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1 性悪令嬢メイリーの日常

「愚か者!」


 鏡台の前に座った少女の一喝が寝室に響く。彼女の気高くも恐ろしい紫の双眸がめつけるのは、鏡に映った若いメイドだ。


「も、申し訳ございません、メイリーお嬢様!」


 つい先ほどまで少女の髪を梳いていたメイドは、顔を真っ青にしながら何度も何度も頭を下げる。だが、メイリーの怒りが静まることはなかった。


「おまえは自分が何をしたのかわかっているの? メイドの分際で、このわたくしの髪を乱暴に扱うだなんて」

「どうかお許しを……!」


 わななくメイドが握る猪毛のヘアブラシには、白銀の髪の毛が数本絡みついていた。メイリーの午後の召し替えを手伝っていた他のメイド達は、麗しい暴君を刺激しないよう顔を伏せる。明日は我が身だと心の中で呟く使用人に、メイリーへの忠誠はない。あるのは恐怖心だけだ。


「もういいわ。下がりなさい」

「っ、はい!」


 ぞんざいに追い払われ、メイドはそそくさと壁際に下がった。そんなメイドに一瞥もくれず、メイリーは冷淡に言い放った。


「二度と顔を見せないで。今すぐ荷物をまとめてこの家から出ておいき」

「そんな……!」


 メイドは救いを求めるように周囲を見回したが、彼女に手が差し伸べられることはなかった。他のメイド達は、彼女のことなどもう見えていないかのように着替えの支度を再開する。そこにクビを宣告された少女が入り込む余地はどこにもなかった。存在を抹消された少女がすごすごと部屋を出ていくのに、そう時間はかからない。


 彼女はもしかしたら女中頭に助けを求めるかもしれないし、そのことが屋敷の女主人の耳に入るかもしれない。

 だが、それで事態が好転するかと言えばそううまくはいかないだろう。溺愛する愛娘の機嫌を損ねた元使用人に対して他家への紹介状をしたためてあげるほど、ティノア侯爵夫人エムレイ・ルテクスの心は広くない。名無しの少女もそれは理解している。ルテクス家の次女、メイリーの不興を買ったら終わりだと。


 深いため息をついてとぼとぼと廊下を歩く元メイドがどうなろうと、メイリーには何の関係もない。

 案の定、メイリーは一人の少女の将来を潰したことなどすぐに忘れてしまった。彼女の思考を占めるのは、目の前に並ぶ美しい宝飾品と、今日のお茶の時間のことだけだ。


(ショコラのケーキはあるかしら。楽しみだわ! だけど、食べ過ぎるとお姉様みたいになってしまうから、気をつけないと)


 脳裏によぎった愚鈍な異母姉あねを嘲笑う。二歳年上の姉トゥーフェは全身にむちむちと肉がついていて、ちょっと転ばせたらそのまま地面を転がっていってしまいそうだった。

 実際、弟のフェイザーはしょっちゅうトゥーフェを突き飛ばしたり、足をわざと引っかけたりしている。そのたびにトゥーフェは無様に床を転がるものだから、メイリーもクスクス嗤っていた。


 トゥーフェはルテクス家の嫌われ者だ。

 トゥーフェの母親は父の前妻だが、彼女は下男と浮気した挙句に出奔してしまったという。その苦い裏切りのせいで、ティノア侯爵ヴァーレン・ルテクスは母親似のトゥーフェを邪険に扱った。もしもトゥーフェの瞳の色が自分そっくりの淡いオレンジでなかったら、彼はきっとトゥーフェを妻の不義の子として追い出していただろう。


 その後ティノア侯爵は二番目の妻エムレイを娶った。二人の間に生まれたのが次女のメイリーと、長男フェイザーだ。

 義娘に対する夫の冷淡さも手伝って、エムレイはトゥーフェを実子達と同等には扱わなかった。とはいえエムレイも名のある家に生まれた貴婦人だから、トゥーフェに対して単純に暴力を振るうということはない。彼女はトゥーフェに、強引に食べ物を与え続けたのだ。


 一見満たされているように見えるのだから、その虐待は他人に露呈しない。


 トゥーフェの体型はひどく崩れて、忌々しい前妻の面影も消えていく。


 家族の中で一人だけ地味な身なりをしていても、醜いから身の程を弁えているのだろうとしか思われない。


 礼節や教養などの教育はきちんと施したこともあり、トゥーフェへの冷遇が他家に知られることはなかった。エムレイの目論見通りだ。


 前侯爵夫人の実家が、自分達の娘がティノア侯爵を裏切ったという事実のせいで強く出られなかったのも大きいだろう。

 母方の祖父母にとっても、残された孫は厄介な置き土産だったのだ。だから彼らは孫娘と深くかかわろうとしなかったし、助けようともしなかった。



 エムレイの嫉妬によって醜い姿に変えられたトゥーフェを除けば、ルテクス家の人間はみな美しい。家長たるティノア侯爵ヴァーランと夫人エムレイ、そしてその娘のメイリーと、長男のフェイザー。絵に描いたようにきらびやかな、完璧な名家だ。

 調和を乱す異母姉は虐げていいのだと、メイリーは信じて疑っていなかった。異物になるほうが悪いのだから。その思い込みを裏づけるように、両親も弟もトゥーフェには冷たかった。


 トゥーフェが持っていたチェーンの細いネックレスや繊細な意匠の指輪は、「お姉様では身に着けられないのだからいいでしょう?」とメイリーがすべて奪った。


 細身のメイリーのために仕立てられた可愛いドレスをこれ見よがしに見せびらかしては「お姉様もこういうドレスを仕立てたらよろしいのに」とからかうのも、ドレスを新調した時のお決まりの儀式だ。こと自分への悪口に対しては何も言い返さない異母姉は、ちょっとした鬱憤のはけ口にちょうどよかった。


 そのいびつな家族のありようが、メイリーの選民思想の源流だ。

 自分より劣っているとみなしたものは、何であろうと踏みにじって構わない。美しくてたっとい血筋の者こそが正しくて、そうでないものは間違っている。正しければ何をしてもいい──だからメイリーは、人を人とも思わないような言動を平気でできる。




 ある日、ルテクス家に舞踏会の招待状が届いた。差出人はこの国の王家だ。

 王太子アラベールの十八歳の誕生日を祝うために国中の名家に届けられたそれは、年頃の令嬢達とその親にとっては希望の象徴のように見えた。三人の姉王女達が全員他国に嫁いでいたので、外交と内政のバランスを考えると王太子妃は国内の有力貴族の令嬢から選ばれるのではないかともっぱらの噂だったからだ。


「きっといよいよ王太子妃をお選びになるのよ! ですから、とびきりのおしゃれをしないと。ねえメイリー」

「ええ、お母様!」


 まだ開催日まで一か月もあるというのに、メイリーは毎日浮かれっぱなしだ。母と一緒にああでもないこうでもないとドレスや宝石を買いあさり、アラベールと踊る夢を見る。

 アラベールは美しい。あの宝石のようにまばゆい緑の瞳に映してもらえただけで、感激のあまり気を失う令嬢達が続出するぐらいだ。メイリーはそこまでアラベールにのぼせあがってはいなかったが、それでも彼の気品に満ちた美貌と、王族らしい堂々たる佇まいはやはり好ましく思えた。


(わたくしの夫となる方なら、やっぱりアラベール殿下ぐらいの方でないと)


 髪と肌と爪の手入れも、いつも以上に時間をかけてじっくり行った。ただでさえ可憐なメイリーの容貌はますます輝きを放っていくものだから、彼女の増長は留まるところを知らない。

 けれど父も母も弟も、そんなメイリーを止めるどころか微笑ましげに見守っていた。


「メイリーならきっと王太子妃に選ばれるだろう」

「当然だよ、父上。姉上は世界一美しいんだから!」


 女王のごとく振る舞うメイリーと、そんな彼女をちやほやする両親と弟。ルテクス家では日常の光景だ。その輪にトゥーフェが加わっていないことも、誰一人としてトゥーフェの存在を気に留めないことも。


 ルテクス家に届いた招待状は、ティノア侯爵夫妻とその子女を招くためのものだ。

 だが、侯爵夫妻は嫡男フェイザーと次女メイリーだけを連れていくつもりだった。内輪のささやかな催しの場であればともかく、王太子を祝う場に不器量な長女トゥーフェを連れていけばルテクス家の恥になると考えていたからだ。


「お姉様だけお留守番だなんて可哀想だわ。お姉様にも一緒に来ていただきましょうよ」


 メイリーが両親にそう頼んだのは、何もトゥーフェを哀れんだからではない。醜く肥えた姉は、自分の引き立て役にちょうどいいからだ。

 社交界に赴く時、メイリーは決まって両親にトゥーフェの同行をねだった。だって、姉妹を比べて容赦なく優劣をつける人々の視線は、メイリーの心を大いに満たしてくれるのだから。


「ねえ、いいでしょう、お姉様。お城に行けば、珍しい食べ物があるかもしれないわよ」


 その愉悦を味わうためなら、トゥーフェの心情などいくらでも踏みにじれる。トゥーフェの気持ちなんて、メイリーは考えたことがなかった。


「……そうね」


 だから、いつもならうつむいたトゥーフェが眉根を寄せて小さく拒否の言葉を口にするはずなのに、今回に限ってその流れにならなかった意味など、メイリーにはわからない。渋る姉を説得する手間が省けたと喜ぶだけだ。


 異母姉の態度がいつもと違う理由なんて、この時のメイリー達は知るよしもなかった。

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