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養殖人間  作者: こじも
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バイトしよう

 岩重駅。それがこのローカルなボロ建物の名前だった。改札口は六畳ほどの吹き抜けで、風雨に痛めつけられた屋根が付いているだけ。自動改札機は一つ。ポツンと申し訳なさそうに黄ばんだその身を晒している。

 もちろん、こんな寂れた駅に俺たち以外の人影はない。

「それじゃあ、私はここで。また明日ね、昇君」

「ああ。電車が来たら、な」

「もう。大丈夫だって。変なとこ心配性なんだから」

 ぷくっと、美奈は頬を膨らませる。こいつはいつも悟りきったような笑顔を顔に張り付けている癖に、時々こんな子どもみたいな表情を見せるから厄介だ。……かわいい、と思ってしまう。だが、そんな思いはおくびにも出す訳にはいかず、俺はしかめ面を作ることで表情を隠した。

「中途半端にやって失敗したら、何もしなかったときより後悔する気がする」

 気づけばそんな、ちょっと恥ずかしい言葉を吐いていた。

 大きな過ちだと、気付くこともなく。

「ふふ、そう。立派だね。でも……」

 ざわり、と全身の毛が逆立つのを感じた。息を吸うのも忘れて俺は美奈を見る。

 しまった。と、思った。そしてその後にすぐ、自責の念が胸を締め付ける。

 美奈は声もなく笑っていた。まるで、そうすることでしか感情の表現方法を知らないかのように、一つの微笑みに、全ての思いをぶち込んで混ぜ合わせた、そんな笑顔を、俺に向けていた。

「あなたがそれを言うの?」

 闇を極限にまで凝縮させたかのような、墨の上にまだ足りないと延々染め続けているような、真っ黒で、真っ暗で、空気を失くしたかのように寒々とした、そんな瞳に魅入られて、俺は金縛りにあったように動けなかった。

 その通りだ。俺の言える、言って良い言葉ではなかった。何が中途半端にやって失敗したら、だ。もう失敗してる。とっくの昔に、これ以上無いってくらい、俺は失敗したくせに、なんてバカなことを。

 寝起きの頭で発言するべきじゃなかった。ふと、出てきてしまったのだ。中途半端にやって、失敗して、後悔した記憶が、よりによって一番出てきては駄目な時に現れてしまった。

「ねぇ、私を助けたのは、だぁれ?」

 人が変わったように虚ろな声で、美奈は囁く。

「助けたくせに、守ってくれない王子様は、だぁれ?」

「やめて、くれ」

 流れる冷や汗に震えながら途切れ途切れに紡ぐ。

「ねぇ、目を逸らさないで教えてよ。中途半端に、命を救って、それで自己満足に浸って、私を捨てたのはどこの誰なの?」

「やめろ!」

「こんなことなら最初から、殺してくれれば良かったのに」

「……俺の前で人は死なせない。二度と」

「なら守ってよ! そんな言葉、聞き飽きたわ! 命が救えるなら、最後まで助けてよ! 途中で手放さないでよ! それとも私の命は、あいつなんかよりも………軽いって言うの……?」

 美奈は膝を折って泣き崩れる。

「それは、違う。違うんだ……」

 苦しむ彼女に、俺はそんな、薄い言葉しか、絞り出せなかった――――――。

 カンカン、とサイレンが鳴って、電車が駅に音を立てて向かってくる。

 美奈はゆっくりと立ち上がって、手の甲で涙を拭く。

「ごめんなさい」

 彼女は一言、そう言った。

「あなたの方が辛い人生なのに。こんなこと、言うつもり、無かったんだけどな」

「違う! どっちが不幸かなんて―――」

「いいの。好きなこと言って、ストレス解消したかっただけなんだと思う。なんだか、スッキリしちゃった。ありがとう」

 やめろよ。礼を言うほどの価値が、こんな俺のどこにある。

 甲高い、耳障りな音を立てて電車は駅へと滑り込み、扉が開く。

「じゃあね」

 くるり、と優雅に振り向いて美奈は数段しかない駅の階段を上っていく。

「美奈!」

 彼女は顔だけをこちらに向ける。

「………いや、なんでもない」

 去りゆく彼女に何か、一つだけでも言いたくて、絞り出したそれをやっぱり呑み込む。

 こんな最低の言葉、俺が楽になるだけだ。

しかし、俺の心中などお見通しだというように美奈はまた笑う。

「言って。これでおあいこにしよ」

 おあいこ? それも違う。ただ一方的に、俺が不甲斐無いだけだ。

 わかっていながら、知っていながら、俺はそれでも楽になりたかった。彼女の言葉に、それを許された気がした。

「……すまない」

 言った。言ってしまった。

この一言で、彼女の希望は脆くも崩れ去る。いつかは、俺が助けてくれるかも、そう思って打ち明けたのだろう彼女の苦痛は、俺には重すぎた。

どうしようもない。諦めた。今、俺は、そう言ったのだ。

「うん! 許す!」

 そして許された。簡単に。いとも、容易く。

「昇君! また、明日ね!」

 美奈は電車に飛び乗った。『明日』なんて、彼女にとっては一番辛い単語を、置き去りにして。

 走り去って、光の点となった電車を見送る。

 帰り道。彼女のこれから味わうであろう恥辱から目を背けるために、くだらない思考をする。

 俺は常々こう考えているわけだ。物事にはそれを解決するための万能解があると。

 それは『諦める』ということ。そうすればあら不思議、全ての問題は、その問題が初めから無かったかのように消え去っていく。

 なんて清々しい気分だ。思い悩むことなど何一つない。俺は自由だ。

 あーあ。死にたいよ。


 どこをどうして帰り着いたのか、覚えていない。

 気付けば自分の部屋のベッドの上。枕横に置いた目覚まし時計がけたたましく鳴り響いていた。

「うるせぇよ」

 苛立ちに任せて俺は目覚まし時計を放り投げた。勉強机に鈍い音を立てて当たったそいつは電池を吐きだして鳴り止んだ。

 ムクリと起き上がって止まった時計を見ると、時刻は二時半ちょうどだった。

「バイト、行くか」

 そう呟いてベッドから降りる。ここからバイト先までチャリを飛ばして約三十分。四時までに出勤すれば良いので時間に余裕はあったが、また眠る気にはなれなかった。

 学生服の横に吊り下げてあったスーツを俺は手に取る。親父のお下がりで、少々色褪せていたが、そんな細かい所まで気にする社員はバイト先にはいなかった。

 乱雑にそいつと学生服を握って部屋を出る。

階段を下りて、リビングを横切り、そして浴室へ。

 白塗りの扉を開ける。

バスタオルを頭に下げて透明感のある白い裸体を晒した少女が一人いた。

 まぁ、そんなこともあるかと思い、俺は洗濯機や洗面所の配置された脱衣所に入ろうとして、いやいや、普通そんなことはないだろう、一体どうなってるんだ、と考え直す。

 ふと、視界を白い何かとピンクの丸と黒い影が横切った。

「ガツンッ」

 頭部に鋭い衝撃を受けて俺は床に倒れた。

 再び目を覚ました時、浴室に俺以外の人影はなかった。そりゃそうか、と一人納得しながら湯温度調節機の機能として付加されたデジタル時計を見ると、どうやら俺が気絶していたのはほんの数分だったらしいとわかった。

 ふらふらした頭で思考した結果、とりあえず当初の目的通りシャワーを浴びることにした。色々と、それはもう色々と洗い流すイメージを持ってシャワーを浴びたが、スッキリしたのは目ヤニの付いたみっともない顔だけだった。

 ドライヤーで適当に髪を乾かしてスーツに着替える。背広はまだ着ないでおく。堅苦しくて落ち着かないからだ。薄い青の縦縞が入ったカッターシャツとスラックスという出で立ちで俺はリビングへ入った。

「ん?」

 電気が点いていた。この時間に起きて他の人間がリビングにいたことなど今まではほとんどなかったため、一瞬疑問を抱いたが、そういえばさっき一人見つけたばかりだった。

 沙織は台所で黙々と何かしらの作業をしていた。

「おはよう。まだ起きてたのか? 寝とかないと辛いぞ」

「………」

 ガン無視である。それも仕方ない事であろう。沙織が男性恐怖症である事は美奈から聞いていた。いうなれば俺は彼女のタブーを犯したのである。

「そういえば、さっき何で殴ったんだ? 浴室にそんな道具は―――」

 彼女は無言でオズオズとフライパンを持ち上げた。黒く見えたのはその底面素材だったのだろうか。というか何故そんなものを風呂場に? と思ったが訊いても答えてはくれないだろう。

「ごめんな。こんな時間に誰かが風呂を使ってるとは思わなかったんだ」

 沙織からの反応はやはり皆無だった。

 まぁ、仕方ないことだ。もう一度、無理やりそう自分を納得させて席を立つ。すると、頭がクラリと揺れて、慌てて机に手をつく。フライパンの効果がまだ残っていたのだろうか、それとも単に寝不足か。どちらにせよ――――――。

 ハハ。酷い無力感だな。こりゃ。

 美奈の一件などいわずもがな。むくれた妹の怒りすら静めることが出来ないとは、何という能力不足か。やんなっちゃうね。まぁ、向こうは兄とすら思っちゃいないんだろうけど。

 「俺と親しくする必要はない」などと初対面の時に言っておきながら、沙織の冷やかな態度に些かといわずショックを受けている自分には失望を禁じ得なかった。

 せめて、笑っとくか。

 いつもの美奈の顔を思い出しながらそんな事を考える。あれは彼女なりの処世術なのだろう。―――笑顔はね、『幸せ』の乗り物なのよ。歩き疲れたらきっと手を上げて呼び止めてくれるわ。お~い、乗せてくれぇ、って。フフ、お金はちゃんともらうけどね。と、夏弥に向かってそんなことを言っていたような気がする。いかにもあいつの言いそうなことだ。……信じてやしないくせに。

「バイト、行ってくるよ。これ、俺の連絡先。何かあったらメールでもしてくれ。すぐに見られるようにしとくから。俺はこのまま学校に行くし、この辺車通り多いからお前も気をつけてな。学校までの道はもうわかる?」

 一瞬の間が開いて、コクリと、沙織は頷いた。それを見てホッと心の中で胸を撫で下ろす自分がいた。完全無視は避けられたようだ。

「そうか。……あっ、そうだ。小遣いは? 親父からもらってるのか?」

 もう一度、コクリ。今度は少し焦ったように顔をひきつらせていた。俺に報告していなかった事をやましく思っているのだろうか。気にしなくて良いのに。

「そりゃよかった。それは全部そっちで使って良いから。あと、これは俺からの歓迎の印だと思ってくれ」

 言って、一万円を机の上に置く。バイトで貯めた金は今や二十万を超えていた。最近、財布の紐が緩くなったのを如実に感じる―――じゃなくて、俺は何をやってるんだ? 金で好感を釣ろうなどまるで援助交際を求めるオヤジだ。

 かといって、一度出したものを引き下げる訳にもいかず、沙織が俺に上手く話しかけられないのを良いことに一万円をそのまま置き去りにしていった。

「それじゃあ、いってくる」

 矢継ぎ早に告げて俺はリビングを後にした。情けなさ、ここに極まれり。

 まるで悪事を働いたような気分に陥った俺は可及的速やかに革靴を押し込み、玄関扉に手を掛けた。

「あの―――!」

 ビクリッと身体が揺れる。何だこんな夜中に、と思うほどの大音声が俺の背中に響く。

 思わず振り返ったそこには沙織が……後ろを向いて立っていた。

 一瞬、何だ俺を呼びとめた訳じゃないのか、と思ったが、そんなはずはない。ここには俺しかいないのだ。

「どうかしたのか?」

 そう問いかけると、恐る恐るといった感じで彼女は近づいて来た。……後ろ歩きで。妙な光景である。

「………これ、どうぞ!」

 珍しくハキハキと話す彼女はどうやら俺では無く、廊下に存在しない誰かを身立てて話し掛けているようだった。シチュエーション的にはちょっと怖い。幽霊が見えているようだった。

 いや、そんな事よりも―――。

 後ろ手で渡されたのはハンカチで包まれた何かしらの箱のようだった。

 これは、まさか………。

「弁当?」

「………は、はい! 美奈さんの作った料理が、半分ぐらいですけど……」

 返答までに少し時間が開くのは俺の言葉を幽霊の口から発されたものに変換するためだろうか。何とも、面白いやつだな。

「これを作るためにわざわざ、こんな時間に?」

「………早朝バイトだと聞いたので、何時に起きたら良いのか考えてると眠れなくなって、それで、お風呂にまだ入ってなかったのを思い出して――――――」

 それで今に至る、という訳か。

「そ、その、先程は、ごめんなさいでした!」

 深々と幽霊に向かって頭を下げる沙織。ハハ、すごいな。そこまでして、俺に話し掛けてくれたのか。

「謝るのはこっちの方だ。俺こそ、ごめんな。親父と二人暮らしが長かったもんだから、油断してたよ。次からは気を付けるから。弁当、ありがとう。学校で手作りの弁当を食べるのなんて何年ぶりかな。嬉しいよ。壮が泣いて羨ましがる」

 言って、沙織の頭を撫でそうになった手を止める。おっと、危なかった。会話は大丈夫でも接触は禁止だな。……いや、そんなことも、ないか。俺の予想が正しければ、沙織の見ている幽霊はきっと――――――。

「なぁ、お前の目の前にいるやつのさ、手を持ち上げてみてよ」

「……手?」

「そう。それで、そいつの手をお前の頭に持ってきて――――――」

 俺はゆっくりと沙織の頭に手を載せた。うひっ、と彼女は珍妙な声を上げる。

「落ち着け。……そして、そいつは言うんだ。『優しいのね。頑張り屋さんね』って」

 それは美奈が人を褒めるときに良く使う言葉だった。俺も何度言われた事か。もう、子どもじゃないんだよ、て毎回思っていたけどな。

 スッと、沙織の肩から力が抜けていくのを感じた。

「今、俺も全く同じ事思ってるよ」

 言って、一撫でした後、俺は彼女の頭から手を離した。

「私もう、子どもじゃないです」

 拗ねたように沙織はそう言った。

「ハハ。そうだな」

 やっぱりそう思うよなぁ。と内心納得していると、驚いたことに沙織がこちらを振り向いた。そして、何故かその目を丸くする。

 ん? なんだ? ビックリ仰天したような顔をして。

「あっ――――――」

 声を漏らした沙織はそっと俺の頬に手を伸ばし、触れる。

「? そんなことして大丈夫――――――」

 彼女に釣られて自分の頬に触れた俺は驚愕する。

 何だよ、これ。濡れてるじゃないか。

 慌ててカッターシャツの袖で全部拭う。それでもそいつは止まることなく溢れ出て、頬を濡らす。

 嘘だろ。こんな、人前で、ウソだろ……。

「昨日、美奈さん、と――――――」

 沙織がそこまで言ったのを聞いて、俺は逃げ出すように玄関扉のノブを回していた。焦って足をもつれさせながら、すぐそこに留めてあった自転車に跨る。

「ふ、服と、カバン!」

 沙織が差し出したそれを俺は顔が熱くなるのをひしひしと感じながら受け取る。

「すまん。行ってくる」

「は、はい。いってらっしゃい」

 何故か沙織が俺と普通に会話をしている事にも気付かず、ただ熱を持った目頭を隠すように俺は自転車を漕いだ。

 何だよ。何なんだよ。嬉しいのか、悲しいのか、良くわかんねぇよ!

 ごちゃごちゃと丸まった感情を処理しきれずに、俺はただひたすら、夜の闇を駆けていった。


 二十分ほど自転車を全力で漕いでいると、少し頭も晴れてきた。天気はどんよりと曇ったままで月明かりもなかったが、繁華街に近づくにつれて街灯が道を照らしてくれた。やっとこさ止まってくれた涙の跡を俺は両手でゴシゴシと擦って消す。

 ただ無心に、足を動かした。

 現在の心理状況を冷静に分析するなど、したくなかったし、出来るはずもなかった。それでも、乱雑に絡まりあって、なおかつお互いに反発しあうこの不安定な感情の塊こそが、今の自分なんだと、自分そのものなのだと、本能的に理解した。

 胸の奥が痛くて、あったかい。

 そんな矛盾した心を俺は受け入れることにした。本気でこの気持ちと向き合えば、きっと痛みが勝ってしまう。そんな確信を抱いていた。だけど、もう少し、もう少しだけ、この優しい温度を保っていたかった。

 右手の腕時計を見ると、時刻は三時半弱といった所だった。全力で漕いだせいか、バイト先には後五分も待たずに到着できるだろう。

 額にうっすらと浮いた汗を拭い、俺はペダルに入れる力をさらに上げ――――――ようとしたのだが……。

「おい! おーい! かーばやきっ! 蒲焼ぃ! こっち、こっち!」

 うぐっ………まさか、この声は………。

 俺は非常に嫌な予感を覚えながら声の届いた方向を見る。車道の端を走っていた俺に歩道から手を振る人間が見えた。

「マジかよ……」

 やはり予想通りだった。俺の最も忌嫌う人間がそこにはいた。全身にアクセサリーじゃらじゃら、髪は茶髪のロン毛、胸をはだけさせたシャツの影からはタトゥーシールと思われる、不死鳥か何か知らないが、そのような文様が浮かんでいた。

「桐矢か………」

 先日の入学式で絡まれた時と同じような言葉を俺は発する。

 油断していた。この手の地元ヤンキーは繁華街にいることが圧倒的に多いため、いつもは最大限の警戒をして避けているのだ。正直、こいつをこの辺で見かけるのは一度や二度ではなかった。その度に俺は舌打ちしながら迂回していたのだ。しかし、その注意を今回は怠ってしまったようだった。

「な~んだよぉ! そんな嫌そうな顔すんなよぉ! 俺たち友達だろ!」

 入学式の時同様、こいつは無遠慮に俺の肩に手を回して絡んでくる。全身に怖気が走った。気安く触れるなよ、気色悪い。

「いや、友達ではないだろ。ただの知り合い、同級生ってだけだ。離せ、バカ」

 俺は素直にそう答えた。桐矢には数人の取り巻きがいた。単純に見たとこ今日は桐矢の他に三人、近くのコンビニで買ったのだろう、空のカップ麺をその辺に放り出して座り込んでいる。

 ここでビビって「そ、そうだね~」などとなよなよしい言葉を吐いてしまうのはとてもマズイ。こいつらにとって、俺たち友達だろ! = お前、俺のパシリだろ! と翻訳できる。つまり、ここは拒絶するしかない。そうすることで面識のほとんどない桐矢の取り巻きに対して、喧嘩の弱そうな痩せたカモ、ではなく、自分たちのボスに反論出来る存在、としてやや地位の高い印象を持たせることが出来る。桐矢がそう簡単に俺に手出ししないことはわかっている。ならば大事なのは取り巻きがシャシャリ出てこないように壁を作ることだ。

「お~い、冷たいなぁ。お前の店にいつも貢献してやってるだろぉ?」

桐矢の粘着質な話し方はすこぶる厚かましい。

「ただのバイト先だ。売り上げはバイトに反映されない」

 ついでにお前の貢献度は0%どころかマイナスだと言っても過言ではない。最短コースでさらに値引きをする客などいらないどころか、むしろ帰って欲しいぐらいだ。お前は社員の機嫌を大いに害しているんだよ。

 俺はわざとらしく時計をチラ見する。

「そろそろ行かないと。遅刻したら大目玉だ。じゃあ、またな」

 俺はそう告げて自転車に跨り、足早にその場を去った。

 すると後ろから桐矢の叫びが届く。

「あっ、おい! 今日行くからなぁ!」

 来んなよ。迷惑だ。

「今日は混むだろうからやめとけ! 一時間待ちとかだと面倒だろう!」

 給料日前の平日に混む理由など一切無いが、俺はそう返しておいた。

 はぁ、やれやれ。ツイてないな。

 気付けば、ほのかに熱を持っていた胸の奥は冷え切り、ついでに汗の冷たさで体も震えた。はぁ。ともう一度溜息を吐いた俺はだらだらと自転車を走らせた。


「おう、カバやっちゃん、おはよ~う」

 時刻は四時半。従業員用のドアから三十分遅刻して入ってきた社員の山元さんはそう言った。彼は名字の『蒲焼』をモジって俺のことをカバやっちゃんという不可思議なあだ名で呼ぶ。

「おはようございます。暇そうですね、今日は」

 六畳ほどの部屋、四十インチ程の作業机に座った俺はそう返答する。

「ん~、まぁ、予約ナシだもんねぇ。そんな気はしてたよ。それより遅刻しちゃってごめんねぇ。出勤確認手間取っちゃって」

「いやいや。そんなの気にしないで下さいよ」

 遅刻なんてこの店では日常茶飯事だ。特にこの早朝シフトは生活リズムを大幅に変更しないといけないため、昼、夜と比べ圧倒的に多い。しかも山元さんは前日の夜も出勤していたのだ。夜シフトが終了するのは深夜一時半、そして今が午前四時半、おそらく彼は一時間も眠っていないだろう。

 山元さんは冷えたブラックコーヒーをゴクリと飲んで煙草に火をつける。

 俺は自分の座っていた作業机を立って、彼に譲る。山元さんは手を前に出して礼の印とすると、でっぷりとした尻を椅子に載せた。俺はすぐ近くにあったホームチェアに座り直す。

 巨漢、という表現が彼には良く似合っていた。年齢は今年で四十。その割に老いを感じさせず、どちらかというと童顔だと言えた。身長は178センチ。体重は知らないが、相当なものだろう。突き出た腹と丸みを帯びた頬がそれを物語っていた。坊主とはいかないまでも短く刈り取られ、逆立った黒髪。銀縁の眼鏡から覗く丸い眼は体型に反して彼に優しげな印象を与える。……残念ながら体型の方が彼の本性を良く表しているのだが。

「すみません。昨日の夜から出勤しても良かったんですけど……」

 充血した眼を労わる山元さんにそう告げる。

「いいの、いいの。無理せんで。こっちも高校生を長時間働かすのはリスクでかいしなぁ。もう、学校始まってんやろ? ごめんねぇ、無理言って」

 独特のイントネーションで話す彼にはある種の親しみやすさがある。俺のことを気に入ってくれているし、俺も嫌いではなかった。むしろ、桐矢と話す何倍も安心出来るくらいだ。

 高校生を働かせるのはリスクがでかい。彼の一言はまごうことなき真実であった。

 何を隠そう、ここは風俗店だった。俗にヘルスと呼ばれる分類で、本番以外のプレイサービスを女の子が提供するというものだ。そこにはもちろん年齢制限がある。女の子はもちろん、男も。

 俺の誕生日は四月二日だ。今年の始業式は四月十日だったから俺はもう十八歳ということで先日正式にバイトとして登録された。とはいっても高校生である事実に変わりはない。学校側に発覚すれば由々しき事態になることは間違いないし、警察に目を付けられるのは店側としても避けたい、とそういう訳だ。

 さて、何故俺がこんなバイトをしているのかという話だが、驚くべきかな、親父の紹介だ。ここの社員一同といつ、どこで、どう知り合ったのか知らないが、いつの間にか飲み友達になっていたらしい。そこで奴は俺がバイトを探しているという言葉に飛びついてきた。なし崩し的にオーケーを出してしまった俺も俺なのだが。

 それが約一年前。十七歳になった頃だろうか。バイトとして登録出来なかった俺の給料は何と店長のポケットマネーから出ていた。一か月四、五万の出費を笑って払う店長の心の広さというよりも、一体あんたはどれだけ貰ってるんだ、という疑問の方が先に立った。怖かったので訊かなかったけど。

 未成年の俺は接客するというよりも事務仕事の方が多かった。女の子のコメント、トピックスを一人ずつ書き上げ、写真を選び、必要があればまぁ、ちょこちょこっと弄る。それでも顔はあまり触らない。写真で選び、遊び終わった客にキレられても困るからだ。そして、ホームページ、登録した広告サイトの更新、などなど。パスワードさえ知っていれば全部家で出来たので楽なものだった。しかも、この業界、パソコン嫌いな人間が圧倒的に多くて、コピーペーストぐらいの技術しか持たない俺でもそこそこ重宝されたのだ。

 巷ではヤクザとずぶずぶ、などと噂される風俗店全般に俺は足を震わせたものだが、実際のところそんなこともなかった。社員、バイト合わせ、そっち系の人を生で見て、真っ当な会話をしたことがあるのは店長と、そして目の前にいる山元さんのみだった。もちろん、俺は一度もない。おそらく客として何度か来てはいるのだろうが、むしろそういう人達は気の良いおっさんという感じで中々他の客と見分けがつくものではなかった。遊び方も(人によるが)キレイなもので、桐矢などの若い盛りの連中に比べればよっぽどマシらしいとのことだ。全部他の社員から聞いた話だけど、嘘では無いと思う。気の良い人ばかりだが、あまり器用ではないのだ。嘘なら直ぐに見分けがついた。

 っと――――――。

「おはようございます」

 鉄製の扉が開いて、か細い声が耳に舞い込んできた。俺は慌てて立ち上がり、すぐ隣の木製扉を開く。これは客の待合室へと繋がる扉だった。

「おはようございます」

 俺は深々と頭を下げて現れた女性に挨拶を返す。

「お~、おはよう、翠ちゃ~ん。眠そうだねぇ」

 猫撫で声を出す四十代とはまぁ、シュールなものだが、童顔の山元さんに限りまだマシだと思えた。

「はい~、眠いですぅ」

 俺より一つ年上の大学生、店名「小森翠」は化粧が崩れないように人差指で目にそっと触れながら答えた。

「アッハハ! 今日は『部活』に行ってたのかねぇ?」

 山元さんの言う『部活』とは決して中学、高校で言う運動部とか文化部等の分類が可能な部活では無い。

 ホストクラブのことだ。大体、風俗嬢の三、四人に一人はこいつにのめり込んでいる。驚いたことに、週末一日で七万近く稼いだはずの女の子が次の日には五円玉一枚しか持っていない、なんてこともあった。ねぇ、お兄さん、お茶買ってよ。と言われた俺は口を半開いたまま自販機に五百円玉を滑り込ませたものだ。

「行っちゃいましたぁ」

 テヘヘ、といった具合で笑う翠さんの頭を切り開いて、その思考回路を分析したいものだ、と思う俺だが営業スマイルを張り付けた顔はそんな思いなど一切介在させない。一年も経てばこんな会話にも慣れてしまった。

「それじゃあ、今日は六号室でお願いするね~。仕事中に寝ちゃダメだよ~」

 女の子の部屋は二階にあって、一~七号室に分けられている。要は七人出勤するということだ。本来ならば。早朝は昼、夜に比べて暇なので五、六人出勤に抑えることも多い。

「はい~、大丈夫ですぅ」

 言って、俺の開いた扉を通って二階へと上がっていった翠さんはあくびを噛み殺しているのが見え見えだった。

「寝るかね」

「寝ますね。間違いなく」

 簡潔な会話を交わす。やれやれ、と二人して首を振るのであった。


 午前五時ちょうど。ここから俺のタイムカードは始動する。高校生は午後十時以降から午前五時までのバイトを許されていない。なので、この時間から俺の給料は加算されていくことになる。しかし、こんな工作をして、例えば俺が高校生であることがバレたとしよう。そうなると、おそらく店長は、そんなことは知らなかった、で押し通すはずだ。責任は全て俺に降りかかる訳だ。店を守るためには店長の発言はその一言のみに限られるから。

 それがわかっていながら、何故俺はこのバイトを続けているのだろうか。たぶん、答えは単純だ。

 楽しいのだ。

 仕事自体が、という事ではない。そんなものは面倒なだけだ。そうではなくて、自分がこれまで出会ったことのない人達に会うのが楽しかった。風俗店の人事入れ替わりはとてつもなく激しい。男も女も万年人員不足のこの業界は、重役の都合でどこにだって飛ばされる。俺の知ってる中で最短は、社員になって二日で地方へと飛ばされた人だった。飛ばされた、という表現は正しくないかもしれない。売り上げの伸び悩んでいる店の方が、活躍の場は多い。その分、店売りを伸ばせば注目は自然と集まってくる。

 そんな、一縷の望みを持ってこの世界に足を踏み入れる人々なのだ。自然と社会的挫折者は増えてくる。元サラリーマンといっても幅は広い。化粧品を販売していた営業職の人や、有名ゲーム機の設計を担当していた技術職の人。そんな知らない世界の話を聞くことは何よりも楽しかった。

 目の前でぼ~っとテレビを見ている山元さんに至っては、数年前まで裏カジノのディーラーをやっていたらしい。ブラックジャックの必勝法、ルーレットの球が回る初速と終速、イカサマのやり方、日給が百万円だった頃の話、時には眉唾モノと思うような事もあったが、どれも俺にとっては新鮮すぎる話だった。

 同級生の全く知らないだろう世界を俺は知った。一握りの優越感と、そして何より、力を持ったような気がした。大人だ、成長したなどと嘯いても、結局俺たちは一介の高校生に過ぎない。大学生や社会人からすればまだまだガキだと言われても、反論の余地は虫の息だ。

 だからこそ、嬉しかった。

 大学生や社会人でもほとんど知らないようなことを知れたことが、俺に力を与えていると信じていた。社会を生き抜ける力を身に付けていると、俺はそう思っていた。

 ――――――昨夜までは。

 所詮、そんなものはガキの戯言、思い込みだったのだ。

 俺なら何とか出来る、そう思って打ち明けさせた美奈の苦悩は、俺の手には遥か遠く、その距離すらつかめず、必死になって腕を伸ばしてみても、見つけられるのは自分の手だけだった。

 俺は山元さんが奢ってくれたブラックコーヒーを一口飲んで、自嘲的な笑いを浮かべた。

「冷めとんのぉ!」

 不意に、山元さんが不機嫌そうに言い放った。

 確かに。もう五時過ぎにもなるのに客が一人も入ってこない。客足は見事に冷めている。まぁ、良くあることなのだが、それはつまり、彼が不機嫌になるのも良くあること、ということだ。

「そうですねぇ。あっ、電気点けますね」

 適当に返答して俺は背面に設えられたスイッチを押す。これは外の看板の電気だ。風営法では風俗店の営業終了は夜十二時(男子従業員はその後、部屋の掃除などで帰宅は二時近く)。営業開始は日の出から、となっている。つまり、電気を点けた今からが営業開始となるのだが、気の早い客などは、男子はいるが女の子は二、三人しか出勤していない四時~六時の間に入店したりするものだった。

 だが、今日はそんな気合いの入った人は一人も来ていない。

 こんな日は総じて決まっている。暇だと。

 『リスト表』と呼ばれるA2の用紙を山元さんは唸るように睨んだ。

 主に俺たちの業務はリストとホールに分けられる。リストは店の心臓部とも呼ばれる場所で、今、山元さんの座る作業机がそうだ。山本さんの目線上の壁は一辺約一メートルの正方形型にくり抜かれ、待合室が見渡せる受付窓となっている。彼は客をどの女の子に付けるか、コースは何か、女の子のバック、店の売上、客が部屋に入った時間、出る時間、それら全てをリスト表で管理しているのだ。覚えれば単純な作業なのだが、一つのミスが数万円の損失になるため、出来れば俺は座りたくない。山元さんは何故か事あるごとに座らせようとしてくるが、出来るだけ断っていた。

 ホールは、受付をする。ただそれだけだ。これも中々難しいのだが、まぁ、それはおいおい――――――。

「ピンポーン」

 と安っぽい音がした。それと同時、俺はとっさに椅子から立ち上がり、木製のドアを開けてホールへ、そして三歩で外へと繋がるガラス張りのドアを開く。

「いらっしゃいませ!」

 扉の前に立っていたのはおよそ三十前半と見える男だった。今日初めての客だ。山元さんの機嫌も悪くなり始めているし、何としてもこいつを逃がすわけにはいかなかった。

 俺は傍のゲタ箱からスリッパを取り出し男の目の前に置く。

「あっ、どうも。スリッパをどうぞ。ご予約はされてました?」

 冒頭の「あっ、どうも」は保険だ。この客に見覚えはないが、もし向こうが常連で俺の顔を知っていれば、この言葉一つで、―――この従業員は自分の顔を覚えてくれていた、という認識と共に俺に対する親近感が湧くだろう。たぶん。俺の顔を知らなければ聞き流すだけだ。おそらく。

「いや、予約はしてない。もうやってるの?」

「ええ。営業中ですよ、どうぞおあがり下さい」

 スリッパに履き替えるように勧めるが、男は中々動かない。この堂々とした態度。十中八九風俗初心者では無いな。

「待ちは?」

 待ち時間のことだろう。

「すぐいけますよ。お部屋の準備時間さえ頂ければ。五分、十分ですよ」

「選べる?」

 面倒だな、こいつ。さっさと中に入れよ。まぁ良いか。暇だし、真摯に相手してやろう。

「今でしたらそうですね……五名の中から選べますよ。それならすぐご案内できます」

 これでスリッパを履かなければ些かマズイことになる。

「じゃあ、ちょっと見せてよ」

 ……履かないか。警戒心の強い男だ。こういう自称風俗慣れしておりますタイプは従業員の手を煩わせることが多い。なぜならあまのじゃくだから。とにかく俺達が言った言葉の逆をしたがる。右と言ったら左を向くのだ。

 こいつは出勤している女の子の写真を見るまで店内には入りたくないのだろう。仕方ない。ここは強制的に、

「いいですよ。どうぞ中の方へお入りください」

 中に入らなければ写真は見られないんですよねぇ。そんな雰囲気を俺は前面に押し出す。さぁ、どうするおっさん? 俺は知ってるぜ。あんた、ヌキたいんだろう? スリッパを履くことと、性欲、天秤に掛けてみろ。勝つのはどっちだ?

 おもむろに男は靴を脱ぎ始めた。ふぅ、と俺は一息つく。やっと第一段階突破だ。

「靴はそのまま置いといて下さいね。こちらでやりますので」

「おう、どうも」

 男はスリッパを履いて、ホールの中に入って行った。そこは病院の待合室のように簡素な造りだ。フローリングの床に、四人掛けの背もたれ椅子が同じ方向を向いていくつか置いてある。その先には四十二インチのテレビが一台。壁際に漫画を敷き詰めた本棚が一つと、雑誌(パチンコとエロい系ばかり)を置く棚が一つあった。

 客は椅子に腰かけず、部屋の中をうろちょろしていた。目触りだったので「どうぞ、おかけください」といって無理やり座らせる。人間、一度座れば立ち上がりたく無くなるものだ。この状況が第一段階、ステップ1であり、問題はここからだ。

 俺はラミネートされたA4サイズの料金表を持って腰掛けた客に近づく。

「失礼します、お客様。コースの方はどうなさいますかね?」

 さりげなく、訊く。この時点で女の子の写真は見せない。いや、見せられない、と言った方が正しかった。金を貰う前に出勤メンバー(女の子)を公開する行為、『先見せ』と呼ばれるそれはこの店では原則禁止とされていた。

 つまり、完全前金制であり、出勤メンバーを見てからの返金、キャンセルは承れないということになる。俺はどうしても写真を見せる前に、この客から金を受け取る必要があった。

 料金表を客の眼前に料金表を差し出す。

「大体、選ばれるのは四十分のコースが多いですかね。六十分以降はローション付きになってオススメですけど」

 三十分のコースもあったが、安物のコースだと、これまた山本さんの機嫌が悪くなるので俺は説明を省く。

 というか、こういう色々な店を回る、浮気性な客は決まって、

「四十分で」

 この通り、料金表の上から二番目のコースを選ぶのだ。一番上の最短コースだと時間がギリギリになるのはどこの店でも一緒なので、二番目に安いこのコースは選ばれる事が多い。

「どうも、ありがとうございます。では、指名されたいとの事ですので指名料千円と合わせて一万四千円頂きますね」

 ここが正念場だった。もし今、この客が財布の紐を緩めずに、写真を先に見せろなどと言いだしたなら状況は些か厳しくなる。そして、悲しきかな、その可能性は高い。この男の警戒心からして、石橋を叩きまくるタイプだと判別出来るからだ。正直、今の状況なら指名料など払わずに『女の子おまかせ』で遊んだ方が良い女の子で案内する事が可能なのだ。それに気付かないのはこの男が風俗上級者だと思いこんでいるだけの中級者だから。この店の場合、本当の上級者ならまずはスリッパの入った下駄箱を見る。この下駄箱には蓋が付いておらず、スリッパの個数、靴が幾つ入っているのかで何人の客が遊んでいるのか、誰でもパッと見でわかる。

 そして、店側の心理は一つ。かわいい女の子を優先的に稼がせたい、だ。

 つまり今、下駄箱に入った靴は一つ、待合にいる人間が一人の状況でさらに、開店したばかりという事実を考慮すれば必然、『おまかせ』でも出勤メンバーの中で一番人気の子に当たる、というのは自明の理なのだ。

 まぁ、男に今この事実をつらつらと述べたところで、あまのじゃくの彼は納得などしないだろうが。

「写真は? 先に見せてよ」

 案の定、男は出勤メンバーを見る事に拘泥した。仕方なく、俺は正直にこちらの不都合を伝える事にする。

「あ~、すいません。それは出来ないんですよぉ。お金を頂いてから見てもらう事になってますので」

「あっ、そうなの?」

 にわかに不満そうな顔を見せる男。これはマズイ。典型的な「じゃあ、今日はやめとくわ」などと言いだすパターンだ。今日は、だと? 一生だろうがクソ野郎。

「でも、この街では一番値段の高い店になってますので、出勤メンバーを見られてから、う~ん、良い娘いないなぁ、とかは無いと思うんですけどねぇ」

 これは事実だった。この店は一応、全国でも有数の売り上げを誇る老舗なのだ。風営法により改装出来ないボロボロの内装がそれを物語る。

「いや~、でもなぁ」

 尚も悩み続ける男。優柔不断なやつだ。何ともウザいタイプだが、ここでめげる訳にはいかない。

「まぁまぁ、考えてみて下さいよ。先見せしないとなれば女の子の顔出しも増えて選び易くなると思いません? やっぱりこういうお店だと彼女たちもプライバシーとか気にされますからね」

「ん~、確かに。でも――――――」

「その分、写真に修正とかは一切かけてませんので。店の前に堂々と写真を掲げてる店なんておかしいと思いません? 万が一知り合いが、まして家族が通りがかったらどうするんですか? やばいでしょ~」

 返答する暇など与えるものか。何としてもこのまま押し切る。

「そういうのは修正して本人だとわからないようにしてあるから出来る事なんですよ。それを考えると、お金を頂く前に写真を見せられないというシステムが確立されるのはやっぱり必然になってきちゃうんですよねぇ。修正をかけないとなると」

 男の表情が少し和らいだのを俺は見逃さない。ここでトドメの一撃が欲しい。この男はやっと心の鎧を一枚ほどいてこちらの言葉に耳を傾け始めたのだ。

 俺はチラリと、受付窓からずっとこちらを眺めていた山本さんに視線を送る。彼は俺の無言の懇願に目だけで頷いた。ゆっくりと、丸い頬を動かして、湯亜のそれとは威厳の違う関西弁を放つ。

「お客さん。ぶっちゃけ、今ならこっちにまかせてもらってもかなり良い娘でいけますよ。この時間帯は正直暇なんでね。やっぱり良い娘から稼がせてやりたいんですわ。指名料払うの勿体無いでしょ」

 山本さんのこの台詞は先刻、俺が言っても無駄だと判断した言葉だったが、彼が言うとなればその価値は大いに異なる。童顔とはいっても俺と比べれば明らかに一回り歳が上で、しかも椅子に踏ん反り返るその姿は見るからに上司然としていた。客からすれば、想定外の人間が登場する事による思考力低下、店の全てを把握しているように見えるその堂々とした態度には絶大な説得力を感じるだろう。さらには一般人を圧倒する彼の体格により無意識の恐怖が植え付けられ、この会話自体を早々に切り上げたい心理に駆られるはずだ。たぶん。そう信じたい。

 そんな俺の思いが通じたのか、

「そこまで言うなら………」

 未だ迷ってはいるが、という心境がミエミエの男。だがしかし、オズオズと差し出された紙幣を受け取らない俺では無い。

「では女の子はおまかせ、という形でよろしいですね。指名料はいりませんので千円はお返しさせていただきます。それではすぐのご案内になりますのでお手洗いをお済ませくださいませ」

 早口で捲し立てた俺は、もう文句等は受け付けませんので、という意思表示を込めて、男に背を向けた。彼は何か言いたげだったが、口に出来る言葉を思いつかなかったのか、所在無さ気にその目をテレビへと移した。

 ――――――ふぅ。勝った。

 安堵の息と共に俺は受付窓に辿りつき、紙幣を差し出す。

「フリー四十分でお願いします」

「ん~。りょ~かい」

 簡単な会話を交わし、木製の扉を開け、スタッフルームに入った俺は山本さんの隣のホームチェアに再度腰を下ろす。

 すると、山本さんはニヤつきながら声を掛けてくる。

「さすがだねぇ、カバやっちゃん。手強かったのに良くオとしたよ~」

「そんなことないでしょ。決め手は山本さんの一言じゃないですか」

「いやいや。理解してあの流れを創り出せるバイトなんてそうそういないよ。接客は奥が深いからね。チャラチャラした大学生なんかより、よっぽどカバやっちゃんの方が格上だ」

 彼の褒め言葉に少々良い気になりながらも、「ハードル上げないで下さいよ。どうせ逃がしたら真逆の事言うクセに」と冷静に返す事が出来た自分にホッとした。一度上手くいったからといって次も、という訳にはいかない。謙虚ぶっといて損は無いだろう。

 山本さんは「そんなことないよ。カバやっちゃんが逃がすなら誰がやっても無理だ」と言って笑った。調子の良い人だ。裏社会で生きてきた割に、この人は十八歳と若い俺にも存外優しい。だからこそ一層、脳の血管がブチ切れた時の彼に恐怖を感じるのだが。

 最初の客が引き金となったのか、その後、パラパラと人が来るようになった。俺は多少苦労しながらも全てを捌き切り、途中で爆睡した翠さんを叩き起こしたりしながら、どうにか山本さんの機嫌を保ったまま時間を消化していった。

 時刻が七時を回った。この時間帯は客の最も少なくなる時間帯だった。何故なのかはわからない。出勤時間とか起床時間、徹夜で飲んでいた人の割合などが関係しているのだろうが、まぁ、考えても仕方ないだろう。来ないものは来ないのだから。

 暇なので、俺は作業机に座りリスト表と睨めっこを、山田さんは客用の新聞を待合室で堂々と読んでいた。

「そういえば、今日は『社長』、来て無いなぁ」

 不意に、山本さんは新聞に目を釘付けにしたままそう言った。

「ああ、そういえばそうですね。でも、時期が時期ですし、忙しいんでしょう」

「ふ~ん。まぁ、どうでも良いけど」

 自分で言っときながら、興味無さそうに彼は相槌を打った。

 ちなみに山本さんの言う『社長』とは、この店の社長では無い。ただの客だ。超常連で毎回ロングコース(六十分以上)、さらに、こちらの言う事を何でも聞いてくれる、店にとって都合の良い客を彼は『社長』と呼んだ(しかし、年齢によって呼び方が異なったりする。大体、見た目が四十~五十歳以上→『社長』、ニ十後半~三十代→『ボス』、ニ十歳前後の貧乏人を、蔑んだ意味で『坊主』と使い分けているようだった)

 俺の見た限り、『社長』と呼ばれる人間は十数人いたが、彼らの来る曜日というのはほぼ一定だった。なので今日来るだろうと予測出来る『社長』は一人。白い髭をたわわに実らせたおっちゃんだけだった。

「あの社長、真面目に仕事してんのけ?」

 訝しげに眉を寄せた山本さんはそんなことを言う。

「どうでしょうねぇ。椅子に踏ん反り返ってハンコ押してるだけじゃないですか? 楽なもんでしょ」

 俺もなおざりに答える。実は、その『社長』と俺は店外でもしばしば顔を合わせる関係だった。だからこそ、俺が固定シフトとなっているこの日にいつも来るのだろう。少々の値引きを狙って。そのおっちゃんはいつもロングコースなので多少の値引きは山本さんも気にしていなかった。

「ほぉ。ええのぉ」

 今度は心底羨ましそうに呟く彼。そりゃ、一か月に一回、休みが取れるかどうかの仕事をしていれば、そんな気分にもなるだろう。風俗店に定休日など無かった。

 しばし無言の時間が流れる。山本さんは新聞を、俺は広告登録サイトの更新に(いそし)しんだ。

 数分後、新聞に顔を隠した彼が吐き捨てるように静寂を破った。

「暴力団撲滅を宣言、クズどもに粛清を、やと。けったいな事言う政治家がおるもんやのぉ」

 ドクン、と俺の心臓が撥ねた。そんな過激な言葉を躊躇なく言い放つ人間に一人、憶えがあった。

「おおう! あいつ、捕まりよったんかいな! ……ホンマに、裏の人間には厳しい世の中やのぉ」

 どうやら彼の知り合いがその政策でお縄になったらしい。その割に全然悲しそうじゃ無いのが気になるが。

「この夜咲とかいう議員、大分調子乗っ取るなぁ。風俗も厳しするとか言うてるやんけ」

 何気なく流れた言葉に、俺は過敏に反応する。夜咲、夜咲………やはり、あいつか。

「………その夜咲って議員、近親相姦してますよ」

 自然と、そんな言葉が口から零れ落ちた。

「ほぉ。そうな………ん?」

 山本さんはそこで初めて、新聞から顔を上げてこちらを見る。

「そいつの別荘がこの街にあるの知ってます? 岩重市を北に上がった所です。そこに夜咲の娘が住んでるんですよ。県立岩重東高等学校三年、クラスは四組、下の名前は美奈」

 スラスラと、言葉が滑り出てきた。

「風俗で働いてる、と言ったら相談されましたよ。月に数回、別荘に来る父に犯されているんだけど、どうしたら良い? って」

 諦めたら良いよ、と昨夜俺は答えたのだった。

「なるほどなぁ。それは警察に言うしか無いやろのぉ」

 山本さんは大して驚いた風も無く言った。風俗で働く人間なら良く聞く話だった。

「そうですよね………でも、残念ながら彼女はそんな父でも愛しているみたいですよ。夜咲が生き甲斐にしている社会的地位を取りあげたく無い、という理由で警察に行く事を拒否。地獄は絶賛進行中という訳です」

 しゃべりながら、自分の心が不思議と静かな事に驚いた。悲しみも、罪悪感すらもない。苦痛を締め出すために、無意識で脳がその辺の思考をカットしているのかな、なんてことを思った。

「……それ、カバやっちゃんの連れか?」

 半分確信した口調で彼は顔を顰める。

「ええ。友達です。たぶん、山本さんも見たことがあると思いますよ。俺達、四人でいつもツルんでるので。街中で時々ばったり出くわすじゃないですか。その時の一人です」

 彼はしばし思案顔になる。

「……もしかして、あの長身の娘か?」

「そうです。そっちです」

 夏弥を長身と呼ぶ人間など、めったな事がない限りいないはずだ。

「その娘やったら覚えとるわ。あれは確かにべっぴんやったのぉ。てっきりカバやっちゃんの彼女や思うてたわ」

「いやいや。全然違いますよ」

 さすが風俗店員。女を覚えるのは早いな。彼はおそらく無意識の内に金になる女かどうかを判別していたのだろう。一種の職業病だ。

「そうかぁ。それやったら大変やのぉ。何とかせなあかんなぁ」

 山本さんは新聞を畳み、待合から従業員室に入ってくる。

「……何とかしたかったんですけどね。中々、厳しいです。本人に父親を貶める覚悟がないので、警察に言っても意味がないですし」

 これは、言い訳だ。責任を転嫁するための、最低の言い逃れ。今になって尚、胸の罪悪感を消そうと躍起になっている自分が滑稽だった。

「何とか証拠を掴もうと思って、カメラを持って別荘に忍び込もうとした時もあったんですけどね。さすがにセキュリティが抜群でした。庭だけで監視カメラが八つ。屋外用空間センサは十数個。玄関は指紋認証で二重扉、窓も二重。警備員は常時二名以上配備。夜咲がいない間もそんな感じですから、素人の俺には手の出しようもなかったですね」

「……カバやっちゃん、ジブン、結構大胆やな。それ、実際にやってたら立派な犯罪者だよぉ。ホンマに、怖いわぁ。ヤクザやなぁ」

「山本さんにだけは言われたくないですよ」

 おどけた顔を見せる彼に対して肩をすくめる。

「いやぁ、実際、俺なんかよりも追い詰められた人間の方が遥かに怖いでぇ。何するかわかったもんじゃない。……カバやっちゃん、そう簡単に『こっち側』に足を踏み入れるのは感心しないねぇ。まずは合法なとこから攻めていかないと」

「合法って……そんな方法があるんですか?」

 やれることは全てやったつもりだった。法律だって調べたが、結局美奈自身がそれを認めなければどうしようもなかった。そうしなければ警察は動かない。

「カバやっちゃんに足りんのは、夜咲本人と一対一で闘う覚悟やと思うで。ジブン、いつも自分自身を過小評価するやろ。今回も、『俺はガキやから政治家なんかには勝てへん』、そう思たんちゃうか? せやろ? ほらその顔、図星や。カッカッ、わかり易いのぉ。そんなやからあかんのや。ええか? わざわざポリなんかに頼ろうとすんな! まずは自分でその男を潰そうとせんかい! 狡い真似せずに、堂々とな」

「でも、どうやって――――――」

「簡単や! 本人に言うたったらええねん! 『おっちゃん、娘を犯すのはどんな気分や?』ってな。シンプルな脅しや」

「そ、そんなこと――――――」

 証拠も無いのに………と反論しようとして、気が付いた。

 違う。証拠なんていらないんだ。それは間違うことなき真実なのだから。それを知られることはどんな形であれ、社会的地位の高い者ほど恐れるはずだ。言葉に根拠など無くとも、自分の積み上げてきた人生が崩れさる、その可能性に恐怖するはずだ。

 何故こんな簡単な事に気が付かなかった。……それも簡単だ。俺自身が夜咲本人と関わりを持つことを恐れていたから。まだ成人もしていない俺が勝てる人間ではないと、勝手にそう思い込んでいたからだ。

 大馬鹿野郎だ。勝手に思い込んで、諦めて、心を殺すことばかり考えて、折り合いをつけて、それが大人なんだと、勘違いしていた。

「まぁ確かに、カバやっちゃんの若さなら相手がツケあがる可能性もあるけどなぁ。情報源(ソース)が娘やとすぐわかってまうのも興醒めや。その点の認識は正しい。やったら、封書にして送ったらええんちゃうの?」

 少し考え、彼の意見を理解する。

 匿名の手紙として、同じ台詞を夜咲に送りつければ、先方は大いに動揺するだろう。何故秘密が知られたのかも、誰が知ったのかも、奴にはわからない。後は夜咲の脳が妄想して勝手に恐ろしい敵を創り出してくれれば御の字だ。だがその場合、美奈の周囲には綿密な調査が入るだろう。俺だと知られないためには彼女と少し距離を置く必要があるかもしれない。……いや、何をまたビビっているんだ俺は。バレたって構わない。その時こそ、夜咲と正面から戦うべきなのだ。

 俺の中で結論が出たことに気付いたのか、山本さんはゆったりと煙草に火を点けた。まるでこんな相談など今までいくらでも受けたことがあるようだった。いや、実際そうなのだろう。店の女の子でも同じような問題を抱える娘はいくらでもいるはずだ。彼にとってはこんな話などただの日常なのだろう。

「それにしても意外やなぁ。店の女の子に対する接し方見てたら、カバやっちゃんは女に人生を左右されるタイプやないと思うてたわ」

 彼の口調に少し失望の色が含まれていることに俺は気付いた。

 実際、店の中には美奈のように裏を持つ女の子が大勢いる。本日出勤の翠さんにしたってそうだ。このまま放っておけば彼女の人生は惨憺たるものになるだろう。そんな事実から俺は目を逸らし、一定の距離を保つことで無関係を維持してきた。

 知ってはいるが、知っているだけ。

 それがこの店での俺のスタンスだった。そして、店の売り上げを一番に考え、余計な面倒を避けるためには、その思考が最も大切だった。

 だが、それとこれとは、話が別だ。美奈から目を逸らすには、俺はあいつに近づき過ぎた。これ以上、視界の外に追いやろうとすれば、首の骨が折れちまう。

「俺も、そう思ってたんですけどね。やっぱり、身近な人間がそうなると、辛いですよ」

 自嘲的な笑みを浮かべて、そう告げた俺を見る山本さんの目は、以外にも優しかった。

「まぁ、それが当然やわな。よう考えたら俺も相手がカバやっちゃんじゃなかったら、こんな真剣に話なんて聞かへんからな。カッカッ、やっぱ身内は大切にせなあかん、いうこっちゃ」

 豪快に吠えた彼の笑顔は心地よかった。本当にこの人は、元イカサマ師なだけあって人心を掌握するのが巧みである。俺はたぶん、この人を尊敬してしまっているのだろうなと、感じた。危険な人なんだけどなぁ。これもわかっちゃいるが、わかっているだけのこと。

「ピンポーン」

 間延びした音が、彼の笑い声を止める。

「おっ、客や客! すぐに行きますよ、とぉ」

 どっこいせ、と巨体を持ちあげた山本さんは小走りでガラス張りの扉へと向かう。

「はい、どうも。いらっしゃい――――――」

 ふと、彼の言葉が止まる。一瞬、不機嫌そうに顔を歪ませた山本さんはホールから俺の顔を見る。

 ん? なんだ? 山本さんが開いた扉から現れた奴らを見て、俺はその理由を知る。

「かっばやっきく~ん! いるか~い?」

 桐矢だった。他、取り巻きが三人。どれも、出勤途中で見た奴らばかりだった。

 彼らは無礼にも山本さんの置いたスリッパを無視して、靴のままズカズカと侵入してくる。俺は山本さんの眉間の血管がビキッと音を立てたように聞こえた。

 マズイ。これは非常にマズイ。

 慌てて作業机を立った俺はホールに出る。取り敢えず桐矢達を無視して、山本さんがスタッフルームへ戻ってくれるように目線で促す。「こいつらは俺が何とかします」と、無言で必死に訴える。

 僅かばかりの理性が彼にも残っていたようで、荒々しくも、山本さんはホールを後にして、作業机へと腰掛けてくれた。そんな凍えるような空気が流れていることに、どうやら酔っ払っているらしい桐矢達は気が付く様子もない。

「おおう! かっばやきく~ん! ひっさしぶり~……ってまだ数時間しか経ってないかぁ。タッハハ!」

 無駄に大声で騒ぐ桐矢に俺は苛立ちながらも、どうにか彼らを山本さんから遠ざける。というかズケズケと中に入ってきた桐矢を外へと押し戻す。

「何しに来た」

 不機嫌さを隠そうともせず、俺は問う。

「そりゃ、もちろん、ヤりに来たに決まってんだろぉ! かぁいい子、つけてくれるよなぁ!」

 顔を赤くした桐矢はいつになく高圧的だったが、今更そんなものに怯む俺ではない。

「金は? 持ってるのか?」

 それが一番重要な事だ。金のない奴に俺達は価値を見出さない。

「いまぁ、全員で二万あるからぁ、それで良いよなぁ?」

 ポケットから万札を二枚、無造作に取り出した桐矢はそいつをヒラヒラと振って見せる。

 おかしいな、と俺は思う。出勤時に見たこいつ等の様子を思い出す。散らばったゴミから判断すると、彼らは一つのカップ麺を四人で啜っていたようだった。空の容器に箸が四人分入っていたのだからまず間違いないだろう。こんな金があるようには見えなかったのだが。……もしや、こいつ――――――。

「お前、どうやってその金手に入れた?」

 自然と、詰問口調になる俺。

「はっはぁ! 大通りで爆睡してた酔っ払いがいてさぁ! そいつの財布にたんまり入ってたぜ! つーか、そんなことより早く中に入れろよ!」

 俺を押しのけて店内に入ろうとする桐矢を腕で制する。

 それを見た取り巻きの一人が勢いに任せて声を張り上げる。

「ぁあ? なんだよ、てめぇ! 調子のってんじゃねぇぞぉ!」

 その台詞、利子つきでお前に返してやろう。

「ニ万じゃ最短コースでも四人分には足りないんでね。お引き取り下さい」

「はぁ!? 客に向かって何デカイ口きいてんだこらぁ! コロスぞぉ!」

 これまた別の取り巻きの言葉。なんとも安い『殺す』だな。

「落ちつけよお前ら。なぁ、かばやきく~ん、いつも安くしてくれてるじゃん? 今日もしてくれるよな? な!?」

 ほとんど命令口調で吐き捨てる桐矢だったが、残念ながら万物は流転するものなのだ。今日の早朝売り上げノルマはすでに達成されている。最短の一万円コースを半額にするなど山本さんが許すはずもない。

「無理だね。諦めて帰れよ。もうすぐ学校も始ま――――――」

「おーい! 蒲焼く~ん! 無理とか言ってんじゃねぇよぉ! 俺が安くしろっつったら安くするんだよぉ!」

 挙句の果てに桐矢は俺の襟首を掴んで怒鳴り始めた。やれやれ、野蛮だ。

 と、余裕ぶってみても正直、桐矢が微塵も怖くないといえば嘘になる。殴られるのは痛いし、嫌いだ。必然的にそいつをもたらす相手は怖い。

 だが、残念ながら俺にはそれよりも恐怖するものがある。

 面倒をかけて、山本さんに嫌われたくは無いのだ。

「ここで働いてんのが学校にバレたらお前どうなるかわかってんのか、コラァ! どっちの立場が上かさっさと気付けボケぇ!」

 良くて停学。順当にいって退学、てとこだな。バレたら、の話だけど。

「何と言われようが無理なものは無理なんだよ。諦めろ。何事も諦めが肝心だと、俺はそう思うぜ」

 今だけ、な。

「お前………俺がチクらないと思ってんのか? こっちは脅しじゃねぇぞ!」

 あら、そう。なら良い加減こっちも手札を見せてやろうか。

 俺はスラックスのポケットから長方形の小さな物体を取り出す。USBメモリだった。

「さて、この中には一体なんのデータが入っているでしょうか?」

 バカにしたような口調で告げる俺。

「はぁ? んなもんどうでも――――――」

「桐矢。お前、酔っぱらって寝てる人間から金をパクッたの、今日が初めてじゃないだろ?」

 俺の発言に喉を詰まらせる桐矢。どうやら図星のようだ。

「加えてカツアゲはもちろん、スリもやってる。ああ、そうそう。この前はナンパまがいの手口で女をトイレに連れ込んでたっけな。良くやるよ。しかも最後は股間を蹴り上げられて取り逃がしてる。さすがに笑ったよ。ん? 知らないと思ったか?」

 俺が一言告げる度に桐矢の眉が様々な方向に曲がる。面白いものだ。

「そ、それがどうした! 証拠なんて―――」

「どっこい、ここにある。USBの中にな。ついでに家のパソコンにもデータが入ってる。俺がお前に弱みを握られたままオメオメと引き下がる訳無いだろう。何度か自分の跡をつけられている感覚がしなかったか? なにせ俺も素人だ。バレやしないか心配だったよ」

 ハハハ、と乾いた声で俺は笑ってやった。

「う、嘘を吐け!」

「嘘じゃないさ。試しにララちゃんにでもこのUSB、渡してみようか? きっと面白い事になるぜ?」

「っ」

 桐矢は息を飲んでUSBを見つめる。取り巻き達も同様だった。桐矢といつも一緒にいるのだ。自分が映っている可能性は大いにあるだろう。

「さて、立場が何と言ったかな? もう一度言ってみろよ。…………これでわかったろう? ここで遊びたいのなら正規の金を持って来い。もう値下げもしない。とにかく今日は帰って――――――」

 おもむろに、桐矢の右手が後ろに引かれるのを見た。

 ……殴る気だ。

 ちっ、これだから若い客は嫌いなんだよ。少しは感情を抑えてみせろ。とは思ってみても、最早どうする事も出来ない。一発くらいは仕方ないか、と薄く目を閉じる。

 数秒後、俺の頬に痛みは無かった。

 代わりに「バシンッ」という花火が弾けるような音がした。

 瞼の隙間から覗いた景色に映っていたのは、俺の顔面を容易に鷲掴み出来るであろう、丸みを帯びた大きな手だった。

 恐る恐る目を開いて、その手の根元へと視線を泳がせると――――――。

 ……うひぃ。

 俺は心臓の震える音を聞いたような気がした。

 沈黙すらも逃げ出す静寂におののいて、俺の中枢機関が脈打つ事を拒絶している。音を出すなと、必死に願っているのに、ドクンドクンと早鐘のように鳴る、鳴ってしまう、その事実に、魂がガタガタと震えていた。

 ……要はそこに、何かがプッツリ切れた、山本さんの顔があったということだ。

 不意に、俺は自分の胸倉を掴んでいた桐矢の腕から力が抜けるのを感じる。

 ゆっくりと、腕から脱して、一歩その場を離脱したとき―――――――。


「おい坊主!!! さっきから何をゴチャゴチャ言うとんねんコラァ!!!」


 ビクンッと、若者五人の体が跳ねた。もちろん、俺も含まれている。

 威圧感が段違いだった。これこそまさに、蛇に睨まれた蛙。先程まで威勢良く喚き散らしていた桐矢だが、山本さんを見つめる彼の腰は小さく引け、その瞳には誰が見ても哀れましい程の脅えが感じられた。


「貧乏人はいらんねん!!! ええ加減にせんとお前、さろう(攫う)てまうぞぉ!!!」


 唖然とその場に立ち尽くす桐矢とその取り巻き達。彼らにとってこの状況は完全に想定外だったであろう。彼らの溜まり場はコンビニ。そこで働くバイトも社員も基本的には優しいし、見た目も大半は普通だ。偶には嫌な顔をされる事もあるだろうが、それでも怒鳴り散らされることは無い。当たり前だ。大事な『お客様』なのだから。デパートも、スーパーだって、働く人間はそういう教育をされているだろう。

 だが、風俗店は違う。

 いや、全く違う訳でもないが、働き手の暴挙に関して上司が驚くほど寛容なのだ。山本さんの上司と言えば店長になるが、山本さんがキレて、それに対して店長が注意したことは俺の見る限り一度も無い。

 つまり、ここでは恐怖が必要悪なのだ。

 最初から最後まで人と人が直接関わるこの業界で、対人問題は付物だ。というかほぼ百%だと言っても過言ではない。そして正直な話、店側は客側に比べ、法的に圧倒的弱者なのだ。どれだけ工夫してもグレーゾーンでの営業が固定されているため、裁判などの目立つ行為は極力避けねばならないし、もちろん、警察など素直に信用することが出来ようはずも無い。余談だが、風俗店員は銀行の融資すら受け取れないのだ。

 そんな彼らが導き出せた答えは一つ。

 自分の身は自分で守れ、だ。お客様は宝物? 笑顔はプライスレス? はっ! ふざけるなよ。客は最大の敵。受け付けは闘いだ。笑顔は金を貰う為の武器。タダで微笑む男も、まして女など、いやしないのだ。

 桐矢達にはそれが理解出来ていなかった。客の立場から知らない彼らには当たり前の事なのかもしれないが。

「お、おい、おっさん! あんた誰に口訊いて――――――


「ああ!?」


 なけなしの勇気を振り絞って反論を試みた桐矢だったが、山本さんの一言に割りこまれて沈黙へと帰還する。

それを見た山本さんは気だるそうに声量を落として、しかし、棘は持たせたまま告げる。

「さっさと帰らんかい、坊主どもが!」

 彼は扉の外を顎で指し示す。

 言われた桐矢は一瞬こちらに目を移したが、俺は肩を竦めてその目線に応えた。今更俺に救いを求めてどうするというのか。

 それでようやく諦めがついたのか、彼は取り巻き達と一緒にスゴスゴと立ち去っていった。

 帰り際、イタチの最後っ屁とばかりに盛大に舌打ちを放った桐矢だったが、そいつは低空をひた走る山本さんの沸点を楽勝で越えてしまい、怒鳴られながら逃げるように早朝の街へと消えて行く彼らであった。一抹の同情すら抱いてしまう光景であった。

「はぁ、やれやれ。ホンマにジャリガキ共は腹立つのぉ」

 スタッフルームに戻った山本さんは怒り冷めやらず、といった具合で椅子にドカッと腰掛ける。

「すみません。余計な迷惑を掛けました」

 謝罪の言葉以外に選択肢を持たない俺である。

「いいよ、いいよ。カバやっちゃんの所為じゃないしな。学校で何かあったら言いや。すぐ唸りにいったるから」

「それは、たぶん大丈夫だと思うんですけどね」

 桐矢の怯えようを見ていた俺はそんな心配をする必要など無いだろうと思えた。

 それから一時間、俺達は何事も無かったように通常業務を遂行した。というか実際、山本さんにとってはこのような事すら日常茶飯事で、記憶に留めるほどの出来事にすら成り得なかったのだろう。あくびを噛み殺す事にばかり意識を使っているのが窺えた。

 時刻は八時過ぎ。俺が学校の制服に着替えようかどうか迷っているときに、従業員用の扉が開いた。

「おはようございま~す」

 間延びした独特の声音で登場したのは、これまた大柄な男だった。身長は山本さんにやや劣っているが、脂肪では無く筋肉で構築された巨体は触れるのも憚られるほどの暴力さを孕んでいた。

「あっ、石山さん。おはようございます」

 俺は椅子から立ちあがって深々と頭を下げる。

「……お~、カバやんじゃないの~。久しぶり~」

 石山さんはぞんざいに手を振って言った。三十代とは思えないその軽やかな動きは山本さんの気だるげな雰囲気と対照的だ。

「あっ、山本くん。コーヒー代下さいよ」

 言うが早いか、勝手に山本さんの財布を開いて小銭を漁りだす彼。

「おい、ちょっ………まぁ、いいんだけどぉ」

 苦笑いで彼の行動を許容する山本さん。この二人は何年も前から知り合いだそうで、年下なのに山本さんと対等に渡り合えるのはこの店では石山さんのみだった。

「じゃあ俺、そろそろ上がりますね」

 時計を確認しながら俺は二人にそう告げる。制服に着替えて学校に行くとなると、結構ギリギリの時間だった。

「おう、カバやっちゃんお疲れ」「おつかれ~」

 二人に頭を下げ、俺は誰もいない女子ロッカーで着替えを済ませ、裏口から店を出た。制服を着たままこの店から出てくる所を見られるとさすがにまずいので、このときだけは入念な注意を払った。

 人通りの全くない路地裏から空を見上げると。カラッと晴れた青空だった。

 どこまでも深みを帯びたその色は、目を凝らせば地球の外側まで見通せるような錯覚をもたらした。

 寝不足で疲れた目が、ゆっくりと癒えて行くのを感じた。

 自転車に跨った俺は、体重を乗せて思い切り力を込めた。

 途中のコンビニで、ざら紙と封筒を買わないとな、と思いながら。


 ~ どこまでも素直な彼 ~

「山本くん。僕、ヘルミアのレンジが欲しいんやけど~」

「いやいや。買ったってどうせ使わんやろ」

「使うって~。というか僕、もうすぐ誕生日だわ~」

「……しゃあないなぁ。カバやっちゃんにネットで注文させるわ」

「さっすが~! ありがと~!」

 石山さんはバシバシと山本さんの背中を叩いたそうだ。その話を聞いた俺は語り手の社員と共に身を震わせた。


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