5 最低限の生活保障
レザークが綺麗にしたところをメイリーが汚し、メイリーが散らかしたところをレザークが片付け、途中でレザークが居眠りを始めてメイリーが喚きだす。その繰り返しで、なんやかんやで正午を過ぎていた。
居間とエントランスの掃除がやっと終わって、へとへとになったメイリーはレザークを睨みつける。
「ねえ、午餐の用意はまだなの?」
「……? ああ、昼食のことか。そうだな、そろそろ食事にしよう」
「午餐室はどこかしら」
「なんだそれ。食堂ならその廊下を曲がった先にある。用意はしてやるから、座って待っていろ」
そう言われ、メイリーはおとなしく食堂に向かった。メイリーの家では昼食と夕食はそれぞれ別の部屋を使っていて、どの家でもそういうものだと思っていたのだが、この家では同じ部屋で食べるらしかった。
(貴族の住むタウンハウスとは造りが少し違うのかしら。晩餐会の時はどうしましょう。……だけど、このような家と夫は恥ずかしくてお友達に紹介できないわね)
「おまえが何を考えているかぐらいお見通しよ、メイリー。派手な催しをしようなんて考えるのはおよしなさいな。どうせおまえは揉め事を起こすのだから」
「何故そのようにひどいことを言うの? わたくしは社交界の人気者なのに」
「ふん。そう思っているのはおまえだけよ。それと、おまえの美貌に鼻の下を伸ばす馬鹿な男達」
魔女はそう吐き捨てる。メイリーは眉をひそめたが、お腹が空いていたのでそれ以上の言い合いは諦めた。ああ言えばこう言う魔女の相手をいちいちするのは面倒だったからだ。
「次は食堂を片付けるべきかしら……」
食堂は、ただの埃っぽくて薄暗い空間だった。部屋の隅にいくつか木箱が置いてある。実家ではいつだって真っ白なテーブルクロスがピンと張ってあったのに、ここではむき出しの木製長テーブルがぽつんと置かれているだけだ。きらびやかなシャンデリアも銀の燭台もない。代わりに、いつ使ったのかわからない水差しや食器類が置いてある。厨房の惨事は想像もしたくない。
邪魔なものを遠くに押しのけて、メイリーは一脚しかない椅子に当然のように座った。しばらく待っていると、お茶を載せたトレーを持ったレザークが来る。彼はティーカップをメイリーの前に置くと、そのまま木箱を漁りだした。
「食え」
「……これは何かしら?」
目の前に置かれた食材を見て、メイリーはこてんと小首をかしげる。
「お嬢様も食べ物ぐらいはわかるだろう? 黒パンと干し肉、それからキャベツとチーズ。あ、そのお茶は庭で育ててる薬草を煎じたものだ」
「そういうことを聞いているのではなくってよ!」
でんっとまるごと置かれた食材の名前を聞きたかったわけではない。それを食事と認識できなかっただけだ。だって葉野菜は今さっき木箱から取り出して目の前で千切られたものだし、置きっぱなしの大皿の上にパンとチーズと干し肉をそのまま並べられても困る。料理ですらなかった。
すわ望まれざる花嫁への嫌がらせなのかと思ったが、木箱を椅子代わりにしたレザークはそのままこの雑すぎる昼食を食べ始めた。メイリーを冷遇したいなら、彼まで同じ食事を摂る必要はないだろう。
(つまりこの男、本気でこれを昼食だと言い張っているということ……!?)
変な匂いのする薬草茶も、明らかに古びたパンも、固そうな干し肉も、メイリーの常識とはかけ離れたものだった。乳白色のチーズにいたってはところどころ青緑の点が浮かんでいて、とても食べたいとは思えない。
実際のところ、そのチーズのカビ自体は無害なもので、むしろ風味付けのためにわざとカビを生やしているのだが、箱入り育ちのメイリーにとっては異様なものにしか見えなかった。
「おまえ、今まで一体どのような暮らしをしていたの?」
「どんなって、別に普通だけど」
「これが庶民の暮らしだというなら、わたくしには絶対に無理だわ。今すぐシェフを呼んで、まともな食事を作らせなさい」
「この家にシェフがいるように見えるか?」
「それならすぐに雇ってちょうだい!」
メイリーの金切り声もどこ吹く風で、レザークは眉一つ動かさずにチーズを切り分けてパンの上に載せる。
「そう何人も人を雇いたくない。俺にはその人達の生活に対する責任が取れないから」
「責任?」
「そうだ。人を雇うということは、その人達の生活を保障するということだろう? 他人の人生を預かるなんて、そう簡単に決められない。君と結婚するのだって、俺には荷が重いのに」
「自分の生活すらまともに営めないおまえらしい発想ね。そのような些事を気にかけるなんて」
「……君のことは殿下から聞いている。使用人をいじめては次々辞めさせてるって。だから、なおのこと賛成できないな。どうせ君は気に入らなければ辞めさせるんだろう?」
「殿下がそのようなことを!? 誤解だわ!」
「正確には、トゥーフェ・ルテクスからの伝聞だけど」
そう言いながら、レザークは次から次へと食材を口に詰め込んでいく。痩せぎすな見た目にもかかわらず、意外と大食らいなようだ。
「それは、美しいわたくしに嫉妬したお姉様の意地悪よ。わたくしがメイドを辞めさせたのは、いつだって正当な理由があるんですもの」
「辞めさせたのは認めるのか」
「……っ」
「とにかく、シェフは雇わない。……君が絶対に辞めさせないと誓えるなら、家事全般できる人を一人ぐらいなら雇ってもいいけど、それ以上は無理。宮廷魔術師は君の想像よりも薄給なんだぞ」
干し肉を薬草茶で流し込み、レザークははっきりと言い切った。これからの生活が一体どうなってしまうのか、不安のあまりめまいがしてくる。
「どうしてこのような平民崩れと結婚しなければならないの……」
「君の父親たっての希望と聞いているけど。嫌なら俺から殿下に直訴しようか。考え直してもらえるかもしれない」
(それは困るわ。ルテクス家の名誉にかかわることですもの)
もしかしなくてもこの婚約は、ヴァーランが強引にねじ込んだものだ。
王子の側近でメイリーと年回りが近く、かつ未婚。そんな都合のいい男が何人もいるとは思えない。レザークと結婚できなければ、メイリーは反省の色なしとしてルテクス家の忠誠も疑われるのだろう。メイリーに悪いことをしたつもりはまったくないが、世間体というのは厄介だった。
「わかったわよ。結婚はしてあげるけれど、おまえのこのどうしようもない生活に付き合うのだけは我慢がならないわ。おまえの生活態度も改めてもらうから、そのつもりでいることね」
上からの物言いに、レザークは反論もしない。ただ無表情で「わかった」というだけだ。悲しげにうつむくだけのトゥーフェと似て非なるその態度に、メイリーの嗜虐心は反応できない。
(なんなの、この男。さっきから妙なところで素直だけれど……)
「ああ、そうだ。君がこの婚約を受け入れるのなら、これだけは伝えておかないとな」
葉野菜をもしゃもしゃと飲みこみ、レザークは思い出したように告げる。
「さっきも言った通り、君の人生を背負うのは俺には荷が重い。家族ともなれば、雇用関係とはまた違った大きすぎる責任が生まれるだろう。その責任を全うできるとはとても断言できない」
「ふん。情けない男ね」
「だから、せめて“祝福”を贈ろう──君の心から望んだことが叶いますように」
レザークはぱちんと指を鳴らした。その時、メイリーの胸の前で何かがはじけて消える。キラキラした光が散っていく様を、メイリーは唖然として見つめていた。
「何をしたの?」
「ちょっとした願掛けの魔法だ。夫婦とは、互いを幸せにするものなんだろう? 俺は君を幸せにすると誓えないから、君は君で自力で幸せになってくれ」
「……おまえ、わたくしをからかっているのかしら」
なんて後ろ向きで残酷な宣言だろう。どうせ今の光も、つまらない魔法に決まっている。ただちょっとメイリーを驚かせただけのまやかしだ。
レザークは取り繕いもせずに食事を続けている。
怒りでプルプル震えるメイリーは、魔女が両目に涙を浮かべながら「おまえが……」と呟いたことに気づかなかった。