2 屈辱の婚約
「これは一体どういうことなのよ!」
怒りのあまりプルプル震えるこぶしでドレスを握り締めながら叫ぶメイリーを、王太子アラベールは冷めた目で見ている。そんな彼の腕の中にいるのは、醜く肥え太った令嬢トゥーフェだ。幸せそうにアラベールを見つめるトゥーフェの頭には、もはや家族の姿などないのだろう。
たった今メイリーの目の前で起こったのは、壮麗な王太子による求婚劇だった。
「聡明なるトゥーフェ・ルテクス嬢、どうか我が妃になってくれませんか?」
「身に余る光栄です。謹んで承ります、王太子殿下」
はにかみながら淑女の礼を取ったトゥーフェをアラベールは強く抱きしめ、一瞬の戸惑いの静寂の後で喝采が巻き起こる。祝福の空気から取り残されたのは、未来の王太子妃の親族であるはずのティノア侯爵一家……ルテクス家の面々だけだった。
たまらず金切声を上げたメイリーに、アラベールは冷ややかな声音で尋ねる。
「どうかしたのかい、メイリー嬢」
「我が姉ながら、そのような醜い者に王太子妃は務まらないかと」
「外見は妃の資質とは無関係だ。トゥーフェ嬢の心の清らかさと聡明さは、未来の国母に誰よりふさわしいと思っているよ」
「で、ですが、姉は社交が嫌いですし……」
食い下がるメイリーを、アラベールは面倒そうにあしらう。
「そうさせたのが誰なのか、私が知らないと思っているのかな」
その一言は、ティノア侯爵夫妻を青ざめさせた。ヴァーレンとエムレイは顔を見合わせるが、言葉は出てこない。
「私はトゥーフェ嬢を愛しているし、彼女も私の求婚を受け入れてくれた。国王陛下と王妃殿下の了承も得ている。私達の愛は、誰にも邪魔はさせない」
花嫁の親たるティノア侯爵夫妻にとっては寝耳に水の宣告。
つまりルテクス家には何の権限もなく、王太子の姻戚として得られるはずの影響力もないということだ。王家によって発揮されたその強権は、トゥーフェへの隠れた虐待から彼女を救い出すためのものであり、未来の王太子妃を虐待してきたルテクス家への制裁でもあった。
ルテクス家の人間は誰一人として、トゥーフェがアラベールとひそかに交流を重ねて愛を深めていったことなどまったく気づいていなかった。彼らにとってトゥーフェは透明な人形だったからだ。
興味もなければ情もなく、どこで何をしていようが気にしない。おとなしく殴られて踏まれていればいい、ただそうとしか思っていなかったのだ。だからこの逆転劇はにわかには受け入れがたく、けれど変えようのない現実としてそこにあった。
納得できずにぎゃあぎゃあと喚き散らしそうになったメイリーは、両親に引きずられる形で舞踏会からの帰還を余儀なくされた。これ以上恥をかきたくないというのが両親の本音だったからだ。
しかしそれで納得できるメイリーではない。王太子妃という、この国の令嬢なら誰もが憧れる地位に、見下していた異母姉がつく──それがとにかく許しがたいことだったからだ。
「本当に信じられないわ。殿下は一体何を考えていらっしゃるのかしら。お姉様なんかより、わたくしのほうが王太子妃にふさわしいのに!」
「ええ、ええ。そうよねメイリー。きっとトゥーフェは殿下に魅了の魔法でもかけたに違いないわ。そうでなければおかしいもの」
タウンハウスへの帰路につく馬車の中で、メイリーはずっと文句を言っていた。侯爵夫人エムレイは震えながら、ぷりぷりと怒るメイリーを優しく抱きしめる。
「それが露呈したら、連座で我が家も罰されるかもしれないわ! ねえあなた、すぐ王家に異議を申し立てましょう。代わりにメイリーを王太子妃にするようお願いするのよ」
「ううむ……」
しかし侯爵ヴァーレンは渋い顔だ。まだ十二歳の幼いフェイザーは唇をキュッと引き結び、不安そうに両親と姉の顔色を窺っている。
「トゥーフェに魔法は使えない。しかし万が一ということもあるから、明日王家に確認しよう」
魔法とは、選ばれた血筋に才能を持って生まれた人間しか操ることのできない力だ。時にはこの世の理さえ捻じ曲げ得るその特別な能力は、ルテクス家にも、侯爵の前妻の家系にも宿っていなかった。
「お前達、今日はもう休みなさい。想定外のことが起きて疲れただろう?」
屋敷に着いてすぐ、ヴァーレンは妻子に優しく声をかけた。出迎えの使用人達はトゥーフェがいないことに怪訝そうな顔を見せるも、何も言わずに主人一家の外套を預かって寝室に先導する。
メイドが持ってきたハーブティーを無理やり喉奥に流し込み、メイリーはベッドに身体を横たえた。けれど苛立ちのせいでその日は中々眠れなかった。
翌朝、父侯爵はせかせかと王宮に参じた。やきもきしながら父の帰りを待つ。彼が帰ってきたのは夜のとばりが下りたころだ。
ヴァーレンは帰宅してすぐにメイリーを書斎に呼んだ。メイリーはいそいそと書斎に向かう。「昨日のあれは間違いで、王太子妃はお前に決まったよ」聞きたいのはその一言だった。
「メイリー。お前の婚約が決まった」
「本当ですか、お父様!」
メイリーは歓声を上げてぱっと両手を胸の前で組む。るんるんと踊り出したい気分だ。だが、一気にのぼせ上った彼女の頭は、父の次の一言で思考停止してしまった。
「相手はリオス男爵、レザーク・ベルネ卿だ」
「……え?」
どなた? とぽつりと言葉が落ちる。ヴァーレンは目を泳がせた。
「王太子殿下の側近で、優秀な宮廷魔術師だ。年はお前の四つ上の二十歳。もとは平民だが、バルキュイ伯爵と養子縁組をしていることもあって後見も十分だ。その……いい相手、だぞ」
「ど……どういうことですか!? どうしてわたくしが、平民崩れと結婚などしなければならないの!?」
愛娘の悲鳴じみた声に、ヴァーレンは深くため息をつく。
「その……王妃殿下から、お前の素行が悪い、と注意を受けてしまってな。様々な令嬢達からそういう声が届いている、と……」
「心当たりがございませんわ。わたくしの美貌に嫉妬した愚か者どもの遠吠えではなくって?」
メイリーはこてんと首をかしげる。彼女には本当に心当たりがなかった。だってお茶会で特定の誰かを晒し上げて笑いものにするのも、社交の場で意匠の被ったドレスを着た令嬢のドレスにわざと飲み物をこぼすのも、メイリーの中では日常の出来事だったからだ。相手のほうが悪いのだから、今さらそれを咎められる筋合いはない。
「と、とにかく、トゥーフェが王太子妃になるにあたり、今のままでは好ましくないそうでな。ルテクス家には今一度、王家への忠誠心を見せてほしいとおっしゃられたのだ」
「お姉様が王太子妃になろうだなどということ自体がおこがましいのに……」
可愛らしく頬を膨らませるメイリーだが、今日ばかりはヴァーレンも引き下がってくれなかった。いつも愛娘がどんなワガママを言おうと許容する父は、今日ばかりはルテクス家の当主として重々しく首を横に振る。
「わかってくれ。王太子妃の生家として、ルテクス家という存在そのものは必要であると国王陛下は仰せだった。しかし事の次第によっては、トゥーフェを他家の養女として迎え入れることも辞さないとまでおっしゃられてな。そうなれば我が家は宮廷中の笑いものだ」
「お姉様にそこまでするほどの価値があるというのですか!?」
「アラベール殿下の入れ込みは相当のものらしい。どうやら、何かの折で偶然出会ったのをきっかけに、ひそかに文通していたそうだ」
(まさかあの愚鈍なお姉様が、そんなことをしていたなんて! 一体どんな卑怯な手段で殿下を誘惑したのかしら)
怒りと戸惑いで茫然とするメイリーに、ヴァーレンは深刻な声色で告げた。
「レザーク卿はアラベール殿下の忠臣だ。彼のもとにお前を輿入れさせることで恭順と改心の意を示したいと、私から王家に懇願した。……これも我が家のためだ。わかってくれるな、メイリー」
「貴族の娘として生まれた以上、自由な恋愛はできないと理解しておりました」
メイリーの紫水晶の瞳に涙が光る。いけしゃあしゃあとしらじらしいことこのうえないが、メイリーはいたって本気だった。
「ですが……まさかよりにもよって、お姉様より格下の相手に嫁がされて、お姉様に臣従を誓うことになるだなんて……」
「すまない……」
発言自体はどこまでも傲慢で、反省のはの字もない。だが、愛娘の迫真の悲劇の姫君ぶりに、うっかりヴァーレンも飲み込まれてしまう。愚かな親子はどこまでも愚かだった。
「お前の反省をうながすために、半年の婚約期間はレザーク卿のもとで過ごすようにと国王陛下の命が下った。少しの間おとなしくしていれば、この禍根は水に流せるだろう。今は耐えてくれ」
「……かしこまりました」
メイリーは全然納得していないが、しおらしく淑女の礼を執る。今の彼女は、望まない婚礼を押しつけられた悲劇の花嫁という境遇にひたることで頭がいっぱいだった。
(わたくしはこんなに美しいのに、世界で一番可哀想だわ……。元平民だなんてきっと野蛮な男に決まっているし、そんな男のもとに罰として嫁がされるだなんて、一体どんな目に遭わされてしまうのかしら……)
身に覚えのない罪は悔い改められない。あくまでも自分は冤罪の被害者だと思い込んだまま、メイリーは涙ながらに私室へと戻った。