17 冷たい雨の日
朝から冷たい雨が降る、肌寒い一日だった。
「ねえシラ、平民は普段、どんなものをプレゼントとして贈るの?」
昨夜のサガンの笑みが頭に焼きついて離れない。
「なるべくお金がかからなくて、刺繍以外のものがいいわ」
刺繍を候補から外したのは、贈り主がメイリーだと他人に知られたくないからだ。ハンカチはたくさん配って回っているし、そこからプレゼントをメイリーの作品だと見抜ける者がいないとも限らない。
「そうですねぇ。親しい仲なら、手料理はいかがでしょうか」
シラは多分、メイリーがレザークへのプレゼントを考えようとしていると思っているのだろう。心なしか嬉しそうだ。
「手料理……そういえば、おまえのアップルパイは嫌いではなくってよ」
「じゃあ、作り方をお教えしますから、手作りのアップルパイを贈られてはどうです? きっと喜ばれますよ!」
シラに押し切られ、メイリーは初めて台所に立った。
やっとシラに及第点をもらえる程度には食べられる味のパイができた時、外はすっかり暗くなっていた。
とっくに昼公演は終わっている。夜公演が始まるにはまだ早い時間だ。
メイリーはシラをいつもより早めに帰らせて辻馬車を呼び、焼きたてのアップルパイが入ったバスケットを持っていそいそと街に向かった。
「ちょっとメイリー、どういうこと? そのパイは、レザークのために焼いたのではないの?」
馬車の中で魔女が怪訝そうな顔をしている。バスケットを抱きしめたメイリーは答えずに、窓を叩く雨音に鼓動の音を重ね合わせた。
劇場に到着し、メイリーはサガンに教えられた道を通って裏口に行く。通用口を兼ねているそこには喫煙所もあり、サガンと劇団員の男性達がタバコを吸っているのが見えた。
「サ──」
「最近どうなんスか、あの貴族のお嬢様。なんでしたっけ、メイリー? とかいう」
「コロッとなびいたが、財布のひもが固いのなんのって。ま、もう少し無駄話に付き合ってやりゃあ、貢ぎ始めそうな気はするけどな」
「さすがサガンさん!」
男達の下卑た笑い声が響く。
「いいかお前ら、役者は演じてナンボだ。いつだって気は抜くな。俺達が立ってりゃ、そこはどこだろうと舞台の上なんだよ。理想を演じてやって、バカなガキに夢見せてやるのも俺達の仕事さ」
サガンのゆがんだ口元から歯が見える。けれどもうまばゆさはなかった。
「騙してるってことじゃないっスか。ひっでー!」
メイリーが手にしていた傘が手から滑り落ちる。その音はゲラゲラと嗤う声にかき消された。
のぼせ上ったメイリーの頭が一瞬にして冷えていく。頬を伝うのは雨の滴だ。メイリーは踵を返し、わき目もふらずに逃げ出した。
びしょ濡れのメイリーを乗せてくれる馬車はない。傘をなくしてとぼとぼと歩く。
「メイリー? ここで何をしてるんだ?」
どれだけ歩いただろう。頭上から雨音とともに声が降ってきた。洟をすすりながら顔を上げる。箒に乗ったレザークがいた。
メイリーの顔を見たレザークは、箒を地面ぎりぎりまで降下させ、着ていた雨除けの外套をばさりとメイリーに被せた。そのまま彼はメイリーが持っていたバスケットを取り上げて箒の柄にひっかける。
「帰ろう。乗って」
「……」
疲れ果ててすっかり気力をなくしたメイリーはおとなしく従う。箒の柄に横向きに腰かけて、レザークの細い腰に腕を回した。
すぐにベルネ邸が見えてきた。軽やかに箒から降りたレザークは、メイリーに手を貸して箒から降ろし、光魔法で表庭を一気に照らす。そして、柄にひっかけたバスケットを取ろうとした。
「そんなもの……!」
とっさにメイリーは彼の手からバスケットをはたき落とす。
「メイリー?」
困惑するレザークに構わず、メイリーはバスケットを何度も何度も踏みつけた。クロスで覆っていたアップルパイが露わになり、ぐしゃぐしゃになっていく。
「うわぁぁぁん!」
「落ち着け。とりあえず中に入ろう」
レザークに取り押さえられて玄関まで引きずられる。メイリーを家の中に入れたレザークは、表庭にポツンと残されたバスケットを回収して改めて家に戻った。
「パイ、か?」
雨に濡れて泥で汚れ、踏み荒らされて台無しになったアップルパイを、レザークはためらわずに手ですくって口に運ぶ。
「うん、まずいな」
「じゃあ捨てなさいよ!」
「食べ物を粗末にするのはいけないことだ」
レザークは泥を取り除いたパイをもぐもぐと口に運びながら洗濯室に消えていき、シラが洗って乾かしておいたふかふかのタオルを二枚持ってきた。そのうちの一枚をメイリーの頭に被せる。
「着替えてきたら? 全身びしょ濡れだぞ」
「……ッ」
メイリーはタオルを受け止め、目も頬も真っ赤にしながら二階に駆け上がった。
「……レザーク」
「ん?」
シラを早めに返したから、今日の夕飯は何も用意されていない。着替えを終えたメイリーが明かりの灯る食堂に顔を出すと、潰れたパイと葉っぱ丸ごとサラダを頬張るレザークがいた。干し肉も置いてある。
「そのパイは、おまえに食べさせるために焼いたのではないわ」
「そうなのか。勝手に食べて悪かった。もういらないのかと思ったから、つい」
「ええ、いらないわよ。まずいでしょ?」
メイリーは自嘲気味に笑う。体中が熱くて、けれど心の中は寒かった。
「そのパイはね、おまえではない男に贈るために焼いたの」
「君が? 自分で?」
「そうよ! だけどその男は、わたくしのことなんてなんとも思っていなかった!」
サガンの戯言なんて、本気にしていたわけではない。わけではない、けれど。
甘い逃げ道を作ってくれた彼の言葉を、心地いいと思ってしまったのは事実だった。
「嗤いなさいよ、馬鹿な小娘だって! この期に及んでわたくしはまだ、おまえ以外の男にすがろうとした! ここから逃げたいと思ったのよ!」
「そうか」
涙ながらに叫んでも、レザークは興味なさげにティーカップにお茶を注ぐだけだった。それはメイリーのティーカップだ。
「とりあえず、座ったらどうだ。温かいお茶も淹れてある。食事にしよう」
「わたくしは真面目に話しているの! なのに、なのに、なんでおまえは怒らないのよ!」
「怒られるようなことをした自覚があるのか?」
不思議そうに尋ねられ、メイリーはレザークをキッと睨む。
「そうね、おまえはそういう男だわ! おまえがそのざまだから、わたくしは……ッ!」
他責思考を捨てられないメイリーは、一方的な言いがかりで食って掛かろうとする。
だが、すんでのところではっと思いとどまった。メイリーを見るレザークの目が、あまりにもまっすぐだったからだ。メイリーはうつむき、涙がこぼれないようにぎゅっと目を閉じた。
「君が誰に、どういう意図でパイを焼いたのか……君も色々言いたいことはあると思う。でも、事実だけ並べるなら、それは俺にとっては不快なことだ」
「……そう。おまえに不快さを味わわせることは、できたのね」
正直、意外だった。メイリーのしたことでレザークの心を動かせるなんて。
「君は俺の妻になる。俺も夫になる努力はするから、君も妻になる努力をするべきじゃないか?」
いつかも言われたその言葉。そういえば、そう言われた次の日に劇場に駆け込んだんだっけ。今度は順番が逆だ。
「メイリー・ルテクス。君が認めたくない気持ちはわかるが、俺達は一応婚約してるんだ」
レザークが何かを言っている。けれどまるで耳を何かに覆われてしまったかのように、その声はうまく聞こえない。
「社会規範に反するような振る舞いは、君の評判をさらに傷つけ──メイリー?」
足元がぐにゃりと沈むような感覚。メイリーはふらりとよろめき、そのまま床に倒れ込んだ。