19 やり直しデート
結局レザークに風邪は感染らなかったが、メイリーは二日と経たずに回復できた。
メイリーが臥せっている間、表庭の薔薇はレザークとシラが面倒を見ていてくれたので、一輪たりともしおれることなく美しく咲き誇っている。
見よう見まねで薔薇の手入れをし、レースを編んで刺繍をし、ちょっとした気まぐれでシラに料理を習う。魔女と喧嘩することもほとんどなくなり、穏やかな日々が過ぎていった。
あれから劇場には足を運んでいない。行く必要はもうなかった。どこかに逃げ出す理由もないぐらい、毎日が充実しているからだ。
相変わらず社交界では、ひそひそくすくす嘲笑の的になっているのだろうけど……この静かな屋敷にまでは、そんな悪意は届かない。
「レザーク、おまえ、今日は休みでしょう? 午後から森にピクニックに行くわよ!」
朝食を食べながら、メイリーは高らかに宣言した。レザークが断るとは露ほども思っていない。
「いいんじゃないか。天気もいいし」
案の定、レザークはあっさり肯いた。
ピクニックは貴族に人気の行楽だが、ベルネ邸の屋敷の周囲の森でピクニックに興じる貴族を見かけたことはなかった。思った通り、今日も森はいつも通りの静けさを保っている。
丸めたラグを背負うレザークが持つバスケットの中には、二人分のティーセットと、それから焼き立てのアップルパイ。メイリーが焼いたものだ。
あの屈辱の泥まみれアップルパイ事件から月日が経つこと一か月。もうまずいだなんて言わせない。
盛夏の気配を含んだ風がメイリーのスカートを揺らす。侯爵家で暮らしていたころの外出着とは比べ物にもならない地味な装いにもだいぶ慣れてきた。
本当はきらびやかなドレスのほうが好きだけれど、こういう格好も悪くない。だって、このスカートの裾を飾るレースはメイリーの手作りなのだから。
「このあたりでいいわ。ラグを敷いてちょうだい」
「はいはい」
メイリーは涼しげな川のほとりで足を止めた。川のせせらぎが耳に心地いい。
レザークがラグを敷き、お茶とパイの支度をする。バスケットのクロスを外せば、てらてら輝くぷっくりしたパイとご対面だ。
「ふふん。特別に、おまえにパイを切り分ける栄誉と、最初の一口を味わう権利を与えてやるわ!」
「わかった」
レザークは真剣な面持ちでパイにナイフをあてがう。
「違う! こういう時は、おまえの分だけ大きく切るの!」
「難しいな。……こうか?」
「そう、その調子よ!」
なんとかパイが切り分けられた。ざっくり大きく切られたりんごと、じゅわっと沁みだすカスタードクリーム。メイリーがいきなりピクニックを提案したのは、昨日の練習でやっとシラお墨付きのアップルパイが焼けたからだった。
レザークがアップルパイを口に運ぶのを、ドキドキしながら見つめる。
「うん、美味しい」
「よかっ……こほん。当然よ、当然。だって、このわたくしが手ずから焼いてあげたのだから」
安堵の声を咳払いでごまかして、メイリーもアップルパイを食べてレザークの淹れたお茶を飲む。
最近のベルネ邸の食卓では、裏庭のハーブを煮出した薬草茶ではなくメイリーのお気に入りの銘柄の紅茶が並ぶことも多くなった。今日もその紅茶だ。とはいえ、あの薬草茶もなんだかんだで嫌いではない。
「そういえば、秋から君の弟が遠方の寄宿学校に入学することになった。当分会えなくなるだろうから、一度実家に顔を出してくれば?」
厳しい校則のもとで紳士を輩出することで有名なその寄宿学校にフェイザーが通うことになったのは、王太子の要請らしい。
きっと、侯爵夫妻の手の届く場所にいてはフェイザーがまともに育たないと思ったに違いない。王太子……あるいはトゥーフェの心配は、メイリーの目から見ても的中しているように思えた。
「……いいえ。フェイザーに手紙を出すだけでいいわ。今はあまり、お父様とお母様には会いたくないもの」
うかつに両親に会えば、引きずり戻されそうな気がする。甘やかされるだけ甘やかされて増長しきった過去の自分に。もうあの二人の影響は受けないと断言できるほど、メイリーは強くなかった。
「手紙といえば、王太子妃殿下が君と文通を始めたいって。手紙なら、直接言えないことも言えるかもしれないそうだ」
「お姉様と文通ですって? どんな恨み言を聞かされるのかしら」
メイリーは顔をしかめるが、拒否はしなかった。トゥーフェの傷と向き合うことも、きっとメイリーの責任だからだ。
(それとも……まさかお姉様ったら、わたくしと普通の姉妹みたいになりたいと思ってくれているのかしら。お姉様と仲良くなれるなんて、想像もできないけれど……)
木漏れ日を反射してきらめく澄んだ水面を見つめながら、メイリーはトゥーフェの姿を脳裏に思い描いた。
愚鈍な不細工だと馬鹿にしていた異母姉。本当に愚昧で醜悪なのは、自分のほうだった。
逆境の中でも忍耐強く耐え忍び、怒りと憎しみで目を曇らせることもなかったトゥーフェを、アラベールが見初めたのも当然だろう。
目に見えてわかりやすいものではなくとも、それは紛れもなくトゥーフェの強さなのだから。
「王室に出しても恥ずかしくない便箋がほしいわ。それに再来週の、国王陛下のお誕生日パーティーに着ていくドレスとアクセサリーも」
メイリーの宝石箱の中には、たった一つのアクセサリーしかない。レザークと初めてのデートで買ってもらった、紫の薔薇のイヤリングだ。
それ以外はみんな実家に置いてきてしまったし、トゥーフェから奪ったものも返却済みだった。今はまだ実家に帰る気はないが、いずれは残りを引き取りにいくだろう。
だが、それらを宝石箱に収める気にはなれなかった。メイリー・ルテクスの虚栄の象徴であって、メイリー・ベルネには必要のないものに思えたからだ。
いっそ全部換金して、何も関係ない孤児院や修道院にでもぱーっと寄付してやったほうが清々するかもしれない。
「明日、街で買い物に行きましょ? ガーネットの髪飾りとネックレスがいいわ」
「わかった」
おまえの目の色の宝石を纏ってあげる、と遠まわしに言っているのに、レザークは全然気づいていないらしい。メイリーはむくれながらレザークにしなだれかかった。
「おまえはわたくしの婚約者としてわたくしをエスコートするのだから、おまえにもふさわしい恰好をしてもらわないと困るわ。いいこと、アメジストのタイピンとカフスは絶対に必要よ!」
「そうなのか。俺はそういうのには疎いから、君に任せるよ」
ほっぺをぐにぐに引っ張って脇腹をぐりぐりつつき回しても、レザークは気にせずアップルパイを頬張っている。もっとリアクションしたほうがいい。
「ふん! つまらない男ね!」
メイリーは捨て台詞を吐き、レザークの膝の上にごろんと転がった。
「こぼれたパイ生地が落ちてくるぞ。君がそこにいたら食べられないじゃないか」
「わたくしよりアップルパイを優先する愚か者への罰よ!」
「美味しいから仕方ないだろ」
メイリーは何気なくレザークを見上げ、そして言葉を失った。
「どうかしたか?」
「おまえ……おまえ、今! 笑っていたわよ!」
「?」
見間違い、ではない。ほんのわずかな変化ではあるが、レザークの口元が緩み、優しげに目を細めていたのだ。レザーク自身はそれに気づいていないようだったが。
「もう一回見せなさい!」
「見せろって言われても……」
レザークは無理に口角を持ち上げて、大真面目に変な顔を披露する。笑うのはメイリーの番だった。
違う違うと言いながら、ぷっと吹き出すメイリー。レザークはまた笑顔の練習をしている。そんな二人を、午後のうららかな陽射しが照らしていた。




