林檎の木の下で
「随分……育ったもんだなぁ」
さわさわと揺れる木陰から落ちた影が、磨かれた墓石に、美しい模様を描いている。
数年前には、トマスの背より、少し高いくらいだった林檎の木は、もう見上げるほどの高さになっている。
その根元にある墓石の側には、綻び始めたばかりの白い野百合と、こんな墓地には不似合いな、艶々とした赤い林檎がそっと並んでいた。
目の前の木に、鈴なりに生っている実は、どれもまだ固く青い実ばかりだった。
わざわざどこからか、収穫時期の早い林檎を、供えてくれる者がいるらしい。
こんな場所で芽吹いた木が、こうして実をつけるほどに成長していることに、ただただ圧倒される。
「暫く来られなくて、悪かったな」
とりあえず、無沙汰をした詫びが、今日の挨拶がわりだった。
誰もいないのをいいことに、持っていた酒瓶を木の根元に置くと、その横にどかりと座り込む。
少し前に痛めた右足の膝が、立ちっぱなしだと、時折堪えるようになってきた。
(お前だってきっと、そうなってたさ。歳には勝てねぇよ)
夏の終わりの日差しが、茂った枝にちょうどいい具合に遮られて、墓地に吹く風が何とも心地いい。
もう何年も前、新王の即位に伴って始まった祭りの喧騒も、ここまでは流れて来ないようだった。
普段は、訪れる者が絶えないらしいこの墓地にも、今はただ、葉擦れの音だけが聞こえている。
「姫様、頑張ってるぞ」
色々と、報告したいことがあったはずなのに。
出てきたのは、ずっと昔に、親友が仕えていた主人のことだった。
既に他国の王族の妃となった彼女を称するには不敬だが、それを咎める者は此処にはいない。
あの痛ましい災禍の後。
続く先王の崩御と、その後の兄王の即位を支えた妹姫の名は、国内ばかりか周辺国にまで知れ渡っている。
あの混乱の最中、簡素な黒衣のドレス姿で、いつもほんの僅かな供しか連れず、自ら孤児院や救貧院に物資を配り、彼らの手を取って、声をかけ続けていた。
彼女のその活動無くしては、いくら彼女の嫁ぎ先である帝国の後ろ盾があったとは言え、この国の王家の存続は危なかっただろう。
あの災禍での、国の責任を問う声は少なくはなかった。
父王の喪が明けてから程なくして、黒衣を脱いだアンネマリーだったが、今でも時折、警備の場で見かける彼女はいつも、灰色や茶の地味なドレス姿だった。
その事を、社交界で揶揄された時には、
『その方がいつでも、地に膝をつく事ができるでしょう?』
と答えたというのは、民の間でも語り草だった。
そうして今でも、帝国とこの国を頻繁に行き来しては、自ら国内を周って、福祉施設の建設や法案の見直し、主要な通りの拡張や水路の整備など、民に寄り添い続けている。
その献身は真実、聖女のようだと皆が言う。
けれど、まるで。
この国に殉じる為のようだ、と言う者もいる。
(あの時……お前の最期に、立ち会えなかったことが)
何かしら彼女の、未練になっているのだろうか。
それもこれも、
「お前が英雄なんかに、なっちまったからだぞ」
そんな柄じゃなかっただろうに。
名声や武功になんか、これっぽっちも興味がなかった癖に。
(でも……そうだな、一度だけ)
それっぽいことを、尋ねられたことはあった。
いつもと変わらぬ、馴染みの酒場でだった。
尽きない上官への愚痴や、同僚からのやっかみや、振られた恋人への未練、そんなものをいつものように腐しながら。
この太平の世で、一国の姫を娶る程の功績とは、どういうものだろうかと。
(そんな夢見てぇなことを、思っちまうくらいには)
姫のことを、憎くなく、想っていたのだろう。
そんな年頃の少年らしい、なんてことのない感情が。
今、子を持つ身になって……初めて、胸にぐっと来るものがある。
こいつとは、騎士見習いとして、寮で同室になった頃からの付き合いだった。
出会った頃から、黒髪とくっきりとした目元が華やかな顔立ちで、やっかみを受けることもままあったが、持ち前の要領の良さで、それなりに上手くやっていたように思う。
その辺りが、同じように口ばかり上手い自分と、なんだかんだ馬が合ったのだった。
上からの評価はそれなりだったが、下からはよく慕われていた。
この墓石の横に、若い林檎の木が生えてきたことを、最初に報告してくれたのも、かつての彼の部下だった男だった。
(英雄の墓だっていうんで、誰も引っこ抜かなかったなんてな。出来過ぎてるだろ)
互いに、さして出世には興味がない者同士、それなりに騎士団の職務をこなし、仕事終わりに飲みに行き、随分長いこと相部屋だった。
そんな彼が、唯一固辞したのが、この王都に留まることだった。
転属を拒否すれば、出世の頭打ちになるぞと周囲が諭しても、この王都で、騎士でいることに拘ったのだった。
代わりに辞令を受けたトマスが、いくつかの街での任期を終えて、数年越しに王都に戻った時も、変わらずあの酒場で酒を飲み交わした。
自分が、待ってくれていた恋人と結婚し、街に家を持つようになっても、階級が上がって上司と部下になっても、その関係が変わることはなかった。
彼にも何人か、結婚するのかと思っていた相手はいたような気がする。
けれどいつの間にか、そんな話はなくなっていたようだった。
(姫様のことが……心にあったからなのか)
結局そのことは一度も、聞けないままだった。
楢の木から切り出した杯を二つ、懐から取り出して、持って来た酒瓶から、それぞれの杯に注ぎ入れる。
美しい黄金色の林檎酒は、彼の生まれた故郷のものだった。
「でも別にお前、林檎が好き、って訳じゃなかったよなぁ」
その地方の生まれだというだけで、特に好物という訳ではなかったようだった。
どころか、あの夜以来、なんとなく敬遠していたのを知っている。
この親友が泣いている姿を見たのは、後にも先にも、あの夜だけだった。
彼女の婚姻の日には、いつもと変わらぬ顔で、職務に着いていた記憶がある。
あの夜、姫との身分差を嘆きながら、アップルパイを食べていたデュークの顔は、もう朧げだった。
この木がこうして実をつけるくらいの刻が。
火に焼かれた死に顔ですら、柔らかに溶けていくだけの月日が。
自分にだけ、流れていることが。
無性に今、寂しかった。
誰が供えたかしれない林檎から芽吹いた、木の影で眠る男の墓石に、片方の杯をそっと置く。
ただの酒ではなく、林檎酒を選んだのは、はっきりと嫌がらせだった。
この男の林檎嫌いは、これからもずっと、自分の胸にだけ、仕舞っておこうと思う。
「先に逝っちまった分、甘んじて受けろよ、デューク」
『なんでだよ』
なんて声が。
林檎の葉擦れの音に紛れて、聞こえてきそうだった。
「ようやく来たなトマス。老けたなぁ、お前」
「あらお久しぶりだこと。どうぞお掛けになって。お茶とアップルパイはいかが?」
あの城の中庭で、目にしたことのある懐かしい景色だった。
娘も息子も無事に巣立って、妻も看取った自分の。
これが確かに、心残りだったのかもしれない。
「光栄です、英雄様、姫様」
嫌がりそうな呼び方は、勿論、わざとである。




