畏れの在処
畏れの在処
東京都港区赤坂の紀伊國坂に棲む狢は、悩んでいた。
ご存知ない読者のためにご説明すると、狢というのは、皆さんがご存知であるアナグマのことではない。人の姿に化けて人間を驚かすことを生業にしている妖怪の一種である。いつの頃から存在しているのかは定かではないが、『日本書紀』で推古天皇が三十五年の条に「春二月、陸奥国に狢あり、人となりて歌う」と読まれているので、少なくとも飛鳥時代には存在していたこととなる。
そんな狢の中でも紀伊國坂に棲みついた狢を一躍有名にしたのは、小泉八雲の小説である。その中によると、狢はか弱い女性の姿に化けて泣いたふりをして、声をかけてきた優しい人間に、のっぺら坊の顔を見せて驚かすということだった。そしてそれは実際にあったことは、現代に生きるこの狢を見ればわかってもらえるであろう。
紀伊國坂を通る人は皆こののっぺら坊の狢に化かされて、畏れた。狢はその評価に満足して、今日に至るまで、来る日も来る日も紀伊國坂の通行人を驚かし続けた。
しかし、今、狢は悩みを抱えていた。もう誰も、自分を畏れてくれなくなってしまったのだ。のっぺら坊で人前に出ても、奇異な目を向けてくるばかりで、誰も驚かない。畏れを抱かせられない妖怪は、速やかに滅ぶというのが、妖怪の中での常識であり摂理であった。狢は、切羽詰まっていた。
それでも、諦めの悪い狢は、今日も頑なにのっぺら坊でどうにかして人を驚かせようとしていた。
午後十時、一人の男性が歩いてきた。痩せ型でぴっちりと固めた髪は黒々としていている。スーツ姿で手にブリーフケースを下げていることから、どこかしらのサラリーマンなのだろう。喰違見附へと登ってゆくその足取りはフラフラで、少しばかり酒臭い。
一番驚かしやすい類の人種だ、と狢は舌舐めずりをした。そして紀伊國坂の中程まで先回りし、早速化けた。
狢は着物姿の女の姿に化けて、側溝の前でしゃがみ込んで俯けに屈んだ。そして件の男の姿が見えると、オイオイオイと、しゃくりあげて泣いた。
「おい、大丈夫かい」
千鳥足の男はまんまと引っ掛かり、女性に歩み寄ると、ぽんぽんと肩を叩いた。
「どうしてそんなに泣いているんだい、もしよければ、話だけでも聞いてやるよ」
しかし狢は泣き続けた。まだだ、まだ畏れが醸造されきっていない。
「セクハラとかそう言うんじゃないよ。心配してるのさ。何もこんな薄暗いところで一人メソメソ泣いてないでさ。何か、役に立てることはないかい」
狢はゆっくりと腰を上げた。しかし背を男の方に向けたままだ。そろそろ、そろそろだ。これでこの男がもう一押ししてきてくれたら、こいつはもう驚かせたようなものだ。内心しめしめと思っていた狢は気取られないように渾身の嘘泣きを続けた。
男はぽんぽんと女の肩を叩いて言った。
「まあ、俺の言うことを聞いてくれよ。ほんのちょっとの間でいいからさ。って、立派な着物を着てるんだな。お若そうなのに、いい趣味しているよ」
ここだ!狢は男の方を振り向いて、するりと袖を落として自分の顔を手でつるりと撫でた。その顔には目のなければ鼻も口もない、のっぺら坊であった。ここで、男はアッと悲鳴を上げるに違いない。狢は内心確実に来るであろう歓喜に打ち震える準備をしていた。
しかし、男の反応は狢の予想とは大きく異なっていた。
男は狢の顔を見ると一度たじろぎ、すぐさま足を踏み鳴らして激怒した。
「ふざけんじゃねぇ!人様の良心を踏み躙りやがって!」
あまりの剣幕に驚いた狢は変身を解く事も忘れて脱兎の如く坂を登った。男はブリーフケースをかなぐり捨てて負けじと狢の背中を追ってくる。さっきまであんなにもふらついていたのに、狢を追いかける足取りには一切の迷いがなく、速かった。歩幅の狭い女性の姿に化けてしまった狢は、着物の走りづらさも毎まって、赤坂離宮の手前で男に捕まってしまった。
「そこに直りなさい!」
狢は離宮前の電灯の下で、正座させられた。電灯の明かりに照らし出された男の顔には皺が刻まれており、五十代後半のような面立ちだった。男は酔って赤くなった痩頬をなお燃やして狢に説教を始めた。
「全く、伝統ある赤坂離宮の前までやってきて、ハロウィン仮装をして人を騙すようなことをするなんて、今の若者には分別がなくていかん!」
どうやらこの中年男は、狢のことを仮装した人間だと思っているらしい。反論しようとしたが、男の発し続ける言葉の弾幕には付け入る隙がない。
「第一、ハロウィンに何も関係のない日本人が、扮装して渋谷の夜の街を闊歩するイベント自体、私は気に食わないんだ。そもそもハロウィンがどう言う日なのか君は知っているのか、ええ?古代ケルト民族が秋の恵みに感謝をする収穫祭『サウィン祭』の日なんだぞ。仮装するのだって、その日にやってくる悪霊を追い返すためのものなんだ。それがどうだ、今のハロウィンは。百歩譲って農家がこれをやるのは分かるが、収穫とは何の縁もない渋谷の若者が、ただ自らの解放欲求を満たすだけに集って意味のないコスプレをしてお互いを慰め合うだけの低俗なイベントと化している。全くけしからん!」
その後も三十分の間、痩せ男の説教は続いた。そして間断なく捲し立て続けた彼はエネルギーが切れると、萎れた草花のようにヘナヘナとその場に座り込んだ。
狢は恐る恐る口を開いた。
「僕は、仮装しているんじゃありません。正真正銘の、妖怪なんです」
狢は変身を解いた。毛むくじゃらの狸に似た、男の背丈の三分の一ほどの、小さな背中だった。痩せ男は少し驚いたらしいが、気を取り直して正座をすると、狢を見つめた。
「どうして、こんなくだらないことをしているんだ」
狢は俯きながら、ポツリ、ポツリと語り出した。
「僕たち狢という妖怪は、人を化かして畏れさせることを生業にしているんです。それが生き甲斐なんです。そうやって人を驚かさないと、僕たちには存在意義というものがなくなってしまうんです。だからこうして今日も化けて出てきたんです。でも最近、みんな全然驚かなくなってしまって、今日こそはと思ったんですけど、やっぱりダメで・・・・」
語っているうちに、情けなくて自然と涙が溢れてきた。驚かすべき人間の前で、驚かせないという悩みを打ち明けている。紀伊國坂の狢も地に落ちたもんだ。もう、消えてなくなってしまいたい。夜の闇が、ジリジリと背中を侵食しているのがわかった。
すると、男のズボンに透明な雫が落ちた。見上げると、痩せ男は目を充血させて泣いていた。男は狢の肩に手をのせて言った。
「妖怪ってのも、大変なんだな、苦労してるんだな」
男は滴る涙をスーツの袖で拭ってから、決意のこもった目を狢に向ける。
「何の意味も無い仮装をしている若者より、よっぽどいいじゃないか。よし、分かった!じゃあ君が人を畏れさせられるよう、どうすれば良いか一緒に考えようじゃないか」
男と狢はしばらくの間談合したが、まともな案が出ないまま一時間が経過した。
虚しい静寂が流れる。数台の車が白や黄色や青色のライトを走らせ、街路樹がさわさわと揺れる。
腕を組んで唸っていた男がポツリと呟く。
「現代人がのっぺら坊を恐れなくなったのは、きっと仮装とかコスプレのせいなんだ、きっと。今の日本人はアニメや漫画といった現実離れした存在に慣れてしまったんだ。そして2.5次元のコスプレとか仮装をして楽しむことが社会に受け入れられるようになってからは、より顕著になったんだと思う。そして科学技術が発達した世の中において妖怪はいないものだと思われているからこそ、君がのっぺら坊になっても、畏れるどころか、きっとこれはコスプレだ、どうしてこんなところでこんな格好をしているんだろう、という思考になってしまうんだ」
自分の変身術が仮装程度に見なされている、そう考えると、狢はとても悔しかった。震える握り拳を一瞥して、男は元気づけるように続ける。
「という事はだ、現実味のある、現実味のない姿に化ければ良いんだよ」
狢はキョトンとした。何をいっているんだこの初老は。
「つまり現実味のある格好なんかにコスプレする人間なんていないというところが狙い目なんだ。それでいて、実際にはありえない姿を見せれば、現代人であろうが確実に驚かすことができるんだ」
狢は具体的にはどうすれば良いのか聞いてみた。
「うーん、そうだな・・・・。あ、こう言うのはどうだい。街中で出会った人間の姿そっくりに化けて出てみるとか。これなら、有名人でない限りはコスプレするわけなんてないし、実際にいたら怖いと思うんだよ俺は」
それは妙案だ、と狢は男の提案に思わず舌を巻いた。そしてすくっと立ち上がると決意のこもった瞳で男と目を合わせ、ゆっくり頷いた。男はパアッと表情を明るくし、膝立ちになった。
「よし、そしたら渋谷の街に繰り出そうじゃないか。そして、本当の変身術を若者たちに知らしめてやるんだ!」
二人の鬨の声は、深夜の赤坂離宮前にかんと響き渡った。
一人の女性が、渋谷の道玄坂を歩いている時のことだった。
彼女は仕事の同僚と職場近くの中華屋で夕食を取った後、帰路についていた。
今日は十月三十一日、ハロウィンだ。渋谷駅方面に近づくにつれて、無秩序なコスプレイヤーの数が増えてゆく。道玄坂から見下ろせるスクランブル交差点のあたりなどは、入り込む隙間がないほど混雑していた。
「ほんとに困っちゃうわよね、ハロウィンって。こちとら仕事終わりで疲れてるっつーのに、こんなやかましくするなよなってね、そう思うわよね」
酔った同僚がこぼす愚痴に、全くその通りだと女性は二度頷いた。くだらない仮装をして、一体何が楽しいのだろう。女性ははしゃぎながら通り過ぎてゆくコスプレ集団たちを見送りながらそう思った。
夜の渋谷の街は相変わらず至る所がキラキラと輝いていて、女性限定高額バイトを宣伝するトラックが混雑する道路の中を喧しい音楽を垂れ流しながら走っている。女性は酔った同僚の肩を支えながら、鬼殺隊やミニオン、シンデレラ、ストームトルーパーたちの間を強引にすり抜けてゆく。その光景は何だか滑稽で、自然と笑みが溢れた。
しばらく歩いていると、ふと、見知った顔が彼女の横を通り過ぎたような気がした。
ピタッと立ち止まる。背筋を這うような薄寒さが彼女の体を駆け巡った。
「どうしたの?」
同僚が回らない舌で尋ねるが、彼女は声をかけられたことにも気づけないほど、動揺していた。
見知った顔っていうより、あれはむしろ ―――――
恐る恐る振り返ると、そこには・・・・・
雑多な人混みの中にそれは立っていた。
自分と同じスーツにヒール姿で、全く同じ体格の女性がこちらをじっと見つめている。その顔は、その女性の顔と全く同じだった。
そしてそれは、不気味なほどに口角を釣り上げて微笑むと、人波の中へと忽然と姿を消した。残ったのは、夜の渋谷の喧騒と、女性のあげた悲鳴だけだった。
その日以来、とある怪異の存在が噂されるようになった。
夜の道玄坂に、ドッペルゲンガーが出る、と。
そして、紀伊國坂の狢の名を知るものは、もはや誰もいなくなったのだった・・・・・。




