銀髪が血液を吸うほどに、彼の生命は失われていく。
タトゥー男の耳元でシルフィが囁いた。
「この武器はグルカナイフと呼ばれるものだ。かつては狩猟用にも使われており、獣の皮を剥ぐこともできる。そして、私は獣の皮を剥ぐのが得意だ。生きたまま皮を剥がれることは苦しいぞ。失血死するのが先か、発狂死するのが先か……私の経験で言えば五分五分といったところだ。で、どうする?」
ナイフの切っ先が皮膚と筋肉の隙間に差し込まれる。
タトゥー男は口から泡を吹きながら「話す、話すから……」と息絶え絶えに答えた。