ゲームしよう2
「わっ、わっ、きんつばやんけこれ、まじかすげぇなおい」
矢継ぎ早に捲し立てたのは、十代に差し掛かったばかりの年若き少女だった。
場所は我が家のリビング。長机に四人で腰掛けた俺達は小振りの紙箱を囲んでいた。
「ホントにあったんだ」
続いて軽い驚きの声を上げる夏弥。
「そこの戸棚に入ってたから、取りあえず出しといたよ」
壮が部屋の片隅に鎮座された食器棚を指差して言った。家に良く出入りする彼らは我が物顔で戸棚や冷蔵庫の中身を漁る。まぁ、別に良いけど。
「そういえば最近、親父が土産で買って来た物をあそこに詰め込んだな」
親父は仕事柄、遠出をする事が多い。外資系の会社だと聞いたことはあるが、どこの会社だったかは……今はちょっと思い出せないな。何にせよ、国内だけでなく、海外に行く事も少なくは無い。新婚旅行もおそらく世界中を回っているのだろう。せめて一週間やそこらで帰って来てくれれば良いのだが………いや、無理か。
やれやれ、と内心で溜息を吐いたところで、きんつばの前で涎を垂らす少女が声を張り上げた。
「おちゃ! ミドリのおちゃ!」
緑茶の事だろうか。何かと注文の多いやつである。
「はいはい。今入れるからちょっとまってねぇ、湯亜ちゃん」
夏弥がごきげんゆるゆる笑顔で席を立った。少女の顔を見て、でへ、でへと笑う彼女は少々見苦しい。
俺達が目の前でバタンバタンとはしゃぎ回るこの少女を追いかけたのが十数分前、彼女は案外、すぐに見つかった。道路の端に蹲り地面を睨んでいた所を発見したのだ。発見当初こそ、寂しさのあまり泣いているのかと思い、胸の最下部辺りがちくちくと痛んだが、なんてことはない、ただ地面を歩くアリの行列を夢中で観察しているだけだった。その後、「お名前はなんて言うんちぇちゅちゃ!」という夏弥の虚しい努力と共に今がある。
だがしかし、悪夢はそこから始まった。
いやむしろ、今朝からの出来ごとが全て悪夢であったら良かったのにと思う。どれだけ最悪な事態でもそれが夢なら取り返しもつくというものだ……。
夏弥のその時の問いかけに返答した少女の言葉に俺は絶句した。
「は~い。湯亜ちゃん、お茶だよ~。熱いから気を付けてね」
少女の頭を撫でながら静かに湯のみを置く夏弥。
「へぇ、ユアって名前なんだ。で? 結局どこの子なの?」
壮が素朴に言葉を紡ぐ。
「……ウチだよ」
俺はぼそりと呟いた。あまりに認めたくない事実なので必然、言葉の歯切れも悪くなる。
「へ? なんて?」
壮が訊き返す。
「……ウチなんだよ。今日から俺の妹になる、らしい。雛芥子湯亜の「ヒナゲシ」は親父が再婚した人の名字だ」
…………………………………。
圧倒的勢力で場を制圧した『静寂』はしばらくの間、覇権をその手で独裁した。
「………ん~まいっ!」
静寂を断ち切ったのは頬を和菓子の重みで膨らませた湯亜の一言だった。
それで後の二人も我に返ったのか、切れ切れの言葉を紡ぐ。
「は? え? 妹?」「あの人が? 再婚?」
唖然と開いた口から漏れたのは文章の形を成さない単語のみだったが、それだけで二人の言いたいことは十分に読み取ることが出来た。
俺は本日何度目かの溜息で心を落ち着かせ、二人に朝からの出来事を説明した。
親父がどんな媚薬を使ったのか、どこぞの女性を誑かして新婚旅行に行ったこと。その女性には連れ子がいたこと。さらに、それが一人ではなく二人であったこと。今朝の状況から考えれば、湯亜は俺が目を覚ます前に小学校に通学していたのだろう。もしかしたら親父と婚約者がまだ小さい彼女だけ、学校まで案内していったのかもしれない。
「はぁ~、そんなことがあったとは」
話を聞き終えた壮が深々と息を吐いた。
「いいなぁ、あたしも湯亜ちゃん欲しい」
人の気も知らず、夏弥が呑気にそんなことを言った。
欲しいならあげるよ、と口を吐いて出そうになった言葉をやっとの思いで飲み込み、
「簡単に言うなよ」
と言い返すのが精一杯だった。ふと、壮が辺りをキョロキョロ見回している事に気付く。
「そういえば、朝方居たというもう一人の妹さんはどこにいるの?」
壮が気にしているのは元気満々な末妹とは対照的に、とてつもなく人見知り(もしかしたら夏弥以上かもしれない)の雛芥子沙織の方だろう。
「あれ? ………まだ帰ってない?」
俺も周囲に気を配って、やっとその事実に気付く。
そうだ、あいつが帰っているか確かめるために気持ち急ぎ足で帰宅したのに、すっかり忘れていた。
「なにやってんだよ」
そう言って、時計に目を移すと時刻は四時半を少し回ったところだった。中学校の始業式に加え、転校の挨拶や手続きが重なったとして、それでも遅くとも二時には学校を出られるはずだ。つまり約十五分ほどの道のりを雛芥子沙織は二時間半もの時間、迷いに迷っているということになる。のだが、
「………う~む」
腕を組んで唸ってみた。
「何? また捜しに行くの?」
夏弥がどうでも良さ気に口を挟む。湯亜が和菓子をバクバク口に詰め込んでいるのを眺めながら。こいつ、捜しに行くことになっても今度は着いて来ないだろうな。
「………いや、あいつの方はもう中学生なわけだし、どこかに遊びに行ってるのかもしれない。それをわざわざ探し出して邪魔をするというのも野暮な話だ。というかそもそも、探すといってもどこをどう探せばいいのか……。こいつの時とは捜索範囲が違うしな」
どこで覚えたのか、上品に湯のみを傾ける少女を目で指して言った。
それを聞いた壮が、軽く頷く。
「そうだね。最近の中学生って割と色んな遊び知ってるし、転校初日から気のあった友達とカラオケにでも行ってるんじゃないかな」
………どうだろう。そんなにすぐ友人を作れるタイプには見えなかったけどな。
まぁでも、転校生ってのは目立つものだし、学校が早く終わる日にどこかへ出掛ける可能性は結構高いな。
「は? カラオケなんか普通、中学生は行かないでしょ。あたしも行ったことないのに。ね? 湯亜ちゃん?」
「からおけてなに?」
ちょこんと首を傾げた湯亜の問いかけに夏弥は「湯亜ちゃんはまだ知らなくて良いことよ~」と言って、頭を撫でた。なら最初から訊くなよ。
夏弥の言葉を聞いた壮が堪らず反論する。
「いや、高校三年にもなってカラオケに行ったことのない女子高生なんて、君ぐらいじゃないかな。中学生でも普通に行くでしょ」
夏弥の瞳の色が変わった、様な気がした。闇を塗り固めたような漆黒の球体が、壮を冷ややかに見つめる。
「………それ、どういう意味? あたしとカラオケに行くような友達はいないって言いたいの?」
静かに放たれた言葉には明らかに鋭利な棘が付着していた。顔表皮に張り付けられた笑顔という名の凶器が壮を着け狙っている。
そこでやっと彼も自分の失態に気付いたのか、慌てて弁明を試みる。
「え、あ、いや、そういう意味では……………というか、別にカラオケなんて行っても大して楽しく無いよね! 行かない方が無難……いや、賢い選択ってやつだよね、うん。そう、夏弥なんかが行っても赤っ恥かくだけというか、いや違った、これ違うやつだったわ。忘れて。……夏弥が人前で歌うとか出来る訳ないし、誰もカラオケなんて誘わない……ってのも逆効果か……。え? じゃあ、後何が残ってんの? もう無理じゃね? フォローとか出来る訳無くね? 夏弥とカラオケに行くようなやつなんてどう考えても美奈ぐらいしかいないし、でも美奈って真面目だしカラオケとか行かなそうだし。そうなると夏弥ってたぶんカラオケに行くこと一生無いんだろうな。可哀想なやつ」
言い終わった所で、壮はハッとしたように顔を上げ、自らのブ体の前にそそり立つ小さな影を見た。
断末魔は夕闇へ。俺はせめて、彼の魂が地獄へと導かれないように、窓外の赤い残光に向かって手を合わせた。
長机の向かい側で空になった湯のみを掲げながら、ケタケタと笑う少女の姿があった。
席を立って、異世界の住人としか考えられなくなってしまった壮の形容しがたい肉体を、夏弥と共に指先でつつくその姿は何とも残酷な絵だ。
………というわけで、
話も一段落ついた所で俺は席を立ち、蛍光灯のスイッチを入れ部屋に忍び込んだ影を一掃し、リビングの端に設けられたソファへと向かう。そのソファの前には四十インチのテレビが置いてあり、俺は当初の目的通りのんびりとゲームでもやろうという魂胆だ。
「あっ! あたしもやる!」
言って、ナメクジのように、ソファに体を這わせて後ろから割り込んできたのは夏弥だ。
「でろ~ん」
続いて、妙な擬音を吐きながら湯亜も同じように滑りこんでくる。
ん? そういえば……。
「お前は、姉がどこにいるか知らないのか?」
ソファの上で夏弥とじゃれ合う湯亜に問いかける。やれやれ、この二人、いつの間にか無駄に仲良くなっているな。何かしらの波長が合ったのかもしれない。
「ねえちゃん? そんなん、全然しらん!」
「そうか」
まぁそれは最もだな。姉妹だからといってお互いのことが全てわかっている訳ではない。
「あれ!? あれ、何やのん!?」
細く、幼い、それでいて空間にがっちりと固定された指先が、テレビから二メートル程横の壁を指していた。
俺と夏弥はほぼ同時に細い指の線上へと目を向ける。
丸い板が金属製のフックに吊るされて壁と一体化していた。
板の厚さは約二センチ、直径は四十センチといったところか。表面が緑と赤の色彩で丁寧に塗り分けられているが、その色に生み出されたばかりの煌びやかさは無かった。埃を引っ被ったその板は全体的にくすみ、黄ばんだ白い壁紙と大差なく年季を帯び、馴染んでいた。
そういえば、こんなのあったな。と今更ながら思う。恒常的にそこに鎮座していたはずの丸板を、俺は久方ぶりに意識の範疇へと踏み込ませた。
「ああ、これか? ダーツだよ、ダーツ。中学の頃に買って貰ったやつだけど、一週間で飽きたな」
湯亜の質問に答えて、数年前の自分を思い起こしてみる。自分は何故こんなものを欲しがったのだろうか、と自問したが、分厚い壁に覆われているかのように過去の記憶は脳の奥底にしがみ付いて離れなかった。
「一週間って……どんだけ飽きっぽいのよ」
夏弥の呆れた声がチクチクと耳を突いた。
「やかましい。一人で壁に針を投げて何が楽しいんだよ」
ウチでは一緒にやる相手も親父ぐらいしかいない。だが、親父と一緒にダーツをするなんてことは考えただけで寒気のする悪夢だ。
「知らないわよ。やったことないし。でも、楽しそうだと思うけど」
興味深々という感じで夏弥はダーツボードへと歩み寄り、金属フックから丸板を外す。
「あっ、裏に針付いてるじゃん。………ん?」
丸板の裏面を見ていた彼女はふと、訝しげな声を上げる。
ゴソゴソと裏面を見ていた白い手がやがて、一枚の折り畳まれた紙を取り上げた。
「何これ?」
指先でぶら提げたそいつをこちらに示すが、一向に見覚えは無かった。
「さぁ?」
素直に返答する。
ガサガサと、音を立てて夏弥は乱暴に折り畳まれた紙を開いてゆく。
「なにこれ。『THE人生!』て書いてあるけど」
「ザ・人生? 何だそれ? 知らないぞ、そんなの」
なおざりに答えて、俺はゲーム機の電源へと手を伸ばす。
ダーツなんてアナログな物は無視して、テレビゲームへと没頭するつもりだったのだが、夏弥はそんな俺の意思を察する事無く、次の文章を読み始めた。
「新感覚超ハイパーすごろくゲーム。万人がハマること間違いなし! だって」
「誰もハマらなかったから、そんな所に押し込まれてたんだろうよ。良いからそんなの仕舞っとけ」
言って、ゲーム機の電源を入れた俺はコントローラーを握る。
「作成者 蒲焼洋一&昇……」
ギクリ、と心臓が弾むのが分かった。喉もカラカラに乾いている。
実の所、ゲームタイトルを耳にした辺りから、何となくその紙のことを思い出しかけていたのだ。
俺が中学二年の時に兄と作った、すごろくゲーム……。
反射的に立ち上がり、夏弥に近づいた俺は紙を取り上げようと手を伸ばす。
「わっ、なにすんのよ!?」
紙に触れた手が夏弥に叩き落とされる。
「何、じゃないだろ。他人んチのものを好き勝手にいじるな」
「何を今さら………。あっ、もしかしてこれ、見られちゃまずいやつだったり?」
途端にニヤつき始めたチビ女の顔にやおら苛立ちを覚える。
「いいから渡せっつってんだろ」
「おわっと。へっへ~。そう簡単には渡さないもんね~。昇が隠そうとするなんてよっぽどだしね。エロ本も隠さない癖に」
「隠してるだろ、一応」
「上から教科書を重ねただけで隠した、とは言わないの」
「やかましい。そんなこと今はどうでも良いんだよ」
再度、夏弥に跳びかかる俺。
「わっ、わっ、ちょっ、セクハラ! どこ触ってんのよ! 離せ、やめ……ひゃぅ……」
身を捩って悲鳴を上げる夏弥。一体、俺が今何をやっているのか、というのは自主規制。
俺の攻撃に耐えかねた夏弥は次の行動に出た。
「こ、このやろ~! ていっ!」
夏弥の投げた紙がクルクルと回りながら放物線を描く。その先にいたのは……。
「およ?」
ソファに仁王立ちしていた雛芥子湯亜は目前にポスリと着地した紙を茫然と見下ろした。
「湯亜ちゃん! そいつを持って逃げるのよ!」
夏弥の叫び声に対し、
「うぃ! 了解だわ!」
何か面白そうな臭いを感じ取ったのか、元気よく返答し、紙を拾い上げて走り出した。
「おい、待て!」
と言って立ち止まる奴など存在しない。ご多分に漏れず、湯亜は「ウヒヒ」と気色の悪い、更に言えば、苛立ちを増幅させる笑い声を上げながら、リビングの扉へと向かう。
………ふむ。こいつら……中々舐めた真似をしてくれる。
ここらで一つ、キツイお灸を据えてやるべきか、などと思いながら、チビ助に追い縋ろうとした俺の足を夏弥が両腕でロックした。このやろう、
「調子に乗るなよ」
バコンッと心地よい音を立てて夏弥の頭を平手打ちにする。
「あでっ! お、女の子の頭を、殴るなんて………」
「俺は壮ほど優しく無いからな」
涙目で訴える悲痛な言葉を一掃する。
と、そこでガチャリ、という音と共にリビングの扉が開かれるのを目の端で捉えた。
「あのやろう、ちくしょうめ」
吐き捨てて、走り出そうとすると、扉を抜けようとする少女の隣でムクリと起き上がる丸い物体が見えた。
おっ、こいつはラッキー。
「壮! そのガキ捕まえろ!」
声を張り上げると、
「んえ?」
という、ふ抜けたぼやきと共に丸い塊、もとい、壮は顔を上げる。表情はまさに寝起きといった感じだ。こいつ、本当に気絶してたんだな。最近の女は手加減というものを知らないから厄介だ。
「あ………」
壮と目の合った少女がそんな声を漏らす。どうやら逃げるのも忘れて、壮の復帰を眺めていたようだった。
「壮! 早く!」
再び歩を進めようとした湯亜を見て、俺は堪らず叫んだ。
「え? ああ、うん」
いつに無く必死な俺の言葉に何かを感じ取ってくれたのか、彼は同意した。
「駄目よそ………もがもが」
夏弥が制止しようとする言葉を俺は顔面ごと両手で塞いでやった。
その甲斐あってか、壮は少女の腕を掴むことに成功する。
「うがぁ。放せやぁ」
それでも尚、ジタバタもがく湯亜に手を焼く壮だったが、それも俺が彼女の目の前に辿り着くまでだった。
ゔぁ! と往生際悪く噛み付こうとしてきた顔面を避け、少女の小さな頭をフンヌと掴む。
「いだっ! いだだだだだっ!」
頭部を圧迫されて苦渋の声を上げる少女に告げる。
「渡せ。くそガキ」
笑顔も何もない、ただ単純に発した脅し文句に、湯亜は素直にビビってくれたようで、目に涙を溜めながら、手の平を広げて所々折れ曲がった紙を差し出してくれた。
「うむ。よろしい」
紙を受け取った俺は頷いて、少女の頭を撫でる。彼女はホッとしたように息を吐いた。これぞ、世に言う『飴と鞭』ってやつだろうか。なるほど便利なものだ。
その様子を隣で見ていた壮が不思議そうな声を上げる。
「なにそれ? 大事なもの?」
「いや、むしろ即刻廃棄したいものだな。昔、俺が作ったすごろくだよ」
「すごろく? ふぅん?」
そんなものを何故必死に取り返そうとしたのか。納得は出来なかったが、まぁいいや、という風に壮は頷いた。
「さて、と」
俺は入手した紙を開いて中身を確認する。実の所、必死になって取り返してはみたものの、内容がどんなものかはイマイチ覚えていなかった。
ただ、中学二年の頃に創造した物を、他人に見られるというのが嫌だっただけだ。
「ふむふむ。なるほど」
確認を終えた俺はゆっくりとその紙を元の四つ折り状態に戻す。
「………別に見られてマズイことは何も書いて無かったな」
何気なく呟いた発言に夏弥が悲痛な声を上げる。
「な、なによそれ~!? あんなに頑張ったのに~!?」
「知らんよ。お前が頑張る所を間違えただけだ」
「う~、最悪……」
項垂れる彼女を不憫に思うその心を、残念ながら俺は持ち合わせていなかった。
しかし、心優しい壮が夏弥に同情したかのように言葉を紡ぐ。
「じゃあ、折角だし、そのすごろく、だっけ? 皆でやろうよ」
「え~、あたし普通にテレビゲームしたい」
夏弥の発した言葉に俺と壮は苛立ちを通り越して驚愕を覚えた。一体全体、誰のせいでこんな騒動が起こったと思っているのだ。それなら最初からそっちに向いてくれていれば苦労しなかったものを。
さすがは『深窓の令嬢、の妹』といったところか。傍若無人なわがままに関しては右に出る者がいないな。
「そ、それならテレビゲーム、やる?」
壮はチロチロとこちらに視線を向けてくる。こいつはどこにいても場を仕切るのが苦手だ。彼のそういうところは別に嫌いではないのだが、将来、苦労するだろうなと、心の隅で思う。
仕方なく、壮の助け船に応じて会話を引き継ぐ。
「今更すごろくなんてやっても楽しくないだろ。いつも通りゲームやろうぜ」
と、指針を決めたところでソファに戻ろうと歩を進めた………のだが、一歩踏み出したその足を、唐突に背中に掛った重力が止めた。
振り向くと、カッターシャツを指で摘む年若き少女の姿があった。その、星が浮いているかの様な闇色の瞳は、不満げにこちらを睨んでいる。
「………なんだよ」
しばし無言で睨みつけられた俺は堪らずそんな言葉で対応する。
すると、少女はゆっくりとその腕を上げ、またもや壁際を指差した。
「だーつ、やらんの?」
湯亜が指差していたのは煤けたダーツボード。
「ダーツ? やりたいのか?」
あの丸板の何がそんなに魅力的なのか、と疑問附を付けた言葉にしかし、少女は頷かない。ただ不安そうに眉を寄せて俺を見つめるだけだ。
なんだ? こいつは何が言いたい?
口を噤んだ少女の様子に俺は些か混乱した。本当にダーツがやりたいのなら、彼女の今までの振る舞いからして、遠慮なく頷くはずだ。にもかかわらず、弱弱しく服を摘んだ少女は依然、躊躇いがちな表情でこちらを見つめるだけだった。
その態度が理解できない。どんな心境の変化があればこんなことになるのだろうか。
何か、言外の意図を彼女は伝えようとしているのか。それとも明確に自分の意思を表明することが困難な理由でもあるのか。
そう思ってふと、ある考えに至る。
もしかして………俺が怒ったからか………?
別に本気だった訳ではないが、それでも湯亜にとっては十分、恐怖だったであろう。しかも体罰付ときたら尚更だ。
まさかあれくらいで彼女が変化するとは思わなかったのだが、それは俺の判断ミスだったのかもしれない。湯亜は、加えるとその姉の沙織は、一般的な家庭で育ったのではない。親父が再婚した相手の連れ子ということは、少なくとも片親育ちということだ。それに、彼女たちの父親がどのようにして二人を置いて去っていったのかも、俺は知らない。
ならば、彼女たちは、他人には及びのつかない、彼女たちなりの生き方を確立してきたはずだ。そして、それは主に、他人の怒りを買わず、空気のようにその場に溶け込む能力に特化することなのだと、経験上、俺は知っていた。
なぜなら、彼女らにとって自分が頼れる存在といのは母親一人だけで、必然的にその唯一無二の人間に迷惑を掛けないという思考が最優先事項として浸透するからだ。片親という仕事は当然、楽じゃない。様々な理由からストレスが溜まることもあるだろう。例え自分の娘だからといって、常に優しく出来る訳ではない。ふとしたことで我が子に八つ当たりじみた態度を取ってしまうこともある。
親父だってそうだった。
そうなると、子の心境というのは単純だ。どうすれば叱られないで済むか、どのように親の手を煩わせないようにするか。無難な発言、自らの欲望を出来るだけ押し込める、そういう結果に至る。
つまり、目の前でポニーテールを不安げに揺らす、俺の胸にも届かない小さな少女は、必死になってこちらの、この俺の、ご機嫌を窺っているのだ。
極力苛立たせないように、自分の『欲望』と俺の『都合』を天秤にかけ、お互いの妥協点を探っているのだ。
それは、素晴らしい技術かもしれない。高校生にもなればその能力は大いに役立つ。俗に言う『空気を読む』という行為に繋がるからだ。
それでも、湯亜のような女の子が、まだ歯も入れ替わっていない小学生が、やるべきことではない。
……いや、違うな。小学生だろうが何だろうが、誰しもそんなことはやっていることだ。湯亜は他人よりもその度合いが強いというだけ。
問題はそんなことでは無い。重要なのは、この俺という人間が、この大した取り柄もない、湯亜よりも単に少し年を食っているだけの自分が、彼女に気を遣わせたというその一点のみだ。それは、何故かは分からないが、とても不快に感じることだった。
彼女に対してでは無い、そんなことをさせてしまった自分に嫌気が差した。
「そうか。じゃあ………」
ダーツやるか。という言葉を俺は寸での所で呑み込んだ。
ここで湯亜の望み通りの行動を取ってしまえば、結局これから先も状況は同じだ。彼女は俺に気を遣い、それを察した俺は自己嫌悪に至りながら湯亜の希望を満たす。
なら、どうすればいい。
俺の勝手な『都合』を押しつけた上で、湯亜の要望を満たす方法が必要だ。
しかし、そんなものあるはず………。いや、待てよ………。
俺は湯亜から顔を反らし、夏弥と壮の方に向き直って、告げる。
「やっぱやめた。ゲームじゃ無くてすごろくやる」
言って、俺は手に持った紙を二人に掲げた。
「え~っ!? なんで!? ゲームやるって言ったじゃん!」
夏弥がふくれっ面を視界に押し付けて来たが、そんなものは無視。壮は元々どちらでも構わなかったようで、ぼうっとこちらを眺めただけだった。
「言ったけど、久しぶりにすごろくやりたくなったので、こっちやります。あしからず」
問答無用に告げて、湯亜がきんつばを頬張っていた食卓机へと足を戻す。
今度は小さな指に引き留められることもなく、ふわりと少し軽くなった腰の感触だけが後に残った。ちらりと振り向いて少女の顔色を窺って見たが、俯いたその表情を捉え知ることは出来なかった。
「もお~、しょうがないなぁ」
俺の断固とした態度にテレビゲームを諦めたようで、夏弥は言って、ソファから立ちがる。壮もそれに続いた。
俺と壮、夏弥が食卓机に座り直したとき、湯亜はまだリビングのドアの前で佇んでいた。
「湯亜ちゃ~ん! こっちおいでぇ!」
夏弥の何気ない言葉に少女は顔を上げ、こちらを見る。
そこに浮かんでいたのは、
「うん!」
と元気よく頷き、駆けてくる満面の笑顔だった。
・・・・・・・・・ふむ。一瞬たりとも愚図らないんだな。何とも扱いやすい。良く教育されている、と言うのかな? これは。
しかし、夏弥の隣の椅子に勢いよく滑り込んだ彼女の顔にはもう、先ほどまでの心底楽しげな雰囲気は薄れているような気がした。
まぁ、そう落ち込むなよ。ここまでは俺の都合だ。実際のところ本意ではないが、一応表面上は満たされた形になっている。
ここからはお前の望みを叶えてやる番だ。
「え~と、まずは………寿命を決める、って書いてあるな」
机上に紙を広げて、遥か昔に頭を振り絞って考えたのだろう、〈THE ルール〉と銘打たれた四角囲みの文章を読み上げる。
「寿命? なにそれ? すごろくじゃなかったの?」
言って、首を傾げた壮が隣から紙を覗きこんでくる。それを真似て、向かい側に腰かけた夏弥も首を伸ばす。俺は二人に見やすいように紙を横向きに動かした。
「えっと、なになに………? 最初に持ち得た寿命が亡くなったらゲームオーバー、だって。へぇ、少しは工夫して作ったみたいね」
何故か上から目線で夏弥が褒める。少しいらっとした。
「そりゃ、わざわざ普通のすごろくを新しく作ったりしないだろ。んじゃ、壮。寿命決めるからダーツ持ってきて」
「ん? ダーツ? 寿命ってダーツで決めんの?」
言いながら、即座に席を立ってダーツの針を持ってきてくれる壮。使える男だ。
数本のダーツが机に並べられる。
「ん。そう書いてあるな。十本投げた合計で決まるらしい」
「らしいって……。自分が作ったやつじゃないの?」
夏弥の呆れ顔を軽くスルー。そんなことよりもその隣に目を移す。
……爛々と光り輝く瞳のなんと美しいことか。
ピンクとブルーの淡い双翼を携えた銀のロケットを少女は羨望の眼差しで見つめる。そこに先ほどまでの憂いはなく、逆に期待感と驚愕で喜びをサンドしているかのような表情だった。そうかそうか。満足してくれたか。これで安心、よきにはからえ。
「じゃあ、後のルールは置いといて取り敢えず寿命だけ決めとくか」
もう我慢の限界、といった具合に両手で机を摩擦する湯亜を見かねて、俺は告げた。
これ以上焦らせば、半開きになった口元から涎が漏れてきそうだ。その様はまるで空腹に喘ぐ野良猫だ。
「そうね。じゃあ……湯亜ちゃん、最初にやってみる?」
夏弥も隣の荒ぶる獣に気付いたのか、手に取ったダーツを少女に差し出す。
「うん! やる!」
その笑顔ったらもう、満天に煌めくなんとやら、だ。こいつ、そんなにダーツやりたかったのか。その欲求を良くあそこまで我慢できたものだな。
夏弥に渡されたダーツを右手でぎゅっと握りしめて湯亜は席を立つ。
「投げる位置はそうだな………この辺でいいか」
小走りで駆けて行った少女を追って、ダーツボードの三メートルほど手前で静止させる。湯亜の腕力ならこの辺がベストだろう。ダーツというのは初めてやると、これが中々枠内にさえ当たらないものだ。少し近い、と思うぐらいが適当な位置だろう。単に俺の運動神経が悪いだけかもしれないが。
丸板とにらめっこする湯亜が気合いを込めて、
「う~。やったるぜ~い」
と表情を引き締めた。
頼むから枠外は勘弁してくれよ。壁に穴を空けると、あの怠惰な親父でも僅かばかりの労力を消費して怒り出す可能性も否めない。
「ちょいや!」
不可思議な掛け声と共に、銀の針を持つロケットが発射される。
そいつはほわっと放物線を描いて宙を舞い、空気抵抗を受けてその体を左右にふらふらと漂わせ、トスリと、丸板の下端に手を掛けた。
夏弥がその様子を見て、称賛の声を上げる。
「わっ、すごい! 十九点だ! 高得点だよ、湯亜ちゃん!」
「いやっひゃっひゃ! それほどでもある!」
自信満々に少女はその腕を掲げた。謙虚さの欠片も無いやつである。
「えっと、じゃあ湯亜ちゃんは寿命が十九歳まで………つまり、今のところ十九歳で死んじゃうってことだね」
夏弥の横で壮が冷静に、鞄から取り出したペンとノートでメモを取る。
「え!? もうすぐやんけ!」
が~ん、と頭を抱える少女。
「不吉なこと言わないの、この豚!」
なんとも理不尽に頭を夏弥に叩かれる壮。
「大丈夫よ、湯亜ちゃん! あと九回投げられるんだから。いくらでも寿命は伸ばせるわ」
いや、いくらでもは無理だろ。という言葉は面倒なので噤んでおいた。壮の二の舞は避けるべきだ。
「そうか! んなら余裕やん!」
いまいち理解しているのかどうか怪しいが、湯亜はとてとて、と小走りで新たなダーツを握って駆けた。
その後はルール通り。湯亜が十本のダーツを投げ終わった後、俺と壮、夏弥も湯亜より一メートル離れた位置からそれぞれ投げ、自分の寿命を弾き出した。
投げた順番から、
湯亜……162歳。
夏弥……131歳。
壮………234歳。
昇………128歳。
となった。不覚にも壮の寿命が一番長いという屈辱をその他三人は味わうことにより、当初よりもこのゲームに対するやる気がプライドの影響で1.5倍増しになった。
「え? なに? み、みんなどうしたの? ちょ………怖いんだけど。目が。………別に良いじゃない、偶には僕が一番になったって。………だめ? やっぱりだめなの? 許せない? いやぁ、そんなこといわれてもなぁ……」
困っちゃうよなぁ。と嬉しそうに笑う彼を見て一同、一様にフラストレーションを溜め込んでいた。
もっとかまってちゃんと化した壮を無理やり視界から剥がして、俺たちはルールブックへと目を戻す。こうなったらこいつを完膚なきまでに打ち滅ぼすのが俺たちの成すべき仕事であろう。
〈THE ルール〉にはこう書かれていた。
『次に、それぞれの地位を決める。ダーツを一人一本ずつ投げ、数字の高い順に高地位とする』
地位? 紙を捲って裏面を見てみると、そこにはすごろくのマスが所狭しと並んでいて、俺はなるほど、と一人頷いた。
「このすごろく、一人一人スタート地点が違うんだな。高地位になればなるほど有利なスタート地点に立てる、という訳か」
それを聞いてか聞かずか、
「そう。まぁ、とにかくダーツ投げましょうよ。あの豚を最下層にまで突き落としてあげるわ」
壮に負けているのが我慢ならないのか、夏弥が真剣な顔で呟く。その手には既にダーツが握られていた。
しかしそれは、だらしない体をぶら提げて、だらしなく頬を緩めたデブを調子付かせただけだった。
「まぁまぁ、やっちゃん。落ち着こうよ、ね。さっきは湯亜ちゃんから投げたんだから、今回も順番通り湯亜ちゃんからやるのがセオリーじゃない? 小学生を差し置いて、はやる気持ちを抑えられないなんて、君は子どもだなぁ」
…………壮。その発言はマズいだろ……。
ブチッ、ビチッ、バチンッと、夏弥の血管が裁断される音を俺は聞いた気がした。
どうやら湯亜を引き合いに出した壮の挑発は夏弥の逆鱗に触れてしまったらしい。というか、先刻の言葉で夏弥がキレないと思うほうがおかしい。数時間前に会ったばかりとはいえ俺たち三人の中で湯亜を一番に可愛がっているのは間違いなく夏弥だ。もちろん、彼女にもその自負はあるだろう。
にもかかわらず、『湯亜を差し置いて』などという発言をしてしまうとは、これはもう正気の沙汰じゃない。
やれやれ。壮は図に乗ればどこまでも調子付いてしまうのだった。普段は無駄に気を遣ってビクビクオドオドしている癖にこういうときだけ自信過剰になる。厄介な奴だ。
これは、すごろくに辿り着く前に終わったか?
夏弥の怒声を予期した俺はその場からサッと一歩後ろに下がったが、意外にも彼女はコブシを固く握りしめただけで思い留まったようだった。………たぶん、夏弥の怒りオーラに当てられてビクビクとその身体を震わす湯亜が見えたからだろう。どこまで行っても少女には優しい夏弥だった。
「そうね。それじゃ、湯亜ちゃん。頑張って投げてみようか」
にっこりと顔に笑みを張り付けた夏弥だったが、その表情の端々に見え隠れするどす黒い影を消すことは出来ていなかった。
「あ……えあ………はい」
なんとか頷きを返した湯亜は震える手でダーツを握って、的に向かって、投げる。
震えのせいか、軌道が定まらずあらぬ方向に飛んで行ってしまったダーツは黄ばんだ壁に刺さって止まった。
「あ~、残念だねぇ。湯亜ちゃん0点だ。最下層は決定しちゃったかなぁ?」
ああ………壮の暴走が止まらない……。壁に穴が開いたことよりもそちらの方が遥かに悲劇だ。
「あっ、そうだ。ルールブックに書いてあったよね。確か『ダーツボードの枠外に針が刺さった場合、投擲者は次のターンに1メートル下がった場所から投げなければならない』だっけ? 湯亜ちゃん、次はここから投げてね」
なんということだ。ホントに書いてある。さり気無くあいつ、このゲームのルールをいつの間にか熟知してやがる。いやはや、誰がこんなふざけたルールを作ったんだ。呪ってやりたいね。
「あんたね―――――――――!」
さすがに我慢の限界が来たのか、怒鳴り声を上げようとした夏弥の肩に、俺はそっと手を置く。
なによ。と目を吊り上げて振り向いた彼女に内心ビビりながらも俺は静かに告げる。
「まぁ、あいつに罰を与えるのはゲームが終わってからでも遅くないだろ。あいつが勝てば問答無用で懲らしめればいいし、お前が勝てば今すぐお仕置きするより遥かに心地良くあいつを叩きのめせるというものだ」
尤もらしい理由をどうにか挟む。
「む……。それも、そうね」
どうやら無事に納得してくれたようだ。まだ、俺の考えを少しでも吟味できる余裕を彼女が持っていたことに俺は安堵した。
「ほら、次はお前だろ。さっさと投げて来いよ」
言って、俺はダーツボードに向けて夏弥の背中を押す。ここはスピーディな進行が必要だ。流れが切れてこいつらがゲーム以外のことを考えだしたら怖くて堪らん。
彼女は怒りに頬を赤く染めながらも、なんとか冷静さを取り戻したのか、ダーツをおもむろに投げ、丸板の枠内に突き刺した。得点は、二十。かなりハイスコアだ。ブルかダブル、トリプルリングに入らない限りこれ以上の点数は出ない。
「次、壮」
例によって回転重視で俺は問題児を呼び、投擲位置に立たせる。
「ふっ、僕はね、実はダーツって得意なんだ。昔は――――――」
「早く投げろボケ」
罵倒して腹を叩いたら杏仁豆腐のようにプルプルと揺れた。
彼は不機嫌そうに眉を顰めたが、俺に話を訊く気がないと悟ったのか、仕方ない、という風にダーツを構えた。
ヒュッと、煩わしくも綺麗な流線を描いてダーツはボードに吸い込まれて行く。
刺さったのは………十八……のトリプルリング。つまり得点は五十四点。夏弥を抜いてダントツのトップだ。チッ、と心の底から苛立たしげな舌打ちが隣から響いた。夏弥が表情を歪めてダーツボードを睨んでいる。
「おや、くやし――――――」
いのかい? でも、仕方ないよね。やっちゃんより僕の方が何倍も巧い……いや、僕みたいな凡人にも勝てない程、君は下手くそなのだから。という皮肉たっぷり言葉をシャットアウトするかのように俺は口を挟む。
「はい、次俺ね。壮、どいてくれ」
俺は手に持っていたダーツをぞんざいに投げる。どうせ真剣に投げようが、適当に投げようが、俺の場合、結果なんて変わりはしない。狙い通りの所にダーツは飛んじゃくれないのだから。
得点は、七。可も無く不可もなく、といった感じだ。壮が投げた時点で地位が三番目になるのは九割がた確信していた。
それはもう仕方がない。問題はここからだ。
ダーツを投げている間にこのすごろくゲーム『THE人生』を胡乱ながらも俺は思い出して来ていた。その昔、兄の蒲焼洋一と創り上げた新感覚超ハイパーすごろくゲーム。確かにこんなキャッチフレーズを無駄に徹夜で考え出した覚えがある。そのおぼろげな記憶によると、このチープなゲームの本当の戦いはここから始まるのだ。これは『すごろく』なのだから。ダーツを投げただけで勝敗が決まるような代物では無い、はずなのだ。
俺は鞄から筆箱を取りだして、さらにその中から消しゴムを二つ、スティックのりを一つ引っ張り出す。駒の代わりにこれを使おうという魂胆だ。足りない一つは既に机上に出ていた壮の筆箱から消しゴムを拝借した。
「あ~っと。壮の地位が一番上だからこいつをここに置いて………」
他の三人が食卓机に戻ってきた頃には全ての駒を適地に配置することが出来ていた。これで無駄な会話(主に壮の発言)を回避してゲームを進めることが出来る。さらに―――。
「壮。これ、メモが必要になるからお前メモ係な」
「ん? ああ、わかった」
こういうところを律儀に引き受けるのは調子に乗っても変わらないんだよな。根本的に人に頼みごとをされたら断れない人間なのだろう。その性格を利用して、彼の仕事量を増やすことにより暴言を制御する。我ながら完璧な統制である。
さて、問題はここからである。
裏返された紙を皆が一様に覗き込んだ。年期が経って薄汚れた紙は先程と同様にして、全員から見やすいように横向きに置かれている。
夏弥が紙面上部に置かれた剥き出しの消しゴムを少し持ち上げて、下に書いてある文字を読み上げる
「『資産家の子ども。一か月のお小遣いは他人の数十倍。神に愛されているかのような天才肌で、何をやっても上手くいく。ただちょっとピーマンが苦手---クラスS』………これが、壮のスタート地点?」
誰にともなく尋ねられた問いに、駒を並べた俺が頷く。
「そうだよ。一番得点が高かったからな」
ふんっ、と鼻を鳴らした夏弥は、
「壮とはまるで逆じゃない。滑稽だわ」
と言った。しかし、俺が口を挟む間もなく彼は反論する。
「おや? また嫉妬かい? たかがゲームの設定に目くじらを立てるなんて、人間として少し……ああ、ハハ。これ以上言うのは可哀想かな」
………良くここまで人を苛立たせる言葉が吐けるものだ。素直に反論すれば良いものを、わざわざ嫌味という形にするから腹が立つんだろうな。と、客観的に解釈する。
夏弥にもそういった心の余裕が少しばかり戻ってきたのか、先程までのように怒りに身を任せるようなことはしなかった。
「そうね。たかがゲームの設定だったわ。実際のあなたは才能もなければ、ピーマンどころか残飯だって喜んで食べるものね」
それに対する壮の答えは、
「残飯をバカにするな」
だった。やや論点がズレ気味である。しかし、どちらにせよこれ以上、壮と夏弥の会話が続くことは望まざる状況なので間に割って入る。
紙面上部から二番目、今度は白いカバーで覆われた消しゴムを持ち上げて、
「今度は夏弥だな。クラスA。『両親が超有名ピアニストで、その子ども。幼少時代からすでに音楽を叩き込まれ、才能を開花させつつある。』らしい」
「へぇ、まぁまぁね」
夏弥は満更でもなく、言った。それ以上の感想は他の誰からも得られそうに無かったので俺は次の駒を持ち上げる。
「次は俺だな。え~っと、何々? 『特筆すべき点の無い、一般家庭の子ども。しかし、その実秘められた力を持つ超能力者。右手は闇を、左手は光を放つ。身体能力は成人男性の数倍。能力値が最高のため、その力を我が物にせんとする悪の豪王「ルクセンブラ」に命を狙われる。ライバルは四天王の一人「ミッドナイト・オシリス」』………なんだこいつ、超かっこいいな」
俺は自分のスタート地点に書かれた文章を読んで感銘を受ける。超能力者とかすんごいイカしてる。ラッキーだな。
「なんそれ! めっちゃかっこいいやんけ! あたしもそこが良い!」
湯亜が俺の言葉を聞いて羨ましそうに紙面を覗き込む。
それを見た壮が何故か苦い顔をして、
「いや、かっこいいか? それ?」
小さく笑う。おいおい、何を言っているんだ。
「バカかお前。超能力者だぞ。しかも右手が闇で左手が光とかマジ最強じゃん。資産家の子どもなんかより百倍得してるだろ」
「う、う~ん。そうかなぁ……」
微妙な顔で彼は首を傾げた。
「お前こそ俺の駒に嫉妬しているんじゃないのか? まさかクラスCがクラスSよりすごいなんて思ってもいなかっただろう」
これが製作者の役得だと言わんばかりにそう告げたのだが、壮は曖昧な表情で頷くだけだった。おそらく心中では悔しさのあまり歯ぎしりが止まらんだろうに。
「もしかして……このスタート地点を作ったのって、昇?」
夏弥がクラスCの駒を指して言った。
「ん? ん~、それは良く覚えてないな。でも、兄貴はこんな設定思いつけないだろうし、俺じゃないかな」
自信満々に告げる俺。
「そ、そうなの………。昇は、これを見られてもその……怒らないの?」
迷い気味に問いかけて来たその言葉を俺はいまいち理解できない。
「は? 何で? 別に怒らないけど。というかどこに怒る要素があるんだ?」
意味が分からず逆に問いかけると、夏弥は一つだけ大きく溜息を吐き、
「……あんたが、この紙を必死で隠そうとした理由がちょっと、分からなくなってきた」
悲しげに俺を見つめた。
「なんだよ、その憐れむような目は。別に、見られてマズイことは何も書かれて無かった、て言っただろ? 理由なんて分からなくて当然だ」
そう答えると、夏弥は、
「ええ、そうね。その通りよ。あたしが間違っていたから昇はもう何も言わなくていいの」
今度は逆に慈しみの表情をした夏弥に言われて、俺は本当に訳が分からず、閉口した。
そして、場の会話を引き継いだのは湯亜だった。
「なぁ! あたしは!? あたしは何なん!?」
待ちきれないと言わんばかりに机をガタリガタリと揺らす少女。それによって、我に返った俺は最後の駒であるスティックノリを持ち上げる。
「え~っと、湯亜は………『豚 ランクF』だな」
「豚!? え!? そんだけ!?」
聞き間違えたと思ったのか、少女はまたも身を乗り出して紙面を覗き込む。
しかし、そこには大きく一文字で『豚』と書かれているだけで、他の設定は何も書かれていない。後は枠の右端にランクFと銘じされているだけだ。
「何でなん!? 違うもん! 湯亜、豚じゃないもん!」
またも椅子を揺らして暴れる少女を何とか諌めようと夏弥が声を掛ける。
「落ち着いて、湯亜ちゃん。今は豚って書いてあるけど、ほらここを見て。ランクアップっていうのがあるでしょ? ここに止まったら違うスタート地点に立てるのよ。だから今は、今だけ、我慢するの」
夏弥の瞳には強い闘士の炎が漲っていた。その目には、何としてもゲームに勝って壮を叩き落とす、という決意が見て取れた。むしろ口元には薄い笑みすら浮かべている。その表情は、湯亜が最下層のクラスになったことよりも、『豚』というクラスがあること自体を喜んでいるかのようだった。
夏弥の態度を不思議に思って、盤上を覗き込んでみると、どのスタート地点に立っても、駒を進めて行く上でランク変更のマスがあることに気付いた。つまり、開始状況がどうであれ、起死回生は可能だということだ。
湯亜もそのことには気付いたようだが、それでも納得がいかないようで、「ゔ~」と唸っている。しかし、こればっかりはどうしようもない。正攻法で堂々と勝たなければ真の勝利は得られないのだ。
少女が不満げに口を曲げるのを無視して俺は次の段階に進むことにした。