嘘つきな先輩
「きょうはどうして、オレとの誘いに乗ってくれたんですか?」
「今日がこの街にいる、最後の日なんだ」
そう言うと青式は、「最後の日?」と言ってる意味がわからないのか首をかしげる。
「今日を最後に、この街から出るんだ。親の転勤が決まったらしくてさ。夏休み明けは別の学校に行くんだ」
「…………そう、なんですか」
園内灯に薄く照らされた青式の顔つきは、あからさまに元気をなくしていた。廻瑠はどうしてなんだろうと思いつつ、話を続けることにした。
「はっきり言ってこの街には、これといった思い出がなくてね。だからこそかな……最後に爪痕というか、なんかしよう! と思ってて。そんなときに、」
――オレと――デートして、くれませんか?
「なんて知らない男子から誘われちゃったから、面白そうだし乗るしかないと思ってね。このビッグウェーブに」
「面白そう……ね……」
廻瑠はなぜ青式がその部分を反芻するのかよくわからなかった。ただでさえさっきも元気をなくしていたのに、その度合いが一層濃くなっているのを感じた。
息が詰まるような沈黙が訪れる。何とかそれを破るために思案を巡らせた結果、
「そ、そーだ回斗! この公園ってさ、ちょうど今ぐらいの時期にホタルの観賞会やらなかった? よかったら一足先に、一緒に見に行かない?」
青式の肩を叩いてやると、ビクリと電流を流されたようなリアクションをしてきた。自分の手はAEDじゃないぞと思う。
「あ……オレも、見たいと思ってました。ホタル」
青式はまだ慣れていないのか、作ってる感満載の笑顔を向けてくる。
対して廻瑠はかなり浮足立っていた。実はホタルを見ること自体が初めてで、いつもはテレビやネット越しにしか見れていないものが現実で拝めるという事実に、内心歓喜していた。
「行こっ! ホタルが帰っちゃう前に!」
「ちょ、ちょっと先輩!」
廻瑠は力強く青式の手を引く。それが彼をとことん勘違いさせる行動なんて知らずに。
純粋に、無垢に、無邪気に、傷つける。
*
月明かりの薄い光が木々の間を縫い、林道にまだらな影を落としている。涼しい夜風が葉を揺らし、かすかなざわめきが響く中、廻瑠と青は黙々と歩いていた。
さっきから会話はない。いや、正確に言うと会話はできているが、すぐに途切れてしまう。ほとんど一問一答状態だ。
道中にホタルの豆知識が書かれている看板をみたりして何とか話題を探すも、青式のトイレを目の前にして漏らしてしまったかのような沈んだ顔をみてしまうと、とても話す気になんてなれなかった。
「暗いな」
「はい……」
「洞窟みたいで、ワクワクしない?」
「ワクワク、しますね……」
「…………」
「…………」
いっそ話さないほうがマシだと思える。だが葬式じゃあるまいし、せっかくのホタル観賞なのだから楽しんでいきたい。廻瑠は思い切って賭けに出た。不意に月明かりの途切れたタイミングを見計らって、道の脇に生えた茂みに隠れる。
「先輩?」
と間抜けな声を出してキョロキョロし始めたのと同時に、廻瑠はわざと大げさに声を張り上げ青式の前に立ちはだかった。
「うわッ! びっくりした!」なんて反応を期待したのに、青式はただ一瞬だけちらっと見て、「……置いてっちゃいますよ、廻瑠先輩」とたった一言、吐き捨てるように言われた。まるで心がここにないみたいだった。
青式の様子は廻瑠が転校すると言ってから。そんなに離れるのが嫌なのだろうか。まさか自分のことが……と考えて、そんなわけがないと頭を振る。
不良の自分を好きになるなんてありえない。
廻瑠は唇を尖らせながら、青式の横に並んで歩き出した。他にどうすれば元気になってもらえるだろうと、少し焦っていた。
絡みすぎるとうざいと思われるかもしれない。でも放っておくわけにはいかないと思っていた。なんとかして、せめて今夜だけでもその暗い顔を吹き飛ばしたかった。
そして思いついた。廻瑠の命運を分ける提案を。
「回斗、競争しよう」
廻瑠は急に立ち止まり、ボソッと宣言した。
「は? 走る?」
青式が怪訝そうに眉を上げる。いかにもお前は何を言ってるんだ? と言いたげだ。だが廻瑠は了承を得るよりも先に、脱兎のごとく駆け出した。
こういうモヤモヤしたときは身体を動かすに限るってテレビか雑誌に書いてあったような気がする……気がするだけど。廻瑠のスニーカーが砂利を蹴る音と、遅れて青式の少し重い息遣いが、夜の静寂に響いた。「待ってくださいよー!」なんて泣き言を言ってるが、聞こえないふりをする。
街灯の光が途切れるたびに、闇が一瞬だけ廻瑠を飲み込む。それがなんだか妙に楽しくて、思わず笑いながら走ってしまった。
「ハァ、ハハ、ハァ…………ハァ……」
廻瑠は一足早く橋の地点に到着する。このままホタルのすみかまで行ってもよかったのだが、さすがにいま以上に距離を離してしまうのは気が引けた。
橋の中心あたりまで歩くと、欄干に寄りかかる体勢で下の川を見下ろす。夜の川面は黒く、なんだか吸い込まれそうだった。そこに少しばかりの街灯の白い光が混ざって混濁している。
「…………ッ」
その時、今まで吹いてきた風とは比べ物にならないほど大きな突風がすぐ近くを素通りした。思わず目を細める。だからかもしれない。ギシギシと欄干にガタがきていることに気づけなかったのは。
再度川を見下ろした瞬間、ガキッと嫌な音がした。次の瞬間、欄干は体重を支えきれずに崩れて落下し、あとを追うように廻瑠もバランスを失い川に落ちた。
「うわっ!」
叫び声が喉から漏れたが、すぐに冷たい水が全身を飲み込んだ。深さはそれほどなく、川の流れも穏やか。普通ならおぼれるような事態なんて起こらないはずなのだ。
しかし、先ほど全速力で走ったことでの足の負担がトリガーとなって、川に落ちたという最悪な時機に右足に鋭い痛みが走った。 つってしまったのだ。
「ぐぅっ…!」
筋肉が硬直し、思うように動かせない。パニックと恐怖が全身を支配した。 廻瑠は水の中で必死にもがいた。肺が締め付けられるように苦しく、視界は暗く濁っていた。それがまたパニックと恐怖を加速させた。
早く酸素を、酸素を、酸素を。酸素を。酸素を。
手を伸ばす。唯一外気に触れる事ができた右手を、力いっぱい動かす。
パシャ、
パシャ、
パシャ、
園路灯が遠くで揺れている。そこに、橋の上から覗き込む青式の姿が見えた。いや、見えた気がした。私の目は水でぼやけ、彼の表情はわからなかった。
「回斗! 助けて……!」
そう叫んだつもりだったが、口からは泡しか出なかった。声は水の底に沈み、届かない。 すべて水泡となって上へ上り、プクプクと意味のない音になるだけだった。口や鼻などの穴に汚い川の水が絶えず押し寄せてくる。
廻瑠は川の底で、もはや抵抗する力を失っていた。足の痛みは消え、代わりに全身が冷たく、感覚が薄れていく。青式の声が聞こえた気がしたが、それはもう遠い幻だった。
「……………………」
意識が闇に沈んだ――
*
「ここ、か……」
夏の夜の空気はむっとしていて、遠くでキリギリスの声が響く。小川の水面は、月明かりを映してキラキラと揺れていた。
ここへ来るのは久しぶりだった。小学校低学年の頃は毎年親に連れて行ってもらっていたが、ある年にこれでもかというほどに蚊に刺されてしまって以降は近づくことすらしなかった。
――そ、そーだ回斗! この公園ってさ、ちょうど今ぐらいの時期にホタルの観賞会やらなかった? よかったら一足先に、一緒に見に行かない?
先輩のその言葉が、回斗の頭の中で何度もリピートされる。彼女の笑顔。軽やかな声。あの瞬間、回斗は表面にこそ出ないものの、胸中ではかなり舞い上がっていた。ついさっきまで面白そうという発言にへこんでいたのに、我ながら現金なやつだなと思う。
スマホをみて時間を確認する。午後七時半。先輩はどこで道草を食っているのだろう。まぁそれはそれとして、道中に立てられたホタルの豆知識の看板によると、ホタルが活動時間のピークを迎えるのは八時から九時の間らしい。さすがにその時間帯になったら来るだろう。
「楽しみだな……」
回斗は小川のほとりに腰を下ろし、膨張して粉微塵になりそうな心臓を必死に押さえていた。まだホタルは出てこない。
七時四十分経過……まだホタルは出てこない。
七時五十分経過……まだホタルは出てこない。
八時経過……まだホタルは出てこない。
八時十分経過……まだホタルが出てこない。先輩が隣にいない。
八時二十分経過……まだホタルが出てこない。先輩が隣にいない。
八時三十分経過……まだホタルが出てこない。先輩が隣にいない。
八時四十分経過……まだホタルが出てこない。先輩が隣にいない。
八時五十分…………………………………………経過。まだホタルが出てこない。
先輩が、隣にいない――
*
「……あ」
次の瞬間、回斗は夜の教室に立っていた。
ついさっきまで川にいたはずなのに、今さら全然驚くようなことじゃなかった。服も当然のように乾いている。校舎の窓から差し込む夕日が、カーテンと混ざって教室の床に朱色の模様を描いている。時刻は午後七時半時を指している。
机の角に刻まれた誰かの落書き、
黒板に残されたチョークの白い粉、
右斜め前の席の高木くんが忘れていった体操袋、
すべてが、あまりにも見慣れている。見慣れすぎている。
「長い夢を、見ていた……」
真の七月二十四日、競争により走り去っていく先輩の姿を最後に、一度たりとも姿を見かけなかった。それもそうだ。だって――川でおぼれて死んでしまったのだから。来なかったじゃない。来れなかったんだ。
にもかかわらず回斗は裏切られたと勘違いして、自分の青春を、自分の世界を、何より先輩を呪いながら家路についたんだ。そして翌日に、同級生が話しているのを聞いて訃報を知った。
「…………」
そして回斗は、いつの間にか深夜に事故現場である橋に立っていた。時間の経過があいまいで、現実を生きていたはずなのに、ずっと夢の中のような気分だった。
周辺には規制線があったような気がしたが、よく覚えていない。とにかく立っていた。
――先輩、オレは……
回斗の声がむなしく反響し、寒さでわずかに色づいた息がはるか上空へ吸い込まれていく。あの夜、もっとちゃんと走っていれば。あの夜、もっとちゃんと橋の下をみていれば。すべて、後の祭りだった。
――先輩、オレは……
声が震える。回斗はそれを夜風のせいにして、欄干の出っ張った部分を利用して上に乗った。当たる風の割合がグッと増える。気持ちがいい。心が伽藍洞になったせいか、風通しの良さを感じた。人生で誰もが迎えるソノトキだというのに、心は過疎化が進んだ農村のように静かだった。
先輩の笑顔がちらつく。先輩の匂いがちらつく。先輩の感触がちらつく。先輩と過ごした時間がちらつく。一人で抱えるには、きれいすぎて、繊細すぎて、重すぎてつぶれてしまう。
いや、先輩の死を知ったその瞬間から、もう潰れていたかもしれない。
――最後に――好きだと伝えたかったな。
そう言って自分、青色回斗は、先輩の後を追うように川へと身を投げたんだ。
「オレは……死んだのか?」
どれくらい時間が経ったのかはわからない。だがはっきりしていることは、これまで過ごしてきたループ世界は、回斗の願いが作り出した幻想であることだ。
ここは天国だろうか? 個人的なイメージとしては、全員カレーうどんを絶対に食べていけないような真っ白な服を着ていて、コスプレみたいに頭に輪っかなんか付けてるのかと思ったが……それは外界の人間の好き勝手な妄想だと知った。
「回斗」
いきなり名前を呼ばれてびっくりした。窓側の一番後ろの席に、先輩は座っていた。
「先輩……いたんですか」
川に落ちて溺死してしまった先輩。こんなにはっきり見えて、こんなにはっきり感じている。おそらく生きている普通の人間からしたら、何も映っていないのだろう。それが見えるということは……
先輩はしばらく外を眺めていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、こちらに向き直った。その瞳には、悲しみや優しさなどいろんな感情が複雑怪奇に入り混じっていた。
教室に沈黙が落ち、時計の秒針の音だけが小さく響く。回斗は胸の奥で何かざわめくものを感じ、思わず一歩後ずさった。だがそれと同時に気がつく。自分が今一番しないといけないことに。
「あっ……その、先輩――」
「謝らなくていい。あれは競争しようなんて言い出した私が招いた事故なんだから」
「で、でも……オレがもしあの時、ちゃんと橋の下を確認していれば……!」
タラレバを言ってもどうにもならないことぐらい分かっている。それを先輩に言うことで、傷つけてしまうことも。だが口からあふれ出る後悔の津波をとめる術を、回斗は知らなかった。まともに目を合わせられない。
時間経過で濃紺に染まったタイルに視線を落としていると、先輩は何を思ったのか、いきなり手を握ってきた。そしてその手を自分の頬へあてがう。彼女にはないはずの温かな体温が、じんわりと染み込むようにして回斗の身体に伝わってきた。
トクン、トクンとうるさいくらいに心臓が高鳴った。死んでいるはずなのに、おかしいなと思う。無意識にもう片方の手でワイシャツの裾を握り、ギュッと力を込めた。
「あったかいだろ? でもこれは幻。神様が許してくれた、優しい嘘でしかない」
「…………」
「だけどもう間もなく、そんな嘘も終わる。回斗にはその前に、ある言葉を言ってもらわないといけない」
「ある言葉って……あっ」
頬にあてがわれていた手が離される。回斗は自分の頬が急上昇した温度計みたいに赤く染まった。
「わかってくれたようで助かった。これでわざわざ私に言わせるような真似をしたら……うっかり首を絞め落とすところだった」
「それ、今となったら笑えない冗談ですよね。ははっ」
溺死も、絞死も、同じ呼吸ができなくなる死因だ。実はあのデパートのとき、すでに自分の死を予期していた……と考えて、回斗は馬鹿らしくなってやめた。今となっては、もうどうでもいいことだ。
「回斗、一つ訊いてもいい?」
「なんですか」
「まだ回斗にとって現実の世界は、つまらない場所か?」
「…………」
まず最初にも言ったが、青色回斗という人間は陰キャだ。友達もいなければ、もちろん恋人もいない。本来ならバラ色で楽しいはずの青春時代に、一人さみしく少女漫画を読み漁るモノクロの自分。
危機感はあった。このままでいいのかと。このまま、一生に一度きりの大事な時間を活用しないでいいのかと。
思っただけだった。自分から身体を動かそうとしなかったのだ。なら結果はそれ相応の境遇、人生となるだろう。
だが厚かましいことに、自分は世界がつまらないなんてとんでもない戯言を言ってしまった。あの時、あんなに先輩が怒るのも無理ない。もしあの場で彼女を殴ってしまったら、自分で自分を殺すだろう。まぁもう死んでいるから、それは叶わないか。
「現実の世界は……」
話を戻すが、回斗が陰キャだからこそ、たった数時間という短い付き合いが、まるで夢みたいで、奇跡みたいで、心の底から嬉しかった。
だから、ただの思い出づくりとして利用されただけと聞いたときはすごくショックだったが……あとになって一緒にホタルを見ようなんて言われた時は、本当は飛び上がるほど嬉しかったのだ。
このたった一つの感情を手に入れられた、もしくは感じられただけでも、自分は陰キャになった甲斐があるもんだと回斗は思った。決して強がりじゃない、本当の気持ち。
だから答えは、すでに決まっていた。
「つまらない――と、思ってました」
「思ってました?」
「今まで自分は、あれこれ理由をつけては人付き合いを避けていました。それが最も自分の世界から、色を失くすことだと分かっていても。
でもあの日……先輩をデートに誘った七月二十四日。変わったなんて仰々しい言い方かもしれないけど……けど! 少しは前に進めたんじゃないかと思います。そのきっかけをくれたのは、ほかでもない先輩なんですよ?」
「回斗……」
「死んでしまった今、振り返ってみると……現実の世界も、案外悪くなかったんですね」
直接死というワードを出したせいか、必然的に沈黙の時間が流れた。だが別に隠す必要もないと思う。言い終えたあとの回斗をみる先輩の目つきは、なぜだか儚げだった。
「先輩?」
「あ、いやいや、なんでもない」
先輩はブンブンと頭と手を振った。回斗は今だからこそできる質問を思いついた。自分は少しでも思い出作りの手伝いができたか否かである。
回斗としては、少しも気の利いたセリフやかっこいいところを見せる事ができなかった。せっかくのデートなのにエスコートすらできず、逆に気を使わせる始末。情けないったらありゃしない。
訊くことはとても怖かった。だが死んでしまった先輩にとって、最期の日である七月二十四日は重要な意味を持つはずだ。それを確かめない選択肢はなかった。
「あの、」
「ん? なんだ」
「その……えっと……」
「…………」
「オレは、先輩の思い出づくりに貢献――」
言い終えるより早く、回斗の唇には先輩の人差し指が添えられていた。目が合う。一瞬が永遠にとも思える時間が経過する。
暗くなり始めた空から、青白い月が顔を出し始めた。月光はまるで、別の世界からの訪問者のように、そこにいる先輩の姿を幻想的に浮かび上がらせる。
「百億点の花丸だよ。回斗」
そう言って人差し指を自分の口元に当てた先輩の表情は、まるですべてのしがらみや苦しみから解き放たれたように穏やかな表情をしていた。髪は月光を受けて銀色の輝きを放ち、目元が神秘的な影を落としている。
「先輩は、やっぱりずるいです」
「……かもね」
あ、認めるんだ。と心の中で回斗がツッコんだ瞬間、なんだかすごく笑えてきた。前にも言ったが、あんまり人前で笑っているところを見せない主義なのだが、先輩の前だと違う自分になった気分だ。
先輩も同じようにして笑い始めた。これが最初で最後の笑いの共有になるんだろうなと考えると、心の端っこの部分で悲しみが芽生えた。
「あ、忘れてた。ある言葉を言ってもらうためにここだと、いささかムードに欠けると思わないか? 回斗はそう思うよな? な?」
「え、ムード?」
この人は何を言っているのだろう。先輩が突飛な発言をするのは、今に始まったことじゃないけど。
「うんうん、そうだそうだ。間違いない。絶対に間違いない」
先輩は顎に手を当てながら一人頷いている。
「ちょっと、勝手に話を……」
「ということだから、これからメイン会場に移りたいと思うんだけど、覚悟の準備はいいよな?」
「え? メイン? それに覚悟って……」
「よーし今行こう! すぐ行こう! 吉幾三!」
先輩はビシッと窓の外を指差した。回斗が入り込む余地は一切なく、そのメイン会場とやらに行くことになったのだが……再び手をつながれてドキリと心臓が不器用に踊りだす。
そのまま教室のドアの前まで移動する。外に行くのかと思ったら、なぜか先輩はそこで立ち止まってしまった。それっきり俯いてしまい詳しい表情が見えない。
「先輩……?」と問いかけようとしたが――それよりも早く顔を上げたと思ったら、回斗に向かってニヤリと、まるで某漫画の計画通りのような笑みを向けてきた。
「クライマックスは――派手にいかないと面白くないからな!」
次の瞬間、先輩は走り出した。回斗の手を引いて、教室の床を蹴る。驚くほど軽やかで、まるで重力が機能していないようだった。窓が近づく。ガラスが目の前に迫る! 死んでいるのに死を覚悟して、ギュッと目を閉じた。
ガシャアアアァァァ――――ッッッッッン!
パラパラと月明かりに照らされた破片は、瞬く間に夜の闇に吸収されていく。鋭い音が響いた。夜の風が一気に頬を撫でた。でも、痛みは全くない。驚いて目を開けると、回斗は宙に浮いていた。いや、飛んでいた。
「え、え、ぇ……えええ!?!?」
後ろを見ると、見るまもなく校舎が遠ざかっていく。夜の市街地が、まるで宝石箱をひっくり返したようにキラキラと輝いていた。街明かりが点と点で繋がり、まるで巨大な星座のようだった。回斗は先輩の手を握りながら、夜空を滑るように進んでいた。
「子どもの頃からの夢、かなったんじゃない?」
とゴウゴウとした風の音に混じって先輩が笑う。彼女の髪が大気に乱れ、まるで夜そのものと溶け合っているようだった。
「初めてはタケコプターって決めてたんですよーっ!」
と回斗は冗談を言いつつも、その声は恐怖で震えていた。何かしらしゃべっていないと意識を保てなかった。
「じゃあ手離しちゃおっかなー?」
という頃には、とうに先輩が握ってくれた命綱という名の手が離されたあとだった。間髪入れずして、回斗の心臓に杭が打ち込まれて停止……したような気がした。
ド派手な投身自殺を図ってしまったのか目をつぶったが、いつまでたっても痛みは訪れなかった。再び目を開けると、変わらず夜を彩る街明かりの地面が敷かれている。
「殺す気かアンタはーッ!!」
「アッハハハハハハハハ! 落ちてく瞬間のあの顔、あの顔……プププ、ハッハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!」
と相当おかしいのか、先輩は両手でお腹を押さえながら笑いまくっている。そして回斗をその場に残したまま先に行ってしまった。
「笑ってんじゃねェーーーッッッ!!!!」
と言葉は荒々しくとも、回斗の表情は今までのループ世界とは比べ物にならないほど眩しい笑顔を浮かべていた。それは、この世界を卒業することを決意しないと決して手に入らないものだったと思う。
しばらく先輩を追いかけているうちに街を越え、森の暗闇が見えてきた。木々の間をすり抜け、風が涼やかに変わる。やがて、彼女はゆっくりとホタルの出る小川に降下した。足が地面に触れると、柔らかな土の感触が伝わってきた。
「とうちゃーく!」
と先輩は、いつぞやの橋のときのようにYの字でポーズを決めた。時計を見ると、八時ちょうど。辺りは静かで、川のせせらぎだけが聞こえる。
「……ちゃんと出てくるのか……?」
と回斗は少し心配していた。ループする世界では、散々一匹もホタルがわかない世界をみてきたからだ。
「大丈夫だよ。ほら、見て」
と回斗は先輩の指の差した方向を見やった。小川の上流あたり、雑草の中から浮き上がるようにして――ふっと小さな光が揺れていた。
「いた……!」
と回斗は思わず声を上げた。一匹のホタルが、ゆっくりと光を点滅させながら浮かんでいた。淡い黄緑色の輝きは、まるで夜に息づく小さな星だった。
「もしかして、回斗はこの程度で満足してるの? クライマックスはまだ……」
と先輩の言葉が続くより先に、一つ、また一つ。まるでスイッチが点灯するようにして、ホタルが次々と姿を表した。
光の粒は急激に数を増し、縦横無尽にそこら中を飛び回っている。ある時はワルツを踊るときのように穏やかに、またある時はロックのように激しく情熱的に。
まるでそこら一帯だけ昼間になってしまったかのような眩さに目を細めようとしたが、その行為はとてももったいないと思った。夢だからこそ成立する光景に、回斗は言葉を失っていた。
こんなに息をのむような美しい景色、ループする世界では絶対に味わうことなんてできなかった。
「始まったばかりだ」
「うわぁ……」
と思わず回斗は感嘆の声が漏れてしまった。しばらく今まで見ることができなかった分も含めて幻想的な光景に酔いしれていると、まるでホタルの動きが事前に訓練されていたかのようにピタリと止まる。
五秒ほどの短い期間だった。それが共通のシグナルなのかは解らないが、みるみるうちにホタルは小川を覆い尽くし始めた。
「な、何を……」
回斗は目の前の状況を整理できなかった。ホタルの光は、小川を舗装するようにして完全に埋めてしまい、光り輝く一本の道となった。その両脇も同様に、黄緑色の光で丁寧に装飾されていく。
ただでさえ非現実の世界にいるのに、ここまでくるともうお手上げだった。ただボケたみたいにあんぐりと口を開けて、事の成り行きを見守っていた。
次に回斗が意識を取り戻したのは、先輩に手を握られたときだった。
「――最高のゴール、だね」
「…………はい」
それ以上の言葉は要らなかった。回斗は一歩、また一歩と小川へ向かって歩き出す。踏んでも大丈夫なのかと一瞬悩みはしたが、少し先に進む先輩をみて、結局はそれにならっていくことにした。
直感で分かった。これは天国の階段ならぬ、天国へ続く道なのだと。温かい感触が胸に広がる。これから自分は、一番好きな人と、一番遠くの場所に行くんだ。
まるで自然のバージンロードだった。できれば結婚式の儀式にのっとって、手をお腹のあたりに当てた状態で歩きたかったが、そんな心の余裕を回斗は持ち合わせていなかった。
氷が溶けるようにして、徐々に心が軽くなっていく。先輩が死んだことに対してのショック、まだわずかに残っていたどもり症の過去の悩みやトラウマ、それと先ほど空中で手を離されたことに対する恨みなどが、すべて光の中で溶けていく。
先輩の横顔を見ると、いつもより少し遠くを見ているような気がした。ホタルの光の助力あってか、ただでさえ整然とした顔がさらに際立っていた。凝視するとまたからかわれそうなので、チラ見程度で済ませておく。
「……先輩、どこまで行くんですか?」
と回斗が尋ねると、先輩は静かに微笑んだ。
「あとちょっとだ。それにまだ言ってもらってないぞ」
「あ……」
この瞬間まで回斗は、先輩に告白をしなければならないという重要な任務があることをすっかり忘れていた。ついホタルの黄緑色に脳を染められてしまっていた。
たった二文字。たった二文字だ。そう何度も頭で呪文のように唱えても、 一向に言葉がのどから絞られてこない。代わりに出るのは、もはや懐かしいどもりの言葉ですらない何か。歩き方がおぼつかなくなっていく。
偶然前を見ると、道はわずか五メートルほど先から途切れている。そしてそれを示すようにホタルたちが、まるで徒競走のゴールテープのようにフワフワと飛んでいた。
最高のゴールは、もう目前だ。
回斗の足が無自覚に早まる。告白は歩き終えたあとでも遅くはないだろう。せめて手だけでも一線を越えたいと伸ばしたその時、突如として先輩が手を離したと思ったら、
「お先」
と一足早く駆け足でいってしまった。すかさず回斗も続こうとしたその瞬間、先輩が振り返り、鋭い目で動きを制してきた。
「回斗、ここまでだ」
「え…?」
回斗は困惑した。先輩に握られて温かかったはずの手が、まるで保冷剤を押し付けられたようにして冷たくなっていく。その声にはどこか冷たい響きがあった。
「それ以上進んだら、本当に戻って来れなくなるぞ」
先輩の言葉は静かだったが、胸に突き刺さる重さがあった。
「どういう……意味ですか? 一緒に、最高のゴールを目指して……ここまで、来た、じゃないですか」
途切れ途切れに回斗の声が震える。ゾクリと嫌な予感が背中にのしかかってきたようだった。先輩は目を細め、悲しげに微笑んだ。
「――回斗、お前はまだ生きている」
「……!!」
言葉の意味がわからなかった。生きている? そんなことあるわけない!……と強く言いたいのに、なぜだか回斗は、一言もしゃべれないでいた。それは第六感があったからかもしれない。
ループするたび、必ず最初に聞こえていた言葉。
――終わらせるんだ、こんな世界。そしてお前は……
「早く、出てい、け……」
回斗が口に出したと同時に、寸分の狂いもなく、まるで歯車と歯車ががっちりかみ合ったようだった。胸が締め付けられるような痛みに悩まされる。
目を合わすのが辛くなり、下に降ろす。そして思い知らされてしまう。先輩との間に隔てられた、決定的な壁を。
「足、足が……!!」
透けている。見えるのはボロボロになった靴先やほどけかけたヒモではなく、ホタルが作ってくれた光の道だった。
「卒業を決意した今、回斗はこの世界に不適合なんだ。本来だったらここにいてはいけない存在。それによくありがちだろ? クライマックスには、感動的な別れのシーン! ってね」
「そんな……ち、違います! オレは先輩が死んだその日の夜、ちゃんと死んで……」
「死んでない。私がループから外れた時の発言を忘れたのか?」
「ループから外れ……ハッ!」
――いや……正確には、回斗をこの世界から出したい。
あの時の回斗は、先輩への怒りで完全にスルーしてしまっていた。自分が死んだ……というのはすべてただの思い込みでしかなかったのだ。
でも……でも……それでも……
「思い出したか? ならよかった。じゃあ回斗――」
「嫌です」
「…………今なんて」
「嫌です。って、言ったんです」
音もなく、回斗の足がすり減るようにして消えていく。先輩の顔が、穏やかな顔つきから一転、怒りで醜く歪んでいく。だが意見は変わらなかった。
「どうして……!」
「だってオレは……先輩と一緒に死ねると思って、天国に行けると思って、だから告白をしようと思ったんです!
それなのに、何が原因かオレだけ生き延びてて、だからこれでサヨナラって、そんなの……納得できるわけないじゃないですか!」
「回斗……」
ボソッと言った先輩の顔は、少しだけとても心苦しそうに変化した。
「とにかくオレは、体が消えちゃう前にゴールします。そしてついていきます。先輩のいない現実に帰るくらいなら、いっそ死――」
言葉を言い終えるより先に先輩は 、ヒョイッとさっき超えたはずのゴール地点より内側に戻ったかと思うと、異性の力とは思えないほどの威力で回斗の頬を引っ叩いた。脳が揺らされたような衝撃を受け、しばらく放心状態になる。
「いい加減にしろよ……」
その声は、かつて回斗の口が過ぎたために先輩から喝を入れられたときのと同じだった。しかも今度は胸ぐらをつかまれるというオプション付きで。
「いい加減にしろよテメェーッッッ!!」
「っ!?」
こんなに怒っている先輩を、回斗は見たことがなかった。またマシンガンのような説教が始まるかと身構えたが――その二つの眼球から流れ出す雫に、困惑と同時に釘付けになってしまった。
「どう……して……」
「私は……」
目 涙涙涙
目 涙涙涙
「私、は……」
目 涙涙涙涙涙
目 涙涙涙涙涙
「私は――やり直したかったんだよぉ!!」
耳をつんざくような先輩の言葉。それは単にのどから発せられたものではなく、文字通り心の叫びに思えた。
「転校をきっかけに、新しい土地でやり直せるって思ってた。でも死んじゃった。死んじゃったんだよ! ずっと不良の自分が嫌いだった。斜に構えてばっかで、周りと違う孤独に酔って、あたかも自分が特別な存在だと思ってて……
でもそれは、嘘、なんだよ」
先輩の声は、涙にぬれて震えている。
「……ごめん、なさい」
回斗は今までの出来事を思い起こしていた。更衣室のとき、本屋のとき、自然公園のとき……ほぼすべてで先輩は、いままで学校で見てきた一面とは異なっていた。もしかしてあの時こそ、彼女にとって本当の自分ではないだろうか。
驕り高ぶっていた自分は、決して無駄ではなかったのだ。
年不相応な振る舞いは、先輩なりに溶け込もうとしてくれたのだろう。それをあろうことか自分は……バカすぎて言葉も出ない。
「回斗、約束しろ」
「……なんですか」
「私の分も……青春を生きろ」
そういった先輩の顔は、さっきまでの怒りが嘘のように消えていて、回斗に柔和な笑みを向けてきた。生きろ――というストレートな表現を使われて、ドクンとわざとらしく心臓が鼓動する。
先輩が回斗の身体に目を落としつつ、ゴール地点を越えた。身体の透過は下半身をのみ込み、みぞおちのすぐ近くまで迫っていた。
頭で考えるより早く、回斗の答えは決まっていた。
「わかりました。恥ずかしいくらいの青春見上げ話、期待しててください。その代わり、オレがヨボヨボなジジイになってそっちにいったとき、今度は先輩から声かけてくださいよ?」
軽く笑いながら言うと、ハッと驚いた表情をした先輩は、再び目から大粒の涙を流しつつ、今まで見た中で一番の笑顔を浮かべながら、
「…………うん!!」
精一杯の先輩の頷く姿をみて、回斗の胸の中はブワッと温かくなった。
「ですから先輩、いや、廻瑠」
いきなり名前で呼ばれたものだから、先輩の頬がパッと赤く色づいた。それがまたすごくかわいくて……回斗はずっと見ていたいと思った。
でも……言わないといけないよな。
「――大好きです。それだけは、死んでも譲りませんから」
次の瞬間、パキンッ と何かが折れたような音が聞こえた直後、今まで淡い光だったホタルがにわかに輝きを増した。世界がグニャリとゆがみ、上と下の感覚がなくなる。回斗は手で視界を覆った。
意識が完全に途絶えるその刹那、最後に聞こえた先輩の言葉を、自分は一生忘れることはないだろう。
「ありがとう。私も――!!」
最高の思い出は光にのまれた――