8 あくまでも自分のため
「エルマー・ベルネ……!」
魔女が苦々しげに彼の名を呼ぶ。
バルキュイ伯爵の次男エルマーは、柔らかな茶色い髪の筋肉質で爽やかな好青年だった。もとより血のつながりがないこともあり、レザークとはまったく似ていない。むしろ彼のほうがメイリー好みの外見だった。
「メイリー、この男と話すことは何もないわ。すぐに立ち去りなさい!」
魔女がくわっと目を見開く。しかしメイリーには、魅力的な青年から差し出されたハンカチが救いの光のように輝いて見えた。
「ありがとうございます。お義兄様、とお呼びすればいいのかしら?」
「貴方のような美しい妹ができるなんて光栄だ。……本音を言えば、僕の妻になってほしかったけど」
茶目っ気たっぷりにウインクされて、思わずメイリーの口元がほころぶ。魔女がぎゃあぎゃあ騒いでいるが、今はそれすら遠く感じた。
「あの虫けらと婚約させられるだなんて、貴方もいい迷惑だろう」
「……虫けら?」
「レザークのことさ。あいつは簡単な快と不快の感情しか持たず、あとは本能のままに生きるだけの奴なんだ。虫と同じだろう?」
エルマーは嗤った。メイリーは、涙をぬぐったハンカチをぎゅっと握りしめる。
(そんな男と婚約させられたわたくしが、馬鹿にされるのも当然ね)
もし魔女の指摘がなければ、メイリーはエルマーの言葉に同調して哀れっぽく泣きながら彼に慰めてもらっただろう。エルマーもそのつもりで声をかけてきたはずだ。
「奴にはおよそ心というものがないんだ。だから、他人を模倣して人間のふりをしながら、いつも誰かの言いなりになっている。それしか能がない、つまらない男だよ」
だが、罰として格下の婚約者をあてがわれ、淪落したさまを嗤われて。これ以上、誰かを馬鹿にする人間と一緒にいたくなかった。
他人を嘲り笑ったその口で、今度はメイリーの悪口を言うに違いない。これまでメイリーとその友人達がそうだったように。
(でも、あの男のせいでわたくしが馬鹿にされるなんて、あってはならないことだわ。当然、わたくしの夫となる男が嗤われるのも)
救いの光はもう見えない。ただのくすんだ石くれがそこにあった。
「あの虫けらのせいで不愉快な思いをすることがあったら、すぐに僕に教えてくれ。貴方のためならいつでも駆けつけるから」
「お義兄様にそう言っていただけて嬉しいですわ。でも、ご心配には及びませんことよ」
メイリーの手の甲に口づけしようと伸ばされた青年の手をひらりとかわし、メイリーは夢見がちで無垢な少女のように微笑む。
だってメイリーは、負けず嫌いなのだから。
「心を持たない王子様がお姫様との真実の愛で感情を芽生えさせるなんて、なんだかお伽話みたいみたいでとっても素敵だわ。わたくし、物語はハッピーエンドが好きですの」
「え?」
脈絡のないことを言われて目を白黒させるエルマーに、「ハンカチは後日お返しします」と伝え、メイリーは颯爽と居間に向かった。
ワイン片手に気まずく佇んでいる両親とレザークがいる。フェイザーはレザークの同僚に、庭で遊んでもらっているようだった。
「お父様、お母様。レザークを連れて行ってもいいかしら?」
「あ、ああ。もちろんだとも」
ぎこちなく笑う両親からレザークを引きはがす。
「どうかしたのか?」
レザークの疑問に答えず、メイリーは彼の手を乱暴に引っ張りながら二階の自分の部屋に連れ込んだ。
ばたんとドアを勢いよく閉める。涙目のメイリーに、レザークは何を思ったのだろう。
「何かあったんだな」
レザークはメイリーが持っていた男物のハンカチに視線をやる。メイリーはハンカチをぎゅっと握りしめた。
「わたくしはお友達だと思っていたのに、そうではなかったの! それに、おまえの義兄がおまえを馬鹿にしていたわ!」
「君の友人については知らないが、エルマー殿はそういう方だ。伯爵様のご家族は、俺を家族の一員だと思ってないし。俺が悪く言われても、君が気にすることじゃないだろう」
「気にするわよ愚か者! 婚約者が虫けらだと言われたのよ! わたくしは虫けらと結婚するのがお似合いの女だということ!?」
「……悪かった」
レザークは何も悪くないのだが、メイリーの気迫の前に思わず謝らざるをえなかったようだ。
「虫けらっていうのは、昔から言われてきたことだ。感情の起伏は期待しないでくれと、君にも言っただろう? 俺のそういうところが、伯爵様のご家族には不気味だったらしくて。努力はしてみたが、よくわからなかった」
「それは、おまえの生い立ちのせい?」
「だろうな。組織にいたころは、喜怒哀楽は不要だったから」
レザークはまるで他人事のように淡々としていた。実際、彼にとっては本当にどうでもいいことなのだろう。
「おまえが妙なところで素直で、だらしないのもそのせいなのね。きっとおまえは、自分に関心がないんだわ。どうせおまえは、最低限生きることさえできればそれでいいのでしょう?」
「そうだな。腹が減れば何か食べるし、眠ければ寝る。それができれば問題ない。あとは、出仕するのに身だしなみを整えろと言われたから、それは守ってるけど」
「おまえがそのざまだから、本能で生きて人を模倣するだけの虫けらと言われるのよ!」
この結婚はメイリーへの罰だ。誰もがそう思っている。きっとレザークですらそうだろう。
だが、性悪で傲慢なメイリーに、進んで罰を受けるような殊勝な心などあるわけがない。
「いいこと、レザーク。おまえはわたくしの夫になるのよ」
「そうだな」
メイリーはレザークに詰め寄る。
「そうである以上、おまえのことは誰にだって笑わせないわ。それは、わたくしが馬鹿にされているのと同じことですもの」
「そうなのか」
「だからおまえも努力なさい。わたくしの夫だと自慢できるように。わたくしを馬鹿にした愚か者どもを見返せるように!」
メイリーは悔しさを露わにして吠える。レザークは戸惑いながらも頷いた。