9 レザークの試み
* * *
「メイリー・ルテクスの様子はどうだい?」
いつもは数名の秘書官が待機する王太子アラベールの執務室も、今はアラベールとレザークの二人しかいない。
「元気ですよ。俺の家での暮らしも少しずつ慣れてきたようです」
レザークが淡々と答えると、アラベールは小さくため息をついた。
「婚約を解消するつもりはあるかな?」
「いえ、特には」
「……私は、君から拒絶という反応を引き出したくて、彼女との縁談を君に相談したんだけどね?」
「断ってもよかったのですか?」
「……うん、私が悪かった」
アラベールは苦い顔だ。
「ただ、君にはいつでも婚約を白紙にできる権利があることを覚えていてくれ。だから君達の婚約は大々的にしていないし、まだ婚約の段階でとどめているんだ」
「ですが先日、メイリー・ルテクスの発案でパーティーを開きましたよ。内輪のささやかなものですが」
「よくそんな真似ができるな……。わかっていたが、彼女はよほど恥知らずらしい」
アラベールの端正な顔が嫌悪にゆがむ。愛しい婚約者をいじめていた未来の義妹は、彼にとってよほど憎らしい存在らしい。
「婚約を白紙にする気がないなら、せめてしっかり手綱を握ってくれ」
「善処します」
粛々と頷く。何をすればいいのかはよくわからなかったが。
「あんな女をあてがっておいてなんだが、王太子ではなく友人として、本当は君にも、心から愛し愛される、そんな相手と幸せな結婚をしてもらいたかったんだよ」
「お気になさらないでください。愛というのは、俺にはよくわかりませんから。興味もないですし」
「……君ならそう言うだろうな。うん、やはり私は、君に対して甘えのようなものがあったようだ。君がどんな人間かわかっていたのに、君とあの女の婚約を許してしまった。……申し訳ない」
アラベールが何に対して謝罪したのか、レザークには理解できない。
「別に、メイリー・ルテクスと婚約しようが、このまま結婚することになろうが、俺は構いませんよ。彼女のほうは、俺と家族になるのは不満でしょうが」
「不満なんて言える立場じゃないさ。ティノア侯爵が強引にねじ込んできた縁談なんだから。私としては、いつもの癇癪でも起こしてくれれば修道院なりなんなりに追放できて清々するんだけどね」
そうすれば二度とトゥーフェにも会わせないで済む、とアラベールは目を伏せた。
「君も、あの女を無理に妻だと思う必要はない。あの女が態度を改めるなんて、最初から期待はしていないんだ。ティノア侯爵も、問題児の次女を私の忠臣に嫁がせた、という事実がほしいだけだろう。いわば彼女は王家の人質なんだよ」
「……ですが殿下は、俺に……愛し愛される、幸せな結婚? をしてほしいんですよね」
政治の話。王侯貴族のしがらみの話。それは自分が口を出すべきではないことだとレザークは知っているし、最初から口を出すつもりもない。
余計なことは考えず、ただ直属の主人である王太子に忠実であればいい。それが自分に求められている役割だと信じているし、何より性に合っていたから、レザークはアラベールの従順な手駒としてその使命を果たしてきた。これからもそれは変わらない。
だが、一つだけ思うところがある。決して裏切らず、裏表もないレザークを、アラベールは友と呼んでいた。政治に関与せずしがらみも持たないレザークを腹心に据えて信頼を寄せているのは、レザークが王太子ではなく一人の人間としてのアラベールのよりどころだからだ。
だからレザークもそれに模倣えて、主君でありながらアラベールを友と呼ぶ──友の願いは、叶えるものだ。
「俺とメイリー・ルテクスが愛し合うことができれば、すべて解決なのでは? そうすれば、殿下も気に病む必要はなくなります」
「あはは! 君もたまには冗談を言うんだな。いいだろう、君の愛であの悪女を改心させてみせたまえよ。そんなことが本当にできるなら、の話だが」
そうはいったものの、具体的に何をどうすれば愛し合う家族とやらになれるのか、レザークは知らなかった。物心ついた時には親はおらず、反社会的な邪教徒達のもとで生物兵器として実験と改造を受け続けてきた幼少期が、レザークの人格形成に多大な影響を及ぼしていたせいだ。自分に大きな欠陥があることを、彼は自覚していた。
実験体にされたのは魔法が使える家系の幼子ばかりで、誘拐や人身売買で集められた彼らはみな過酷な実験に耐え切れずに命を落としていた。教団が摘発されて助け出された時、実験体の中で唯一の成功例として生き残っていたのがレザークだ。
国が親を探してくれたが、レザークの本当の家族はついぞ見つかることがなかった。魔法使いの家系というわかりやすい特徴があるにもかかわらず見つからなかったということは、すでに家族は死んでいるか、望んで手放したせいで名乗り出られなかったか、あるいは最初から邪教徒の一味だったかのどれかなのだろう。
人体実験の果てに手に入れた危険な力を野放しにするわけにはいかない、と、レザークは国の庇護下に置かれることになった。
後見人として名乗りをあげたのが、宮廷魔術師長のバルキュイ伯爵だ。
しかしそこでもレザークが人間らしい温かな感情を向けられることはなく、王家への忠誠心だけ叩き込まれた。結局、空っぽの人形として成長して今に至るというわけだ。
周囲の人間を模倣し、その常識のうわべをなぞることでしかレザークは人間らしく振舞うことができない。
最低限の快不快の感情しか持たないまま二十年間生きてきた彼に、愛情の出力は難題として立ちふさがった。
(まずは、何が愛なのかを理解するところから始めるか。そして、それと同じことをすればいい)
ちょうど目の前に、都合のいい模倣先がいる。
「殿下はトゥーフェ・ルテクス嬢を、何をもって愛しているとみなしたんですか?」
「難しい問いだな……。きっかけは、聡明さに惹かれたからだった。文通が楽しかったんだ。それから、彼女の笑顔が見たくなった。美しい景色や美味しい食事を、彼女とともに楽しみたいと思ったんだよ」
「つまり、経験の共有ですね。トゥーフェ・ルテクス嬢も、同じ考えだったということでしょうか」
「ああ」
メイリーに綺麗な景色を見せて、美味しいものを食べさせる。心の手帳にそうメモした。
「花や詩集を贈り、陰ながら逢瀬を重ね、私達は互いの心を確かめ合った。そして婚約までこぎつけたというわけさ」
もう少し詳しく話を聞きたかったが、秘書官がアラベールに休憩時間の終わりを告げにやってきた。次のアラベールの予定は、来月に迫ったトゥーフェとの結婚式の打ち合わせだ。その席にレザークは必要ないので、宮廷魔術師の塔に戻ることにした。
「レザーク! ちょうどいいところに!」
塔に戻って早々声をかけてきたのは、同僚のハイラだった。何故か大量の野菜が入った木箱を抱えている。
「植物成長促進薬の実験で、野菜がたんまり収穫できたんだ。ほらこれ、お前にもおすそ分け!」
ハイラに木箱ごと渡される。ずっしり重いが、大量の食料を譲ってもらえるのは助かる。魔力というエネルギーを体内で扱う魔法使いは大抵の場合大食漢で、レザークもそうだった。
「ありがとう」
人体実験の影響で一般的な魔法使いの水準からかけ離れた量と質の魔力を持つレザークは、宮廷魔術師達からも遠巻きにされていたが、ハイラだけは物怖じせずに話しかけてきてレザークを友人と呼ぶ。
だからレザークも、彼を友人と呼び返していた。先日のパーティーに招待したのもハイラだ。
「そういえば……君、恋人がいたよな。男爵令嬢の」
「それがどうかしたか?」
相手の令嬢がメイリーに目を付けられるのを怖がったのでパーティーには連れて来ていないが、ハイラには年下の恋人がいる。最近見合いで知り合ったというが、仲は良好らしい。
「どうやって相手を愛するようになったんだ?」
「んー……。正直、まだ可愛い妹分って気持ちが強いけどな。でも、プレゼントを喜んでくれたり、俺といて嬉しそうにしてくれたりしてるのを見ると、この子のことは俺がずっと守ってやりたいなーって思うぜ。ちょっとクサいけど、この気持ちが愛なんじゃないか?」
「守りたくなったら、愛してるということになるのか」
「そりゃそうだろ」
「わかった。喜ぶところを見て、確かめてみる」
自分と一緒にいても、メイリーは嬉しそうではなかった。むしろいつも怒っている。だから、試すべきはプレゼントのほうだ。
「メイリー・ルテクス嬢のことで悩んでるのか?」
ハイラは声のトーンを落とす。レザークは小さく頷いた。
「怖い女もいるもんだな。愛想のいい美人って噂しか知らなかったけど、まさか裏じゃいじめの首謀者だったなんて」
「今、彼女をどうやって愛せばいいか考えてるところだ。俺が彼女を愛することができれば、彼女も改心するかもしれない」
「真面目な奴……。付け込まれないように気をつけろよ。お前、ぼーっとしてるから」
ハイラは重い箱を持って疲れた身体を大きく伸ばし、レザークの背中をバシバシ叩いた。
「俺から一つアドバイスだ! 恋人へのプレゼントは、相手が好きなものじゃないと意味がないぞ! つまり、なんでもいいってわけじゃない。ただし、何がいいかわからないからって、他の女と選んだものなんて論外だからな!」
「そうなのか」
メイリーに何が好きかを聞いて、それを贈る。心のメモ帳の記述が一行増えた。
(あまり高価なものを言われても困るけど)
とりあえず、なんとなく方針が見えてきた。実行できそうなものから少しずつ試してみよう。
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