羽ばたいてみよう2
パチンッ。
という軽やかな音と共に、痛さとも痒みとも取れるささやかな感触が頬に残った。
「む……」
小さな呻き声を漏らす。鼓膜は相変わらず雨音に撫でられ、細めた目から覗く景色は少しうす暗く、肌寒さに肩が震えた。
ようやく頭が覚醒し始めたことで、ここが学校の昇降口を出た欄干の下であることに気付いた。そして思い出す。雨宿りをする内にウトウトとしてしまったことに。どうやらあのまま俺は眠ってしまったようだった。
「ん?」
何かしらの気配を感じて顔を横に動かす。そこには膝に手を付き、こちらを眺める少女が一人。
「……沙織?」
「あっ、その、おはようございます」
目を反らしがちに彼女はそう言った。
「なんで、ここに?」
周りを見回してみたが、ここは間違いなく高等学校だった。決して俺が無意識のうちに中学校に不法侵入していた訳ではないようだ。
「か、傘を、持って無いんじゃないかと、思ったんです。朝の天気予報で午後から雨だって、言ってて、それで……」
沙織の手には折りたたみ傘が一つと、見覚えのあるブラウンの傘が握られていた。
「わざわざ持ってきてくれたのか? 別に、そんなの良かったのに」
「あ、うっ、ごめんなさい」
「怒ってないよ。感謝してるんだ。ありがとう」
素直に感謝することに慣れていない俺は不器用に笑った。相手からどう見えているのか、それは想像したくない。俺は受け取ったブラウンの傘を開いて欄干の外に出た。雨がポリエステルを叩いて心地よい音が響いた。沙織がそれに続くのを待って、俺たちはゆっくりと歩き始める。
「……ん? そういえば、さっき俺を起こしたのって……」
ほとんど感触の消え去った頬をなぞる。沙織は慌てて両手を顔の前で振った。
「そ、それは! こんな所で寝たら、風邪ひいちゃうと、思って!」
それはまた嬉しい気遣いである。だが、それよりも、俺は先程から不思議に思っていることがあった。
「お前、なんか俺と結構普通に話してないか? 今朝までは会話するために代理人まで創っていたのに」
こちらに背を向けて会話する沙織を思い出す。中々面白い光景だった。それと同じようなやりとりが今は面と向かって、自然とは言わないまでも、問題なく出来ている。疑問に思うのは至極当然のことだった。
「え、えっと。それは、その……。あなたは、そんなに怖くなくなった、と言いますか……」
「へぇ、それはまた、なぜ?」
俺は特に何もしていないはずなのだが。
「だって、男の人が泣いてるとこ、初めてだったし――――――」
うぐっ! 喉が詰まって盛大に咳込んだ。そうだ。そうだった。あまりに都合の悪い情報のため、いつの間にか脳内窓際部署に追いやってしまっていたようだ。
「そ、それで、この男は大したこと無いな、と思ったのか?」
不覚である。非常に遺憾である。俺は片手で顔面を覆って熱くなった頬を隠した。情けない。これぞ情けない。
「た、大したことない、とかじゃないんです! なんていうか、その、この人も同じ人間なんだな、って思えたというか、上手く説明できないけど……」
「え? 俺のこと人外だと思ってたの?」
「それも違います!」
なんでわかってくれないの!? という風にムクれた彼女に俺は小さく笑いを洩らす。
「冗談だよ。何となくわかった」
つまり沙織は美奈から聞いた通り男性恐怖症だといっても、男に対して明確なトラウマがあるわけではないのだ。単純に異性のことが良くわかっていないだけ。何を考えているのか理解できないだけ。俺達のような十代の人間にはありがちな心境だ。
だけど今朝、彼女は俺の何かを理解した。彼女自身もその何かを確かな言葉で説明することは出来ないだろう。それでも、自分と共通する、共感できる何かを見出したのだ。煩わしくも涙という触媒を通じて。そういう解釈を頭の中で展開した俺は、嬉しくもあり、やはり恥ずかしくもあった。彼女は美奈や夏弥、壮とは違う。俺が苦労して積み上げてきた世を生き抜くための力、強さと称しているモノに彼女は惹かれたのではない。脆く、崩れやすい急所、可能なら心の一番深い所で迷彩色に塗りたくって隠しておきたい、そんな、弱さに、俺という人間を見たのだ。それは、何か、無理だとわかっていても奥歯を噛み締めたくなるような、訳もなく身体をつねってみたりしたくなるような、むず痒い気分にさせるものだった。
「雨、止まないですね」
とりとめのない話をして歩き、やや会話が途切れがちになった所で沙織はふとそんなことを言った。俺は傘を少しずらして空を見上げる。灰暗色の雲から零れ落ちる滴はあっという間に俺の顔を透明に塗った。
「そうだな」
簡素な返事以外に思いつく言葉は無く、少し先の水たまりを見るともなく眺めた。車高の低いクラウンが俺の隣を中々のスピードで掠めていった。制限速度は優に超えているだろうが、そんなことを気にするドライバーでは無いのだろう。そのままのスピードで車は水たまりの上を走り抜けた。
「おっ」「ぬひゃうっ」
盛大に跳ねた水が俺達を襲った。善戦虚しく、というか成す術もなく、水も滴るなんとやら。俺達は犬のように頭を振って水を飛ばした。
「これは、ついてないな」
溜息を吐いてビショビショになった服を指で摘む。
「なんなの!? あの車! バカ! バカ! おたんこなす! あれでカッコいいと思ってんの!?」
どうやら沙織は相当ご立腹のようだ。
「まぁまぁ。あの手の人間にいくら怒っても生産性は無いんだし」
となだめると、
「あっ」
口を押さえて自らの暴言を覆い隠そうとする沙織。実際、お淑やかな女の子という訳ではないようだった。数秒の間があって、どうやら開き直ったらしい彼女は唐突に折りたたみ傘を畳み始めた。
「濡れるぞ?」
「いいです! もう濡れてますから。傘を差すのもバカバカしくなってきました」
いやぁ、それはどうかなぁ。まだ傘を差す価値は大いにあると思うんだけど。などと思っている間にも沙織の制服はどんどん水の重みを増していくのだった。しばらくその状態で歩く俺達。さりげなく彼女を俺の傘の下に誘導してみたが、ガンとして入ろうとしなかった。その割に雨が目に入るたびに沙織は不機嫌そうに顔を歪めていくのだった。おいおい、面倒くさいぞ、中学生。
さらに数分間、沙織がイライラしながら歩くのを眺めていた俺は前方から軽自動車がやってくるのを捉えた。そして俺達の近くには水溜り。ああ、これはマズいかもなと思いながら、もっとしっかり舗装して欲しいものだと行政に愚痴を吐いた。案の定、軽自動車は水を蹴飛ばしてこちらに飛ばしてきた。先程と異なり、スピードを落としてくれたので大した分量では無かった。俺は悠々と傘を傾けてそいつを防ぐ。少し前を歩いていた沙織には傘が届かなかった。決して面倒だったのではない。あくまで届かなかったのだ。しかし、どうやらこの事態は彼女の高くはない沸点を通り越してしまったようだ。そして怒りは思わぬ方向にやってきた。
クルリと、こちらを振り向く沙織。なんとも嫌な感じに目が釣り上がっている。普通にしてればおっとりとした顔立ちが台無しだ。
「どうした?」
出来るだけクールに、相手を刺激しないように発言したつもりだったが、どうやらその冷静さがさらに彼女の癇に障ってしまったらしい。
「いつまで傘を差してるんですか!?」
………家に着くまで、かな。
「落ちつけよ。まだ遅くない。お前も傘を差せ。風邪ひくぞ」
「誰のせいですか!」
うん。少なくとも俺のせいではないよね。
「せっかく傘持ってきたのに!」
確かにね。ちゃんと天気予報をチェックして朝はカラッと晴れてたけど、それでも万が一のためにと傘を用意したのにね。たぶん、君は実際に雨が降った時、隣で聞こえる不満げな声を聞きながら内心にんまりしていたんだろうね。自分は傘を持ってきているって、さりげない優越感を抱いちゃったんだね。でも、結局今自分は理不尽にビショビショで、折角の努力も虚しく散って、それがとてつもなく悔しいわけだ。もう悔しくて悔しくて仕方ないわけだ。わかる。とっても良くわかるよ、その気持ちは。だけど、冷静に考えてみて欲しい。
それ、俺のせいじゃなくね? 沙織の八つ当たり気味な発言に対して切にそう思った。
「もう濡れてるんだから、傘なんていらないでしょう!?」
いやぁ、いると思うんだけどなぁ。なんて俺の思いは気にも留めず、彼女は俺の手からそいつを強引に奪い取ってしまった。髪の間から抜け出した、冷えた滴が頭皮に沁み込む。
「お前、意外と結構な癇癪持ちだな」
やりどころのない溜息が自然と漏れる。
「カンシャク……?」
すぐにキレちゃうやつのことだよ、とは告げずに、俺は制服の上着を脱いで脇に抱えていたスーツを包む作業に没頭した。彼女も詳しく聞くつもりはないようで、自分と同等の立場に陥った俺の姿に満足したように前を向いて歩き始めた。
ふと、俺は民家の軒先に置かれた小振りのバケツに目がいった。花壇に水を遣るときにでも使うのか、並々と雨を溜め込んだそのプラスチックの箱は道路から腕を不法侵入させるだけで手に取れる位置にあった。沸々と、悪戯心が栄養たっぷりの脳から芽生えてくる。
目には目を。肌にシャツが張り付くこの気持ち悪さに対して責任を取るがよい。
荷物を脇に仕舞ってバケツを両手に持ちあげた俺は雨音に気配を紛らわせて前を歩く人間に近付く。
「喰らえ」
ザバー。頭から全部ぶっかけてやった。
「んぶふぅ!!」
言葉にならぬ悲鳴を上げた沙織。茫然と立ち尽くすその姿は何とも哀れなものだ。その様子に免じて同情だけはしてやろう。かわいそうに。
「大丈夫か? まぁでも、もう十分濡れてたんだし、関係ないよな」
彼女の肩に手を置いてそんな言葉を掛けてみる。微動だにしない。う~ん。やりすぎただろうか、などと上っ面だけの反省を心に思い描いていると、
「ふざ――――――」
肩に置いた俺の腕が彼女の両手に掴まれる。
「――――――けんなぁ!!」
ふわっと、身体が持ち上がった。
「お、おお!?」
地面に叩きつけられる寸前、どうにかコンクリートの間に荷物を挟み込んで衝撃を和らげた。そうしなければ、余裕で身体に異常をきたしていただろう、それほど迄に見事な一本背負いだった。
硬直した身体で、
「じゅ、柔道歴は?」
訊くと、
「黒帯!」
簡素な答えが返ってきた。そんな特技があったとは、これは予想外。ついでに、
「あっ、パンツ見えてる」
意図せず、ポジション的にベストな位置をどうやら陣取ってしまったようだった。沙織は顔から火を吹いて、捻じり上げていた俺の手を離し、スカートを押さえた。その隙に素早く立ち上がった俺は、起き上がり際に掬い上げていた水溜りの水を彼女の顔めがけて解き放つ。年上としてこのケンカ、負ける訳にはいかない。
「も、もう!!」
袖で顔を拭き、喚く沙織の声を背に受けながら俺は逃走した。腰が痛い、超痛い。けど、もう一回投げられたら生きていられる自信がない。なので必死こいて走った。
追ってくる沙織を振り返ってみると、その姿が赤橙のやわらかな色に包まれていた。彼女の後ろには目を焼くような、それでいて人肌のような温もりを降らす光が覗いていた。
落ちてくる雨は多種多様にその体を彩り、オレンジを基調とした万華鏡の海に飛び込んだみたいだった。
濡れない雨が大好きだった。
偶には濡れてみるのも良い、と思った。
~ 冷静な幼女 ~
ビショビショに濡れて我が家に辿り着いた俺達二人は、目尻を釣り上げて腰にコブシを当てた湯亜を見た。
「なにやっとんやお前らはぁ! いつまでガキみたいな遊びしとんねん! お前ら何歳やぁ、言うてみい! そうやぁ、もう中学生やろ! 兄ちゃんにいたってはもう大人やぁ! 風邪でもかかったらだれが看病すんねん! さっさと風呂入ってこい!」
俺達は頭に角を生やした湯亜にへいこらしながらバスタオルを取りに行くのだった。意外としっかりした小学生である。