ゲームしよう
「どで~ん!」
わざわざ自分の口で効果音を鳴らしながら、俺の前に立ちはだかる人間がいた。
「お前!? 誰やねん!?」
さらに、鋭い動作で人差し指をこちらに突き付けた不審人物は、何故か我が家の玄関扉の前に仁王立ちしていたのだった。
「いや、それはこっちの台詞だよ」
堪らず俺は言い返す。何せここはすでに我が蒲焼家の敷地内だ。俺がいないよりも、いる方が自然なはずなのだが。
「ここ、俺ん家なんだけど……」
取り敢えず、社会的にその権利を認められた事実を告げてみる。
「ウソこけ! ここはあたしんチや!」
なんとも堂々とした態度だった。ウソを吐いているようには見えない。俺は数歩引き返して表札を確認する。『蒲焼』と書いてあった。ホッと胸を撫で下ろす。本気でこっちが家を間違えたのかと思った。どこぞの夢遊病者では無いのだ。そんなことがあるはず無い。
「ちょ、ちょっと! なによこいつ! な、なんか……か、かわいいじゃない……」
夏弥が俺の背にその身を隠しながら囁いた。こいつ、こんなチビッ子相手にまで人見知りするのか……。呆れを通り越して敬意を抱くレベルだな。
そう、目の前で胸を張って仁王立ちしていたのは、ランドセルを背負って黄色い帽子を被った小さな女の子だった。四年生ぐらいだろうか。ぱっちりした勝ち気そうな双眸と、ピンと背筋を伸ばしたその様子から、新品の単四電池のように大きさ以上のエネルギーが内包されていると窺える。セミロング程の髪が後ろで一つに纏められ、帽子からひょっこり顔を出している。それがとても愛らしい印象を見る者に与えていた。
「君、どこの小学校の子かな? 何年生?」
壮が顔に笑顔を張り付けて女の子に近づいた。動きのノロそうな丸い体型と温厚な顔立ちが幸いしたのか、警戒心剥き出しだった女の子の表情が少し緩む。
「うむむ……。お前、なかなかむずかしい質問するやんけ」
ここら辺では珍しい関西弁を、舌足らずな口調で話す少女。
「え、そう? ……む、難しいかな」
予想外の返答に壮はタジタジだ。チラチラとこちらを見て、早くも助け船を求めている。初対面の人間と会話するのが苦手なら、夏弥のように最初から話しかけなければ良いのに。全く、どいつもこいつも役立たずだ。
「えっとな、四年生! あとなぁ、む~ん、なんやったかな~。ひのなか? ひのもと? いや、火の用心?」
何でだよ。帽子が歪むほど頭を抱えて悩んだ結果がそれか。
「日ノ輪だろ。日ノ輪小学校」
俺はここから一番近くに建設されている小学校の名を告げた。
「そう、それや! おっちゃん、すごい!」
「おっちゃんじゃねぇよ。せめて、にいちゃんと言え」
まだ二十歳にもなって無いのにそんな呼び方するな。ふと、くっくっ、という歯切れの良い音が耳元を過った。振り返ると夏弥が腹を抱えて笑っていた。
「昇、老け顔だもんね。おっちゃん顔って感じ」
なんだとう?
「おい、俺の背中はただじゃ無いぞ?」
言って、夏弥を背中から引っ張り出そうとすると、
「あう、ごめんなさい」
素直になった。うむ、それでよろしい。
「んで? おっちゃんはあたしんチになんか用なん?」
小さな女の子は驚くほど真っ直ぐな瞳で、俺の言葉を無視していた。
「だからおっちゃんでは……まぁいいか。もうそれで」
面倒臭くなってきた。実際、老け顔だしな。大学生に間違えられることなんて日常茶飯事だ。……意外と気にしてる。十年後の自分が心配なのだ。
「そう。お前の言う通り、俺はこの家に用がある。ウルトラスーパー大事な用だ」
眉間に皺を寄せ、低い声で深刻そうに言ってやった。
「ほう。なら、あたしにそのウルトラマンとスーパーマンが変形合体したような話をしてみるがよいよ」
そうか。ならば篤と聞け
「まず、俺達はこの中に入って、テレビの電源を着けなければならない」
「なければならない。ふむ、なるほど」
「次に、ゲーム機の電源を入れる」
「入れる。よし」
少女は何かをぽちっとする動作をした。どうやら真剣にこちらの話を聞いてくれているようだ。
「そして座る」
彼女の尻は地面にぽすりと収まった。
「寝転がって、そこのデブにお菓子を持ってきて貰う」
「きんつば、持ってきてぇや」
女の子は壮にひらりと手を振って言った。
「何できんつば!? というか、いきなり何!? 僕は君たちの舎弟じゃないからね!?」
うるさいな。
「いいから早く京都まで行って来いよ。ほら、サロンシップやるから」
「歩けと!? サロンシップで足を労いながら京都まで歩けと!? その辺の和菓子屋で買える物をわざわざ!?」
壮が必死になって反論する様子が面白かったのか、少女はケタケタと小さな両手を打ち合わせて笑った。
「ね、次! 次は!?」
少女が目を輝かせて俺の足袖を摘む。
「次? え~と、そうだな………」
どこまで言ったんだっけ? 座って、寝転がって………。
あっ、そうだ。ピーン、と頭の中で閃く。
「次は、立つ!」
ビシッと、飛び上がりそうなほど勢いよく立ちあがる少女。
「よし、走れ!」
俺はあらぬ方向を指さしてそう言った。
「アイ・サー!」
キレのある声で返答した彼女は、暮れかけでほんのりと橙色に染まった夕日へと駆けて行くのだった。
小さなその影は住宅の森へと吸い込まれ、やがて隠れて見えなくなってしまった。
「よし。これで邪魔者は消えたな。……というか、あいつアホだな」
呟くと、
「ふんっ、結構楽しそうに話してた癖に」
のっそりと俺の背中から這い出した夏弥が、口をツンと突き出して文句を垂れた。
「羨ましがるくらいなら、ちょっと勇気を出して話しかければ良かったのに」
拗ねた顔で誤魔化してはいるが、憂いを含んだ夏弥の言葉と表情の端々に、少女と接点を持てなかった落胆が見て取れた。
「べ、別に! 羨ましくなんかないし……」
彼女の言葉は尻すぼみに消えていく。
夏弥は感情を隠すのが下手くそだ。嘘を吐くのも苦手だ。そんな彼女は自分のことが嫌い、らしい。大好きなものはお菓子作りと編み物と動物型のクッション。でも、それらを愛す自分は大っ嫌い。だって、それはただのコピーで、本当のあたしじゃないから。
彼女が昔、言った言葉だ。俺には良く分からなかった。高校に入る前の夏弥の過去を俺は知らない。知りたいとも思わない。他人には踏み込んではいけない場所があると、そう思っているから。……いや、踏み込んで良い人間ではないと、そう感じているだけか。
でも、知っておくべきだった、と思うこともある。
そうすれば、例えば彼女が目を伏せて、流れるような黒髪を憂いの風に揺らせて、静かに佇むその背中に何か……些細でも、何か一言、声を掛けることが出来たのではないか。
自分の無力さを、恥じることも無かったのではないか。
そんなことを、少しだけ思った。季節外れの寒風が唐突に体中の熱気を攫って行ったようで、自分の体が虚しく震えるのが分かった。
数秒の静寂に気まずさを感じ取ったのか、壮が普段よりも声を張って言葉を紡ぐ。
「そ、それよりさ、あの子すごい勢いで走って行ったけど、大丈夫かな? もうそろそろ帰宅ラッシュの時間だし、車通りも多くなるんじゃ……?」
………確かに。
何気なく発せられた意見に、心の中で深く頷く。住宅街での事故は案外、多い。見通しは悪いし、車庫入れなどで自動車が予想外に立ち止まったりするからだ。先刻走り去った年若き少女が車に撥ねられる様子を一瞬想像してしまい、胸が多少といわずざわついた。
「そう言われればそうだな。そういやこの辺、俺も時々轢かれそうになるし。仕方ない。ちょっと捜して来る。万一があると尋常じゃ無く気分悪いしな。先に家の中に入っといてくれ」
言って、俺は玄関の鍵を壮に放る。
「うおっと! 危ないなぁ」
蚊を叩くかのような動作でオタオタしながら壮は鍵を受け取った。それを確認して、家の敷地内から歩み出た俺の背中に、か細い、それでいてはっきりとした声が届く。
「あたしも行く」
夏弥だった。拳を強く握りしめ、口を横一閃に結んだその姿からはある種の決意、意思を感じとることが出来た。すなわちそれは、少女と仲良くなろう。という気持ちの表れだ。
たかが小学生一人に話しかけるだけで何をそんな大仰な、と思うのが世間一般の認識として大いに正しいだろう。俺もそう思う。
だが、例え自分には簡単な事でも、他人にとって楽であるとは限らない。これも当然のことだ。人は生きた軌跡がそれぞれ違うのだから。
なら、この夏弥の決意を馬鹿にすることは出来ない。
彼女は少女に話しかけるための勇気を振り絞ったのだ。いやまぁ、正確にはこれから振り絞るのだが。どちらにせよ、それはエネルギーを大量消費することであり、日々を漫然と、淡々とこなす人間にはそれは難しい。でも、夏弥は違う道を選んだ。諦めても何の問題も無い状況で、彼女は少女に話し掛けるという、前に進む道を選んだのだ。その行為は俺には出来ない。だから俺は彼女の勇気を尊敬する。
お前はすごいやつだな、と思う。そこまで考え終えた所で、訝しげな声が耳に響く。
「昇? 何やってんの? 早く行こうよ」
いつの間にか俺を追い越して走り出そうとしていた夏弥が小首を傾げていた。
「ん? ああ―――」
そこでやっと我に返った俺は彼女の隣に並ぶ。夏弥の表情は常日頃と変わらず、だが、少し緊張しているように身体が張っているのを雰囲気で感じた。
それは、先程の小学生を子ども扱いしていないからこそ、出来る表情だ。どうせ子どもなんだから、という思考を完膚無きまでに消し去ることの出来る人間は少ない。
そういった意味でも夏弥はすごい、と思ったが、それは言い過ぎか、と考え直して、俺は心の中で微かに笑った。
「な、なによ。にやにやして」
どうやらいつの間にか心中が表情に表れていたらしい。眉を寄せた夏弥に咎められる。
「いや別に。今回はお前に背中を貸す気無いから、代わりに電信柱の影にでも隠れるんだろうな、と思って。高校生にもなって恥ずかしいやつだ」
「そ、そんなことしないわよ! へ、塀とか、ゴミ箱とか、ちゃんと全身が隠れるとこにするし……」
「…………ん? は? いや……いやいやいや。それもっとタチ悪いだろ。そういう問題じゃないし。……え? 何? それ本気で言ってる?」
何か問題でも? とでも言いたげな決然とした態度に俺は一瞬、自分の感性を疑ってしまった。だが、どう考えてもおかしなことを言っているのは夏弥の方だ。
ゴミ箱って、今時そんなもの道端に置いてないだろ。いや、そういう問題でも無いけど。心の中でツッこんでいると、痺れを切らした夏弥が苛立ちを載せた叫びを上げた。
「もう! いいからさっさと追いかけないと! どんどん探す範囲が広がっちゃうじゃない!」
「ああ……。まぁ、それは確かに」
「んじゃあ、行くよ!」
威勢よく叫んだものの、生来の運動オンチである夏弥は全力で走っても、俺の小走りに並ぶかどうかの速度だ。よったよったと走るその華奢な背中をどうしようもなく漏れ出る苦笑いと共に見つめる。
果たしてあの疾風の如く駆け抜けていった少女に追いつけるのはいつになる事やら。
まぁ、一応大人達の帰宅ラッシュにはまだ間があるし、大丈夫か。
そう思いながらへいこら走る夏弥の背中に声を掛ける。
「まずは名前を訊くところから始めてみろよ」
これはもちろん、夏弥が少女に話し掛ける時の話だ。俺は夏弥の過去を知らない。知ることが出来る人間であるとも思っていない。おそらく何かがあったのだろう。だからこそ彼女は自分の事が大嫌いで、他人との間に大きな壁を作ろうとするのだ。
そんな彼女の悩みを、根本的に解決することは俺には出来ない。
でも、勇気を後押しすることは出来るかもしれない。
前に進もうとするその背中を少し、押してやることは出来るかもしれない。今朝、中学校の校門で誰かにそうしたように。
俺にもまだ、掛ける言葉が残っているのだから。
「うん。そうする!」
すでに息を荒らげ始めた夏弥は苦しげにそう答えた。
「それにしてもお前、予想以上に足遅いな」
「ゔ~」
獣のように唸る声と共に吹き抜けた風が、火照った身体に心地良かった。