自信のない恋に優しい愛
「三十歳過ぎてる若宮さんに彼氏がいて、私にいないのはおかしいと思う~」
社員食堂でお昼ご飯を食べながら、この後輩の言葉に曖昧に微笑んでいる私は弱虫だと思う。
まだ私は二十九歳なのよ。とか、みんなと違って短大卒だから。とか反論すればいいんだけど、どれもが私の足かせになって言葉にできない。
まだ二十九歳―― その言葉はこの会社では通用しない。
数多くのグループ会社を従えたこの会社は日本国内でも有数の大企業だ。でも、それと同時に日本国内でも有数の旧態体質の会社でもあると思う。
女子社員は二十五,六歳で結婚退職するもの。
その意識がまかり通っているこの会社では、入社して九年になる私はもはやお局様なのだ。
それでも十数年前にやっと実質的に女性の総合職採用が始まってからは三十歳を過ぎた女性社員だってかなり増えてきた。
だけどそれは大卒以上の話であって、短大卒の私がこの会社に採用されただけでも奇跡だったのに、一般職の私が三十歳を目前にして未だに居座っている事の居心地の悪さといったら。
同期の子達は総合職としてバリバリ働いているか(それでも男女差別が未だにある部署内で苦労している様だけど)、結婚退職をしていったか、そもそもこの会社にさっさと見切りをつけて辞めていったかなので、お昼休憩に一緒にご飯を食べる相手も、この目の前のたった今失礼な事を言ってくれた後輩―― 有本理奈だけ。
色白の肌にくりっとした大きな目の小動物的な彼女は自分で「私はか弱い子ウサギだから~」とのたまう痛い子だ。
入社二年目の彼女は、仕事は出来ないが男性社員受けはとても宜しく、世の中を上手く渡っていると思う。
そして当然、彼女の出来ない分の仕事を引き受けるのは私なわけで……。
「でも、男の人はみんなオオカミだから~。私みたいな子は簡単に食べられちゃうから怖くて~」
未だ彼氏が出来ない事を嘆いている理奈の言葉を聞いても、右手で握り締めたお箸を目の前の唐揚げに突き立てない私を褒めて欲しい。
彼女の話を聞いているうちに温かった社食のB定食はどんどん冷めていく。
「若宮さんみたいに何の取り柄もないのに彼氏がいる人が羨ましい~。私ももう少しがっついたら彼氏が出来るかな~?」
何これ?なんの拷問?何かの我慢大会?
どっかにカメラでもあって、社会人耐久レースとかしてるんじゃないの?どこまで耐えられるか?って……。
そう思いつつも口から出てくるのは、いつものようにうわべだけの言葉。
「理奈ちゃんはかわいいんだから、すぐにでも彼氏ができるよ」
いやな事をいやと言えない八方美人な自分が嫌い。
いつも笑って誤魔化すしかない自分が大嫌い。
自分に自信が持てない自分が腹立つほど嫌い。
それなのに毎日忙しい事を言い訳して、なんの努力もしていない自分が死ぬほど大嫌い。
何やっているんだろう、私は……。
いつも自問している言葉がまた頭に浮かぶ。
ぼんやりと理奈の相談と言う形の愚痴だか自慢だか悪口だかに相槌を打ちながら、すっかり冷めてしまったお味噌汁をすする。
「キャツ! 崎山さんだ!」
理奈の小さな黄色い声に反応して思わず食堂の入口を振り向き見た私に、彼女は唇を尖らせた。
「んもう、若宮さん。そんな物欲しそうに崎山さん見てたら恥ずかしいですよ」
よし、決めた!
今夜にでもネットで藁人形を注文しよう。
そう決意を固めた私に内緒話をするように理奈は顔を近付けてくる。
「でも、崎山さんが社食でお昼なんて珍しいですよね? いつもは外でとってるはずなのに。お昼には麺ものを食べるって決めてて、取引先の人と食べる時以外は必ず麺類なんですって……あ、やっぱりうどん定食頼んでる」
ビックリするぐらいマニアックな情報を嬉しそうに語る理奈に驚きつつ、それを口にしたら馬鹿にした口調で笑われてしまった。
「やだあ、若宮さんったら……崎山さんっていったら女子社員の憧れの的ですよ? みんなこぞって崎山さん情報は仕入れてるんですから。まあ、若宮さんには関係ない話でしょうけど」
「そ、そうだね……」
こえぇよ、女子! やばすぎる!!
と心の中で叫びつつ、無難に相槌を打つ。もうこの際、「若宮さんには関係ない」発言もスルーしてしまった方がいいと思うくらいに理奈の目は血走っていて怖い。
だが、確かにそれもある意味仕方ないのかも知れない。
崎山圭介、三十三歳独身、身長一八三センチ。
東大卒業後にハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得し、帰国後この会社に入社。しかし新人研修後すぐに異例のアメリカ支社に配属され、華々しい業績をあげて三年前に本社営業部に栄転という肩書きを持つ。
更に顔良し、性格良しと、なんだこの絶滅危惧種は!! イケメンレッドデータブックに載せるべきだ!! って叫びだしたくなるほどの男性だ。
そして女子社員情報によると今現在彼女なし……。
要するに女子社員が血眼になって狙っている獲物なのだ。
軽く溜息を吐いた私は、その後も理奈の話を適当に聞き流しながら冷めたご飯をなんとか食べ終えて憂鬱な午後の業務へと戻った。
**********
「ただいま~。って来てたんだ」
「おう、おかえり。メシまだだろ? 今作ってっから、手洗ってこいよ」
「ん、ありがとう」
一人暮らしの部屋にサービス残業で疲れて帰った時、こうして彼に迎えてもらえるのは非常に有難い。本当に癒される。
ハッキリ言って今の仕事は辛い。
何のキャリアにもならないような誰にでも出来る仕事を毎日人の倍近くこなしながら(それは理奈のせいでもあるけど)、上司からセクハラなんだかパワハラなんだか色々と受けている。
辞めてしまえば簡単なのかも知れないけれど、大企業と言われる今の会社を辞めて故郷に帰れば親からの非難も免れないだろうし、だからといってこのまま一人暮らしを続けるにはかなり厳しくなると思う。
もちろん彼ならいくらでも甘えさせてくれそうだけど、けじめだけはきちんとつけたいから。
大きく溜息をついて、手洗い・うがいを済ませると、部屋着に着替えてダイニングキッチンへと戻る。
「手伝う?」
「いや、もう出来たから。ああ、箸出して」
「はーい」
お味噌汁を椀によそう彼に返事してお箸を食卓に並べる。一人暮らし用の小さなダイニングテーブルにはドーンと豪快な野菜炒めが真ん中に置かれ、恐らくお総菜コーナーで買って来ただろうブリの照り焼きとご飯が用意されていた。
二人とも晩酌をしないので冷蔵庫から麦茶を出してグラスに注ぐと、ちょうど彼がお味噌汁をテーブルに置いたところで椅子に座る。
向かいに腰を下ろしてから、二人同時に「いただきます」と挨拶をして食べ始めた。
「今日は珍しく社食でお昼だったんだね?」
ご飯を食べながら、何気ない会話が始まる。
「ああ、今日は運よく外に出る用事がなかったから。うちの社食って値段の割に旨いだろ? 本当は毎日うどん定食でもいいよ、俺は」
「そう言えば、圭介ってお昼は麺類って決めてるって本当?」
理奈との会話を思い出して笑いながら問いかけたら、彼―― 圭介は少し驚いたような顔をした。
実は女子社員憧れの的である超優良物件の崎山圭介が私の彼なのだ。
が、恐ろしくて誰にも言えないでいる。もちろん社内恋愛禁止などでは全くないけれど、もし彼と付き合っている事がばれたら……うん、わかるよね? 怖いよね? 出社拒否しちゃうよね?
「よく知ってるなぁ?俺の密かなこだわりなのに」
「……社内の女子社員はほぼ全員知っていると思う」
「なんでだよ?」
「有り得ないだろ」と笑う彼は女子社員から自分がどう思われているか、どうも自覚がない。付き合い出した事も内緒にして欲しいと、当初は必死でお願いしたものだ。
彼はお父さんの仕事の都合でアメリカを中心とした欧米諸国で育った為に愛情表現がアメリカンと言うか、何と言うか……とにかく私には恥ずかしいくらいなんだけど、なんとかそれは二人きりの時だけにしてもらえている。
だから社内で会っても他人行儀にやり過ごす。
結果、彼には今現在彼女がいないらしいと女子社員達は結論に達したらしい。
その後、後片付けは私が引き受けて先にお風呂に入ってもらい、リビング兼寝室のソファに凭れてPC画面を真剣に睨んでいたら、彼が不思議そうに覗きこんで来た。
「何見てるの?」
「んー藁人形」
「……藁人形ってあれだろ?あれ……お札を一枚、二枚って数える……」
「それはたぶん数えるのはお皿であって、お札じゃないと思う。それでも違うけど。藁人形は丑の刻参りに使うものだから」
「そうそう、それ。似たようなもんだろ?」
「全然違うと思う」
「日本のホラーってとこは一緒だよ。で、なんで藁人形?」
「ずいぶん大きく括ったね? まあ、いいけど。ちょっと嫌な事があったから、冗談で検索したら意外と面白くて。まさか呪い代行業者まであるとは思わなかった」
「……大丈夫か? 今日は誰? あのバカ殿みたいな後輩の子?」
彼に仕事の愚痴をこぼす自分が本当はいやなのに、それでもついつい愚痴ってしまう。
そんな私の常日頃の愚痴から察したらしい彼が心配してくれた言葉は私の笑いのツボを直撃した。
「バ、バカ殿?……ちょっ……」
「だって、ちょっと前に廊下で声かけられた事があってさ……あの子すげえ色白いだろ? んで、なんか納豆の……おかめ? みたいなピンクの頬紅をクルクル塗ってて、こう……眉を八の字に寄せてた顔がすげえバカ殿にそっくりで、驚いたんだよ」
いつの事だかハッキリわかるくらい理奈の化粧が酷く濃い日はあったけど、まさかバカ殿発言がくるとは思わなかった。真面目な顔で理奈を評する彼が更におかしくて、笑いが止まらない。
それでも何とか呼吸を整えて気になる事を訊いた。
「理奈ちゃん、圭介に何の用事だったの?」
「んん? なんかいつも出張のお土産貰うお礼にご飯おごりますって言ってたな」
「……へー」
そうか、あの化粧が濃かった原因はそういうことか。気合を入れたんだな……ってか、ちゃっかりアプローチしてんだ……。
なんだか複雑な心境で黙り込んでしまった私を圭介が後ろから抱きしめる。
「もちろん、ちゃんと断ったから。俺には穂乃香だけだからな」
「愛してる」と耳元で囁く彼にそのまま押し倒されて、なし崩しになってしまいそうな状況に、お風呂にまだ入っていない私はなんとか押しとどめようとしたけれど、結局それは無駄な努力に終わってしまった。
横で眠る彼を起こさないように、そっとベッドから抜け出してシャワーを浴びる。
どうも彼に押されると弱い。
付き合う事になったのも彼に押し切られた感じの始まりだった。
ちょうど昨年の今頃、残業で遅くなったある金曜日に同じ様に残業で遅くなったらしい彼から食事に誘われたのだ。
その後、遅くなったから家まで送る、コーヒーが飲みたい、終電を過ぎたから泊めてと言われて……もちろん、彼の事を好きじゃなかったら食事に誘われた時点で断っているけれど。
ずっと私の片思いだと思っていたから、朝になって改めて「付き合って欲しい」と言われた時には驚いた。
「好きだ、愛してる」なんて英語混じりに囁かれた愛の言葉もピロートークだと思ったから。
だって、彼ほどの人がまさか私なんかを好きだなんて……。
「若宮さんは俺の事、好き? 嫌い? どっち?」
ためらう私に二択で答えを迫る彼の顔はとても真剣で、そんな彼に気持ちを誤魔化すことなんて出来なかった。
「――好きです」
彼は正直に答えた私を抱き寄せてキスをすると、「じゃあ、決まり」と嬉しそうに笑って、それから……あれ? あれれ?
と、まあ今に至るわけで。
ドライヤーを『弱』にしてなるべく音をたてないようにしていたつもりだったけど、やっぱり起こしてしまったようだ。
圭介はベッドから起き出して深夜番組を見ていた。
「ごめんね、起こしちゃった」
「いや、俺の方こそ悪い」
彼はそう言うとテレビを消して、あの時と同じような真剣な顔で私を見た。
「なあ、仕事辛かったら辞めてもいいと思うよ。正直なところ俺だってアメリカから戻って来た時にはあの古臭い体質にはすげえ驚いた。あんなおっさんばっかの庶務課で穂乃香はすげえ頑張ってると思う。だからもうこれ以上無理だと思ったら……」
「――ありがとう。でももう少しだけ頑張ってみる」
私は彼の優しい言葉に含まれるものに気付かないふりをして応えた。
本当は彼に甘えてしまいたい。
だけど、それじゃあ自分に自信がないまま、自分を好きになれないまま彼に逃げてしまう事になるから。こんな私を好きだと言ってくれる彼の為にももう少しだけ頑張りたい。
圭介は少し困ったような顔をしたけれど、それ以上は何も言わずにクシャっと私の頭を撫でてから私を引き寄せてキスをした。
そして……あれ? あれれ?
翌朝、私は再びシャワーを浴びてから出勤した。
**********
もう言い訳はやめにしようと強く決意した私は次の週末、資格取得の為の教室と英会話教室に申し込みを入れた。
自信は簡単にはつかないだろうけれど、まずは資格を身に付けようと思ったのだ。
通信講座のCMそのままの単純思考だけど、圭介は賛成してくれた。
それから、半ば諦めていた理奈への教育を再開した。
なんで今更と、理奈どころか上司にまで遠回しに不満を言われたけれど、めげそうになる自分を叱咤して続けている。
そしてあの夜から半年、目指していた資格試験に合格した私はついに退職を決意した。
もちろんすぐに資格が活かせる仕事が見つかるわけがない事も、それどころか新しい仕事を見つけること自体が難しい事も分かっているけれど、一つ自信をつけることができたから大丈夫。
私はやればできる!!
早速その決意を彼にメールで送った。
最近、圭介は海外への長期出張が増えていて今現在もフランスに出張中なのだ。
――― 試験に合格したよ! それから、月曜日に辞表を提出する事に決めた!!
向こうではかなり早いはずの時間なのに、彼からはすぐに返信が届いた。
――― おめでとう! 本場のシャンパンをお土産に買って帰るから、貴重な人材を失う我が社の残念会を開こう!!
明るい文面に思わず笑顔がこぼれる。
なかなか会えなくて寂しいけれど、我が儘は言わない。
疲れていても日本に帰って来ると必ず時間を作ってくれる圭介の優しさに、いつも支えられているから。
――― ありがとう! でもなんでもう起きてるの? ちゃんと寝てる?
――― 穂乃香がいないから寂しくて眠れない! 早く日本に帰れるように念じててくれ。『一念岩をも通す』って言うから、上司のガチガチ石頭にも通じるように!
今回の出張は新たに始動したプロジェクトの関係で、帰国は一カ月以上先になる予定だった。
――― 任せといて! 早く帰って来れるように毎日たくさん念じるから!!
でもどうか無理はしないで、体に気をつけてね。
そう打ち込んで送信すると、メールフォームを閉じた。
開いたままだと、どうしても名残惜しくていつまでも続けてしまいそうだったから。
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辞表を提出してから約一カ月後の実質最終日となったその日、就業後に夕礼が行われた。
送別会はみんなの都合で先週に開いてもらっている。
夕礼には隣の総務課の人たちもわざわざ仕事の手を止め、帰宅を遅らせてまでみんなが参加してくれ、この九年間頑張った事が無駄ではなかったのかと思えて慰められた。
もちろん、まだ再就職先は決まってないけれど頑張れるだけの気力と自信を貰えた気がする。
そして挨拶も終わり解散となったその時に、圭介が大きな花束を抱えて庶務課に入ってきた。
「崎山さん! 戻られてたんですか!?」
総務課の女の子の嬉しそうな問いかけに「さっきね」と答えている彼を、私はただただ驚いて見ていた。
今日帰国するなんて聞いていない。
「さすが長く居座っただけありますね? 営業部からも花束が貰えるなんて!」
「違うよ」
理奈の嫌味が混じった言葉を圭介はすぐに否定すると、私に向かって微笑んだ。
「これは俺個人から穂乃香へ。送別の為じゃない、結婚の申し込みに添える花束だから」
「圭介……」
そこから俄かに周囲が騒がしくなったようだけれど、私の頭の中には色々な音がガンガンと鳴り響いていてよく聞こえない。
その中で、圭介の真剣な声だけが真っ直ぐに届く。
「いつも俺を支えてくれる穂乃香を、俺も同じように支えたい。この先続く人生を穂乃香と一緒に歩いていきたいから……どうか俺と結婚して欲しい」
彼の言葉に涙が込み上げてくる。
圭介こそがいつも自信の持てない私を急かさず、ずっと見守って支えてくれていたのに。
どうしても自分を好きになれなかった私に、優しい愛をくれた彼を幸せにしたい。
これから先は圭介に幸せでいてもらえるように頑張ろう。
「……はい」
強い決意とは逆に、小さな掠れた声でしか返事ができない。
それでもなんとか伝わるように何度も頷いて花束を受け取った私を、圭介は引き寄せてキスをした。
「愛してる」
彼は真っ赤になって固まった私の耳元で甘く囁くと、もう一度キスをした。
そしてもう一度。
今更ながら、この状況を―― アメリカンな愛情表現を爆発させた彼にどうすればいいのかわからない。
恥ずかしくて苦笑いしかできない私に、圭介は更にもう一度キスをした。
私は今とても幸せで、彼にも幸せになってもらいたい。
けど、頑張るのは明日からで、ひとまず今はここから逃げ出してもいいよね?
できればダッシュで!!