極地
か。
雨露木さんかぁ。美人だよなぁ。
これを機にお近づきになれたりしたら……やべぇ。何を考えているんだ。よだれが出ているぞ。
ふと横を見ると才川がいた。
──え?
いや、あれぇ!? なんでここにいるんだよ?
「おお、才川。どした?」
才川は顔をしかめて、背を見せて走って行った。
「おい! 待てよ!」
まずい。なんか怒ってたよ。
猛然と追いかけるも、こけてしまった。ぐほぉ。いてぇ。慌てて立ち直り追いかけていくも、既に才川の姿はなかった。
俺は一度家に戻り、慌ててパソコンを起動した。
やべぇ! そういや夏休みに入ってから気が抜けまくって全然メール覗いてねぇわ。あいつとのメールはまだ続いていたってのに。俺ってメール無精なんだよなぁ……たはは。って言い訳通じないよなぁ才川こええし。
って。うわ。才川の未開封メールがたまってる。さっきあんな別れ方をした後だと背筋が寒くなるぜ。若干ホラー入ってる。
まずは一番古いものから開いてみる。日付は7月22日になってるな。夏休み入りたての頃か。俺がヒャッホーイ!! って有頂天になってる時期だ。
『
汐見君。元気かしら? 私、そろそろ文字を打つのにも慣れてきたわ。チャットとか、掲示板とかもするようになってね。汐見君もしおらしい生活を少しくらい華やかにするためにやってみたら? URLを張っておくから、暇ならアクセスしてみるといいんじゃないかしら。
それで、本題。
私達は少しばかり夏休み忙しくなると言っていたけど、なんとか7月中には予定を作れそう。もしそうなったらメールをするからパソコンは見ていてください。
追伸
最近メールソフトを変えて、かわいらしい動物がメールを運ぶのに変えたの。汐見君もお金に余裕があるのなら買ってみるといいんじゃない。すごくかわいらしいのよ。
』
うーん。あいつ、すっかりパソコンにはまってるなぁ。遂にURLや掲示板やらチャットなんて言葉を理解して使えるようになるとは大した成長だぜ。
俺はカレンダーを見た。
本日、8月2日。
…………………
…………
え、えーと。次のメール。
日付は7月24日。
『
汐見君。返信がないけれど汐見君も忙しいのかしら? 私の知らない煩雑なことに追われているのかもね。だけど、メールは返して欲しかったわ。
以前送った掲示板やチャットにも出来たら顔を出して欲しかったのよ。興味がなかったかしら? それとも、そんなことに割く時間はないって?
ああ、ごめんなさい。少し疑り過ぎたわね。
それで、本題。
この前、7月中に予定を作れるかもしれないって話をしたけれど、何とか大丈夫そう。多分、25、26、27日のいずれか。汐見君も出来ればこの辺りで予定など組み替えてくれないかしら?
追伸
最近笑いの勉強をするために、落語をエルロットと聞いています。意外と新しい発見があるものよ。 汐見も君新しい趣味を初めてみたら?
』
俺はカレンダーを見た。
本日、8月2日。はは。変わらないですよねぇー、日。
………………
…………
次。7月26日。
『
汐見君、返信がないけど。どうかしたのかしら?
何か気に障ることでもあったかしら? もしそうなら。いや、違うか。きっと他の何かがあったのよね?
前回、色々と日程を提示したけども、ごめんなさい。やっぱり7月29日が一番都合がいいわ。それに合わせて準備しておくし、私とエルロットの研究成果も見せてあげたい。楽しみにしておくといいわ。
もし、汐見君の都合が悪いのならばメールをしてね。
何度もこちらからメールを送っているけど、返信する暇がないだけよね?
』
遂に追伸を記載する余裕もなくなったようだ。
次、7月28日。
『全く返信が無いけど、もう明日ってことでいいのよね? あいにく、私もそんなに暇じゃないの。いい加減返事を送ってくれないかしら? これって言い過ぎなのか、距離感がわからないわ。だって、何にも返信がないから。
もし汐見君が来なくても、もう私達二人で決行することにするから。まぁそんなことはないと思うけど。明日、12時にいつもの駅前で。お昼ご飯は外で食べたいわ。その時にいろんな言い訳を聞いてあげましょう。
』
これを最後にぱったりとメールは途絶えている。んで、今日。俺の家に来た。
…………
……
ぐわぁぁぁぁぁぁ! まずい。まずいよぉぉおお!
……俺が悪いのだろうか。
確かに非があることは認めよう。あいつとのメールはしばらく習慣的に続いていたからな。そこをばったり止めるってことは予想がつかないはずだ。
言い訳したい。俺がメールをしなくなったのは、才川が忙しいって言ってたから。そんな余裕もないと思っての、あれだ。気遣いだ──いや嘘です。夏休み入って浮かれてたってのがほとんどだ。
でも、連絡が取れないなら電話してくれよ。
電話番号を教えたはずだよなぁ。忘れたとか? なくしたとか? いや。几帳面そうな才川なら考えにくいことだ。
仕方ないから俺からかけるか。こういうフォローってのは早ければ早いほどいいんだ。あ、でもまだ時間的に家にはついていないかな。
小一時間待って、俺は電話をすることにした。
『あっ、才川さんのお宅ですか』
『不在です』
切れた……
今の声は。才川だよな。
早ければ早いほどいいというのは間違いだったようだ。
今は触らぬ神にたたりなし。ある程度ほとぼりが冷めたときに説明しよう。
ちょっとやっかいなことになったが、俺が誠意をもって説明すればわかってくれるだろう。
・
しかし俺はすぐに弁解したいという気持ちが先走ってしまっていた為、翌日の朝にはもう一度電話をしていた──が、繋がらない。家族が出ても不在と答えられるのみ。あいつの家庭内で色々根回しされてんのかなぁ……
頭を抱えるしかなかった。どんよりした朝ってのは最悪だ。これからこの気持ちを引きずって一日を過ごさなければならんのか。
才川の家の場所もよく考えると知らないから、家にまでは行けない。行動を起こすとなるとやっぱり電話しかない。
迷惑覚悟でもう一度電話してみよう。さっきは家族につながってすぐ切られたけど、在宅時間を聞けば教えてくれるかもしれない。
『あ、もしもし先程お電話した汐見ですが』
『ですから、椿は今いません』
ツー。ツー。
ひどいよお母さん。まるでストーカーに対して発する言葉のようじゃないか!
俺はもう受話器を置くしかなかった。
「っはぁぁぁ」思わず漏れ出るため息。もう一度両手で頭を抱える。
すると背後から笑い声が聞こえた。
にやにやしたアンリが突っ立っていた。過去なかった苛立ちを覚えたのはいうまでもない。
「なんだよ」
「こういうの、知ってますよ。すれ違う二人。だけどふとしたところから仲直りしちゃうんですよねぇ。ぷぷ」
キレる若者。なんて言葉をよく耳にするが、俺は別に違ぇし。温厚だし。凡人だし。なんつっていつも社会の目をあざ笑うのだけども、今日、いまこの時ばかりはキレる若者になっちまった。なってもいいよなって、自分の理性を解いてしまっていた。まるで他人行儀なアンリにピキッときてしまったんだよ。
「お前な。ちょっとここに座れ」
「は、はい?」
それを勘づいたのか、アンリはちょっと怖じ気づいてる。
「洗濯はどうした」
「えぇ? あの。ちょっと待ってください。今日は好きなお菓子を食べてテレビを見る日って決めていまして……」
「洗濯はどうした」
「あの、ほら。これ。面白いんですよ。ドラマ『AIBO』。冴えない男二人が……」
「洗濯はどうした」
「ひえっ……」
「洗濯はどうした。プール行ったらやるって言ってたよな? どうしたんだ」
「すいません、やってないです」
「お前なぁ。俺のことをからかう前に色々やることがあるだろ? 機械のことを知らねぇなら、俺が教えてやるって言ったし」
「すいません」
「大体、それもやらないならテレビやゲームばっかしないで、自分を磨いたらどうなんだよ? この前だってフランに負けてもお前はへらへらとしてさ。相手がフランじゃなかったらどうすんだよ」
「すいません」
「ったく」
正直、言い過ぎた。そう考えられる冷静な部分は俺の脳内にわずかばかりあるらしい。
だけど、日頃の行いを正すという意味ではこれは正論だ。何にもしないままだし。
もしかすると、アンリに対しての微細な不満が積もり続けてきた結果かもしれない。それがさっきの苛立ちで爆発した。そういうことなんだろうか。
でも。こんなにきつい形で言う必要はねぇんだ。
そう理解してた。なのに、段々とアンリの表情が反抗心を剥いてくるような平謝りになったから、まだエスカレートしちまいそうだ。俺って本当に凡人だ。感情の制御もうまくできねぇ。
「今この状況だって、そもそもはお前が作りだしたんだ」
いいや。これは嘘だ。何言ってるんだよ。俺。間違いなく俺の怠慢で、俺のせいでこの状況になっている。そもそもアンリが来なきゃ才川と接点なんてなかったはずなのに。
わかっているのに。止められねぇ。キレる若者って怖いな。
「すいません」
「すいませんじゃないだろ。この際だから言っておくけどな。お前はいっつも口だけに見えるぞ。エルロットやフラン。ハーリアだってやる気があるように見えた。お前はどうなんだよ。本当にやる気あるのか?」
「ありますよ」
「だったら何か──」
「そんなものがあったらやってます。ただ私は……」
何かを言おうとして、ぐっとこらえるような。何を言おうとしているのか。俺には全く予想が出来ない。だが、アンリの表情が今までになく大マジで、いつものへらず口なんかじゃないんだろうなということは予測が出来た。
「……ああ。もういい。今日はラーメンでいいな?」俺はなぜか話題を逸らした。これ以上エスカレートしたらまずいことになると思ったからかな。
「はい」
俺もアンリも、どちらも謝らなかった。とりあえず、ラーメンっていう食い物の単語を出すことで茶を濁した。俺達二人、そろそろ腹が減ってた。
初めてだな、こんな風になるのは。俺達は本当にお気楽ムードだったから、いい薬になるのかもしれない。本当は俺から謝りたかったんだけどな。だって俺が悪いと思ってしまっていたから。けど妙なプライドってやつは時に人間の行動を抑制しちまう。
・
我が家の消灯時間は決まって夜の十時である。俺は結構睡眠時間を確保しなきゃ気が済まんタイプなのだ。
つってもアンリはゲームしたり、テレビを見てから寝るから、部屋の電気は豆電球にして、スタンドライトとかヘッドホンを駆使してもらい、アンリには俺の睡眠を妨げないようにしてもらっている。
珍しく今日はアンリも何もせず寝るらしい。俺の言葉が堪えたってことなのかな。たまにはお灸を添えるのもいいさ、と思って俺は自分を正当化しようとしてみせるんだけど、やっぱり言い過ぎたと思っちまってるから俺自身も堪えてる。
ぐっすり寝れば互いに気持ちは晴れるかな。そういうのに期待しよう。
俺が布団をしいていると、アンリも自分の布団を敷き始めた。お袋のだけどな。
ちなみに自分で布団を敷くのはこいつが出来る数少ない家事である。いや、家事じゃねぇ。単純に自分の睡眠欲を解消する為の行動か。
「今日はお前の好きなドラマやるんじゃなかったのか?」
「いや、いいです」
「そうか。消すぞ。電気」
消灯。
アンリはごろりと半回転して、俺に背を見せた。
入眠はすぐ出来るぜ、と自負している俺でも今日は中々寝付けなかった。現状況をひたすらこねくりまわして、出そうにない解答を見つけようとしていたからに他ならない。
どうするか。ちょっと気が重くなってしまった。
アンリのことも。才川のことも。このままじゃぐっすりとはいかなそうだ。
どんくらい時間が経った頃か。俺はまだ寝れずにいた。
目の前のアンリが動き出した。寝返りかと思ったら違うらしい。立ち上がった。こちらを振り返る前に、俺は思わず目を瞑った。
なんだか気配を感じる。俺の前にいるような。見られているような。
「汐見さん。起きてますか?」
小声でささやくような声。
俺は反応しなかった。なぜか寝たふりをし続けた。
……なんか目の前でやられている気がするが、俺はまぶたを閉じ続け、耳をそばだててアンリの動向を伺った。
なんだかごそごそやってる音が聞こえるな。一体なんだろう。
便所か?
ようやくリビングのドアを開ける音が聞こえた。
そんで、便所──じゃない。あの音は玄関の扉の音だ。
飛び起きて時計を見ると、十時半くらい。案外時間は経ってなかったぜ。
てかおいおい。こんな時間から出かけたって言うのか? 一体何しに? 家出? いやまさか。
すぐさま追いかけて止めるのが正解だと思えたのだが、俺は気が付くと服を着替え、帽子をかぶって、いつだかに買っておいた似合わないサングラスをかけて外に出ていた。尾行っていう発想。ちょっと趣味悪いかな。
でも知っておきたかった。今日という日にアンリが何をするのかを。
・
とぼとぼ歩く後ろ姿を必死にばれないように尾けていった先は本屋だった。ここは二十三時まで営業している。閉店間際である。
電信柱の影から様子をうかがっているとすぐに店から出てきた。袋を下げている。何か買ったのか。よく金持ってたな。いや、あの時俺が渡した金か。以前、アンリの気まぐれで一度だけ食器の洗い物と洗濯物を畳む作業を手伝ってくれたことがあった。その時にご褒美として千円くれてやったのだ。
ろくな使い方をしないだろうなとは思っていたが、まだ取っておいたのだな。
しかし俺に内緒で本屋とは。やることが思春期の男子である。俺だってエロ本くらい買うし持ってるけどこんなコソコソしないぞ。
次に来た場所は……ゲーセン『CLOUD』だった。ここは最新のゲームはあんまりないけども、近くに娯楽がないからか、そこそこ地元の暇人が客として入っていく。店内がガラス張りで明るかったため、今度は中を窺えた。
興奮した目をしてきょろきょろと周りをうろついているようだが、結局何もしないまま店を出た。
もう帰宅するらしい。真っ直ぐと来た道を戻っていた。
が、違った。
公園に立ち寄るようだ。俺の家のすぐそこにある、まぁしょっぱい公園だ。申し訳程度にパンダとアヒルのあのぐいんぐいんするやつと、ブランコとベンチがあるくらいだ。なんでアヒルとパンダなんだろうな。
なんて考えていると、アンリがベンチに座り、どこぞから取り出したペンライトで買ってきた本を読み始めた。ペンライトは玄関に置いてあったものだろう。
ここで読むってことは、やはりいかがわしいものなんだろうか。俺に見せたくない類いの何か。
気になるな。気になるが、ここからじゃ全く見えない。
これ以上近付くとバレそうだ。何かいい手立てはないかと辺りを見回しているとアンリに動きがあった。
読んでいた本をベンチに置いて、立ち上がり──何か奇妙な動きをしている。
奇妙な動きとしか表現できないくらいに奇妙だ。
なんだろう。以前、祭りか何かで日舞をしている人をみかけたが、それに近い。そこまでリズミカルではないけど。
あいつの故郷の特殊な儀式か何かだろうか。
いや、日本で売ってる本を参考にそんな儀式をするわけもない。あれが買った本となにか関係のある行動であるのならば、という話ではあるが。
今すぐにでも一体なにしてんだと声をかけに行きたいところだが。叶わん。
それからアンリはその謎の動きをいくらか続けて、ようやく公園を出た。もう行く場所はないだろうとして、俺はダッシュで帰宅して布団の中にもぐりこんだ。少しして、アンリが帰宅する音が聞こえた。
・
「おはよう。お、珍しいな。俺より早く起きてるなんて」
「おはようです。昨日は早寝しましたので」
翌朝。外面はいつも通りだなぁ。どうするか。ここで聞くか、聞かないか。
「夕食ラーメンでいいよな」
「昨日ラーメン食べたじゃないですか! そして、なぜ朝から夕食の話をするのですか!」
「あ、あぁ。すまんすまん」
「おかしな汐見さん」
才川のこともあるってのに、俺は一日中アンリのことが気になり始めていた。前夜の行動が不可解過ぎるのだ。
アンリは叱咤した俺へのあてつけのように、依然家事をする様子はなかった。
これくらいでアンリが言うことを聞くとは思わなかったし、俺はあの時の一過性の怒りに後悔していたため、これ以上何をいうことはしなかった。
「なぁアンリ。アイス食いたくないか?」
「食べたい! チョコバーがいいです」
「買いに行ってくれないか」
「お断りします!」
「なぬぅー!」
「勝負はいつだってフェアなのです。ジャンケェン!」
「き、貴様ぁ!」
仕方あるまい。認めよう。コンビニに行く者を決めるのはジャンケンといつの時代も相場が決まっているものだ。
結果、俺の勝利。よし。家主の威厳を保てたぜ。
──っと。危ない。今のうちだ。アイスを買いに行くようけしかけたのは捜索するため。アンリが本屋で買ったものを。
大体、俺の家だと物を隠せるような場所は限られているから、大方どこにあるかは推測出来る。なんたってここは俺の家だからな。
──しかしこうも簡単に見つかるとは。
なんとなく予想していた靴箱の奥の方をみると本が不器用に隠されていた。
手に取って見てみる。
『十日でマスター! ブラジリアン柔術』
何だこれはァァァァァ!!
かなり想定外過ぎるものが出てきちゃったー! いや、何が出てきても多分驚いただろうが、ブラジリアン柔術ってなんだよ、普通の柔道や合気道じゃ駄目だったのか。しかも十日で絶対マスター出来ないだろ。そんなシンプルじゃないだろ、ブラジリアン柔術。
突っ込み所がありすぎる本を手に立ち尽くしてしまった俺。
さらに中身を覗いてみる。
うーん。なんだこれ。柔術というわりには投げ技と寝技がまるでない。戦いの心構え的なことがやたらと書いてあり、ちょっとした護身術が主な内容になっている。格闘技なんて全く疎いが、柔術じゃなくねぇかこれ。
色々うさんくさすぎるだろ……
やべぇ。そろそろ帰ってくる頃かな。
そそくさと元にあった場所に戻して、リビングに戻ることにした。
「アイスのおなーりー」
袋を下げてアンリが帰宅。
「おお、悪かったな」
「んん? 汐見さん、なんか顔色悪くないですか?」
「そうか? そんなことねぇよ。俺はいつだって健やかさ」
「ふふ。けなげな高校生が言いそうな台詞ですね」
アンリ。けなげなのはお前なのではないか。
冷静に考えれば、アンリをあざ笑うことはできないんだ。決意を持った行動だからだ。
アンリはマジでなけなしの小遣いをはたいて、ハウツー本で習得しようとしてやがるんだ。柔術を。
なぜって。考えりゃすぐわかる。俺に言われたからだ。
次のライバルとの戦いの時に俺をびっくりさせようっていう考えがあるんだろうか。ブラジリアン柔術を使って? くそう。ったく。あいつにしちゃけなげすぎるんだよ。
大体、この試験において努力なんて早々出来やしない。それは俺もわかっていた。だからこそあの時放った言葉に後悔しちまってる。
そんな俺の後悔をよそに、あいつは行動をしようとしている。雲をつかむような努力をしようとしている。
あいつの試験だ。あいつが好きなように、後悔のないようにやらせてやろうとは思うけど、俺は。俺はこのままでいいんだろうか。アンリに何も言わないままで。
「汐見さん。ちょっと出かけてきますよ」
「えっ? どこ行くんだよ」
「お散歩です。最近部屋に居続けて体がなまってしまいそうなのです」
「元々なまっ……いや。危険じゃないか? お前一人は。俺も行きたいけど。ダメ?」
「ダメです。レディー散歩です」
「えぇ、レディーファーストみたいに言われても」
「とにかくダメったらダメなのです! たまには私だって一人になりたい時があるのです! 乙女です! プライバシーです! 女性の人権を蔑ろにしないでください!」
「人権ってあのな……まぁわかった。行ってこいよ。その代わり、メシ前にはちゃんと帰ってくるんだぞ」
「はーい」
三日坊主で終わる可能性もあるな、と思って様子を見続けていたのだが、四日を過ぎてもアンリは外へ繰り出し続けた。ちなみにその間才川と連絡はとれないままだった。ぐふ。気にしないぜ。
確認はしていないが、あの公園に出向いて柔術の練習に励んでいるんだろう。間違いない。いつも靴箱に隠してある本がなくなってるからな。
昼も、夜も。一人で。
あいつは真剣だった。俺の忠告を聞き、努力しようとしている。
まったく。あんだけいつもはふてぶてしいのに。全く家事やらねぇのに。そんな姿見せられちゃぁ俺だって思うところが出てきてしまうじゃねぇか。
仕方ねぇ! 一肌脱いでやるとするか。
・
「やい! そこの少女!」
俺の格好。上裸。使ってないカーテンで作ったマント(作るのに二時間かかった)、体育の黒いハーフパンツ。紙袋に口と目を開けたやつを逆さにしてかぶっている。
違うんだ。最初はこんな完成形を予想はしていなかったんだ。だけど段々……マントを作ったあたりでなげやりになってきて出来合いのもので済ませた結果この格好になったんだ。
「私はマスクマン。ブラジリアン柔術の使い手だ」
「むむ、まさか! あなたが伝説の!?」
アンリのノリはよかった。さすがだ。まだぎりぎりバレてない……のかな。わからん。一応声は作ってるんだけど。
「一体マスクマンがなんでこんなところに。事と次第によっては警察を呼びますよ」
めちゃくちゃ変質者扱いされてるー!
「いや、君ね。ちょっと困るよ。そういうのは。今夏だしね? ほら。もっと寛容に生きていかないと」
「いけません! 日本は法治国家ですので!」
「こんのやろうー! 警察を呼ぶのは俺を倒してからにしな!!」
「お断りします!」
「おいいぃぃー!」
今にも猛然とダッシュして逃げ出しそうな雰囲気だ。
この瞬間、俺の人生の走馬燈が呼び起こされ、手錠をはめている光景が一瞬で浮かび上がったため、俺は紙袋を外した。当初の俺の作戦。マスクマンを装ってブラジリアン柔術を指導するという詰めの甘すぎた愚行はやめることにした。
「あ、あなたはっ」
「どうも、汐見恵一です。あぁ。しがない高校生だ」
「むむ、まさか。あなたが伝説の!?」
「いや、だから」
「よし、警察を呼ぼう」
「っておい!?」
俺達は夕焼けを見ながら公園のベンチに座った。俺の肝はまだ冷えていた。なんせ上裸だし、公園にいた子供達が俺のことをヒソヒソいいながら見てくる。うーん。やっぱり俺ってバカだ。
「ありがとうございます」
そんなバカな俺に感謝の言葉を言ってくれる人間がいるらしい。
「どう思った。俺の三文芝居は」
「アレ気な感じだと思いました」
「素直な子ですねぇーアンリちゃんはぁ」俺は右こめかみの血管がぴくぴくするのを感じた。
「でも、伝わりましたよ。多分。マスクマンの気持ちは。ずっと、知っていたんですね」
「ああ。毎日毎日夜に出かけていったらそら気が付くわ」
「うーん。寝ているかは入念にチェックしたつもりだったんですけどね」
「そうだったのか。まぁ、なんにせ。一つ言おう。あんま無理すんな」
もう気が付いていた。俺はアンリに、そこまで多くのことを求めていない。特に試験のことなんて、こいつの好きなようにやらせればいいんだ。何かしなきゃって焦って毎日を過ごして欲しくはねぇからな。
「無理なんかしてないです。私はこれから魔道士ではなく、ブラジリアン柔術家になって世界の強豪と戦おうと思いますので」
「はは。そうなったら面白いな。第二部開幕だ」
夏の日の夕焼けってのは、なんでこんなに綺麗なんだろうな。公園に夕焼けってのもいい。いつもしょっぱいと罵ってる、こんな公園でもな。
「その……悪かったよ。俺。もしかしたら言い過ぎたかもしれん。お前はお前のペースで頑張ればいいんじゃねぇか。まぁ家事をやってくれればいいってのはあるけど」
「汐見さん……」
「おう?」
「その格好で言われてもなんか台無しです」
ずっこけそうになった。
「ええい! マスクマンの洗礼を受けたいかぁ!」
「特訓の成果をみせますよぉ!」
そう言ったアンリの顔を見たんだが、その表情が今のノリと全く似つかわしくない、真剣な表情だったので、怪訝になってしまった。気のせいかな。
「……あっ!」
「ん? 急にどうした」
「ちょっと、今日はもうお開きにして。行きたいところがあるんです」
「どこだ」
「ゲーセンです」
またずっこけそうになった。そういうことかい。
「あ、その前に。マスクマンになって。握手してくれませんか?」
「急に何を言い出す」
「まぁまぁ。私、こういう状況が好きなんです。だって、綺麗じゃないですか、夕焼け」
「なんだ、俺と同じことを思っていたのか」
俺達はもう一度二人で夕焼けをみて、握手を交わした。なんだこれ。
俺はマスクマンの格好だったのであんまり感慨深くなかった。
アンリの方はなんだか、いつになくセンチな表情をしていて。こんな顔もするんだな、とその点については少し感心した。
服を着替え、ゲーセン『CLOUD』に到着。
俺のようなその日暮らしの暇人がこぞって集まっていやがる。そこそこに居心地がいいが、あまりずっといすぎると心があらぬ方向へ腐蝕していくような気がするから素人にはお勧め出来ない。
「で、何がしたいんだ?」
アンリのことだからどうせ格ゲーだろうと思っていた。
「これです」
いじらしく指した先にはでっかい写真機、即ちプリントクラブ改めプリクラがあった。これ、一台しかないし、女性客がほとんどいないから普段誰かがやっているところを見たことがない。
「お前も女の子らしい側面があるんだな」
「ほらほら。このコスプリ撮りましょうよ」
「コスプリってなんだよ」
「知らないんですか。女子の間で大流行。コスプレをして撮るプリクラのことですよ」
「知らんな。ていうかここにそんなサービスあったっけ?」
「もちろんセルフサービスなのです。さぁさぁ、中に入って」
俺は機械の中で無理矢理マスクマンの格好にさせられて、写真を撮った。
また自分の恥の歴史が一つ増えたような気がして、やりきれなくなってしまった。
何枚か撮った後、ガシャコンとプリクラがはき出された。
「ふふふ」それを見て微笑んでいるアンリ。不敵な笑みともいえる。脅迫の材料にはしないでほしいな。
「なんだ。嬉しいのか」
「これ、私と汐見さんですね。写ってますね。見てください、この……汐見さんのマヌケな顔」
「マヌケ顔もなにも写ってる顔の面積がすごい少ないぞ。紙袋の隙間から見える目しか見えてない」
「ぷぷ。私、すごく大事にします。汐見さんもこれ、持っていてくださいよ」
言ってアンリはハサミで切ったそのプリクラの半分を俺に渡して、半分を鞄の中へしまった。向き直ってからの笑顔は朗らかで、普段見せないような表情だった。
やはり女子にとってプリクラは相当価値があるものらしいな。俺も変質者的な格好をしていたとはいえ、新鮮な気持ちになれたし、たまにはこういうのも悪くねぇなと思ったよ。
しかしまぁその後がお粗末だった。
アンリはゲーセンの全てのゲームを網羅せんばかりにやりたいやりたいと要求してきやがって──俺もまんざらでもなく付き合ったわけだが。
気が付くと俺の財布事情が大変なことになってて、そこに気が付いたとき、今日のメシはもやし炒めだなと確信した。
それをアンリに言ったところ、この世の終わりみたいな顔をしていた。カレーって言ってたからな……
俺達はそのまま直ちに帰宅し、カレーの材料を買えるわけもなく、もやし炒めを食べて夜を迎えた。食卓には一抹の哀愁が漂っていた。
そして、テンションが下がったまま消灯時間を迎えた。
「うぅーうぅーうぅーぐぅー」
「それはなんの音だ。うるせーしさっさと眠りなさい」
「私の中の、カレーを求めるお腹の音です。うぅーうぅーぐぅー」
「仕方ないだろ。はしゃぎすぎるとどこかでツケがまわってくるといういい例を一つ学習したってことにしとけ」
「ぐぅー」
「俺だって食いたかったさ」
「このカレーに対する渇望は一体どこで埋めればいいんでしょうか」
「ゲーセンでの連コで埋めたってことにしておけ」
「そうしますかね」
聞き分けがいいな、と思って電気を消したら。急に立ち上がった。何をするのかと思っていたら俺の布団へ身を滑らしてきやがった。焦る。
「お、おいっ?」
「今日はこうしたいのです。カレーの渇望を埋めるにはこれしかないのです」
扇風機がついているとはいえ、ちょっと暑苦しい。
「カレーを食べたいと言っても食べられなかったから……8月10日はカレー記念日……」
死にそうな表情である。そんなに食いたかったのか。しかも食ってねぇのに記念日かよ。
「だからお前はそういうネタをどこから仕入れてくるんだ」
と突っ込んだ瞬間にはもうころっと眠っていやがった。半端ねぇ才能だな。俺以上の睡眠スキルだ。
まぁ今日は……というか、連日の疲れがたまってたんだろうな。慣れないことやるから。
寝顔なんていつも見たことなかったが。こうしてみるとあどけない少女だなって思う。俺もまだまだガキなんだけど。こいつはそれ以上で。
色々思うところはあったような気がしたんだけど。俺も眠かったのでさっさと寝ることにした。
いつもは感じない温もりを感じることが出来て、暑いながらもちょっとだけ心地よかった。
・
電話の音が遠くで聞こえた気がした。
意識の輪郭がはっきりとしてくるとすぐ側で鳴っているということに気が付く。俺んちの電話だし、そりゃそうだよな。
目を開くと自分の顔面にアンリの足が乗っていることに気が付いた。寝相悪すぎだろ、おい。
既に朝8時をまわっていた。俺にしちゃ寝過ぎだった。
『はいもしもし汐見です』
誰のものかもわからない電話に起こされるってのはあまり気持ちがいいものではない。俺はだるそうな声音で応答した。
『才川です。汐見さんですね』
反対に、電話越しに聞こえた声は凜としていた。
『さ、才川。おおう。どどうだ。調子は』
一気に脈拍上昇。最高の眠気覚ましだねこれは。
『今、時間大丈夫でしょうか』
『はい。大丈夫だよ』才川の気を伺うあまり変な口調になってしまった。才川の方もなんだこの丁寧口調は。怖いぞ。
『簡潔に。今日会えないですか?』
『大丈夫だ。待ってたよ。お前からの連絡』
あれから毎日メールのチェックはしていたが、結局才川から返信が来ることはなかった。
しかしこうして電話をしてきてくれたってことは、二通ほど送った俺の誠心誠意の謝罪文を読んでくれたってことだろう。雨露木さんのこともちゃんと書いておいたし。
『別に。私はこのまま同盟を解除したって構わなかったんですけどね。とりあえず、いい? いつもの駅前で十二時に待っているから。アンリちゃんも連れて、来てくださいね──絶対に』
『オッケー。俺だって才川にわかって欲しいことがあるんだ」
『言い訳は全て聞きますが、その言い訳で私が納得するとは思えません』
この電話じゃ何言っても無駄なようだ。
『ひとまず時間通り落ち合おう』
・
実際、鬼のような表情で来るんだろうなぁと思って覚悟はしていたんだけど、本当に鬼だった。険しい表情とかそういうレベルじゃなかったね。
「ごきげんよう」
「おう」
「おうじゃないですよ。挨拶をしなさい。あとシャツを入れなさい」
やっぱりこの感じだと一筋縄じゃいかなそうだ……どうしよう。
俺達は例の喫茶店に入ることにした。また珈琲に六百円取られると思うと気が重くなった
「で、言いたいことは何でしょう」
お前が呼んだんだろとは言えなかった。
「俺が全面的に悪かった。すまん」
妙な意地を張っちまうとこじれてしまう。それは学習したんだぜ。お前が電話しないから悪い! なんて言った日には地球が滅亡しかねない。まずは俺の非を一挙に認めてやろう。じゃないと話が進まない。
「ふん。なんのことでしょう」
「その敬語はやめようぜ。前の才川になってくれよ」
「私はいつだってこうよ。でもまぁいいわ。汐見君。あなた、自分の非を認めるのね?」
「ああ。悪かったよ」
メールのことを全く忘れてたのは事実だからな。
「ま、いいわ」
「おお。意外とするりと許してくれるのか」
「意外とは失礼ね。本当は首筋に手刀でも入れる心構えできたんだけど。そこまで素直に謝ってくれるならいいわよ……それに……」
そんな物騒な心構えだったとは知らなかった。もしかして、一命を取りとめた?
「それに、なんだ?」
「別に。なんでもない。ただ思うところがあっただけよ」
才川は意味ありげにエルロットを見て、俺に向き直った。
「とにかく。今日はこれからひたすらに探すんだから。ライバルをね! そうでしょう、エルロット」
「はい、ご主人様!」
機嫌が直ったのかよくわからなかったが、とにかくやる気がありそうでなによりだ。
しかし、ライバルには遭遇出来ないまま時間が過ぎていった。前回が上手くいきすぎたのかな。
結局、才川のフラストレーションを解放するためのウィンドウショッピングに付き合っているだけという格好になってしまっている。俺達は以前エルロットが言っていたあの駅前のショッピングセンターに赴いていた。
俺は贖罪の意を込めて荷物持ちを請け負ったんだが、才川がバカみたいに洋服を買い込むからアンリにまで荷物持ちをさせる羽目になった。アンリだって色々欲しいものあるだろうに。俺の尻ぬぐいをさせてしまったようで申し訳なくなってしまった。だが今月の我が家の財政は日本の国債くらいのやばさなんだ。わかってくれ。
買い物がようやく終わり、屋上にある子供のゲームコーナーみたいなところに行ってアンリとエルロットを遊ばせてやることにした。
二人はメダルゲームを一緒になってやっていて楽しそうである。これを機に仲良くなればいいな。ちょっと放っておいてやろう。
「どうだ、才川も何かやるか?」
「そうね……あ、私モグラ叩きやってみたかったの」
というわけで俺達もモグラ叩きをやり、その後も才川が「やってみたかったの」と言ってほとんど全てのゲームをやっていった。才川も実ははしゃいでいたってわけだ。まぁそこそこ楽しかったしよしとしよう。俺は金がねぇから見てるだけだったけどな。
一段落ついて、俺達は休憩スペースのベンチに腰掛けた。アンリとエルロットはまだはしゃいでメダルゲームをやってる。
「ほれ、ジュース」
「ありがとう」
「お、素直だな」
「何。いつもは素直じゃないということかしら」
「いや。ちげぇよ」
俺と才川は楽しそうにしている二人を肴にジュースを飲んだ。
才川は缶の下に手をあてて、上品……ってかお嬢様っぽくジュースを飲んでいる。
「それにしても悪かったな。改めて。メールが途絶えたのは俺のせいだ。ずっと返信待ってたんだろ」
「待ってないわ。そこまで暇じゃないもの」
「へぇへぇ。そういやお前の言ってたチャットとか掲示板とか。今度やってみるよ。時間があったら電話とかでやりかた教えてくれよ」
「えっ、あ。やったらちゃんと教えてよね」
なんか急にしおらしくなったぞい。
「おう」
才川椿。
以前の俺だったらこいつとこうして二人でジュース飲んで語らってる姿なんて想像しなかったな。
恐怖の対象でしかなかったけど、案外普通の奴で。それを知ることが出来たのはよかったのかもしれない……ん、いや、普通の奴ではないかもしれんが。 恐怖だけって訳じゃなかったんだ。クラスの皆が思っている以上にこいつはそれ以外のものも持ってる。
人間だから、共通する感性ってのは皆持ち合わせてるもんだ。新しい真理を発見してしまったぜ。
「──ねぇ、汐見君」
「ん? まずいか。そのジュース」
ココナッツジュースというチョイスは買ってからミスったなと思っていた。
「違う。私って変わった?」
「変わった?」
唐突で、抽象的な質問に俺は逡巡を重ねた。
そういや、今日の才川は私服のイメージもあるかもしれないが、わりと濃いめの化粧と口紅をしていて、大人っぽい。けばけばしいってわけじゃなく。才川らしい大人らしさってのかな。女の化粧はよくわからんけど。
俺はそこに今日初めて気が付いたかのようにやたらと意識をしてしまった。心なしか心臓のやつがばくばくしてきた。
「今日はお洒落なんじゃね。いつもと違う感じがあるよ。うん」女子は微細な変化に気が付いて欲しいってアンリがこの前言っていたような。
「え……? あ、そ、それはありがとうね」
どうやら質問の意図が違ったようだ。髪の毛を耳にかける仕草をして、顔をそらした。俺も気恥ずかしくなってしまった。
んぅ。他に変わったところってーと……
「質問を変えるわ。汐見君は、学校での私のことをどう思う?」
それは思い切った質問なんだなって。才川の決意がこもった表情を見て感じ取れた。
「お前と話し始めたのはつい最近だからなぁ。それまではあんまり意識していなかったよ」
嘘である。しかしストレートにどう思ってたかなんて言われると、負の感情しか出てこないのが事実だもので。
「嘘よ。煩わしいと思ってたんじゃない? 素直に言って」
迫真とはこのことだ。顔を近くによせて、俺をにらみつける才川。
だが意外だな。自分がどう思われてるかを気にするふしがあるなんて。
「ねぇ、どう?」
「煩わしいっていうか。まぁ怖かったよ。正直な気持ち」
「そうよね」
才川は表情を曇らせ、俯いた。
「私ね、このままじゃいけないのかなって、最近思っているの」
「このまま?」
「私は私の価値観を押しつけ過ぎなのかしらって」
「後学の為に教えて欲しいんだが。お前はなんでそこまで授業中、静寂にこだわるんだ?」
授業中以外はそこまでくどくど言ってくるわけじゃないから、ちょっと不思議なんだよな。
「単純に、先生がかわいそうじゃない。クラスが変わった当初。異常だと思わなかったの?」
「異常?」
「もう皆舞い上がってて。すごくうるさかった時期あったじゃない」
俺のクラスメイトはおとなしい奴が多いし、その印象は今も昔も変わってはいないところなんだが……そんな時期あったっけ。しかし才川がそういうのならこいつの感性ではそういう時期があったということなんだろう。
「わかんねぇ」
「あったのよ。先生も事実うろたえてたし。誰かが行動しなくちゃならないじゃない。優しい先生なら表だって注意が出来ないし。誰かが注意しないといけない。抑止力は存在しないといけないと思うの。実際、私自身も不快だったから」
「そうだったんだな」
俺は風紀委員だからっていうだけかと思ってた。
「割れ窓理論って知ってる?」
「ん? 聞いたことあるような。ないような」
「一枚のガラスが割れている。それを放置してしまうとそこを切り口にどんどん治安や秩序が乱れてしまう。そういう理論。理にかなっていると思う。規模が小さくなっても、つまりクラス単位でもその理論は適用されるというのが私の考え。私はクラスがもうああいう事態に陥って欲しくなかったから、ガラスの割れ、つまり些細な秩序の乱れも見逃さないよう授業中皆に厳しく接していた……説明すると、そういうこと。どう? おかしいと思う?」
「おかしくはないと思う。お前はお前の考えに従っているだけだろ」
才川は誰もがやりたくないことを進んでやって、教師を気遣おうとしたってことだ。それは才川にしか出来ないだろう。
「すげぇじゃん」
そう思ったから、感嘆と賞賛の言葉を口走っていた。
「嫌じゃない? 嫌みなやつと思わない?」
「誰がどう思っているかは俺だってわからない。もしかしたら快く思っていない奴もいるかもな。けど、お前が今こういう風に話してくれて、ちゃんと理由があるんだなってわかったから、俺はそれに対して嫌な奴とは思わんよ……ま、出来れば居眠りは許して欲しいけど」
多分、責任感が人一倍あるんだろう。
教師を気遣う生徒なんて俺は今まで会ったことないな。俺自身クラスメイトは気にしても先生は大人だって思って、意識からは抜けてることが多い。むしろ教師が気遣って欲しいと勝手な思いを打ち立ててる。
だが考えてみれば同じ人間。先生がやりづらいことだってあるに決まってる。才川はそういうことまで理解して、自分の出来ることを責任をもってやろうとしてる。ったく。立派すぎるだろ。
「そう……ありがとうなんて言うべきかしら。私って自分のことが絶対正しいって思ってて。絶対間違いがないって思い続けてたんだけど。その結果クラスで浮いてきちゃって。いや、わかってたわよ。周りと距離を置くことになるっていうのは。わかってたのに。私は私で自分の考えを貫きたいんだけど。人の目も、気になり始めちゃったのよね。最近」
それで、変わったかどうかってとこに行き着くんだろうか。まぁこいつのクラスでの友達いないっぷりは半端ねぇからな。
……変わった? ああ。変わったと思う。俺の才川へのイメージはざらっと変わっている。
だがそれは別に変わろうとしている才川でなく、普通の、自然な才川を見てそう思ったんだ。今日に至るまでそこそこ話すようになって。そして今話してくれたことを踏まえて──そう思えたんだ。だから言ってやろう。
「俺はお前のことを嫌な奴とは思っていないぜ。ちょっと我が強い部分はあるけどな。そういうのも含めて、才川じゃんか。俺はそのままの才川でもいいって知っちまってる。だから無理して変わらなくてもいいと思うけど」
でもまぁ。今の才川より、ちょっとだけ柔軟になってもいいのかもしれないな。
「な──なに言ってるのよ」
「お、おかしなこといったか?」
「汐見君はずるい」
「ずるい子扱いかい。何がどうずるいんだよ」
「そんなの上手く説明できないわ」
「なんじゃそら」
ふと、下げた顔を上げてみるとアンリとエルロットがいた。
「汐見さん、才川さん。ちょっといいですか」
なんか大きな十両箱みたいなのを二人ともどっしりと構えて持ってる。はみ出さんばかりになみなみとメダルが入っていた。
「いや、お前らどんだけメダル稼いでんだよ」
想定を超えているぜこれは。笑うしかない。
「ルーレットの一点賭けで勝ちました。もしかして私達博打の才能があるのかもしれません」
「うむ。あまりそういうことは公で言わないようにな。あと魔道士が博打とかあんまり聞きたくないからやめようか」
「第三部開幕ですね」
結局、もう一度メダル全てをルーレットで一点賭けして外れて終わった。メダルゲームってどんだけ稼いでも、大抵こんな風に使って終わるもんだ。
・
帰り道。なおもはしゃいでいるエルロットとアンリを前に、俺達は並んで帰っていた。結局終日ライバルとは出会えなかったな。
アンリとエルロットはどうやら仲良くなったらしい。楽しそうに話し込んでいる。よしよし。
「汐見君、この前に言っていたよね。なんでこの試験に参加したんだって」
ぽつりと才川が独り言のように呟いた。進行方向を頑として見ている。
「私、さっき言った通り。変わりたかったの。漠然とではあるんだけどね。人の目がどうこうでなく。自分の感情とかをもっと出していって。それで他人と理解し合えたら、違う自分に会えるんじゃないかって。もっと豊かになれるんじゃないかって。色んな意味で」
「そういう意味では、才川の言ったことは俺に伝わって、理解出来た気がする。だから、変われたんじゃね?」
変わりたい……か。雨露木さんも同じことを言っていたっけ。
俺はどうだろ。二人がそういうのなら俺も──いやでもやっぱり明確にどうなりたいってのが見えてこないし、ぼんやりしてる。変わりたい……か。変われたらいいなってのは漠然とあるかもしれないけど。んー、わかんね。
「ありがとう」
「いえいえ。どういたしまして」
なんか気恥ずかしくなって、改まった口調になってしまった。
「そういう風に汐見君が言ってくれて、私自身も少しずつ変われたんじゃないかって思えるのは、やっぱりエルロットが私の元に来てくれたからなのよね」
「そうだな。この精霊試験がなかったら、才川とは話してなかっただろうよ」
「私はあの子に感謝しているの。色んなことを気づかせてくれる。この精霊試験では本当に頑張って欲しい。私も一緒に頑張って、協力して、何かを得られたらって思うの。だから簡単に終わらせたくない」
才川の目は、どこか遠くを見るようだった。その目が、ふっとエルロットの後ろ姿を見つめた。
「汐見君。正直言って、メールでの件はまだあの時の苛立ちが思い返されるから許したくないことではあるんだけどね」
あれ。完全に許されたと思ったのに。思い違いだったか。てかまた蒸し返す気か。
「そういうことは些末なことだと思ってしまったから」
「些末?」
「ええ。だって、私の私情でエルロットの試験を台無しにしたくないからね。そこに気が付いてしまったのよ。考えてもみなさい。試験が終わってしまったら、もうエルロットとは会えないのよ。それと比べればどんなことも些末なことに違いないわ。私の、私達の諍いなんていうのもね」
「そうかもしれないな」
「試験生とパートナーの時間は永久じゃないということ」
こいつと……アンリといられる時間……か。
俺も小さいアンリのその背中をよく見てみた。
例えば高校時代にもいつか終わりが来るように、こいつと別れる時間もそう遠くなく訪れるかもしれない。
考えてみれば当然のことだ。今まで全く意識していなかったと言えば嘘になる。いつ頃からか、そういう意識はどこかで芽生えてたはずだ。
でも見て見ぬふりをどっかでしてたのかな。
才川達と別れた後、俺はぼーっとそんなことを考え続けていたから、注意力が散漫になっていた。
「汐見さん。板、光ってます」
アンリがいつも通り、緊張感もなしにそういうものだから、俺はついつい胡乱げに辺りを見回した。川沿い。でっけぇ高架橋の真下で、光源がやたらと少ない場所。
改めて前を見た瞬間。衝撃。何かが当たった。そういう衝撃。
滞空時間、多分三秒かそこいら。後頭部を思い切り打ち付けた。いってぇ! と思ったがあんまり痛みはない。その代わり、体全身が麻痺したような。しびれているような。
霊体化でのダメージ感覚は一度くらってみないとわからない。
アンリが以前そう言っていたっけ。
後頭部をさすって左手を見てみる。血はついていないが──霊体化している。やはり魔法をくらったのだ──奇襲ッ?
「アンリッ!」
幸い魔法をくらったのは俺だけらしい。アンリは前方で魔法を放ったであろう敵と向き合っている。あの構えは──ブラジリアン柔術のハウツー本に書いてあったやつだ。
ダメだ。今回はそういう相手じゃない。付け焼き刃の技術と俺達の魔法で叶う相手じゃない。俺の本能がそう告げていた。
「アンリ、戻ってこいッ!!」
後ろを振り返るアンリ。心配そうな目で、とことこと俺の元に駆けてきた。それでいい。
前方をもう一度にらみつける。
高架橋下の暗闇からすっと体を現わした魔道士と、そのパートナー。
「おやおや、防がれてしまいしたよ。どうするんですかグヴェイン。それであなたは一番になれるのですか。ん? 一撃必殺で仕留めるんじゃなかったでしたっけ?」
俺が最初に喋ったそいつを見て感じたことは、悪そうなやつだってこと。多分、川で猫が溺れてても絶対助けに行かないね。断言できる。俺も助けるかはわからんが、状況による。こいつは状況によっても唾吐き捨てるだけで助けに行かないね。絶対だ。
背が小さく、そこそこ上等そうな黒いスーツを身に纏っている。オールバックヘアーが特徴的だ。
「申し訳ありません」
グヴェインと呼ばれているこっちは手足が細長い魔道士。男かな。髪が長い。感情のねぇような目をしてる。それ以外に印象はない。
「先が思いやられますね。ま。魔法そのものは私が放ったのだから、一概にあなたを攻められませんけどね」
逃げる準備をしなければならない。本能はそうしろと告げていたのだが、しびれが一向に取れる気配がない。もしかするとこのダメージ、結構重傷なのか? 判断基準がないからわかんねぇ。頭はちょっと朦朧としている。
「おやおや。羊たちがまだ敵対心を剥いてこちらを見ていますよ。戦意もそげない魔法のようですね。どうするんですか、グヴェイン」
「もう一度魔法を放ちます」
「だったら、私が言う前に準備をしていたらどうなんだ?」
「申し訳ございません」
言って、奴らは再度魔法を放つ素振りを見せた。
両手で何とか上半身を起こした。
「アンリ。逃げるぞ」
「ククク。逃げの一手しか打てませんか。面白い。面白すぎる! 弱者を狩るってのはいつだって気持ちがいいものですねぇ。グヴェイン!」
「撃てます」
「くらえよッ。羊ィ!」
勘が当たってれば、魔法は一直線。さっきくらった時、一瞬だけ見えた。どんな性質かはわからないが。とにかく軌道は一直線だったように見えた。
発光。放たれた魔法。
──読み通り、一直線ではあった。
しかし線が太い。暗くてよく見えないがこれは……樹? でかい大木かなにかか。
正確に判断する前に、それが俺の体に突き刺さっていた。
「ぐぁぁっ!」
痛くはねぇんだが、やっぱり体がぴりっとくる。
幸いクリーンヒットは避けることが出来た。
やっぱりこれは樹だ。でけぇ大木。植物を手繰り出しているのか? そういう魔法なのか。
「いけないいけない。羊だというのに、あまりに敵意を見せてくるから、パートナーの方を狙ってしまいましたよ。中々気絶しない羊さんのようですが、ま。これで動けないですかね」
「アンリ。逃げろ。いいから早く逃げろ!」
困惑しているアンリ。今にも泣きそうな顔で、心配そうに俺を見てくる。
大丈夫だ。血みどろの殺し合いじゃねぇ。そう言ってただろうが。俺は後で戻ってくりゃいい。だがお前がやられちまったら終わりなんだよ。
「そうだグヴェイン。今日取得した魔法、使いますよ」
「はい」
違う魔法もあるってのかよ。見た感じ俺がくらったこの魔法は牛丼屋店員のように強化済みのように見えるが……そんだけ勝ち続けて板を何枚も取得してきた手練れってことか?
今度は放つまでが早かった。
先程のものとは違い、細い木の枝が奴の掌から出てきた。
背を向けたアンリの後頭部にそれがちくりとささり、伸縮して手元に戻っていった。
アンリはこちらを見返した。どうやらダメージはないようだが……一体何の魔法なんだ。
「こちらは意外と速く放てるのですね。これは一つ学習しました。これで、成功しているんだな?」
「はい」
黒スーツは満足げに頷き、こちらを向き直った。
「羊諸君。君たちは本当に残念な生き物ですよ」
薄気味悪ぃ笑みだ。
「今日、尾行していたんですよ。あなた達を。私達は既に索敵範囲に三枚費やしました。馬鹿には取れない発想ですよね。まぁ、魔法も相当量強化しているんですが。あなた達は気が付かなかった。気が付けなかった。私達の尾行を。二組で行動をしているというのにね」
「ペラペラとよく喋るね」
「弱者を絶望に追いやるのが私の趣味でしてね。その点で、この試験。いや、ゲームは本当に最高。エキサイティング。面白すぎる……ふ、少し興奮し過ぎたかな。それで、今君に植え付けたその種。ククク。笑える。この試験において位置情報なんてのは特に有益なものなんだけど。その位置を教えてくれるんですね。つまり、君たちがどこにいるか手に取るようにいつでもわかるということ。いつでも私たちは家畜を狩るように君たちを狩れる立場にいるという訳だよ。面白い。面白すぎる!! いいよ、その目。その、絶望にくれた少女の目。終わりだよ。君たち。ま、いずれにせよ私達が一位通過するから、ここで脱落出来たのは無駄な時間を省けたかもしれないね。いいか。ここで逃げても無駄だってことはよくわかったか? わかったならそこでじっとしてろよぉ! クハハッ」
再度、掌をこちらにかざしてきた。今度は俺じゃない。アンリの方を向いている。
「──死ねよッ!」
「避けろ。アンリッ!!」
アンリが蒼白な顔でこちらを見てくる。無理だ。足が完全にすくんで、震えている。この黒スーツに圧倒されてしまったんだ。無理もねぇ。常軌を逸して、イッちまってる感じだ。俺だって見たことねぇよこんな奴。
クソッ! 動きやがれれ。俺の体。
今日、才川から言われた言葉を思い出してた。
試験生とパートナーの時間は永久じゃない。
一瞬で、何度も何度も反芻していた。
気が付くと、俺は体が動くとか、動かないとか。そんな前提を考えずになせる、ありったけの力を尻と太ももに込めて跳ねた。
跳躍して。
体全身を大きく伸ばして。
──衝撃。
よかった。衝撃を感じたってことは、ちゃんと魔法の軌道に身体を差し込めたってことだ。
だけどダメだ。これ以上は。ブラックアウトってヤツの寸前を体感しちまってる。
・
薄ぼんやりした視界の中に、アンリの顔がまずあって、安堵した。
「ここは……って、俺ん家だな」
がばりと起き上がる。何にもなかったみたいに、平静な、俺の家だ。
もう昼前か。結構気を失ってたんだな。
「そうですよー。見知らぬ天井でも期待してましたか?」
同様に何もなかったようにいつも通りで、あっけらかんとしているアンリがいた。
「おいっ、大丈夫なのか」
アンリの両肩を取って、顔を覗き込む。やっぱりいつも通りのアンリに見える。
「大丈夫ですよ。昨日。あの後私だけ逃げ帰ることに成功しまして。それでちょっと時間が経過した後にですね。戻って汐見さんを引き連れて帰って来ました。重かったんです。途中まで引きずったんですが、結局家にあった滑車を使って運びました。人々から奇異の目で見られましたよ」
「はは。そりゃすまなかったな」
俺の心配をよそに、アンリはにんまりと笑顔をこぼして話をした。
ズボンや服を見ると、こすれたあとがたくさんあった。てか、そう言われると体の節々が痛いな。これって戦った痛みじゃなくて、引きずられた痛みなのか。
「板は。板は無事だったんだよな?」
「えぇ。この通り」
すっと袂から板を取り出して、それを見て俺はようやく一息つけた。
「おい。お前は本当に大丈夫なんだな?」
「大丈夫ですよ。何言ってるんですか。それよりお腹が減ったんですよぉ。汐見さんを引きずったので。汐見さんを、引きずったので」
「二度言ってもごちそうは出ないぜ。仕方ない。ありもんしかないが、焼きそば作るか」
「やきそばー!」
やたらとソースを入れすぎてしまった焼きそばを頬張りながら、俺は考えた。
事態は明るくない。こうやって焼きそばを楽しく囲って、暢気にすることが本来ならば出来ないくらいに、危うい。
あいつらの魔法。攻撃力がまるっきり違った。汎用性も高そうだ。何よりアンリに埋め込まれたという魔法。もし言った通りの効力を発揮するのならば、俺達は本当に囚われの羊だ。いつ襲われるかもわからんプレッシャーを感じ、常に危機感をもたなきゃならない。
どうすべきが正しいのか。すぐに策は出てこない。
もう一度俺はアンリを見た。青のりを唇につけて眼前のやきそばに精一杯な感じだ。
事態をまるでわかってないかのように、脳天気に見える。いや、わかってはいると思うが。そこまで深刻に考えてないってことなのかな。
こいつの試験に対する姿勢。俺はブラジリアン柔術の一件以来、やる気があると思うことにしていたけど、違うのかな。本当は理解出来ていないのかな。俺だけが不安を抱えているのかな。そんなことはないと思いたいけど。
これからの考えがまとまらないながらも、俺達はテレビを見たり、ゲームをしたり。音楽を聞いたりしてその日をやり過ごすことにした。どこかインドアの娯楽に集中しようとして、昨日起きたことを忘れようとしていたのかもしれない。
夕方くらいになって。
このまま何も行動しないのはやはりまずいと思ったので、ひとまず才川に電話をすることにした。
だが、留守電に繋がってしまったので今の状態をメールに打ち込んで送信しておいた。
「今日はなにがいい?」
夕食の準備のため、コントローラー片手にテレビとにらめっこしているアンリの後ろ姿に声をかけた。
「今日はカレーがいいです」そのままの姿勢で答えるアンリ。
「お前本当カレー好きだな」
「今日は。本当にカレーがいいんです。あと、明日も。明後日も。出来れば毎日」
「どんだけだよっ。まぁ一度大量に作り置きすれば出来んこともないが。四日目辺りから果たして本当に食えるのかどうかの線引きが危うくなってくるからな。そのジャッジをアンリが請け負うなら作ってやらんこともない」
「やります。断固やります」
「口だけじゃないよな」
「やりますよぅ。本当信頼ないんだから」
四日目には文句垂れてるのが目に見えてるんだけどな。まぁとりあえず買いに行くか。
「それじゃ、買い物いってくるから。おとなしくしとけよ」
「あ、待ってください汐見さん。プリクラ。どこかに貼っておきました?」
「ん? あぁ。あれな。どっかに貼ろうとは思っていたんだけど、なんせあの格好だろ。どこに貼ろうか悩んでるんだよな。あんまり人目につきすぎてもあれだし」
「私はもう貼っておきましたよ」
「どこに?」
「ふふ。秘密です。なので、汐見さんも早いとこ貼っておいてくださいね」
「おう。よくわからんが。そうしておくわ」
たまに女子ちっくなところを見せるからアンリはよくわからん。
しかし俺もカレーだけなら本当に慣れてきたもので、材料を買うのにも時間を取らずに買い物を終えることが出来るようになってきた。うーんどうだろこの特技。料理が出来る男はもてるってテレビでやってたし。悪くはないんだろう。
うっとうしい雨の中、俺はスーパーの袋をひっさげて帰宅した。ジャガイモが少し濡れてしまったぜ。
「ただいまー」
返事がない。まったく。ゲームに熱中しすぎだ。
だが、リビングのドアを開けてアンリのゲームをしている後ろ姿はなかった。
トイレかな、と思って開けてみるも、いない。風呂場か? いない。
この家にこれ以上隠れる場所なんて、ありゃしない。
「アンリー。おーい。材料買ってきたぞーい」
反応がない。
背筋が凍るような悪寒がじわりじわりとやってきた。あり得ると思える。一つの予感が生まれていた。
ジャガイモをいたわることも忘れて、俺は袋を放り出して踵を返していた。
時間から見て、そんなに遠くへは移動出来ないはずだろう。
考えたくもねぇが、考えられるのは──昨日のあいつらが俺の家に来たってことだ。クソッ。なんでそんな可能性を考えずに、無防備に家を出ちまった。家だから安全だと錯覚していたんだ。鍵さえ閉めればって。
宅配便か何かを装って家に来たんだろうか? 汚い。汚すぎる。精霊よ、そんなことする奴は失格にしちまえ。
雨の中、色々な想像を膨らませ続けた。
どこだ。どこにいる。可能性は。
俺はひたすらチャリをこいだ。傘をさしていても容赦なしに雨が足や肩に打ち付けて来やがる。今日は強い雨が終日降り続けるらしい。
焦りだけが、胸の内に押し寄せてくる。
マジかよ。
いなくなっちまうのかよ。そう簡単に。さっきまで、笑顔で側にいたってのに。
近辺を一週ぐるりとまわって見ても、いない。
手当たり次第聞き込んでみるも、全く反応がない。雲を掴むような気持ちだ。
本当に奴らが連れ去ってしまったんだろうか? もしそうならただの拉致じゃねぇか。あってたまるかよそんなの。
猛然とあてもなくチャリをこぎ続けた。
その道すがら、遠くに知った影を見たような気がした。
あれは……
「あら、汐見さん」
「雨露木さん……とフラン。どうしてこんなところに」
「今から汐見さんの家へ行こうとしていたの」
「ただ話がしたかっただけよ。そして、アンタ。汐見とか言ったわね。呼び捨てにしないでよね」
「うふふ。そうだったかしら」
えーと? 何のことだかさっぱりわからねーが、前に見た二人よりなんか印象が変わっているな。この前俺達と話した時から、気持ちが通じ合えたってことなんだろうか。
「でもアンタ。すごい顔しているけど大丈夫?」
「大丈夫じゃねぇんだ。それが」
俺はことの事情を簡単に話して説明した。
「まぁ。それは大変……」
「あのバカアンリがね」
「だから出来れば捜すのを手伝って欲しい……お願いします。雨露木さん。そしてフラン」
「ええ、もちろん」
「アイツ。あんな大口叩いて、さらに私を差し置いて脱落なんて、絶対に許せないんだから」
そういや、フランはアンリと同じ学校だったんだよな。俺はそんな暇がねぇってわかってるのに、知りたいことを聞いていた。
「あいつって。どんな奴だったんだ? 大口って?」
もしかしたら、何かしら俺が知らなかったことをフランなら知ってるんじゃないかと思った。それが今必要なことかどうかといえば、違うかもしれないが、こんな風にいなくなってはじめて、アンリのことをもっともっと知りたいって思うようになっていたんだ。
「あいつはね。本当にグズでノロマでバカでアホなの」
びくりとしたような表情をなぜか隣の雨露木さんが見せた。いや、大丈夫ですよ雨露木さん。あなたに言ってないですよ。
「なのに、試験前にこんなことを言ったのよ『絶対に一番を取るんだ』って。緊張しすぎて一睡もしないまま。朦朧としてて。寝言のように何度も何度も。成績が一番低くて、ギリギリの試験参加だったのにね。バカだと思ったわ」
はは。アンリらしいような気もする。
「そもそも、あいつは本当ならここにいないはずなのよ」
「どういうことだ?」
「なぜって、バカだからよ。いっつもテストで落第するような成績ばかり取ってね。皆に魔道士になるのは絶対無理だろうなって思われ続けて来たんだけど。あいつ。バカなのに。めちゃくちゃ頑張ったのよ。相当の期間、ずっとね。あたしが手伝ってあげたからということもあるけどね。あたしはそのアンリを知ってるから、むざむざ落ちて欲しくないの。ま、最後に一番になるのはあたし達だけどね」
「筆記試験を合格しないと、精霊試験には挑めないのか?」
「まぁ、大体そんな感じね。実技試験もあるんだけど」
「さぞ苦労したんだろうな」
あいつがどんな意気込みで、どんな思いを持って、この精霊試験に挑んできたのか、俺は知らない。そうだ、知らなかったな。知った気になってた。もっと聞いてやるべきだった。
だが、フランが今言った言葉を当てはめれば、あいつが本気だったことは容易に想像出来る。
ブラジリアン柔術だって、あいつが無い知恵を絞って出した答えで。行動に移したのは、試験で絶対に残りたいからってことだ。わかってただろ、俺。
「フラン。あいつは、魔道士になりたいんだよな」
「その気持ちがなければ、あいつはそもそも大嫌いな勉強をしなかったわよ」
「ああ。そうだよな。そうに決まってる」
その後、二人と別れて俺はチャリを飛ばし続けた。
あてはなかった。けれども体を動かさなければ気が済まなかった。ここで終わらせたくない。終わらせちゃダメなんだ。こんなとこで終わっちまったら、未練しか残らない。
無意識にこぎつづけて、結果的にある場所にたどり着いていた。来て意味があるのかって場所。
そこに来て初めて、無意識の願望に気が付いた。ただすがっただけだ。いてくれ。ここにいてくれって。
もし本当に奴らに連れ去られてしまっているのならば時既に遅い。けどそんなことは考えたくねぇ。だから俺は連れ去られてないって可能性を考えることにしてそこに足を運んでいたんだ。
じゃないとやっていられないから。チャリを漕ぐこともままならなかったから。
その可能性にすがるようにして、ゲーセン『CLOUD』に到着していた。
入店すると、普段とは違った雰囲気になっているのがわかった。
熱気。歓喜──変わってどよめき。
一体なんだと店内を見ていると、人垣がある場所を見つけた。
これは……アンリがいつもやっている例の格ゲーだ。
まさか。そんなことがあるわけねーと思いつつ俺は必死に背伸びして人垣の隙間を見た。一筋の願いを込めて。
──アンリが座って、ゲームをしていた。
俺は胸を手に当てて、なで下ろしていた。これが胸をなで下ろすってことか。
よかった。あのヤロウ。いつも部屋にいる時のような、しれっとした顔でゲームしてやがる。
はぁぁぁぁぁぁ。全く。本当にびびっちまった!
ってか何やってんだよあいつは本当に。煮詰まってきて気分転換したいってことだったのか? 理由はあとでちゃんと聞くことにしよう。
さっさと人垣の中に入り込んでアンリを連れて帰ろうとした。
が、それを阻むように歓声。どうやら白熱した戦いを演じているらしい。ギャラリーはゲームに釘付けで輪を作っている。俺の入り込む余地なんてなさそうだ。
仕方ないから待つことにした。どちらかがもうワンセット取れば勝負は終わる。すぐだろう。
「あの子もいい線いってんだけどなぁ」
物知り風なゲーヲタっぽいやつが腕を組みながら横で一人呟いた。
「なぁ、そんなにいい勝負してたのか?」
俺はこのゲームをそこまでやりこんだわけじゃないので、ここまでギャラリーを惹きつける程の要素がどこにあるかわからない状態だった。
「いい勝負っちゃいい勝負だね。上位ランカー同士の戦いって訳じゃないけど」ゲーヲタは気さくに返答してみせた。
「じゃぁなんでこんなに人がたかってるんだ?」
「かれこれ十戦近いみたいだからねぇ。正確には俺も知らないけれど。もっと多いのかな? 向こう側見れば連勝数が表示されてると思うけど」
「そんなにやりあってるのか」
あいつ。そんなに連コする金を持っていたっけか。いや、そうか。この前来た時にいくらか金を渡したんだった。あの時の金か。
「連勝中の相手はここのゲーセン一番の凄腕だ。連コは拒まないってんで有名なやつだよ。そこにこの子。わりとポーカーフェイスだが、負けた瞬間即コイン投入。速攻で負ける時もあればいい所まで行くときもあるんだがな。そのひたむきさが皆を静観に導いたのかな」
どうみても静観じゃねぇだろこれは。
「ま、最初は皆単純に客として並んでただけさ」
どっと再度歓声が沸いた。
モニターをなんとかして見てみるとどうやら勝敗が決着したらしい。
再度アンリが積み上げている五十円に手をかけようとしている。
俺は怒濤の勢いで割り込んで入った。
「アンリ!」
振り返るアンリ。普通の、いつもの表情。負けてるのがよほど悔しいかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
「汐見さん」
そう言ってから、俺が現われたことに心底意外そうな表情をした。俺がびっくりだっつーのに。
積み上げていた五十円玉をさっと取ってやった。入れられたらまた待たなきゃならんからな。
「帰るぞ。もう十分遊んだんだろ」
アンリは一瞬目を伏せてからすぐに「わかりました」と言った。
おかしいな。いつもであれば食い下がると思ったのだが。
「いいのか? 結構負けが込んでたみたいだが」
だものでそう聞いてしまっていた。
「大丈夫です。随分遊んだので」
「そうか」
満足したのならいいだろう。それにアンリも今の状況をわかっているはずだ。わかっていての行動のはずだ。
が──。
「太鼓しましょうよ、太鼓」
呆れちまいそうになる。
「お前なぁ……」
だが俺はなぜか断れなかった。もしかすると俺自身が今のアンリに対して附に落ちなかったからかもしれん。なんとなくぼうっとした違和感というか。もやもやしたものが俺の心の中であふれかえっていた。
一緒にゲームでもやってやればそれがはがれ落ちるんじゃねぇか。そんなところ。
これでアンリの気が晴れて帰宅するならまぁよしってことにしとくかってことにしてコインを二枚投入した。
「ほら、曲選べよ」
「私が決めちゃっていいんですね。後悔しても知りませんよ」
「自信あるのか?」
「初めてですけどね、まぁ」
俺はアンリが上級向けの曲を選択しようとするのをなんとか防いだ。
「一曲目でずっこけたら二曲目以降は出来なくなるんじゃないか? つうわけでこれ」
丁度中級者と初級者の間くらいのを選んでやった。あんまり簡単過ぎてもつまらんだろう。
「置きにいってますねぇ」
「二曲目はそのかわりどぎついのをやってやろうじゃないか」
なんてわりとどうでもいい自信の見せ合いをしていると曲が始まった。
この太鼓ゲーを一回もやったことはなかったが、そこそこは出来るだろうと思っていた。しかしやってみると案外難しい。大口叩いたのが急に恥ずかしくなってきたぜ。
ちらとアンリの方を見てみる。
「くおー!」
一心不乱にたたきつけている。
俺以上にめちゃくちゃだった。この調子だと二曲目は初級レベルだな。
太鼓を叩くアンリの目は、えらく熱心だった。
そんなに俺に負けたくねぇのか。こんにゃろ。
結局二人してスコアは散々な結果に終わった。
「なんだ。失敗しても二曲目遊べるのな。どうする?」
「上級でいいですよ」
「言ったな。もう知らんぞ俺は」
まぁ失敗してもワンコインで二曲しか出来ないようだし。好きなようにやればいいさ。
始まってみると上級者は目が回るような難易度だった。一曲目であんな結果を出しておきながらまだどこかでやれるだろうという気持ちがあったのが一気に吹き飛んだ。仕方ないからもう適当に叩いてやり過ごすことにした。
アンリも同様のようで、もう音ゲーってレベルじゃなかった。なんか別のゲームをしているような感覚に陥った。
曲が段々とヒートアップしていくにつれて、俺達の手も速まっていく。全くタイミングとか合ってないけど。
横でいびつな音が聞こえた。
見ると、アンリえらい角度から鋭く太鼓を殴打している。違うゲームになってるぞおい。
その手を止めることなくアンリはもう音楽関係なしにやたらめったらと打ち付け始めた。力もかなりこもっている。
「おいおい。お前強く叩きすぎだぞ」
ぶっこわしたら洒落にならん。俺は叩くことを止めてアンリに声をかけた。
しかしなおも止めない。ここでようやくはっきりと、アンリの様子がおかしいことに気が付いた。
歯を食いしばって、激しい剣幕で太鼓をにらみつけ、打ち付けているアンリ。
「おい、やめろ!」
気が付くと俺は後ろからアンリを羽交い締めにしていた。
ぜえぜえと大きく呼吸するのがアンリの背中から伝わってくる。
「どうしたんだ」
どうしたんだって。わかる気がした。なんでこいつが、こんなに取り乱しているか。わかる気がしたのに。俺は聞いちまった。
聞いたと同時に、アンリは暴れた。太鼓のスティックが俺の太ももにばちんと当たった。痛ぇ。そのまま振り返ることもせず、一目散に店を出ていくアンリ。
俺も慌てて追いかける。
すぐに走っている後ろ姿を捉えることが出来た。
「おいっ!」
叫んだ瞬間、アンリは体勢を崩してずっこけて、そのまま動かなくなった。
膝からいっちまったなありゃ。
追いついて、手を貸してやる。
「おい、雨の日は──」
俺は言葉を止めた。
励まそうと作っていた笑顔も止めてしまっていた。。
俺を見上げるアンリの目がで今まで見たことのないものだったから。
とても儚く、弱々しい──目、表情。
俺は言葉を飲み込み、そのまま無言で手を差し出し、アンリはゆっくりと立ち上がった。
そして、二人してびしょ濡れだったのに、そんなことは些細なことのように。まるで問題ではないように、俺達は互いにそのまま見合っていた。いや、俺はアンリの目を真っ直ぐと見ることが出来なかったから、気が付くと血が出ているアンリの膝をただじっと見つめていた。
雨がざあざあと、しばらく俺達を打ち付けた。
「わたしって、いつもこうなんです」
ぽつりと、アンリが雨の音に紛れて言った。
「……誰だってこけるさ」
人間がこけるかどうかなんて問題じゃないのに。その場しのぎで俺は返事してしまっていた。
アンリは、唇を噛んで俯いて、もう一度俺に向き直った。頬から雨が、滴り落ちている。
「なんでゲーセンに来た。危険なこと、わかってるんだろ」
俺はアンリがした、あるいはしようとしている告白を妨げるように。質問をした。この続きを聞いてしまったら、俺が後悔してしまうだろうって。そうわかっていたから。
「大体何をやらせても人並み以下なんです。格ゲーもそのようでした。勝てませんでした。あれだけやったはずなのに。がんばり続けてようやく追いつくことが出来るんだけど、その時には他の人はもっと違うことが出来るようになってる。そんなことを実感するとふっと思ってしまいます。本当に私って大丈夫なんだろうかって。そういうことが、今まで多くありました」
しかし、俺の問いに気にせずアンリは語り続けた。
「わかってるのに。能力が低いってわかってても。思っちゃうんですよね。自分だってなんとなるんじゃないかって。一つ、これってものを打ち立てて、一か八か。つまりは魔道士になるんだって賭けてみて。がんばって。がんばって……自分でも、なんとかなるんじゃないかって。素質なんて関係ないんだって。もうだめ。なんて思ったらそれが終わりなんだって。ふんばれ、ふんばれ、って」
一筋。まぶたの辺りから、大きな水滴が頬を伝わって地面に落ちた。雨であって欲しい。そう、切に願った。
「でも私は弱いようです。才能的にも、人間的にも。弱いんだなって。この前の戦いでも思ってしまいました。足、震えてました。怖かったです。度胸も足らないようです。だから、試験。ダメなんじゃないかって。結局、私が……夢を持ったこと。それ自体がやっぱり間違いだったんじゃないかって……思うようにもなって」
そんなことはない。俺とは全然違う。そんな葛藤に苛まれながらも、一本道筋を見出してこれだって目指そうとしている。それは尊いもののはずだ。
俺は今すぐにでもそう言ってやりたかった。
だが喉から出るのはか細い呼吸音のみ。
無責任に言えるだろうか。大丈夫だって。気にすんなって。そもそも俺自身が自分の才能もわからないし、何になりたいってものがないんだ。何かを目指して必死で努力したことなんてないんだ。そんな俺が、言っていいのだろうか。
「……ううん。夢を持ったこと自体がどうとか。それらについては、もうこの際いいんです。よく、なったんです。ただ──」
迷って何も言わないままの俺に、続けられる言葉。
アンリの表情が一瞬晴れやかになっていた。一瞬だけで、すぐに辛辣な表情に戻った。
この際いいって……どういうことだ。俺は言われたその言葉の意味が理解出来ないまま、また口を閉ざしてしまった。
降りしきる、雨。
しばらくの間、俺達はまた立ち尽くした。
俺はアンリが言ったことをひたすら咀嚼して、かける言葉を探していた。
「……汐見さん。あの時の続きの話、しましょうか?」
また口を開いたのはアンリだった。
「あの時?」
「汐見さんが私に怒りましたよね。何で何もしないんだって。何もしない理由。私は怠けものですから。ということにしておくこともできるんですけど。やっぱりそれ以外にもありそうなんですよね。私の中ではまだ上手く説明出来ないかもしれないですけど。今なら言えそうです」
「あぁ。あの時は……まぁ俺もな」
それは済んだ話だ。マスクマンで和解。解決。違うのか? いや、違う。俺はあの時思考を停止させた。色んな事柄を見て見ぬふりをしていた。
「その前に、覚えていますか? 初めて会った時のこと」
「ああ。覚えているよ。ハムとプリンを食い散らかす不法侵入者のことはよーくな」
「そうじゃないです。実はもっと前に出会ってたんですよ。じゃないと私。汐見さんを尾行しませんでしたから。曲がり角で、霊体化した私にぶつかって。手を取って起こして。日本にも優しい人がいるんだなって。初めて思えたから、尾行して汐見さんの家を突き止めたんです。私に気が付いて、触れられたから。手を取ってくれたから。パートナーとしてどうかな、なんて。単純ですよね私って。そんなことで。でもあの時、なんだか運命的なものを感じたんです」
どうだったか。たしか、やたらと急いで、鍵も閉めずに出てたから……ん? いや、でもあの日そんな記憶はない。
「あの日、初めて会った朝に会っていたのか?」
「違いますよ。あの日よりもっと前に会ってたんです」
ますます思い出せなくなったが、こいつがそういうのならばそうなのだろう。遅刻しそうな日なんていっぱいあったしな。
「実際汐見さんがパートナーになってくれて、よかったです。私の直感を信じてよかったです」
そんな素直な言葉……俺が聞いていいのかよ。
「大精霊様から試験前にあった忠告で、これだけは覚えていました」
微笑んでみせるアンリ。頬が軽くつり上がっただけで、微笑とは言い難いものだった。
「『試験生はなによりもパートナーを大事にして、一生の、大切な思い出を作りなさい』って。私はそれを聞いて、なんだかわくわくして。思い出も作ろうって思って。それで汐見さんと出会って」
話している内に、みるみる表情が変わっていった。それもまた、今まで見たことがない感情をむき出したアンリだった。それは悲しみか……哀しみか……どちらも該当しそうにないな。不安から来る、恐怖、なのかな。
「それで、過ごしている内に、私の中で本当に、確信を持って思えたことがあるんですよね。試験よりも……大事なことがあるんだなって。人との絆っていうか……それは汐見さんと……もっと……もっと一緒に過ごして、思い出を作りたいなって。そう思って。それが何もしない言い訳にはならないけど。けど。本当にそう思えたんです。続いて。続いてって。何かしちゃえば。さっと崩れてしまいそうで」
拳をぎゅっと握って。爪が掌に食い込んでいる。
「カレーを食べて、テレビを見て。そこに汐見さんがいて。才川さんもエルロット君とも……雨露木さんやフランちゃんだって。色んな人達とどんどん仲良くなれそうで。それだけで、暖かかったから。何より楽しかったから。そう思えたから。もっとこうしていたいなって思ったから」
「もういい」
俺は雨で泣いてるんだかどうだかわからねぇその魔道士の頭をぽんと叩いてやって。
「なりたいんですよね──魔道士」
小せぇ両肩を思い切り包んでやって。
「もういいって」
「でも、それ以上に別れたくないです。別れたくないんです。じおみさんと──それが、なにより怖くて。怖ぐで、例え別れる時は笑顔でいっじょにいたいのに。もうすぐお別れかもしれないって」
抱きしめてやった。そうする他なかった。ひたひたと打ってくる雨が、思いの肌寒く感じてきたし。な。
「お前のことはよくわかった」
アンリががんばろうってしていて。この試験に対する熱情もちゃんと持っているんだなんてことは十分にもう、理解出来た。
多分、俺達は今まで本気で話したことがなかったんだ。それで、あんま通じ合えてない部分があって、初めてそれを打ち明けて通じ合えて。感情を露わにできて、ようやく理解しあえた。
俺は別に大したロマンティストじゃねぇけど。この暖かみはそんな繋がりを感じさせる暖かさだって言ってもいい。そんな例えがぴったり来るくらいに俺は心に来たよ。
「怖かったんです。汐見さんが、買い物だってわかってるのに。消えてしまったみたいで。側から離れてしまって。そのままどこかに行ってしまうんじゃないかって。襲われたんじゃないかって。部屋で一人で。スーパーに行ってもいなくて。不安で。なぜかそのままここに来たんです。プリクラ。撮ったから」
パニクってわけわからなくなってここまで来たってことか。その場所がゲーセンってのが、アンリらしいけど。
異世界にくるとなりゃ誰だって不安もストレスもたまるだろう。
逆を考えれば……俺だってそうだろうな。
そんで見知らぬ人間と暮らして、戦って。
あんなイッちまってる奴と対峙して。
怖くなっちまうよな。当然だ。
小さい両肩が震えていた。
俺はもう一度その肩を包み込んでやった。
後悔しちまってるよ。やっぱり。
いつもへらず口を叩いていたのは。
いつも変わらずに奔放なままでいたのは。
いつも笑顔で横にいたのは──なんでだ?
持っていた、あるいは持ち続けていた不安を隠す為だろう。
俺は、そのアンリをバカだと思っていた。バカだから神経が図太いだなんて思っているふしがあった。
全部とは言わねぇが、そんな接し方をしていた部分があった。
──後悔するに決まってんだろうが。
実際バカで怠惰な部分もあるけど。それだけじゃねぇ。こんなに感情をむきだして、気持ちをはき出して人の前で泣ける人間を、俺はただの脳天筋のバカなんて言えやしねぇ。
俺だよ、バカなのは。バカだったのは。何にも考えちゃいねぇじゃねぇか。
不安はないんだよってアピールは俺への為だ。俺が心配しねぇようにって配慮だ。そうなんだろ? 不意打ちで攻撃を受けて、気絶して、自分の試験が危ういってのに。俺の前で笑顔だった。
俺もまだ高校生だが、こいつはさらに幼い少女だ。
そんな少女が異世界にぽんと放り出されて、俺に出会って、俺に頼ってくれてる。
俺みたいな、凡人に。
俺がこいつの……試験のパートナーとして。後悔を払いのける為にやってやれること。一つしかねぇよな。俺が行動するのに。寄り添ってあげるのに、今の話を聞いただけで、他に理由なんかいらねぇよな。
「一度、帰ろうか。カレー。作ってやるから」
覚悟してたんだろうか。俺と別れるの。
だから、カレー。ねだってたんだろうか。プリクラ貼っとけって。言ってたんだろうか。
俺の胸の中で小さく頷いたのは、着の身着のままの、一人の幼い少女だった。
・
ほとんどずぶぬれになりながら俺はチャリを引いて、アンリをおぶって帰路についた。あいつらに出くわしたらと思うと気が気でなかったが、無事に自宅前まで到着出来た。
アパートの階段を上っていくと、部屋の前に雨露木さんとフランがいた。
「雨露木さん……ここで待っててくれたんですね」
「一度情報を共有した方がいいと思って。でも。よかった……アンリちゃん。無事だったのね」
「ああ。ぐったりしちまってるけどな」
俺の背中で目を瞑って。寝ているのかどうだかもわからない。
「アンリ! こんなところで何をしけた顔しているの。まだ試験は始まったばかりじゃない」
フランの励ましも。あんまり耳に届いてないみたいだ。
「よかったら、カレー食っていきます? 材料は作り置きの為にやたらと買ったんで」
「私達は……大丈夫です。帰らないと行けない用事があるので。それより」
雨露木さんは何か含みを持った目でフランを一瞥した。
フランはそれを見て雨空を見やった。
「あのね。ありがとね」
「はい?」
「だから、ありがとって」
感謝されること。なんかしたっけか。
「だーかーらー! ありがとって言ってるでしょ!」
「おう。全然意味わかんねーんだが?」
俺がそう言うと、フランが頬を赤らめてしゅんとしてしまった。
「うろぎになんか言ったんでしょ。私達ね、結構仲良くなれたの。あんたのお陰って。うろぎが言ってたから。筋通しにきただけよ。悪い?」
なんだ。そんなことか。俺が思っていた以上に、雨露木さんとフランの仲は辛辣だったのか?
「だから、はい」
フランがポケットからなにかを取り出し、俺に差し出した。それは……木の板だった。
「えっ?」
「えっ? じゃないわよ。マヌケな顔しないで」
「それはお前らの板……じゃないのか?」
「あげるっていってるのよ! バカ。本当にバカじゃない? あのね。あんたらって本当に弱そうだからね。あげるのよ。その辺の弱そうなヤツから取ってきたの。私達はもう強くなったのよ。魔法も新しいの覚えたのよ。だからこれくらい平気。その代わり、前のと合わせて三枚にして返すこと! いいわね?」
な、なんだこのツンデレはぁ!
強くなったって。お前らの連携がそうさせたってことなのか? 全然その理屈がわかんねーし。俺がそこまでの恩恵を受けていいかどうかわからねぇけど。
……ナイスツンデレ! そんなふうにしか表現できない。
きっと、フランはアンリのことをめちゃくちゃ心配してくれてんだろうな。こいつら、なんだかんだで熱い友情で結ばれてるんだ。
「ありがと。もう、お前らには顔が立たないよ」
「一生へりくだりなさい!」
「汐見さん。ごめんなさいね。本当なら、私達も側にいてあげたほうがいいと思うんだけど……」
「いやとんでもないです」
「何言っているのうろぎ。あたし達は別に仲間とかじゃないから。むしろ側にいなくて当然なのよ。板が手に入っただけありがたく思いなさい」
「本当に貰っていいんだな? 雨露木さんも、頂いていいんですか?」
「いいんです。多分、汐見さんが思っている以上に、私達は汐見さん達に感謝してますから」
じわりと来ちまうよな。こういうのって。
「ほら──人との繋がりを。だれかに寄り添って、思い出を作るのも決して悪くねーみてぇだぞ?」
きっとひたむきだったお前を見て、フランも頑張って欲しいって思ってるんだ。
「アンリ。こんなとこで脱落したら絶対に許さないんだから」
「ふふ、フランちゃんのツンデレ」
緊張感が途切れたのか。旧友の選別がうれしかったのか。背中のアンリはようやくいつもの笑顔を見せた。
・
雨露木さんとフランがくれたこいつに、全て賭けてしまっていいのかな。
多分、命運握ってる。
あいつらは多分いびるのが好きなサディストだ。間違いない。絶対そういう性格だ。羊と揶揄して、俺達の居場所が手に取れるようにしてわかるのが楽しくてしょうがないだろう。だからアンリもみすみす逃がした。俺達の不安を想像して楽しんでやがるんだ。
その楽しみがいつまで続くか。俺はそう長く持たないんじゃないかと思う。この試験は、どんどん戦っていって木の板を得た方が有利になる。当たり前の発想だ。すぐに戦える格下がいるとなれば、放置して得られる楽しみよりも、実利を優先するだろう。
恐らく奴らが放った魔法も、冷静に考えれば永久に効力が発揮するという可能性は低いんじゃないかと思う。だとしたら強すぎだ。時間制限付き。それが妥当。
俺達に初めてあの魔法を放ったってことは、もしあの後他の誰かに魔法を放っていても、時間制限付きであると前提すれば効力が一番最初に消えるだろうってのは当然俺達。
俺の全ての予測が当たっていれば、あいつらは近い将来。明日か明後日。遅くて三日で……多分姿を現す。次も不意打ちを狙ってくるだろう。
俺らが何かを成し遂げるには遅すぎる時間だ。
ゆえに、こいつ。この板。
「アンリ、使ってくれ。二人がくれた。託してくれた、そいつを」
俺達は互いに見合って、無言で頷いた。
アンリも理解してる。これで得られる魔法が、俺達の未来を決めるってことを。腫れぼったく、赤いままだったが、覚悟を固めた目をしていた。ぎゅっと口を結んでいるのを見て、もう逃げ腰にはならないだろうなって思った。
鬼が出るか蛇が出るか……全く予測ができない。
木の板を重ねると、発光して一つになった。
アンリが板を耳にあてて、精霊とコンタクトを取っている。
息をのみアンリの答えを待つ。
結果、俺達が得た魔法は──
Ⅳ
あれから二日が経過して、俺達は予想通り奴らと出くわした。
「やぁ」
意外にも、やつらは不意打ちをしかけてこなかった。買い物帰りの俺達に丁寧に挨拶をしてきたのだ。
「お、お前達は──!?」
「クク。いい顔してるね。ぶるってるぶるってる。君はここのゲームセンターでアルバイトでもしてるのかな? 行動が恐ろしくルーティンだったから容易に待ち伏せできたよ。もっと後で来ると思った? 一時の危機を乗り越えて安堵していた? 違う違う。頭、使いましょうね。ハハハハッッ!」
「なんてこった………」
「面白い。君たち面白すぎるよ。本当に根っからの家畜だ。狩り取るのが惜しいくらい。でも君たちの行動をずっと追い続けるほど私達も暇じゃないからね」
「やべぇ……やべぇよ。アンリ、逃げよう!!」
「ふぇぇぇぇ。怖いです。ここで脱落はいやだぁ」
ふぇぇぇぇって。ちょっと棒読み過ぎるだろがおい。
「おやおや。逃がしませんよ」
さっと振り返る。奴らは魔法を放つ素振りをしている。
「アンリ。危ないッ!!」
抱きかかえるようにして放たれた魔法を間一髪回避。よし、狙い通り。
「やべぇ。やべぇよ」
「ふぇぇぇぇ」
再度身を翻して逃げる。奴らも走って追いかけてくる。
俺達はゲーセンの近くの使われなくなり廃墟となった工場に、追い詰められるような形で逃げ込んだ。屋内の入り組んだ入口を進んで、広い部屋に出て向かい合った。意外にあいつらの足が速くて焦ったぜ。
「はは。死に場所はここがいいんですか」
「お前達こそ死に場所はここがいいんですか」
「──は?」
「いいね。その顔。お前らは追い詰められたんだよ」
奴らの死角に人影。横の、ドラム缶の陰に才川とエルロットだ。奴らは気が付いていない。エルロットが見計らったようにして、動いた。いけっ。頼む。
「ったぁ!!」
グヴェインの虚を突く一撃のはずだった──だが。ちくしょう。すんでの所で回避され、そのまま大きく蹴り飛ばされてしまった。
「エルロット!!」
才川がかけよって、抱えながら俺達の元まで戻って来た。ま、全てが上手くいかねぇってのは折り込み済みだ。
俺達はあの日から、一定の時間帯に必ずスーパーとゲーセン『CLOUD』に足を運んでいた。全て奴らをおびき寄せる為である。
才川にはあらかじめ連絡をしておき、その時間帯にはこの廃墟にいてもらうようにしていた。
俺達がわざとらしく逃げていたのは奴らの退路を塞ぎ、二対一の状況を作ってここにおびき寄せるため。そして奴らに不意打ちを仕返して、一挙に大勝利……とまぁそれは甘い理想だったようだ。ひとまず、ここに呼び込んで二対一の状況を作れたってのは上出来。
「エルロット、大丈夫か?」
「大丈夫です。まだまだやれますよ」
「一つ言っておこうか。お前らはバカだ。アドバンテージを持っておきながら俺の計算通りのこのこと現われ。二対一の状況を作り出された。家畜と罵っていた俺達にな。怖くて逃げたいなら逃げてもいいぜ」
奴らは俺の挑発にも反応せず、臆している様子も全くなかった。
何をしてくるかと思ったら、両手を叩き始めた。拍手? 乾いた音が、廃墟に響き渡る。
「なるほどなるほど。よーく頭を使ったんですね。二対一ならなんとかなる。二対一にさえすれば絶対に勝てる。そんな浅知恵を働かせてしてやったりという訳だ」
「虚勢は張らないでいいぜ」
黒スーツは拍手をしながら、大きく高笑いをした。そして俺達に向き直った。
「いやいや。私達にとっては都合がいいんですよ。唾を付けておいた家畜がまとめていっぺんにきてくれるなんてね。大判振る舞いですよ。そもそもあの時君らを逃がしたのは、新しい魔法の、ただの実験台にするためってことに気が付いていないのですか?」
そんなことはとっくに気が付いているよ。
「いつでも仕留められる雑魚。手合いした感想はそれしかない。そこのもう一組もまるで歯ごたえがなさそうだ。追い詰められた? ククク……面白すぎる。君たちの方じゃないか。追い詰められているのは。虚勢は張らないでいいんですよ。ここから逃げたければどうぞ。板を置いていってくれるのなら」
わかってる。そんなことは。二対一でも勝てるかどうか覚束ないってのは。
でも。
勝機はあると踏んでの行動だ。
ここで逃げても奴らはいずれすぐに姿を現すに違いない。だから決着はつけないといけない。それならと勝率を上げるために、戦う前に最善のことはうった。それだけだ。
本番は。戦いは──これからだ。
「才川とエルロットは俺達の後ろに下がっててくれ」
<ラフマジック>は一度使えば性質が知れる可能性がある。それに、才川達のネタが通じるかはわからない。<レインボーバブル>もまだ使いこなせていないと言っていた。即効で打ち出せる魔法がないのは俺達と変わらないが、魔法を小出しに出来る。少しずつアシストしてもらうための、後方待機だ。エルロットもまだ全快していない。
ぴりぴりと場が張り詰めた。
魔法がくるか……と思ったが違った。
グヴェインがこちらに突っ込んできた。意外だ。魔法で押してくるかと思ったが。
回避行動を取りながら牽制気味の攻撃を入れ込んでいくアンリ。
相手はリーチの長さを活かしてアンリの体を掴んでこようとする。
それを察したアンリは回避行動を止めて、グヴェインの両手を掴み返した。
互いに睨み、組み合った状態。真っ向から力勝負をするのは得策ではないはずだが、何か考えがあるのだろうか。
エルロットの為にここは忍んでもらいたい場面だ。頼むぞ、アンリ。
「ふふ。私はまだ最終形態ではありません」
挑発する余裕があるのを見る辺り、まだそこまで切羽詰まってなさそうだな。この前はぶるってたってのに、今は度胸ある顔つき。アンリも色々決心を固めて今日に挑んでるんだ。
それにこのグヴェイン。やはり線が相当細いからか、リーチは確かに長いものの、力はあまりなさそうだ。
「グレイシー流を体で体感しなさい」
アンリが突如力を抜いて、相手の懐にふっと入り込んだと思ったら、そこから相手をこかしていた。どうやったのがわからないが……これがブラジリアン柔術なのか? いや、よく思い返せばあの本で見たことがある動作のような。
なんにしてもすげぇ。まさか体得できていたのか。あいつの努力は無駄じゃなかったってことだ。
喜びも束の間。アンリがドヤ顔でこちらを見てきた隙に、グヴェインがすぐさま立ち上がってアンリに覆い被さった。マズい。
「変態、くるな!! 痴漢、悪漢!!」
その言葉で一瞬体を止めたグヴェイン。だが一瞬だけで、すぐに拳を高らかに掲げた。思わず目を瞑ってしまいそうになる──が、そのグヴェインが横に大きく弾かれた。
「お待たせしました」
「エルロット! よかった。もう回復していたのか」
一瞬の、エルロットのその言葉による安堵が油断に繋がった。緊張が弛緩したその瞬間。
前を向くと、グヴェインの影から黒スーツが歪んだ笑みでこちらに掌を向けていた。
矛先はエルロットだった。
地面と水平に、一直線に放たれた例の大木が、突き刺さった。
初めて奴らの魔法を見て、かつこの至近距離で放たれた魔法はエルロットにとって不可避でしかないものだった。
甲高い、才川の悲鳴が聞こえた時には既に遅かった。エルロットは後方まで一気に弾き飛ばされて、壁に激突した。そのままぴくりとも動かなくなってしまった。
「家畜だと言っただろう、貴様ら。今降伏するなら許してやらんこともないが」
起きてしまった事実は、エルロットが早くもやられてしまったということ。
ちくしょう。なんでだ? 今グウェインは絶対黒スーツに魔法の詠唱をしていないはずだ。
杖が光って、その杖の光がパートナーに到達して、初めて魔法が使える。それは今まで戦ってきたどの連中も同じだったはずだ。
「附に落ちないって顔しているね。クク。いいんだよ。知識があるのは人間だけでいい」
知識? 俺達の知らないなんかがあるっていうのか? 板で『情報』を取得したという可能性も考えられるか?
俺の混乱をよそに、グヴェインは再度攻撃をしかけてきた。
アンリはすんでのところでなんとか攻撃をかわし続けている。グヴェインの攻撃そのものはすっとろい。
アンリとグヴェインの体術レベルは恐らく似たようなもの。ここで決着がつく可能性は少ない。
となるとやはり魔法だ。魔法で決着がつく。
奴らの魔法に関しては、俺なりに分析していた。
あの晩奴らはなぜアンリを逃がしたのか。言っていたように、やつらが取得した魔法の実験台のために。ってのが一番理由としては大きいかもしれない。
でも、他にも理由があったんじゃないか。
強化しているであろうあの樹を放つ魔法にも絶対に回数制限があるはずだ。無制限に放つことが出来る魔法は多分威力そのものが弱いものでしかない。
あの日奴らは魔法を使いすぎてからっけつになってたんだ。だから追わなかった。仕留めなかった。あの日俺達に放った三発しか放てないってことは可能性として考えにくい。新しい魔法を取得していたということは、戦ったんだ。誰か他の試験生達と。あの日に。
そう考えると推定で六発前後。大体そんなもんだろう。根拠は薄いが、勘ってのはたまにいい仕事をするもんで、俺はそれに賭けるしかない。当初の予定は、ここに逃げ込む途中で数発使わせておき、残りをエルロットとアンリでしのぎきる。そのはずだった。しかしエルロットが戦闘不能になった今。俺達だけで立ち向かわなければならない。
一度魔法を見てる俺達に対してそこまで愚直に魔法を放ってくるとは考えにくい。とはいえあと四発近い猶予があるはずだから、一発目は牽制気味に入れてくるだろう。本命はその次弾。次々弾。注意すべきはそこ。連続して放てるはずはないから、一発一発距離を取りながら放つ所を見ていけば回避するのはそこまで難しくないはずだ。
だが……さっきのは一体なんだったんだ。グヴェインの詠唱なしで放たれた魔法……引っかかる。
「グヴェイン!」
こいつら、連携そのものはかなり上手く取れるみたいだ。名前を叫ばれただけで、グヴェインは黒スーツの意思を上手く汲み取ったようで、アンリへの攻撃を止めて距離を取り、黒スーツの方へ戻っていった。
戻ったグヴェインは黒スーツにすぐさま魔法の詠唱をし、それが終わると、またアンリの方へ向かってきた。
なるほど──そういうことか。
つまりあいつらの樹の魔法は先に詠唱だけをしておくことができ、次に魔法を放つタイミングは黒スーツが自由に選べるってことだ。どれだけ持続するんだかわからないが、やつの余裕な表情から察するに相当の時間、猶予があるに違いない。
となるとまずい。まずすぎるだろおい。どうすればいい。
アンリは魔法とグヴェインの打撃両方に警戒しなくちゃならない。そんな器用なことをアンリが出来るわけがない。グヴェインの攻撃にも、そもそも防戦一方だ。
しかもアンリは多分気が付いていない。黒スーツがいつでも魔法を放てることに。
「グヴェイン!」
グヴェインが執拗な攻撃を止めて身を引いた。俺は既に体を動かしていた。それ以外に思いつかねぇんだ。仕方ない。
黒スーツからまた魔法が放たれた。今度はアンリめがけて一直線。
俺はいつかのように、また体を差し込んでいた。
衝撃から、しびれ。気が飛んでしまいそうになる。
だがこの霊体化特有のダメージは初めてじゃない。慣れたってわけじゃないが、一気に気が飛んでしまうってことは防げた。
こうして守るしかない。俺があいつらに魔法以外で直接攻撃したら失格。そういうことなら、守るしかない。
背中の半身。丁度肩胛骨の辺りで受けて、一直線の軌道を何とか逸らすことが出来た。俺は斜めに吹き飛ばされて、地面に体を打ち付けた。
……オーケー。状況は理解出来てる。意識もある。
半身のしびれを感じながら、立ち上がって見るとグヴェインが再度黒スーツの元へ戻って、詠唱をしている。
「アンリ、一旦こっちに来るんだ!」
俺の忠告を聞いて、アンリは一目散に俺の元へ駆け戻ってきた。
だが、敵に背中を見せるのはダメだ。前を向けアンリ! 黒スーツはもうすぐで次弾を放てる準備が整う。後ろからまともに攻撃をくったら、一発で沈んじまう。
必死に駆けるアンリをあざ笑うように、黒スーツは頬をつり上げた。
動け。動け、動けって。動けよ……動けよ。動けよッ! 俺のクソ体!!
駆けようと思っても、片足が前に出ようとしてこねぇ。
ちくしょう! 目の前で、何も出来ずににつぶされてしまうってのかよ。
・
どうすればいいの。
目の前で繰り広げられている戦いにただ立ち尽くすことしか出来ない。足も震えている。この私が。
頭の中では後ろで気を失っているエルロットのことが気がかりでしょうがない。今にも駆けよって、助けてあげたいのに、体は動かない。動こうと思えば動ける、なのに。
まだ加勢出来る手立てはある。
そう、一つだけ、武器がある。
魔法の先がけを知ったのは<レインボーバブル>の試し打ちをしている時だった。
エルロットが先に杖で詠唱を施してくれていれば、自分の好きなタイミングで魔法を発現することが出来る。<ラフマジック>では出来なかったから、魔法によって出来るものと出来ないものがあるのだろう。先がけの特性そのものはメリットでしかない。
それが、今私の手の中にある。つまり、魔法を放てるのだ。あらかじめエルロットがかけてくれた<レインボーバブル>が。
でも──ダメ。
私は手中に放てる魔法がありながらも助力することを躊躇っている。
未だに<レインボーバブル>を使いこなすことが出来ないのだから。このまま放っても徒労に終わるだけという可能性が非常に高い。
なにより、魔法を一度使えば私にも矛先が向く可能性があるから。なんて利己的なんだろう。自己嫌悪が走っているというのに、それでも体が張り付いたように動かない。
一刻を争うことはわかっているのに、今にも汐見君達があの魔法でやられてしまう可能性だってあるのに。
ここで逃げちゃえばいいなんて考えが頭に浮かんでしまっている。なかったことにして。同盟なんて、なかったことにして。
エルロットは本当に私の大切な、友達。愛しくて、ずっと側にいたい。初めて出会った時のこと、今も忘れない。
ずっと寂しかったんだ。今ならわかる。クラスで浮いているのは、自分でも理解していて、それでいいって思い込むようにしていて。でも寂しかったんだ。
そんなときに現われたのが、エルロットで。助けられて。ああ……エルロット──。
まだ板は奪われていない。
やろうと思えば出来る。汐見君達が戦っている隙に、エルロットを回収して逃げる。可能。やろうと思えば私のこれからの選択次第でエルロットを助けられる。
でも動かない。根が張り付いたように、体は動かない。今の私には出来ないようだ。なんで。どうして。いいじゃない。逃げて、何ごともなかったようにお茶をして、パソコンでもして。協力してあげたのだからいいじゃない。自分達が最優先よ。だなんて。
──そんなこと思えるかな。思って、出来るかな。
答えが出そうだ。いや、出た。出来るわけ、ないじゃない。
もう一度汐見君とアンリちゃんを見る。
一生懸命に、戦っている。防戦一方だけど、なんとか勝機を見出そうとしている、その目。いつも二人はこんな目をしていたのかしら。
汐見君。あなたってずるいよ。ううん。ずるいけども、大切なことを私に気が付かせてくれたね。
私が大切なのはエルロットだけじゃない。アンリちゃんだって……そして、汐見君だって。
助けられたんだ。認められたんだ。自分を、自分のままでいいって。言ってくれた人が目の前にいたんだ。
むざむざと見捨てる? 何を考えているの、私は。出来るわけないじゃない。
才川椿。がんばりなさい。クラスで誰にどう思われていても、知った風に、きっと拙いメールを返してくれるだろうって人がここにいる。私という存在を、少しばかり知ってくれた人がいる。その人が必死になって諦めずに戦ってくれている。
今逃げだしなんかしたら、絶対に後悔するんだから。
私も私の出来ることをする。それでいい。見届けましょう。最後まで。
やはり加勢できるとなればこの<レインボーバブル>。
まだ放てない。じっくりとタイミングを見計らわなければ。
<レインボーバブル>の特性は、やはり喜怒哀楽の精霊のもの。私の感情に基づいて魔法が繰り出される。
込める感情によってはき出される水泡の色が異なる、ということまでは検証済み。
だけど、どんな感情を私から引き出せば有能な効果を得られるのかはまだ検証していない。シャボン玉のように弾けてしまうだなんてことしか確認していない……けど。
今確かにあるこの気持ち。これを全部ありったけ込めよう。私の全力。私の全てをぶつける気持ちで。
自分を抑えずに、ありのまま。
・
黒スーツから魔法が放たれた。諦めてしまいそうになったその時。目の端に影。
一瞬だった。差し出された、体。
俺がそうしたように、うまく半身を滑り込ませて、軌道を変えた。
才川だった。
「なッ──」
完全に勝利を確信していたのだろう。意外な伏兵に驚きを隠すことが出来ていない黒スーツ。
俺と同じように吹き飛ばされた才川。やはりダメージはでかいだろうが、ゆっくりと立ち上がった。
「私が守る。私が絶対にエルロットを守る」
鬼気迫る表情だった。助かった。さすがだ才川。
「私達の必勝パターンが通じないとは。羊ではなく、馬くらいに昇格させてあげてもいいでしょうか。駄馬に違いないし、家畜だということも変わりは無いけどもね」
これで、四発目だ。残り少ないんじゃねぇか?
「ククク。そこの雄駄馬。君の考えることを当ててあげましょうか。『放つことが出来る魔法は残り少ないんじゃないか』」
なっ。全く思ったとおりのことを言って来やがった。読んでいたっていうのか?
「浅知恵ご苦労さま。なんとか魔法を凌いで、勝機を見出そうって魂胆だ。クク──フハハハハッッ! いいよ。その目。その情けない顔。そうだよ。君らみたいなのがどれだけの思考をしているかなんてお見通しなんだよッ!」
まさか、あるっていうのかよ。今後に及んでまだ隠し持っている魔法ってのが。
いや、焦るな。はったりだってことも考えられる。あいつの表情には自信しか見えていないが。
飲まれるな。俺。飲まれたら負けだ。
「残り二発。俺の読みだとそんなところなんだがな。そしてお前らにはもう魔法はない。索敵に三枚使っていたってのは口を滑らせすぎだ。お前らのこの試験での戦い方は、間違いなく奇襲メイン。魔法にはそこまで振ってない。断言できる」
よし、なんとか体のしびれがとれてきた。全快ではないけど、まだ動ける。
アンリが俺の後ろへと立った。いつかしたように、振り向いてアイコンタクトを取った。今度は通じているかな。
「この魔法に回数制限なんてありませんよぉ? 浅い希望によりついて。絶望するがいい!!」
頂いたぜ、その言葉。
体に力が注がれるのを感じる。アンリが俺に魔法を仕込んでくれたんだ。
よしッ。いくぜッ!!
「<真実のジャッジメント>! 黒スーツ。貴様に問おう。『この魔法に回数制限なんてない』それは嘘だ。真実を答えやがれッ!」
切れるカードは全て切る。それが即ち全力を尽くすってことだ。外れてたってこの際いい。
「なんだッ──?」
お前らは俺達の魔法を知らなすぎるんだよ。情報では圧倒的優位に立てる。攻撃に対しては、こんなに無防備だがな。
例のごとく白い光をやりとりして、俺の元に情報が来た。
「浅知恵はお前らの方だったな。大木を手から放つ魔法、六回。予想通り。よし。そうだ。その顔だよ。俺はお前のその表情を見たかった。はったりを言わなくちゃならんのが今のお前らの状況ってことだな。なんだ、結構内心では焦ってるんだな」
黒スーツは初めてうろたえた顔を見せた。しかし。
「少し意表を突かれたが、貴様らが不利なことには変わらん。お前らの魔法はそれしかない。じっくりとなぶって確実に仕留めれば勝負は終わりだ」
すぐに冷静な顔に戻りやがった。
厄介だな。感情に身を任せてくれることを期待したが、そうはいってくれないらしい。
「所詮今まで戦ってきた連中と同じだ。ゴミのような魔法しかないから、防戦一方。あがいてみせるが、叶わない。そういう家畜。変わらんよ何も」
けっ。まだ家畜呼ばわりか。
言われた通り、二発を効率よく沈着に運用されてしまえばあちらに分があるかもしれない。だが後二発なんだ。後二発耐えれば一手ある。そこまで絶対に耐えきるんだ。
「アンリ。まだいけるよな?」
「はいっ」
負けたくない。終わらせたくない。こいつらを仕留めて、何が何でも勝利を掴んでやる。
グヴェインが黒スーツに魔法を詠唱し、すぐさまアンリへ攻撃を始めた。結局はまたこのパターン。才川はなんとか立っているものの、動けそうにはない。
ちくしょう。なんとか<真実のジャッジメント>で出し抜いたはいいものの、危機的な状況には違いない。
「君たちに一ついいことを教えてあげよう」
黒スーツが動いた。
またアンリを守らなきゃ。
いや──違う。動きが。
狙いは──俺ッ?
至近距離で放たれたら間違いなく──
世界ががぐるぐると回転している。
ちげぇ。回っているのは世界じゃなくて、俺だ。
飛びながら──回っている。
「ぐぁぁ!!」
背中に強烈なしびれを体に感じた。地面にそのまま打ち付けられたんだ。
「この精霊試験。魔法でなら、意図的にパートナーにも攻撃出来るんですよ」
んな……こた、しってら。俺がついさっきやって、てめぇもくらっただろうがボケナスアホカス。駄目だ、声にもならん。
「グヴェインごと射貫いてしまったら厄介だからね。そんなリスクがない君の方を優先して逝かせてあげますよ。君の目に敗北を焼き付けたかったのだけど、また盾になられても困りますからねぇ」
やべぇ。視界がかすんでいやがる。一度でも瞬きをしたら、そのまま気を失ってしまう。開け、俺の目。
俺という盾を失ったら全てアンリに矛先が向く。絶対的な二対一を作られ、奴らは確実に射抜けるタイミングで魔法を放ってくるだろう。
だから、俺が後二発。絶対に守ってやらねぇと駄目なんだ。このまま寝てしまったら、ゲームオーバーなんだよ。わかってんだろ。
アンリとの思い出が頭をよぎってきた。
脳みそのどこかで諦めちまってるっていうから、思い出が溢れてしまうのか? 諦めねぇよ。諦めたくねぇよ!!
だがこの状況。どうすればいいんだ。俺はしばらく動けない……とすれば。
才川。そうだ、才川がもう一度アンリを守ってくれれば奴らに放てる攻撃魔法はなくなる。
首だけをゆっくりと反転して動かしてみる。さっきまでいたであろう場所に才川がいなかった。どこだ? そのままの姿勢で、顎を地面に預けて前を見てみた。
いた。奴らの死角になっていた柱の陰から姿を現わして……あれは……魔法を放とうとしているのか? 間違いない。あれは<レインボーバブル>だ。重ねた掌の中で渦を巻いている。
なんで使えるんだ……いや、そうか。奴らがやっていることと同じことを才川達もあらかじめやっていたということか。
ずっと機を伺っていたんだ。俺達が戦っている間に。
魔法を放った直後がやつらにとっては硬直時間。次弾はすぐに放てない。ここを待っていたんだ。そうういうことだろう才川。
<レインボーバブル>の効力は未知数なままだが、渦を巻く力強さが前回とは全く違う。どういうことかしらねぇけど、これに賭けてみてもいいってことなんだよな。
よく見てみると、才川の奴すげぇ形相していやがる。教室でいつもクラスメイトを叱りつけるような……いや、でもなんか違うな。今の才川はただ怖いだけじゃなく、決意とか覚悟とか。もっともっと、煮詰まってる感じだ。
よし。やってやれ。そのままくらわしてやるんだ。
決して才川のことを意識していなかったわけではないだろうが、まさか魔法を使えるとは思っていなかったのだろう。グヴェインと黒スーツは驚きを表情に出してから、身構えた。
「くらいなさいっ!! <レインボーバブル>!!」
放たれたぶよぶよした、あのシャボン玉。
だが、以前発せられたものとは違う──まず色。濃いピンク、そして濃い赤。二つの色が混じることはなくきれいに分離してシャボン玉の中で蠢いている。外国のお菓子って感じだ。シャボン玉というより今回はゼリーとか、グミとかを彷彿とさせる。
そして前回より速い。
「は? なんだこれは。笑わせる」
だが、まだ実用的でない速さだった。奴らの魔法と比較すると、亀とうさぎである。
黒スーツ達はにやけながら悠々と回避してみせる。
が、シャボン玉は旋回して黒スーツ達を追いかけた。
どういうことだ? 以前はそんな性質はなかったっていうのに。
よく見てみると、シャボン玉が移動するにつれてシャボン玉の中のピンク色が薄まっていっている。色ごとに能力が分かれている……そういうことか?
黒スーツ達も気が付いたようで、ちょうどピンク色が全くなくなろうかという頃になって回避行動を止めた。
ピンク色が尽きて、シャボン玉は力なく奴らの目の前で落下した。
「少し疲れましたが、なんと。ただそれだけの魔法のようですね」
いや、お前の読みは浅い。
色ごとに効力が付与されているというのならば、赤の効力はまだ発揮されていない。
地面に落ち、シャボン玉が弾けた──瞬間、光が辺りを包んだ。
その後、音。鋭い破裂音。
見ると、奴らの下半身──太ももあたりから下に、赤い粘着質なものがべったりと張り付いていた。
「な、なんだこれは」
じたばたと足を動かしているが、取れる気配はない。粘着質のせいで、全く身動きが取れないようだ。あれが赤色の効力。そういうことなのか?
「汐見君……あとは全て任せた……わ」
才川も限界だったんだ。膝から崩れるように倒れて、気を失った。
「アンリ。例のやつ……頼むぜ」
今だ。今しかない。<レインボーバブル>の考察をするのは後でいい。
いつか訪れるって待ちに待った、千載一遇。ここしかないって好機。
アンリが俺の元へ来て、魔法の詠唱を開始した。
「大丈夫です。放ってください」
アンリに肩を支えられて、ゆっくりと立ち上がった。以前感じたぬくもりをもう一度感じることが出来て、俺は底知れぬ原動力が自分の中に蠢いているのを感じた。戦う理由。それだけを考え続けた。
「<ソウルスピリット>」小声で、なるべく無駄なエネルギーを使わないようにアンリが名付けた魔法名を小声で唱えた。
俺の掌に、小さな球体が生まれた。蝋燭の火を消すみたいにふっと息を吹きかけてやれば消えそうな、弱々しい光を伴っている。
これが、俺達の得た新魔法。
おおよそ一日に一回しか放てない。しかしその分のポテンシャルを秘めているであろう超ウルトラCの魔法だ。実際どうだかまだわからないけど、そう信じるしかない。
散々待ってたぜ。これを放てるチャンスをな。
「よ……う。自称人間の三下共、この魔法にはちっとばかし尺が必要なんでな。黙ってそこで捕まっててくれな」
掌の球体がとくとくと脈打つのを感じる。まるで生きているみたいだ。
今日に至るまで、この魔法の試し打ちは一度しか出来なかったが、わかったことは十分にあった。仕掛けそのものはそこまで複雑じゃない。
この掌にある球体は言霊の器ということらしい。この器に、俺の発する言葉……つまりは言霊をぶちこんでいく。そうすると、器がその言霊に反応して姿形を変えていく。どんな形になるかは、やってみないとわからんようだ。
とりあえず適当に強そうな単語を叫んだら、前回は小さな槍のような形になった。実際に使ってないから、どれほどのダメージを与えられるのかはわからないままではある。
この器が持続する時間も限られているらしく、一定時間を過ぎると何を言っても呼応しなくなってしまう。感触としては大体三分くらいだったか。それまでに、ありったけのものをとりあえず詰め込む決心だ。
どんな言葉が有効に反応してくれるかだなんてわかりやしねぇから、とにかく言う。言霊を、放ちまくる。そんな気構え。
いざって時に何を言うか。ノートにそれっぽい強そうな言葉を並べ立てて、空で言えるようにはしてきたんだけど。俺はそうしなかった。
もっとすらすらと言えて、力強い言葉。今口にしようって思えたから。
「まず結論から──」
体の方はどうだろう。この魔法を放つくらいまでは、まだ持つ……かな。いや、ぜってぇ持たせる。
それまでは、重くても支えてくれよな、アンリ。
「俺は守る。何があっても、アンリを。そして共に戦った仲間を。才川を、エルロットを。絶対に。いいか、絶対にだ」
掌の器が大きく脈打つのを感じた。
「守りたいと思える理由はいっぱいある。もう気絶しそうだってのに、死ぬ気で立ち上がって身を挺する理由は……頭は回らねぇし、理路整然と説明は出来ないけども、これから言うぜ。しばらくつきあえよ。ここまで戦ったお前らへの手向けだ。そういう魔法なんでな……」
一度大きく深呼吸をした。視界はかすんでて、気を抜けばそれだけで意識が飛びそうだ。
もうちょいだ。もうちょいだけもってくれ。
「……何から言うか。まぁ……始まりから。俺は流されるがままこの精霊試験に参加した。家事はしない、なんでも人に任せて、物覚えも悪くて、口八丁で、へらず口ばっかりで、ゲームばっかりしていて。間が抜けている部分もある。そんなアンリと一緒にな。一番か。最初は笑いながら無理だろうなって思ってたよ。でも俺は知ってしまったんだ。こいつは必死なんだって。不安になりながらも活路見出してるんだって。そんなこいつを見て俺もさ。そうだ。俺も変わりたいって思ってたんだ。こいつと出会う前からか、出会ってからか、そんな順序はどうでもいいとして、心の底に、いつからかずっとあったものだ。雨露木さんや才川がそうであったように。漠然と変わりたいって気持ち、俺も持ってたんだ。向こう十年ありふれた人生を送るんだって自分を決めつけていたけど、気がつけたんだよ。本当は色んな可能性に挑戦したいんだって。先のことなんて自分次第で変われるんじゃないかって。それもこれもアンリと出会って、気が付かせてくれた。はっきりと何かが変わったなんてまだ言えない。でも楽しくはなった。ぼんやりとただ毎日を送ってた日々が楽しくなった。こいつはさ、いつ終わるかもしれないこの試験で思い出を作ろうとしていた。ゲームして、街を歩いて、戦って、プールに行って、またゲームして。たまには料理をして。プリクラ撮ってみりゃ、すんげー大切そうにしてて。いっぱいあるんだよ。てんやわんやの日々だったけども、思い出がたくさん。全部まとめて振り返ってみても……あぁ、楽しかったな。楽しかったさ。それは間違いない。それだけでもぬるま湯に浸ってた俺にとっちゃ炭酸風呂みたいに心地いいんだ。心地よく、なったんだ。そんな日々の中で、具体的に何になりたいってのはないまでも、少なくとも予測とは違う方向へ、自分が動いているって自覚出来る。このままこいつらと同じ方を向いて、一番取れたらさ、凡人な俺でも何か出来るんじゃねぇかって、思えるんだ。成し遂げられたら、自分の小さな殻から抜け出て、自分自身に胸を張れるんじゃないかって。傍から見りゃ、そんな器ないだろって思うかもしれないな。昔の俺も、勝手に自分を決めて、そう思ってたかもな。だが。違う……違うさ! ある。断固あるんだ! 弱気にはならない。未来は作れるんだ! 自分で変えられるんだ! どんな時だって前を向いていればいいんだ! 何かに怯えてたって道は開かれないんだ! 夢は……夢は誰だって持っていいんだ! 夢をもつそのこと。そしてそれに対して行動すること。今なら言える! 絶対にそれは尊いんだ! 未来の自分は誰が決める? 自分自身に他ならない!! 自分を変えようとするその勇気。誰が笑えるんだよ! 仮に誰が笑っても、そいつらを笑い返してやればいいんだ! 自分自身で怖くなって逃げ出したくなっても、変わりたいって思ったその時の自分は絶対に尊いんだ! なぁ、アンリ…………そうだろう? そういうことを肌で感じることが出来るようになったんだ。そしてこのまま突っ走ってみたい。きっとまだまだ知らない何かが見えてくると思うんだ。俺を好いてくれて、頼ってくれて。大切だって、思ってくれる奴がここにいるんだ。こいつと、こいつらと一緒に────」
いつからか、器が剣の形をしていた。先が鋭い。そして、どんどん言霊を帯びるごとに大きくなっていった。不器用に言いたいことを言っただけだが、よかった。ちゃんと呼応してくれたみたいだ。
「色々言ったがな、もうちょっと一緒にいてぇんだって。つまりそういうことなんだよ!!」
剣が、さらに倍加した。天井に届くほどの高さ。そのまま空まで突き抜けるんじゃねぇかと見紛うくらいだ。
この長さなら、移動する必要もない。
いくぞ、ありったけ。
「くらいやがれぇぇぇぇえええェェェッ!!」
横に一閃。
<レインボーバブル>の拘束が解けて、奴らが逃げようかという瞬間だった。
背を見せた奴らをまとめて一刀両断した。いや、切ったかもわからねぇ。とにかく剣が一面を覆って薙いだ。
「どうだっ。これが俺らの、力だ」
ああ。これ、もう駄目だわ。これ以上は、限界。出来れば勝負の最後の最後まで見届けたかったけど。
でもアンリ。お前を守れて、お前が最後に立っているって確信が持てるぜ。
込められたさ。一撃必殺の力。
だから……ちっと…………休ませてな。