羽ばたいてみよう
桐矢は学校を休んでいた。そんなことはどうでも良い。
美奈が欠席していた。これが問題なのだ。
実のところ、問題と言うよりも心配だった。今更どの口がそんなことを―――、と頭の隅で身元不明の誰かが囁いた気がしたけど、無視した。
電話しても出ない。夏弥に訊いたが、知らないと言われた。彼女も相当心配しているようだった。「あんた、なんかしたんじゃないでしょうね」と夏弥に詰問口調で問われた俺は「いや、何も」と素知らぬ顔で返答した。罪悪感に心臓を鷲掴みにされた。
午後五時半。担任のララちゃんがホームルームを終えて放課後への突入を表明すると、教室が喧騒に包まれた。
「昇、帰ろうぜ」
壮が俺の机にカバンを乱暴に置く。
「今日は先に帰ってくれ。ララちゃんに呼び出されてるんだ」
面倒な事に。
「ん? 何かやらかしたのか?」
「別に。進路のことだろう。成績、結構やばいからな」
「ああ、なるほど。確かにお前、そろそろ本気で勉強しないと危ないかもな」
「うるさいな。わかってるよ」
会話もそこそこに、カバンを肩に掛けた俺は彼に別れを告げて教室を出る。
廊下の窓から外を眺めると、これでもか、と言わんばかりの豪雨が透明のガラスを叩いていた。
朝はあんなに晴れていたのに、厄介なことだ。
傘の入っていないカバンを軽く叩いて、職員室へと向かった。
ララちゃんの話は形式的なモノだった。要はもう少し頑張れ、とのことだ。うむむ。俺は頭を抱える結果となった。
三十分ほど話をして、俺は帰路に着こうと思った―――のだが、如何せん雨はまだ降り続いていた。下駄箱から出た欄干の下で雨宿りしながら途方に暮れる。
俺の他に人影は無かった。運動部の泥のついた掛け声も今日は聞こえない。
雨音の群勢に包囲された俺は肉体的疲労も手伝ってその場に座り込んだ。コンクリートの壁にもたれて、少し小降りになるまで待とう、と思う。正直、運動部でも何でもない俺にとっては早朝バイトから学校へ行くという行為は結構酷だった。体力なんてものは当の昔にポケットから滑り落ちていったのだ。
眠気に誘われるまま、瞼を落としていく。崖っぷちに立っていた冬のやつも、とうとう手を滑らせたようで、吹きつける風も優しく暖かかった。さらに、雨の刻む心地良いリズムが最後に俺の背中を押して、ゆっくりと視界が、消えた。。
ザー、というノイズだけが耳に残る。
……そういえば、あの日もこんな、激しい雨の降っている日だった。
濡れない雨が大好きだった。
数え切れない滴が地面に落ちる様、音、テンポ、全てが素晴らしい。排水溝の中の葉っぱが流されていく姿を俺は薄眼で眺めていた。
実に心地良い。
屋上に建てられた一棟の小屋。その中に身体をだらしなく預けた俺は一人、降りしきる雨に陶酔していた。周囲のガラクタから想像するにここは天文部の小屋なのだろう。望遠鏡のレンズやら三脚やらが野放図に散らばっている。しかし、長らく使われていないようで今や雨天時の放課後、俺がひっそりと癒される絶好のスポットとしてのみ、この建物は機能していた。
ああ、寝そう。
ウトウトと瞼を閉じたり半眼になったりを繰り返していた最中、不意に、水の音以外の何かが耳の中に滑り込んできた。
ジャリ、ジャリ――――――。足音だった。この小屋は校舎から屋上へ続く扉の裏側に設置されていたため、その姿を捉える事は出来なかったが。
それにしても珍しいな。雨の日に誰か来るなんて。
そもそも、この屋上は出入り禁止だった。数か月前、誰かが老朽化した鍵を壊して、扉が開閉可能になったのだ。それに目を付けたチンピラ共が時々ここを溜まり場にしていたため、俺は晴れの日に訪れる事はしなかった。
しかし、今回は何らかの理由で桐矢達のような不良達が来たのだろう。そう思って、俺は苛立ちながら倉庫の扉を半分まで閉め――――――。
ん?
ふと、疑問に思う。
傘に水の当たる音が、しない。
足音の主はこちらに近づいているようで、着々と地を擦る音が大きくなっているのだが、一向に傘をさしている気配が無い。しかも、その割に急ぐことも無くゆったりとした足取りなのだ。この豪雨の中で。
………む。複数か?
足音は不規則で、少なくとも二人以上である事が察せられた。
数秒後、倉庫の隙間から目だけを覗かせた俺の前にそいつらは立った。
二人組だった。一人は俺と同等、もう一人は胸下程の身長だった。
「ビショビショね。もう後戻りする気も無くなったわ」
一人がそう言った。長身の方だ。もう一人はその言葉に何の反応も示さなかった。
二人とも、女だった。
「大丈夫? 嫌ならやめても良いのよ?」
先程声を発した女が気遣わしげにもう一人へと囁いた。声を掛けられた女は弱弱しく首を横に振る。
ん? こいつら、知ってる顔だな。別のクラスだが、確か俺と同じ二年の……誰だっけ?
とにかく二人は雨に濡れるのも気にせず、屋上の手すりの前で立ち止まっていた。
「そう。なら行きましょう。死ぬには良い日だわ」
長身の女は空を見上げて言った。目を見張るほどの美人だった。乱れた髪が一房、桃色の蕾のような唇に張り付いて、どっかの美術展の絵画から抜け出てきたかのような光景だった。
………いや、待てよ。それより、今なんて言った?
死ぬにはどんな日だって?
二人はどちらからともなく手を繋いで、もう片方の手で手すりを握った。
う、う~む。これはまさか……?
俺はようやく事態の深刻さに気が付いた。彼女達は傘を差さなかったのではない。差す必要が無かったのだと。
濡れても濡れ無くても、どうせ同じなのだから。
「明日は良い日に、なりますように」
どちらの声かは分からない。ただ、その言葉と共に二人は手すりを飛び越えた。
なっ!
「バタンッ」
俺は焦って、勢いよく倉庫の扉を開く。
そして――――――。
「「え?」」
欄干の上に立って唖然とした二人が声を漏らした。
「あっ………」
てっきりもう飛び降りちゃったのかと思ったよ。びっくりした。
「………誰? 何でこんなとこにいるの?」
長身の女が警戒心丸出しで俺を睨む。ちっこい方は俺から隠れようと必死にもう一人へと身を寄せるが、後ろには回らない。何故か? 地面が無いからに決まってる。
これはまだ救いようがあるのではないかと、そう思えた。少なくともちっこい方の女は躊躇い無く死ねるほど、恐怖を捨ててはいないようだった。上手く説得できればあるいは……。
しかし、だから何だ? という思いは俺の中に少なからずあった。なぜ俺がそんな手間の掛る事をしなければならないのだ? 見た事がある顔ってだけで、知り合いでも無いのに。半年間、風俗店で働いていた俺にはそんな、女全般に対する無関心を決め込む態度が沁みついていた。
まぁ、少し話をするくらいは吝かでは無いのだが。
「名前は蒲焼昇だ。二年、クラスは五組。雨の屋上は大体俺が牛耳ってる。そっちは? 見た事あるんだけど、何て名前?」
俺の問いに答えたのはやはりというか何というか、長身の女だった。
「別に、言う必要は無いでしょう? あなたがわざわざこんな所で何をやっているのかは知らないけど、今日は私達のためにどこかに行ってもらえないかしら?」
彼女の声は少し裏返っていて、精神の不安定さが読み取れた。
「いやね。そうしたいのは山々なんだが、君達、俺が消えると飛び降りるんだろ? それはさすがに気分が悪いよ」
「あなたの気分なんて私の知った事じゃないわ」
自分に身を寄せるもう一人のためか、精一杯冷静な表情を作る長身の女。しかし、その瞳は充血し、頬を流れる滴は雨だけではないのだと、容易に判断出来た。恐らく、すでに精神は極限まで追い詰められているのだろう。当たり前だ。手すりを越えているのだから。
出来るなら今すぐこの場を立ち去りたかった。俺はこいつらの事など顔以外何一つ知らない。もう一度手すりを越えさせる事は到底無理だ。ちっこい方だけなら力ずくでまだ何とかなったかもしれない。だが俺を睨んでいる女はすでに、覚悟を決めているようだった。
この女の眼はもう、この世を見ていない。そう感じた。
そんなやつに、俺の安っぽい台詞が意味を成すだろうか? その答えは明白だ。ならばどうすればいい? 潔く諦めるか? 万能解でお茶を濁すか? 手を振って彼女の旅立ちを見送るのか?
平気でそんな事が出来たなら、人間とはどれほど楽な生き物だろう。
「………遺書は、書いたのか?」
気付けば、俺はそんな言葉を口走っていた。
「何?」
「遺書だよ、遺書。死ぬ前に書くやつ。それはもう書いたのか?」
「そんなの、必要無いわ」
「なんで?」
「思いを伝えたい人なんて、誰一人いないもの」
………ああ、そうか。やっぱり、そうなんだな。
「ハハ、アハハハ」
笑えるね。
「何が、可笑しいの!?」
長身の女は隣の人間がビクつくのも構わず、怒りを剥き出しにして叫んだ。バカにされたと思ったのだろう。
それでも俺は笑った。腹を抱えて笑ってやったよ。
自分自身を。
「笑うな!」
雨音を切り裂いて彼女は怒鳴った。
それでようやく口を閉じた俺は倉庫から一歩、前に踏み出す。眼前の二人がさらに警戒を高めて身を強張らせた。
だが、俺は二人に近づこうとした訳ではなかった。雨が欲しかったのだ。頬を流れる忌々しいそいつを洗い流す、滴が。
「いや、すまない。お前を笑った訳じゃないんだ。むしろ感謝してる。君達に会えて、良かった」
返答は無く、訝しげに向けられた瞳だけが俺の姿を映していた。まるで狂人を見る眼だ。いや、まんまその通りなのだろう。
「遺書を書かずに死んだ人間を、俺は一人だけ知っているんだ。そいつはある日、何も言わずに首を吊って、数日後、家に帰った俺の前に横たわっていた。目玉はウジ虫に食われて空っぽ、縄で絞められた首はひしゃげて、頭に繋がっていたのは数センチだけだったよ。その癖、妙に穏やかな顔をしてやがるんだ。苦しそうに歯を打ち合わせているのに、安らいでるって感じがした。ああ、こいつは死にたかったんだなって、理解したくも無いのに一瞬でわかっちまったよ。それが俺の兄貴だ」
矢継ぎ早に捲し立てた喉の熱を、雨が優しく包んでくれた。
「結構、兄弟仲は良かったと思うんだけどな。俺が中学の頃は一緒に安っぽいゲームなんかも作ったりしてた。懐かしいな。紙飛行機リレー、木に釘を打ち付けただけのパチンコ、すごろくなんて物も自作したな」
あの頃は賑やかだったな。リビングにある長机も、もう少し元気があった気がする。
「でも、あいつは自分の首に縄を掛けるとき、俺に残す言葉なんて何一つ無かったんだな。俺は、兄貴の思いを伝えたい人間には、なれなかった」
それが答えだった。わかってはいたのだ。ただ事実として認識したく無かった。理解してしまえばそれは、容赦なく俺の心を殴打するだろう。
そう、雨の冷たさでは拭い去れないほどに。
「………あなたも私達と一緒に、死ぬの?」
長身の女は俺の顔を見てそんな事をのたまった。
今度こそ俺は、彼女の事を笑ってやった。
「ハハ。それは逆だな。俺はお前らに死ぬなって言ってるんだ。家族が悲しむ」
素直な言葉だった。ありきたりな台詞だったが、俺はそれが真実であると知っていた。だから、それ以上の思いも、言葉も、俺は持ち合わせてはいなかった。
「私の家族はあなたとは、違う。あなたのように悲しんだりは、しないわ」
彼女は探り探りで、言葉を選び、そう言った。俺は心底驚いた。同時に、頬が勝手に緩んでいくのを感じた。
俺は、今から死のうという人間に、気を遣われたのだ。
こいつは、命を捨てる寸前なのに、他人を傷つけまいとしたのだ。
それが同情であろうと何だろうと、
「優しいやつだな」
そう、思った。
「っ」
俺の言葉に彼女は息を呑んだ。
「違うわ! やめてよ! 私は、そんな人間じゃ――――――」
彼女の言葉を遮ったのはもう一人の女だった。彼女は長身の女の服を軽く引いて、激しく首を横に振った。
「―――しいよ」
雨音でその声は俺に届かなかったが、ちっこい女が何と言ったのかは大体予想がついた。その証拠に長身の女はその場にへたり込んで咽び泣いた。
「やめてよ………。あなたまで、そんなこと、言わないでよ」
涙の隙間から掠れた声を絞り出す彼女は苦しそうだった。だが俺は、ここで身を引くような真似はもちろん、出来なかった。
「なんで否定する? それが真実だろう? 人は二つの眼から物を見る。それは物体を平面では無く立体で捉える為だ。正しい景色を見る為なんだ。今、俺とそのちっこいの、二人が、お前はここで死ぬ人間では無いと断じたんだ。それが真実だ。受け入れろ」
自分でも屁理屈だとわかっていた。それでも話し続ける事が大事だと、そう思った。
「今日は死ぬな。明日にしろ。明日も俺はここにいるけどな。雨っぽいし。だからやっぱり明後日にしろ。明後日になれば死ぬ気なんて無くなってるかもしれない。取り合えずそれまでは生きてみると良い」
思いついた事を次から次へと口にしてみた。
「…………」
長身の女は何も答えなかった。俺は迷った。走り出すべきなのか、どうか。おそらく、彼女も今、迷っている。俺の言葉に耳を貸すべきなのか、どうか。
チャンスだった。もう二度とあるかわからない。
俺が走り出しても、今なら一瞬、一瞬だけ、後ろに一歩踏み出すその行為を、躊躇ってくれるはずだ。彼女が何らかの結論を出す前に、頭がごちゃごちゃで周りが見えなくなっている内に、彼女の手を掴んで、こんな愚行を止める事が出来る―――はずだった。
足が、固まっていた。
恐怖のあまり、身体が数秒、金縛りにあったように動かなかった。
もし、もし、もしかして、もしかしたら―――――――――。
あいつは俺が走り出した瞬間にあそこから飛び降りるかもしれない。
そんなクソつまらない思考が頭を掠めたら、怖くて、怖くて、恐ろしくて、心が震えて、どうしようもなく、臆病な男だった。
長身の女が顔を上げた。背筋が凍るほど、穏やかな笑みが、そこにはあった。
ありがとう、と彼女の顔に空いた小さな穴が、そう言った。
ダメだ。やめろ。そんな顔するなよ。そんな、そんな、全部の重荷から解放されたような、綺麗な顔をするなよ。まだだ、まだなんだ。お前はこれからも苦労して、それで、辛そうにしながらも、影があっても、必死で笑うんだ。そんな笑顔が、俺は見たいんだよ。
必死で生きてる、お前が見たいんだよ!
「ちっこいの!! そいつ、落とすな!!」
俺が叫んだと同時だった。長身の女はゆっくりと、その体を後方へと倒していった。
まるで、ベッドに倒れ込むように。安らかに、眠るように。彼女は心地よさそうに、灰色の空を見上げた。
―――――――――空は、消えなかった。
「ど………して………?」
長身の女は自分の手を強く握り、その落下を防いだ人間へと問うた。
小さな体から溢れ出る力をその手に全部集約させた彼女は、長身の女を必死に持ち上げてその腕に抱く。
「ごめんなさい。でも、あたし死ぬの、やっぱり辞めました。お父さんとお母さん、やっぱり悲しむと思うから」
ちっこい女はそう言った。
「あなたが死ななくても、私は――――――」
「ううん。それじゃダメなの。あたしね、高校に入ってから誰も話せる人がいなくて、イジメられてしんどくなって、死のうと思ったけど、だけど、その勇気を少しだけ、違う事に使ってみることにします」
ちっこい女はあらん限りの力で目前の人間を抱きしめていた。
「二年二組、八瀬夏弥と言います。七咲美奈さん、あたしと、友達になってくれませんか?」
それは極限まで震えた声だった。俺は金縛りをやっとの思いで解いて駆け付け、緊張で息を荒げながらその言葉を聞いた。呼吸が落ち着いた所でようやく声を絞り出す。
「………だとさ。さて、これでお前が死ねば、こいつの希望は消え去ることになる。それで自殺でもしたらどうなるんだろうな。それはお前がこいつを殺した事にならないか?」
俺は長身の女、美奈と呼ばれた彼女に容赦なく告げた。
「そ、そんなの、卑怯よ」
震えた声が返ってくる。
「卑怯なものか。兄貴が死んでから、俺がずっと考えてる事だよ」
あいつを殺したのは俺じゃないのか。俺の何気ない一言、憶えてもいやしない一言で、兄貴は苦しんで、死んだのではないか。いつだってそんなことを思ってる。
そして、それはやはり正しいのだ。兄貴はこの世を憎んでいたのだ。命を捨てて、あれほど安らかに眠れるほどに。
きっと、全てではなかったにしても、あいつは俺の何かを疎ましく思っていただろう。
そう考えると俺の心はまた少し、揺れた。
「無理だよ。もう疲れたよ。夏弥が言ってくれたことは嬉しいけど、でも、もう、疲れたの。もう、無理なのよ」
美奈は夏弥の腕から逃れようともがいた。だが、意地でも離さないという風に強く抱きしめられた囲いから逃れるのは至難だった。
「無理じゃないよ! あたし、何でもするから! だから、死なないで!」
半ば懇願するような声音で夏弥は叫ぶ。不器用なやつだな、と思った。何でもしてくれる、してやるのが友達では無いのだ。たぶん、こいつはそんな当たり前のことも知らずに、他人とすれ違いながら生きてきたのだろう。それでも、自分のことなど気にしない、相手の事ばかりを考えたその態度には、心打たれるものがあった。こいつは、例え美奈が友達になる事を拒んでも、同じ台詞を言っただろう。ただ内気で世間知らずな訳ではない。そこには相手の幸せばかりを願う、一種危険で、しかし、どこまでも深い優しさがあった。
まぁ、それも、裏を返せば、今この絶望の淵に沈む美奈という人間には、そう思わせるだけの魅力があるということだ。
そんな二人が、自ら命を絶つ事を選ぶ世の中なんて、どうしようもなく悲しい。まぁ、結局そんなことは、誰でも知っているただの事実なのだが。
「助けてやるよ。俺がお前を、救ってやる」
意を決して、俺はそう言った。
自信など一欠けらも無かった。自分の矮小さは誰よりも俺自身が知っていた。無力さに至っては神がかっている。こいつが背負った重荷がどれほど大変なものなのか、それが俺の手に負えるのか、その可能性は限りなく低い。
けど、俺はその言葉を言わなければならなかった。いや、違う。言いたかったんだ。自信なんてない、胸を張るなんて程遠い、でも、それでも、俺に任せておけと、太鼓判を押してやりたかった。だって、そうだろう? 目の前に死にそうな人間がいて、俺には自殺した兄貴がいて、それを止めることすら出来なかった自分に失望していて、せめてもの罪滅ぼしがしたくて――――――。
これはラッキーなんじゃないか? と心の隅……それも違う。心のど真ん中でそう、思っていた。
こいつを助ければ楽になれる。埋め合わせだ。本当に彼女の事を思っているのではない。いつだって頭に浮かぶのは自分、ジブン、自分、自分、ジブン、自分、自分、自分、じぶん、自分、俺、俺、俺、オレ、俺、俺、俺、俺、おれ、俺、俺。
それで良いじゃないか。何だって良いじゃないか。どんな理由だって、
「あんたを、俺は殺せない」
兄貴のように、お前を俺に殺させはしない。
「お前の瑣末な悩みなんて、俺が全部消してやるよ。だから俺のために、生きろ」
俺は手すり越しに、美奈へと手を伸ばした。汚れた手だった。数え切れないほどの物を路傍へと転がし、諦め、蔑み、嘲り、恥を塗られ、希望を削がれた、現世へと繋がる唯一の綱を彼女に差し出した。
美奈の真っ白い、パールホワイトの指が、ピクリと揺れる。数秒間の空白の後、その指はゆっくりと、俺の手に向けられた。
微かな、それでも確かな温もりが俺の指に触れた瞬間、
光が堕ちてきた。
一瞬遅れて、巨人が建物を揺らすかのような轟音が響いた。
美奈の体を支えていたもう一方の手が、居場所を失くして、屋上の外へと飛び出した。必然、彼女の体はぐらりと傾き、そのまま後ろへ……下へと、向かっていく。
こちらへと伸ばされた美奈の手は逆に、俺に向かって手を振っているように見えた。
強く抱き締めあっていた二人の姿が、何者かに引っ張られるように沈んでいく。
握りしめた俺の手が掴んだのは、雨だけだった。
今度は迷わなかった。単純に考える暇がなかっただけかもしれない。どちらにしろ、気付いた時には俺の体は手すりを超えて、彼女達二人の真上へとシフトしていた。雨音が風切り音に変わる。
地面との距離を眼で認識した瞬間、心臓がギュッと縮まるのを感じる。まるで雨に溺れているかのように見苦しくもがき、壁を引っ掻いて自らの落下速度を上げる。
手を伸ばしてやっとのことで掴んだ美奈の腕は水に濡れて、虚しく滑った。
くそっ、自殺者のくせにスベスベの肌しやがって。
落下中、意外にもそんなことを考えられる程、俺は落ち着いていた。全てがスローモーションで動いていた。これは俗に言う走馬灯というやつだろうか。俺の思考に世界が追いついていない、そんな気分だった。
二人までの距離が一メートルをきったと思えたその時、美奈と目があった。透き通るような瞳。誰も触れたことのないガラス玉のように滑らかなその眼球に何故か、兄貴が映っているように見えた。
兄、洋一が、俺に向かって口を開いた。
『死んだら、楽になれるぜ? 生のある世の中なんて、生温い地獄だ』
その言葉に、俺は頭の中で答える。
そうかもしれない。でも、俺はまだお前の所には行かない。
『なぜ? 歓迎するぜ? ここには苦しみもない、悲しみもない、真に幸福な世界だ』
だからなんだ? そんなの関係ない。俺にはまだこっちでやり残してることがあるんだ。
『………それは、何だ?』
死ぬまで生きることだよ。俺は、兄貴、死ぬまで生きて、あんたに言いたいことがあるんだ。途中退場したお前にな。今はまだこの言葉に重みは無い。お前に罪悪感を持ったままの俺では意味が無い。けどな、いつか、俺が精一杯生きて、辛いけど、しんどいけど、必死に足掻いた末に、命を失くしたそのとき、俺の人生全てをこいつに乗っけてお前に叩きつけてやる。
俺は兄貴を許さない。ってな。それまで精々幸せそうにヘラヘラ笑ってろ。
『………お前のそういうとこ、変わらないな』
兄貴が言って、影のある笑みを浮かべたそのとき、ようやく目に映る兄貴が俺自身の姿に過ぎないことに気がついた。
幻、か。
頬を苦笑いの形に変える。おそらく一秒も経っていないのだろう、先程とほとんど同じ位置で浮遊する美奈を見る。俺は彼女の両脇を抱きかかえ、さらにオナモミのように美奈へくっついた夏弥の服をあらん限りの力で掴んだ。
まだだ。まだ、生きなければならない。それだけだった。
学校は五階建てだった。俺達はすでに一階分、落下していた。四階の手すりが目に入った瞬間、俺は美奈から右手を離し、そいつを掴んだ。
時間が平常運転へと戻った。
急速に加速していく周囲に目を回しながら、それでも手に残る金属の感触を手放すまいと力を込める。しかし、美奈と夏弥、そして俺の体重が全て右手に圧し掛かったその一瞬、
――――――肩が抜ける!
その確信が俺にもたらしたものは反射的な危機回避だった。右手の力が瞬間的に弱まり、悪魔がそれを見逃すはずも無く、俺達の身体を問答無用で死地へと引っ張った。
再度襲いかかる落下感。
「くっ………そがぁああああああ!」
焦りを打ち消すかのように俺は叫んだ。
迫りくるリアルな死が虫食いのように俺の思考に恐怖という形で穴を開けていく。
瞳が三階の手すりを捉えた。これを逃せば次はない。これ以上の速度で落下すれば、三人分の身体を支えることなど絶望的なまでに不可能だ。
理性など最早役には立たない。俺はそいつを捨て去り、本能だけに身を任せた。
もう一度、手すりに向けて腕を突き出す。
「っ…………!!!」
痛みはそれほど感じなかった。あったのは右腕に対する未曽有の衝突感と、何か固いものが破壊される嫌な音だけだった。それでも、俺達の身体は静止していた。ユラユラと揺れるその姿は遠くから見れば、木にしがみつく毛虫のように見えただろう。
俺の腕は手すりに絡みついていた。握力だけでは無理だと悟って、腕で手すりを巻きつけたのだ。だが、それでも三人分の身体を支えることなど普段なら不可能だったと思う。なぜ今、俺がここにぶら下がっていられるのか、自分でも不思議だった。
「……やるじゃないか。俺」
自分のことを褒めてやるのは久しぶりだった。当然、悪い気分ではない。
「どうして、ここまでするの……?」
背中から聞こえた美奈の言葉にホッとしている自分がいた。……良かった、まだ生きてる。
「さぁ。俺に訊くな」
じゃあ、誰に訊くんだ、という言葉は呑み込んでくれたようだった。今この状況で重要なのは、会話よりも現状を打開する思考だというのは目に見えて明らかだった。
右腕から次第に力が抜け始めているのを俺は感じていた。さらに厄介なことに、痛みまでも遅れてやってきていた。落下時の破砕音からして、腕のどこかが折れているか、もしくはヒビが入っているのは分かっていた。時間は無い。でも、どうしたらいい? どうにかして、こいつらを持ち上げないと………。
「お前ら、何やってんだ!?」
不意に、予想外の方向から声が降ってきて、俺は頭上を仰ぐ。そこに一人の男が立っていた。
「………壮?」
雨で細めた目を凝らして俺は男を見た。あまり話したことは無い。しかし、同じクラスの人間の名前ぐらいは覚えていた。二年五組、森永壮。確かそんなフルネームだったはずだ。俺の二倍は優に超えているだろうその腕の太さに、俺は神を見たような気分だった。
「助かった! 壮、持ち上げて――――――」
「イヤァアアアアアアアアア!!!」
耳を切り裂くような鋭い悲鳴に俺は飛び上がった。同時に右腕に掛かる負荷が増す。顔と目を動かして下を見ると、美奈の腕の中で暴れる夏弥の姿が映った。
「ぐっ……!!」
俺は訳もわからず、右腕を蝕む激痛に脂汗を流した。
「か、や………?」
壮が呟いた瞬間だった。夏弥の動きがピタリと止まり、代わりに呪文のような叫びが響いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい―――――!!」
「なんで、お前、何してんだよ!」
壮の怒鳴り声と共に、夏弥の悲痛な叫びが強くなった。俺は訳も分からず、ただ自らの右腕の限界だけを感じていた。
「夏弥、お前そんなことしてただで――――――」
「いいからさっさと持ち上げろボケがぁ!!」
俺は壮の言葉を遮って咆哮した。限界だった。あと数秒もすれば、もう一度あの固い地面に投げ出されると、両腕が告げていた。
「早く、早く俺の手を、掴め!」
苛立ちを隠す余裕などなく、俺は壮を睨む。彼は一瞬迷い、それでもおずおずとその片手をこちらに差し出した。しかし、その手に三人分の負荷を支える程の力など無く、何の気休めにもならなかった。俺の怒りは頂点を飛び越えて脳天を突き抜けた。
ふざけるなよ! こっちは命が掛かってんだ!
「あがっ!!」
壮の苦悶の声が聞こえた。しかし、そんなものはどうでも良かった。こいつの痛みなど関係ない。ただひたすらに、自分が助かりたかった。俺は差し出された腕に、あらん限りの力で噛みついた。
「ぁああああああああああはなせぇええ!!」
顔面を殴られた。それがどうした。俺の執念はそんなもので揺らぎはしなかった。壮もそれを悟ったのか、両手で俺の上着を掴み、やっと俺達を持ち上げる態勢に入った。俺も、両手に最後の力を注ぎこみ、なんとか這い上がろうとする。
数分後、俺はベランダにその身体を横たえていた。隣には抱き合ったままの美奈と夏弥。そして、頭上、教室とベランダの間で腕を押えて呻き、悶えていたのは壮だった。
しばらく四人で呆けた後、ゆっくりと壮が立ち上がった。隣で小さく悲鳴が聞こえた。俺も、力の抜けた左腕でなんとか身体を支えて立ち上がる。
「近づか、ないで」
美奈が震える声で言った。その言葉は俺ではなく、壮に向けられていた。
「うるさい!」
壮の瞳は怒気を含み、凶器を孕んでいた。人間の目ではない、言葉の通じない、獣の目だった。
「なんだ。お前ら知り合いだったのか?」
気の抜けた声で俺は囁く。もう身体のどこをとっても力が入る気がしなかった。しかし、異常なほど怯える夏弥を守るように抱きしめた美奈の様子から、嫌な予感はしていた。
その予感を美奈が裏付ける。
「こいつは、夏弥の彼氏よ。イジメられてた夏弥に取り入って、そうなったのよ。でも、最初は甘い言葉を吐いていたクセに、本性は全然違った。こいつは、自分のストレスを解消するためだけに、この子に暴力を奮って………。この子が死のうと思ったのだって、本当はこいつが原因なのよ」
美奈は歯を噛みしめて壮を睨んでいた。しかし、その身体が震えているのは雨の冷たさだけでは無いと、一目でわかった。
……一難去って、また一難。いやぁ、兄貴。やっぱり現実は生温い地獄だよ。どうにかしたい、なんて考えている自分も、怯える夏弥も、身を呈して彼女の前に出る美奈も、目前の理性を捨てた男も、ホント、どうしようもなく生温い。
壮がその足を一歩、抱き合う二人に向けて踏み出したと同時、俺もふらついた足をどうにか動かした。男二人が面と向かい合う。なんとも色気の無い画だ。俺は肩を落として口を開く。
「俺がいなけりゃお前の彼女は死んでた。お前が殺してたんだ。認めろよ。どうする? 壮、お前は俺を、殴れるか?」
彼の腕は目にも止まらぬ速さで振り下ろされた――――――。