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養殖人間  作者: こじも
4/10

ゲームしよう3

このゲームは通常のすごろくで使うサイコロやルーレットの代わりに、ダーツを用いる。ダーツボードの数字をそれぞれ1~7の値へと変換して歩数を決定するのだ。具体的に言うならば、

ダーツの値 歩数

1~5 1

6~10 2

11~15 3

16~20 4

ダブルリング 5

トリプルリング 6

ブル1~7の間の好きな数を選べる。

となる。

「それじゃあ、湯亜から順に進めていこうか」

 言って、少女にダーツの針を渡す。

 湯亜はまだ不満げに口を尖らせていたが、渋々と投射位置についた。

 と、そこで壮が言葉を挟む。

「あっ、ダメダメ。そこじゃないよ。さっき的を外したから一メートル後ろから投げるんだよ」

 それを聞いた夏弥がキツく壮を睨みつけたが、そんなことに気が付ける彼ではない。

「むっ。しょうがないなぁ」

 壮の言葉に答えた湯亜は言われた通り、少し後ろに下がった。不思議と、彼女は不満げでは無い。むしろ、年上三人の投射位置に近づいたことを喜んでいるかのような雰囲気だった。文句は多いが、意外にフェアな子なのかもしれない。

「とわぁい!」

 掛け声と共に湯亜は銀のロケットを放る。トスン、と静かにそいつは丸板に頭を打ち付けた。得点は、15だった。俺は手元の紙を見ながら、

「15ってことは……歩数に直すと、3だな」

 それを聞いた夏弥が湯亜のスティックのりを三歩進める。

「じゃあ、湯亜ちゃんはここね。えっと………『友人が肉片へと変わった。寿命が50減る』」

 ………これは、豚肉になったということだろうか。

「いきなり重いな」

 思わず呟いた言葉に、

「そうね。これはちょっと……考えさせられる文章だわ」

 夏弥が答える。俺たちの目線は自然と壮に向けられていた訳だが、彼はそれに気付く様子もなく、

「えっと、湯亜ちゃんの初期寿命が162歳だから、そこから50を引いて、残り112歳になるのかな?」

 自前のノートに書いたメモを見ながら言った。しかし、俺はその言葉に異を唱える。

「いや確か、マスに書かれた事項に加えてダーツの得点も寿命から引かれるはずだ」

 駒を倒さないように紙の端を持ち上げ、裏面に書いてある《THE ルール》を確認する。

 つまり、湯亜の寿命はこの時点で-50され、さらにダーツの得点である15がマイナスされるという訳だ。したがって、豚となった少女の寿命は残り97となってしまう。

「えっ!? めっちゃ減るやん!」

 驚愕の声を上げる少女に、返す言葉もない。こればっかりはどうしようも無いからだ。寿命が尽きるのが先か、クラスチェンジのマスに止まるのが先か。どうやら最下層のスタート地点に立った者はそういう戦いになるらしい。

「寿命が尽きたらゲームオーバーになるの?」

「そのようだね」

 夏弥の疑問に簡潔に答える。寿命が無くなればゲームを続けるのは不可能だ。必然的に降板する形になる。

「ふぅむ。クラスFには絶対に堕ちないようにしないといけないみたいだね。まぁ、僕が堕ちる訳ないけど」

 不敵な笑みで微笑む壮をとりあえず全員が無視した。

「それじゃ、次はあたしね!」

 夏弥は唇を軽く舐めながらダーツを握りしめた。

 その後も俺たちは一喜一憂を繰り返しながら、駒を着実に進めていった。その結果を一人ずつ見ていくと、

 ~ 湯亜 ~

『好きな子(豚)に臭いと言われる-30』残り寿命59。

 豚に臭いと言われればそれはショックだろう。壮に臭いと言われてる様なものだからな。

「君達はさ……僕だって傷つくんだって事実を知っているかい?」

 壮(豚)の言葉から俺と夏弥は目を反らした。

『太りすぎて三歩以上歩くのが辛い-30』残り寿命23。

「何か言われる前に言っとくけどさ、僕は三歩以上歩いても全然平気だからね」

「………ハハ、嘘つけ」

「ホントだよ! 学校からここまで歩いて来たろ!?」

『今日は養豚場の外に連れ出してもらって、日向ぼっこをした+15』残り寿命30

 ここに来てやっと、使い古されたスティックのりはランクFにして初めての寿命プラスのマスへ止まる。まぁ、そうだとしても……。

「む~。あと30しかないんかぁ……」

 湯亜が口を尖らせて不平を申し立てる。

 そう。プラスのマスに止まった所で、結局湯亜の命は風前の灯だ。いつゲームオーバーになってもおかしくはない。

「大丈夫よ、湯亜ちゃん。ほら見て、ここにクラスチェンジのマスがあるわ。次で3歩進めたら起死回生のチャンスはまだあるわ」

 夏弥の励ましの言葉に湯亜は「お~!」と片手を上げて応えた。どうやらまだ諦めてはいないようだ。

 しかし、湯亜のその後はさておき、他プレイヤーの動向を見てみる事にしよう。

 ~ 夏弥 ~

『なんかピアノに厭きてきた-15』残り寿命110。

「おいお前、挫折早いな」

 俺のツッコミに対して、

「あたしじゃないわよ。この消しゴムに堪え性がないだけ」

 消しゴムの所為にするな。そいつは身体を摩り減らしてまで俺に付き合ってくれる、良いやつだぞ

『海外留学する。すると、意外にも海外で自分の能力が認められたので嬉しくなった+20』残り寿命119。

「バカね。そんな甘い世界な訳無いじゃない。嘘に決まってるわ」

「だから、自分で自分の駒を罵倒するなよ。寿命が増えたんだから良いだろ」

 更なる苦言を呈してみるも、

「いいえ、こんな、現実を舐めた考えをしていると駄目なのよ。いつか足を掬われるわ。もっと努力なさい」

 消しゴムに向かって説教を始めた彼女は案外ストイックな人間だった。

『突き指した-20』残り寿命91

「ほら言わんこっちゃない! キレイに掬われたわ!」

「いやいや。突き指しただけだろ。別に足を掬われた訳じゃねぇよ」

「いいえ。これはライバルからの陰湿な嫌がらせよ! こうなるように仕組まれたんだわ。キーッ、悔しい!」

 歯ぎしりをして、一昔前のアニメのような表情をする夏弥だった。

 この時点で夏弥の寿命は100を切っているものの、まだ余裕は十分にある。このまま順調に進めば、ゲームオーバーになる事は無いだろう。しかし、どうも彼女にはこのままゴールする以外の目的が何かあるようだった。どうも予定通りに進んでいないようで若干イライラとしているようだが。壮を逆転する秘策でも考えているのだろうか。

 そして、現在トップの壮はというと……。

 ~ 壮 ~

『勉強もしていないのに、何となく小学校受験をしたら、合格してしまう+20』残り寿命234。

「デブで才能も無い、加えて性格も最悪な、人類の最底辺を滑空する本来のあんただけど、小学校受験はしたの?」

 夏弥の悪意たっぷりな言葉を歯牙にもかけず、壮は返答する。

「デブではあるが、何事に対しても全力で努力する才能を持ち、さらに誰にでも優しいこの僕は、残念ながら受験したのは高校だけだね。中学校までは普通に家から一番近いところに通っていたよ」

「ふぅん」

 大して興味も無さそうに夏弥は頷いた。

「………君には一度、この話をしたことがあるんだけどね」

 そう言った壮の瞳は心なしか寂しげに揺れていた。

『人生があまりにも楽勝過ぎて、毎夜、危険な遊びに明け暮れる。-20』残り寿命194。

「キケンな遊びってなに? 花火とか?」

 湯亜の質問に俺は、

「さぁ。缶蹴りとかじゃね? あれ、缶の中にジュースが残ってると、蹴るとき中身が飛び散る可能性があるからな」

 適当に答えた。

「そうね。缶蹴りは危ないわ。真夜中にやると蹴った缶が見付けられない時あるしね」

「うん。僕が鬼になって皆隠れてるのかと思ったら普通に帰宅してた事あるしね」

「そうか。最低だな、そいつら」「ええ、最低ね」

「いやいや、お前らの事だからね、それ。ちなみに空の缶の中にわざわざジュースを足したのも、蹴った缶を茂みの中に隠したのもお前らだって、僕知ってるからね?」

「う~ん。何の話? それ全部、美奈がやったんじゃね?」「ええ、たぶん美奈ね」

「人のせいか! しかも場に居ない人間の! お前らホントに最低だよ!」

 壮の叫びが響く中、湯亜が「あたしも缶蹴りやってみたいなぁ」と呟くのが聞こえた。

『親父の会社を引き継ぐ。人生安泰。+40』残り寿命214。

 ん? 待てよ。壮のやつ、まさか……。

「壮、お前、全部20点じゃないか。狙ってやったのか? それとも偶々?」

 壮の歩数は全て4。しかも、ダーツの針が示しているのは20の数字ばかりだった。

「偶々? はっ! そんなバカな訳ないだろ。ワザとだよ。こんなの正直余裕だよね。ていうか出来て当たり前?」

 うわ。なんかいきなり調子に乗り始めた。まぁ、それでも、

「すごいな、お前。良くあんな小さな所に正確に投げれたもんだ」

 賞賛に値するレベルではあった。

「え? そ、そうかな。い、いや、こんなの少し練習すれば誰だって出来るんだけどね、うん………」

 ……素直に褒められる事にはあまり慣れていないようだった。いつも俺たちが罵倒ばかりしているからだろうか。

 という訳で壮の残り寿命はほとんど変わらず、200以上を残していた。このまま進めばゴールはおろか、トップ通過すら安泰だろう。

 さて、最後は俺だが、大して面白くも無いのでさらっと流していこうと思う。

 ~ 昇 ~

『メフィストフェレスと契約する 寿命半減』残り寿命61。

「めふ……めふぃと……すとふぇれす、って何?」

 湯亜の舌足らずな言葉に対して、

「悪魔の名前だよ。主人公が最強になったってこと」

「さ、さいきょうか!? す、すげ~」

「寿命は半減してるけどね」

 はぁ、夏弥は分かってないな。

「強くなるためには犠牲にしないといけないモノだってあるんだよ」

 しみじみと言った俺に対してちびっこ高校生は「ああ、そう」といっただけだった。やれやれ。女にはこのロマンがわかんないのかな。

『永遠のライバル「ミッドナイト・オシリス」を打倒。+30』残り寿命80。

「よし! やつを倒せばもうこっちのもんだ! どんどん行くぜ!」

「お~! がんばれ~!」

 湯亜以外はなぜか二人とも無言だった。息を呑んで見守るとはこのことだろうか。

『数千年の時を生きる謎の魔女「ゆぱーぱ」と戦闘。惨敗し、弟子入りする-10』残り寿命50。

「くそぅ。さすがゆぱーぱ、強いな」「うむ。なかなかやりおるわ」俺と湯亜。後は静寂。


 という感じで着々と〈THE人生〉はエンディングへと近づいていき、今現在、ゲームオーバーに至りそうなやつが二人ほどいたりする。俺と湯亜だ。というかやはりこのゲーム、ダーツの上手いやつが圧倒的に有利であり、初心者の俺たちに、壮に対する勝ち目が有るようには思えなかった。

 と、半ば諦めムードで盤上を見守っていた俺だが、最下位を維持していた少女の次の一打で、場の雰囲気が大きく変わることになった。

 そう。クラスチェンジのマスに止まったのである。

「おっ、おっ! これ良いとこちゃうの!?」

 興奮冷めやらぬ湯亜が諸手を挙げてはしゃぐ中、にやりと影のある笑みを浮かべた夏弥の表情を俺は横目で見た。やはり何事かを企んでいたようだ。やれやれ、それにしても皆、こんな糞ゲーを良く真面目にやれるものだ。と製作者は一人、冷めた目線で俯瞰していた。

「どこにクラスチェンジするんだ? って訊かなくても分かるか。どう考えても資産家にならないと逆転は不可能だしな」

 言って、『豚』のクラスチェンジのマスから点線を引いて延びる『資産家』のマスへとスティックのりを運ぼうとした。のだが、

「おっちゃんとおんなじとこにする!」

 湯亜は真っ直ぐに俺を見つめて言った。

「……う~ん。超能力者に憧れるのは分かるが、ここだと壮を捲るのはたぶん無理だぜ?」

 自分で作っといて何だが、このクラスCのマスも豚と変わらないくらい寿命マイナスが多い。9割がプラスのマスになっている資産家ルートに比べるとその差は歴然だ。

 しかし、こちらの言葉に異を唱えたのは「ぶ~」と頬を膨らませた少女ではなく、意外にもこの面子の中で最も勝利への執念を燃やしているはずの夏弥だった。

「大丈夫よ、湯亜ちゃん。あなたがどのクラスになってもわたしが勝たせてあげるからね」

「ホント!? んじゃあ、やっぱり、ちょうのうりょくのやつにする!」

 嬉々として顔を綻ばせた湯亜は点線に沿って、クラスCの真ん中辺りのマスへとスティックのりを移動させた。

 超能力者へと変貌を遂げた湯亜はしかし、喜びも束の間、凄惨な現実を目にすることになる。

「あれ? これ、移動先のマスにも条件が書かれてあるけど、これは反映されるの? それとも移動しただけだから関係なし?」

 壮の言葉に一同、紙面を覗き込む。確かに、彼の言葉通り湯亜の移動先である超能力者ルートのマスにはある条件が書きこまれていた。それは、

『数千年の時を生きる謎の魔女「ゆぱーぱ」と戦闘。惨敗し、弟子入りする-10』

 だった。1ターン前に俺が踏んだマスが他プレイヤーのクラスチェンジのマスへと直結していたようだ。それを見て、俺は頭の中で数字を踊らせる。

「これが湯亜の寿命に反映されるなら、さっきのダーツの点数と合わせて残り寿命は……ああ、うん………9年しかないな」

「ひんしキタこれ!」

 何故かテンションを上昇させる湯亜だったが、その表情は最早このゲームを諦めている様にしか見えなかった。その様子に、現在トップ驀進中の壮は強者の余裕か、それとも単に憐れんだだけか、救いの言葉を差し伸べる。

「今回、移動後のマスは関係無しで良いんじゃない? ルールも曖昧なんだし」

「う~ん。まぁ、確かに」

 俺は頷く。どちらにせよ湯亜が絶体絶命であることに変わりはない。つまり、この議論自体大して重要では無いのだ。適当に決めて次に進めば良いだろうと思い、周囲にもそう同意を求めたのだが……どうやら一人だけ、納得を表明しない人間がいるようだった。

 夏弥だ。

「いいえ。ルールブックには反映させるって書いてあったわ。ここは厳密にするべきよ」

 さすがに俺と壮、湯亜ですら訝しげに眉を顰めた。

つい先程までは湯亜LOVEだった彼女が今や、少女を貶める言動をしている。クラスチェンジ然り、今回の反映うんぬん然りだ。

「そんなの載ってたか?」

 俺は紙面上の駒が転ばないように紙を捲る。夏弥の言う「ルールブック」とは〈THE ルール〉のことであると思ったからだ。しかし、全員の駒がほぼ真ん中に位置しているため、裏面の4分の1も把握できず、そこには夏弥の言うようなルールは書かれていなかった。

 そんな俺の姿を嘲笑うかのように夏弥はシニカルに言う。

「見なくても大丈夫よ。これは絶対に載っているはずだから」

「何でわかるんだ?」

 少しムッとしながら問い返す。

「その内わかるわよ。……とにかく! 移動後のマスは絶対に反映されるの! そうじゃなきゃこのゲーム、ただのクソゲーだわ」

 いや、それは重々承知しているのだが……。

「まぁ、お前がそこまで言うなら別に反映しても良いけど。というか俺はどっちでも良いしな。湯亜は? それで良い?」

 当然、この決定で最も被害を受ける人物に俺は問いかける。

「なんでもオッケーやで!」

 腕を伸ばして親指を立てた少女はすでに戦意を喪失しているようだった。……それもそうか。今や湯亜が勝てる確率は万に一つしかないのだから。

「んじゃあ、反映させるということで。となると湯亜の残り寿命は残り9年になる訳だな」

「いわゆる、ふうせんのともにしってやつな」

 うむうむ、と一人頷く湯亜であるが、

「風前の灯だろ。誰だよ、風船の友西って。浮いてんのか?」

 変な奴だな。

「いや昇、風船の友西は違うんじゃないか? 湯亜ちゃんは風船の友に死、と言ったんだよ。つまり、昔風船について語り合ったあの時の友よさらばって意味合いを込めて―――」

「どっちでも良いんだよ。壮、無理してボケようとするな」

「はい。すみません」

 そんなこんなで更にゲームを進めていく我々ではあったのだが、戦局は一向に変わらず、トップを壮が独走し、湯亜も細々ながら低空飛行で生き残っていた。そして、全員が残り2、3手でゴールするだろうという局面に達したとき、

「わっ、どまんなかだ!」

 湯亜が叫びを上げたのを見て、俺はダーツボードに向き直る。正直、このゲームにも飽き気味で、うつらうつらしている所だった。

 ダーツボードの真ん中から淡いピンクの、小さな花が咲いていた。

「おお。すげぇ、ブルじゃん」

 思わず感心の声を上げる。しかも、その場所に突き刺したのが壮ではなく、夏弥だったという事実が、しょぼくれた瞳に目新しさをもたらした。

「よし!」

 小声でそう呟いた夏弥の瞳はしかし、それほど喜んでいるようには見えない。嬉々とした様子とは別の、安堵を得たような雰囲気があった。

「真ん中に当てたら7歩以下の歩数を好きに選べるのよね。あたしはここにするわ」

 夏弥が駒を動かしたマスに書かれていた条件は、クラスチェンジだった。

「まぁ、妥当だね」

 壮が夏弥の選択に同意を示す。確かに最善の選択だ。ブルに当てたからといってこのまま進めば壮との寿命差は縮まりこそすれ、追い越すことは無いだろう。しかし、クラスチェンジをすれば数マス前から、しかも、より上ランクからやり直すことが出来る。彼はそういった意味で夏弥の選択に納得したのだろうが、対して彼女は、

「うるさいわね。話しかけないでよ、気持ち悪い」

 非常に辛辣だった。どうやら、壮との差が中々縮まらないことに本気で苛立ちを感じているらしい。笑わない彼女が更に仏頂面で顔を顰めているのは程悪く場の空気を凍らせていた。たかがゲームに良くこんな真剣になれるものだ。

「きも………ってそこまで言うこと無いんじゃないかな!」

 いつものように、特に嫌がっている様子もなく穏やかに否定の言葉を述べる壮。彼も俺同様、このゲームに飽き始めているのか、開始時点のように皮肉めいた発言は少なくなっていた。

「気持ち悪い奴を、気持ち悪いって言うことの何が悪いの? 早く死んでよ」

「うっ……」

 真顔に加え、低いトーンで話す夏弥の言葉に壮は怯む。

「ホントなんなの? たかがゲームごときで好い気になって、調子に乗って、人を嘲って、何が楽しいっていうの? ウザったらしい」

 彼女の苛立ちが増すにつれて、語尾がどんどん熱を帯びてくる。『深層の令嬢の妹』などというあだ名とは裏腹に、夏弥はお淑やかさとは無縁の人間だ。直情で暴力的、さらには人付き合いの経験も浅い。

 ここから導き出される彼女の性格は要するに、『子ども(ガキ)』なのだ。

 俺や壮、そして美奈とは良く話すといっても、根本的な彼女の性格は変わらない。

 苛立てば怒るし、悲しければ泣く。感情が高ぶれば場の雰囲気なんてどこ吹く風である。

「死んでよ! 今すぐ! くそデブ! 豚! くそ豚! ――――――」

 もうやけくそだった。彼女は頭に浮かんでくる暴言をそのまま喉へと通過させる。その侮辱の嵐にさすがの壮も嫌気が刺してきたのか、

「それぐらいにしといてよ。それ以上言うなら僕でも怒るよ」

 静かに告げた。そして、その言葉に効果はあった。

 滅多に生真面目な顔をすることのない壮が珍しく真剣に告げたことで、夏弥もやっと自分の周りの雰囲気に気付いたようだ。神妙な顔つきで肩を竦める俺と、怒鳴り声に驚いたのか瞳に涙を溜めて俯く湯亜にその目を移した。

「あっ…………」

 しまった、という風に口を開いた彼女は、重い空気を立て直そうとしているのか、パクパクと開閉を繰り返している。しかし、適当な言葉がそう簡単に手を差し伸べてくれるはずもなく、やがて唇は真一文字に引き伸ばされた。

 はぁ。やれやれ。

「それで? 夏弥はクラスチェンジのマスに止まった訳だけど、どこに移動するんだ?」

 言って、俺は指で摘まんだ消しゴムを目の上でヒラヒラと揺らした。一度悪くなった流れは打ち消せない。しかし、無視することは出来る。何事も無かったように振る舞うことで異なる川へとシフトチェンジする事は出来るのだ。そして、それが可能なのは争いの当事者でない俺と湯亜だけ。ここは年功序列で、俺が行動を起こすべきだろう。

 夏弥は俺の問いに対し、一瞬、呆けたように目を見開いたかと思えば、何かを考え込むように額に手を置いた。

「………ここに、置いてくれる?」

 彼女が指差したのは、俺達の思いもよらぬ場所だった。

「は? なんで、ここ?」

 駒を移動させようとしていた俺の指が止まる。もちろん、湯亜の時と同様、俺は資産家ルートへとそいつを運ぼうとしていたのだが………。

 夏弥が指したのは何故かクラスC『超能力者ルート』だった。

「いいから、早く置いてよ」

 少し声に元気を無くした夏弥は気怠げに告げる。何だろう、もうこのゲームに対するやる気を無くしてしまったのだろうか、それとも------。

「お前もやっぱり超能力者に憧れてたんじゃないか」

「いや、それは無いから」

 絶対的な拒否反応を示す彼女。そんな、恥かしがらなくても良いのに。

 まぁ、そんなことは置いといて。夏弥がクラスCになったことで、三人が超能力者に、壮だけが資産家、となった。

 これは壮の勝利で決定だな、と頭の端で確信にも似た思いを抱きながらも、俺は自分の順番が回ってきたのでダーツをぞんざいに放る。

 決められた歩数だけ駒を進めて、マスに書かれた文章を読む。

『(魔女「ゆぱーぱ」に弟子入りしている状態のみ有効)魔女に試練を言い渡される。他プレイヤー一人(相手のクラスは問わない)に決闘を挑まなければならない。ダーツを三本投げ、合計得点で勝利したプレイヤーは寿命+100、敗北したプレーヤーは魔法により、強制的に『豚』のスタート地点からやり直しとなる』

 ん? これは……?

「…………マジかよ」

 言ったのは、壮だった。次いで、俺も理解を示す。

「なるほどな。夏弥がこのルートを選んだ理由がやっとわかった。湯亜の言葉に反論しなかったのもこの為か」

 このマスは間違いなく、このゲーム最大の一発逆転が狙えるポイントだ。ハイリスク、ハイリターン。天国と地獄を総入れ替えする魔法の一手。夏弥がゲーム序盤からこのマスのみを狙っていたとしたら、それこそ用意周到というべきだろう。事実上、このポイントに駒が止まる可能性はお世辞にも高いとは言えない。しかし、今の状況ならどうだ。超能力者ルートに三つも駒が入っているではないか。その三つの内のどれかがこの場所へと辿り着くのは奇跡でも何でもない。ただ運がどちらに傾くか、それだけの問題だ。

「クラスチェンジ後のマスを反映させるかどうかで目くじら立てたのも頷けるね」

 壮の言葉に当事者は鼻高々と、

「ふん。そうでしょう? 『魔女の弟子』になっていなければ、このマスはただ通過するだけになってしまうもの。他クラスのクラスチェンジのマスが『魔女の弟子』の場所に繋がっている以上、このルート自体が一発逆転のために作られた道だと考えるべきだわ。反映させないなんて、ありえないと思わない?」

 まぁ……そう言われると、確かにそうだ。中学生の俺がそこまで考えていたかと問われると、非常に怪しいが。

「まぁ、でも結局は僕にダーツ勝負で勝たないといけない訳だよね。……いいよ。喜んで受けて立とう。悪いけど、手加減はしないからね」

 俺に向けて、自信満々に告げる壮。しかし、それが過信では無いことを今やこの場の誰もが知っている。そう、夏弥の計画の最大の欠点は俺も、湯亜も、そして夏弥自身でさえ、余程の運がないと、壮にはダーツ勝負で勝てないということだ。

 というわけで………俺は一足先にこのゲームから退場するとしよう。

「誰がお前にダーツ勝負を挑む、なんて言ったんだ。俺が対戦相手に選ぶのは………」

 アゴで対象を指して、俺は告げる。

「お前だ。夏弥」

「は?」

 お前コラふざけんなよ、という顔をしたちっちゃい女の子がこちらを睨んで来たが、俺は渾身の忍耐力で噛み砕かれそうな眼力から顔を反らした。

 別に、夏弥を怒らせるためにこんなことを言ったわけでは無い。ただ、意外にも彼女が真っ当な作戦を練ってこのゲームに参加していたことで、俺にも俄然やる気が沸いて来ただけだ。やはり、本気でやっている人間がいれば、周りもそれに感化されてしまうのだ。

 しかし、自分が勝つ、という考えはあまり無い。だらだらとスコアを落としてきた俺の寿命は今や20そこそこだ。壮に勝って逆転を狙うことも出来るだろうが、ダーツで奴に勝つのは難しい。負ければ、せっかく手に入れた千載一遇のチャンスを逃すことになる。

つまり、盤上の景色は変わらない。

 少しでも、だが確実に、壮が神と化したこの世界を塗り替えるにはどうするか……。

 机上に置かれたダーツを三本、その手に握る。

そして、通常とは逆さに、丸板に針が背を向ける形で、そいつを放る。

ダーツ板がプラスチックの羽を無下に弾き、地面へと叩き落とした。

「はい。これで夏弥の寿命は+100だな。結構、壮に追いついて来ただろう?」

 言った瞬間、厳めしい夏弥の表情が驚きへと変わった。

「なかなか……粋な真似をするじゃない」

「そりゃどうも」

 夏弥の怪しげな笑みを俺は素直に受け取っておいた。

 それから壮が、

「昇、お前って少年漫画の主人公には絶対なれないタイプだよな。ボスとの勝負を目の前にして逃げ出すなんて」

 などと言っていたが、無視した。主人公なんて、やたらと苦労が多いだけだ。物語の登場人物になれるなら、俺はモブキャラの中の名脇役を狙う。

 その後、次の一手であえなく寿命を全て使い果たしてしまった俺は、完全なる途中退場者と相成った。なので、あくびを噛み殺しながら盤上を見守ることに徹する。

 一番最初にゴール(老後)手前に辿り着いたのは壮だった。しかし、彼は次の一手で、あがることが出来なかった。ゴールするには、ゴールマスぴったりであがらなくてはならない。さすがの彼も、百発百中という訳ではなく、そして緊張に弱いという性質も相まって、一度ゴールに跳ね返されて数マスの減退を余儀なくされる。

 そうこうしている内に、今度は奇跡的にも湯亜が、あの決闘マスに止まった。

「ねえちゃんとやる!」

 何の迷いも無く少女はそう言った。ねえちゃん、といえばここでは夏弥しかいない。おそらく、少女には何の策略も無いのだろう。ただ単純に、壮と夏弥の実力を比較して勝てそうな方を選んだ、それだけのように見えた。

 これはかなりの接戦だった。素人のダーツ対決に本気もクソもない。枠内に針を刺せる、ただそれだけの実力しか持たない二人の優劣は運によってのみ左右された。

 勝ったのは夏弥だった。その差、たった2点。

「どわぁ~! まけた~!」

 ドタン、バタンとうつ伏せで暴れる湯亜。

 少女は悔しそうではあったが、満足げに頬を緩めていた。夏弥との勝負を十分楽しむことが出来たのだろう。壮とやっていれば、こうはいかなかったかもしれない。

 元々、湯亜がダーツをやりたそうにしていたから始めたこのゲームだ。彼女が楽しめたなら、その効果は上々と言える。少女の楽しげな様子を見て、内心ホッとしている自分がいることに気付いた。

 さて、この対決によって晴れて夏弥は壮の寿命を追い越すことに成功した。

「………うそぉ」

 壮がそんな上ずった声を発してしまうのも無理はない。一時、夏弥との寿命が200近く離れていたこともあったのだ。そこから逆転されるなど、到底想像していなかっただろう。

 事実が彼の調子を狂わせたのか、またも彼は狙った的を外し、ゴールマスに止まることが出来な…………いや、これは―――――――――。

「お前、往生際が悪いな」

 俺は思わず、彼に向けてそんなことを言った。

「あっ、気付いた? わざとゴールせずに跳ね返されて、このゴールの2マス前に止まれば永遠に寿命を増やすことが出来るだろ?」

 にやりとイタズラっ子のように口を歪めた壮の言葉は正しかった。確かに、ゴールの2マス前は寿命+30の地点になっている。つまり、壮が延々4歩進むダーツの得点を出し続ければ、夏弥の寿命を越すことは可能なのだ。しかし………。

「さすがにお前でもずっと4歩で進むことは――――――」

 そこまで言って、俺は口を閉ざした。閉ざさざるを得なかった。彼の今までの歩数は全て4。ダーツでは20の枠だけを綺麗に射止めている。

「他の歩数だったら微妙だったけど、ダーツで20の枠に入れるのは一番得意なんだよ。それだけでソフトダーツなら大抵の素人には勝てるからね。練習したことがあるんだ」

 いつそんな機会が? と思ったが、彼の自慢話を聞くのも気怠かったので「へぇ」と頷くだけにした。

 こうなってくると、夏弥は顰めっ面にもなるというものだ。やっとこさ、ちょっとした苦境を這い上り、乗り越え、ここまで辿り着いたというのに。結局、最後はダーツの上手い下手で結果が決まってしまうとなれば、精神的に萎えてしまうだろう。

 といっても、彼女にはどうすることも出来ない訳で、夏弥は淡々と駒を進めることに邁進していた。そして、さりげなく湯亜は『豚』ルートでいつの間にか死んでいた。やることを無くした少女は、てこてこと俺の隣に小走りで近づいてきて、「人の一生なんて、さみしいものだね」と、明後日の方向を見ながら呟いた。「それが人生さ。俺たちはただの豚だけどな。空も飛べない」俺はそう返して、二人で遠い目をして遊んでいた。何となく楽しかった。

 二度あることは三度ある。そこには何か、引力でも発生しているのだろうか。夏弥がゴールを目指す途上で止まった場所は、俺、湯亜に次ぐ、本日三度目の決闘マスだった。

 相手はもう一人しかいない。

「僕に勝てると思ってるのかい?」

 壮が言った。

「あなたに負けると思ったことなんて、一度たりとも無いわ」

 夏弥は応える。火花を散らす二人を俺が肩肘ついて傍観していると、隣で立っていた湯亜にシャツの袖を引っ張られた。顔を向けると、

「おっちゃん。だっこ」

 と言って、両腕をこちらに差し出してきた。急な申し出に俺は不覚にも困惑する。だっこだと? なんだ、それは? 俺は生まれてこの方、そんなことをやった覚えが無いぞ? どうする? どうしたら良いんだ? というか何故急に?

 多少の脂汗を額に垂らしながら、俺は反射的に差し出された手を掴む。すると、少女は自分で、掴まれた腕を引っ張り、その反動で俺の体へとよじ登ってきた。そのまま(ふと)(もも)の上に膝立ちし、よろよろと反転、ポスリと小さな尻を俺の脚上へと落ちつける。椅子に座る俺の上に、さらに少女が座る形になった。

「ふぁ……」

 湯亜は小さくあくびを漏らして、お腹に置かれた俺の手を軽く握る。そして首をコテン、と俺の胸に落ちつけて目を閉じた。

「……眠いのか?」

 少女は小さく首を横に振ったが、無造作に目をこする仕草からして、答えは明らかだった。

 俺は湯亜の体を両腕で支えて、ポンポンと、一定のリズムで指先だけをお腹の上で上下させてやる。すると、すぐに少女の体から力が抜け、スー、スーと寝息を立て始めたのが分かった。

 そりゃ、疲れもするわな。

 俺は湯亜の寝顔を見下ろしながら、そんなことを思う。

 こいつにとっては初めての環境に、見知らぬ人間達だったのだ。人生の三大ストレスは身内の不幸、離婚、引っ越し、だと訊く。この少女は我が家に引っ越して来た上に、学校から帰宅してみれば、親すらいなかったのだ。無意識だとしても、その精神的負担は相当に重荷だったであろう。

 全部背負うにはまだ、小さすぎるだろ……。

 俺の細腕の中で穏やかに眠る童女を見て、しみじみと、そう感じる。そして、そんな彼女が俺に気を許してくれた様を見て、心地よい安心感と、一欠けらの喜びを感じている自分がいることに気付いた。

 やれやれ。こいつを残して新婚旅行に行くなんて、親父もその再婚相手も、どうかしてるんじゃ―――――――――。

「やってないって言ってるでしょ!」

 唐突に大きな音が響いて、俺の体はビクンっと揺れる。慌てて湯亜の表情を伺ったが、かなり疲れていたのか、目を覚ます気配はなかった。

 それを確認してから、俺は声のした方向を見やる。

どうやらまた、あの二人が言い争っているようだった。

「いやいや。どう考えても………いや、考えるまでも無く、君はさっき、僕のトスを妨害したよね」

 十数分前と同様、壮の表情は完全に冷め切っていて、本気で頭に来ているのが一瞬で理解出来る。

「だから今のはワザとじゃないって、そう言ってるでしょ!? 文句があるならもう一度投げたら良いじゃない!」

 どうやら、ダーツ対決の最中にちょっとした問題が発生したようだ。この二人はちょっとしたことをギョッとすることに変えるのが大得意だな。

「そんな問題じゃない! 僕は君の謝罪が―――――――――」

「壮」

 俺は当然、二人の喧嘩に口を挟む。なんだよ、という雰囲気を漂わせた壮が俺を見る。彼がこんな厳めしい顔をするなど珍しい。相当苛立っているようだ。

「寝てるんだ。起きちゃうだろ」

 俺は目でちらりと湯亜を指して、告げる。

反射的に俺に反論しようとしたのか、彼は口を開くが、どうやら少女の寝姿にその手立てを失ったようで、言葉にならない音を漏らしただけだった。

「夏弥も、な?」

 彼女は、言い足りない、という風に壮を横眼で睨むが、どうにか自分を抑えたようで、下唇を少し噛んだだけだった。

 壮が一つ、大きく息を吐き、静かにしゃべり始める。

「じゃあ、僕がもう一回投げるよ。それでこの話は無しにしよう」

 自分に向けて放たれた言葉に、夏弥はゆっくりと頷いた。

 壮がダーツを投げる。得点は20、の隣の枠にある1点だった。初めて、彼がミスをした瞬間だった。

「この対決は僕の負けだね。最低ランクからやり直すことにするよ……」

 どうやら、勝者は予想を裏切り、夏弥に決定したようだった。俺としては、いや、壮からしても、これが無難な終幕であると言えよう。

 だが………ホッと一息吐いたのも束の間………本日最大の事件が起きることになった。

 きっかけはこの後、ぼそりと呟いた夏弥の一言だった。それは何気ない言葉。普段の壮なら聞き流していただろう、その言葉はしかし、低気圧気味の彼には重すぎた。


―――何よ。全部、あいつのせいなのに。


 一瞬、ほんの瞬き一つの合間、泣きたくなるような静寂が場を占めた。そして―――。

 リビングが歪んだのを感じた。全身を害虫が駆け巡るかのような悪寒を感じ、身を震わせる。毛という毛が張り詰め、鳥肌が冷や汗の流れを止める。

 本能的な恐怖が、脳天を真上から貫いていた。

 コップいっぱいに注がれた水の上から、小石が落ちてきたような気分。ほんの小さな変化であっても、確実にコップから水が溢れてしまったのを、感じた。

 目だけを動かし、隣に座る壮を見る。

 そこに、いつもの和やかな彼はいなかった。

 鈍重さと穏やかさを詰め込んでいるかの様に見えていた脂肪の塊は、暴力を孕んで獣のように野性味を増している。

 白眼に血管が浮き上がり、赤く蠢く眼光は目前の獲物を引き裂かんとする意思に砥がれ、ジャックナイフのように鋭さを増している。

 いつ猛威を振ってもおかしくは無い、固く握りしめられた拳は、触れたもの全てを砕かんと、鉄球のように重みを増している。

 ………これが、彼の本質だった。

 温和? 温厚? 温情? 優しい? 思いやる? 気の好い? マイルド? ソフト? ハートフル?

 なんとまぁ、彼に不釣り合いな言葉の群。

 本来、彼はそんな人間では無かった。言葉のやり取りが苦手な彼は、不満、憤りを感じた瞬間、口論という過程を放棄して感情の赴くまま拳を振り(かざ)す野獣だった。

半年前の夏、あの日、あの時までは。

 あの夏を経て、短気の権化であった彼は初めて自分と向き合った。

 必死で自分を変えようとした、変えなければならないと決意した。

その時の、彼の言葉を、俺は今も覚えている。

 だから、不服にも立ち上がるしかなかった。その言葉には、傍観者で居続けることを拒否する力が、十二分にあった。

 湯亜をそっと横抱きする。現世のことなどいざ知らず、ただ深い眠りへと落ちた少女はどこか、別世界の住人のようにも思えた。

 夏弥は盤上を凝視していて、壮の異変にまだ気付いていない。そもそも、昔の壮を夏弥は知らない……いや、正確には忘れている、か。そんな彼女が怒りに身を任せた壮を認識すること自体困難だろう。人は自分の見たいように物事を見るのだ。いつもは穏健な彼が今や自分にその拳を叩きつけたいと思っているなどと、そんなことは露にも思うまい。

しかし、それが何よりの救いだった。今なら、誰にも気付かれず、彼を止めることが出来る。俺は壮が何らかの行動を起こさない内に、湯亜を抱きかかえたまま、机の外周を回って夏弥に近づく。そして、唐突に少女を押しつける。

「ちょっと、こいつを頼む」

「え? わっ! へっ?」

慌てふためく夏弥だったが、湯亜が寝心地悪そうに眉根を寄せたのを見て、元通り、椅子に体を落ちつけた。

当然、何か言いたげな表情で彼女はこちらを見たが、そんなものに構ってやる暇は無い。お前の尻拭いをしてやろうというのだ。黙って見ていろ。と、俺は思う。

 壮の方に目を向け直すと、彼は椅子を引いて、立ち上がろうとしている最中だった。俺は慌てて彼に近寄り、真正面に立って、夏弥と壮、お互いの視界を遮る形で身を置く。

 壮が立ち上がる動作を、彼の手首を握ることで制止する。

「壮――――――」

 あくまで穏やかに、静謐に、落ち着きを持って、彼の名を呼ぶ。握った壮の手首から発する炎熱が、彼の怒りを現実として俺の体に植え付けた。

 ………失敗は、許されないな。

いつか、こうなることは分かっていた。半年前のあの日から、俺達は仮初の日常を送っていただけだ。いつ壊れてもおかしくない、そんな、あやふやで、静かな日々。触れることも出来ず、目を向けるのも嫌で、ただ表面をなぞるだけ。甘くもなく、辛くもない、ただ生温いだけの、世界。

 正しくは無い、だが、居場所はそこにしか無かった。

 俺達は欠陥品だ。それ故に、欠けた部分を補って生きるしかない。自分以外の誰かに補給してもらうしかない。それが夏弥であり、美奈であり、壮と、そして俺なのだ。

 俺達はお互いを養殖することでのみ、日常を保つことが出来る。

一人でも欠ければ、もしくは、一人でもこの均衡を崩そうとする者がいれば、俺達はあの夏に逆戻りするだけ、そして、この世に打ち勝つことも出来ず、ただ消え去るだけなのだ。だから、壮。お前がまさに今破壊しようとしているこの世界を、例え、何の意味も、価値も、進展も無い日々だとしても、俺は、守らなくちゃいけないんだ。他ならぬ、自分の為に。

「こっちを見ろ」

 俺の体を透過して、未だ夏弥を睨み続けている壮に、言い放つ。

 しかし、彼には俺の言葉が届いていないかのように動きが無い。仕方なく、俺は壮の目線まで腰を落とす。

「ねぇ、何してるの?」

 俺の行動を不審に思ったのか、夏弥の言葉が背中から響く。

「心配無い。壮は時々、持病でぼ~っとして意識が希薄になることがあるんだ。まぁ、すぐに治るんだけどな」

 振り向きもせず、俺は適当な言葉を並べ立てる。だが、あながち全てが嘘という訳でもない。壮は精神への負荷が一定値を超えると、我を忘れて怒り狂う。最早それは持病のようなものだ。

「ふ~ん? そうなの? 全然知らなかった」

 夏弥がそう言った瞬間だった。壮の片手を押さえていた俺の腕を、彼がもう一方の手で強く、握る。

「っ――――――」

 骨が砕けるかと思う程の、彼の握力に思わず苦悶の声を上げる。

「? どうしたの?」

 夏弥からは、俺に隠れて壮の肩口辺りしか見えていない。

「ちょっと椅子の角につま先をぶつけた」

「あっ、それは痛いわ」

 何とか誤魔化した俺は痛みに耐えながら、壮の表情を覗く。彼も俺と同様、苦痛に耐えているかのように上下の歯をこれでもかと打ちつけている。

 壮は、戦っているのだ。

 上手く感情のコントロールが出来ない自分に、最も苦しんでいるのは彼だ。

 かつて、一人の人間を死の淵まで追い込んだ自らの性格を、彼自身が誰よりも嫌っているのだ。

「壮…………、壮………、戻って、来い」

 俺の腕を握る手の力が徐々に強くなる。俺が出来ることはただ、痛みに耐えながら、掠れた声で彼の名前を呼び続けることだけだった。

 だが、それだけでも必死で闘うこの男の手助けは出来るはずだと、そう思った。


そして、数分後。


「…………………んあ? あれ? 僕、寝てた?」

 素っ頓狂な声を上げて、壮は俺の腕を万力から解放した。

 どうやら、正気に戻ってくれたようだ。

「みたいだな」

 ふぅ、と一息吐いた俺は、安心感からか、それ以上の言葉を発することが出来なかった。

「うわぁ、この持病が出たの、久しぶりだなぁ」

 狂気に陥っていた間も、耳は聞こえていたようで、壮は先程言った俺の適当な発言に辻褄を合せてくれた。

「ブクブク太ってるからそんなことになるんじゃないの?」

 夏弥の毒舌に俺は一瞬ひやっとしたが、

「ガリガリに痩せてる君よりかはマシ――――――というか君こそ、その平らな胸に脂肪を…………嘘、嘘! 嘘だから!」

 完全にいつもの壮に戻ってくれたようだった。

 俺は爆発寸前の夏弥から湯亜を没収し、椅子に腰かける。

「わぁ、きんつばのどアメやんか~。うまそ~」

 などと暢気に寝言をほざくチビ助に俺は少し癒された。


 その後、再開されたすごろくゲーム〈THE人生〉であったが、なんと、一人もゴールすることが出来ずに終わってしまった。というのも、超能力者ルートと豚ルートのゴール手前に何故か即死地帯なるものが広がっていて、あえなく二人とも死んでしまったのだ。壮も20以外の枠にダーツを刺し込むのは苦手だったようで、回避することは出来なかったようだ。

「何よ! このクソゲー!」

 と喚く夏弥だったが、俺はこう思う訳だ。

 人生なんて往々にしてクソゲーである、と。


~ 素直になれない彼女 ~

 次の日。

「昇! ちょっと!」

「なんだよ」

「あ、あのね。昨日さ、すごろくやったじゃん? あのときの事、壮、怒ってなかった?」

 心臓がドクンと、跳ねる。

「な、なんで?」

「な、なんかね、家に帰って考え直してみたら、ちょ、ちょこっとだけ、ほんの、ほんの少しだけど、こんくらいだけど……」

 彼女は親指と人差し指の間に小さな隙間を空ける。

「い、言い過ぎちゃったかなって………」

 しょんぼりと頭を垂れる夏弥。

「……ああ。そこに気付いたのか。確かに、言い過ぎだったかもな。後で謝っとけよ」

「そ、それは……」

「湯亜には話し掛けられただろ? また少しだけ、勇気出してみろ」

「ゔ~。わ、わかった」

 歩き去っていく夏弥を見て思う。壮、あいつ案外幸せ者だな。


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