買い物しよう
時は遡り、昼下がりの午後三時付近。昇達が学校から帰宅し、ランドセルを背負った見知らぬ先住民とイザコザを繰り広げていた頃。
雛芥子沙織はデパートメントストアの地下一階、生鮮食品売り場にいた。
右手から下げた買い物カゴにはすでに、大売り出し中のジャガイモやらニンジン、はたまた生活雑貨などが山と積まれている。
(ふん、ふふん、ふ~ん。きょ~おうは、さいふぅがあったかくて~、いぇあ~)
オリジナル曲『音程なんて関係ねぇ』を心中で遊ばせながら、沙織は更なるお買い得商品を物色する。春はじめ、四月初旬、人や物の動きが盛んになるこの時期は良いモノが通常よりも安く買える。物心ついた頃から、家事を一手に引き受けていた彼女にとっては当に天国のような季節だった。
(あの家、モノが少なすぎるんだよね。なんで、食べ物の備蓄がお米しかないの? 生活必需品も予備がほとんど無いし。これだから男の子ばっかりのおウチってやんなっちゃう)
プンスカと、一人むくれた彼女は心無し地面を強く踏み締めながら、食品群の中を闊歩していた。
と、そこで、
「ぃひゃ……!」
脳内で文句ばかり呟いていた沙織は、視界がおろそかになっていたのか、棚に陳列した商品を眺めていた人物に衝突してしまった。
沙織は尻もちをついて倒れる。慌てて顔を上げると、そこには面食らったように目を開く女性の姿があった。
(ホッ。女の人だったんだ。よかったぁ。男だったらどうしようかと思………ってそんなこと考えてる場合じゃないし! 早く謝らないと!)
沙織は慌てて立ち上がり、目の前の人物に対して頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。考え事をしておりまして、つい………」
少し上ずった声で述べる沙織であったが、彼女にしては良くやった方だろう。これで相手が男であったなら、こうも簡単に謝罪の言葉を口にすることは出来なかったはずだ。
果たして、その誠意だけは伝わったようで、ぶつかった女性はにっこりと、嫋やかな笑みを顔に浮かべる。その笑顔が予定外に美しく、まるで雑誌の表紙のように鮮やかだったため、紗織は一瞬、呆然と立ち尽くすことになった。
「こちらこそ、ごめんなさい。避けきれなくて。………と、それよりも、早くこっちを拾わないといけないわね」
言って、女性が目を移した先には、沙織のカゴに詰め込まれていた商品が乱雑に散らばっていた。
「あぅわ! や、やばい……」
周りを見回した沙織は、そこで初めて事態の深刻さに気付く。横倒れして地面に転がったカゴの中身は半分ほどもセラミックタイルの床に飛び出してしまっていた。遠くからこちらを見つめる店員さんの視線がものすごく痛い。
急いで身体の硬直を解いた紗織は片膝をついて、散らばったものを掻き集める。あろうことか、迷惑を掛けてしまった女性にも手伝ってもらい、彼女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と呪文のように唱えることとなった。
数分後、荷を積み終わった沙織は女性にお礼と謝罪を繰り返して、逃げるようにその場を立ち去った。何とも情けないことである。
(う~。やっちゃった……。はずかし~……)
頬をほのかに染めながら、彼女はそんなことを思う。
しかし、わたしがこんなことになった元凶はあの非常識なほどに何も無い引っ越し先が悪いのだ。引いてはあの家に住む男達が悪い。これだから男は嫌なのだ。と、そう考え直し、思考をトランキライザーとして沙織は平静を取り戻すことに成功した。
かといって、このままゆったりと買い物を続ける気分でいられるはずもなく、彼女は早々にレジへと向かい、帰路に着いた。
そして、デパートを出て数十秒後、沙織は自分の犯した、もう一つの過ちに気が付く。
「………お……おもい………」
一人、そんなことを呟くのも無理はない。沙織の両手にはそれぞれ二袋ずつ、パンパンに詰め込まれたレジ袋が握られていた。
実のところ、(買いすぎじゃね? これ)という疑問に買い物中盤くらいから頭の隅をチクチク刺されていた彼女なのだが、朝方、蒲焼(親父)に頂いた、生来見たこともまして握ったことも無い程大人数の福澤諭吉閣下に圧倒されて、いつもなら悩んだ挙句棚に戻していた商品もついついカゴに放り込んでしまったのであった。
(自分用の歯ブラシとか、シャンプーなんて、つい買っちゃったけど、だ、大丈夫かな? 大丈夫だよね……? いや、やっぱりやばい? もしかしてやばい? 当面の生活費とか言われて渡されたし、もっと大事に使うべきだった? う~、どうしよ~。あの高校生の人……昇さんだっけ……怒りそうだなぁ。というかあの人、高校生に見えないし、ちょっと老けてるっていうか、やつれてるっていうか、心が狭そうだし………。でもでも、生理用品とかは今買っとかないと次があるかわからないし、言い出すのも恥ずかしいし、でも、その言い訳をどうやってあの人に説明すれば良いかもわからないし………)
そんなこんなで、沙織はデパートの駐車場に立ち尽くして悶々とする。
しかし、すでにレジを通してしまった事実を無にすることなど出来るはずも無く、致し方無しという心境で、細腕に渾身の力を込めて彼女はレジ袋を持ち上げた。
(う~。しゃぶい……)
名残惜しげに手を伸ばす冬の寒風に頬を引っ掻かれ、彼女はマフラーに顔を埋めることでなけなしの抵抗をする。悴みそうな手を叱咤しながら、よたよたと、そよ風に揺れる枝葉のごとく彼女は歩いてゆくのだった。
荷物を抱えてデパートを後にした沙織は早くも休憩を強いられた。舗装された道路の上にレジ袋を下ろし、血が溜まって赤くなった手の平をさすり合わせる。残った帰路の長さに彼女は辟易しながら溜息を吐いた。
そんな彼女を後方から追い越す人影。
沙織と同様にレジ袋を右手に提げ、高校の制服を着たその人物は綺麗な所作で彼女を振り向いた。
「あっ―――」「あら―――」
二人して同時に声を上げる。
それは先程沙織がデパート内で衝突してしまった女性だった。やっぱりあなただったのね、といった表情で女性は口を開く。
「ふふっ。大丈夫、それ? すっごく重そうね」
「だ、だいじょぶです! 力持ちですから!」
デパートのすぐ傍で手を労わっていた人間の言う台詞では無かった。が、焦りと驚きにより言語統御率が五十%以下にまで低下した沙織にはこれが精一杯であったと言えよう。
「あら、そうなの? 人は見かけに依らないものね」
女性はクスクスと笑った。
沙織はその姿に見蕩れた。店内に居た時は動転のあまりじっくりと見ていなかったが、今こうやって目の前の女性を見返すと、その容姿は一般人とは別格の輝きを放ち、ある種オーラめいたものすら垣間見れた。
モデルのような高身長。余裕のある涼やかな目と、一直線に伸びた鼻筋。小ぶりの口には淡いピンクの色彩が浮かんでいる。それら一つの部位、腕や脚、無造作に腰まで垂らした黒髪だけでも非の打ちどころが無く整っている。それだけでも思わずしげしげと眺め回してしまう程なのに、さらにはその各々が完璧と言わざるを得ない位置関係で配置されているのだから堪ったものではない。女としての嫉妬など頭の片隅にすら忍び込む余地はなく、ただこの世のものとは思えぬ美しさに羨望と称賛を覚えるのみであった。
「――――――じょうぶ? ねぇ、聞いてる? どうしたの?」
ハッと、意識が瞬間的に乖離していた事実に気づく沙織。見ると、整った眉を訝しげに寄せた女性が肩に手を置いてこちらを覗きこんでいた。
「えっ、あっ、ご、ごめんなさい。ちょっとぼ~っとしちゃいまして……」
人と対面している状態で呆けていたなど愚の骨頂だが、まさか、あなたの美しさに見蕩れていましたなどと、イケメン紳士のほざくような台詞をさらりさらりと口に出来ようはずも無い。
「そ、そう。ビックリしたわ。貧血かと思っちゃった……」
言って、女性はチラリと沙織の左脇に落とされたレジ袋の中を一瞥する。釣られて、無意識的にそちらを確認すると、そこには買ったばかりの生活雑貨が………。主に女性専用の……。
「っ――――――」
それの指し示す事実に気付いた沙織は、途端に顔を極限まで紅潮させる。
女同士といえど、そこは未だ中学二年生の思春期真っ盛り。ある程度の知識を持っていても、自らの身体に訪れる変化と折り合いをつけるには時期尚早なのかもしれない。恥が慣れへと移行するには時間が掛るものなのだ。
そんな沙織を慮ったのか、目前の美麗な女性は頬を柔らかく緩ませて囁く。
「恥ずかしがらなくて良いのよ。女の子だったら皆そうなんだから。……それより、この大荷物を一人で運ぶのは大変でしょう? 帰る方向も一緒みたいだし、途中まで手伝うわね」
言うが早いか、女性は食材の詰まった重い方の袋を持ち上げる。
「えっ、あっ、そんな。悪いです!」
予想外の展開に慌てて追いすがる沙織。
「良いのよ。………あっ、でも、見知らぬ人間に急にこんなことされても、それは確かに迷惑よね。う~ん、じゃあ取り合えず自己紹介しましょうか。私の名前は夜咲美奈。夜に花が咲くの咲。美しいに……そうね、訓読みで『からなし』と読む方の奈よ」
美麗な立ち振る舞いからはおよそ想像できない強引さで美奈と名乗った女性は捲し立てた。というか、からなしって何? そんなことが沙織に分かるはずも無く、?を頭上にくゆらせるばかりだった。
「あ、あの、雛芥子沙織と言います。え、えと、えと……雛人形の雛に………け、芥子の芥子……沙織の、沙織、です……」
対して、少女は残念ながら語彙が貧弱だった。
「そう。かわいい名前ね」
美奈はそう言ってさっさと歩き始めてしまった。依然、その手には沙織の荷物が握られたままだ。
(わっ、わっ、どうしよ――――――)
困惑しながらも右脇に置いてあった荷物を両手で抱え上げ、沙織は美奈を追った。
「大丈夫? そっちも持とうか?」
追いついたところで美奈がそんなことを口にしたので、沙織は守るように残り一つのレジ袋を胸に抱いて、
「だ、大丈夫です!」
と告げた。
「そう。頑張り屋さんなのね」
フフ、と小さく笑う美奈に褒められることで少女はまたほのかに顔を染める。
「あ、あの、美奈さんこそ大丈夫ですか? 自分の荷物もあるのに」
言って、沙織は美奈が最初から持っていたレジ袋を覗き込むと、半分ほどが食材で埋まっていて、沙織と同等とは言わないまでも女手に楽とは思えない量だった。
「あら、ありがとう。でも平気よ。私もこう見えて、力持ちだから」
そう告げた美奈の表情が優しげな微笑みからイタズラっぽい笑みに変わった。
かといって、沙織には巧い返しが出来るはずもなく、「あ、ありがとうございます」とお礼の言葉を述べるのが精一杯だった。
「どういたしまして。でも、食品売り場で若い人を見かけるなんて珍しこともあるものね」
「そ、その節は本当に申し訳ありませんでした」
「気にしないで。あなたは何も悪くないもの。それより、今日はどうしてあそこに? おつかい?」
「いえ。わたし、今日、母の知り合いの家に引っ越して来たばかりなんです。それで、新しい家の備品とか揃えようと思って」
「あら、そうだったの。こんないっぱいの物を一人で、偉いね」
「いえ! 全然、そんなこと……」
美奈の褒め言葉は不思議とお世辞っぽい感じが無くて、好い気になってしまう自分を押し留めるかのように沙織は首を振った。
「料理とかも自分でするの? なんだか、今日はカレーっぽいけど」
自分の手元を見た美奈が、勝手に覗いたことを申し訳なさそうにしながら訊く。
「あっ、それは、はい。結構好きなんです、料理。前の家にいた時は大体わたしがやってました。美奈さんもそうなんですか?」
会話の雰囲気から、美奈が度々デパートで買い物しているのを窺い知った沙織は、半ば答えを確信しながらそう問い返した。しかし、佳麗な女性は困ったように眉を寄せて、
「う~ん。自分で作っているといえばそうなんだけど………我が家の晩御飯を用意している、という訳では無いのよね」
と、良く分からないことを言った。
「へ? それは、どういう?」
「えっとね。どう言ったら良いんだろ………。あのね、知り合いにすごくぐうたらな人がいてね、その人、放っといたら毎食コンビニ弁当とかカップラーメンで済ましちゃうの。だからこれは家用のごはんじゃなくて、その人用。偶に時間が空いたら作りに行くようにしてるの」
「え………そ、それってもしかして………男の人、ですか……?」
そこで不意に、美奈は先刻の沙織のように頬を上気させる。終始落ち着いた振る舞いをしていただけに、その変化は沙織を驚かせた。
「う、うん。……で、でもね! 彼氏とかじゃないのよ、全然! ホントに、手の掛かる友達ってだけなの!」
慌てたように言葉を紡ぐ美奈。そんな彼女の様子に沙織は、
(か、かわいい……)
と思わずにはいられなかった。あの涼しげな瞳が今やその奥に意中の男性を映しているのか、右に左にと迷子になっている。収穫したての桃のように鮮やかに染まった頬は美奈の完璧な美しさに幼子のような愛くるしさをもトッピングしていた。
少なからず異性に対して常に嫌悪感を抱いている沙織であったが、目前の、女性の最高峰とも思えるような人物がここまで思いを寄せる人間とはどのような人なのか。かなり興味が湧く事項だった。
「どんな人なんですか?」
息咳切って沙織は尋ねた。
「えっと……そ、それはほら、あんまり知らない人のこと話しても沙織ちゃんは面白くないでしょ?」
はぐらかそうとする美奈に尚も沙織は食い下がる。
「面白いです、すごく! 聞かせて下さい」
「そ、そういわれても………」
最早沙織はその男性というよりも、美奈をあたふたさせる方が楽しくなっていた。強引にレジ袋を引っ手繰られたお返しとばかりに美奈に詰め寄る。
「その人のどこが好きなんですか!?」
「え、ええ!? だから好きとかそんなんじゃないのよ」
「むう……」
これは外堀から訊き進めていくしかないな。などと冷静に考える沙織はつまるところ、異性が苦手でも恋愛話は大好きな年相応の女の子なのだった。
「も、もう良いでしょ? ほら、沙織ちゃんには関係の無い人なんだし」
「ところがどっこい関係無く無いです。今後の参考になります」
参考にするどころか男との会話すら拒絶反応を示してしまう少女である。
「年齢はどれくらいですか? もしかして、社会人?」
美奈ほどの女性ならさもありなん、と沙織は外堀を攻め立てる。
「それはないかな。同い年だね。あっ、でもちょっと老け顔だからスーツとか着たら社会人に見えなくも無いかも」
嫌よ、嫌よと言いながらも、その人物について語るときの美奈は楽しげだった。
そんな彼女の様子を沙織は羨ましく思う。
「いいなぁ。なんか、素敵です」
「そうかしら。沙織ちゃんは? 彼氏、いるの?」
「そんなまさかぁ」
いる訳がない。そう、当たり前の話である。
「わたし、今まで男の人と関わり合いを持つ事ってほとんど無くて、最近では若干男性恐怖症みたいにまでなっちゃってるんです」
自嘲気味にそう告げる沙織。今日の朝方の事を思い出すと、チクリと胸を刺す何かがあった。転校初日、右も左もわからない沙織を中学校まで案内してくれた人に対して、彼女はお礼の一つも言う事が出来なかった。
(わたしが校舎内に入るまで見ていてくれてたし、たぶん優しい人なんだろうなぁ)
と内心では理解しつつも現実の身体は固まってしまい、口はアロンアロファで接着されたかのように微動だにしなかった。実のところ、学校が終わってから沙織が直帰せずにデパートに寄った理由もそんな情けない自分でも幾らかやれることがあるのではないか、という思いからだった。
「あら、そうなの? なんだか、ごめんなさいね」
申し訳なさそうに目尻を落とす美奈に慌てて沙織は言葉を返す。
「いえ! 全然気にしないで下さい。全部わたしが悪いんですから。それより、その人の話、もっと詳しく聞かせてください!」
「そ、それはもう良いんじゃないかな……」
「良くないです。気になります」
「う~ん。沙織ちゃん、やっぱり勘違いしてるでしょ。わたしは確かにその男の子に特別な感情を抱いているけれど、それは好きとかじゃなくて、なんていうか、感謝みたいなものなの」
「感謝?」
「ええ。命の恩人なの、その人。だから、私が今ここにいるのは彼に生かされているようなものなのよ」
美奈はどこか寂しげに、それでいて何故か悔しそうにそう呟いた。
「命の恩人……ですか」
その言葉の先が踏みこんで良い領域なのか、沙織が思案している最中に、美奈が照れたようにはにかむ。
「不思議ね。今までこんな話、誰にもした事なかったのに。沙織ちゃんが聞き上手なのかしら」
「いえ! そんなバカな! それを言うなら美奈さんの方が聞き上手ですよ。わたしも男性恐怖症の話なんて、ほとんどしたことないですし」
「あら、そうなの? 今日あったばかりなのに、おかしなものね」
「あはは、そうですね」
荷物の重さも、吹く風の冷たさも忘れて二人は声を上げて笑った。なんだが心地よくて、オレンジ色に傾いた光が身体を透過して、引越しの緊張とか、未来への形無き不安とか、そんなあれこれを溶かしてくれているような、そんな気分だった。
そして余談だが、すでに二人はお互いの帰路の半分ほどを消化していて、ここまでの道中、二人揃って帰り道が共通している事に疑問を抱く事は無いようだった。
首を傾げたのは同時だった。
さして特徴も見当たらない一軒家屋の前。整然と並ぶコンクリート塀に一か所だけ開いた穴―――すなわち玄関口―――で立ち尽くす二人であった。
「…………」「………」
なんだかおかしいなと思いつつ、頭の隅を横切る嫌な予感を振り払えない沙織だったが、恐る恐る口火を切る。
「あの、わたしここですので。荷物、ありがとうございました」
右手を伸ばし、荷を受け取ろうとするものの、美奈は一向に手放す気配が無い。ただ呆然と沙織の顔を見つめるだけだった。
そして、少女は数刻前の美奈の言葉を思い出す。
――――――ちょっと老け顔だからスーツとか着たら社会人に見えるかも。
(ああ。それは、確かに)
心の内で朝の情景を思い出し、一人納得する。ふと抱いていた疑いは確信へと変わりつつあった。
「もしかして、美奈さんが言ってた男の人って――――――」
「ふやぁああああああ!」
唐突に珍妙な叫びを上げて地面へとしゃがみ込む美奈。驚くと同時に沙織は一つの思いを抱いていた。
「や、やっぱり………」
「忘れて! 私が言った事は全部! 全部忘れて!」
「ごめんなさい。無理です」
「そ、そんなぁ……」
子どものように丸くなった美奈に言い知れない愛くるしさを感じてしまう沙織であったが、そんな気分に浸っている場合では無いと思い直す。
「と、とりあえず中に入りましょうよ。一段と冷えてきましたし」
言って、木目調の扉の横に取りつけてあったインターホンを押す。そうしてから自分が合い鍵を貰っていた事に気付き、押す必要があったのかどうか思案しつつ、まぁいいかと少女は結論付けた。
しばらくするとガチャっと乱暴に鍵を開ける音が響き、扉が開く。
顔を出したのは件の男性だった。
「おかえり。遅かったな。迷子にでもなったか?」
開口一番そんなことをのたまった男、蒲焼昇は制服姿では無く、濃青色に白いラインが上から下へと走るジャージに濃緑色のシャツ、その上からセーターという、いかにもその辺にあった服を適当に見繕いました、という出で立ちだった。
そして、沙織は今更になって自らの過ちに気付く。
(し、しまったぁあああ……)
なんとなしにインターホンを押してしまった少女だったが、どうやら自分が男性恐怖症である事実を失念していたようだった。本来ならば玄関口で数十分に渡る深い苦悩の末、果断たる決意を持ってこの扉の奥へと侵攻していく予定だったのだが……。
「あっ、うっ、ぇあ――――――」
オロオロと一歩、二歩、後退していく沙織。パニックで少女の頭の中は小人が暴れ回っているかのように散雑としていた。
そんな様子を見かねてか、昇はやれやれという風に首を振って外に出る。そして玄関扉の下端を誰のか知らない靴で固定して沙織から距離を取った。
「どうぞ。自分の部屋はわかるよな―――おっと………美奈?」
後ろ歩きで沙織から距離を取っていた男は地面に蹲っていた美奈に足を取られ、バランスを崩した。
「なにやってんだ? お前」
「えへへ。どうも、お邪魔します」
上目遣いで、無邪気な笑顔。さらにはポッとピンクに染まった頬で男に対面する美奈の姿は相変わらず美しかった。この状況でハートに矢が刺さらない男などいるのだろうか、と混乱した頭の端っこで疑問を持つ沙織を嘲笑うかのように、
「いつからいたんだよ。さっさと上がれ」
とそいつは呆れ顔で無造作に我が家を指し示すのだった。
全く、信じられない所業である。
と、思ったら、昇は美奈の持っていたレジ袋二つをサラッと奪い取り自分の手に移し替えた。一応気配りは出来るようだと、何故か沙織は娘を嫁に出す父親のような心境だった。
「……どうした? 早く入れよ。みすぼらしくて申し訳ないが、今日からお前の家だ」
昇はいつまでも玄関口で佇む沙織にそう言った。それを訊いて慌てて歩を進める少女の背中にまたも声が掛かる。
「荷物、置いてけよ。運ぶから」
それはまずい、と思い、ブンブンと勢いよく首を横に振る沙織。こっちには女性にも見られたくない物が入っているのだ。
さらなる言葉が降りかかる前に沙織は靴を脱いで屋内へと入った。
茶色のフローリングは冷たかったが、苦痛というほどではない。むしろ先程の緊張で火照った身体には心地よかった。沙織の右手にはリビングへと繋がるガラス張りの扉が、左手には二階へと繋がる階段がくの字に曲げて設えてあった。そのどれもが築数年の年季を感じさせる物だったが、決して薄汚いという訳ではない。
彼はみすぼらしい家などと揶揄したが、アパート暮らししか経験の無い沙織にとっては夢にまで見た一軒家だった。
しばし感慨に耽っていた沙織はリビングへと繋がるガラス張りの扉が開いた事でハッと我に帰る。そこから出てきたのは年端もいかない少女だった。まだ小学校中学年といったところだろう。目を擦りながら現れたその女の子は後ろで束ねられた肩口までの髪をひょこひょこと揺らしながら歩いてくる。
「おっちゃ~ん。どこ~?」
眠たそうにぼやけた声を発する女の子はハタと顔を上げて沙織を見上げる。
沙織も少女を見下ろす。何かが彼女の心をざわつかせていた。得体のしれない、それでいて確かな熱を持った何かが、筋肉注射されたかのように全身を駆け巡る。
目の前の女の子に、見覚えは無かった。
でも、それでも何か、まるで、何かに吸い寄せられるかのような、懐かしさを感じた。
「ゆあ……?」
自然と、その言葉が口を吐いて出た。
母と共に名付けた、初めての――――――。
「ねぇちゃん、だれ?」
小首を傾げて問いかける女の子の言葉が、沙織の心に沁み込む。
「ぁ……あ……!」
―――お母さんの、声だ……。
不意に、沙織は駆けだす。フローリングの床に足を取られながらも、湯亜の前まで辿り着いた彼女はあらん限りの力で女の子を抱きしめる。
「湯亜、湯亜ぁ……大きくなったねぇ……」
気付けば視界がぼやけていて、沙織は自分が泣いている事を知った。
大粒の涙が、小さな女の子の肩を濡らす。
「どうした? ねぇちゃん、だいじょぶか? どっか痛いか?」
湯亜に労わるような声音で頭を撫でられて沙織は驚く。
「なんだ。湯亜、すっかりおねえちゃんだね。わたしの方が慰められちゃった」
目元の涙を拭って告げる。
「うん! 湯亜、大人やもん!」
「あはは、そうだね」
今度は沙織が湯亜の頭を優しく撫でる。でへへ、と女の子は身を捩らせて嬉しがった。
不意に、後ろで扉の閉まる音がした。
沙織が振り向くと、そこには玄関から複雑な表情でこちらを見つめる昇の姿があった。
「どういうことだ? これは……」
朝、父親に電話して繋がらなかった時のように、彼は深々と溜息を吐いた。
それはやや奇妙な光景だったかもしれない。
食卓机に所狭しと並ぶ料理。メニューは多彩だ。片方に三つ、対岸に四つ、計七つ置かれたカレーとその間に大皿で盛られたサラダ。小振りな茶碗には旬の山菜や、はたまた鯖、肉じゃがなど、一般的な家庭料理も当然配置済み。量だけは豪華だが少し統一性に欠けていると言われればその通りだった。
しかし、問題はそんな事では無かった。
机の周りに腰掛けた人間が四人。そして、その人間達を窺うかのように遠巻きで眺めている少女が二人。
「おい、お前らさっさと座れよ。冷めるだろ」
若干苛立ち気味に昇が吐き捨てる。その右隣には少し太い……いや、恰幅の良い男性が椅子に体重を預けている。壮、という名前だっただろうか。先程自己紹介されたのを沙織は思い返す。昇の右隣には湯亜が、スプーンの尻を机に打ちつけながら涎を垂らしている。
「おっちゃん! いただきますしようや! 早く、早く!」
昇の右腕をゆっさゆっさと引っ張って捲し立てる湯亜はどうやら彼に相当懐いているようだった。―――わたしの妹なのに。と軽い嫉妬を覚えてムッとする沙織。今や彼の妹でもあるのだが、その事実はどうやら頭の中から追い出しているようだ。
「もう少し待て」
一言で湯亜を制した彼は向かい合わせで腰かけた女性に目線を移す。
「美奈。こいつら、どうにかしろ」
「うふふ。そうねぇ、どうしようかしら」
薄く微笑んだ美女は沙織の反対側、内向きに開いた扉に半身を隠してこちらを覗いていた女性に目を向ける。
「やっちゃん?」
美奈は静かに、その女性のあだ名と思われる名を呼んだ。ビクッと扉に身を隠したその人は体を揺らす。
「何やってるの? 早くこっちに来なさいな」
美奈はさらにそう続ける。
言われた女性は一瞬、沙織の方を見て、そしてすぐに目を反らした。
「だ、だってぇ……」
美奈に助けを求めるかのように小声で囁く彼女。その間も時折チラチラとこちらを窺っている。
(な、なんだろう。わたし、もしかして警戒されてるのかな……)
そんな雰囲気がする。
「やっちゃん? 二度も言わせる気なのかしら?」
ゾクリ、と背筋がざわつくのを沙織は感じた。美奈の凍えるような笑みに恐怖を感じる。
「は、はいぃ! すぐ行きます!」
慌てて返答した女性は駆け足で美奈の左隣へと腰掛けた。
そして今度は、沙織の番だった。二人もいる男達が怖くて食卓机に近付けず、キッチンの影に隠れていた彼女に美奈の視線が突き刺さる。
「沙織ちゃん。せっかく一緒に作ったんだから、冷めない内に食べましょう? ね? 勇気を出して」
「……はい」
打って変って気遣わしげに声を掛けてくれた美奈の言葉を無下にする訳にもいかず、7時を回って訴えかける空腹の音に耐えきることも出来ず、沙織はいそいそと、昇と壮から目を離しつつ美奈の右隣へと腰掛けた。すると、美奈の向こうに座るやっちゃんと呼ばれた女性がサッと身を縮めて美奈の影に隠れたのが分かった。
(うっ、やっぱり、嫌われちゃってるのかな……)
そんな懸念に気付いたのか、美奈がその女性の紹介をしてくれる。
「この子は夏弥。八瀬夏弥っていうの。バカみたいに人見知りだから、別に気にしなくていいわよ。警戒心の強い猫とでも考えれば十分だから」
笑いながら随分と酷いことを言う美奈に沙織は少し驚いた。こんなに毒舌チックな彼女は初めてだ。
「ば、バカみたいじゃないもん」
小声で反論する夏弥という女性に美奈は意地悪く、あら、まぬけという言葉の方が適切だったかしら? などと言った。
「も~」
と言いながらペシペシと美奈を叩く夏弥はしかし、どこか楽しげだった。
(好きなこと言えるほど、仲が良いってことなのかな?)
そう思い、沙織はそんな二人を羨ましく思った。なんせ少女にはこの街に来て初日。友達と呼べる人間は未だ一人もいなかった。
そんな沙織の寂しさなど気にも留めず、昇が一人手を合わせて言う。
「んじゃあ、栄養のある食事を作ってくれたやつらに敬意を込めて―――」
続いて、もう一人の巨漢の男も美奈と沙織の方に向かって手を合わせる。それを楽しげに湯亜が真似る。
「いただきます」「「いただきまーす!」」
昇の声に壮と湯亜が合わせる。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
美奈のその言葉と同時に男二人は目の端をキラリと、怪しげに輝かせたような気がした。
数秒後、沙織は唖然とする。まるで飢えた獣だった。男二人は早食い競争でもしているかのように、沙織の作ったカレーを口一杯に頬張りものの数分で完食してしまう。
「「おかわり」」
二人は同時にそのお皿をこちらへと差し出す。
その行為に対して本人ではなく、隣の夏弥が抗議した。
「そんぐらい自分で入れなさいよ!」
「いいわよ、やっちゃん。いつものことだし」
やんわりと諭された夏弥はむ~、と口を尖らせた。
美奈が追加のカレーを注ぎに行っている間も男共の箸は止まることを知らなかった。視界に映った料理を片端から口の中に放り込んでいく。それはもう、必死という言葉でしか形容することが出来ない様子だった。
やがて必然、二人の狙った獲物が完全に被ってしまう事態となった。
「おい」
昇が低い声を上げる。
「何だ?」
壮も目を細めてライバルを睨む。
「その汚らしい箸をどけろ」
「断る。お前こそどけろ」
「悪いことは言わん。それ以上デブったらお前は病気になる。俺は気を使ってやってるんだ」
「余計なお世話だ。お前のそのガリガリの体よりはよっぽど健康的だろ」
「は? ぶっちょより不健康なもんはねぇよ。大体、お前なんでいっつも美奈が来る日だけ俺の家で飯を食うんだ? 家に帰れよ」
「家の飯よりこっちのが美味いんだよ」
「親に申し訳ないと思わないのか?」
「思わないね。何故ならここで飯を食った後、家の飯も全て平らげているから」
「くそデブが! なら尚更離せ! このエビフライの価値が薄れる!」
「お前みたいな味に無頓着な奴に言われたくないね!」
「いいから離せ!」
「君が離せよ!」
「はい。カレーお待たせ。大盛りにしてきたよ」
「「おっ、サンキュ………あっ!」」
「ひゃっ、ひゃっ! も~ろい!」
カレーに気を取られて箸を緩めた隙に、エビフライを湯亜が横からくすねていった。―――そんな意地汚い子に育ってしまって、お姉ちゃん悲しいよ……。
そんなことを考える沙織の隣に美奈がまたゆっくりと腰掛ける。
「お行儀の悪い食べ方です。これだから男の子は……」
立腹して小声で彼女に愚痴を漏らす沙織。
「うふふ、そうね。でも、おいしそうに食べてくれるから、私は嬉しいわ」
「それは、そうですけど……」
尚も納得がいかない風に沙織は眉を顰める。
「沙織ちゃんは、騒がしい食事は嫌い?」
「そんなことは無いですけど、せっかく作ったんだからもっと味わって食べて欲しいです」
「ふふ。仕方ないわよ、だって―――」
美奈はそっと目の前の男に視線を寄せる。
「本当においしいと思ったものをゆっくり食べられるほど、器用な人じゃないの」
なぜか申し訳なさそうに言った美奈は、それでも幸せそうに昇を眺めていた。
(こんな人の、どこが良いんだろ)
失礼にもそんなことを思った沙織だったが、彼女に釣られて男を眺める。
目を見開いて、目前のカレーだけを睨んでいる。呑み込むのが待ちきれないかのように口をパンパンにしながら掻き込むその姿は、余裕ぶって飄々とした第一印象とは大きく違っていた。苦しそうに顎を動かしながらも、決して止まることのないその咀嚼は夢中になっているとしか言いようが無かった。
そんな変化を彼に起こさせたのが自分の作った料理だと思うと、
(確かに、少しだけ――――――)
「おかわり!」
「ぅひゃっ」
いきなり眼前に差し出された皿に、沙織はビクリと体を揺らす。
見ると、あれだけ大きく盛られていた皿をもう空にした昇が、こちらを一心に見つめて追加を要求していた。
「僕も!」
「ひぃっ」
さらに、遠方から体を乗り出してもう一人が空皿を押し出してきた。
あたふたと、沙織は助けを求めるように隣の女性を横目で見る。しかし、美奈は笑って小さく頷いただけだった。
「……は、はい」
仕方なしに二枚の皿をおずおずと受け取って、台所へと向かう。
(もう! なんなの、いきなり! もっと欲しいなら自分で取りに行ったら良いじゃない)
心中でまたも愚痴を言いながら、適当に注いだカレーを二人に渡す。
「「サンキュ」」
と簡潔に告げる二人。
「どういたしまして」
と答えながらも内心プンスカしながら席に着く彼女。しかし不意に、沙織はあることに気付いた。
(……あ、あれ? 今、普通に返事が出来たような……)
しかも、
(わ、わたし、笑って……た……?)
二人に皿を差し出したとき、彼女は自分が彼らに笑顔を見せていたことに遅まきながら驚いた。
(イライラしてたはずなのに、なんで……)
「沙織ちゃん? どうしたの?」
美奈が心配そうに顔を覗き込んで来る。
「い、いえ! 何でもないです! ただ、その……」
「ただ?」
「美奈さんの言うこと、少し、わかったような気がします」
そう告げると、美奈は意表を突かれたように目をパチクリさせ、すぐに優しく微笑む。
「そう。嬉しい。ありがとう」
「ぜ、全然そんな! わたしの方こそ―――」
嬉しかったです。
そう呟いた沙織は美奈と一緒に小さく笑った。
それから一時間後、机の上に並べられた皿は全て空になり、沙織、美奈、夏弥は後片付けを、昇、壮は満足げに腹をさすりながらテレビ前のソファに横たわっていた。
「ちょっと! 手伝いなさいよ!」
夏弥の叫びに沙織は激しく同意したが、
(わたし、まだ警戒されてる……)
極度の人見知りらしい彼女は、常に美奈を挟んだ状態で沙織から距離をとっていた。誰に対しても最初はそうなのよ、と美奈は言ったが、それでも少し心が傷つくのであった。
「やっちゃん、駄目よ。あの人達に手伝わせると仕事が増えちゃうもの。この前、ミートソースのこびり付いたお皿をそのまま食器乾燥機に突っ込んでたのを忘れたの?」
この時ばかりは美奈も不満げに仏頂面を下げていた。というか、それは確かに酷過ぎる。
食器もあらかた片付いて、リビングに戻った時には七時に達するかどうかという時刻だった。
「じゃあ、あたしそろそろ帰るわね」
言って、夏弥は自分のカバンを持ち上げた。
「あっ、僕も帰らないと」
巨漢の男も次いで、まどろみがちだった瞼を持ち上げてソファを立った。そんな彼に横たわったままの昇がぞんざいに声をかける。
「もう暗い。お前、夏弥を家まで送ってやれ」
「ん? あ、おう」
「え~、いらないよ。というかこいつと一緒に帰るほうが危なそうだし」
ジト目で壮を睨む夏弥。彼はため息を吐いて返す。
「う~ん。そういうのはもっとナイスバデーになってから言ってもらいたいよね」
「なんだと?」
「うそうそ! 二割ぐらい嘘!」
「ほとんど本音だろが!」
ドゴン、と彼女のバッグがふくよかな顔の真ん中に命中した。
「ふんっ! 一人で帰るもん!」
吐き捨てるように言って玄関口へと向かう彼女を昇が「おい」と制止する。
「送ってもらえ。余計な心配させんな」
だらしなく寝そべりながらも、その言葉には不思議と有無を言わせぬ強制力があった。
「あ、うん。わかった。……も、もう。仕方ないわね。ほら、送らせてあげるからさっさと来なさいよ」
「はいはい」
わいわいと騒ぎながら二人はドアへと向かい、去り際に別れの言葉を告げる。昇は面倒そうに「あ~」と答え、美奈は「また明日」、湯亜は「バイバーイ!」と元気よく叫んで、沙織は上手いこと言葉を見つけられず、頭を深々と下げた。
扉の閉まる音がして、二人の姿が見えなくなってから、美奈が昇にささやく。
「大丈夫なの?」
沙織にはその不安を内包させた言葉が何を意味するのかわからなかったが、昇には読み取れたようで、一瞬の間を空けた後、彼は答えた。
「……問題ないだろ。あいつだって闘ってる。俺たちがそれを信用しないと、どうにもならんさ。夏弥があれを思い出したら話は別だが、もう半年だ。その可能性は低いだろ」
たぶんな。最後に彼はそう付け加えてゆっくりと、だるそうにその体を持ち上げた。
「お前は帰らなくて大丈夫なのか? 幾ら親が放任でも限度があるだろ」
言われて、美奈の顔に一瞬、影が刺したように感じたが、すぐに彼女はいつもの微笑みを浮かべて、
「平気よ。限度なんてないもの、私には。あの人に限界があるだけ。だからそれまでは、ここにいさせてくれる?」
と言った。また、少し間を空けた昇は感情の読み取れない声音で、
「……ああ。もちろん」
と答える。
二人の会話を横で見ていた沙織は、自分の入り込む余地のない、二人だけの空気がそこに流れているように感じた。美奈の話を聞いていた彼女には、それが喜ばしいことであるように思えた。でも、何か、どこか寂しげな、痛々しい雰囲気が、その場には伴っていた。それが何なのか、沙織にはわからなかった。
「さぁ、それじゃあ、明日の朝ごはんの下ごしらえでもしてあげようかな。昇君、メニューの希望ある?」
ん~、と背伸びしてハリのある声を取り戻した美奈が問う。
「食えるなら何でも良い」
「もう! そういうのが一番困るんだよ! ね、沙織ちゃん」
「え、あ、はい。そうですね」
唐突に話を振られて思わず頷いてしまう。
「そう言われてもな。お前が作ったやつは大体旨いから毎回何が出てくるか楽しみにしてるんだ。こっちから指定したんじゃ面白くない。そっちで苦労して考えてくれ」
「はぁ、勝手な人」
溜息を吐いて、珍しく呆れ顔を晒した美奈が台所へと向かう。
「あっ、わたしも手伝います!」
慌てて沙織は彼女の後を追う。
「ありがとう。優しいのね」
そうするのが当たり前のことでも美奈は褒めてくれる。そんな彼女の言葉が沙織は嬉しくて、どうしても頬を緩ませてしまうのだった。
「あっ、そうだ」
不意に、ソファにふんぞり返った男が声を発する。
「俺、湯亜とそいつがウチに来る前、一緒に住んでたものとばかり思ってたんだけど、どうも違ったみたいだからさ、美奈、その辺それとなく訊いといてよ」
(ぜ、全然それとなくじゃない!!!)
思わず内心で強烈なツッコミを入れてしまう沙織であった。
「オッケー」
(オッケーなのぉ!? しかもぉ!!!)
いやまぁ、別に良いんですけどね、と一人心の中で会話をしながら沙織は台所に辿り着いて蛇口を捻る。勢いよく飛び出した水で彼女は手を洗った。
「ごめんなさいね。あなたの表情が少し面白かったから、あんなこと言っちゃった。でもね、言いたくなければ言わなくていいのよ」
一転して美奈は申し訳なさそうにそう言った。
「いえ。大丈夫ですよ。そんなに大した話でもないですし」
沙織は両手を振って否定した。―――というかわたしどんな顔してたんだろ。すごい不安だ。
「大した話じゃない、なんて言わないで。あなたが今のあなたになるために通った道でしょう? 自分のことを卑下しないで。私、今日会ったばかりの沙織ちゃんのこと、好きよ。だからこれは大事な話。私が、私たちが沙織ちゃんのことをもっと好きになれる、大切な話」
美奈の声は柔らかく、それでも沙織の目を一直線に見つめてそう言った。
沙織は彼女の言葉を聞いて、ホッと胸が暖まるのを感じた。美奈の言葉が、正真正銘、自分のことだけを思って告げられたものだとわかったからだ。彼女自身が経験してきた、その過程を以て、精一杯紡ぎだされた言葉だと、そう思ったからだ。
それ故に彼女の過去を知らない沙織にはその言葉の背景にある気持ちを全て汲み取ることは出来なかった。だけど、だからこそ、美奈が本気で自分を見ようとしてくれているのだと、沙織は無意識ながらも理解することが出来た。
「お母さんが湯亜を産んだとき、もうお父さんはいませんでした――――――」
気づけば沙織の口からは、ポツリ、ポツリと、零れ落ちるように言葉が漏れ出ていた。
「何でいなくなったのかはわかりません。わたしも小さかったので、どんな人かも覚えてないし、生きているのか、死んでいるのかも、正直、興味ありません。今のわたしにとっては、ただの他人ですから」
言わなくても良い、言わないでおこうと思っていた自分の気持ちさえも沙織は口にしていた。
「お母さんは、わたしが小学校に入学した頃、病気で亡くなりました。もともと病弱で、湯亜が産まれた時から入退院を繰り返していて、ランドセルを背負ったわたしを見て、安心したように……」
あの日の母の顔を、沙織は鮮明に覚えていた。疲れ切った目尻に一滴の涙を溜めて、そっと微笑んだ最後の――――――。
「父には連絡が取れなかったみたいで、わたしと湯亜は親戚を転々として、結局、どこも二人一緒に育てるのは荷が重いってなったみたいで、それでわたしは今の母の家に、湯亜は違う所に引き取られたんです」
そして、母が再婚して、ここに越してきました。そう言って、沙織は話を締め括った。
「そうだったの。やっぱり、頑張り屋さんね」
美奈のなだらかな声と、頭をそっと撫でられる感触に、もう子供じゃないんだけどなぁ、なんてことを思いながらも、沙織は心地よさげに身を捩じらせた。
と、不意に、袖をちょいちょいと引っ張られるのを感じて、沙織は我に返る。
見ると、そこには眠たそうな瞼をもたげる女の子がいた。
「湯亜? どうしたの?」
沙織は袖を引っ張っていた手を握って問う。
「なぁ。ねえちゃんは湯亜のねえちゃんなん?」
一瞬、湯亜の言っている意味がわからず喉を詰まらせた沙織だったが、すぐに、
「そうだよ。わたしは湯亜のお姉ちゃんだよ」
と答える。
「そっかぁ。ねえちゃんはあたしのねえちゃんかぁ。……なんか、たよりないなぁ」
「うぐっ」
―――な、なんだと。
「でも、ねえちゃんいるの、うれしい!」
にしし、と笑って抱きついてくる湯亜。その暖かさに言い知れない安心感を覚えるのだった。
「お姉ちゃんも、湯亜がいてくれて嬉しい」
沙織も湯亜を抱きしめる。すると、生意気にも幼女は「そうか、そうか。そりゃそうやろう」と言って背中をバンバンと叩いた。―――にゃろう。調子に乗りよってからに。
「じゃあな、じゃあな、こっちのちょ~美人のねえちゃんは?」
今度は美奈の方を指差して湯亜が言った。
「え!? 私!?」
慌てたように口にする美奈。
「こら。人を指差したらダメでしょ。こっちの人は、う~ん、そうだなぁ。お姉ちゃんのお姉ちゃん、かな」
「へ!? そ、そうなの!?」
急な展開に美奈は困惑してしまっているようだった。その様子がおかしくて、沙織は小さく笑いを洩らす。
「そうかぁ。美人のねえちゃんも湯亜のねえちゃんかぁ。こっちの方が百倍はたよりがいがありそうやなぁ」
「なっ! ちょっと湯亜、あなたには一度お仕置きが必要みたいね」
「うひゃひゃっ。こっち、すごいねえちゃん。こっち、しょぼいねえちゃん」
「しょ、しょぼ―――! ゆ~あ~、貴様というやつは~!」
「うひゃひゃ」
「あっ、こら待て!」
眠気など一瞬で消し飛んだのか、湯亜は楽しげに走り去っていった。
沙織はフローリングの床に足を滑らせて転びそうになりながらも湯亜を追いかけた。ドタバタと、追いかけっこをする二人。
「二人とも、危ないよ!」
と叫ぶ美奈の声は右から左へ。しょぼい~。しょぼい~、と連呼する湯亜に目にもの見せてやろうと、沙織は食卓の椅子から座布団を取り上げて、放る。
ゆらゆらと、不安定な放物線を描いた座布団は湯亜の頭上を通り過ぎて、あらぬ方向へ飛んでいく。
「「「あっ」」」
沙織、湯亜、美奈の三人は同時に声を上げる。
それは座布団が、ソファに座ってテレビを眺めていた男の頭にパサリと乗っかった瞬間だった。無言で座布団を取った男はゆっくりと振り返り、
「おい」
低い声を発して、沙織たちを睨んだ。
「ご、ごめ……なさ、い」
と沙織が言うが早いか、危機察知能力の高いらしい湯亜が脱兎のごとく逃げ出した。
釣られて沙織も早足でその場を離れる。そして辿り着いたのは――――――。
「あの人、怖いです」
言って、美奈の弾力に富んだ胸元にしがみつく沙織であった。その横には湯亜が同じ態勢でしがみ付いている。
「もう。あんまりオイタしちゃ駄目よ」
う~、と返答する二人。
すごいねえちゃんとしょぼいねえちゃんの構図が完成した瞬間だった。
~ 思い悩む彼 ~
壁にぶら下がった時計が鳴った。短針が八の文字を指し示していた。洗い物を終えた三人はリビングに戻る。
「あっ、おっちゃんが死んどる」
唐突に、ソファを背中から覗き込んだ湯亜がそんなことを言った。不審に思って同じように覗き込む。
「………寝てる」
人に後始末をさせておいて何たる所業か。
「あら、またなの? ホント、しょうがないわね」
もう、と一つ息を吐いた美奈はそそくさとリビングを出て行き、しばらくしてから戻ってきた。手には毛布が握られていた。
「風邪ひくって、何回言えばわかってくれるのかしら」
口を酸っぱくしながらも、昇に毛布を掛ける手は優しい。
「ふぁ。湯亜もねる」
瞼を落としながらいそいそと昇の隣に忍び込む湯亜。
「あっ、だからダメだってぇ」
早々に眠りに落ちた湯亜に声を掛ける美奈を見て、沙織は思う。
この人、もうこの男の奥さんでいいんじゃないかな、と。
時刻は九時半過ぎ。目を覚まして、美奈を駅まで送り届けた昇が帰って来た。
ポケットに手を突っ込んで俯いた彼は何か……沈んでいるようだった。
「明日早朝バイトだから俺はもう寝る」
言葉少なにそう言った彼の後を、目をこすりこすり、湯亜が追う。
「こら、どこいくの」
「おっちゃんと寝る!」
「……今日はダメ」
「なんでやねん」
「湯亜はわたしと寝るの」
「ヤダ」
「なんでやねん」
「ヤダったらヤダ!」
騒ぐ二人に背を向けて、昇は一人階段を上り、暗い部屋へと入って行った。