オトナ記念日
一年を賭けた冬が終わった。朝から夜まで机にかじりつき、予備校に向かう電車の中では単語帳を開く。そんな受験生としての冬が。後悔のない結果は残せたと感じている。
しかし……。
私は今、大いに迷っている。私の目の前にはカラフルなページが開かれ、そこからたくさんの女性がこちらに微笑みかけている。私ってきれいでしょう。私を選びなさいと言わんばかりに。
「ゆみちゃん決まった?」
ひょいと顔を出したのは智美のお母さん。美容師さんでもある。そして、ここは智美の家兼お母さんのお店、つまり美容室。私はここで30分ほど前から頭から湯気が出そうなほど悩んでいる。そのきっかけを与えたのは智美だった。
それは三日ほど前のこと。私と智美はお互いの合格を祝おうということで駅前のショッピングモールで待ち合わせていた。いつもの通り20分ほど遅れてくるという智美。もう10年以上の付き合いで彼女の遅刻癖には慣れてしまった。来たらいつも通り文句の一つでも言ってやろう。でもこれまたいつも通り軽く謝られて許してしまうだろうことは簡単に想像がつく。思い返せばこれまで智美が時間通りに来たことが何回あったっけと考えると、もはや苦笑しか出てこない。
「ゆみー」
後ろから聞きなれた声がして振り向く。文句を言おうとした私の口は開かれたまま動かなくなってしまった。いつも高めの位置に一つに束ねられていた黒髪は少し茶色味がかっており、肩のあたりでふんわりと毛先をあそばせてある。頬にはうっすらと可愛らしいピンク色が乗せられ、唇もつるんと紅がひかれている。耳には控えめに小さなリボンがあしらわれたイヤリング。そして、何よりも驚いたのがその服装だった。智美の私服はジーンズにシャツしか見たことがない。しかし、今日はギンガムチェックのブラウスに白いふんわりとした膝までのスカート。羽織っているレモン色のカーディガンには上品なパールのようなボタンが付いている。まるで智美が一足先に大人になってしまったようだった。
「ゆみー、どーしたのー」
その間の抜けたしゃべり方はいつも通りの智美で少し安心した。
「何でもない。てか、たまには遅れてきてごめんくらい先に言いな」
「ごめんごめん」
「反省の意が見られない」
「ごめんってば。でさ、今日どこ行く?」
これでしょうがないなと許してしまう自分はつくづく甘いと思う。
「智美待ってたらおなかすいた。お昼にしよう」
「りょーかい。いつものファミレスでいいよね」
幾度通ったか分からない馴染みの道を今日も二人で歩く。その二人からもう高校生というレッテルがはがされてしまったことに違和感を覚える。小学校から中学校、中学校から高校に上がるときにはなかった違和感。
「お待たせしました。ミートソースパスタとクリームパスタです」
智美がほいとフォークとスプーンを差し出す。一応、遅刻の反省を示そうとしているようだ。
「ありがと」
「にしても、お互い進路何とかなってよかったよね」
「だねー。秋までゲームにはまってた智美と同じ結果っていうのは複雑だけどね」
「ココの出来がちがうのよ」
智美はちょんちょんと人差し指で頭を指す。
「あっそ」
こんなしょうもない会話が心地よい。
「智美さ、なんだか変わったよね」
これもそのしょうもない会話の中の一つだった。
「パーマと化粧のせいだよ。お母さんがうるさくて」
「美容師さんだもんね」
「そうなのよ。大学生なんだから見た目にも気を使えってさ」
「やっぱりそうなんだ」
「じゃなきゃこの私がこんなことすると思う?」
智美はきれいに染められた髪を一束持ち上げた。
「絶対にないね」
「でしょ。でもさ、大学生は"オトナ"みたいなもんだからってさ」
「だよね。私もしなきゃだよなー」
「したいんなら、ウチですれば?お母さんに頼んどいてあげるよ」
「いいの!!お願いしたい」
「もちろん」
あのとき、勢いで言ってしまったそれによって私は今この状況に陥っている。大学に入るまでに変わりたい。オトナになりたい。そう思う気持ちはずっとあった。
ふわっとした栗色の髪。風に軽やかに舞う黒髪に大きめの髪飾りも素敵。うっすらお化粧もして、ぱっちりとした大きな瞳にピンク色に染められる頬。そんな容姿に憧れる。たぶん、たいていの女の子は同じようなあこがれを抱いているはずだ。いたって普通の願望。でも、私には出来なかった。勇気が足りなかった。どう頑張っても中の中のスタイルに平々凡々な顔立ち。そんな私がどんな風にヘアスタイルをいじろうと、化粧をほどこそうと、痛々しいだけなんじゃないか。そんな風に考えて、どうしても一歩踏み出せなかった。これまでは校則を守らなくてはいけないという大義名分があった。それでもうっすらと茶髪にしているクラスメイトは居たし、私は彼女たちの小さな、しかし私にはまぶしいその勇気に感服していた。私は彼女たちの半分もその勇気を持ち合わせていない。だから、その一歩が踏み出せない。ルールという言い訳はすでに取り払われた。それでも私は躊躇していた。ちょうどそんなことを考えているときに智美のあの誘い。どうしても乗り越えられなかったその一歩は乗り越えてしまえば、こんなにも小さなものだった。しかし、乗り越えたその先でまたも悩むことになるとは思わなかった。
「ゆみちゃんはどうなりたいの?」
智美のお母さんが私の手元の雑誌を覗き込みながら尋ねる。
どうなりたいんだろう?可愛く?もちろん、かわいくなりたい。でも、そうじゃない。美しく?それも魅力的だ。でもやっぱり少し違う。
「なんと言うか……。私にもよく分からないんです」
「そっか。じゃあ、ゆみちゃんは染めたいの?」
「うーん。一度してみたいのはしてみたいんですけど……」
「じゃあ、どのくらいの長さにしたいとかある?」
「別に。特には」
「よし!分かった。じゃあ、あっちの椅子に行こうか」
突然、智美のお母さんは立ち上がって私を鏡の前の椅子に座らせる。私にはあらがうすべも理由もなくなされるがままついていく。
「私がゆみちゃんに一番似合うように考えてあげる」
そう言うなり、バサッと大きな布を広げて私にかけると、着々と準備を進めていく。出来上がりは出来てからのお楽しみねといいながら今度はいくつかの束に分け、その一つにざくっとはさみを入れる。目の前には鏡があるから、どんな風に作業が進んでいるのかは分かる。だけどまとめられて、クリップで止められた状態からはどうなるのか全く分からない。私がそのてきぱきとした手つきに見入っている間にも、おばさんは私に色々と話しかけてくれる。
からんころん からんころん
お店のドアベルが鳴る。
「いらっしゃい」
おじさんがお店の奥から顔を出して、入ってきたおばあさんを私の隣に誘導する。おじさんは智美のお父さん。智美の両親は二人でこのお店を切り盛りしている。
おじさんはおばあさんからバッグを預かると、さっき私がかけられたのと同じ布をかける。
「今日はどうします?」
「暖かくなってきたし、短めにお願い」
「分かりました」
鏡越しにおばあさんと目があった。私は曖昧に会釈をする。
「お嬢ちゃん、高校生?」
「二週間前に卒業しました」
「あら、じゃあ、もうすぐ大学生?それともお勤めかしら?」
「大学生です」
「それは楽しみね。ここでうんとお洒落にしてもらわなければね」
「任せといて」
おばさんの頼もしい笑顔が鏡に映る。
しばらく、ざくざく、チョキチョキという音だけがその場を支配していた。おばさんが何かつーんする匂いの液体を持ってきた。美容室特有のあの匂いを煮詰めたような何とも言えないそれが漂ってくる。お母さんが髪を染めて帰ってきたときにする匂いの正体はおそらくこれなのだということに気づく。
「匂いはちょっと我慢してね」
おばさんはそれを私の髪に塗りたくってゆく。そしてラップのようなものをきれいに巻くと大きな機械がセットされる。おばさんがそれを慣れた手つきで操作する。すると、首筋あたりがじんわりと熱くなってゆく。
「はい、これでしばし待機。熱すぎたら言ってね」
「はい」
おばさんは私に暇つぶしの雑誌を手渡すと、ふらっと奥へ行ってしまった。隣のおばあさんの話し声はいつの間にかやんでいる。そっと横目で見てみると、私と同じような機械を被せられ、熱心に女性誌を眺めている。私もそれをぱらぱらとめくってみた。おば様に人気の演歌歌手の新しいCDが出るらしい。
「ゆみー、どんな感じ」
智美が二階から勢いよく降りてきた。
「KIYOの新作CDが出るらしいよ」
「そうなんだー・・・・・・。じゃなくてさ、初めての染髪はどうって聞きに来たの」
「別に。まだ分からないよ。強いて言うなら匂いが予想以上」
「それは耐えるしかない。私も耐えた」
やはり、この匂いは誰にもしんどいんだな。でも、それが少し大人の匂いのようにも感じた。
頭上の機械が突如鳴り響く。びくっとなった私に智美の笑い声が降り注ぐ。
「ゆみ、びっくりしすぎ」
「しょうがないでしょ」
その後、おばさんがもどってきて、何かを調整して、また元のようにセットされた。幾度かこれを繰り返した後、私は洗面台に移動した。可動式のその椅子に座るとおばさんがそれを倒してくれる。頭に巻かれたものは取られ、代わりに温かいお湯がかけられる。乱暴にも思えるその手つきは、しかしなかなか心地よい。シャンプーが泡立てられる音がする。顔には手のひらサイズの紙が乗せられていて見えないけれど、すぐそばにいるおばさんが手際よく洗髪をしてくれているのがよく分かる。その温かさに思わずまどろみそうになる。
「ゆみちゃん、起こすよ」
「!! はい」
また、おばさんに誘導されて元の席に移動する。ぶわーんとドライヤーが響く。それに合わせて私の髪がふわふわと舞う。まだよく分からないけれど、なんだかとても素敵な色になっているようにも見える。ドライヤーが止められると、髪は急に大人しくなる。まだ、ぼさぼさでどんな髪型かよく分からない。
「はい、最後まで内緒」
くるっとおばさんは私の椅子を90度回転させた。そして、大きな櫛で私の髪を梳かしていく。何やら冷たい液体を丁寧に塗り込む。ごしごし、キュッキュとおばさんの指が踊るように私の髪を整えていく。
「よし、出来た」
椅子がくるっと元の位置に戻された。
「!?」
そこに映っているのは確かに私だ。顔かたちはもちろん変わらない。しかし、私じゃないみたいだった。決して派手すぎない栗色に染められた髪はごく自然に飛び跳ねながら肩の位置で切りそろえられている。色はもちろん、これまでずっと肩甲骨より短くしたことのない私にはとても新鮮な長さだ。何よりもなんだか大人っぽくなった。何をもって大人っぽいというのかは分からない。けれど一歩大人に近づいたように見えた。
「すごい!! おばさん、ありがとうございます!!」
「いい感じでしょ。ゆみちゃんの髪は元々少しウェーブがかかってるからそれを活かしてみました。もし、また違う髪型にしたくなったらいつでもおいで」
美容室を出た私の足取りは軽かった。心なしか背筋も伸びる。明日から、大学入学に向けて準備を進めなくてはならない。その前に大人への一歩を踏み出した。きっとこれからも色んな一歩を踏み出して私は本当の大人になるんだろう。今回は全部おばさんに任せてしまって少し情けないけれど、次に髪が伸びたときはこうしてくださいって自分で決めて言えるはず。そのころには私はどうなりたいのか見つけられているだろうか。それに向かって進んでいけるだろうか。それとも、まだ模索しているかな。どうなっているにせよ、私はこの季節が来るたびに、そしてあの美容室のにおいを嗅ぐたびに思い出すだろう。オトナへと一歩進んだ今日のことを。ともかく今日が私の大人記念日なのだから。
お読みいただきましてありがとうございます。
初めてのお題小説で苦労したこともございましたが、とても楽しく執筆いたしました。
この楽しさが皆様に少しでも伝わっておれば幸いです。
ご意見・ご感想ございましたらお気軽にお書きください。
2015/05/26一部改稿いたしました。
これからもご意見いただければ幸いです。