砂時計
とても悲しくて、彼女は目が覚めた。まぶしさに目をすがめ、指でまぶたをきつくこすりながら枕から頭をもたげた。
『ここはどこだろう』
白いカーテンから朝の光が漏れ出ている。壁は古びてはいるが良く手入れされていて落ち着いた雰囲気がある。部屋はこぎれいで、がらんとして広い。一人でいるには広すぎるくらいだ。といって家具がないわけではない。彼女の寝ているベッドと小さな本棚、クローゼット、テレビ、テーブルが一つ、その上にポットと湯飲みが二つ。壁にポスターほどの大きさのホワイトボードが掛かっていた。
彼女はベッドから這い出て窓辺へ行き、カーテンを開いた。朝の陽光が埃の渦を浮き立たせて空気を裂く。思わず小さく声を漏らした。眼前に迫り来るのは圧倒的な光景。彼女の記憶の中にあるどんな青よりも青い凪いだ海が広大な角度で広がっている。そしてその上に、小さな雲塊が幾つかぽこぽこと浮いているだけの、真下の海にも負けぬ鮮やかな色をした空があった。水平線はくっきりと弧を描き、右手の小さな岬には小さい灯台の影が、左手にはなだらかな砂浜と森とが陸地から海の方へと反り返りながら続いていた。彼女のいるこの建物はごつごつと岩肌の突き出た急斜面の上にあり、眼下には砕ける白い波が岩場に打ち寄せ、さわさわと音を立てている。ガラス戸を開けば海から吹き付ける潮風が彼女の肌を叩く。熱を帯びているが爽やかな夏の風だ。すぐそばの崖際から二羽のかもめが二枚のまっさらな絹が舞うように青い宙へと飛び出す。しばらく彼女は風に吹かれながらその様子に見とれていた。
彼女は夕べのことを思い出していた。夫との口論、罵り合い、そして判を押した書類。あれが夢であってくれれば、そう信じたいが彼女の胸の痛みはそれが現実であることを告げていた。別れ、それが彼女の一番最後の確かな記憶だった。
その悲しい出来事のあと、夫、幸雄のアパートを、彼女の暮らしの場でもあった小さな部屋を飛び出してから自分がどこへ行ったのか、彼女はどうしても思い出せなかった。そして、なぜ今こんな所にいるのかも。二人はまだ二十歳を過ぎたばかり、幸雄の詩作だけでは生活の糧には足りず、その上彼らはそれまで本当の貧しさを知らなかった。些細なすれ違い、敏感すぎる気遣い、そんなことだけで二人は終わってしまった。
彼女の物思いは破られた。男が部屋に入ってきた。
「おはよう、早菜子」
早菜子はその聞き覚えのある声に身を震わせた。彼女が振り返ったとき、彼は微かな笑みを浮かべていた。束の間のその笑みが消えた後も額と頬に刻まれている皺と、白いものが混じり始めたその髪からすれば、彼は青年と呼ばれるには少し年をとりすぎている。彼女は彼に見覚えがあるような気がした。けれど、それが誰なのかよく分からない。ただ幸雄によく似ていることは確かである。
「誰?」
早菜子は聞いた。
「幸雄だよ、早菜子。俺達はここで暮らしているんだ。別れてはいない。俺はずっとそばにいる」
彼はよどみなくそう言った。
「あなたは誰?」
再びそう尋ねた途端に早菜子は思い出した。いや、思い出したというより改めて実感したと言う方がふさわしい。分かってはいるけれど信じたくない事実。自分には昨日も、そして明日もないのだということを。それを確かめるように張りとみずみずしさを失い始めた自分の両の手のひらを見下ろした。
もう随分前のことだ。早菜子が離婚届を書き終えてアパートを出ていった夜、幸雄は病院からの電話を受けた。早菜子が倒れてかつぎ込まれたというのだ。彼は駆けつけ、己の不甲斐なさを呪った。若年性脳梗塞、彼女の病気が自分のせいだとしか思えなかった。医者も彼女の父も病気の責任は彼にはないと説得したが、幸雄は最後まで納得できなかった。彼は因果応報というものを信じている。何か科学の法則を超えた力がこの世には満ちていると感じながらこれまで生きてきた。
実の所彼は不惑の年にさえ達していない。二十代の頃から白髪の多い男だった。ただ早菜子の記憶にある幸雄の姿は今目の前にあるものよりはずっと若々しいのだ。早菜子は考える。あれから何年経ったのだろう。彼の身の上に何が起こったのだろう。いや、私の身に何が? これだけは分かっている。あの別れの日から今日のこの日まではかなりの年月が経っている。それなのに離婚の手続きがどうなったのかも、いつどうやってこの海岸の家へ来たのかも、昨日の晩自分と彼が何をし、何を話したのかも知らない。日々刻々と起こる出来事は砂時計の砂が次々とこぼれ落ちるように彼女の頭の中から絶えずこぼれ落ちて後には残らない。膨大な空白の時間があるにも関わらず、不思議にもそのことだけはぼんやりと彼女は理解していた。確かに別れは遠い昔のことなのだ。夕べなどではなく。
早菜子は蛇口の傍の鏡に映った自分の顔を見た。そこに映っているのは中年の女性の顔だ。彼女が誕生日を迎えた記憶は二十歳かそこらまでしかないのに、こんなにも自分は年をとっている。だが、それほど動揺はしていない。溜息をついて鏡像の自分の眼窩をのぞき考える。私はもっと若いはずなのに。蛇口をひねり、洗面器に水を入れ、石鹸を取って手にこすり始める。
「顔はさっき洗ったよ、早菜子」
幸雄が後ろから声をかけた。早菜子は手を止め、再び鏡を見た。確かに頬の艶はいいし少々つっぱっている。幸雄の言う通り、すでに洗顔は終えているらしい。
恥ずかしくてたまらなかった。前にもこんなことがあった気がする。
台所は狭く古びていた。部屋の他には、この小さな台所と風呂と厠と、幸雄の書斎になっている狭い物置しかなかった。二人の住むこの建物はもとは魚臭い漁具置き場だったものを幸雄が買い取って住めるように改築したものだった。
「ご飯は食べた?」
早菜子は空腹を確かめるようにおなかをさすった。
「いや、これからだ」
夫が答える。
二人は朝食をとり、それが終わると幸雄は居間のホワイトボードに「朝食、済」と書き付けた。早菜子はボードをしげしげと見つめた。そこには今日の日付が記されている。
「今日したことをここに書き留めておけば、また朝飯を食っちゃうことはないだろ」
言われずとも彼女にはボードの意味は分かっていた。日々何をして暮らしたかは忘れてしまっていても習慣になっているものは不思議と分かる。
「お前の仕事は今日は休みだから、のんびりしてな」
「仕事?」
「ああ、お前はいつも近くの作業場へ行って手袋を作ってる」
彼女は上の空で窓の外を見つめた。
「俺はちょっと出版社に出かけなきゃならない。夕方には帰るよ」
そう言って幸雄は同じことをボードに書き付けたあと、手提げ鞄を持って出ていった。と思うとひょいと戸口から顔を出して、
「出かけるんだったら気をつけろよ。知らないところへは行くな」
そして頭を引っ込めると今度は本当に立ち去ってしまった。
ひとりぼっちになった彼女は部屋の中に座り込んだ。波の音が聞こえる。時折窓辺にかもめがやってきては再び飛び立つ。かもめの姿は美しいけれども、おかげで窓辺は白い糞でいっぱいになってしまっていた。彼女は思い立ち、雑巾を持って掃除を始めた。無心に孤独を打ち消すように励む。とても心細かった。幸雄が本当に去ってしまったような気がしていた。今朝の彼は幻だったのかも知れない。あの別れの夜はまだ続いており、自分は独りでここに住み、寂しさのあまり白日夢を見ているのだ。けれどサッシの白い汚れが落ちる頃には彼女は今朝のことなど覚えていなかった。その彼女にとって事実、夫は去ってしまったままなのだった。
掃除すべき場所はあまりなく、すぐに手持ち無沙汰になった。好天に誘われて外へ出、ぶらぶらと辺りを歩き回る。道に迷う不安はない。海岸線をガードレールに沿って歩きながら、彼女は波を見、岩やテトラポッドを見、泡立ってよどんだ潮だまりを見た。なかば溶けた紙屑や、決して溶けないビニールや空き缶がいたるところに散らかっていた。何の風情もないコンクリートに囲まれた小さな砂浜に、汚い小舟が二三艘引き上げられていた。小さな漁村の美しいところも汚いところも無性になつかしかった。ここは二人が籍を入れる前、一夏を過ごした町である。あの時の幸雄は詩作の種を探しにここを選んだ。美しい岩場と切り立った崖と岬、潮臭い網やもやい綱の転がる漁港、民宿の並ぶ路地と、きれいではあるがそれでも所々に観光客の残した煙草の吸いがらや花火の燃えかすの残る砂浜。
あの頃幸雄は熱にうなされるように彼女に説明した。この世は美しいものだけでは駄目なんだ。岬から水平線を臨めばその雄大さと快さに詩的な霊感を得るかもしれない。暁や黄昏であればなおさらだ。しかしそれでは月並みすぎる。そこには詩的な詩しか生まれない。俺の求めるものはそうじゃない。俺の求めるものは詩的な霊感にある一方で非常に汚れたつまらないものにもある。漁港の防波堤の突端に打ち捨てられた死んだヒトデや、濃い茶緑の綱の絡まる漁具が放つ悪臭の中にもあるのだ。そのどれが欠けても俺の世界は成り立たない。それがあってこそ世界は本当に美しい。世界は美しい!
岬には家から見えた灯台が建っていた。早菜子は強い陽射しに打たれながら灯台のもとに座り風に吹かれていた。以前幸雄とここに来たときに彼女は歌を歌った。何の歌だったかは記憶にない。けれど、陸の果てるこの地が彼女に連想させる歌がある。もしかしたら、以前もこの歌を歌ったのかもしれない。「The End Of The World」。なぜ太陽は輝き続けているの? なぜ海には波が打ち寄せ続けるの? 世界は終わりを迎えてしまったはずなのに‥‥。口ずさむほど別れの気分は助長され、それに気付けば自嘲と共になお淋しさが増すというものである。
しばらくの後、腹時計がうるさく鳴り始め、彼女は家へ帰った。道すがら彼女は考えた。今頃幸雄は何をしているかしら。もう新しい恋人を作って再婚を考えているかしら。
部屋の本棚の前に立つ。そこには辞典や文学、幾つかの雑誌とともに小さなカセットテープ・レコーダーと何十冊というノートが立てられていた。これは自分が書いたノートなのだと彼女は知っていた。その中から一番新しいものを一つ取ってみる。表紙には「日々の記録 63」とある。
彼女はページを一枚めくった。最初のページに大きく言葉が書かれている。
「幸雄は今も私を愛している。工藤早菜子」
明らかにそれは自分の字だ。唖然としてその文字をじっと見つめた。そのノートの最後の記述は今ホワイトボードにある日付の前日である。束の間彼女はその言葉を疑ったが、しかし微かに彼女の内側でうずくものがある。そして急速にそれはふくらんで、興奮を覚え、確信に近いほどになった。これは真実だ。なぜかは分からない。なにか信じるに足るような出来事が過去にあったのかもしれない。彼女の脳がそれを覚えていなくとも、そんなことがあるのかどうか疑問ではあるが、心が覚えているのかもしれない。
それは願望がつむぎだした錯覚ではないのか? 彼女は自分の願望を書きなぐり、再びそれを見て自ら信じ込んでしまったのでは。いや、この確信に震える身が嘘であるはずがない。頭に情報を詰め込むだけが記憶ではない。手や足が、すなわち体が覚える記憶もある。職人の技や軽業師の芸当がそうだ。だから五感や直感が形作る記憶もあるのだろう。彼女はこれらの本を何度も自分が手にしたことがあると分かったし、その意味も分かっていた。彼女は記憶を自分の心におけない分、こうやって外に書き残しておくしかない。ことがある度にテープレコーダーに口で吹き込んだ「思い出」を夜ノートに書き起こす。それが彼女の日課のうちで最も大切な作業だった。
何十冊もあるノートを一つ一つ乱雑に取り出し、その最初のページをめくる。最も古い数冊をのぞいて、全てのノートのそこにはどれも同じ言葉、「幸雄は私を愛している」と大きく書かれていた。何度も何度も叫ぶように書かれていた。本を開いたまま床に座り込み、早菜子は泣いた。
夕刻、暗くなり始めた空にいらいらしながら幸雄は家路を急いでいた。思ったより用事が長びいてしまった。二人が住む小屋は辺鄙な田舎町にあり、そちらへ向かおうとする車などほとんどない。だから道はすいていて、彼はかなりの速度で車を走らせた。早菜子を闇の中で一人にしたくなかった。以前、何年も前のことだが、彼女を一人で家に残したまま夜半まで帰れなかったことがある。寒い夜だった。その日、帰宅した彼は部屋を見て茫然とした。部屋は強盗でも入ったかのように荒れ、窓やドアは開け放しだった。そして早菜子の姿はなかった。彼は彼女を捜しに家を飛び出した。ほどなく下の砂浜でしゃがみこんでいた彼女を見つけたが、彼女は涙で顔を濡らしていた。あの別れの日の記憶は彼女の中に埋もれてはいかない。闇が濃さを増してゆくときに、はたと自分が一人と気がついたときの早菜子の気持ちを考えると、彼は思わず歯がみしてうなり声を上げてしまう。いわば彼女は同じ一日を繰り返し生きている。彼女の心を占めているのが彼の弱さが引き起こした悲しみであればなおさらいたたまれない。その日以来彼は暗くなる前に家に帰るようにしていたし、遅くなったり外泊しなければならない場合には、なるべく親しくしてくれている近所の初老の女性に早菜子の相手をしてくれるよう頼むことにしていた。
彼はときどき不意に考えることがあった。いっそのこと、彼女が倒れた時、あのまま息を引き取っていてくれればと。そこで彼は恐ろしさに寒気を覚える。俺は彼女を守る義務がある。いや、義務じゃなく、俺はそうしたい。彼女が若い頃の自分を支えてくれたように、そして今も支えてくれているように、自分も彼女を支えて生きていくのだ。
早菜子は今朝のことさえ覚えていないだろう。今頃はまた幸雄が去ったと思って悲しんでいるかもしれない。だが今日は天気がいいし、その分空はまだ明るい。だから、きっと彼女の機嫌は悪くないだろう。気候や気象がこんなにも人の気持ちに関わっているとは街に住んでいたときは思いもしなかった。帰ってまたいつものように慰めるのだ。俺はどこにも行かない、ずっとお前と暮らしていく。そして、愛している。
詩人を自称しながら彼とて凡庸な日本の男に違いなかった。愛するなどという言葉を日常的に口に出すことに抵抗がないわけでもない。だが、そうも言っていられないほどに問題は深刻だった。繰り返す彼の告白はいつだってすぐに忘れ去られてしまう。しかし彼は言葉を換え、時には笑顔で、時には厳めしく、叫ぶように、あるいは囁くように、あるいは無言のまま手のひらで、腕で、胸で、接吻で彼女に何度でも伝えるのだ。その度に彼女はあらがう。彼から逃れようともがき、はねつけようとする。しかし幸雄は最後には彼女が必ず受け入れてくれることを知っていた。
医師の話によれば、早菜子の記憶力が完全に失われてしまったとは言い切れないそうだ。ごく希にではあるが彼女がものを覚えることがあるかもしれない。あるいは何度も繰り返しているうちに頭に入っていくことがあるかもしれない。なぜなら彼女の場合、脳の記憶を貯める部分が壊れたのではなく、外から入ってくる膨大な情報の中から記憶すべき物事を振り分ける器官が壊れているからである。ほとんどの物事はざるを通り抜ける水のように彼女の頭の中を通り抜けるだけで全く残らないが、希に器官が正常に働いて幾つかの情報がふるいに残る可能性があるのだ。それを証拠に彼女は倒れる以前の記憶はなくしてはいないし、倒れた後のことでもおぼろげに覚えていることがある。しかし後者の記憶は全く意味をなさない記憶である。二日酔いの朝に昨晩の記憶がはっきりしないのと似ているようで、思い出せるのは真夜中にふらついて道を歩いていた一瞬だけというようなものなのである。他の一切合切が闇に葬られている。あるいは朝方の夢と同じだ。目覚めた直後は覚えているが、五分も経てばもう忘れてしまい、どうしても思い出せなくなってしまう。後には靄のような感触が残るのみで大事なことは一つとして残っていない。
けれどそれでも、彼はその可能性に賭けるより他はなかった。酩酊状態の一瞬でもいい、うつつに返った後の頼りなげな靄でもいい、彼が彼女を想っているという事実をどんな形であれ早菜子の中に刻みつけたかった。それが繰り返し繰り返し、彼が告白を続ける理由である。
家へ着いた幸雄が部屋に入ると、早菜子はテーブルにノートを広げてテープ・レコーダーを片手に一生懸命ペンを走らせていた。彼女は入ってきた男に目を上げて、
「誰?」と尋ねた。
「幸雄だ。分からないか?」
彼は明るい声で答えた。早菜子は戸惑ってしばし黙り、やがて言った。
「あれから何年経っているの?」
「十三年」
「そう」納得したように彼女は頷く。「どこに行ってたの?」
「仕事。出版社に」
「紙が売れたの? 良かった」
早菜子が微かに笑顔を見せる。幸雄は無愛想に「ああ」と返事をした。
彼女の周りには古いノートが何冊も重ねられている。おそらくまた読み返していたのだろう。気分が明るいのもそのせいだ。おかげで今日はもう照れくさい告白をしないで済む。彼は壁のボードの前に立ち、朝に書いた自分の外出の件を消した。
「なんだ、飯はまだ食ってないのか」
彼女は少し考え込んだ。
「多分。いま、何か作るよ」
早菜子はのろのろと立ち、台所に向かう。
「どうした」
よく見ると彼女の顔は青い。幸雄は早菜子の額に手を当ててみた。熱はない。彼女は喉元を押さえる。
「少し吐き気がするみたいなの」
「ならあまり動かないほうがいいぞ。休んでろ。風邪でもひいたんだろう」
幸雄は薬箱の中から適当な錠剤を選び出して早菜子に飲ませた。
「食欲はあるか?」
ベッドに横たわった早菜子はかぶりをふった。
「俺は自分で作って食うよ」
幸雄は流しに立って自分一人の料理を作り、テレビの音量を絞って見ながら食べた。
翌朝、目が覚めた早菜子は隣に寝ている男を見てぎょっとした。まどろんでいたついさっきまではとても悲しい夢を見て、その夢の中では幸雄の背に寄り添って泣いていた。実際に彼に寄り添って眠っていた彼女は、幸雄だと思っていたその背中がもっと年を取った男のものと分かると、目覚めかけた頭の中を不道徳な憶測が猛然と駆けめぐり、その恐ろしさに胸が冷えた。
窓のカーテンは重々しい色をして垂れており、外はまだ薄暗いようだ。空気はかなりの湿気を帯びていて圧迫感がある。波の音がどこかから聞こえ、早菜子は外にそぼろ雨が降っているのかと思った。風がかなり激しく、窓ががたがたと音を立てた。
男が身をよじると顔が見えた。幸雄によく似ている。いや、これは幸雄なのだろうか、と彼女は訝った。彼は疲れていて、それでこんなにやつれて見えるのだろうか。まるで十年は年を取ったように見える。でもなぜ? 私たちは別れたはずだ。彼は、お前がいたら永遠に仕事が手につかない、と言った。だから私は心を決めて出ていったのだ。それなのになぜ今私は彼の横に寝ていたのだろう。
腹が立ってきた。もし臆面もなく自分たちがまた一つのベッドで寝ていたとしたならば、実際そうとしか考えられないのだが、幸雄の面の皮の厚さにも自分の不貞淑さにも腹が立つ。自分は幸雄に愛想を尽かし、そして彼は彼女の人生から消えてしまったばかりなのに。
違う。彼女の中で何かが言っていた。違う、違う。それは違うのだ。体の中で異なる幾つかのものがせめぎあっている。
彼が目を開けた。そして眠そうな顔で彼女の顔を見た。早菜子は彼の目に失望らしきものが浮かんだのを見逃さなかった。そしてとても彼に済まないような気がした。幸雄は手を伸ばして枕元の目覚ましを取り、目をすがめて文字盤を見るとまた乱暴に置いた。針は五時半を指していた。
「早菜子ォー」と彼は呟くように言う。「俺は届けを破って捨てた。役所には出さなかった。分かるか?」
彼の手が彼女の手を探り当てて握りしめる。早菜子はむっつりと彼の手を振りほどいた。幸雄はむくりと起きあがり、溜息をつくと苛立たしげに足音を立てて台所へと入った。そして蛇口をひねり、からからの喉に水を一杯流し込んだ。
早菜子が足早に彼の後ろを通り抜け、トイレに駆け込んだ。
「どうした」
彼女は扉を開けたまま便器に屈み込み、胃の中のものを戻していた。幸雄はうろたえ、それでも後ろから彼女の背をさすってやる。しかし嘔吐物はたいして多くはないようである。しばらくして彼女は顔を上げ、二人は部屋に戻った。
「まだ寝ていなさい」
幸雄は彼女の頬に手を当てた。やはり熱はない。
「吐き気の他には?」
「めまいがする」
「そうか。我慢できないようならすぐに医者を呼ぶぞ」
「大丈夫よ」
彼女は目を閉じた。
早菜子はそう言ったけれども、彼は二人の医者に電話をかけた。一人は近くの町医者、もう一人は十三年前、早菜子を診察した大学病院の医師である。肩幅が広く髭をはやし、もっさりとした人の良さそうな町医者はすぐにやって来て、
「しばらく様子を見ましょう」と言い、幾つかの薬を出してくれた。
「彼女はその、これでは?」と幸雄は自分の腹に手を当てて見せた。
「つわりではないでしょう」
その答えを聞いてほっとした。町医者はすぐに帰っていった。
大学の医師とは電話で話しただけである。とりあえず一連の症状を伝えると非常にきびきびとした声が返ってきた。
「あまりご心配なさりませんよう。単に疲れているだけかも知れません。けれど早菜子さんの場合、他にあまり症例がありませんのでね、何が起こるか私にもよく分からないんですよ。はあはあ、他のお医者に見せたんですか。それならその方に従ってください。もし何か変わった症状が出始めたらすぐに私に連絡を」
昼頃には早菜子の具合は良くなった。幸雄が狭苦しい書斎で仕事をしていると彼女ががらりと戸を開けて入ってきた。
「だめだ、早菜子。そこに書いてあるだろう?」
戸口には『入るべからず』と張り紙がしてある。彼は素早く立ち、彼女を外へ押し出した。
「どうしてよ」
「お願いだから邪魔しないでくれ。そのうちちゃんと読ませてやるから。大人しく寝てろ」
「もう直ったの」
「なら一人で何かしてろ」
「こんな天気じゃどこにもいけないんだもん。風はずいぶんおさまったけど」
有無を言わさずぴしゃりと戸を閉め、幸雄は再びあぐらをかいてディスプレイに向かった。そして画面の文字を眺めながら思った。こんな部屋じゃ詩など書けるわけがない。それからはさっぱり筆が進まず、ぼんやりと物思いに耽っていた。
ふと彼は気付いた。早菜子はさっき確かに「風がおさまった」と言った。それは彼も小屋のきしむ音が消えたことで気付いていた。けれど彼の感覚では風がやんでからはもう何時間も経っているはずだった。
その日の夕食の途中、早菜子の箸がぴたりと止まった。
「どした?」
また吐き気を催したのかと幸雄は案じた。
「私、ご飯はちゃんと食べた?」と早菜子は言った。
幸雄は飯を頬張りながら箸を持った手を下ろして彼女を怪訝そうに見た。
「覚えてないの、私お昼食べた?」
「食べたよ。なんだよ、そんなことを聞きたいほどひもじい思いでもしてるんか」
「ひどい言い方」
「冗談だよ。俺と一緒にラーメンを食ったよ」
幸雄のきれのよい口調に早菜子は微かに笑みを浮かべた。
「どうしたのかしら、私」
「どうしたもこうしたもないよ。気にすんな、疲れてるんだ」
彼女は得心のいかない顔ではある。
「そうね、きっと食べたんだ。朝に食べたきりじゃお腹がすいてどうしようもなかっただろうしね」
幸雄は味噌汁をすする。つと顔を上げる。
「今朝のこと、覚えてんのか?」
「でも昼のことは全然‥‥」早菜子もはっとして幸雄の顔を見た。「ほんと。そうよ、朝はオムレツでしょ、あさりの味噌汁、黒ひじき、それと塩辛と‥‥」
「まさか」
「ほんとよ」
「ほんとに? 他には?」
「外へごみを出しに行ったとき雲が速かった。幸雄は不機嫌だった」
驚きだった。
「どうして今日に限って?」
「わからない」
「でも昼飯は覚えてないんだよな?」
早菜子の顔が曇る。
「うん。‥‥でも、朝は覚えてる。ほんと、はっきりと」
もう食事どころではなくなった。彼女は覚えている今日の出来事を事細かに話した。三十分間ほどの記憶でしかなかったが、彼女は確かに覚えていた。書斎を追い出されたことも、そのときに彼の言った台詞も覚えていて口真似さえしたのである。早菜子は有頂天になり、それは幸雄にも感染して話が終わる頃にはむしろ彼の方が眠れなくなるほどに興奮していた。
しかしその熱はすぐに冷めてしまった。一旦気が静まってみると楽観的な期待が次々と萎えていく。暗澹たる思いが再び彼を覆う。医師は早菜子がごくまれに記憶力を取り戻す可能性があると言ったのだし、一度くらいそんなことがあっても彼女が回復したとは言えない。こう考えると、まぶたの裏にちらつく嬉しそうに微笑んだ早菜子の顔がなお不憫に思えてきて彼はどうにも弱ってしまった。
幸雄は真夜中にむくりと起き、たまらない気持ちで早菜子を揺り起こし自分のその考えを語った。夕げのときのやりとりはすでに早菜子の記憶になく、自分がその日の朝の出来事を覚えていることを彼女が理解し直すまでにしばらくかかったが、そのあとで彼女はこう答えた。
「でも、今日私、あなたを幸雄って呼んだことは覚えてる。あなたは幸雄なのね」
それを聞いたとき、彼は報われた思いがした。腕を彼女の背に回し抱きしめた。その抱擁は少々きついものだったにも関わらず今度ばかりは彼女は拒まなかった。
変化は確実に起こっていた。早菜子の体の具合は思わしくなく、頭痛や嘔吐感、めまいは日を追うにつれますます彼女を悩ませ、作業所での仕事も休みがちになるのだった。町医者の薬が効くのかどうかはさっぱり分からない。薬を服用した後にすぐに良くなることもあるし良くならないこともある。一方、記憶の方はよい兆しを見せていた。少なくとも最初は二人ともそう考えていた。少しずつ、少しずつではあるが彼女はものを覚えていく。もう朝に鏡で自分の顔を見て唖然とすることはなくなった。他人を見るような目つきで幸雄を見ることもなくなった。そして幸雄が彼女を一人で家に残しておいたとき、帰宅した彼が泣き崩れている彼女を見つけることも。
もちろん良いことばかりではなかった。一つには彼女はそわそわと落ち付きがなくなった。ある日などは昼間にガスコンロにかけたやかんのことを気にして何度も台所へ立っていった。やかんはとうに火からおろしてお茶を入れて飲んだ。けれどやかんを火にかけたことはたまたま彼女の頭の中に刻まれたけれど、おろして一服したことは頭のふるいからこぼれおちてしまったのだ。彼女は火をかけっぱなしであることを思い出しては何度も何度も急いで居間を立ち台所の扉を開けた。真夜中にも飛び起きてはまた立った。それが三日間続き、二人はすっかり寝不足になってしまった。幸運なことに三日目にはやかんがすでにコンロの上にはないことを彼女は覚えた。
ことの大小の差はあれ、そんなことがしばしば起こるようになった。しばらくして幸雄は気付きはじめた。早菜子は家事をしていたり、日記をつけていたり、作業所の仕事を家に持ち帰って働いていたりするときに、時折じっと手も視線も止めたまま動かなくなることがある。それはまるで呆けたようにも見え、あるいは命のない人形のようにさえ思えることもある。だがそんなとき、彼女は何も考えていないのではなく、むしろ非常に没頭して考え込んでいるのだ。そしてその時のことは決まって覚えている。
風呂から上がった彼が湯気を立てて部屋へ戻ってきた時もそうだった。
「早菜子」
一度呼んだきりでは彼女は答えない。
「早菜子、聞こえないのか?」
「ごめん。何?」
彼女の手には作りかけの黒い革手袋と太い針と糸が握られている。ラジオからは流行歌が流れ、DJの陽気な声が間に割って入って英単語だらけのコメントを並べ立てている。
「それくらいにしてもう寝た方がいいんじゃないか」
「眠くはないの」
彼女は再び手を忙しく動かしはじめた。
「何を考えてた?」
「何をって」とはにかみとも苦笑ともつかぬ笑みを浮かべ、「何をかな。昔のこととか、かな」
幸雄はどきりとした。
「何か思い出したのか?」
「ううん、何も。思い出せたらいいのに」
「必要ないよ」
彼女は手を止めた。咎めるように彼を見る。
「必要ないよ。いまさら」
「あなたには必要なくても私には必要なのよ」
幸雄は台所の冷蔵庫から麦茶の水筒を持ってきてグラスに注いだ。揺れる簾が窓枠にあたって小さくかさかさと音を立てている。
「なあ、俺はずっとお前と一緒に暮らしていたよ。四六時中ってわけじゃないが、でもやっぱりずっと一緒だったんだ。だからお前が何をしたかもどんな目にあったのかも知ってるし、もしお前が何か覚えているとしたら、きっとそれは俺とのことや俺に関係のあることがほとんどだろうよ。でも俺はな、あんまりいい夫じゃなかった。だから思い出して欲しくないこともある」
「そんなこと‥‥」
針を持つ手元を見つめながら、早菜子は貝のようになって表情のこわばった彼の顔をちらりちらりと時折盗み見るのだった。
松金和恵がやってきたのは残暑の厳しい日のことだった。そのとき幸雄は留守で、家には早菜子と、たまたま居合わせた近所のおばさんがいた。
「こんにちは。早菜子さん」と彼女は挨拶をしたが、早菜子は彼女を知らなかった。
「私のこと、分からないんでしょう? 気にしないで、あなたのことは知っているから。以前会ったことがあるのよ」
おばさんはすぐに帰り、早菜子は彼女と二人になった。松金は気さくな物言いをする女で早菜子と幸雄のことは良く知っている風だった。幸雄が帰宅するまで待ちたいと言うので早菜子は彼女を上がらせてお茶をいれた。
「あら、お構いなく。私、お茶うけにあられを買ってきたの」
松金は自分は早菜子がかつてかかっていた東京の大学病院の看護婦だと話した。二人は他愛もない話に終始し、それでも時折松金は病院にいた頃の彼女のことを良く見知っているような話し振りをしていたので、早菜子にはそれが思わせぶりに感じられ、彼女が何か自分に関わることをほのめかそうとしているか、それとも自分を試しているかしているように思われた。早菜子自身には松金のことはおろか入院していたことさえ記憶にないのである。
「工藤さんはまだ物書きをしてらっしゃるの?」
「はい、いつもあそこにこもって何か書いているからそうだと思います」
早菜子は奥の書斎の扉を示して言った。
「それじゃペンを折らずにいるのね」
「はあ」と早菜子は気のない返事である。
三十分ほどして幸雄は帰ってきた。
「松金さん? これはまた、その節はどうも」
「お久しぶりです」
「どうして来たんです?」
「まあ、ご挨拶。そんな言い方をしなくても、ねえ」
そう言った松金の顔は嬉しそうだった。早菜子は夫の顔付きを見てふと噛み合わないものを感じた。彼女の親しげな態度を考えると彼だってもっと嬉しそうにしていいはずだ。それとも松金は誰彼となくこんなにオープンに付き合う質なのだろうか。
そうした心配はすぐに消えた。入院中の早菜子の世話をしてくれたのがこの松金だったことを彼は早菜子に説明し、彼の変わらぬ歯切れのよい口調に彼女は心持ちが軽くなった。
松金の訪問の理由はつまりこうだった。幸雄は早菜子の症状が変化しはじめた頃こそ大学病院の医師にその様子を知らせて助言を求めていたが、最近では全くしなくなっていた。だから記憶力の回復という事実も医師の耳には入らなかった。けれども体調を崩した早菜子を診ていたかかりつけの町医者は彼女の頭痛や吐き気の原因の判断をつけかね、以前幸雄から聞いたことがあった大学病院の担当医に連絡を取ったのである。医師は至急彼女を検査する必要があると判断した。
「このままの状態では、何が起こるかは分からないんです。一見治りかけているように見えても、もしかすると危険な状態にあるのかもしれません」と松金は言う。
「でも、検査をしたからといって完治させるために病院で何かできるんでしょうか」
幸雄がやんわりと尋ねる。
「それを調べるんです」
「あのですね、松金さん、実はもう私と妻とはもう決めてあるんです。東京の病院には行きません」
「と言うと?」
「早菜子の頭痛はもうほとんどないんですよ。四五日ほど前からですかね」
「それは一時的に治まっているだけかもしれないんですよ」
「かもしれません。私達にはなんとも言えません。ただ、早菜子は今では一日の半分以上、もしかすると三分の二以上の時間を覚えていられるようになっているらしいんです。その状態がいつまで続くのかは確かに分からないことです。どうして覚えが良くなったのかも分からないんですからね。もしかすると明日からはまた元に戻ってなにもかも忘れるようになるかもしれない。もしかすると今この時からそうなっているかもしれない。だから私達はそちらへ診察に行くことをやめたんです」
「おっしゃっている意味が良く分からないんですけれど」
「私達は今を生きているんです。もし病院に行ったとしたら入院することになるでしょう?」
「ええ、検査のためにはそうなるでしょうね」
「そして検査をしてその結果が出るまで、結果が出てもそのあとは試行錯誤の治療やリハビリの連続で長い時間がかかるでしょう。でも私と妻は今週の週末に遊園地に行く予定なんですよ」
松金は意外そうな顔をしたが、口の端にあるかなきかの笑みを浮かべて、
「遊園地、ですか?」と呟いた。「病気が治ればいくらでも行けますよ」
「いつまで続くか分からない記憶のある時間を私はこいつに病院でなど過ごさせたくないんです。その時間はできるだけ二人で楽しいことをしたいのです」
「でも今が早菜子さんを治すいいチャンスだと思いますよ。これを逃したら治療の方法もリハビリの仕方も見つけられなくなってしまうかもしれない」
「それが悪いことでしょうか? 私は長い間待ちました。彼女も覚えてはいなくとも同じように長い時間待ち続けていたんです。チャンスは今までも何度もありました」
「早菜子さんはどう思っておられるの?」
早菜子は言葉に詰まったようだが、やがて言った。
「主人の言った通りです。病院に行くよりここで生活したいと言ったのは私なんです」
「本当に?」
「ええ、私はその方がいいと思っています」
それ以上は松金も食い下がらなかった。
彼女が帰る時、幸雄は駅まで車で送ろうと申し出た。松金は一度断ったが彼は送ると言ってきかなかった。電車の時刻までしばらくは茶飲み話に興じて、そのあと二人は玄関を出た。車を走らせている間は、二人とも押し黙ったままだった。人もまばらな小さな駅の前の駐車場に止まった時、やっと幸雄は口を開いた。
「どういうつもりだ?」
「どういうつもりも何も、どう考えてもらっても結構よ」
「わざわざ君を家まで送り込んでくるなんて、大学もずるいな」
「私が行くって言ったのよ」
幸雄は黙り込んで親指の爪を苛立たしげに一噛みした。
「早菜子さんの症例が希なのは知っているわよね。それが、絶望的だと思われていたのに回復の兆候が見えてきたんだもの、当然興味をひくわよ。だからといって機嫌を悪くしないで。研究することはあなたたちのプラスにもなるんだから」
「どうかな」
「あなたがそういう考えなら仕方ないわ。でも気が変わることもあるだろうから、その時は連絡して。病院でも、なんなら家でも構わないわ」
幸雄は苦笑した。
「とっくの昔に手帳はなくしたよ」
「あら、でも覚えているんじゃないの?」彼女は面白そうに笑う。「まあ、いいわ」
松金は自分の手帳を出し、電話番号を書き付けるとそのページを破って幸雄に渡した。
「早菜子さんのことだけどね、脳細胞が生き返るはずないから、生き残っている脳のどこかに海馬の代わりか補助をする部分ができたのかもしれない。でもそんなことがありうるのかどうか」
海馬とは記憶の中枢にある脳の器官のことだそうである。
「こういう事は言いたくないけど、彼女、本当にどうなるか分からないわよ。きっと何かの原因で脳が圧迫されているんだと思うの。具合の悪いのは多分そのせい。小康状態は長く続くかもしれないし、続かないかもしれない。悪ければ命に関わるかも。いい? 警告だけはしたからね」
彼女はじっと男の横顔を眺めた。そして再び口を開く。
「子供は?」
「なんだって?」
「もしこのまましばらく安定しているとしたら、今なら‥‥。早菜子さんだってそう若くはないし、もっと年をとると普通の人でも危険‥‥」
「やめてくれ」
幸雄は苛立ちを隠さない。彼女の顔も見ない。まっすぐ前を向いたままである。
「悪かったわ」と松金は言うが、態度は悪びれず、むしろ彼を非難するようである。「でも、これでも友情のつもりなの」
彼女は車を降り、扉を閉める前に中を覗き込んだ。
「あなた少し変わった」
「どう変わった?」
「昔はもっと前向きでアグレッシブだった」
彼はまた苦笑する。
「とっとと行けよ」
「じゃね、奥さんを大事に」
松金は扉を強めにバタンと閉めた。そして駅舎の中へと足早に入っていった。幸雄はそれを見届けもせずに車を発進させた。
子供など欲しくない。早菜子が愛しくて愛しくてたまらないときも、湧き上がる肉欲に耽ろうとするときでも、必ずそのことが意識に引っかかる。むしろ早菜子が愛しくてたまらないほど、肉欲が身内に暴れて仕方がないほど、なおさらたががきつくなる。だから、彼はいつも満足に果てることができない。避妊をすれば、幾分ましには感じられるのだが。
早菜子は何も言わない。だが、思いは彼女とて同じであるはずだ。というより、彼はそう思いたかった。彼女はしばしば拒む。後一歩のところで急速に潮が引くように去ってしまうこともある。その真意は、二人の間に言葉として現れたことはなかった。それでも幸雄にとってみれば、湿りを帯びた肌を重ねることが無二の慰めであることにかわりはなかった。
翌日、松金の報告を受けた大学病院の医師から忠告の電話があった。町医者からもできるだけはやく検査を受けた方がいいと助言されたが、それでも二人の意志は変わらなかった。幸雄は十年も前からの約束で早菜子を遊園地に連れていった。それからも暇を作ってはドライブに出かけ、海で泳いだり、美術館をめぐったり、何の変哲もない町並みをそぞろ歩いた。
早菜子の記憶は大体においてしっかりしているが、それでも波があり、働きが鈍くなることがしばしばあった。以前のように物事がほとんど記憶にとどまらずに彼女がとりとめのない話を話し続ける時には幸雄は不安にかられるのだが、四五日経つうちに再び回復して筋道だった事を言うようになると彼はまたほっとする。
そんな生活が二ヶ月ほど続いた。
多少肌寒く、ひっきりなしに小雨の降るある日、早菜子はただ座布団の上に座ってぼんやりしていた。机上には白紙のもの、古びたものを合わせ何冊かのノートが開かれている。その横には小さなカセットテープレコーダーが置いてあった。シャープペンシルをカチカチと鳴らし、頬杖をついて再びノートへと目を落とす。
彼女は疲れていた。体が、というわけではなく、気持ちが疲れていた。今はこのノートが疎ましく感じられて仕方がない。記憶力が戻り始めてからというもの、彼女は過去の自分を取り戻したくて今まで綴ってきたダイアリーを読もうと心がけてきた。初めの頃は何が書いてあるのか幾分興奮しながらページをめくった。けれど読み進むにつれ次第に幻滅し、ついには表紙を開くのが億劫なほどにまでなっていた。
日記は文章などという代物ではなかった。それはむしろ言葉の羅列といった方がふさわしい。単語がばらばらに散らかっている一方で回りくどさはなく、単純明快なくだりもあれば、逆に支離滅裂な部分もある。同じ言葉が何度も繰り返し出てきたり、あるいはあるべき言葉がこぼれ落ちていたり、どれが主語でどれが述語やら分からない文章も多かった。
日記は彼女なりのリハビリを兼ねて、彼女が倒れた日から約一年後に始められていた。最初の頃は日記を書く習慣がなかなかつかなかったとみえ、一二週間やときには一ヶ月も筆を取らずに間を空けることが多かった。
「父が死んだ」という言葉が出てきたのは日記を書き始めて三年近くたった辺りだった。「彼が言った。『お父さんが亡くなった』そう言ったあと外に出た。私は聞いている、ここにあったものが持っていったので花は頼まなければならないと言うことだ。それと彼が父が亡くなったと言ったときは声は大丈夫だったが、何故かは分からない。私はだめだった。今もだめだ。夕飯にと大叔母の用意した煮付け、大根と人参とさつま揚げ、その他。
幸雄の声は暗い。大叔母は『ここだけ踏ん張ってけろな』と言って帰った。この時が三時半。
六時五分前、私は父のことを尋ねている。幸雄が『父が亡くなった』と言っている。父が亡くなった、何故? いつのことなのか分からない。この前いつ父に会ったか?」
父の死に実感はなかった。父にはつい先日会ったような気もするが、しかしその記憶はあまり鮮明ではない。彼女の不安をかきたてたものは父親の死それ自体ではなく、それを自分が意外なほど悲しめないということだった。なぜ悲しめないのだろうと考え始めてから初めて涙が込み上げてくる。こぼれはしなかったが、それでもそのおかげで気はいくらか晴れた。少なくとも私はかつて戸惑って胸をつぶすくらいに悲しんだのだ、と感じられたからだ。
そんな風にいくつかのおぼろげな事件が彼女のノートには書いてあった。けれどどれもこれも陰鬱なもので、ほとんどの部分は破局をむかえた幸雄とのことに愚痴をこぼして嘆くばかりだった。加えて支離滅裂な文章は書いた自分自身に対して腹が立つほどである。
今もシャープペンシルを手にテーブルに向かい、平凡でこれといったこともない今日のページを綴ろうとしているところだ。けれど執筆意欲は失せている。特記すべきこともないし、記憶からこぼれ落ちることもほとんどなくなった今となっては日記をつけることに何の意味があるだろう。もちろん散漫とした考えを整理する役目は果たすだろうが、今の彼女にはそんな気力がなかった。すべてのノートをばたばたと閉じると本棚の元の位置へ押し込んだ。そのときふと違和感に打たれた。何かが違う。棚のノートの並びが以前とは違うのだ。何が違うのか分からず、一冊一冊手にとってぱらぱらとめくってみた。やがて彼女は気付いた。ノートが足りないのだ。以前、つまり目が覚めた(彼女は記憶力が戻ってきたことをこう表現した)初めの頃に見た時には確かにもっとたくさんの冊数があった。四冊、日記の日付で見ると約一年と一ヶ月分、八年前から七年前の記録がすっぽり抜けている。その前後は内容はどうあれほとんど毎日筆を取っているのを見ると、この期間だけ日記を中断したとは考えにくい。
彼女は部屋中を探した。おそるおそるではあるが幸雄の書斎の本箱や引き出しまで見てまわった。けれど目当ての物は見つからなかった。
そのあと早菜子は夕の食材を買いに出かけ、戻ってみると幸雄は帰っていた。夕飯がすむまで彼女はためらっていたが、食器を片づけて茶を出したところでやっとノートのことを彼に尋ねてみた。
幸雄は知らないと言う。大方引っ越した時に紛失したのだろうというのが彼の見方だった。
「ここに越してきたのはいつ?」
「大体四年半くらい前だ」
「その前はどこにいたの?」
「どこって、ここに来るすぐ前は病院の近くのアパートにいたけど、大学病院にもしばらくいたし、長倉のお前の実家にいたこともある」
「そう」
と彼女は一言だけ口にした。
早菜子は首を垂れて湯飲みの中をじっと覗き込んだ。父のことを幸雄に尋ねようかどうか躊躇したのだった。
その夜早菜子が寝入ってから、幸雄は物置の工具箱の中から四冊のノートを取り出して外へ出、それを海へ放り捨てた。
秋風が鋭さを増して木枯らしに変わる頃には、早菜子の「目覚め」からは半年ほどたっていた。夕刻、作業所から彼女が帰ってくると玄関は鍵がかかっていた。手持ちの鍵で家に入ると、壁のボードには「急の仕事にて東京へ。今夜は帰らない。幸雄」と書いてあった。幸雄は一昨日の〆切をのりきったばかりだ。その前三日ほど彼はしも下の用事以外は書斎から一歩も出なかった。けれど、早菜子は彼が何を書いているのか、まるで知らなかった。尋ねても彼は茶を濁すのみである。以前に一度だけ、雑誌掲載用のテレビドラマ評の原稿を見せてくれたことがあっただけだ。
不安。寂しさとは違う。ただ茫漠たる不安である。料理を作っていても、テレビを見ていても、風呂に入っていても、迫り来るように感じる。気が散って読書にも身が入らない。日記はもう何週も前からつけていないし、気持ちを紛らわす術もない。
外に何か物音が聞こえたような気がして、窓辺に立ちカーテンの向こうの暗闇を覗く。だがそれは何にもならない。よけいに辺りの空気の不気味さが増すのみだった。彼女はせわしなく家の中を歩き回った。何かを探しているのだが、何を探しているのか彼女自身も分からなかった。ただあちらこちらへ揺れながら視線が棚や天井や床の上をさ迷うばかりである。やがて玄関の横に束ねられた古新聞を見つけて掴み、両手で思い切り引き破った。次から次へ爪を立てながらかきむしり、ちぎり捨てる。
しばらく玄関口に座り込みながら散らかった新聞紙の紙片をじっと見ていた。テレビからは真夜中のニュース番組のオープニング音楽が流れ、壁の時計を見上げると十一時をさしていた。早菜子は立ち上がり、さっさと紙片を集めてごみ箱に捨てた。古新聞の量が減った以外は玄関は元通りになった。
しかし、やはり不安はおさまらなかった。正座して膝に手を当て、ニュースの画面に意識を集中した。だがそれにも失敗してしまった。ふとベッドに手を伸ばし、枕を引き寄せた。抱きしめるとそれが意外と心地よい。壁によりかかり、枕を胸に押し付けるように抱きかかえ、うつむいて顎をのせ、やがて彼女はうとうととしはじめた。気がついた時には午前二時で、体をベッドまで引きずって布団の中に潜り込んだ。疲れていたのか、朝まで夢は見なかった。幸雄は昼過ぎに帰ってきた。
ある日、雑誌の編集部の者という人物が訪ねてきた。若くて痩せた、メガネをかけた男だった。幸雄は〆切に遅れることのほとんどない作家であったが、この時はどうにも筆が進まず、また早急に打ち合わせの必要な他の記事の件もあって、珍しく催促がきたのである。夫が書斎に缶詰になっている間、早菜子が客をもてなした。とはいっても、客は元来寡黙な性質らしく、天気のことと、彼の妻と子供のことを無難な程度に口に出すのみで、それ以外はもっぱら音を小さめにしたテレビを見ながら笑ったり野次ったりして時を過ごした。
時々早菜子の不完全な記憶のために会話が食い違うこともあったが、彼は事情をよく知っていて、嫌な顔も不思議そうな顔もしなかった。
彼女は出版社での夫の評判を聞いてみた。
「よろしいですよ」と編集者は答えた。
彼はどんなものを書いているのかと早菜子が重ねて尋ねると、「恋愛小説の連載と、時々は随筆も」という返事だった。
昼下がり、やがて幸雄の原稿が上がってきた。寝不足のやつれた表情で部屋を出てきた彼は、妻に熱い茶を一杯頼み、タバコを一服した。編集者は彼をねぎらい、封筒に入った原稿を受け取った。それから一時間だけといって彼はベッドに横になった。編集者は文句もいわず、また早菜子と一緒にテレビのワイドショーを見ては、芸能人に悪態をつくのだった。
時間が来ると編集者は容赦なく幸雄をたたき起こした。彼はまだ寝足りない様子だったが布団から何とか抜け出して、大きく伸びをした。
「ちょっと喫茶店かどこかで打ち合わせをしてくる」と早菜子に言う。
「ここでやればいいじゃない」
「いや、お前が聞いて面白い話じゃない。それにずっと閉じこもりだったから、外の空気も吸いたいしな」
彼は編集者と二人で家を出て行った。
洗い物を片付け、部屋に掃除機をかけようとした早菜子は、床の上に置かれたままの編集者の忘れ物に気がついた。ついさっき仕上がったばかりの原稿である。二人はまだ近くにいるはずだ。どこの喫茶店かは大体見当がついていた。何しろこの辺りにはたいして店がないのである。編集者が忘れ物に気付かないで帰ってしまう前にと、彼女は電話帳を引っ張り出して番号を調べた。
受話器に手をかける前に、ふと誘惑にかられた。彼女はここ何年も幸雄の書いた文章をまともに読んでいない。若い頃はよく同人誌に載った彼の詩を見せてもらったし、また彼が早菜子に贈ったものもあった。しかし、目覚めてからというもの、まだ一度も彼の芸術に触れる機会がなかった。
早菜子は封筒に手を伸ばすと、おそるおそる口を開いた。束になった原稿用紙を引っ張り出し、そして目を通した。彼女は目を丸くした。その次に顔が真っ赤になった。そして、覚悟を決めて字を追っていくうちに表情は次第に険しくなり、ついにはその瞳に涙が一杯になって、それ以上読み進めることができなくなってしまった。それはポルノ小説だった。
彼女の胸を締めつけたのは恥ずかしさでも、悲しさでもない。怒りだった。幸雄に対する怒りではない、自分に対する怒りである。幸雄を詩の道から引き離すほどに追い込んだのは誰なのか、彼女には疑いようもない。ポルノ小説を蔑視するつもりはなかった。彼の書いたものなら、何だって愛しかった。しかしかつて、彼が彼女を捨てようとしたのは、詩のためだったのである。だが今は、彼女のために詩を捨てたのに違いなかった。
夕刻となって編集者とともに幸雄が家に帰ってきた。彼は足早に部屋に入ってきた。原稿はすでに封筒に戻されてテーブルの上に置いてある。早菜子はその前に座り込んだままうつむいていた。
「早菜子」と彼は呼んだ。そのまま立ち尽くしている。
彼女は赤い目で彼を見上げた。幸雄はその視線をまともに受け止め、決して目をそらさなかった。
「すいません」と玄関のほうから声がした。
幸雄はドアの向こうに顔を出し、「ありました。今、いきます」と答えた。彼は封筒をつかむと玄関へ戻っていった。
壁を隔てて聞こえてくる二人の挨拶の言葉をぼんやりと聞きながら、早菜子は手鏡を出して自分の顔を見つめた。
「ひどい顔」
何故こんな顔を彼に見せたりするの、ひどい女。そう考えて、両手を頬に当て、凝り固まった顔の筋肉を解きほぐす。
玄関の戸の閉まる音がして、幸雄が部屋に戻ってきた。彼は彼女の向かいにあぐらをかいて、タバコとライターを胸ポケットから出すと火をつけた。一息に吐き出した煙は溜息のようだった。
早菜子はテレビをつけた。
「お茶いれるわ」と台所へ立つ。
「いい」と幸雄は言った。「座れ。テレビも消せ」
取りかけた湯飲みを元に戻し、彼女は彼の隣に座った。幸雄はまだなお、黙ってタバコを吸っていた。長さが半分になったところで、無造作に灰皿に押し付けて火を消したが、やはり手持ち無沙汰なのか、またすぐに二本目に火をつけた。海岸から聞こえてくる波の音が静寂をなお際立たせる。
いつまでたっても話は始まらなかった。早菜子は膝と口元をせわしなく往復する、彼のタバコをはさんだ指の動きを目で追っていた。彼の表情は沈痛でとても見ていられなかったからだ。
「もう寝たら」と彼女が切り出した。「せっかく仕事が終わったんだし、何日もろくに寝ていないでしょ」
「いいや、俺は‥‥」
「話は明日にでも聞く。そんなに急がなくても」
「はぐらかすなよ。聞きたくない気持ちはよく分かる。でもな、言い訳ぐらいは‥‥」
早菜子は彼の口を自分の唇でふさいだ。それから先は言葉は意味を持たなかった。二人はもつれたまま床に倒れ込むと、盲目となった幸雄の手は危なっかしく灰皿を探り、何とかその中にタバコを放り入れた。そしてしばしお互いの体を求め合う。
けれども、幸雄はあまりに疲れていた。目を閉じると意識が遠のきそうなほどだ。早菜子は彼の疲れた目に口づけをして言う。
「続きはまた今度」
彼は彼女の表情の裏側を探るように見上げた。若い頃に比べれば確かに彼女の目尻のしわは増えた。一方で幸雄にはいつも早菜子は年の割に幼く感じられていた。元来の性格なのか、記憶の欠如によるものなのか、それを問いたくはなかったが、幸雄は自分が過ぎる日々に鞭打たれて確実に生気が萎えてゆくのを感じる一方で、早菜子の無知ともとれる初々しさはいまだ消えずにいるように思われていた。しかし、今彼の見上げる笑みは、彼女がかつて見せたことのない大人びたものだった。三月の陽だまりのように切なく柔らかい。
「分かった」
彼はベッドの上に這い上がり、布団にもぐりこんだ。
「電気は消さなくていいよ。テレビの音だけ小さくしてくれれば」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ」
彼の心は感謝でいっぱいだった。早菜子の目覚めからこの方、いずれは今の彼の仕事に理解を求めなければならないと覚悟はしていたが、彼女がすんなり受け入れてくれるとは考えていなかったからだ。彼の詩は生計が立てられるほどには売れなかった。そのせいか、かつては何ヶ月にもわたって一行も書けなくなった時期さえあった。自分の感性が実は貧困なものであるなどとは彼は決して思わなかったけれど、しかし万人に受け入れられるものではないことを痛いほど知らされた。だが彼の本然は失われなかった。彼の詩は本の中ではなく生活の中にあった。それは世の光の当たるところに出るべきものとは違っていた。
暮し向きのために別の種類の作品を書かなければならなくなったとしても、結局は彼の創作は絶えることがなかった。むしろ名声に対する強迫観念から開放されたといってよい。彼はより敏感になった。早菜子の髪が柔らかくそよぐ潮風。台所の窓から見上げるわずかに伸びゆく梢。誰が捨てたか廃棄物の散乱する草むらに立ち、錆びた鉄屑のみを残して全てが消えてしまう空虚な時間。それまでは陳腐であると笑っていた、子供達が声を上げて駆けだす、空を分かつ坂道。全てが彼の心臓を締めつけ、その一方で憐れみと決意とを育んだ。
それでもやはり、彼は自分の堕落を早菜子に知られることを恐れた。彼女の罵りや軽蔑が怖かったのではない。彼女の不幸を恐れたのである。彼女には病に抗う術はなかったはずだ。それなのに彼女が、自分の弱さの為に病に負け、彼を束縛し、堕落させてしまったのだと思い込むとしたら‥‥。
はたして彼の堕落が本当に早菜子の病のせいなのか。そのことは十年も前から何度も彼自身が自問自答を続けてきたことだった。あのとき彼女が病に倒れず、彼のもとを永遠に去っていたとしたら、彼の詩作はどうなっていただろうか。必ずや、己の才能に対する卑小な慢心と、それを拒む早菜子を筆頭とする社会に対する憤りとで、彼を焼き焦がし、ただのすすけた脱け殻にしてしまっていたに違いない。そう考えれば、今の彼の心は、たとえ二度と癒えぬ傷を残そうと、いつ終わるとしれぬ危惧を肩に負うことになろうと、痛みさえも絆をより堅固にするものとなり、果てしなく続く暗闇の中に美しい街灯を見つけて見上げるような、そんな安らぎを覚えるのだった。
次の日、幸雄は早菜子にポルノを執筆するようになった経緯を話そうとした。しかし、早菜子は穏やかに笑うだけで、一向に聞こうとはしなかった。
「暮らすのに必要なお金が入ってくるなら、なんだっていい」
彼女は彼に背を向け、台所に立つのみだった。
ある晴れた初夏の日、早菜子は庭の草むしりをしていた。青々とした雑草が海風に揺れている。空気は乾いていて快い。庭の柵の外側にはぼうぼうと草むらが茂っていたが、内側には一点のくすみも残すまいと、彼女はせわしく手を動かしていた。幸雄はまた仕事で東京へ出ており、今夜は戻らない。近頃は以前より仕事の量が増えたようである。自然、夫婦の会話は減りがちだが、一緒にいられるときには彼は楽しそうに彼女に仕事の話をした。小説の取材が高じて、ドキュメンタリー作家のような相が彼には現れていた。そっちのほうの記事を書かせてくれるよう編集局へ積極的に働きかけているようである。もちろん今まで純粋な創作しかしてこなかった彼には、それはたやすいことではなかった。
早菜子は小遣いの中から金を捻出して、ガーデニングの通信講座を受けようと思っていた。講習はまだ始まってはいないが、今も潮風の中でも生き延びられそうな花の種を買ってきて、花壇を作ろうとしているところである。しかし庭一面にはびこる雑草を引き抜きだすと、花壇にしようと思った区画のみならず、結局庭全体をきれいにしないと気がすまなくなっていた。そんなわけで朝から始めて昼過ぎになった今も、照りつける陽光の下で日焼けを気にしながらしゃがみこんでいるのである。
子供の笑い声が聞こえた。見れば草むらの向こうの道路を、海辺へ散策にでも来たと見える母子が歩いている。一人は小学校に入りたてほどの女の子。一人は幼稚園児ほどの男の子。そして母親が抱いているのは、六ヶ月ほどの乳児である。
爽やかな心持ち。同時に郷愁にも似た切なさが早菜子の胸に湧いた。男の子は「おんぶ、おんぶ」と母親にねだっている。母親の方は末っ子を抱えているので、「だーめ、歩きなさい」と突き放す。姉は道端の草花を摘んだり、トンボを捕まえようとしたりとちょこまかと動き回り、「アー君、それ捕って、それ」と駄々をこねている弟に命令する。言われて弟は姉と共に路肩に座り込んだり、タンポポを持って跳ねてみたりするのだが、すぐに母親の腕の中にいる幼子に気持ちが戻り、再び「おんぶ、おんぶ」と母の上着の裾を引く。そんな風にして彼らの姿は遠くの道へと小さくなってゆき、ついに早菜子の視界からは消え去った。その間に彼女の郷愁は別な重いものに変わっていった。日の暑さも忘れてしまい、小さなシャベルを土に汚れた指に持ちながら、ただこめかみから頬へと流れる冷たい汗を気にして、しきりに袖で額をぬぐうのだった。
夢を見た。青ざめた手。その手が必死で地面を掘っている。土は堅くて堅くて、耐えられないほどに指が痛い。指の痛みは腕に伝わり、胸に伝わり、腹に伝わり、体全体に広がっていく。全身に苦しさを感じながら、それでも彼女はその自分を外から見つめていた。掘っているのはもう一人の自分。だが、その自分を目の前で冷ややかに見下ろしているのもまた自分である。何を探して掘っているのか分からない。しかし、何かとても大事なものだということは分かっている。爪が地面を掻くたびに、全身に苦痛が走る。雷鳴がとどろく。サイレンのような甲高い音もする。
やがて、土の中から丸い物体が出てきた。それは大きなトマトだった。艶やかでみずみずしく、美しい。その愛らしい赤い実に彼女は思わずほおずりをした。
ぐにゃり、と実が頬骨の上で崩れた。途端に耐えがたい腐臭が鼻を突く。見ると手の中のトマトはつぶれて跡形もなく、中から溢れ出した血が彼女の掌を、腕を、顔を真っ赤に染めていく。彼女は絶叫する。そして血を滴らせながら走り出す。後ろから何か大きなものが追ってくる。何度もつまづき、転びながら彼女は懸命に逃げた。長く長く走りつづけ、ついに捕まりそうになった。突然目の前に男の姿が現れた。顔は見えなかったけれど、それが幸雄であると彼女は確信して、助けを求めて彼の腕の中に飛び込もうとした。だが、男の体はまるで空気であるかのように彼女をすり抜けた。早菜子は勢い余ってつんのめり、足元の地面が不意になくなって、深い奈落を転がり落ちようとした。落下、恐ろしい墜落の感覚。息をのんで彼女が目覚めたのはその時だった。
早朝の光がカーテンから漏れている。寝汗に髪が重く、首筋がひんやりする。両手で顔をきつくこすり、眠気を払って現実を確認すると、ゆっくりとベッドから這い出て畳の上に座り込んだ。あの夢は何だったのか、いまだに胸騒ぎが収まらない。昨日、庭で草むしりをしていたときに見たものと何か関係があるのだろうかと考えた。
と、体に悪寒が走った。
『何を見た? 私は一体何を?』
思い出せない。昨日、花の種を買ってきて庭に撒いたはずだ。雑草がひどかったから草むしりをした。強い日差し、べとつく汗。それは確かに覚えている。だが、見たものは‥‥。何かを見たことは確かなのだ。それだけではない。昨夜のことも記憶にない。夕食に何を食べて、寝る前に何をして、何時に寝たのかさえ。
こめかみの筋がぴくぴくと動く。何度も彼女は目を閉じては開く。分からない、分からない、その言葉が心に繰り返し繰り返し浮かぶばかりである。不安。まるで目の前が深い闇になってしまったようだ。手は寝巻きの裾を強く握る。何かをしっかりつかんでいないと胸が壊れそうである。
昨日の記憶は半端でも一昨日の記憶は完全にある。一昨々日は‥‥、大丈夫覚えている。その前は‥‥、駄目だ、思い出せない。四日前の午後、何をしていたかさっぱり思い出せない。『なんだろう、なんだろう』 心は千々に乱れるばかりだ。四日も五日も前のことをそうすぐには思い出せないのは普通の人間にだってあることで、なんらおかしいことではない。だが、彼女の忘却がそういう普通のものなのか、あるいは症状の再発によるものなのか、確信が持てない。もしかするともう治ったと思っていたこの数ヶ月の間も、気付かないだけでそういったことがあったのかもしれず、自分の記憶がちゃんと連続したものなのか、あるいは知らぬ間に所々が抜け落ちているのか、なお不安はつのる。
彼女の心中にはある一連の風景が浮かんだ。連なる青々とした山並み、田畑の広がる谷間の村、林と家々、そして横たわる河。ススキの密生する湿地、杉やブナに囲まれた谷筋の石の河原、そこに散乱するキャンプ客の残した空き缶や紙屑。雨上がりの爽やかな空。岩を洗う濁流。
それは彼女の生まれ故郷、長倉という山里だった。
夢の中に故郷が出てきた覚えはなかった。だが、その山河のイメージが心に焼き付いて離れない。何かしら、しくしくと痛む感がある。朝食を作っていても、朝のワイドショーを眺めていても、洗い物を陽にかざしていても、目の前にはその風景が浮かび、ぼんやりとだが何かを訴えかけている。やがて彼女はそれを拒みきれなくなり、せっかく太陽の下に干した洗濯物を部屋の中に張ったワイヤーに移し替え、残っていた流しの食器を全て洗い終えると、本棚から時刻表を抜き出し、塗れた手をエプロンの裾で拭ってページをめくり始めた。
昼、幸雄が家に帰ってみると玄関には鍵がかかっていたので、彼は手持ちの鍵で中に入った。茶の間には洗濯物が干してある。上着を脱いで壁の衣紋掛けに掛けたあと、彼はテーブルの上に早菜子の置き手紙を見つけた。
「長倉の家へ行ってきます。何かしら思い出すことがありそうな気がするので。泊まりになると思いますが心配しないでください。午前十一時、早菜子」
幸雄は青ざめた。時計を見る。今は午後一時だ。ここから長倉までは少なくとも電車で四時間はかかる。するとまだ早菜子は向こうへは着いていないはずだ。彼は急いでアドレス帳を上着のポケットから出し、長倉の家の電話番号を探した。慌てていたために手帳に挟んでいた紙片がはらりと畳に落ちる。彼はそれを拾う暇もなく受話器を取った。
呼び出し音が鳴る。四度…、五度…、それでも相手は出ない。思わず口から悪態がでかかったところで、電話はつながった。
「はい、安田です」と女性の声。
「お義姉さんですか、お久しぶりです。工藤です」
「あらあ、幸雄さん、ほんとお久しぶり。何したの」
「早菜子から連絡はありましたか?」
「早菜ちゃんから? ないけど、なして?」
「今そちらに早菜子が向かっているようなんです。いいですか、早菜子が何を聞いても、あのことは言わないでください。お願いです」
「何だべ、いきなり。もしかして早菜ちゃん、何か思い出した?」
「そういうわけじゃないと思います。ただ、ここのところ症状が快方に向かっているんです。前みたいに物忘れは激しくはないし、話も普通にできます。俺としてはもう治ったんじゃないかと思えるほど‥‥。いいですか、早菜子には絶対へんなことを言わないでください。俺もすぐそちらへ向かいますから。それじゃ」
「ちょっと‥‥」
義姉が聞き返す間もなく幸雄は受話器を置き、上着をつかんで立ち上がると部屋を出ようとした。だが彼は戸口で立ち止まった。畳の上に落ちた紙片に気が付き、それを拾い、再び手帳に挟み込む。そしてあわただしく靴を履いて玄関を駆け出て行った。
記憶が戻るはずがない。そう彼は自分に言い聞かせた。彼女は記憶喪失じゃない。もともとあった記憶が失われたのではなく、記憶することができなくなったのだ。だから、長倉の実家で療養していた七年前の事も、忘れたのではなく元から記憶していないのだ。元からないものが思い出せるわけもない。だが、同時に恐ろしかった。彼女は全てを覚えていないわけではないかもしれない。明け方の夢の名残のように、ぼんやりと靄のような感触としてほんの少しぐらいは残っているのかもしれない。そうだ、あの強烈な体験が彼女の中に全く残っていないなどと考えるほうが、そもそもおかしい。何かのきっかけで全てを思い出すとしたら‥‥。
そこまで考えると彼の胸は痛んだ。息が詰まりそうなほどである。どうしたらいい? いったいどうしたら? いくら自問しても、彼は答えを得られなかった。
パーキングエリアで彼は車を止めた。家を出るときに畳から拾い上げた紙片が心から離れない。それははるか天上から下界の彼の前に垂れ下がった細い蜘蛛の糸のようにきらきらと光を放っていた。公衆電話に近寄り、迷いながらもプッシュホンのダイヤルを押す。
「はい」と受話器の向こうから眠そうな女性の声。
「もしもし、俺だ。工藤だ」
松金和恵は夜勤明けで昼間の今も寝ていた。寝癖でぼさぼさに広がった髪の毛の様子が幸雄の脳裏に鮮明に映る。
「待ってたわ。早菜子さんの診療のこと?」
「いや」
「じゃあ何? 私とよりを戻そうっての? 駄目よ、私のことなんか見やしなかったくせに」
「そうじゃない」
幸雄は事情を話した。彼女は早菜子の障害のことも、そして七年前の事件のことも、そのことについて彼がどんな思いを抱いていたかも知ってくれていた。だから、彼女に深く接した当時のことについては、彼は言葉にしつくせないほど感謝していた。しかしそれがあやまちの言い訳にはならないことも分かっている。
「なぜ私にそんなことを相談するの?」
和恵はぶっきらぼうである。
「なぜって、君が一番俺たちのことをよく知っている人だからさ。他にこんなことを話せる人間なんて‥‥」
「何年も音沙汰なしだったのに、いまさら私を頼ってどうするの。馬鹿じゃないの、あなた。いっつも、そう。すがりたいときにだけ、すがってくるなんて。嫌なことからは逃げ回ってばかり」
「俺がいつ逃げ回った」と今度は彼の口調がきつくなる。
「じゃあなぜ、私に電話なんかしてくるの? なぜあの時私の部屋に来たりなんかしたの? そういうのは逃げてるっていわないのかな?
早菜子さんに本当のこと言えばいいじゃない。あなた達も夫婦なら、隠し事をしたりしないで一緒にぶつかっていけば。私には関係ないことでしょう」
「隠さないことが正しいことだなんて‥‥」
「ええ、ええ、そうでしょうね。でも、心の傷を癒すのは『現実を直視して認識すること』から始まるの。隠すことが早菜子さんにとって良いことだなんて、あなたが勝手にそう思い込みたいだけなんじゃないの?」
幸雄は受話器のコードを握ってうつむいた。何か言い返したいのだが、容易に言葉が出てこない。
「ちょっと、聞いてるの?」と和恵。
「聞いてるよ。君はいつも正論だ。いつもどこかのお偉いさんの言葉を引っぱってきたりして、本当に虫の好かん奴だ」
「結構」
「昔、君が言ったな。フロイトだったか。『自分自身に対して完全に正直であることは、人間がなしうる最善の努力である』なんて言ったのは」
「ええと、そう、確かフロイト。よく覚えてたね」
「そんなの嘘っぱちだ」と幸雄は言い放つ。だが、その口調に激しさはない。落ち着いた頑なさがあるだけだ。
和恵は自分の口元に笑みがこぼれるのが鏡を見ずともはっきりと分かった。だが、受話器の向こうの男にはそんなことを決して知られたくはない。
「卑怯な男」
この言葉に幸雄は沈黙で答えた。
「私も馬鹿だった。もう二度と私に電話してこないで。早菜子さんの診療のことも病院に直接かけあって。彼女が今みたいな暮らしができる時間は限られていると考えた方がいい。そのうち必ずまた病院で会うことになると思うけど、そうなっても私達は他人、そうよね」
「ああ、分かった」
「じゃあ、さっさと行くのね」
「ああ」
先に電話を切ったのは幸雄の方だった。
彼は祈るように受話器を額につけて目を閉じた。そのあとテレホンカードを財布に戻すと車へと戻った。まだまだ長いドライブが待っている。
松金和恵はもう一寝入りしようと布団にもぐりこんだ。目を閉じ、枕に頬を押し付けながら、彼女の口元にはずっと笑みが浮かんだままだった。
駅に降りたのは早菜子一人である。見渡せばぐるりと山に囲まれた盆地の端の、小さな無人駅だ。田植えはあらかた終わったらしく、午後の陽光が苗の並ぶ水面に照り映えている。ところどころには蓮華の花畑も見える。
長倉まではここからさらにタクシーで三十分かかる。兄の家、すなわち彼女の実家には、途中の駅で連絡を入れた。電話には義姉が出たが、彼女は突然の早菜子の訪問に驚いた様子もなかった。幸雄から知らされていたそうである。なんでも彼もすでにこちらに向かっているとのことだ。
実家は古い木造で、もとは茅葺だったものに今はトタンを葺いてある。彼女の幼い頃と寸分違わぬ姿だ。裏手は杉山、前には川が流れる谷間に建っていて、その他の平たい土地はほとんど畑となっている。海辺や都会では初夏でも、山里では遅い春を迎えていた。畑の一角にも川原の土手にも黄色い菜の花がほころびて風に揺れていた。
「お久しぶりい、んま、痩せで。んでも、加減ハぜえぶ随分いいんだって?」
この土地の言葉では「ハ」は「わ」ではなく「は」である。義姉は太めで愛想の良い女性だった。もっとも、早菜子の記憶では彼女はもっとスリムだったし、頬もりんごのように赤かった。義姉にとっては五年ぶりでも、記憶のない彼女にとっては十五年ぶりの再会だった。兄はまだ仕事から家に帰っていないが、この分では兄の姿も相当変わっているだろう。そう思うと彼女は彼が帰ってくる前にこの家から去りたくもなった。だがここで逃げても意味はない。兄が老いているのなら、その姿を今この目に焼き付けておかなければならない。今日は覚えることができても、明日はまた砂時計のように記憶が次々とこぼれ落ちてしまうことになるやもしれないのだから。
「来てもらってえ良がった。あんたがなじょ如何してっかって、こないだもうちの人と話してたのよ」
義姉は嫌味のない人である。彼女の笑みと言葉は他意を感じさせない。決して美人ではないが人柄のにじむ丸い顔と大きな声。早菜子はこの義姉が好きだった。
「幸雄さんが心配してだっけ。あっはっは、そんなに慌てねくてもいいべじゃなあ。前っからあの人ハ神経質だもんねえ。でも、早菜ちゃん、なして幸雄さんさ断りなく出てきたの?」
彼に話したら止められるような気がしたからだ。だがそれは口には出さない。
「お父さんのお墓参りをしたくてさ。早いほうがいいと思って」
早菜子の言葉にも自然となまりが戻ってくる。
「そりゃ、お父さん喜ぶんだ」
彼女は仏間に通された。薄暗い部屋で、壁に埋め込まれるようにして仏壇が安置されている。父と母の遺影が仏壇の上に飾られている。母は彼女が小さい頃に亡くなっていた。父の姿は彼女の記憶にあるそのままだ。今ではその姿が変わらないのは両親のみである。早菜子は二人の前に座ると静かに手を合わせた。
「七、八、九‥‥」と義姉が指折り数えて言う。「十三回忌は三年後、まだあるもんな。んでも早菜ちゃんの病気が治ってさ、お父さんも安心だな」
早菜子は曖昧な笑みを返した。
「お墓さも行きたい。あのお墓さ入ってんの? あの丘の?」
「是非行ってござい」と義姉は笑って答えた。
安田家の墓は家から歩いて十五分と離れていない山裾の尾根の上にあった。山腹の本堂から少し離れてはいるが、寺の境内には違いない。早菜子は息を切らしながら石段をあがり、杉木立を抜けて見晴らしの良い墓地に来た。山の勾配に合わせて段状に作られた墓の群れが、西側に谷と山々を見渡し、東側に大河の流れる盆地を遠くに見下ろしている。夕暮れも近い。そろそろ眼下の町にネオンが目立ち始める頃である。
早菜子の額に浮いた汗は、高地の涼しい空気に触れてすぐに消えていく。父の墓、すなわち安田家の墓は垣根に囲まれ、突き出る小枝も落ち葉もなくきれいに手入れされていた。ここしばらく続いた晴天のためか、夏はまだ訪れないというのに気の早いヒグラシが爽やかで淋しげな声をあげている。潅木の藪が密生する谷からは、せせらぎの音が聞こえてくる。
途中で買ってきた花を墓前に供えて彼女は拝んだ。初めての墓参りではないはずだが、もちろん彼女にとっては初めてに違いなかったし、生前の父とは十四年前に結婚のことで喧嘩別れのような形で別れてしまったままだった。父の言うことを聞かずに故郷へ戻らなかった過去の自分が悔やまれる。そして、病気のことでも散々心配をかけたに違いない。そのことだけでも、彼女は胸が詰まる思いだった。
反面、なにかしっくりとこない思いもあった。自分は父の墓参りのためだけにここに来たのだろうか。何か別な理由もあるはずである。なぜなら、彼女の脳裏に染み付いて離れない故郷の風景はこの墓ではない。川原、最も強いイメージはそれである。丈高いススキの間をかきわける手、ごろごろした岩の上を飛び歩くサンダルの足。濁流。ほんの断片でしかないが、以前より鮮明に瞳の奥に映し出される。と思うと急速にぼやけて消えていく。今何を思い出したのかさえ、すでに彼女には分からなくなってしまう。もう一度思い出そうと早菜子は目を閉じ、両手に顔を埋めて考える。しかし、もう何も思い出せない。
父なら知っている。きっと教えてくれるに違いない。今ここに生きていれば。
「早菜子」と背後から声がした。
彼女はびくりと体を震わせ、ゆっくりと振り向いた。夕暮れの雲を背景に立っていたのは幸雄だった。父とは声も体格も違う。
「仕事は?」と彼女は立ち上がりながら尋ねた。
「終わった」
「そう。ごめんなさい」
幸雄は淋しげな笑みを浮かべた。
「いいんだ。本当は俺が連れてくるべきだったんだ。お父さんには迷惑をかけっぱなしだったんだから」
幸雄はすぐに兄の家に戻ろうと言ったが、早菜子は寺の境内の方を回りたいと言い張った。思えば彼女は幸雄と共に故郷へ来たことがなかった。幼い頃にいつも墓参りに来ていたこの寺は子供の足には少々遠かったが、両親が植木バサミや箒で墓の周りを掃除している間、兄と一緒に遊んだ場所である。時には寺の本堂にまで上がりこんで、住職に叱られたこともある。本堂のすぐ隣に大きな池があり、錦鯉が何匹も濁った水に泳いでいた。裏手の杉林の陰には沢山の地蔵が並んでいる。土地の者はこれを百地蔵と呼び、この土地に人が住み始めた頃からあると聞いたことがあるから相当古いものらしい。
二人はぶらぶらと散歩しながら、やがて寺の正門をくぐって長い階段を下り、車道へと戻った。そこには幸雄の車が止めてあった。
長倉にやってきて四日、早菜子は一向に帰ろうとしなかった。幸雄は毎夜、「明日こそ帰ろう」と彼女に言うのだが、彼女はいつも「もう一日」と言って聞かなかった。
「一週間でも二週間でもおったら」と義姉は言う。
兄もさして嫌な顔もせず、むしろ夜毎に別の飲み屋に幸雄を連れていっては、ママや友人達に彼を弟と紹介するほどで、十三と十五の思春期を迎えた娘達を持つ父親としては家にいるよりよほど居心地がいいようである。幸い幸雄の仕事は場所を選ばない。書きかけの原稿の入ったノート型コンピュータが車に積んであったままだったので、出版者に自分の居所を教えるだけで執筆にはなんら差し障りがなかった。二人の姪は早菜子によくなつき、父親と幸雄が飲みに行っている間、女達だけでカラオケに行くなどしているらしかった。
ただ、心配なことがあった。初めの日、幸雄が早菜子と一緒に兄の家へ戻ってみると、早菜子は自分が父の墓参りをしたことを覚えていなかったのだ。玄関をくぐるときには紙に書いた幽霊みたいに青ざめて、幸雄が腕を差し伸べて支えてやらなければ倒れそうなほどだった。自分の記憶が不完全であることには彼女も気付いていて、そのことをあまり口には出したくない様子だ。彼女は再び墓参りへでかけようとし、その度に幸雄がもう済ませたと言い聞かせても、早菜子は覚えてもいないのにした気にはなれないと言って出ていった。そしてそのまた次の日も同じことがあった。だが、三度目からはどうやら墓参りのことは覚えたようだった。
不思議なことに、彼女が記憶できなかったのは墓のことだけだった。めまいには頻繁に悩まされるものの、他のことを忘れることは些細なことでさえほとんどなかったから、兄夫婦や姪たちと話をしていても会話が支離滅裂になることはない。兄夫婦は本当に彼女の病気が治ってきているのだと知って喜んだ。それでも、幸雄には不安でならない。確かに話しているときや、家事の手伝いをして体を動かしているときは以前の彼女からは考えられないほど溌剌としている。だが、ひとたび腰を落ち着けて座っていると、早菜子は修行僧のような面持ちになる。目の光はよどみ、口を半開きにして瞑想に入ってしまうのだ。そうなると一度呼んだだけでは振り向かない。二度三度でやっと居眠りから覚めたように彼を見上げるのだ。以前の集中力の高まりとは違う。きょとんとして自分がどこにいるかも分からない様子に見え、彼と面と向かっても、喋ろうとして唖者のように何分も言葉が出てこない。兄たちはあまりそれを気にはしない。だが、幸雄にはその症状が今までになかったものであることが引っかかる。早菜子の病気は良きにしろ悪しきにしろ、また変わり始めている。
五日目、ついに早菜子は家へ帰ることを承知した。食事の後の洗い物をする、浮かない顔の彼女を見て、
「何か、思い出せたのか?」と彼は聞いた。
早菜子は首を振った。それから幸雄を振り返って微笑んだ。
「もういいよ。どっちにしろ時間が戻るわけじゃないんだから、思い出せないことなら思い出さないほうがいいってことでしょ、きっと」
「そうか」
後ろめたくないといったら嘘になる。だが、彼は内心ほっとしてもいた。
「おばちゃん、カラオケさ行くべ」と姪達の姉のほうが早菜子にねだった。
「またか、お前達、一昨日行ったばかりじゃないのか」と幸雄。
「いいべじゃぁ。ねえ行くべしよ、おばちゃん」
「いいよ、今夜が最後だし。んで、これが終わったらね」
「やった、お母さんさ言ってくる」
そう言って少女は奥の部屋へ小走りに駆けていった。
電話のベルが鳴った。
「幸雄さあん」と義姉の呼ぶ声。
「はい」と彼は電話のある玄関に顔を出す。
「お電話」
それは早菜子の大叔母からだった。大叔母は以前症状のひどい早菜子が長倉にいた頃に随分世話になった人物である。義父が死んだときも、ずっと彼女の傍についていてくれた。大叔母は、彼に話があるから彼女の家にきてくれと言った。しかも、早菜子には内緒で彼一人で来いということだった。
大叔母の家は隣町にあった。車で行けば二十分ほどである。息子夫婦、孫夫婦と暮らしている彼女は膝をいためてほとんど家から出ずに暮らしているそうである。体は小さいがでっぷりと太っており、ごま塩の頭にいくつものヘアピンをつけてまとめている。幸雄が呼び鈴を押すと、痛む膝を引きずりながら玄関まで彼を迎え出てくれた。彼を茶の間へと通すと彼女は難儀そうに座椅子の上に腰を下ろした。他にひと気がないので尋ねてみると、息子と孫達は仕事で、曾孫もどこかへ遊びに行っているとのことである。
大叔母は彼に茶を入れると口を開いた。
「昨日、早菜子が来た」
幸雄は内心驚いたが、何も口には出さなかった。
「あんたと一緒に来ればよかったって、おれ言ったらよ、そしたら、旦那と一緒でハできねえっつう話だからよ」
「何の話です?」
「何の話もねぇ。早菜子もよ、自分で何がなんだか分がんねぇっけ」
「で、どうしました。叔母さん、話したんですか?」
「言うなっつったのはあんただべ。どうすっぺかとハ思ったったけど」
彼は胸をなでおろす。
「んでも、あんま隠しとくのもな‥‥。おれだって全然関係ねえ人でねえし、幸雄さん、何考えてっか聞かねばわがんねえと思ってな」
「それは‥‥」
そう言ったきり、彼は黙り込んだ。
「あんたを責めてんでねえでば。早菜子ハ難しい病気だべし‥‥。ただ、雄太が浮かばれねえんでねえかってさ。それによ、いずれは早菜子にもばれんでねえべか」
「そうかもしれません。その時はその時です。でも私は、最後まで自分の胸の内にしまっていくつもりです。黙ってさえいてくだされば、他にご迷惑はおかけしません。正直なところ、私はもう長倉へは来たくはないんです。早菜子がどうしてもというなら別ですが、早菜子も近づけたくないんです。だから‥‥」
「おれらハい良がす。おれらハ他に家族もいるしさ、早菜子と年中顔つき合わせてるわけでもねえ。何年かにいっぺんくれえハ顔見てえけんとよ。んだけどあんたハ、いっつもあの子と一緒だべ。ずっと黙ってんのハ辛えぞ」
大叔母は戸棚から紙箱を引っ張り出し、中の饅頭を菓子皿に入れた。
「まあ、け」
そして自分の湯飲みをぐいと飲み干すと、魔法瓶から少しお湯を出してすすぎ、急須の茶殻を捨てて新しい茶を入れなおした。
病に倒れて以来、早菜子が長倉の家に世話になった時期は二度ある。一度は父親の葬儀のとき、そしてもう一度は早菜子の妊娠と出産のときである。
待ち望んでいた新しい命が生まれようとしているとき、一方で幸雄は疲れ果てていた。早菜子は自分が妊娠していることさえすぐに忘れてしまう。いつもホワイトボードを見える位置において、一定の時間ごとに彼女の体を気遣う言葉をかけて思い出させてやらなければならない。
嬉しさ以上に不安が掻き立てられてゆく。彼は三十分と同じ場所に座っていられない。いつも動いていないと肩にのしかかってくる淀んだ空気に押しつぶされそうである。だから原稿は一枚たりとも売ることはおろか書くこともできない。病院通いの彼女からも目を離すことができず、治療費と生活費で借金は増える一方なのに、その上子供とは。仕事とは違って終わりがあるわけでもない。障害が治らなければ、この先ずっと、少なくとも彼か早菜子かどちらかが死ぬまで続くのだ。
すなわち、早菜子の身を長倉に寄せたのは、彼自身の生活の放棄に他ならなかった。一人になった彼は生活のための副業に没頭した。まだ若く体力に不信はなかったから肉体労働もかなりこなした。だが、いつも体は動いていても心は空っぽだった。それを埋めるべきものを彼は持たなかった。新しい女の肢体と優しさ以外には。
がらんとした暗闇の自分のアパートよりも、松金和恵の煌々と光溢れる部屋に帰ることが多くなるのは当然のことだった。
早菜子が長倉で雄太を産むと、幸雄も妻と共にしばらくは厄介になった。未来の事を思うとき、彼は目を反らしたくなる。居心地の良い東京の女の部屋がまぶたにちらちらとちらつく。それでもなお、そんなイメージさえ押し流してしまう力強い血流を、彼ははじめて自分の身のうちに実感として捕らえた。早菜子と雄太の傍にいたいという気持ちは、彼が今まで感じてきたどんな思いよりも確かに強かった。
長雨が降っていた。降ったり止んだりの日が何日も続き、大きな台風が山里を直撃した。その後にようやく太陽が雲間から顔を出し、豪雨と暴風に洗われた木々の梢はなお青々として、やっと訪れた夏の日差しの中で乾いた風に揺れていた。
早菜子は川原を歩くのが好きだった。晴天を待ち続けていた観光客達は大きな荷物を持って車で乗り付け、銘々が鮮やかな敷き物の上で弁当を広げたり、石を積み上げたかまどで灰だらけの煙をおこしていた。流れは濁っていたが、それでも子供達は水際ではしゃぎあい、一方でテント張りや料理に忙しい親達は「深みには行くな」と口をすっぱくして叫んでいた。早菜子の抱く幼子もいずれは走り回る小僧たちの中に入っているに違いなかった。彼女は流れに程近い川原の石に腰掛け、雄太の頭をなでながら湧き上がる雲を仰いだ。
幼稚園の頃の野球帽の男の子が甲高い声をあげながら、早菜子の近くで石と石の間を危なっかしく飛び歩いている。ひょいとジャンプをした拍子に彼はサンダルのつま先を岩にぶつけてひっくり返り、大きな泣き声をあげた。早菜子は慌てて雄太を草の上に寝かせ、男の子を助けおこした。べそをかきながら立ち上がった彼は、車の中の荷物をあさっている父親と母親の方へとよたよたと駆けよっていった。迎えた母親は早菜子に気付き、愛想笑いを浮かべて会釈をした。早菜子もまた会釈を返した。
家へ戻ろうと、彼女は丈高く青いススキの藪を貫く小道を戻る。その時彼女はふと不安に襲われた。何かを忘れているのではないか? しかし分からない。つい三十分前、自分が家の玄関を出たときのことさえ思い出せない。彼女は両の手のひらをまじまじと見る。さっきまでこの手には何かを‥‥。それは一体何か。
明るい空に雲を貫くようなサイレンが長々と響き渡った。響いては途絶え、間を空けてまたうなる。その警鐘は地響きのように彼女の頭の中にこだました。
杉林のヒグラシの声の中を、サイレンが朗々と響き渡った。百地蔵の前にしゃがみこんでいた早菜子はやはり空を仰いだ。少女の頃から何度も聞いてきた音だ。ダムの放水がまもなく始まる。だが、この音を聞いていると早菜子の胸骨は縮み上がり、息苦しくなり始める。額に浮かぶ汗は陽気のせいか、めまいと偏頭痛のせいか、あるいは背にのしかかる冷たく重い空気のせいか。
「あんた、こないだも来てたな」
そう声をかけたのは早菜子と同い年くらいの女性だった。細長い顔に釣りあがった目をした彼女は、箒を持って寺の周りを掃いて回っている。寺にはあまり似つかわしくない垢抜けたオレンジ色のTシャツと、すらりとしたパンツをはいている。そういえばなるほど、この辺の者とはなまりが少し違う。
早菜子は頬を伝う冷や汗をハンカチで拭きながら立ち上がる。
「このお地蔵様、随分古いですよね」
「んだよ。うちの旦那のはなし聞いた限りじゃあ、江戸時代からあるって」
「んですか。あの、失礼だけど旦那さんって」
「ああ、ここの坊様なの。私はここの嫁」
そう言って彼女は白い歯を見せて笑う。
「この辺は昔っから山津波が多いとこだってね。雨降れば急な河は氾濫するし。それで山崩れや河でおぼれて死んだ人の供養で、この地蔵ができたって」
そうだった。彼女はそれを知っていた。山と河を鎮めるために、人柱になった百姓の話を散々父に聞かされたものだった。
不意にサイレンの音がやんだ。すると心持ち早菜子の胸も軽くなった。だがそれもつかの間、黒くすすけた煙のような言い知れない不安がむくむくとうごめきだす。地蔵を前にして、彼女は再びしゃがみこみ、今度は痛みに耐えかねるように地面に膝をついた。
「あらあ、どしたの?」
寺の女は箒の手を止めてふらつく早菜子に寄った。
「お地蔵様の顔が‥‥」と早菜子は小さな声。「お地蔵様の顔がよく見えなくって‥‥」
彼女はまるで検分するように目の前の小さな石像を覗き込んだ。多くの地蔵の中でもひときわ小さいその地蔵の、雨や風によって磨り減った凹凸のない顔は、よく見れば穏やかに笑っているように見える。
「こんな小さなお地蔵様まで‥‥」
「お姉さんみたいな人、よくいんのよ。方々の石像見て回ってんだっつってね。私には分かんねけんと、風流な趣味だじゃねえ」
早菜子は答えなかった。じっと目を離さずに小さな地蔵を見つめている。
「じゃあ、ごゆっくり」
女はてきぱきと塵取りにごみを集めると、本堂のほうへと去っていった。まだ季節の早い蝉時雨に打たれながら、早菜子の頬には汗のしずくが一筋伝って、顎から滴った。
義姉の味噌汁は少し味が濃かった。ジャガイモやらニンジンやらの大きな角切りがごたごたと入っていて、飲むというよりは食べると言うほうがふさわしい。もともと薄味を好む幸雄だが、ここ数日、毎食いただいていたこの汁にどこか懐かしみを覚えるようにもなっていた。彼もしょっちゅう料理をする。けれど、義姉のだしと赤味噌のバランスは彼には全くのお手上げである。そう思うとこの山里を去るのも淋しい気がした。
「早菜子はどうしました?」と彼は台所の義姉に尋ねた。
「墓参りさ行ってくるって。さっきだ出てったっけ」
またか、と幸雄は思った。
「大丈夫だ、すぐ戻ってこ来って言っといたから。あれ?」と流しの横の格子窓を覗いて義姉が言う。「まだあんなとこさ。幸雄さん、早菜ちゃんまだあそこさいっつぉ。呼ぶか?」
窓に近づいて外を見やれば、田畑の向こうを流れる小川の土手には一面に菜の花が咲き乱れ、帯となって防風林の向こう側へと消えている。その風に揺れる黄色い波の中に、早菜子の姿はあった。手にはしなやかな指で摘み集めた黄金色の花束がある。
「いえ、別に用があるわけじゃないんで」
彼はテーブルに戻り、再び箸を持った。
「今日帰るってことは早菜子、覚えてるんでしょう?」
「覚えてっけ。荷物まとめてたもの」
「なら、いいんです」
そう言って幸雄は汁をすすった。彼は仕事柄、朝は遅いほうである。義兄はすでに仕事に出かけている。義姉はわざわざ彼に合わせて汁を温めなおし、卵を焼いて、嫌な顔一つしない。
なぜ早菜子は墓にこだわるのだろう。幸雄は心配でならない。目覚めた彼女の中に湧いた義父を悼む思いが小さかろうはずもないのは、十分承知しているつもりである。しかし、最初は覚えられなかったからとはいえ、その理由だけで数日のうちに四度も五度も墓に足を運ぶものだろうか。彼女は大叔母の家にさえ行った。きっと他の親戚や知人の家も訪ねたに違いないが、それを問う勇気は彼にはなかった。
実のところ雄太の骨は長倉にはない。下流から見つかった赤子の遺体は、この村で焼かれたあと東京の工藤家の墓に納めてあった。けれど、その名を石に刻みもしていない。だから誰もそこに不幸な赤子が眠っているなどとは気付かないはずだ。幸雄はそれだけ罰当たりな人間である。ある一人の人間の存在をこの世から、その実の母親からさえ抹消しようとする残酷な男である。なんの気付かせてなるものか、報いはやがて来る。きっと来る。だから、甘んじて彼は今を生きている。
日も高くのぼり、下手をすると今日中には海辺の家へ戻れそうもなくなると彼がいらだち始める頃に、早菜子は帰ってきた。
「遅くなってごめんなさい。怒ってる?」
彼女は屈託なく、畳に寝そべる彼の肩に触れ、そうからかった。幸雄は面倒くさそうに手を払うだけで何も答えなかった。
昼過ぎ、二人は車に乗り、大叔母の家へまわって別れの挨拶を済ませてから、長倉を後にした。
それから数時間、カーラジオの落語や漫才を聞きながら、二人は取り留めのない話を続けた。友人の話、映画の話、音楽の話、政治の話‥‥。高速自動車道は山を抜け、里を抜け、通り過ぎる町々は次第に大きく、ごてごてと密度を増して、都会の雰囲気を重ねていく。次第に会話も途切れがちになり、幸雄はセンターラインとガードレールの流れる様をただただ見送っていた。ふと見れば、助手席の早菜子は目を閉じ、頭を傾げて窓に預けている。
彼の口元には柔らかな笑みが現れる。だが、それもすぐに消えた。あまりに彼女の顔が青白い気がしたのだ。もう一度ちらりと妻の顔を見やる。
「早菜子」
返事はない。
「早菜子!」
ようやく彼女の顎が動いた。焦点の定まらない目で早菜子は幸雄を見やった。
「何?」
「い、いや。具合はどうだ。頭痛は?」
「する、少しね。頭痛というより、めまい。今も世界がぐるぐる回って‥‥」
「長倉で、何か思い出したか?」
早菜子はけだるそうにシートの中で身動ぎし、小さく溜息をついた。
「何にも。いいの。きっとどうでもいいことなのよ」
大きな欠伸をする。
「夢を見てたわ。あなたと私が草原を歩いているの。子供達がいて‥‥」
「子供達?」
幸雄は息を飲んだ。
「そう、私達の子供達。みんなはしゃいでた」
「そうか」
「きっと、いい子達だわ」
そのとき、山々の間を縫って走っていた彼らの眼前に盆地が開けた。田畑と家々。ややもすると見過ごしてしまいそうなありふれた風景。矮小な人の姿など見分けられるはずもないのに、その地を覆う薄絹の下でうごめく鼓動が聞こえて来るように感じられる。その遠景に、新しく見え始めた白い峰をいただく高山が、太陽の光に強いコントラストをきわだたせて、蒼穹に漂う島々のように浮いていた。
「世界は美しい」
遠い昔に耳にしたことのある言葉を早菜子が口にした。幸雄はその不意打ちに身震いをする。その言葉は彼の心臓に烙印として焼き付けられるかのようだった。
「ああ、俺も、そう思う」
彼の声は穏やかである。
「とっても眠い。眠くて眠くてもう‥‥」
そう言う今にも早菜子はまた目を閉じ、寝息さえ感じさせないような静かな眠りに落ちていった。幸雄はもう妨げようとはせず、それっきり彼女は目を覚まさなかった。
寺の境内には強い日差しが差し込んでいた。このところずっと晴天ではあったが、今日はまたぐんと気温が上がり、梅雨を通り越して夏を感じさせるようである。高地でこうなのだから、低地ではきっと暑いに違いない。本堂へと続く石畳に、サルスベリの木の枝のあわいから落ちるまだらの影がくっきりと映っている。裏手の杉林の中は涼しく、下草のスミレがいくつか紫の小さな花をつけて、そよとも吹かない風を待っているようだった。
狐を思わせるような細長い顔の女が、買い物袋を提げて石段をあがってきた。額に汗を浮かべ、本堂の奥にある自宅へと、だれたような足取りで歩いていく。日差しの強烈な真夏というほどではないのだが、息のあがった体では日向を歩くよりは陰を歩きたい。だから彼女は陽のあたる表を避けて、近道ではないけれど裏の杉の木立の中へ入っていった。ひんやりとした空気が首筋に心地よい。
ふと彼女は立ち止まった。そしてしばらく珍しげにしげしげと地蔵の列を見やる。だが、突然納得したように頷くと、何事もなかったかのように足早に家のほうへと消えていった。
西の空には濃さを増してきた灰色の雲。しだいに大気は動き始めている。杉の木陰に佇む百の石像の一つ、一番小さな地蔵の風化した淡い顔立ちの前には、粗末な石に穴をうがっただけの花瓶に挿された黄金色の菜の花の束が、湿りを帯びてきた微風に揺れていた。