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青春世界と先輩

 この世界がつまらない――いつからかそんな思いが、頭の中を漠然と支配していた。朝起きて、ご飯食べて、学校行って、勉強して、家帰って、漫画読んで、ご飯食べて、宿題して、寝る。

 そんな毎日の繰り返し。

 そんな平凡世界の繰り返し。

 そこから脱却する唯一の方法、それはズバリ……()()()()()ことだと、最近思いついた。

 でもわからない。そもそも青春とは? まずはそこからなのだ。あいにくその材料と成り得る友達もいなければ、恋人もいない。ただの少女漫画好きの陰キャだ。自分で言うのもなんだが、最も青春から縁遠い存在だと思っている。

 少なくともわかっているのは、今の生活とは、遠くかけ離れていることくらいだ。


 ――終わらせるんだ、こんな世界。そしてお前は……


「……………………だれ?」

 

 七月二十四日。青式回斗(アオシキカイト)は寝ぼけ眼であたりを見渡す。自分の机が目の前にある。校舎の窓から差し込む太陽の光が、カーテンと混ざって教室の床に白色の模様を描いている。時刻は午後四時を指している。

 机の角に刻まれた誰かの落書き、

 黒板に残されたチョークの白い粉、

 右斜め前の席の高木くんが忘れていった体操袋。

 すべてが、あまりにも()()()()()()()()()()()()()()

 そして先程頭に響いた声も。すごく大事で、大切なはずなのに……思い出せない。ズキズキと突き刺すような痛みによって、これ以上考えることが阻害されている。

 

「まさ、か……」


 ――デジャヴだ。この感覚、回斗は味わったことがある。いや、味わっている。心臓がドクンと跳ね、頭の奥で何かがカチリと音を立てる。

 窓の外を三羽の鳥が羽ばたいている。続いて廊下を歩く誰かの足音。誰が来るかは、予想できていた。


「……………………おい……式、青式!」

「……は、はい。なんですか?」

「なんですかじゃないだろ。ずっと声かけてんのにお前、魂抜けてるみたいだったぞ?」

「…………はぁ」

 

 回斗は頭がぼぉーっとしてしまい、ほかに発したい言葉があっても言語化することができなかった。寝起きのせいだろうか。

 それよりなんでさっきは、先生が来ることが予期できたのだろうか。解らない。

 

「何寝ぼけてんだ? まぁ昼のクソ暑いときと比べるとかなり涼しいし、眠たくなる気持ちは分からんでもないがな。教室そろそろ閉めるんだ。続きは家で、ほどほどにな?」

 

 回斗はノロノロと亀のような手つきで帰る準備をする。やがて教室を出たあと、廊下にガチャリと施錠する音が響く。だんだんと小さくなっていく先生の背中を、ぼんやりと見つめていた。

 そもそも正直な話、どうして一人教室で眠っていたのかすら解らなかった。いつもなら放課後、学校にとどまることなく真っすぐ帰るのに。

 回斗は等間隔に落とされた陽光を踏みながら、あてどもなく進む。とにかく進む。時折、まぶしさで手を目元に翳しながら。

  

「……何やってんだ? オレ……」


 そんなことは、回斗自身が一番知りたかった。とりあえずは家に帰りたい。すぐにベッドに横になって、母親か父親の声で目が覚めたら遅めの夕食を食べよう。今日は中華料理の気分だ。回鍋肉か麻婆豆腐がいい。

 そしてめんどくさいが宿題をパパっと終わらせたら、お楽しみの漫画時間だ。最近はベッドに入りながら明かりは最小限に、寝落ちするまで読むのがルーティンになっている。

 ()()()()()()――と回斗は謎の確信を持っていた。その確信の理由も、解らない。解らない。解らない。

 わからない星人になりかけていたその時、廊下の突き当たり付近、三人ほど人影が見えた。その中の一人に……回斗は強く心惹かれた。


「あっ、せんぱ――ヴゥ!?!?」


 まるでタイミングを見計らったように突然、息ができなくなった。どうしてか解らない。でもできないと言ったらできないのだ。

 この感覚は――水の中?

 口を開けて酸素を取り込もうとしても、代わりに水流がなだれ込んでくるようだった。回斗は苦しさのあまり、床に倒れ込んだ。

 

「行かなきゃ……先輩の……ところに……」


 こんな状況であるにも関わらず、回斗は依然として目的を変えるつもりはなかった。それどころかさっきより強固な心を持って、根性だけでもう一度立ち上がった。先輩――春風廻瑠(ハルカゼメグル)が消えた廊下の曲がり角へと歩き始めた。

 最終的な目的地に、回斗は一つだけ心当たりがあった。帰れない理由に確信があるように、そこに行けばもう一度、先輩に会えるはずだと思った。

 学校の裏口から外に出て、ぐるりとグラウンドに沿って歩いていく。不思議なことに、今の時間帯ならサッカー部の練習やほかにも陸上部の外周している風景を見れるはずだが、まるで切り抜かれたようにして無人の空間が広がっていた。

 違和感を感じつつ、回斗がたどり着いたのは体育館裏だった。ここは昼間の溶けるように熱い外で授業をしている生徒たちが、一時的に避難するオアシスのような場所だ。木の陰から事の成り行きを見守る。やっていることはほとんどストーカーだ。

 内容を聞き取るのに夢中になって、回斗は溺れかけたときの感覚が消えているのを忘れていた。

 

「春風ーッ! ここに来たってことは覚悟できてんだろーなァ?」

「お前は少し協調性というのを覚えたほうがいいんじゃないかー?」

 

 なにやら先輩のほかに、もう二人の女生徒がいる。リボンの色から、同じ上の学年であることが分かった。

 一人はまるでバランスボールでものみ込んだかのような球体で、あとやたらとふくらはぎが太もも並に太いのでドムと呼ぼう。もう一人は百七十センチ以上ある回斗よりも身長が高く、顔や腕がこんがりと日焼けしているのでポッキーと呼ぼう。

 

「うっさいなぁ。いちいち過ぎたことをグチグチと……」

 

 先輩は眼中にすら入れてないのか、心底不機嫌そうにスマホをタップしていた。中性的な顔つきをしている。背中にかかったロングヘアに凛々しさを感じる切れ長の目、そこについている涙ボクロが印象的だ。

 回斗の憧れの人であり、好きな人。だが告白はしない。するつもりもない。ただ遠くから眺めているだけで満足していた。


「あれ……? 先輩……」

 

 先輩の姿が、一瞬びしょぬれの状態になって視界に映った。髪も制服も腕も足も。見間違いかと思い目をこすると、元の姿に戻っている。一体何だったのだろうか。

 ドムとポッキーは「おちょくってんのかテメー!」や「ナメてんじゃねーよ!」など言葉の暴力を浴びせている。普段なら怖いと思うはずだが、回斗の心はまるで凪のように落ち着いていた。それはなぜか。やはり見たことがあるから。

 その安心感がそうさせたのか、気づけばもっと話し声が聞こえるように近づこうと一歩を踏み出したその時――グシャリと大きな音が響き、右足の裏に違和感を感じた。空き缶だ。

 ハッとした表情で回斗は面を上げると、そこにはまるで般若のお面をかぶったかのように凶悪な顔つきをしたドムとポッキーがいた。  

「何見てんだテメー」や「見せもんじゃねーぞ」と声を荒げながら近づいてくる二人。回斗は身動き一つできず、また声を出すこともかなわなかった。喉に隙間なく蓋をされたようで息が苦しい。

 一歩ずつ距離を縮められながら、脳裏に過去の苦い記憶がよみがえってくる。

 異性とうまくしゃべれなくなってしまった原因。()()()()を発症してしまった理由。

 

「……あっ、あああっ…………あっ」

「…………」

 

 ドムとポッキーの肩の隙間から、先輩の顔が見える。いつも見かける憂鬱そうな表情。でも少しだけ、ほんの少しだけだが――顔にかかっている影が濃い気がした。

 それに気づいたからか、回斗は自分でもわけのわからない行動をとっていた。

  

「っ!!」

  

 気がつくと、自分の身体は理解の範疇を超えるほどの力で地面を蹴り上げており、一瞬のうちに二人の脇を通り抜けていた。

 ドムとポッキーは予想できなかった動きなのか、最初は啞然としていたが、すぐに最初に見たときのような般若のお面の顔になって追いかけてきた。

 回斗は怒声を背中で聞きながら、猛然とした勢いで駆け出していく。運動は得意ではないはずなのに、今はまるでトップアスリートにでもなったかのように軽やかに動くことができた。


「せっ、せせせ先輩!!」

「…………」

 

 先輩の顔は相変わらず、憂うつそうな表情のままスマホに目を落としている。その顔をちょっとでも晴れさせたいのに、言葉を紡ごうとすると、まるで極寒の地にいるような声になってしまう。

 いや実際、回斗はあの瞬間だけ極寒の地にいたのかもしれない。そして頭がイカれてしまったのだ。そうでなければ、あのタイミングであんなセリフなんて言わないだろう。

  

「オレと――デデートして、くれませんかっ?」

「……!」

「「…………は?」」

 

 ドムとポッキーは、まるでイチゴ大福と書いてあったのに食べてみるとただの大福だったかのような顔をしている。納得の反応だ。

 回斗自身も最初、自分は何を言ったのかと理解できなかった。たったさっきの記憶を掘り起こす手が震えていた。

 カッと目を見開く先輩の顔を見て、その手を止めることはできなかった。回斗は自分のような取るに足らない人間がデートを誘ってしまった事実を少しずつ、ゆっくりと飲み込んでいく。そしてまもなく、フッと意識が遠くなっていくのを感じた。

 おぼろげに二羽のカラスが飛んでいる空と雲を見あげながら、回斗はクラッと地面へと激突――しなかった。

 

「……へ?」

 

 遅れて意識が、今の状況を理解しようとする。解析の結果、回斗は右手にわずかだが人肌の熱を感じた。柔らかくてスベスベ、それにきれいな手だ。日光に照らされていることもプラスされていた。

 この手の正体はわかっている。だからこそ意味がわからなかった。どうして助けてくれたのだろう。回斗は視線を持ち主である人物へと向けた。

 

「――いいよ。行こう」

 

 と先輩はさっきまでの憂いを殴り飛ばしたようなさっぱりした笑顔で言った。瞬間的に頭の中は、まるで濁流にのまれた電子機器のようにショートしてしまう。

 あっさり。あまりにもあっさりすぎる。

 その答えが出ないまま、先輩に先ほど倒れそうになったときとは段違いの強さで再び強く手を握られた。

 それと同時に回斗は、まるで校門まで引きずられるようにして走らされる。全身で風を受けながら、これは果たして現実なのかと戸惑っていた。


「君、名前は?」

 走りながら先輩は、どこかうれしそうな表情を向けてきた。

「あ、青式……回斗です!」

 

 なんとかどもりを最小限に抑えて自己紹介することができた。しかしこれで終わりではない。後ろからドムたちに追いかけられているという状況は、何も好転していない。

 一体これからどこに行くのだろうか。回斗は頭に一つの絶対的な回答が浮かんだが、それを意識することなく()()()()()――


 *

  

「せ、せせせ先輩、どどうして……!」

「仕方ないだろ。一番近くでいいと思った隠れ場所がここしかなかったんだから」


 後ろから見た先輩の顔つきは至って落ち着いている。さっきからカーテンを少しだけ開けて、外の様子をうかがっている。まるで今の状況なんか何一つ気にしていないかのように見えた。

 対して回斗は、先輩の髪の毛の匂いと走ったことによる汗の臭いで、理性がバッグの奥に入れた有線イヤホン並みにグチャグチャになっていた。

 なぜならここは……近場のデパートの女性下着売り場だから。おまけに更衣室の中という密室空間で、先輩と二人きり。本来ならうらやましい状況なのかもしれないが、全然そんなことはない。それどころか意識を失う一歩手前だった。

 いつもは見ていることしかできなかったあの先輩が、今は簡単に手を伸ばせば届く位置にいる。その事実だけで頭がどうにかなりそうだった。


「ひゃっ!」

「ご、ごごごめんなさい先輩!」

「な、なるべく動かないで。私も動かないから」


 つかの間、手にペタリと温かく湿った感触が伝わった。回斗は何に触れたのかと考えるより先に謝った。具体的に触った箇所は考えないほうが、理性のためだと思った。

 広さの関係で回斗は、常時壁に張り付くようにして身体を寄せないといけない。少しでも力を緩めると先輩の身体に是が非でも当たってしまう。今でさえ制服越しだが、スリスリと布同士が擦れあう音がかすかに聞こえる。一瞬の油断も許されない。

 先輩に嫌われたくない。そのたった一つの気持ちだけで何とか持ちこたえている状況だった。


「クソッ、ここらへんにいるはずなんだ……」

「あんなに貶しといて、そのまま逃げられると思うなよ……!」 

 

 さっきから薄いカーテン越しから聞こえる、ドスドスとガ◯ダムのような足音。回斗は驚きと恐怖で、ゴクリと生唾をのみ込んだ。先輩がそっとカーテンを閉める。そして頭だけ振り返ると、見えるようにシーッ! と唇に人差し指を当てて合図してきた。

 ブンブンと無言で首を縦に振る。ここはおとなしく帰るのを待つしかない……と考えたその時だ。


「ここか!」

 と回斗は音からして三つほど右隣にある更衣室のカーテンレールが、シャーと勢いよく音を出して開けられていることを理解した。今度は先輩の生唾を飲み込む音が聞こえた。

「ど、どどど、どどどどっうするんです……!」

 

 回斗はいつもより五割増しにどもっていた。ここを開けられるのも時間の問題だ。そんな状況では、むしろ慌てないほうがどうかしているものだ。

 しかし先輩は、そのどうかしているの部類に入っているようだった。それどころか……微かに口角をニヤリと上げて、まるで今の状況を楽しんでいるように見えた。

 

「任せて、大丈夫だから」

 

 と先輩の声はクラスに一人はいるたちの悪い悪ガキのようだった。回斗は怖くて目を閉じてしまう。信じたいのは山々だが、自身の心の弱さがそれを許さなかった。

 サラサラと闇の中で音がこだまする、聞く限りでは、何やら髪の毛をいじっているようだった。何か手伝ってあげたい気持ちはあるのだが、今はただ先輩の言葉に従うことしかできない自分がもどかしかった。

 

「いい? これからやることに対して、絶対に声を出さないで」

「……え?」

  

 と突如先輩から出た一言に訳がわからず目を開けたその時――プニっとした柔らかい触感を、回斗は鼻の下あたりに感じた。少しの水分と、わずかな熱を含んでいる。叫び出したい衝動を抑えて次に理解したのは、眼前すべてに広がる先輩の整った顔。目を閉じている姿はとてもきれいで、眠っている白雪姫を見た王子様の心境が分かったような気がした。

 それと同時に、更衣室のカーテンが開けられる。だが中の様子をみるやいなや、

 

「ご、ごめんなさい!」

「失礼しましたァ!」


 とさっきまでの常に怒りの感情が混じっていた声とは打って変わって、恥じらいを持つ年相応の乙女のような声を出して急いでカーテンを閉めたドムとポッキーは、その場をあとにしていった。

 回斗は唇を離された直後、壁に背中をこすりつけるようにしてその場にへたり込んだ。少し視線を上げれば、先輩のスカートの中をみることも容易かったが、そんな気力も、性欲も、まったくわかない程に疲れた。とにかく疲れた。


「名付けて、更衣室を行為室にしちゃおう作戦! いやーうまくいったみたいでよかったよかった」

「せ……せっせっせっせせ先輩のの、く、くち、び…………」


 遅れて恥じらいがやってくる。鼻の下あたりを触ると、まだ湿り気と温度が残っている。それがさっきのウソみたいな出来事を真実だと教えていた。スカートの中をみないように目をつむった状態で立ち上がる。先輩の方を見て理解した。ドムとポッキーが欺かれた理由を。

 先輩の髪型はロングヘアとは違って、ヘアゴムによってポニーテールと化していた。さっき回斗が目を閉じていたときに聞いたのは、髪を結んでいたとき音だったのだ。

 髪型さえ偽装してしまえば、あとは顔でも見られない限りは別人とごまかす事ができると考えたのだろう。極めつけは、なんといってもさっき言った……その……行為室、なのだろう。

 

「せっかくのデートだ。まだ始まったばかり、だろ?」

 と更衣室の外を出たあと、回斗を促すように先輩は手を差し出してきた。その顔はまるで、仕事の山場を乗り越えたあとのようにスッキリとしていて、一点の曇りもない澄み切った笑顔だった。

「は、はぁ……」


 それを見て回斗は、先輩の知られざる一面を垣間見た気がした。普段の先輩は、こんなふうに笑わない。デートに誘ったときもそうだった。もしかして……もしかして……

 自分にだけ見せてくれた、もう一つの顔?

 きっとそうだ。そうに決まっていると強く思った。自分が今一番浮かれているという状況すら知らずに、バカみたいに舞い上がっていた。しかしこれはしょうがないことだと思う。なぜなら人間は不幸せなときに幸せについて考えることは多いが、幸せなときに不幸せについて考えることはほとんどないからだ。

 

「ん? どうした? 私の顔に何か付いているのか?」

「い、いいいえ! ななんでもないです!」 

 回斗はポニーテールの先輩に見惚れてしまっていた。髪型一つでここまで印象が変わるのかと驚いた。 

「っ、つつ次、ゲームセンターとっかどどうですか?」

「いいね。久しぶりにクレーンゲームやりたい」


 先輩は一度も、回斗のどもり症について触れなかった。気まずい顔一つ見せず、ずっと子どもみたいにはしゃいでいる。それがたまらなくうれしくて、もう一つの顔という意見が現実味を帯びてきた。

 ゲームセンターに服屋、雑貨店など本当に色々な店をぶらりと回っていく。特に何かを買うわけでもなく、時間をつぶしていく。自分一人だけなら気にもとめない一時だが、そこに先輩がいるだけであたり一面に花が咲き乱れたようだった。

 最後の目的地として本屋に足を運んだ。たくさんの老若男女で溢れている。ライトノベルが売っているコーナーでは、回斗と同じく十代の若年層の男女たち。純文学や自己啓発本などには高年層たちが多くたむろしていた。

 先輩は花から花へと飛び移るミツバチのように、一つのコーナーに立ち止まることなくいろんな本をみていた。今は児童書のコーナーで小学生ほどの男の子と一緒に立ち読みしている。その姿が何ともほほ笑ましかった。

 その隙に回斗は、目当ての品がある漫画コーナーへと急いだ。周りを見てみると、やはり客のほとんどは女性ばかりで、自分が異質な存在だと思ってしまう。少女漫画ばかりが並べられているので、それも仕方ないが。


「あった……最新刊……!」

 

 思わず声が漏れてしまうほどに喜びを隠しきれない回斗は、一冊の本を手に取った。タイトル名は、『最高のゴールを目指して』。この本は少女漫画特有の不器用な恋愛模様に、時間逆行(タイムリープ)のSF要素が合わさった稀有な作品だ。

 この世界に退屈している主人公の赤羽が、ある日転校してきたヒロインの江藤に一目惚れする。紆余曲折を得てようやく付き合えたのもつかの間、江藤が何者かに殺されてしまう。だがヒロインが死んだのと同時に主人公にタイムリープの能力が備わって……というストーリーなのだが、これがここ数年で見てきた漫画の中で一番面白い。

 伏線の張り方、キャラの魅力、ストーリーのテンポの良さ、どれをとっても一級品。にもかかわらずアニメ化されないことが、回斗は不思議でならなかった。

 すごく売れ行きがいいのか、いま置いてあるのは回斗が持っているその一冊だけだった。できればこのままレジに並んでしまいたいところだが……その姿を先輩に見られてしまう事態は、どうしても避けたいと思った。 

 ただでさえ回斗は、どもった声を聞かれすぎた。そろそろ、いや、すでに奇人のレッテルを貼られてしまっているだろう。それなのに少女漫画が好きだなんて趣味がばれてしまったら、恥の上塗りもいいところだ。そう思い、いやいや本を棚に戻そうとした時、


「買わないの? それ」

「ワァッッッ!!」

 情けなく女の子のような情けないくらい悲鳴をあげてしまい、周囲の注目を買った。肩をすくめて小さく、「すみません……」と謝る。 

「な、ななっんで先輩がここに……」

「好きだから」

「っ!?」

 甘いやりで一突きされたような感覚。回斗はたとえ言われている対象が自分じゃなくても、その言葉はとても心臓に悪かった。

「その本、つい最近漫画賞を取ったって話題だから読み始めてみたんだが、すっかりファンになってしまってな」

「へ、へ変、ですよ、ね。しょ、少女漫画好きの、お、男、ななんて……」

 

 回斗は自嘲的な笑みを浮かべながら頭をボリボリをかきむしる。先輩はしばらく黙った後、「ファンだったら……」と言葉を発した直後、突然手に持っていた漫画を取り上げてしまった。

 ペラペラとページをめくり、中身に目を通していた。とっさに漫画を取り戻そうとしたが、まるで風にそよぐ風鈴のような身のこなしですべてかわされてしまった。

 距離にして約一メートルほど空けられたところで、急にまたしても先輩は手を差し出してきた。その瞬間、ドクンと回斗の心臓がトランポリンのように跳ね上がるのを感じる。

 まただ。最初に教室をみたときと同じ、デジャヴ。いったい何なんだこれは?

 それにこれから先輩がどんなセリフを言うのかが、手に取るように分かる。回斗は予知能力にでも目覚めたのかと思った。 

  

「進むのは怖いか? 安心しろ。俺だって怖い。けどそんなの当たり前なんだ。それにお前自身、動かないといけないことは誰よりも分かってるはずだろう。行動しない理屈を考えるより――」

 

 パシンッ! と気持ちのいい音が響く。回斗は考えるよりも早く、先輩の手を握っていた。その場面は物語でも特にお気に入りのシーンのシーンだったため、周りに見られている恥ずかしさよりも先に、作品を好きな気持ちが勝ってしまった。

 そして次のセリフは、数ある名言の中でも印象に残っているものだった。

 

「先に、動いて、しまえば……いい」

 

 このタイミングでようやく、周りの客がヒソヒソと回斗たちに訝しげな視線を向けながら話し始めていることに気づいた。内容は言わずもがなだろう。

 足のつま先から下半身へと、羞恥心がうねうねと毛虫のように移動しているのを感じる。我慢できず叫び出したいと思ったその時、先輩の両手ががっしりと回斗の両肩を捉えた。

  

「めっちゃ名シーンだよね! 主人公の赤羽がタイムリープ能力を失ってやけになってたとき、事情を知らない親友の夏樹が、かつての赤羽が放った同じセリフで背中を押す場面!」


 グラグラと先輩は、まるでひまわり畑で戯れる少女のような笑顔で回斗の肩を揺らしてきた。触られた箇所から、ジワジワと非現実である感覚が湧き上がってくる。

 自分が少女漫画の読者であることを、初めて感謝した気がした。今までは他人に打ち明けまいとしてきた趣味が、まさかこんな形で接点となったことが、素直にうれしかった。


「わかってくれたようで助かった。これでもし君が言ってくれなかったら……うっかり首を絞め落とすところだった」


 最後の方の口調は塩を振りかけられた氷くらい冷え切っており、回斗は動揺を悟られないように笑って受け流した。

 それに乗ずるようにして、初めて先輩と出会った頃のことを思い出す。

 長年使われていない机や椅子が置かれた階段下のデッドスペースに、先輩は眠っていた。それを知らずに回斗は足音を大きく立てた状態で降りてしまったため、起きて機嫌がすこぶる悪い状態と目が合ってしまった。

 回斗は蛇に睨まれた蛙って、こんな感じなのかと恐怖した。しかしそれと同時に一目惚れしてしまった。自分でもおかしいなと思う。

 学校内ではいわゆる不良の生徒と認知されており、遅刻は常習犯、授業をサボったりすることも当たり前らしい。うわさの域を出ないが、目が合ったあのとき、それは真実だと思った。

 でも……今回斗の目の前にいるのは、先輩であって、先輩じゃない。年相応に娯楽を心の底から楽しみ、かわいげのある笑顔を浮かべている。

 目が釘付けになっていた。ますます期待してしまう。気持ちが肥大化していく。抑えが効かなくなっていく。


「先輩は……ズルいです」

「え? なんで?」

 本当に回斗の気持ちがわかっていないのか、まるで先輩は東大生ですら解けない知恵の輪を渡された時の五歳児のような顔をしている。

「い、いいやっ、別に……忘れて、くだ、さい」

「もしかして……君が夏樹のセリフ言いたかったとか? そうだろそうだろ〜!」

 

 と先輩はニヤニヤした顔つきを作りながら、人差し指で回斗の頬をグリグリしてきた。あまりにも的外れすぎて何も言えなかった。

 ――だからこっちも、的外れなことを言ってやろうと思った。無意識に、先輩に影響されていたと思う。

  

「違い、ますよ。あと、せせ、先輩」

「なに?」

「オレは、君じゃありません――青式回斗です。回斗って、呼んでください」

 

 しばらくポカンと口を開けていた先輩の頬が、突如として紅色に染まる。まさかそんなセリフを聞くなんて思っていなかったのだろう。回斗は若干だが、先輩と後輩という上下関係を覆せたような気がした。

 そしてそれを決定づけるようにして、先輩が一言。

 

「わかり、まし、た――」


    *


「…………」

「…………」

「……………………」

「……………………」


 まるでデパートを出てからずっと、息を止めているみたいだった。意を決して回斗は自然公園まで先輩を誘ったまではよかったものの、その後のプランを何一つとして考えていなかった。さっきから足音と周囲の人間の声だけが響いている。

 この場所は園内に手漕ぎボートが乗れる大きな湖があったり、美術館や図書館などの公共施設もある。特に昼間は小さな子供や親御さん、昼食をとるリーマンたちで賑わっている。 

 デパートと同じ要領で園内をぶらつき続ける。噴水を眺めたり、戯れている小学生ほどの子どもたちを眺めたり、犬と散歩する老人を眺めたり……少なくとも回斗は楽しかった。だがそれだけじゃだめなことぐらい分かっている。

 本当は先ほど言った手漕ぎボートや美術館などに行くべきだったのだが、デパートでの出来事で力を使い果たしたのか、そこまで頭が回らなかった。おまけに本を買わなかったことも悔やまれる。そんな無為な時間を過ごしているうちに気がつくと、時刻は六時を回ってしまった。


「……回斗」

「は、はい、なんです――」


 と言葉を続けようとしたその時、何の前触れもなく先輩が手を握ってきたかと思うと、そのままドムたちから逃げたときと同じように身体を引っ張られた。

 ――恐怖はなかった。教室の時のデジャヴと同様、これから先輩が何をするかが頭の中でひらめいていた。

 舗装された散歩コースから抜け出て、整備されていない木々の間を通っていく。だんだんと人けがなくなり、うっそうと雑木林が生い茂った中途半端な位置で先輩は足を止めた。

  

「ど、どうし、たんですか? 先輩……」

 回斗はわかっているが、一応確認のために訊く。

「…………」

 先輩はうつむき、何も答えようとしない。風でそよぐ葉音だけが耳にこだましている。それが回斗からしたらじれったくて、もう一度先輩と呼ぼうとしたら、

「今日は、本当にすまなかった!」

「…………え?」 

 先輩は、不祥事を起こしたフ◯テレビの社長並みに仰々しく頭を下げていた。その意図が分からず、鼻の下にキスされたときと同様に間抜けな声を出すと、 

「今日ドムとポッキー(アイツら)に追っかけられた理由、元はと言えば全部、私が悪いんだ。それを……どうしても謝りたくて……」

 

 要約するとこうだ。先輩は自分に告白してきた男子がいるらしく、名前を聞いてみるとそれは、学校でも一、二を争うほどのイケメンだった。

 だがその男子を、先輩はめちゃくちゃに貶したあげく、盛大に振ったという。追いかけてきたドムとポッキーは、その男子のファンクラブ会員らしい。今日追い回されたのは、そんな理由があったのかと回斗は知った。

  

「……別に怒ってないですよ」

「本当に?」

 先輩は上目遣い気味に真意を確認してくる。回斗はなるべく相手を安心させるような笑顔を作りながら、

「それどころか、その……感謝してるんですよ。もし、追っかけられることがなかったら、今みたいな時間は過ごせなかったですから……」

 

 頭の中では、今日一日の出来事がフルスロットルで駆け抜けてきた。

 試着室。ゲームセンター、服屋、雑貨店、本屋。たった一日で別人のように変わってしまった世界。回斗は混乱している一方で、果てしない高揚感も感じていた。

  

「……どうでもいいけどさ、」

 口元に手を当てる先輩。

「はい、何です?」

「どもり、いつの間に置いてったんだ?」

  

 と先輩に指摘され、今になって回斗は気がついた。どもることなくスラスラと言葉を発している事実に。いつもならのどに蓋をされているような感覚に襲われていたはずなのに、まるで風通しが良くなったみたいだ。

 理由はハッキリしていた。先輩と一緒に過ごせた時間。これしか考えられなかった。

 そんな想いが、沖縄の海に墨汁を垂らすようにして一気に広がったとき、表情がキリッと引き締まった感じがする。決意の顔だ。

  

「あの、先輩……」

「……なに?」

「ちょっと、自分語りしてもいいですか?」


 ――デジャヴが囁いた。今ここで話すべきだと。回斗は見えない何かに背中を押されるようにして、今までも、そしてこの先の未来も言うつもりなんてなかった心の内を話した。

 小学校三年生のとき、好きな女子がいた。だから告白した。そしてフラレた。ここまでならよくある話なのだが、回斗の場合はそこにイジメが追加される。

 たまたま告白した女子は性格が悪かったのか、その事実をクラス中の女子に言いふらして回ったのだ。その結果、常に冷たい視線を向けられるとともに、陰口を言われるようになってしまった。

 その日を境に、すっかり異性に対して連発型のどもり癖というデバフがかかってしまった。現在進行系で今も、クラスメイトの女子からはうんこの周りにタカるコバエをみるような目で見られている。

 一通り話し終えて回斗が最初に感じたのは、安堵の感情だった。話せば話すほど、まるでチューブなどを介して腹の底に積もった毒が吸い上げられていく心地よさがあった。


「そうだったのか……」

 と先輩はため息のような小さな声を発すると、

「にしてもその女子、とんだアバズレだな。せっかく告白なんて勇気出したのに、それを嘲るような真似して」

「…………え?」

 回斗はてっきり口には出さずとも、心のなかでののしられるかと思った。自分を擁護してくれるような発言は予想外だった。

「え? じゃないだろ。ひどいって思ったことがそんなに変か?」 

 と先輩はご飯を食べながら「飯はまだか?」と聞いてくるおばあちゃんのような表情をしている。

「勇気なんかじゃないですよ。ただの蛮勇です。実は告白する前から、ずっと失敗して後悔するかもしれないって考えはあったんです。自分とは釣り合わないくらいに可愛くて、人望もありましたから。

 でも逃げたらかっこ悪いなんてよく解らないプライドが働いて、弱い自分を奮い立たせた気分になって、ほんと、バカみたいですよね……」

 

 と回斗は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、無理やり笑顔を作った。まだ笑い話にできるほど強くないのに、虚勢を張った。

 あの時は後悔の直感に従うべきだったのに、それをしなかった。今更グダグダ言ったってどうにもならないのは知っている。それでも、頭で分かっていても、どもりが治ったとしても、心は、まだ……

 

「――それは違くない?」 

 と腕を組みながら首をかしげる先輩。回斗は思わず「え?」と口に出してしまいそうだった。

「ただの蛮勇じゃダメなのか? よく解らないプライドじゃダメなのか? 奮い立たせた気分だけなのは…………そんなにダメなことか?」

 まるで眼球の内側まで見透かすような鋭い視線で見つめてくる。回斗はそれだけなのに、まるで金縛りに遭った状態だった。

「そ、それは……」

「百回の戦で無敗、ただしすべての戦線から離脱している兵士より、百回の戦でちゃんと戦って百敗した兵士の方が、見どころあると思わないか?」

「先輩……」 

「そりゃ蛮勇は、勇気より劣った言葉かもしれないが……なんか勇気の進化前みたいでいいじゃないか。伸びしろを感じる」

 と先輩の言葉はとても呑気で、間抜けで、馬鹿みたいだが…………とても温かくて、優しくて、心が軽くなった。

「進化前って……ポ○モンじゃあるまいし」

 

 回斗は自分で言ってて、なんだか急に笑いがこみ上げてきた。あまり人前で笑わない性格なのだが、この瞬間ばかりはたかが外れていた。

 先輩はおかしなこと言った? と言わんばかりにポカンと口を開けている。その様子がおかしくておかしくて……ますます笑いのツボが深くなるばかりだった。

 たっぷり一分ほど笑い続けて、ようやく波が収まってきたころ、

  

「あの……ごめんなさい、急に笑ったりして。なんだか今まで悩んでいた自分が、すごくアホらしくなって」

「アホらしく?」

「さっき話したように自分は、後悔とトラウマを抱えて生きてきました。でもさっき先輩が話してくれたように、たとえ蛮勇だとしても、きっと行動することに意味があったと、そう思えました。本当にありがとうございます」

 今日先輩をデートに誘ったのも、勇気なんて大層なものじゃなかった。自分で気づいていないだけで、かなりの下心があったかもしれない。回斗はそれでもいいと思った。行動しない理屈をこねるよりは。

「どういたしまして」

   

 と先輩は小さく微笑を浮かべた。すでに時刻は七時を過ぎており、太陽付近の空は大火事のように燃え上がる赤色をしていた。

 夕風が先輩の前髪を揺らしている。回斗の心の風船は、すでにパンパンで破裂寸前だった。

 そうなってしまっている理由を知っていて、回斗はあえて無視した。今は思いがけず気持ちが高ぶっているだけだと。明日になればすぐにいつも通りに戻ると。自分に言い訳しながら。

  

「先輩、最後に一つ聞いてもいいですか?」

「ん? なんだ?」

「きょうはどうして、オレとの誘いに乗ってくれたんですか?」

 

 ついポロッと口をついて出てしまった言葉。回斗は聞くつもりなんてなかった。言わなきゃよかったと後悔した。

 このまま忘れられない青春の時間として記憶したかった。その裏の事情なんて知りたくなかった。だが一度口をついて出た言葉は、二度と当人の元へ帰ることはない。

 

「今日がこの街にいる、()()()()なんだ」

 

 今まで近くにいた、いると思っていた先輩が、ずっと遠くへ行ってしまった――

  

    *


 ――そ、そーだ回斗! この公園ってさ、ちょうど今ぐらいの時期にホタルの観賞会やらなかった? よかったら一足先に、一緒に見に行かない?

 

 回斗は先輩に連れられて、ホタルが出る小川へと進んでいた。コツコツと石畳の硬い感触が伝わる。まっすぐ南の方向をひたすらに進み続けると、木々の隙間から見えていたビル群すらも見えなくなった。森は一層深く、暗くなっていく。

 まるで天然のトンネルだった。薄く差し込む月明かりだけが唯一の道標で、後ろを見失わないようについていく。この場所は人間がほとんど手を加えていないせいか、キリギリスやコオロギの鳴き声が生き生きしているような気がした。

 

「暗いね」

「はい……」

「洞窟みたいで、ワクワクしない?」

「ワクワク、しますね……」

 

 といった回斗の声は、ひとかけらも楽しそうじゃなかった。先輩の言葉を思い出す。そのたびにチクリと針で心臓を突かれたようだった。

 回斗は発言の意図を聞いてみると、なんと先輩は今日を最後に別の学校へ転校してしまうのだという。だからその前に、何でもいいから思い出が欲しかった。それが誘いに乗った大きな理由だそうだ。

 そういえばドムが発したセリフで、「そのまま逃げられると思うなよ……!」というのは、単に逃げていたあの時を指していたのではなく、転校したことで逃げ得みたいになることが許せなかったということかと理解した。

 回斗の予測通り、心の風船はすっかり通常の大きさに戻っていた。これでいい。これがいいと思った。残念という気持ちはひた隠しにして。明日になれば消える。明日になれば、次朝日を目にしたら、きっと忘れる。それでいい。それが、いい。

 心が鈍く痛んだ。


「どうしたの? もしかしてホタル見るの、嫌だったかな?」

 明らかに心配そうな声を出して、先輩は尋ねてきた。

「い、いや、全然そんなことないです! 楽しみです!」


 回斗は体育会系のような大声を出した。先輩と一緒に綺麗な景色が見れる。今までは花火や夜景など一人で見ても二人で見ても同じだと思っていた。だが今は違う。

 行く途中にあった半円状の橋を渡る。ギシギシと木板が鳴るたび、建築年数と歴史の重みを感じた。ところどころ色が煤けたように変色しており、危ないことに中心部の欄干が完全に壊れてしまっていた。

 その下には、湖に続いているであろう暗灰色の川が息を潜めるようにして流れていた。互いに話すことがなくなったのか、このまま沈黙を貫いて目的地まで歩こうとした時、


「…………ん?」


 ペースが上がっている先輩に対して、思わず回斗は立ち止まってしまっていた。聞こえるのだ。パシャパシャと、まるで鯉が水面ではねているような音が。

 パシャ、

 パシャ、

 パシャ、

 その音の出どころは……川の真下から聞こえた。吸い込まれるように回斗は、橋から身を乗り上げるようにして正体をみようとすると、


「どうした?」

 

 と回斗の足音が聞こえなくなったことを不思議がったのか、先輩が橋を渡り終えた場所で上半身だけ振り返っていた。点き始めた園路灯の当たり具合のせいで、ほとんど顔が影に侵食されていた。

 ハッとした回斗は、その瞬間にはもうはねているような音が聞こえなくっていたことに気づいた。


「いや、なんでもないです。すいません」 

「そろそろだよ……って回斗は、ここに来たことあったりするの?」

「小学校の低学年の頃は、毎年親に連れられて行ってましたよ。でもある年にえげつないぐらい蚊に刺されちゃいまして……それっきりです」

「回斗の血ってよほどおいしかったんだろうなー。吸っていい?」

 今このタイミングで飲み物を飲んでいたら吹き出していたと思う。それくらいの衝撃発言。 

「いや唐突すぎるでしょ。先輩」

 回斗はたしなめるような口調で先輩に言うと、

「その先輩って言い方、私はずっと回斗って呼んでるのにフェアじゃないと思うな〜」

 とあっさりカウンターを返されてしまった。すぐさまアワアワと狼狽える。

「あ、い、いいや、それは……」

「あれ? そもそも、私の名前知らない感じ? 私は――」

「廻瑠……先輩」

「っ!?」

 

 脳裏に一瞬、「回斗って呼んでください」と柄でもなくカッコつけてしまった自分がよぎり、今すぐ爆散してしまいたくなるくらいに恥ずかしくなった。先輩とつけたのは、理性による最後の抵抗だった。

 とても目なんて合わせられる状態ではなく、雑草に止まって鳴いているコオロギに視線を下げた。先輩は何も言わない。目的地に到着するまで、二人分の足音が鳴るだけだった。 

  

「着いた、よ」

 

 と先輩がいかにもぎこちなく言葉を紡いだ。喜んでいるのか。びっくりしているのか。それとも引いているのか。回斗にはそれが分からなかった。

 森を抜けると、一軒の民家がすっぽり入りそうなスペースの開けた空間に出る。月明かりがゆったりと流れる小川を照らしていた。あとは雑草が囲むようにして生えている。

 

「は、はい……」

 と回斗は当惑が顔に出ないように努めた。先輩に促されて隣へとしゃがむ。

「しばらく、待とうか」

「はい……」


 お互い気まずい状態のまま、ホタルを待つことになってしまった。変に恥ずかしがらずに名前を呼べばいいものを、こんな時に限ってかつてのどもりが顔を出していたのだ。

 キリギリスやコオロギの鳴き声のおかげで助かったが、実は先輩が無言だと思っていた時間も、必死に回斗は言葉を紡ごうとしていたのだ。

 しかし結果は、川だけにすべて水に流されてしまった。十分、二十分、三十分と時が過ぎ去っても、ホタルは姿一つ見せてくれなかった。ついに先輩から、

  

「そろそろ帰らないと。親も心配してるだろうし」


 そう言うと先輩は、くるりと小川に背を向け歩き始めた。回斗も釣られるようにして後ろをついていく。

 意外にもあっさりと、()()()()()()()()()()()()。自分のことだから、名残惜しいとかもっと一緒にいたいなどという感情が湧き上がるかと思ったが、それ以上に今は幸せで満たされていた。

 今までが奇跡すぎたと思うことにした。生涯ずっと関わることのできなかったであろう人とほんの数時間だが、行動を共にできたのだ。これ以上欲しがろうとすると逆にバチが当たりそうな気がする。

 

「帰るといっても、これが最後になるのか」

 三分ほど歩き続けていると、急に先輩が立ち止まって妙なことを言ってきた。

「……最後?」

「住み慣れた……我が家に帰るのは」

「――――ッ!?!?!?!?!?!?!?」


 瞬間、回斗は息ができなくなった。今日初めて先輩を見かけたときと同じように、水の中にいるようだった。肺が締め付けられるように重く、冷たい空気が喉を刺す。

 視界が歪む。目の前でグニャリと揺れる光景は、まるで水面の下から見上げる世界のように見えた。

 身体が動かない。腕を上げようとしても、指一本すら思うように動かせない。まるで回斗の存在自体が、この空間に溶け込んで消えていくかのようだった。

 廻瑠先輩はバイバイと言わんばかりに手を振る。この異常事態に気づいていないのだろうか。いや、そんなことより……


「……ダ、メだ……行っちゃ……ダメ、だ…………」


 回斗の声は喉の奥で詰まった。叫びたいのに、言葉が空気に溶けて消える。

 先輩は回斗の声なんて聞こえないみたいに、ゆっくりと歩き始めた。

 その背中が、どんどん遠ざかっていく。闇の一部になっていく。

 

「…………!! そう、か……そうだったんだ……!!」 

 

 回斗は気づいてしまった。先輩に関しての恐ろしい真実に。もしこれが本当だとしたら、今までのデジャヴや小川で感じた違和感すべてに説明がつく。

 何もできないこの状況にこらえきれず、追いつこうと必死に足を動かそうとした。

 でも回斗は気づいてしまう。そもそも踏み出そうとした()()()()()ことに。

 足元はただの闇で、身体は当然物理法則にらうこともできず、真っ逆さまに落ちていく。

 落ちていく。

 落ちていく。

 

 ――終わらせるんだ、こんな世界。そしてお前は……


 回斗の頭上に声が降ってくる。今だから分かる。この声の正体は……!!

 しかし今の状態ではどうすることもできない。いくつもの悲しみと後悔の念を抱えながら、意識は深い谷底の方へと消えていった―― 

 

    *


 この世界がつまらない――いつからかそんな思いが、頭の中を漠然と支配していた。朝起きて、ご飯食べて、学校行って、勉強して、家帰って、漫画読んで、ご飯食べて、宿題して、寝る。

 そんな毎日の繰り返し。

 そんな平凡世界の繰り返し。

 そこから脱却する唯一の方法、それはズバリ……()()()()()ことだと、最近思いついた。

 でもわからない。そもそも青春とは? まずはそこからなのだ。あいにくその材料と成り得る友達もいなきゃ、恋人もいない。ただの少女漫画好きの陰キャ。自分で言うのもなんだが、最も青春から縁遠い存在だと思っている。

 少なくともわかっているのは、今の生活とは、遠くかけ離れていることくらいだ。


 ――終わらせるんだ、こんな世界。そしてお前は……


「……………………あ」


 七月二十四日。寝ぼけ眼であたりを見渡す。校舎の窓から差し込む太陽の光が、カーテンと混ざって教室の床に白色の模様を描いている。時刻は午後四時を指している。

 机の角に刻まれた誰かの落書き、

 黒板に残されたチョークの白い粉、

 右斜め前の席の高木くんが忘れていった体操袋。

 すべてが、あまりにも見慣れている。見慣れすぎている。


「まさ、か……」


 デジャヴだ。この感覚、味わったことがある。いや、味わっている。心臓がドクンと跳ね、頭の奥で何かがカチリと音を立てる。()()()()()()七月二四日が、まるでパズルのピースのようにつながっていく。

 窓の外を三羽の鳥が羽ばたいている。続いて廊下を歩く誰かの足音。誰が来るのかは、予想できていた。

 なぜなら、この世界は…… 


「おーい青式ー? 教室の鍵閉めるからそろそろ……」

「やったアアアァァァァァァァァアアアーーーッッッ!!!!!!!!!」


 回斗はまるで全身の血が沸騰したようにしてたまらず叫び声を上げた。それにビビる先生。無理もない。おそらく先生は気づいていないのだろう。それがこの世界の、いや、この物語の定石ってやつだ。

 ()()()()()()()()()()()()

 そして回斗はこの世界の主人公と考えて間違いないだろう。じゃなきゃ前回体験したデジャヴに合点がいかない。今までは退屈な世界に飽き飽きしていたが、これからはそんな必要はない。

 終わらない青春? 最高じゃないか。


「…………あれ? なんか他にも忘れてるような……気の所為か!」


 回斗は意気揚々と体育館裏へ走った。しばらくここへとどまってしまったせいで、もう先輩たちは先に体育館裏へ到着してしまっているのかもしれない。そしてもう始まっているのかもしれない。

 早く行かないと。その場に主役がいなかったら、ストーリーが破綻してしまう。

 今、この瞬間から……青式回斗の青春は、ようやくスタートダッシュを切ったのだ――

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