魔女裁判
1645年11月、イングランド東部エセックス州の小村。
エリザベス・クラークは、教会の地下室で木の椅子に座らされていた。二十四歳。夫を黒死病で亡くして三年、一人で薬草を売って暮らしていた。
「エリザベス・クラーク、あなたは魔女である」
目の前に立つ男——魔女狩り将軍と呼ばれるマシュー・ホプキンズは、冷たい声でそう告げた。
「違います。私は何もしていません」
エリザベスは震える声で答える。
三日前、隣家の赤子が病で亡くなった。
その母親が「エリザベスに呪われた」と叫び、村人たちが彼女を捕らえた。それだけだった。
「では、証言を読み上げましょう」
ホプキンズは羊皮紙を広げる。
「未亡人エリザベスは、夜な夜な一人で森を出入りしている。魔女の集会に参加しているに違いない——アン・ウェストの証言」
「薬草を採りに行っていただけです」
「夫が死んだ後も、生活に困っている様子がない。悪魔と契約して金を得ているのだ——トマス・エヴァンスの証言」
「夫の遺した僅かな財産で……」
「彼女が私の赤子を睨んだ翌日、子供が熱を出した——メアリー・ジョーンズの証言」
「そんな……ただすれ違っただけで……」
ホプキンズは羊皮紙を置いた。
「十七名の村人が、あなたを魔女だと証言しています」
エリザベスの顔が青ざめる。
十七人。村の半分以上だ。
「でも、私は何もしていません……」
「では、潔白を証明していただきましょう」
ホプキンズが手を叩くと、助手たちが入ってきた。
「まず、悪魔の印を探します。魔女には、悪魔が乳を吸った痕があるはずです。」
「え……」
助手たちがエリザベスに近づく。
「待って、やめて……!」
彼女の服が剥ぎ取られていく。
「やめてください! お願いします!」
だが、誰も止めない。
下着一枚にされたエリザベスは、三人の男たちに全身を調べられた。ほくろ、傷跡、あざ——あらゆる皮膚の変化が、「悪魔の印の可能性」として記録される。
「左の肩甲骨の下に、黒い痣が一つ」
「右太腿の内側に、小さな傷跡」
「背中に、ほくろが三つ」
屈辱だった。
エリザベスは涙を流しながら、ただ震えていることしかできなかった。
検査が終わると、薄い毛布だけを与えられて、再び椅子に座らされる。
「典型的な魔女の印が、複数見つかりました」
ホプキンズが記録を読み上げる。
「違います……ただの傷跡です……子供の頃に転んで……」
「はいはい...魔女はそう言います。」
男は淡々と続ける。
「では次の試練です。三日三晩、一睡もせずに座っていただきます。魔女は悪魔の力で眠らずにいられる。もしあなたが本当に魔女なら、平気なはずです」
「そんな……人間には無理です……」
「無理だと? では、あなたは人間だと?」
「そうです!」
「ならば証明してください。三日間、眠らずにいられないことを」
エリザベスは混乱した。
眠ってしまえば、魔女の力がなかったと証明できる。でも——
「もし眠ってしまったら?」
「眠れば、あなたは普通の人間だと分かります。
しかし、そうなれば『別の証明』が必要になりますね」
ホプキンズは微笑んだ。
「さあ、始めましょう」
部屋には数人の助手たちが詰め、澱んだ空気が停滞している。 エリザベスのまぶたが重く落ちそうになるたび、鼓膜を破らんばかりの罵声が響き、容赦のない冷水が彼女の顔を打った。
一日目。
エリザベスは、ただひたすらに耐えていた。しかし、刻一刻と疲労は重く澱のように積み重なり、彼女の思考を蝕んでいく。 濡れて肌に張り付いた服の冷たさも、もはや感覚を麻痺させる要因でしかなかった。
「私は魔女じゃない……魔女じゃない……」
彼女は祈るように、あるいは自分という存在を繋ぎ止めるように、その言葉を何度も何度も呟き続ける。その声は次第に、誰に届くあてもない、虚ろな呪文のように響き始めた。
二日目。
意識が朦朧としてくる。何度も頭が落ちかけ、その度に冷水を浴びせられる。
「やめて……もう……」
「やめてください、貴方は魔女だ。魔女なら平気なはずですよ?」
三日目。
エリザベスの目は虚ろだった。もう、思考を巡らせることが出来なくなっていた。ただ、座っていることだけで精一杯だった。
そして——一瞬、意識が途切れた。
パシャン!
再び冷水が叩きつける様に顔へ掛けられ、エリザベスは目を覚ました。
「眠りましたね」
ホプキンズが記録する。
「やはり、悪魔の力はなかった。では次に移ります。」
「次……?」
エリザベスは呆然と呟いた。
「はい、水に沈めます。魔女は水に浮くでしょう?
沈めば、あなたは魔女ではない。」
「でも……沈んだら……溺れて……」
「.....溺れる前に引き上げます。ご安心を」
翌日、エリザベスは村の池に連れて行かれた。
両手両足を縛られ、裸体のまま——村人達から舐め回す様に見つめられながら、池に投げ込まれた。
冷たい水が全身を包み込む。
エリザベスは必死でもがいた、足掻いた。
しかし、うまく沈めない。体が浮き上がってくる。
「浮いた! 魔女だ!」
村人たちの叫び声。
助手たちが彼女を引き上げる。
「見てください。水が魔女を拒絶しました」
ホプキンズが宣言する。
「違う……体が浮くのは……当たり前……」
エリザベスは咳き込みながら訴える。
だが、誰も彼女の言葉に耳を貸さない。
「魔女の証拠は揃いました」
その夜、エリザベスは独房で膝を抱えていた。
三日間眠らされず、裸で検査され、村人の前で辱められた。
そして何より——誰も、自分を信じてくれない。
幼馴染だったアンも、世話になった神父様も、優しかった雑貨屋のおじさんも。
みんな、私を魔女だと信じている。
「私は……魔女じゃない……」
でも、その言葉には、何の力も、何の根拠もなかった。
翌朝、ホプキンズが再び現れた。
「自白してください。あなたは魔女です」
「……違います」
「では、使い魔について聞きましょう。魔女には必ず、悪魔から与えられた動物の使い魔がいます。あなたの使い魔は何ですか?」
「そんなもの……いません……」
「嘘をつかないでください。昨夜、あなたの独房にネズミが入ってきましたね?」
エリザベスはその発言に思わず身体を凍りつかせた。
確かに、古い独房にネズミが一匹入ってきた。
あまりの孤独に、彼女は思わずそのネズミに話しかけてしまったのだ。
「怖いの。助けて」と。
「見ていたのですか……?」
「ええ。あなたはネズミに話しかけていた。それが使い魔ですね?」
「違います! ただの……独り言です……」
「いや違う、使い魔に命令していたのです」
「そんな……」
エリザベスの心が折れかけていた。
何を言っても、どう行動しても、全てが魔女の証拠にされる。
眠れば人間だが別の試練が待ち、眠らなければ魔女の証拠。
体が浮けば魔女の証拠、沈めば溺死。
ネズミに話しかければ使い魔、話しかけなくても「悪魔が守っている」と言われる。
逃げ道がない。
逃れようのない結末。
「もう……どうすればいいんですか……」
エリザベスは泣き崩れた。
「自白すればいいのです」
ホプキンズが囁く。
「自分が魔女だと認めれば、全ての苦しみから解放されます」
「でも……私は……」
「誰もあなたを信じていません。村の人々は皆、あなたを恐れている。あなたの無実を信じる者は、もういないのです」
それは、残酷なまでの真実だった。
「自白すれば、楽になれます。もう、誰からも疑われることはありません」
「でも……魔女だと認めたら……」
「火刑です」
ホプキンズは静かに告げた。
「しかし、それまでのこの苦しみからは解放されます」
エリザベスの中で、何かが壊れた。
無実を叫んでも、誰も信じない。
証明しようとしても、全てが罠になる。
生きていても、地獄のような日々が続くだけ。
ならば——
「私は……」
エリザベスの唇が震える。
「私は……魔女……です……」
ホプキンズは満足そうに頷いた。
「詳しく聞かせてください。いつ、悪魔と契約を?」
「三年前……夫が死んだ時……」
嘘だった。
でも、もう何も分からなかった。
エリザベスは泣きながら、ホプキンズの誘導に従って、ありもしない悪魔との契約を「自白」していく。
どの村人に呪いをかけたか。
何人を殺したか。
夜の集会で何をしたか。
全て、作り話だった。
でも、それを証明する術はもう、彼女にはなかった。
二週間後、エリザベス・クラークは火刑に処された。
最後まで、彼女は泣いていたという。
「私は魔女じゃない」と、小さく呟きながら。
だが、その声は、群衆の歓声にかき消された
魔女裁判にかけられた人間は、罪を犯したわけではない。
ただ、社会に溜まった不安や恐怖、そしてストレスの捌け口にされたに過ぎない。
それは正義ではない。
明確に、許されざる行為だ。
冤罪事件とは、時代や制度の失敗ではなく、
人間が「考えることを放棄した結果」だと、僕は思う。
だからこそ、冤罪は一つたりとも見逃してはならない。
情状も、同情も、絶対理由にはならない。
誰かを守るため、無実の人を犠牲にする裁きなど、裁きではないのだから。
僕は、そう考えています。




