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養殖人間  作者: こじも
9/10

必死こいてみよう

嫌な予感はしていた。得体の知れない何かが真後ろに存在しているような感覚。明確な感触は無いが、産毛にだけ触れられているような微かな違和感。真正面になれば消えてしまう癖に、常に目の端にそいつが忍び込んでくる。そして、そんな居心地の悪さを次の瞬間には当たり前のように打ち消してしまう我が脳髄。

 限界はすぐそこまで迫っていた。

 美奈が学校を休み始めてから数日が経っていた。同学校に通う三人、俺、壮、夏弥の胸の奥で渦巻く不安の種は大きく成長して締め付けるような疼きを感じていた。そんな折、ある噂が同学年の間で静かに広まっていた。

 美奈が見知らぬ男と街を歩いていた、という話だ。表向きは品行方正、美の結晶と謳われる彼女が学校を休んで何か怪しげなことに手を染めている様は、どうやらゴシップ好きの高校生に対して大いに受けてしまったようだ。俺たち三人は各々思う所はありながらも、とにかく美奈の家まで行ってみようという結論で落ち着いた。

 そして今、俺達はそこに立っていた。

「す、すごい……」

 夏弥は感嘆を素直に表現した。それも当然だと言えた。入口の門にはアーチ型に設えられた白柵。その天辺にヨーロッパを思わせる荘厳な飾りが取り付けられている。そこから横に伸びる白く染められたレンガ塀は目を細めてやっと、その角までを見ることが出来た。

「聞いてはいたけど、美奈ってホントに金持ちなんだな」

 壮は丸く開いた口から大きく息を吐いた。俺以外、今まで美奈の家を見たことがある者はいなかった。かくいう俺も彼女に呼ばれてここに来たことは無いのだが。

「とりあえず入るか」

 言って、俺は門の横に取り付けられたインターホンを押した。西洋風の豪邸にインターホンという組み合わせは似つかわしくないように感じたが、まぁ、ここはあくまで日本だ。利便性を優先させたのだろう。

『はい。夜咲家警備員室です』

「うおっ、家族じゃなくて警備員が出てくんのか!」

 壮が耳元で小さく驚愕した。さもありなん、と認識していた俺は間を開けずに言葉を継ぐ。

「どうも、こんにちは。僕たち、夜咲美奈の友達なんですけど、彼女に取り次いでいただけますか?」

 数秒の間。敷地内の植木に隠された監視カメラがこちらに向いたのを目の端で捉えた。

『……少々お待ちください』

 警備員は事務的な声でそう答えた。しばらくすると、澄んだ女性の声がインターホンから響いた。

『どちら様?』

 一瞬、美奈かと思ったが、彼女特有の柔らかな口調ではなかった。

「あの、蒲焼と云うものですが………美奈?」

『私は美奈の母親です。それで? あの子に何の用ですか?』

 インターホン越しの声は明らかに面倒そうな空気を帯びていた。

「僕ら、一応美奈の友達をやらせていただいている者なんですけど、彼女、ここ数日学校を休んでいるみたいなので、お見舞いに来たんです」

 言って、右手に提げていた紙袋をインターホンのカメラに向ける。美奈の大好物、有名店のシュークリームだった。もちろん夏弥セレクトだ。

『あの子の、友達? 本当に?』

 何故か不思議そうな声が返ってくる。俺はその様子に少し苛立ちを感じた。

「ええ。ご存知ないんですか? この四人で良く遊んでるんですけどね」

 それでも母親か? という思いを押し隠せたかどうかは微妙だった。しかし、彼女は気にする風もなく言葉を継ぐ。

『ふぅん、そう。でも、ごめんなさいね。あの子、今は家にいないの』

「……病院にでも?」

『さぁ。ここしばらく見ないと思ったら、学校にも行ってなかったのね。どこかで遊び呆けているんじゃないかしら?』

「母親なのに、娘がどこにいるのかもわからないと?」

『ウチは放任主義ですから』

 ちっ。なんだよ、それ。

「へぇ。モノは言い様ですね」

『……あなた、失礼ね』

 今度は確実に苛立った声が返ってきた。しかし、俺は動じる心を必死で抑えつけた。闘うと決めたのだ。何があってもビビる必要は無い。

「あなたがどう思おうと結構です。それより、美奈がいないならご主人を出していただけませんか? 短期休暇中でこちらに来てますよね? 美奈の様子がおかしいのはどうせご主人のせいでしょう?」

「ちょ、ちょっと! 昇、さっきから何失礼なこといってんの!?」

 夏弥が慌てて間に入ってきた。美奈が夏弥に事情を話していないとは思えない。しかし、夏弥はあの日までの記憶、正確に言うなら壮と付き合い始めて、自殺を企てた日までの記憶が失われていた。あの日の、壮の奮った拳が、そうさせたのだ。

 それ以来、美奈は自分の事情を彼女に話してはいないだろう。なぜなら、夏弥の記憶が復活することをこの場にいる誰もが、望んでいなかったから。

 そんな思考が頭を掠めて、俺は迷う。俺の中にはまだ、不変を求める思いが強く残っていた。俺が夜咲家に噛み付けば、今までの日常に何らかの変化が訪れる可能性は否めない。楽しかった、日々は消え去ってしまうのかもしれない。怖かった。今日までの明日がやってこないと思うと、足が竦んだ。でも、それでも、何かが、俺の背中を押していた。ここまで来たんだ。やっと、ここまで。何らかの理由をつけて逃げてきた美奈の問題に、ようやく真正面から向き合う覚悟が出来たのだ。中途半端で終わらすな。何かが、頭の中でそう、叫んでいた。

 もう濡れてるんだ、傘なんていらないだろう? そんな気分だった。

「いいんだよ、これで。俺はもう傍観するのはやめた」

 この母親を名乗る人間が夜咲議員と美奈の関係についてどこまで知っているのかはわからない。だが、同じ屋根の下で暮らしていて何も疑問を抱かない、などということがあるはずは無かった。

『……あなた、何を知っているの?』

 案の定、訳知った声音が返ってきた。俺は後ろの二人に聞こえないよう、インターホンに口を近づけて、囁く。

「ご主人に伝えてください。――――――娘を犯す気分はどうだ?」

 数日前、手紙で送りつけた内容と全く同じ言葉を俺は吐いた。インターホンの向こうで微かに息を呑む気配。

『………入りなさい』

 プツッと通信が切れる音と共に俺は後ろを振り返った。

「俺は美奈の家族と少し話をしてくる。お前らは美奈の行きそうな場所を回ってみてくれないか? 遊び慣れてるやつじゃない。行動範囲は限られてるだろ」

「えっ、けど―――」

「行けよ。さっさと」

 壮の言葉を強制的にシャットダウンした。友人だからこそ、彼らに気を使う余裕は無かった。豪奢な門を開き、二人を残して夜咲家に入って行った。

 無駄に広大な庭を抜け、玄関口に立つ。見たこともない機械が脇に設えられていた。形状からして指紋認証か何かだろう。俺がそこに近づこうとする前に内側から扉が開いた。

 当たり前だが、美奈に良く似ていた。

 透き通るような黒髪に、老いを感じさせない白肌。母親というよりは年の離れた姉に近いような気がした。しかし、決定的に違う部分が一つ。彼女は車椅子に腰かけていた。

「あの子とは、同じクラス?」

 四肢をだらりと落とした彼女から何かしらの気力を感じることは出来なかった。俺と目を合わせようともしない。

「いえ。違います」

「そう。あの子の友達を見たのは、あの子が小学生の時以来だわ」

「……そうですか。その、足は?」

「十年以上前、事故でね。もう動くことは無いわ。主人の相手もできない」

 皮肉げに彼女は口の端を歪めた。

「それで、美奈が肩代わりを?」

「どうかしらね。あの子は、その言葉で片付けるには美しすぎる」

「……あなたは、結局母親じゃなくて、女なんですね」

「知った風な口を利かないで」

 挑発したつもりだったが、存外うまく躱されてしまった。怒った風でもなく彼女はさっさと玄関の奥へと入って行った。仕方なく、後ろについていく。彼女の乗った車椅子は簡素な造りだった。機械による補助もなく、動きは全て両手で賄わなければならないようだった。

 あっ………。

車椅子の底面にある物に目が行き、声を上げようとした瞬間、彼女が先に口火を切る。

「あの子は、学校ではどんな様子なの?」

 前を行く女性の表情は見えない。

「それは普通、ですかね。夏弥、さっき僕の後ろにいた女の子です、をからかって楽しんでみたり、駅前でシュークリームを買うかどうか真剣に悩んでみたり、あっ、これそのシュークリームです。あいつに渡しといて下さい」

 俺は右手の紙袋を高価そうな下駄箱の上に置いた。

「そう。あの子が……」

「ここではまた違うんですか?」

「……そうね。ここ数年、私はあの子の表情を見たことが無い気がするわ。精巧な人形が歩いているみたいに」

「へぇ。ちょっと見てみたいですね」

 さぞかし背筋が冷えることだろう。

 その後しばらく、無言で俺達はだだっ広い室内を歩いた。タイミングを見失った俺は先ほど言いかけた言葉を呑みこんだ。

「この階段を上がれば右手に主人の書斎があるわ。彼には何も伝えて無いけど、そっちの方があなたにとっても都合がいいでしょう?」

 言いながら立ち去ろうとする彼女を慌てて呼び止める。

「何?」

「どうして、そこまでしてくれるんです? あなたは全然、ご主人を庇う気が無いように見える」

 俺は眉を寄せて問う。

「ただ、面倒なだけよ。私はもう疲れたの。静かに生きたいのよ。それだけ」

「……杖を、持ち歩いているくせに?」

 そこで初めて彼女の顔色が変わった。彼女の乗る車椅子の底面には柄の擦り切れた杖が取り付けられていた。もう歩けないと言われたその人間の、傍に。

「これは………」

 目を伏せて言いよどむ彼女。それが全ての答えだった。俺はさらに注意深く周囲を見回すと、手入れの行き届いた塵一つない白壁に所々小さな傷があることに気付いた。それは、行動の痕。面倒、疲れた、静かに生きたい、そんな言葉とは無縁の、努力だった。

 俺は彼女に深々と頭を下げる。

「ここに来てから多くの失礼があったこと、お詫びします。申し訳ありませんでした。あなたはたぶん、俺が思っていたような人ではなかった」

「違うわ! 私は―――」

 俺は右手を上げて否定の言葉を制す。

「いいんですよ、何でも。あなたが医者に、もう足を動かせない、と言われたにも関わらず、歩く訓練をしていた。その本当の理由は、俺が考えているものと違うかもしれない。美奈とは関係のないことなのかもしれない。だけどそんなの、どうでも良いんです。どうでも良くなりました。何か、何ていうか、美奈に似てるなって思ったら、あなたのことを嫌いになれる気がしません」

 コソコソ隠れて、一人で抱え込んで、他人には何事もないかのように接して……。俺の頭にはあの、無理した笑顔が浮かんでいた。

「美奈に、似ている………?」

 そんなことを言われるなどと想像もしていなかったのか、彼女は目を丸くしてこちらを見た。

「はい。正確にいえば、美奈があなたに似ている、ですかね。母娘って感じがします」

「母娘………?」

 彼女は一瞬、その言葉の意味がわからない、という風に眉を顰めた。

「私と、あの子が……?」

 信じられない。その言葉を信用できない。そんな目。ただそれはおそらく、娘に向けられたものではなく、

「私は、ちゃんと、あの子の母親を………?」

 自分自身に突きつけられた疑惑だった。彼女が今日まで、美奈とどんな日々を過ごしたのか、俺は知らない。だから、その言葉に対して何か言おうとした口は、自然と閉ざされた。

 太陽光が壁に反射して、白い光が彼女の瞳をキラキラと照らした。それは零れてしまう程の雫ではなくて、ただ埃が目に入っただけなのかもしれない。けど、それはとても、綺麗で、まるで水たまりに浮かぶ満月のようだった。

「早く、行きなさい」

 彼女は手を小さく振って二階を指した。

「はい」

 美奈の母親から目を離し、俺は階段を上った。振り返ることはしなかった。彼女の小さく鼻を啜る音だけで、俺の胸はほのかな熱に包まれていた。

 美奈にはまだ、生きる為の明日がある。そう思えた。

 書斎の場所はすぐにわかった。他の扉がガラス張りのシャレた造りになっている一方で、目の前の部屋だけは機能性重視の簡素な壁に閉じられていた。銀色に塗られたその扉は部屋の主以外の侵入を拒んでいるように見えた。

 さて、ここからが本番だ。

 俺は一つ、大きく息を吸い込んで、吐いた。手をかざして、ノックする。

「何だ?」

 無愛想な声が内から響いた。太く、重みのある声に心臓が少し後ずさったが、なんとか持ちこたえ、ゆっくりと扉を開く。

「おい、勝手に入るな――――――」

 振り返った男が口を噤んだ。胡乱気に眉を寄せてこちらを見る。堀が深く、印象に残る顔立ちだった。新聞などでは良く見かけるものの、実際前にしてみるとその存在感は圧倒的だった。椅子に対して直角、直線に伸びた背筋。灰色のタイトなセーターにジーパンというラフな格好だが、なるほど政治家と言われれば納得してしまうだろう。その一挙一同に伴う自信の総量が一般人とは桁違いに思えた。俺はこの先何があってもこんな突き刺さるような視線を持ち得ることはないだろう。

「誰だ?」

 バイト先の上司、山本さんとは違うベクトルの声圧に俺は怯む。俺はグッと息を呑み、耐え、口を開く。

「どうも、はじめまして。蒲焼昇と云います。美奈の友人をやっている者です」

 不思議と噛まずに話す事が出来た。バイトで接客をしているおかげかもしれない。こんなやつに対して敬語を使いたくはなかったが、こっちの方が良く頭が回る事を俺は自覚していた。

「単刀直入に言います。実の娘に対して近親相姦、してますよね。それをやめてもらえませんか?」

 インパクト重視であえて直接的な言葉を放つが、夜咲の顔色には全くの変化が無かった。俺の目をまっすぐに貫き通す瞳はこちらの思考を見通しているようだった。

 彼は小さく息を吐いて、

「事務所にくだらない手紙を送りつけて来たのは君か?」

 実にどうでも良さそうな口調だった。

「ええ。一応、警告のつもりです」

 こちらの言葉に対し、夜咲は乾いた笑いを返した。侮蔑した、不愉快な声だった。

「警告? 最近の子供はテレビドラマの見過ぎじゃないかね。大人の真似事をするのはよしなさい。君が何のためにそんなくだらない嘘を吐くのかは知らないが、こっちは忙しいんだ。わざわざ人の家まで来て適当な事を言う暇があったら勉強しなさい」

「シラをきるのはやめてもらえませんか。それこそ時間の無駄です。俺だってあんたみたいな性欲オバケと会話するのは苦痛ですからね」

 男の眉がピクリと動いた。悪くない。しっかりイラついてくれている。

「娘を犯してるんだろ? 認めろよ。いっぱしの国会議員が情けない。そんなやつが国にとって不要なのは当たり前だが、俺にとってそんなことはどうでも良い。別に世間様に公表したりはしない。ただ条件はある。こんなことはもうやめろ、そして美奈に一人で生きていくための金を与えろ。お前は父親ではない。下半身に支配された獣だ。二度と美奈に近づくな」

 一気に捲し立てた俺の体は熱を持ち、視線は憎しみによって固定されていた。気付けば敬語も吹き飛んでいる。夜咲はしばらく、睨む俺の瞳を見つめ返していたが、やがてゆっくりと首を振り、鼻でこちらを笑った。

「それで挑発のつもりかね? 何とも浅はかな。君との会話には実りが無い。さっさと帰りなさい」

「それは出来な――――――」

「そのポケットに仕舞ってあるボイスレコーダー、この距離だとあまり正確には録音出来ないと思うがね?」

 !!!

「ククク。良い顔だ。カマを掛けてみただけだが、どうやら間違っていなかったらしい。無い頭を振り絞って考えたんだろうが、何とも愚かで、ガキらしい発想だな。哀れなものだ。……証拠、持っていないんだろう?」

 夜咲は片手で目元を覆って高らかに笑った。俺は血が出そうな程歯を噛みしめたが、拳を握りしめる以外の事は出来なかった。ポケットからボイスレコーダーを掴み、投げ捨てる。

 その瞬間だった。椅子に座っていた夜咲はその身体を跳ね上げ、俺の襟首を掴み、壁に叩きつけた。衝撃で息が詰まる。

「面倒掛けやがってクソガキがぁ! てめぇみたいなやつが次から次へと現れるからストレスが溜まんだよボケぇ! ガキはガキらしく家でママの胸に吸いついてりゃいいんだ!」

 さらに数度、壁に叩きつけられた俺は腹部を蹴られ、床に投げ倒される。

「が……は、ぁ。………それが、あんたの、本性か………」

「そうだな。弱い者いじめは心が震えるほど楽しい」

 残忍な笑みだった。人を人と思っていないような歪んだ目つき。こんなやつに、あいつは………。

「美奈は、半年前に自殺しようとした。お前の、せいで……」

「ほぉ。それは初耳だ。基本、あれには興味を持たないのでね。肉体以外には。我ながら完璧な人間を造り出したと思っているよ。数々の女を抱いてきたが、あれ以上のモノはそういない。……もしや、君はあれの自殺を止めてくれたのかな? だとすれば感謝しよう。そうだ! 君があれに惚れているなら一度抱かせてやっても良い。その代わり君にはあれの監視をしてもらう。どうだ? 悪い条件じゃないだろう?」

「……ふざ、けんな」

「ふむん。それは残念だ。後で後悔しても知らないぞ?」

 俺は壁に手をつきながら立ち上がる。腹の痛みはそこまで大したものでは無かった。それでも、胃の中身を全部ぶちまけたくなる程の吐き気がした。

「まぁ、あれが死んだら、それはそれでバカな国民の同情票が集まって好都合だがな。自殺だろうと何だろうと要は使い方次第だ。何ならその理由を君がいじめていたことにでもしてやろうか? 操作すれば何でも出来る」

 男はまた声高に笑った。

「なんで、なんで、笑えるんだ。自分の、娘じゃないのか?」

 俺は狂気としか思えない男の振る舞いが信じられなかった。

「ふんっ。ガキが! つまらん正義感で世の中やっていけると思いやがって」

 独り言のように男は吐き捨てた。俺の襟首がまた掴まれる。

「いいか、ガキ。世の中ってのはな、成功する人間の数に制限があるんだよ。その枠から落ちれば地べたを這いずり回るしかない。娘? 違うね。あんなのはただの私が造り出した道具だ。私のために造って、私のために利用する。それの何が悪い?」

「何だ、それ。何だよ………それ。あいつは、美奈は、お前の所有物じゃない!」

「いいや。私の愛玩具だ」

「ふざけんなよ! お前があいつの何を知ってる! どれだけ苦しんで、どれだけ必死に生きてるか!」

「やれやれ。これだからガキは。道具の感情など――――――」

「ああ、そうだ! 俺はガキだよ! 何の力も無い、何も出来ない、無力なただのガキだよ! わかってる。わかってて、それでもやってんだ! 必死こいてやってんだよ! なのに!! 何であんたはここで突っ立ってるだけなんだよ! 戦える力が、救える力があんのに、何であんたは何もせずにぼーっと突っ立ってられるんだ!?

何で!? 何故!? どうして!?

どうしてあんたは、あんたらは!! 大切なものを大切に出来ないんだ!!」

 喉が焼けるように痛んだ。頬を流れる涙を気にする余裕も無かった。ただ溢れて、溢れて、とめどなく零れる感情を、叩きつけるように叫んだ。

 男は、まるで工事現場の騒音を煩うかのように、半眼で俺の斜め後ろをぼんやりと眺めていた。

「ちくしょう………!!」

 すましたその顔に、俺は全ての言葉が表層で弾き返されるのを感じた。

 届かない。

 俺の全身全霊を込めた言葉は、目の前の男が築き上げてきた薄っぺらい壁一つ、貫けない。悔しくて、掻き毟りたくなるほど悔しくて、また溢れた涙も、こいつにとってはただの塩水でしかない。

 俺の言葉は、こいつの人生には届かない。

「言いたいことはそれだけかね? では、そろそろお暇いただこう。何せ私も暇ではないのでね」

 夜咲は扉を開き、俺の身体を通路に蹴り出した。

「………お前、いつからそこに………」

 不意に、男は訝しげな声を上げる。顔を上げてその目線を追うと、俺の斜め後ろ辺りでその視線は固定されていた。

 振り返るとそこには、

「最初から。少し面白そうな話が聞けそうだと思って」

 夜咲夫人だった。車椅子に乗った彼女は凛とした表情で背筋を伸ばしていた。

「ふんっ、お前が今更どうこう言う話では無い」

「ええ。私も知ってはいましたしね。見逃してきましたけど」

「それ以外の選択肢が無かっただけだろう? 俺から離れれば、お前に頼れる身寄りはいないのだからな」

「……ええ。その通りです」

「わかってるならさっさとそいつを連れ出せ。そもそも屋敷の中にそんな奴侵入させるな」

 夜咲の眼は夫人を完全に見下していた。まるで、下等生物でも見るかのように。

「それは、出来ません」

 夫人の声は少し震えているような気がした。

「何? お前、俺に逆らう気か? おいおいおい、(おご)るなよ。誰が何の役にも立たないお前を養ってやってると思ってんだ!? なぁ!? 木偶の坊が、一丁前の口利くなよ!!」

 夜咲は夫人の胸倉を掴んで揺さぶる。俺は止めに入ったものの、容易に跳ねのけられて―――。

「離しなさい!!!」

 鋭い叫びが、夫人の口から放たれた。想定外の事態に夜咲の動きが止まる。

「いつまでも子どもみたいに喚き散らすのはやめなさい。見苦しい」

「お、お前―――」

「確かに私にはあなた以外の身寄りはいません。でも、選択肢が無い訳ではありませんよ」

 そう言って、彼女が車椅子の背から取り出したのはA4サイズの茶封筒。

「なんだ? それは……?」

「私があなたからのお小遣いを全て注ぎ込んで調べた、あなたの不正の数々です。美奈のことだけではありませんよ。他に幾つも。あなたが私を空気のように扱うので、とってもやり易かったですわね」

 夜咲はひったくるように夫人から茶封筒を奪い取り中身を見る。その顔がみるみる青ざめていくのがわかった。

「こんなものを、どうする気だ?」

「それを公表されたくなければ条件は一つ、この子が言う事を聞き入れなさい」

 彼女が目で指したのは俺だった。俺は夫人が一瞬、何を言っているのかわからなかった。

「お前、こんなことしてただで――――――」

「あら? 離婚をご所望かしら? 結構ですよ。もちろん、慰謝料は十分頂けると信じていますが」

 夫人の無機質な目が茶封筒に注がれる。もちろんコピーはとってあるのだろう。俺はその瞳に背筋がゾクリと疼くのを感じた。女が本気を出したときの表情は、何よりも怖い。

 夜咲はそれ以上の言葉を発する事も出来ず、どちらに軍配が上がったのかは火を見るよりも明らかだった。


 数分後、俺と夜咲夫人は屋敷の門前に立っていた。

「なぜ、今になってあんなことをしたんです?」

 俺は意を決して彼女にそう聞いた。彼女はどこか遠くを見つめて答えた。

「……そうね。あなたにとっては今更かもしれない。もっと早く行動しようと思えば可能だった。でも、出来なかった。私は、あの人を恐れていた。心の底から。正直、ここ数年はほとんど会話すらしなかったのよ。あの人に関わるのが、怖かったから。私なんかが敵う訳ないと思ってた。……でもね、あなたが来て、そんな自分が情けなくて仕方なかった。あまりにも堂々と、あの人の前に立つあなたを見て、今の自分を、否定したくなったの」

 無邪気な笑顔だった。あまりにも見慣れた、その美しい笑顔。

「あの子の母親はわたしだけだもの。もっとしっかりしないとね」

 そう言って背筋を伸ばした彼女からは、ここを訪れたときのような諦観した弱弱しさは感じられなかった。豪邸の前で堂々としているその凛とした美しさが、良く似合っていた。

「ホントに、先程は失礼なことを言いました」

 俺は再度、感謝の念を込めて頭を下げる。

「顔を上げて。あなたが気にすることは何も無いわ」

 彼女は車椅子の脇から手を伸ばして、あの杖を取り出す。

「実を言うとね、この杖、あの子が小さい頃にプレゼントしてくれたのよ。クリスマスだった。サンタさんに何を願うの? って聞いたら、どこで見つけて来たのか通販雑誌を手にしてこれを指したの」

 鮮明に憶えているのか、彼女は遠い目をして泣きそうな顔をした。

「私がもっと早く変わるべきだった。こんなに簡単なことだったのに。どうして、どうして出来なかったんだろう……」

 震えた声が耳に届いた。なんて優しい泣き方だろう、と思った。

「最初の一歩を踏み出すのは時間が掛りますよね。俺もそうでした。でも、まだ遅くは無い。遅くないんですよ」

 半分、俺は自分に言い聞かせていた。彼女の思いは俺とほぼ同一だった。もっと早く、今日を一日でも先に、どうして出来なかったのか。そうすれば美奈の笑顔を一日早く見れたのに。それは今更考えても仕方のない事だった。でも、絶対に頭から離れる事の無い思考。不甲斐ない自分を、中々許すことは出来なかった。

「昇!」

 不意に、自分の名を呼ばれて顔を動かす。俺の目には息咳き切ってこちらへと走ってくる友人二人の姿が映った。

「ああ。どうだった、美奈は―――」

 そこまで言って、途中で口を噤む。二人の様子がどうもおかしかった。表情に余裕が無く、緊張で固まっている。

「……どうした?」

 簡潔に訊く。夏弥が肩を上下に揺らしながら答えた。

「沙織ちゃんが、いつものデパートで、なんか、変な奴に、連れて行かれたって……」

「は?」

 何でそんなことに? その疑問には壮が解答を示した。

「真偽はわからないけど、その中に桐矢がいたって情報もあって、お前となんか関わりがあんじゃ――――――おい、昇!」

 気付けば俺は走り出していた。胸に怒りと、罪悪感を抱えて。


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