好奇心を携えて
小川のほとりでは、まるで夢の中のような光景に変わっていった。薄暗い空に浮かぶ星々が、微かな光を放ちながら静かに見守る中、小川の水面はホタルの光で煌めいていた。まるで小さな妖精たちが、夜の帳の中で舞い踊っているかのようだ。
流石に先輩と一緒に見たときと比べると迫力に劣るが、これはこれで風流があるなと回斗は思った。というよりこれが普通なのだ。現実の世界では、ホタルがまるで意思を持って道などを作ったりはしない。
これからちょっとずつなれないといけないな。
観賞会に訪れた人々の笑い声やささやきが、風に乗って川の流れに溶け込んでいく。子どもたちは興奮した様子で手を伸ばし、ホタルを捕まえようとするが、その小さな光の精霊たちはすぐに逃げていく。大人たちはそれを見守りながら、思い出に浸るように、かつての夏の夜を思い返しているように見えた。
「…………」
回斗は一週間前、先輩とホタルの光の中で別れた直後のことを思い出していた。
最初に目が覚めたとき、自分は仰向けの体勢だった。その身体全体を覆うようにして、ホタルの黄緑色の光が輝いている。ぼんやりと春のようなちょうどいい暖かさで、心地よい空間。まるでライトアップされた棺桶の中にいるようだった。
回斗はその神秘的な光に引き寄せられるように身を起こそうとすると、あたかもエレベーターにいるかのような浮上する感じに襲われた。時間にして十秒もたたないうちに、外からザバァ と水から顔を出したときと同じ音が聞こえた。
ここで初めて外の景色を拝めた。自分が落ちた半円状の橋の裏側と、オレンジ色の光が縁取るように白くきらめく朝日の太陽が見えた。
朝が差し込み、ホタルたちの輝きは次第に薄れていった。彼らは、川の水から回斗を守ってくれたのだろうか。そんなことを考えながら、自分は再び降りかかってきた睡魔の誘惑に勝てず、眠りについた。
それからの日々を一言で表すなら、ちょうどよい言葉がある。光陰矢の如し、だ。回斗は七月二十五日の放課後から実に八日間、行方不明だったのだと母親から聞かされた。
「今までどこに行ってたのよ!」とかつてない剣幕で怒られたが、まさかループする世界で春風廻瑠という人と過ごしてましたなんて言えるわけがない。
ずっと自然公園で気絶してましたというすこぶる無理やりな言い訳をなんとか信じさせたあと、身体の異常を確認したが、どこにも怪我はなかった。まるで夢から覚めたように、ただの時間が過ぎ去っていっただけのように感じた。
あとは先輩との約束を果たすことしかやることがなくなった。でも、今日は、
「疲れたなぁ……」
ため息と同じようにして言葉を吐いた。今まで回斗がやってきたことの一部として、まずデパートの本屋にある少女漫画コーナーへ行った。
そこで自分と同じ好きな漫画を見ている人にさりげなく「自分もその漫画好きなんですよ」や「よかったら一緒に見せてくれませんか」などと声がけしたのだが……今思うとかなり迂闊だったなと思う。もれなく距離を取られるは、無視をされるは、ナンパクソ野郎と勘違いされるはで散々だった。
次に回斗は、夏休み中も活動している漫研に、自分の作品を飛び入りで見せたりした。趣味から始まる友達やその他の関係性のほうが、ずっと構築しやすいと思ったからだ。
しかし結果はこれ以上ないほどにボロクソに酷評された挙句、部員全員から鼻で笑われてしまった。しかし自分でも驚くほど傷は浅かった。これは成長ととらえていいのか、それとも無我の境地に達しただけなのかよくわからなかった。
最後に回斗は公民館で誰彼構わず声をかけたりしたが、本屋と同じ状況になるだけだった。唯一違う点があるとすれば、不審者として一度警察に指導されたぐらいだ。
そんなこんなでときは流れ――今現在回斗は、ホタル観賞会に来ていたというわけだ。
「帰るか」
回斗は十分にホタルを観賞したので、小川をあとにする。カップルや家族連れの観客とすれ違いながら、先輩の落ちた半円状の橋に差し掛かった。さすがに欄干部分は、以前より強固に修復されている。
意図せずして川の下に目を通したあと、しばらくは月の明かりを頼りにしながら舗装された林道を歩き続ける。するとやがて、焼きそばや焼き鳥などの香ばしい匂いが鼻腔をつついた。ホタルの観賞会を利用して、たくさんの出店が出ているのだ。
周囲にはたくさんの人々がいて、笑い声や歓声が響き渡っていた。回斗は食事することも考えたが……あいにく今は、これっぽっちも食べ物が胃に入る気分じゃなかった。
デパートや漫研での出来事が積み重なり、精神的なストレスとなってずっと身体に住み着いている。それが今の状態だ。
――私の分も……青春を生きろ。
今でもよく、先輩の言葉が脳内に轟く。それに従ってこれまでやってきたが……やはり現実というのはうまくいかない。でもそういうものなのだと思う。
うまくいかないのが現実。
予定調和にならないのが現実。
失敗するのが現実。
それでも立ち向かわないといけないのが……現実というやつなのだろう。まるで実体を持たない怪物だ。時々戦うのが嫌になる。
それにまだ正直な話……まだ回斗には青春がよくわかっていなかった。
友達を作って友情を深めることが青春?
恋人を作ってキスやセックスをすることが青春?
そんな単純なことじゃないなと、今になって思う。
ここに至るまで回斗は、様々な気づきを得た。それにより喜んだり、絶望したりすることもあった。
夢の努力を途中で投げ出した半端者だということ。
思うだけで行動に移さなかった怠け者だということ。
自分の青春や世界の加害者は、自分だということ。
先輩が自分にだけ見せてくれた一面があったこと。
初めて自分の趣味を誇れたこと。
現実の世界が、案外悪くなかったと思えたこと。
そのすべての始まりが、本当の七月二十四日に回斗が、先輩をデートに誘ったことから始まったのだ。
青春が何かは分からないが……青春の入り口ならよく分かった気がする。それは……
「やるよ」
と突然背後から声が聞こえた。その声は先輩の次に聞き覚えがあった。振り返った瞬間、自分の嫌いなタイプの臭いだったため、思いがけず眉間にしわを寄せた。目の前には牛すじの刺さった串。
「ドムと……ポッキー!」
「は? 何言ってんだ? オメェ」
ほとんど夜と同化したポッキーが、思考が止まったかのような顔つきで回斗をみていた。
「もぐもぐ……そんなこと、より、牛すじのどて焼き串、もぐもぐ……食うか?」
ドムがもう片手で唐揚げ串を貪りながら、串を突き出してくる。なぜこの場に二人がいるのかと戸惑いはしたが、厚意を無下にはできずに回斗は、ドムから牛すじ串をもらった。
相変わらず牛の臭いがあまり好きになれない。料理動画という視覚で見たときはあんなにおいしそうだったのに、嗅覚が入った瞬間に一気に評価が下がってしまった。
でも……どういう味か気になる。
口いっぱいにあけて思いっきりかぶりつく。最初に気持ち悪いと思っていた牛すじの溶ける食感が、だんだんと癖になる。次に味噌とみりんの甘辛い味付けが舌の上で踊りだし、ゴクリと飲み込んだ瞬間――回斗の何処かで、新たな扉が開かれたような気がした。
これは……これは……すごく、
「おいおい、涙が出るくらいにおいしかったのかよ」
「すごく、すごく、すごく…………すごく、お゛い゛じ゛い゛で゛ず!!!!」
もちろん、美味しすぎて泣いたわけではない。今までうまくいかないこと続きだったせいか、誰かの何気ない優しさが傷口に塩くらい身にしみて感極まったのだ。
だがそんな自分を回斗は認めたくなくて、嘘をつくことにした。
先輩と別れるときも同じことをした。本当はついていきたい気持ちを抑圧して、一人生き延びるという決断を下した。
――約束を胸に。見上げ話の期待を、裏切りたくはないから。
「そんなにおいしいなら、もう十本買っちゃおうかな……自分用の」
「いやお前のかい!」
漫才をしているドムとポッキーを横目で見ながら、その場をあとにする。人混みを縫うようにして進み続けると、自然公園の入り口が見えてきた。
一歩、また一歩と近づいていく。人々の喧騒が少しずつ遠のいていく。視界の端に一瞬、キラリと流れ星が瞬いた。
青春の入り口。それは――好奇心によるすべての行動、なのかもしれない。
まだ回斗は、世界の百分の一すらも回りきれていない。これから少しずつ、たまに嘘をつきながら歩いて行こう。
塩味の効きすぎた牛すじのどて焼き串をほおばりながら、そんなことを考えた――