新必殺スキルと決戦は金曜日
港町ミノズーサは、貿易で潤う港湾都市だった。白い帆を張った大きな貨物船が何隻も港に出入りし、帰ってきた漁船から水揚げされた魚を狙って海鳥たちが空を舞う。
海の恩恵に預かる豊かな町に暮らす人々は、平和で穏やかで笑顔が絶えず、争いのアの字もなかった。
そのはずであった。
ところが――である。
そんな平和な港町が、いま、不穏な空気に包まれていた。住人たちはギラついた目で集団となって通りをゆく。
「コスナーを殺せ!
コスナーを殺せ!
コスナーを殺せ!
コスナーを殺せ!」
シュプレヒコールがあちこちで起きていた。
噂が噂を呼び、人々は真意を確かめ合う。
「ミズノーサに来てるって本当か?」
「ああ、手配書にあったパーティだって魚屋のレグが言ってた」
「悪魔なんだろ、あいつは」
「マジらしい。宿屋のギルが宿の食事に猛毒を混ぜて食わせたが、野郎ピンピンしてやがったらしい!」
「鋳物屋のオットーが毒草を焚いていぶしても全然効かなかったらしい」
「戦士のウラヌスがボウガンで後ろから射抜いたら後頭部で矢をはじき返したって聞いたぞ!」
「じゃあ、ほんものの悪魔じゃねえか。司教さまに頼むしか手がねぇぞ」
「それが、退魔の神聖魔法を助っ人の司教十数人がかりで浴びせたらしいが、鼻歌歌ってたらしいぞ!」
「なんだ奴は? 上級のアークデーモンか?」
「勇者がかかげた報奨金10万ギリトル……そんだけありゃ一生遊んで暮らしてお釣りがくるのによぉ」
「なんでもいいから試そうぜ。あきらめるな」
尾ひれがついて、もはやなにが真実であるのかわからなくなっていた。
「コスナーを殺せ!
コスナーを殺せ!」
町のあちこちから、そんな声が上がっていた。
ギスギスした町の様子を、ミズノーサでも一番見晴らしのいい聖光エポルプ教会支部の時計塔の屋根の上で、コスナーたちはうかがっていた。竜の力でもってこんな場所から見下ろすことができていた。
「なるほど……あのハヤカ村の襲撃は、おれに罪をかぶせて身動きを取れなくする作戦だったのか……」
コスナーは拾った手配書と眼下の町を交互に見比べる。
「無実ですよ! 本当のことを言えばコスナーさんの潔白は……」
ケートが言いかけるも、
「無駄じゃ。群衆の目を見てみるがいい」
と、地竜の姐さんは指摘する。
竜の眼力で、時計塔の上からでも人々の表情までわかった。鈍色に光っていて、明らかに正常ではない。しかも誰もそれに気づいている様子はなかった。
「聖光扇動。勇者特有のスキルのひとつじゃな――」
風竜の爺さんは、群衆の行動を解説する。
「――勇者は人を導き束ねる能力を固有スキルで持っておる。勇者が襲えと号令をかければ人の心はそれに扇動される。ま、光の力による洗脳の一種みたいなものじゃな」
「つまり、勇者を倒す以外、人々の誤解は解けない、ということ……?」
ケートが風竜の爺さんに訴えかけるような目を向けた。
「聖光エポルプ教会が沈黙しているところを見ると、勇者の言うことは正しいという認識なんじゃろうな……」
地竜は、足の下の教会支部を見下ろす。
もともとミズノーサに来たのは、この町にある聖光エポルプ教会支部に勇者ボリトールについて尋ねようと思ったからだった。ところが町に入る直前、どこか異様な空気を感じて、念のために町の様子をうかがおうと教会の時計塔の上に飛んできたところ、このような状況だった……というわけであった。教会に尋ねるどころではなくなっていた。
教会に、この件に関して事実を確認しようとする動きはない。勇者の好きにさせているといった感じだ。となると、おそらくボリトールの他の所業について問いただしたところで、調査もなにもしようとしないだろう。なにもできない、というのが正しいか……。教会にとっても「勇者」は神聖な存在となっているのか。勇者の力がわかっているからこそ、たしなめることさえできない。
「おれを狩ろうと走り回っている群衆も、勇者の犠牲者、か……」
コスナーは地上の狂乱を見つめ、哀しげにつぶやく。己が虐殺の犯人にしたて上げられていることよりも、疑うことなく騙されている民衆が哀れでならない。
「いつまでもここにいたらボリトールに見つかるかもしれない。いったん退散しよう」
地竜が周囲の気配を探っていた。まだボリトールに見つかってはいないが、どんな結界を張っていても油断はならない。
「ん、そうだな……」
コスナーはうなずいた。
ミズノーサのはずれにある、ナヌキ山の渓流。ミズノーサ市民たちにも馴染みのある景勝地である。陽気に誘われて訪れる人も多いそこに、いまは誰もいない。町のあの様子では、行楽どころではないのだろう。
高さ10メートルはある滝の下から流れ出るせせらぎは涼やかで、陽光に虹がかかっていた。川にかかる古い吊り橋から滝を見上げるのが、ここの売りであった。
その場所から少し外れた、森の木々に覆われた崖にあいた洞窟――。
コスナーたちはそこに潜んでいた。
「あの町にはもう立ち寄ることはできないな……」
「風呂は当分、川で行水ですねー」
洞窟から明るい外を、ケートはうらめしそうに見やる。
「食料は次元断層にある程度貯蔵しておるから逐一取り出して食えばよいし、当面は困らぬ」
食う心配さえなければいいとしか考えていない風竜の爺さんだった。
ミズノーサへの道中、宿場町で食料を調達していた。四人分の食料を、森で野生動物を狩って得るのは、そう簡単ではない。獲物が見つかるとは限らないし、肉ばかりを食べることになる。
パンや干し芋、干し肉、ローストした木の実などを買い込んでいた。カネは、地竜が錬金術で作り出せた。ボリトールとの闘いに勝利したら是が非でも会得したいスキルだと、コスナーは、地竜の手のひらの上で黄金が輝くのを見る度に強く思うのだった。
「勇者は今、各国の王都を中心に悪評を喧伝して回っている」
ボリトールに顔がわれていない地竜の姐さんは、密かに町に潜入した際に、情報を集めて回っていた。
「四日後には、ミキシャ公国で大演説をぶつようなのです」
と、そのときに持ち帰ったチラシを見て、ケート。チラシには「勇者ボリトール来たる!刮目せよ!」の文句と日付が太文字ゴシック体で印刷されていた。ここまで徹底的に広められると、ボリトールの魔法がなくとも人々にはコスナーが悪者であるとの認識が根付いてしまう。
「四日後か……だが、これは好機かもしれんぞ」
「なんだ、じーさん? それはどういう……?」
「忘れたかの? 我が孫から得た新しいスキルじゃ。それを生かす機会がついにきたのじゃよ。コスナー、訓練するぞ。今のうちに新必殺技を完成させるのじゃ」
風竜の爺さんは、黄ばんだ前歯を見せてニヤリと笑った。
「昨日も帰ってこなかったのですー」
ケートが洞窟から外の早朝の森を見ながらつぶやいた。
コスナーと風竜の爺さんが必殺技の特訓をすると言って出て行ってから二日がたっていた。洞窟には、ケートと地竜の姐さんが残された。ボリトールの演説まであと二日、明後日である。間に合うのだろうか……。
「風竜がなにやら策を授けておるのだろう。我らは信じて待つしかない」
主人の帰宅を待つ犬のようにも見えるケートに、地竜の姐さんは声をかける。
「それなら私も一緒にいきたかったのです~。私も竜のスキルほぼほぼコンプしてるっすよ~。なんで私は留守番なんですか~?」
「必殺技はやつらに見つからないよう極秘に開発せねばならぬ――」
コスナーは風竜の爺さんが施した次元断層を抜けて深い森の中まで踏み込んでいった。
「二人での特訓では集中できぬため、思わぬ事故が起きて、やつらに察知されるやもしれぬ。そのリスクを恐れてのことだろう」
「なのです……けどー、こちとらずっと洞窟ですよー! 息がつまりそうなのですー!」
ケートは頬を膨らます。森の民エルフは草木の多い地域を生活圏にする。じめじめした洞窟に何日も閉じ込められるのはさすがに苦痛だったのだろう。
「しかし外に出ては扇動された町の者に見つかって通報される可能性が……って、おいケート!」
地竜の姐さんの言葉を最後まで聞かずに、ケートは洞窟から飛び出してしまった。
「プッはー、です。この緑漂う空気こそエルフの滋養の源! 大いなる森の恵みを全身に浴びる幸せ! まさに至福なのです……んぎゃっ!」
深呼吸するケートの首に、洞窟の奥からしゅるしゅると伸びてきた地竜の尻尾が巻きつく。そのまま洞窟に引き戻され、地竜の尻尾は掃除機のコードのようにスピーディーに着物の裾に巻戻った。
「主は阿呆か! 結界から外に出たら、所在がばれてしまうぞ!」
「ごめんなさいなのです〜。私も外は危険とわかってましたが……出たらアカン、ああ出たらアカン、アカン、アカンと思いつつ……辛抱たまらなくなってしまって、気づいたら絶賛深呼吸中でした」
まるで禁煙を強いられた愛煙家のような弁明をたれる、森依存症エルフである。
「コスナーには禁じられておったが、こうなってはやむを得ない」
地竜の姐さんは仕方なさそうにかぶりを振ると、次元断層を開き、風竜が蓄蔵していた食料を入れた樽の奥の奥からひと抱えの酒樽を取り出した。
「ホんギャー! ハッ、ハッ、ハー!」
ケートはそれを見るやいなや、喜びのあまり、酒樽の周りを四つん這いで走り回りだした。本当に犬のようであった。
「これを飲んで酔い潰れておれ。外を徘徊されるよりナンボかマシじゃて」
「いやー、地竜のお姉さまはやはり威厳と品格溢れる見目麗しい竜だと前々から思っていましたのです〜。その唇、美しいっすね〜。色トレスですか〜? 加えてその肌! 鱗のキューティクルまでキラキラです〜! では、姐御さんの慈悲の一杯、堪能させて戴くです!」
いきなり饒舌になり、しなくてもいいおべんちゃらを発したかと思うと、柾目の樽の上蓋を頭突きで鏡割りし、そのまま頭ごと酒樽に沈め、ポンプのように酒を飲み始めた。
そんなケートの痴態に呆れつつも、地竜の姐さんは微笑む。
「無理もないがの。まぁ、わずかな時間じゃ。誰かに見られてはいないと思うが……」
が、不幸にも、いくら確率が低くても〝事故〟は起きてしまうように、地竜の姐さんの懸念は現実となってしまうのだった。
森にひとりの狩人がいた。その男は、普段はミズノーサの町のはずれに住み、森に分け入っては鳥や小動物を捕まえ市場で売って生計を立てていた。
その日も森に入っていた。しかしいつもとは違い、後ろに人を従えていた。
「こっちです」
狩人は、後ろをついて歩く筋肉質の男を先導する。
格闘士ガメルであった。森の下草を踏みしだき、その音で小動物が逃げ出すのもかまわず進む。
「あそこです……」
狩人が木々の間から指さしたのは、崖にあいた洞穴だった。
「間違いないのだな?」
「へっ、手配書にあった顔に間違いねぇです」
狩人は、広げた手配書のケートの似顔絵を指さして、
「この脳天気な女が一人、おめでたい顔で深呼吸してたんです」
「ハーフエルフの小娘か……。こっちの顔、コスナーはいないのか?」
ガメルは手配書にある、もう一方の似顔絵を指差す。
「へい、こいつだけでした」
「そうか……。まあいい。仲間で動いているならそのうちコスナーもやってくるだろう。そうでなくともコスナーの知り合いなら、そいつを人質におびき寄せることもできるしな」
チボタリ村の水門での拷問のときのように。
「んじゃあ、あっしはこれで。光の勇者に栄光あれ」
「ああ、ご苦労だった。報酬は教会に行って申し出るがいい」
「本当にもらえるんですかい? 教会に行っても、嘘を言うな、と追い払われたりしませんかい?」
狩人は小ずるそうな目でガメルを見上げる。
「めんどくせーやつだな。ほれ」
ガメルは無造作に小銀貨を一枚出してやった。
「へいへい」
狩人は相好を崩し、すごすごと帰っていく。
光の巫女の加護を受けた勇者についていれば、カネなど教会からいくらでも手に入った。銀貨など惜しいと思わなくなっていた。
ガメルは去っていく狩人に一瞥もくれることなく洞窟の前へと進んだ。
「ふん、探知結界か……。こんなもの……」
距離がじゅうぶんにとれていれば存在を隠せるが、ここまで接近していれば見通すのも可能だった。
洞窟の奥を凝視する。
ガメルも、死んだヒタクル同様、光の加護を受けた力をボリトールから授けられていた。その能力値はボリトールには到底及ばないが、通常の魔力よりは高かった。
その鑑定眼が、奥に渦巻く魔素を確認した。
「膨大な魔力だ。コスナーも奥に隠れているということか? ――いや、まだわからんか。下手に誤った情報を伝えると俺の信用問題にもなる。ボリトールへの連絡は確認が済んでからにするか」
洞窟に入っていくガメル。
「ん……?」
暗い洞窟の奥へと進んでいくと、調子っぱずれな歌が聞こえてきた。
「♪ゆーうべ とーちゃんと 寝たときにぃ〜 へ〜んな トコロに イモがある〜 とーちゃん そのイモ なんのイモ〜 おまえ〜 よく〜きけ〜 このイモは〜♪」
「これ! 大声はもう少し控えんか!」
地竜の姐さんは洞窟に響くケートの歌声に辟易していた。
「ほら、一緒に歌うっすよ! モグリのねーさん!」
「モグリ?」
「地竜は地にもぐるっしょ? だからモグリのねーさんっすよ! ささ、歌うのです! ♪ゆーうべ かーちゃんと 寝たときにぃ〜♪」
「我はとんでもないしくじりを犯したのではなかろうか……」
地竜の姐さんは頭を抱えた。
と、そこへ、洞窟入り口の方向からなにかが飛び込んできた。酒樽が粉砕され、酒が飛び散った。
「見つけたぞ!」
その声に振り向くと、
「きさまは勇者パーティの一味か!」
地竜の姐さんは、地面に転がるハンマーを見てなにが起きたのかを悟った。
「酒盛りとは余裕だな。だが俺たちを甘く見たのが運のつきだ。コスナーがいないのは意外だったが、きさまら雑魚でも使い道はあるからな。人質にしてコスナーをおびき出す餌に……」
ガメルのセリフがそこで止まった。
不思議に感じた地竜の姐さんが、ふと視線を下にやるとガメルの股間をストマッククロー状態で鷲掴みしているケートがいた。
「人の大事な酒、なにしてくれてんすか、このモヒカンゴリラ!」
「ぐ……ぬお……おおおぅ……」
ガメルの額に脂汗がにじむ。いかに光の巫女の加護の作用で軽減されているとはいえ、尋常ならぬ竜のパワーで股間を握りつぶされているのだ。ましてやケートは酒を台無しにされた。その怒りも加味されている。
「は、離せっ! ば、バカな……! 光の巫女の加護の力でゴーレムに握りつぶされても傷一つ付かない俺の身体防御が……」
「今すぐ代わりの酒樽持ってくるですよ! そうでないと、このまま潰して中のピーナッツ出してやるですよ!」
「ぎゃあああ! わ、わかった! やめろ! やめでぐで……」
ガメルは目を白黒させた。
「最低3樽は持ってくるです! いや4樽……もう一声で5樽……あ、やっぱ6樽っすね……いや6樽ってことは7樽にもさも似たり」
「もういい、やつは気絶している」
「ほへ?」
ケートが手を放すと、ガメルは泡を吹いて、もんどり打って倒れた。恐らく加護を受けて以降、初めての失神だろう。
「こやつは捨ててくるか。のう、ケート……」
ケートは地面に染み込んだ酒を吸っていた。地竜の姐さんの言うことも聞いちゃいないといった感じである。
「こら地面! 土の分際で人様の酒くすねるんじゃないのです!」
「この娘、断酒プログラム組んでやらんとイカンのぉ……」
地竜の姐さんはそうつぶやくと、ノビたガメルを洞窟の外へと引きずっていった。こいつをなんとかしなければならない。
洞窟の外で、他にも仲間がいないかと注意して、どうもいなさそうだとわかると、ガメルの襟首をむんずとつかんだ。
「そりゃあ!」
砲丸投げのようにジャイアントスイングして、投げ飛ばした。
夕方の空に、陽の光を反射してきらめきながら、遠くへと消えていった。
翌日の夜にコスナーと風竜は帰って来た。首尾はどうだった、と訊く地竜の姐さんに、
「できうる手は尽くした。あとはどう転ぶか、じゃな」
風竜の爺さんは答えた。
「――そちらはなにもなかったかの?」
「ああ……まあ、大騒ぎするようなことは特に……のぉ」
ガメルを撃退したことは黙っていた。余計な心配をさせることもないだろうし……。
「ふにゃああ……コスニャーひゃんお帰りなのですぅ……」
そう言ったそばから、二日酔いケート・バージョン2。15点の顔ふたたび。
あからさまな状況に、風竜の爺さんはジロリと地竜の姐さんを睨んだ。
「お主、この娘はうわばみの生まれ変わりだと言うのを忘れたか!」
「仕方なかろう! ケートがおんもに出たいとゴネるのじゃから……」
「うわぁ〜地面がグネってるですぅ〜。重力魔法ですか〜? お見事ですぅ〜」
「ええい、明日は大事な日だというのに! 地竜、これもお主の躾がなっとらんからじゃ!」
「我はこのような阿呆エルフを産んだ覚えはないッ!」
「どっちもガンバレ〜ガンバレ〜」
ギャーギャーうるさい家庭崩壊風味な外野をよそに拳をかためるコスナーは明日のことしか考えられない。
「いよいよ決戦か……。やるしかない……」
覚悟を決めた男の目だった。
その翌日。
海とみどりと笑顔の国・ミキシャ公国。ラカータ連合王国に隣接する独立国のなかでも、歴史ある国家のひとつである。戦乱による危機を何度も乗り切って今があるのは、歴代の大公が優秀であったからだと言われている。貴族のなかより選抜された一族が大公となり国を治めるが、次の世代を選ぶ際には、再び全貴族のなかより大公を選び治すというシステムは、他の国にはない特徴であった。
快晴の下、元首である現大公の居城であるフィンドル城の広大な広場には、大勢の国民が立錐の余地もないほど集まっていた。
広場に面する城から5メートルほどの高さで突き出た石造りの広大なバルコニーには、通常は大公が立ち、国民に対して訓辞を述べたり演説をしたりするのだが、今日そこに現れたのは大公ではなく、その他の大公家の誰かでもなかった。
貴族でない者がバルコニーに立つのは異例中の異例であった。しかしそれを非難する者は一人としていなかった。
なぜなら、バルコニーに向けて階段を一歩一歩登っていくのは、光の巫女の加護を受けた勇者ボリトールと、その仲間たちであったからだ。
聖光エポルプ教会にとっての聖なる日とされる金曜日をわざわざ選び、ボリトールはミキシャ公国の国民に対し大演説を行うつもりだった。コスナーを民衆の敵にして追い詰めるのであった。
勇者の力があれば、コスナーひとりになにもここまでのことをせずとも倒せるはずであったが、何度も出し抜かれた怒りはただ殺すだけではもはや治まらなかった。そこにボリトールの、他者をいたぶる嗜虐的性質が表れていた。肉体的に傷めつけるより精神的に窮追するほうが、その効果が長続きすることを心得ていた。
マントをひるがえし、鎧を着た衛兵たちが壁際に並ぶ、池のように広いバルコニーに足を踏み込む。白亜の石で真っ平らに作られたバルコニーを踏みしめて進むボリトール。その後ろには僧侶マンビーク、格闘士ガメル、召喚士カスメトールが続いた。ガメルは、ほうほうの体で、ようやくボリトールの元に戻ってきたが、なにが起きたのかは黙っていた。失態を晒したとなれば、どんな怒りを買うかわかったものではないと、余計なことを言うつもりはなかった。ボリトールも、丸一日どこへ行っていたのかと尋ねなかった。作戦が思い通りに進んでいるなかで些事には関心がなかった。
バルコニーの下の広場では、集まった民衆たちが、これから始まるであろう、光の巫女の加護を受けた勇者の大演説……なかなか見ることも聞くこともできないそれを期待して、しかし熱狂することなく注目していた。広場から高さ5メートルはあるバルコニーの端に立つ勇者が姿を見せるのを……。
が、そのとき――。
突然、バルコニーに風が渦を巻く。強く大きくなったつむじ風は、ほんの数メートルほどの大きさで、周囲がその風に巻き込まれてしまうことはなかった。奇妙な風であった。
つむじ風の中心になにかが出現していたが、局所的な風が視界を奪ってよく見えない。
衛兵たちも、広場の群衆も、なにが起きたのかと、その場にいる全員が戸惑っている中で、一人だけ冷静にその現象を見ている男がいた。
ボリトールである。突然のつむじ風が単なる自然現象ではなく、誰の仕業かわかっているかのように、まんじりともせず見守っている。
唐突に風がやんだ。
つむじ風が起きていたその場所に、数人の人影が出現していた。
「やはりおまえだったか、コスナー」
ボリトールは口角を上げる。
コスナーの他、ケート、地竜の姐さんが、風竜の爺さんの風神竜巻により瞬間移動してきたのだ。
「く、曲者……!」
衛兵たちが槍をかまえ、剣をぬいて、忽然と現れたコスナーたちを取り囲もうとした。
「おまえらは下がれ」
が、ボリトールはぴしゃりと命じた。
「しっ、しかし勇者様……」
ひとりだけ鎧の意匠が異なる衛兵長が、職務を全うすべく口を開いた。ボリトールを警護するよう、大公より命じられた精鋭の衛兵たちを指揮する立場であった。
「勇者の命令だ。全員退去しろ!」
ボリトールは一喝した。
「わ、わかりました!」
勇者の声に衛兵たちは敬礼し、きびきびとした動作でその場から立ち去り、バルコニーを降りていった。
フィンドル城のバルコニーには、勇者とその仲間、コスナーとその仲間だけが残った。
「久し振りだな、コスナー。わざわざ俺の前に現れてくれるとは意外だったぞ」
ボリドールは、突然のコスナーの登場にも余裕のある口調だった。
「もうこれ以上おまえの暴虐を見逃せない!」
コスナーはボリドールに人差し指を突きつけた。
「暴虐、ねぇ……」
ボリドールは腰に手をあて、呆れたようにいったん視線を逸らす。
「だがそれはおまえのせいでもあるんだぞ、コスナー。おまえがおとなしく殺されてさえいれば、ハヤカ村の住民どもは死なずに済んだ。おまえがケチくさく自分の命を守ったばかりに多くの命が奪われた。おまえが殺したようなもんだ。そうだろ?」
「そう……だな……。だから……おれは誓った!」
「ん?」
「これ以上、ボリトールの犠牲者は出させない」
「ぷっ! ぎゃーはっはっはははっ!」
勇者の傍らで、ガメルやカスメトールが腹を抱えて笑った。一昨日は不覚をとったガメルだったが、今日はボリトールがいる。絶対的な力があれば、万に一つも負けはない。
「かっこいいなおまえ……まるで勇者みたいだぞ、はははっ……」
ボリトールは、表情を変えずに睨んでいるコスナーを冷笑した。
「犠牲者を出さない、ということは、今度は素直に俺に狩られて終わろう、ということだな?」
「…………」
「いい心がけだ。苦しまないよう、一発で頭蓋骨を断ち割ってやる。心配するな。すぐ光魔法で再生してやる。脳以外な。あとは不慮の事故かなにかで死ねば、おまえのスキルを回収して終わりだ」
ボリトールの体が次第に光のオーラに包まれていく。それはエネルギーを貯めて聖光斬撃を放つ前触れだった。
「今じゃ!」
風竜の爺さんが鋭く叫んだ。
「鏡面倍化!」
すかさずコスナーは能力を発動した。体が光り輝く。その光は、勇者ボリトールのそれをはるかに凌ぐほど強かった。
「なんだ、この光は!」
ボリトールたちは眩しさに手で目を覆う。
「聖光斬撃!」
そうコスナーが唱えるのを、ボリトールは聞き逃さなかった。
「なにぃ!」
凄まじい光の刃がバルコニーの上方の城の壁面に大穴をうがった。轟音とともに石くれが降り注ぎ、土煙が立ち上った。
バルコニーから降りて階段の下に退いた衛兵たちが目を見張る。
「見ろ! フィンドル城の壁に穴が」
「あれは聖光斬撃、勇者様の技だ!」
「勇者様は、今まさに悪魔と戦っておられる。我らに退去を求めたのも、あの斬撃から我らを逃がすためだったのだ!」
「さすが勇者様、なんと思慮深い」
「さあ、皆で勇者様を応援しようではないか!」
衛兵たちは拳を振り上げ、ボリトール様、勇者様と、声を揃えてバルコニーの下から声援を送った。
だが一方のボリトールは、驚愕の表情で頭上の大穴を見上げている。
「まさか……信じられん! 聖光斬撃を……なぜゴミムシのきさまが放てるのだ!」
その驚きが、マンビークやガメルにも伝染した。まさかあのボリトールが狼狽するとは思ってもみなかった。常に圧倒的な態度で、何事にも動じなかった光の巫女の加護を受けた勇者が。
それほどまでにコスナーは力をつけている、というのか――。チボタリ村の水門での拷問で抵抗もできず死にかけていたというのに。
片田舎のミッカタ村で初めて見たときは、筋肉のないひ弱な青年にすぎなかった。大した魔力も腕力もない、どこにでもいそうな〝男の子〟だった。その外見は今もさほど変わってはいなかったが、しかし光のオーラをまとう全身と、怒りに燃えてボリトールを睨んでいる両眼には、吹けば飛ぶような頼りなさはまったく感じられない。
「決着をつけよう、ボリトール……」
魔力を宿した左手のひらを前につき出し、コスナーは宣言した。
勇者との対決が始まろうとしていた。
【第10話につづく】