4 夫となる男
魔女の言っていた通り、婚約締結から翌日にはメイリーはレザーク・ベルネの家に行かされることになった。
貴族のタウンハウスが立ち並ぶ高級住宅地から馬車で二時間。郊外の木々に囲まれた寂しい場所に、ぽつんと一軒家が建っている。周りの森は敷地ではないらしい。
「つらくなったらいつでも帰ってくるのよ、メイリー」
「大丈夫よ、お母様。ルテクス家の娘として、しっかり務めを果たすわ」
「ああ……! なんて健気なの……!」
ハンカチを片手に別れを惜しむ親子を、魔女が冷ややかな目で見つめている。馬車にちゃっかり同乗していた魔女のことは、もちろんメイリー以外には見えていない。
出迎えの使用人がいないので、メイリーは自分で自分の荷物を持つことになった。といっても、小さな手提げ鞄が一つだけだ。
大きな荷物は昨日の時点ですでに父侯爵が運びこませている。だが、「清貧でつつましいところを見せなさい」と言われていて、大したものは持ち込めなかった。
「なんだか古臭くて陰気な家ね」
「我慢しなさい」
思ったことを言っただけなのに、魔女に睨まれてしまった。
ベルネ邸は、夢の新居という言葉からは程遠い。壁にはあちこちツタが這っていて、陰鬱な空気が漂っている。
(使用人がいないから、家も荒れ放題なのでしょう。ああ、嫌になる)
メイリーはとぼとぼとエントランスに向かった。からんころんとベルを鳴らす。たっぷり数分待たされて、やっとドアが開いた。
「……どちらさま?」
「なっ……!」
この陰鬱な屋敷の家主は、それに似合いの陰気な男だった。ドアの向こうから覗くのは、生気のない目をした青白い顔だ。猫背で線が異様に細い。そんな青年から胡乱な眼差しを向けられて、メイリーのまろみを帯びた頬がたちまち怒りで赤く染まる。
「無礼者! このわたくしを知らないのというの!?」
「おやめなさいメイリー!」
「あー……もしかして、君が……ええっと、メイリー・ルテクスだっけ」
ドアが大きく開かれた。埃っぽい匂いが鼻をつく。家の中の薄暗さはエントランスからでも嫌というほど見て取れた。
「すまない。寝起きで……」
「とんだ愚か者ね。花嫁を迎える自覚がないのかしら」
だらしないシャツ姿の青年を上から下まで睨みつける。メイリーの視線に気づいたレザークは、寝ぐせのついた黒い髪を手ぐしで整えた。しかし表情に恥じらいや気まずさといった色はない。
「まあいい。入ってくれ」
「今すぐにでも帰りたいのだけれど」
「……じゃあ帰ればいいんじゃないか?」
「キィー!」
レザークの物言いに、メイリーは足をダンダンと踏み鳴らしながらきゃんきゃん喚く。レザークは無表情でメイリーから鞄をひったくった。
「知ってるよ、帰れないんだろ。事情は聞いてる。急な話なのはお互い様ってことで」
「ちょっと! 返しなさいよ!」
奥に引っ込むレザークを追って、メイリーもずかずかと家に上がり込む。
(なんて埃っぽいの! こんな家にいたら病気になってしまうわ!)
「君の部屋は、二階の空いてるところを好きに使ってくれていい。あ、一番真ん中の部屋は俺の部屋だから。勝手に入らないでくれよ」
そう言われ、メイリーはしぶしぶ二階に上がった。空いている部屋は四つで、もう一つ書斎として使われている部屋があるようだ。空っぽの四つの部屋はどれも手狭だった。
「決まったか? 君の家から届いた荷物を運ぶ手伝いぐらいはするけど」
「待って。主寝室はどこなのかしら?」
「主寝室……?」
「一番大きな寝室よ!」
「俺の部屋だけど」
「愚か者!」
キィー! とまた地団太が始まる。レザークはうるさげに眉根を寄せた。
「おまえ、これからわたくしと結婚するという自覚があるの?」
「そんなこと言われても。俺も昨日殿下に言われて、初めて結婚……婚約? を知ったんだ」
「わたくしだってそうよ。誰がおまえとなど好き好んで結婚したいと思うものですか!」
「そうだろうな」
平然と肯かれる。メイリーは調子に乗り、レザークに人差し指を突き付けた。
「わかっているならいいの。このわたくしを妻にできる栄光を噛みしめて、なんでもわたくしに尽くすべきだということも理解しているわよね?」
「そうなのか」
「そうよ!」
「愚か者ぉ! この愚か者ども!」
頭を抱えた魔女が二人の間に割って入る。と言っても、レザークに彼女の姿は見えていないが。
「メイリー! 夫を愛せと、わたくしは言ったはずよ! そのような高圧的な物言いをしてどうするの!」
「だってこの朴念仁が、ちっともわたくしを尊重してくれないんですもの!」
「尊重……?」
「こんな汚らしい家で、主寝室も整えていないだなんて!」
「なるほど、この家は汚いのか……」
レザークはぶつぶつ呟きながら周囲を見渡している。そんな彼を無視して魔女とメイリーの言い合いは続いた。
「わたくしに愛してほしければ、相応の振る舞いをしてもらわないと。そうすれば考えてやらないこともないわ」
「おまえは自分の立場がわかっているの? おまえは罰として結婚させられるのでしょう? そのような不本意な結婚を、レザークは引き受けてくれたのよ? 彼こそ何の罪も犯していないのに!」
「相応の振る舞い……?」
「わたくしと結婚できることの何が罰だというの! 本来なら泣いて喜ぶべきことでしょう!」
「感情の起伏は期待しないでもらいたいんだが」
「おまえのその傲慢さが! すべての元凶だと! わたくしは何度も言っているでしょう!」
「このわからずや!」
もはやどっちの声のほうが大きいかを決める戦いになりかけている。無論魔女の声はレザークの耳には届かないので、空っぽの屋敷に反響するのはメイリーの声だけだ。
「そろそろ静かにしてくれ」
無礼な魔女を平手打ちしようとした手は、レザークにあっさりと掴まれた。
「俺は今の家の状態に不自由はしていない。だが、君は不満があるようだ」
「ええ、そうよ。不満しかないわ!」
「なら、掃除をしよう。それから、その……主寝室? とやらを整える。それでいいだろう」
「……ふん。わかったならいいわ」
レザークの手を振り払い、メイリーは居間の埃っぽいソファに腰掛ける。座った後で、ドレスが汚れてしまわないか心配になった。
「掃除をしよう、と俺は言ったはずだが」
「? ええ。早く済ませてちょうだい」
「君は何もしないのか? 君もこれからこの家に住むのに?」
レザークはきょとんとして尋ねる。メイリーも小首をかしげた。
「掃除は使用人がすることでしょう?」
「そうなのか。だが、この家に使用人はいない」
「雇えばいいじゃない」
「今は俺達二人しかいない。人を雇うには時間がかかる。それまで家はこの状態だ」
「それならおまえが掃除をしなさいよ。そもそもおまえの家でしょう。汚れた家を放っておいたのはおまえの責任だわ」
「だから、俺は今の家の状態に不自由はしていない。このままでも問題ない。君が嫌だというから、掃除をしようと言っただけだ。君が何もする気がないなら、俺も今のままでいい」
「なんてこと!」
あくび交じりに居間を出ていくレザークを見て、メイリーは驚いて立ち上がる。レザークはそのまま二階に上がり、彼の部屋に引っ込んでしまった。
「ちょっと! 掃除はどうしたのよ!?」
「君がやるなら俺もやる。やらないならやらない。俺はまだ眠いから、このまま二度寝させてもらう」
「荷物を運ぶのを手伝うと言ったでしょう!?」
「君が自分の部屋を決めたらな」
ドア越しの応酬ではらちが明かない。そもそも、空室には家具の一つも置かれていないのだ。このままでは居間のソファで寝る羽目になる。そんなのは絶対にごめんだ。
「このっ……! わかったわよ、やればいいんでしょう、やれば! このわたくしに使用人の真似事をさせて、ただで済むと思わないことね!」
「二度寝はお預けか……」
やけくそになって言い放つと、やっとドアが開いた。だるそうにふらつくレザークは、一階の物置から掃除用具を持ってくる。
「窓ふきと床の掃き掃除、どっちがいい?」
本音を言えばどちらもごめんだ。しかしそれでは平行線になる。
屈辱を飲み込み、メイリーはほうきを指さした。柄の長いほうきを使うのなら、汚いものに直接触れることはないと思ったからだ。
──それから三十分後。
「メイリー・ルテクス。俺達は掃除を始めたはずだ」
「……そうね」
「始まる前より散らかっていないか?」
たった三十分の掃き掃除。それだけなのに、数少ない家具はひっくり返り、家具の隅にたまっていた埃は集められることなく散乱している。
無表情のまま、レザークは周囲を見渡す。メイリーは気まずげにそっぽを向いた。
「だから言ったじゃない。掃除は使用人の仕事だって」
「もしかして君、何もできないのか?」
悪びれなくそう尋ねられ、メイリーの頬が赤く染まった。掃除の仕方なんて裕福な貴族の令嬢であるメイリーには生涯必要のない知識だ。それなのに臆面なく指摘されると、まるで自分のほうが間違っているように感じられる。
「おまえ、わたくしを誰だと思っているの!?」
「メイリー・ルテクス。たくさんの人への嫌がらせが行き過ぎて、改心を求められている令嬢……だろ」
「わたくしを馬鹿にしているのね?」
「違うのか。王太子殿下からそう聞いてるけど」
アラベールの名を出されると言葉に詰まる。レザークはひっくり返ったソファをバシバシ叩いて埃を出し、メイリーを壁際に立たせた。
「俺が手本を見せるから、君はしばらくそこで見ていてくれ」
「おまえはどうして掃除ができるのにやらなかったの?」
「やる必要を感じなかったからだ」
揚げ足を取ろうと思ったのに、そっけなく返される。ぐぬぬ……と歯噛みするメイリーをよそに、レザークは手際よく居間を整えた。換気もしたので、さっきよりは格段に過ごしやすくなっている。
「どうやればいいか、わかったか? それとも貴族のお嬢様にはまだ難しい?」
「馬鹿にしないでくださるかしら!」
レザークからほうきを奪い取る。掃除なんてメイリーのやることではないが、高慢な彼女はこれ以上見くびられることが我慢ならなかった。
「いいこと、掃除が済んだら次は部屋の模様替えですからね! 大体、この家には物がなさすぎるのよ。一流の家具職人を呼んで、わたくし好みの内装に変えてあげるんだから」
「時間がかかりそうだな」
「そうなの? 注文してすぐにできあがるのではなくって?」
「設計からやるならかなり待つことになるぞ。できあがっている物を買うだけならすぐだろうが、搬送にも時間はかかる」
「このわたくしに既製品を使えと? せめて海外製の高級メーカーでなければいやよ?」
平然と言い放つメイリーの耳元で、「贅沢をするのはおやめなさい」と魔女が繰り返し囁く。呪詛のようにこびりつくその声から逃げたくて、メイリーは渋々妥協した。
「仕方ないわね。レザーク、おまえの段取りが悪いせいなのだから、家具が届くまで寝室をわたくしに明け渡しなさい。おまえはソファで寝ればいいでしょう」
「……わかった」
今度は意外なほどすんなり引き下がった。レザークは雑巾を手に、メイリーが掃いた床を拭き始める。
「それが君を尊重するということなら、応じよう。眠れるなら俺はどこでも構わないから」
「ふふん。最初からそうやって素直でいればいいのよ」
気をよくしたメイリーが、雑巾がけのために用意された水のたっぷり入ったバケツをひっくり返すまで、あと三分。