白猫様
白猫様という人物がいる。
白装束に身を包む小柄の女性で、顔には名の通り猫の仮面をかぶっておりその素顔を知るものはいない。
かの暗黒街のボス、白薔薇と対になる存在で、テミスの街で唯一白薔薇の下につかない裏社会の人間。
自らを「白猫様」と称し、白薔薇とは違い仲間を作らず、たった一人で金稼ぎに無心する守銭奴。
彼女の本職は情報屋。
テミスの街の中の出来事で彼女が知らないことはない。
金さえ払えばどんな情報でも迅速に、そして詳細に調べ尽くす聞き耳を持つ。
彼女の影響力はかの白薔薇でさえ無視できず、白薔薇含め誰もが彼女と敵対することを恐れるという____
____まあ、俺のことなんだけど。
はいどうもこんにちは俺だよ。
勇者パーティから追放された格闘家のハルだよ。
先述の通り俺はテミスの街で情報屋をやっている。
なんでそんなことしてるかって?
儲かるからさ。
案外人間というのは情報のために金を惜しみなく払うもので、俺はその情報を手に入れる術があった。
そう、眷属を生み出す固有魔術である。
虫、鳥、獣、あらゆる「生き物」は俺の手から生み出すことが可能であり、その「生き物」は自律的思考を持って街を歩き回る。
眷属の五感は俺にフィードバックされるため、俺本体が椅子に座ってるだけでももう情報が集まる集まる。
隣の奥さんが使ってる歯磨き粉のメーカーから街を治める貴族様の本日のおやつまで、どんな視覚情報も音波も匂いも、すべてが手に取るように知ることができる。
それだけ膨大な量の鳥、虫、獣を、俺はこのテミスの街に放っているのだ。
そして俺は、情報屋だけではなく汚れ仕事も請け負える万能な人間。
「〇〇を殺してくれ」と頼まれれば殺す、「〇〇を盗んでくれ」と言われれば盗む。
勿論、依頼人からそれ相応の金は頂くが。
冒険者として培ってきた身体能力と依頼の処理方法のノウハウを活かして、裏社会でなんやかんやでやって行けている。
で、なんでこんなことをしているかというと、冒険稼業だけではトーヤとルカの学費が稼げないからだ。
勿論冒険者としても頑張ってる。
頑張っているがしかし、やはりそれだけでは足りないのだ。
元々、冒険者の収入は運にかなり大きく左右される。
たまたま貴重な薬草を見つけて大儲けできた、とか、なんとか偶然ランクの高い魔物を倒せたとか、冒険者の収入にはそういった運要素が強く絡みつく。
故に金が稼げないときは本当に何を頑張っても稼げないし、努力を重ねても報われないことも多い。
そんなギャンブルな要素が今なお多くの若人を冒険へと駆り立てるわけだが、愛すべき家族の学費を負担する者としてはギャンブル要素は御免被りたいものだ。
だから俺は冒険者としては基本薬草を取りまくる薬草ハンターだし、魔物の討伐は下調べをしっかりして不足の事態というものが無いように下調べは念入りにする。
薬草取りは良い。
魔物討伐に比べれば時間対効果は少ないものの、収入がとても安定する。
そしてそれ以上に、情報屋は良い。
やりようによっては大儲けできるし、定期的に利用してくれる顧客もいるから安定して金を稼げる。
その経過で他人の命や生活を脅かすことも多々あるが、そこは仕方ないと割り切っている。
他人の命≪弟妹の学費、だ。
閑話休題。
だから俺は裏社会に身を移し、「白猫様」を自称して情報屋として働いているのだ。
で、今、迷惑客に困っている。
白猫の名の通り真っ白な服に身を包み、ある廃墟で情報を売りさばいていると、時々、変なお客様が来るのだ。
「…………ですから、私は情報屋であって痴情のもつれを調べる探偵ではないのですが…………」
「お金を払えば良いんでしょう? やって頂戴な」
「いえ、あの、御婦人、そういうのは私じゃなく探偵に頼んだほうが安いですよ」
「頼んだわよぉ。でも、皆口を揃えて『旦那さんは清廉潔白です』って言うばかり。わたしゃね、旦那が浮気したっていう、証拠がほしいのよっ!」
「はぁ…………」
だいぶ…………依頼の毛色が違う御婦人だ。
上等そうな服を着て、日が暮れているのにも関わらず傘をついて現れた御婦人は、まさかの浮気調査を依頼してきた。
見たところ五十代程だろうか、ずんぐりむっくりしたボディでどうやって旦那さんのハートを射止めたのか気になるところだ。
若い頃は美人だったのだろうか。
今は、何と言うか、見る影もないな。
「だいたい探偵って軽薄なのよねぇ…………あんただって、猫の仮面なんか被っちゃって。ホント、探偵って軽薄ねぇ」
「いや私は探偵じゃないんですけど…………」
「同じようなもんでしょう」
「はぁ…………」
何て言うんだろうか、この、近所の厄介なオバチャン感。
一度話し始めると止まらないというか、聞く耳持たずと言うか、うん。
辟易する。
疲れる。
つい数時間前にフォレストベアとか言うA級のモンスターと戦って、今度はモンスター級に面倒なお客さんと戦わなければならないとは…………。
「それで? どれくらいの金額になるのかしら。家の使用人から聞いたけど、かなり安いんですってね?」
「使用人って、いったい誰ですかそれ…………私のところは通常の情報屋より高いですよ」
「あら、そうなのぉ。まあ、どちらにせよお金は沢山持ってきてるから安心していいわよぉ」
「はぁ…………」
今だけは彼女の家の使用人に苦言を呈したい。
どうしてこの御婦人に俺という情報屋を教えてしまったのか。
どうして情報屋は浮気調査をするような商売ではないと教えてやらなかったのか。
そもそも他人の家のドロドロとか関わりたくない見たくもない。
そんなの昼ドラだけで十分だ…………。
「あのぉ、何度も言ってますが、情報屋は探偵じゃないんですよ。浮気調査は探偵の仕事で、私の仕事はもっとこう、何と言うか、ね。違うんですよ」
「同じようなもんでしょう。ね、私達の仲じゃないの、堅いこと言わずにさぁ」
私達の仲って何だ。
今日初対面だろ。
「情報を集めて! 顧客に渡す! 同じじゃないの!」
「はぁ…………」
「気のない返事ねぇ。やる気あるの?」
無いです。
心のなかでそう思いつつも、口にすればこの御婦人の機嫌を損ねることは分かっているので黙殺。
「だいたい貴方、何様のつもりなの? こんな廃墟まで歩かせて、いざ着いてみたらグズグズと渋って、何様のつもり? 私だって忙しいのよ?」
俺だって暇じゃない。
というか、こんな廃墟までノコノコと歩いてきたのはお前の方だろうが。
「猫様」にはこの廃墟に来ないと会えないのは知ってるんだろう?
だから靴底をすり減らして会いに来たんだろう?
「貴方は黙って仕事をすればいいのよっ! ほら、お金よ。これで旦那の浮気の証拠を取ってきて頂戴」
御婦人が机に袋を投げ出す。
金属がこすれ合う音が響き、俺は手元に投げ出された革袋を見る。
まだ契約も成立していないのに、先に金を投げるなんて、不用心な御婦人だこと。
俺がそんじょそこらのチンピラだったら、この場で革袋を奪われて逃げられてもおかしくないぞ。
しかし俺はかの「白猫様」、あくまで紳士的に袋を押し返し、続けて言い返す。
「あのですね、御婦人。私は確かに情報を集めて顧客に渡すのが仕事ですが、その情報というのはほとんどが形にならない証言とか、仲間からの伝聞だったりするわけですよ。裏社会の人間にとって情報屋から入手した情報というのはそれだけで信頼できるものなので、いわゆる所の『証拠』でなくても構わないので。でも御婦人、貴方が求めているのは第三者にもその正当性を主張できる『浮気の証拠』でしょう? 私は探偵業は真似事しかできないのでねぇ、ちょっと難しいですねぇ」
「でも出来ないことはないでしょう?」
「んまぁ、出来ないことはないですがね。何分門外漢なのでおすすめも出来ませんね」
「じゃあ出来るんじゃないの。やって頂戴」
「いや、あのですね」
いやいやでもでも、と水掛け論を続ける。
浮気調査も出来るには出来る。
でもめんどくさいしそもそも浮気現場なんて見たくないから断りたい。
言った通り「情報」はいくらでも提供できるが「証拠」を出すのは難しい。
難しいってかめんどい。
やんわり言葉を濁して無理無理ヤダヤダと伝え続ける。
だが御婦人の方も負けていない。
俺がどんな風に言っても出来るんでしょならやりなさいの一点張り。
猪突猛進のその姿まさに猪の如き聞く耳持たず馬の耳に念仏。
あ、御婦人の顔が猪に見えてきた。
聞き分けのない家畜に見えてきた。
御婦人が遂にキレた。
「やれと言ったらやれ! あんたに言い訳得する権利はないわ!」
憤! と金貨の詰まった袋を俺の仮面を被った顔めがけて投げる。
首を軽くそらして革袋をかわすと、後ろの壁にぶつかってなかなかいい音がした。
「猫の仮面なんか被って調子に乗って、ちょっと下手に出たら偉そうに! 黙って従え!」
酷い言い草である。
俺はいつだって紳士的に対応してきたつもりだし、敬語だって欠かさなかった。
顔を隠してるもの身バレが嫌だからという理由がある。
それをフルシカトしてこの言い草。
流石に俺だって頭にくる。
「帰る!」
と宣言して椅子から立ち上がり、スカートを揺らしながら歩き去ろうとした御婦人を呼び止める。
あくまで紳士的に、冷静沈着に。
ただし声色に精一杯の皮肉を込めて。
「御婦人、御婦人。少々お待ちを。ただいま私の脳内をかき回して過去の記憶を掘り起こしたところ、ちょうどよく役立ちそうな情報がありましたよ」
「! 本当!? 教えて頂戴!」
先程の怒りは何処へやら、目を輝かせて振り向く御婦人。
「ええ、ええ。これは重大な情報です。きっとこれを伴侶の方に突きつければ、確実に離婚まで持っていけることでしょう。賠償金も取れるでしょう」
「それで? その証拠というのは何なの?」
「いえ、先ほども言いました通り、私ども情報屋というのは情報を第三者を納得させるための証拠という形ではなく、言葉や伝聞など形のない純粋な情報という形で顧客に提供いたします。故にまだ証拠能力はないのですが、まあ、これから芋づる式に出てくることでしょうねぇ」
「もったいぶらずに教えなさい。証拠っていうのは何なの?」
俺はそっと椅子から立ち上がり御婦人に近づく。
「十日前。私は友人とランチを楽しんでいたのですが、何やら若い異性と共にレストランに入るご老人の姿が見えました。腕を組む二人の姿は他人同士のそれには見えず、かといって夫婦と呼ぶにはご老人のほうがシワのよく目立つ方だったので年齢差が気になりました。あいや、ご老人というのは私の主観ですので、もしかするとまだ五十代、いやもう少し若いかも知れませんが」
「そ、それが私の旦那だったのね!?」
俺はニコリと笑ってやった。
つむじから顎の先までフードと仮面で隠れた俺の表情を読み取れるのか甚だ疑問だったが、御婦人は俺の沈黙を肯定と取った。
御婦人は、ようやく尻尾を出したな! と大喜び。
嬉しそうで何よりである。
「七日前。私、とある宿泊施設の前を通りかかったのですが、そこで一日前にも見たご老人とその恋人のような若い異性の方を目撃いたしました。二度も腕を絡め合う年齢差の激しいカップルを見ましたので、私もよく覚えていたのでしょうね」
「宿泊施設って、もしかして…………」
「ええ、御婦人の想像の通りかと。私が見ていたら、二人は仲睦まじげにその宿泊施設に入っていきました。中で何をしていたのかは、まあ分かりますよね」
御婦人のテンションはバク上がりである。
そんなに旦那さんと別れたかったのだろうか。
「そのレストランと宿泊施設の名前をお教えしておきますね。従業員の反応を見る限り御二人はそのどちらの店でも常連だったようですので、そこで張り込めばきっと証拠写真も撮れることでしょう」
「早く教えなさい! やったわ、これで…………!」
「銀狐、というレストランに、白樺の宿、という宿泊施設です。よく覚えておいてくださいね」
御婦人は、絶対に忘れまいと傾聴していたが、しかし俺が店名を継げると途端に怪訝な顔になった。
「…………本当にそこなの?」
「本当でございます」
「…………信じられないわ」
「そうですか? よく聞き覚えがあるでしょう?」
言ってやった。
御婦人は、カッと目を見開いて俺を見つめる。
「あ、あんたまさか…………!」
「どうしました? あれ、間違っていましたでしょうか。もう一度記憶を辿りますね。十日前、御婦人、貴方と若い男性の方が銀狐にお越しになりました。顔のシワがよく目立っておりましたので、ええ、ええ、年齢差が気になりましたねぇ」
驚愕の表情を浮かべる御婦人を置いてけぼりに、言葉を続ける。
「七日前。白樺の宿の前で貴方と若い男性の方が腕を絡め合っているのを見ました。宿屋で働いていた方の反応を見るに、貴方達、あの宿屋の常連なんですよねぇ。一体何回お泊りになられたんでしょうか! 中でナニをしていたんでしょうか! とっても気になりますねぇ」
「じょ、冗談言うのも大概にしなさい! 私はこの情報屋の客よ!? なんて失礼な態度なの!? だいたい、証拠! 私がそこに居たっていう証拠はあるの!?」
「ございません」
静かに否定の言葉を返す。
「ですが、貴方の伴侶の方にこのことをお伝えすれば、きっと証拠は芋づる式に出てくることでしょう。上手くやれば、証拠写真だって撮れてしまうかもしれませんね」
手で写真を撮るポーズをしてみる。
御婦人は俺の言葉に対し、無言で肩を震わせた。
ちょいと顔を覗き込めば、怒りに赤らんでいるのかと思いきや、驚きと焦りの感情が出ているのか、その顔は青ざめていた。
怒ったり喜んだり青ざめたり、忙しい表情筋だこと。
御婦人が____もとい不倫女が____勢いよく踵を返す。
「帰る!」
そう宣言すると、投げつけた金袋の回収も忘れて帰ってしまいそうだったので、金の入った革袋を拾い上げ、御婦人の前に回り込む。
「御婦人、今回はお代は結構ですよ。なんせ、思い出したことを言い連ねただけですから」
「ねっ」と、猫の仮面で御婦人の顔面を覗き込む。
御婦人はやはり怒り心頭と言った様子で、しかし焦燥の感情も顕にし、手荒く俺の手から革袋を奪い取る。
「二度とくるかこんな場所!」
と言い放った。
「いえいえ、是非またお越しください。歓迎しますよ」
二度とくるな。
■ ■ ■
不倫をしていたのは多分、というかほぼ絶対、旦那さんではなく御婦人の方だ。
なんせ、サングラスや帽子で拙く素顔を隠していたものの、十日前レストランで会ったあの年の差カップルは明らかにお越しいただいた御婦人だったし、七日前の白樺の宿の前のイチャラブカップルも見るからにあの御婦人だったし。
大方不倫相手は、話の途中で出てきた家の使用人とかそこらだろう。
でなきゃ一介の使用人が奥様に「白猫様という情報屋がありますよ!」なんて意見するなんてことないだろうし。
旦那さんと円滑に別れるために情報屋を使って調べさせようとは、なかなか考えたではないか、使用人。
だが流石の俺でも不倫していない旦那様から不倫の証拠を絞り出すことは出来ない。
御婦人がこれまで浮気調査を頼んできた探偵が、旦那さんの浮気の証拠を証拠をつかめないのも仕方あるまい。
だって浮気なんてしてなかったんだから。
証拠を捏造してほしかったのならそうと言えばよかったのに。
ぐったりと椅子にもたれ掛かる。
御婦人の相手をするのはかなり疲れた。
しかも金にならなかったんだからたちが悪い。
いや、金袋を突き返したのは俺の方だけれども、仕事とも言えないようなことしかしてないしな…………。
クソでかいため息を吐いて椅子にもたれかかり、冒険者協会の支部長から受けた依頼を思い返す。
支部長の依頼は、簡単に言うと「麻薬販売組織を壊滅させてほしい」という依頼だ。
どのような形で販売組織を壊滅させるかは俺に任された。
皆殺しにするもよし、全員をとっ捕まえて騎士団に突き出すもよし。
麻薬を売り続けることが出来ないような状態にすることができれば、何でも良いと。
順当に考えれば依頼を達成するためには、販売組織の構成員を捕まえて騎士団に突き出せばいい話。
しかし果たしてそんなことは可能なのか?
麻薬販売組織は一年間、このテミスの街で活動を続け根を張っている。
一人捕まえても他の構成員が逃げ、また新たに麻薬販売に手を染めるだろう。
やるなら構成員を全員一気に手錠をかけるくらいしないと駄目だ。
だが俺は孤高の「白猫様」、ソロで全員に手錠をかけることは、不可能に近いと言うか無理難題だ。
皆殺しにするとしても同じこと。
販売員を一人殺せば他が逃げ、別の場所、別の街で麻薬販売を繰り返すことになる。
やるなら全員一気に、首を切り落とさなくてはならない。
だが悲しきかな、俺はどうあがいても仲間の居ないソロプレイヤー孤高の「白猫様」だから(以下略)。
なんか悲しくなってきた。
実は、麻薬販売組織の根城自体は既に場所を掴んでいるのだ。
構成員の顔も既に割れているし身元だって特定済みだ。
街に放たれた数多の鳥、虫、獣による監視網を逃れられるやつは居ない。
____だがしかし、身元が割れても俺一人ではどうしようもないのが現状。
どうしよ、ほんとにどうしよう。
因みにだが、支部長は俺が裏で「白猫様」として活動していることを知っている。
長年冒険者をまとめ上げる立場としてやっていると少なからず裏社会との関わりも出てくるのだろう。
それと多分だけど、勇者アリゲスと不愉快な仲間たちは俺=白猫様だとは知らないと思う。
詳しく話したことはないけれど、アリゲス達がこの街に来たのはたった一年前だし、まだそこまで街に馴染んでないから白猫様の存在も知らないんじゃないかな…………。
街の冒険者は、この街で長く活動してる者なら、白猫様のことを知っている奴も多い。
だから時々、冒険者たちから後ろめたい依頼が来ることもしばしば。
A級冒険者としての名も馳せているくらいだから実力はある、さらに白猫様という名声の折り紙付き、おかげでかなり儲からせていただいている。
俺の懐には結構な量の金が転がり込む事になるのだ。
それはそれ、これはこれ。
麻薬販売組織をどうするか、見つからない解決策に頭を悩ませる。
どうしよう。
ほんとどうしよう。
ふと、遠くから、誰かの悲鳴が聞こえた。
静かな深夜の街に響く甲高い女の声。
その声色は明らかに何かしらの事件性を感じさせる。
四方を壁に覆われた廃墟の中でもその声が聞こえたということは、ここからかなり近い位置で何かがあったのか。
野次馬精神と、もしかすると金品を漁夫の利できるかも知れないという期待を胸に、俺は悲鳴の聞こえた方に足を運んだ。
■ ■ ■
込み入った裏路地の迷路を抜けて悲鳴の元へと駆けつけると、そこには、鶏冠頭のヒゲを蓄えた悪人ヅラの大男と、服が破れあられもない姿となった哀れな女の子が取っ組み合っていた。
大男はそこまで年寄りにも見えないが、蓄えられたヒゲからおそらく三、四十代くらいかと思われる。
あられもない姿の女の子は金髪金眼の美少女。
靴も履いていない足はボロボロで血が滲んでおり、裸足のまま長い距離を歩いてきたことが伺える。
だが破かれたその服は遠目に見るだけでも上等そうな素材でできており、その細腕は深窓の令嬢を思わせる。
いいとこのお嬢様だろうか。
大男はお嬢様の両手を軽く片手で掴み、お嬢様の頭上で固定しており、女の子は目に涙を浮かべて泣き喚いている。
見たところごく一般的なレイプ現場といったところか。
「はな、放しなさいよ! この、クソ野郎!」
「嫌だね。そんな拒否するなよぉ、俺が悲しくなっちゃうだろぉ?」
お嬢様はジタバタと抵抗をするものの、鍛え上げられた鶏冠頭の大男の筋肉量には勝てず、ただその場で身を悶えさせることしか出来ないようだ。
大男は、酒にでも酔っているのか、鼻息も荒く顔を上気させてお嬢様の顔面を舐めるように覗き込む。
自由な片手で積極的にセクハラを仕掛けるその姿は、うん、端から見ても十分キモい。
至近距離でその顔を近づけられているお嬢様がどんなに不快な思いをしているかは尚更、簡単に推し量れるというものだ。
「触るな気色の悪い! 放しなさい! 放せ!」
「ああ…………? なんだお前さっきから、ごちゃごちゃとうるさいな…………しかも偉そうだ」
そう言うやいなや、大男は平手でお嬢様の頬を打った。
痛そうな音が、物陰から彼らを覗いていた俺にも聞こえる。
お嬢様の頬は赤く腫れ、打たれたことに驚きを隠せないのかお嬢様は目を見開いている。
嫌なものを見てしまった。
暴力を振るう男はモテないぞー。
心のなかでそんな茶々を入れつつも、俺は特段この現場に乱入するつもりはなかった。
他人と他人のレイプ現場なんて望んで見るようなもんじゃないし、進んで助けてやろうという気にもなれない。
ただ、嫌なものを見てしまったな〜、くらいの感想を抱いてそっと廃墟に戻るつもりだった。
鶏冠頭の大男は、その身なりを見るにおそらく冒険者だろう。
そして明らかに貧乏そうである。
そもそも冒険者ってのは得てして普通の職業につけなかったものが成り下がって就く職業だから、一部を除いて冒険者はまともに金を持っていない貧乏人であることが多い。
一方お嬢様っぽい女の方を見ても、やはり金銭は奪えないだろう。
何故って?
ほら、彼女、服がボロボロに破られててポケットも機能してないから多分、今財布は持ってないんじゃないかな。
ここで大男を殴り倒してお嬢様の白馬の王子様になっても、盗れる金銭は雀の涙。
だからここで俺が現場に乱入する意味はない。
そそくさと廃墟に戻って、情報屋の依頼人を待つことにしようと、俺はそう決めた。
____そのつもりだった。
(!!?? あれは、柴三郎!?)
大男の上方三メートル、建物の壁にできた凹みに、驚くべきことに柴三郎が潜んでいた。
そう、皆さんおなじみ灰色の毛に白い首輪の老猫、柴三郎である。
それなりのお年寄りにも関わらず素早い身のこなしは数々の人間を魅了してきたことだろう____多分。
そんな彼の視線は今、ああなんということか、レイプ現場の大男の鶏冠頭に釘付けである。
いかにも興味津々といった様子で垂れ下がらせた尾をゆらゆらと振っており、今にも飛びかからんと構えるその姿はまさに捕食者。
(待て、待ってくれ柴三郎!! それはいけない! 駄目駄目駄目!!)
俺の懇願もいざ知らず、柴三郎は、勇敢にも高所から飛び降りて放物線を描きながら鶏冠頭に降りていった____俺は同時に物陰から飛び出した。
■ ■ ■
私は走っていた。
暗い夜のテミスの街を、行く先に何があるのかも知らず。
路地裏には街灯もなく、また地面には様々なものが散乱しているため走るには向かない。
走るうちに靴は脱げてしまい、むき出しとなった素足には無数の傷がついている。
それでも私は走ることを止めない。
後方から微かに、荒い息遣いが聞こえる。
私を追う男はガタイが良く、筋肉質であった___この細腕とは比べるまでもない。
男が本気で彼女を捕まえようとすれば、さして空いてもいない距離を詰めることは難しくないだろう。
が、男はそうしない。
これから犯す女を追いかけるのも、また一興。
そう考えていた。
対して、少女は本気だった。
男の拘束から逃れたは良いものの、追いかける男を引き離すこともできず、ただ無謀な逃走を必死に続けている。
元々身につけていた上質な服は男の手によって引き裂かれ、見るも無惨な様相だ。
元々運動もろくにしない細い体には既に多大な疲労が溜まっている。
こんなことになるなら、家出なんてするんじゃなかった。
刻一刻と焦燥が迫り、精神的な疲労も溜まっている。
「おーい、待てよ、逃げんなよぉ」
「ひっ………!」
下衆な笑みを浮かべた男が声を投げかける。
「くそ、なんで私がっ………!」
年端もいかない少女にとって、自分よりも体の大きい男に追いかけられるということはとてつもなく恐ろしい経験だった。
それが、ああ、終りが見えず、逃げても逃げてもいつまでも続く。
体力も精神も、どちらも限界だった。
少女の足はその速度を否応なく緩める事になり、男との距離は瞬く間に縮む。
遂に、その時が来る。
男の広い手が、少女のなびく髪を掴む。
「捕まえ、た」
男の顔がぐっと近づけられる。
口から吐き出される吐息が頬にかかる。
思わず助けを求めて、悲鳴を上げた。
「キャァあああ!!」
「うるせぇ」
左頬に衝撃が走る。
一瞬、殴られた左頬は恐ろしいほど冷たく感じられ、すぐにその冷たさは熱さに変わった。
痛い。
怖い。
私より体格も、力も強いこの男が、とてつもなく恐ろしい。
____そんな感情を誤魔化すように、必死で、叫ぶ。
「はな、放しなさいよ! この、クソ野郎!」
「嫌だね。そんな拒否するなよぉ、俺が悲しくなっちゃうだろぉ?」
男が、私を拘束する右の手とは反対の手で、私の体を触る。
気色悪い。
本当に、嫌だ。
「触るな気色の悪い! 放しなさい! 放せ!」
「ああ…………? なんだお前さっきから、ごちゃごちゃとうるさいな…………しかも偉そうだ」
男はそう言うやいなや、また、私の頬を打った。
さっきよりも強くぶたれ、私の脳が揺れる。
言葉を誤った。
私の言葉に男は、先程までとは違って明らかに怒気をあらわにしている。
怒らせた。
血走った目が、私の顔を捉える。
酒臭い息が顔にかかり、男の狂気を____正気の失い具合を、私に悟らせた。
男を侮辱する言葉を吐いたことを後悔する。
この状況で男の怒りを買うのは馬鹿のすることだ____そして、私はまともな判断力を失った馬鹿だった。
目尻に涙が浮かぶ。
誰か____誰でもいいから____助けて。
そう願ってすぐ、救世主は現れた。
猫が、灰色の毛色をした猫が、何処からともなく男の頭に蹴りをかまして流れるように着地する。
「っづあ!? なんだぁ!?」
私を捕らえる手は放さなかったものの、少しばかり男はよろけ、目線を周囲に走らせる。
灰色の猫は、嘲るように喉を鳴らした。
「ああ? お前か、このクソ猫っ!」
間髪入れず、男は猫にお返しとばかりに蹴りを入れようと足を振る。
しかしその足が猫に届くことはなかった。
これまた何処からともなく現れた白い猫が____猫の仮面を被り、白い服を着た小柄な何者かが____恐ろしいほどの速度で男に足払いをかけた。
予想だにしない人物の予想だにしない攻撃に、男は反応することも許されず哀れにも地面に転ばされた。
白い猫仮面の容赦ない追撃が男を襲う。
流れるようなかかと落とし。
地面とかかと落としに挟まれ、男の頭はおかしな音を立て、意識を刈り取られたようだった。
人間の頭から鳴ってはいけない音がした、気がする。
その際、男は「ぷぐっ」という悲鳴にもならない謎の音を発した。
さらなる追撃。
つま先で男の顔面を潰すように蹴飛ばす白い影。
一、二、三、すでに意識のない男の前歯をしっかり破損させて鼻から血が垂れるまで蹴飛ばし続ける。
四、五、六、七、何度も何度も何度も蹴り続ける。
容赦なし。
無慈悲。
先程まで強姦されそうになっていた相手だと言うのに、いっそ憐れみさえ湧いてくるやられっぷりである。
白い影はしゃがみこみ、男の鶏冠頭をひっつかんでぐいと顔を近寄せる。
「…………死んだか?」
返事とばかりに、ぼろぼろな男が咳き込む。
血液が気管に入り込んでいるのか、泡が吹き出るような妙な音だった。
「まあ生きてるか…………よし、目ん玉の一つくらい掘り出しとくか」
「え、待って待って待って」
物騒にも程がある言葉に思わず声を掛ける。
ナイフを取り出し鶏冠頭を掴み、今にも目ん玉ほじくり出そうという勢いの白い影は、私の声に振り返った。
…………まるで屠畜業者…………鶏の、解体…………?
…………いやいや、そうじゃなくて。
「…………そこまですることないんじゃ…………」
「…………貴方は、この男の知り合い?」
「え、いや、違うけど」
「…………なら別に良いでしょう。貴方には関係のない話です」
猫仮面の声は細く高く、その体の小ささも相まって幼い少女を思わせた。
しかし綺麗な声の割に言ってることは物騒である。
「…………柴三郎を蹴ろうとした罪は重い。地獄の釜よりも重い。こいつの死程度では贖えないが、私は優しいので、目ん玉一つで勘弁してやろうとしているのです。不自由な暮らしを強いられる方が苦痛を感じる人間もいますので」
「シバサブロー…………地獄の釜…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………あ、シバサブローって、もしかしてその猫?」
「…………あ、はい。この子です」
「…………」
「…………」
「…………可愛いわね」
「…………でしょう? そうでしょう」
「…………」
「…………」
「…………撫でても?」
「…………あ、どうぞ」
灰色の猫が、会話を理解しているのか、私の足元にすり寄ってきた。
体を私の足に押し付け、撫でることを強要するその姿は、うん、確かに可愛い。
かがんでシバサブローと呼ばれた猫を撫でる。
シバサブローは気持ちよさそうに目を閉じた。
見れば、白い猫仮面は男の顔に鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。
「これは…………また麻薬中毒か」などと言っている。
男が酒を飲んでたのは酒臭かったから知っていたが、麻薬も匂いでわかるものなのか。
____白い猫仮面は、少ししてから、「金にもならないし、まあ、いいか」と呟いて鶏冠頭を手放した。
金…………?
目玉を売るつもりだった…………?
「…………寒そうですね。これをどうぞ」
白い猫仮面は、そう言って羽織っていた白い上着を私の肩に掛けた。
上着の上からでは見えなかった体の線が、上着を脱いだことでよく見えた。
やはりその体躯は細く小さく、ついさっき少女の倍は体重があろうかという大男を薙ぎ払い蹴り飛ばした人物とは思えない。
「あ、ありがとう…………」
「いえいえ」
「…………」
「…………」
「…………」
白い猫仮面は、腕を組んでジロジロとこちらを見ている。
無論、彼女(彼?)は仮面を被っているのでその目線は隠されているのだが。
見られるのが気恥ずかしく、貰った服ではだけた胸を隠す。
ふと、少しだけ頭が冷えて____謎の人物の登場による謎の状況で冷静さを欠いていた____まだ鶏冠頭の男から守ってもらったことについて、お礼も言っていないことに気がついた。
「あ、あの、礼を言うわ。危うく…………」
「いえいえ、構いませんよ。私としましても柴三郎の危機だったので」
またシバサブロー…………彼女は、どうやらシバサブローにご執心のようだ。
私を助けたのも、そのシバサブローが蹴られそうになったからだという。
「金貨一枚」
「へ?」
「謝礼は金貨一枚でいいですよ。一人殴り倒しただけですのでね」
彼女はそう言って手のひらを差し伸べてきた。
まさか金銭を要求されるとは思わず目が点になる。
「えっ、あ、え。いや、さっき、『構いませんよ』って言ったじゃない」
「言いましたね。はい。でも金は要らないとは言っていないので」
へたり込んでいる私の目線に合わせるようにその身を屈める。
フード付きの白い服がゆらりと揺れる。
「ほら、たったの金貨一枚ですよ。払えないわけないでしょう」
「…………」
払えない。
ついさっきまで男に追われていたせいで、服は見る影もないほどボロボロになっているし財布もどこかに入ってしまった。
貸してもらった白い上着を、握りしめる。
____いつもだったら、金貨の一枚くらい、考えもなしに払っただろう。
でも今は違う。
金貨の一枚も無駄にできない事情がある。
「…………払えないわ」
「それは何故?」
「…………財布がないからよ!」
「家に帰ったら払えますよね。貴方の家まで送りましょう。支払いはその後でもいいですので」
「…………払えないわ」
「…………それはまた、どうして?」
「…………」
だんまりを決め込む。
彼女に責められているような気がして、顔を合わせられない。
思わず俯いて、目線があわないようにしてしまった。
「あなた、見ない顔ですね。街の外からきたんですか?」
「…………まあ、そうよ」
「旅行ですか」
「そんなところよ」
「…………金貨一枚も持たずにご旅行ですか」
「…………別にいいでしょ。ほっといて頂戴」
「はぁ…………」
彼女は立ち上がり、「柴三郎、おいで」と言って猫を呼び寄せ、抱き上げた。
猫は、私の体にうずめていた顔を出して、彼女のもとに戻った。
「…………助け損だったな」
彼女が去り際にそう言ったのを、私は聞き逃さなかった。
でも、反論もできなかった。
「出て行ってくれ」
宿屋に戻り、落ち着かない一晩を過ごした私に、宿屋の主人はそう言った。
しばらく宿泊費も出せていなかったから元々私のことは疎ましく思っていたのだろう。
ただ、その目には明らかに苛立ち以外の感情が見てとれた。
「どうして」
「どうしてもこうしてもない。いつまでたっても宿泊費は払わないし、それに昨日、ひどい格好で帰ってきたろ。何か犯罪に巻き込まれたのか、それとも別の何かは知らないが、面倒ごとはお断りだよ。出ていきな」
宿屋の主人は、犯罪に関わることを極度に恐れているようだった。
彼のいう通りだ。
どうしてもこうしてもない、金の無いものは客になれない。
これまで私を追い出さず、何泊も止めてくれたのは彼の温情だ。
その優しさも、私の長くにわたる無賃宿泊で既に潰えたのだろう。
カバン一つに収まる程度の量の荷物と共に、私は放り出された。
これからは野宿だ。
仕事を探さなくては朝ごはんも食べられない。
でも、なかなか仕事は見つからなかった。
これまでの人生、生粋の箱入り娘だったせいで腕力は少ないし、何かお金が稼げそうな能力もない。
そんな私でも、冒険者になれば暮らしていけるのではないのかと思い、冒険者になった。
仕事は大変だった。
まず冒険者といえば魔物の討伐だが、私には戦闘能力もないので無理。
受付嬢には薬草採取なども勧められたが、森の中で野生生物に襲われたら、と考えると街の外に出ることも叶わなかった。
テミスの街の東にある森には、通常よりも強い魔物が多く出る、という話はよく聞いていたから。
結局、町民の出す細々とした依頼をちまちまと消化していくことにした。
それすらも私にとっては難しく、簡単には行かなかった。
排水溝の掃除も、鼠の駆除も、猫の捜索依頼も。
家にいた時に教わった経済も歴史も数学も茶会のマナーも何もかもが、冒険者として働く時には役に立たなかった。
時には不出来を依頼人に怒られて、時には理不尽に報酬を取り上げられて。
散々だった。
「こんなところで何してんだぁ?」
冒険者協会で依頼をぼんやりと眺めていた時、そう声をかけられた。
振り向くと、下卑た笑いをその顔に浮かべる男の姿があった。
またか、とため息を吐きそうになるが、ぐっと堪える。
この手の輩には、反応しないで無視を突き通すのが良い。
この街で過ごして学んだことだ。
構わず依頼が貼り付けられている依頼板を眺めていると、やはり、男は私に話しかけ続けた。
「んだ、討伐依頼には行かないのか? おいおい、この依頼、ただの街の掃除じゃねえか! 情けねぇ。ま、女だったらそんなことしかできないのも納得だな」
ベラベラと、私が反応も反論もしないのをいいことに、男は喋り続ける。
そのほとんどがこちらを見下す発言であったが、無視だ、無視するんだと自分に言い聞かせて自分にできる依頼を探す。
受付に向かって、受注手続きをする時まで、男はついてきた。
私が意に介さず冒険者協会を出ようとすると、流石に男も痺れを切らしたのか、腕を掴んで私をその場にとどめた。
「お前、さっきから何様のつもりだ? この俺が! C級冒険者のグラン様が! 話しかけてやってんだぞ?」
知らないわよ、そんなこと。
手を振り解こうと力を込めるが、思った以上に男の力が強く、その手が離れない。
「放しなさい」
「は、やっと喋ったかと思えば口ごたえか? あ?」
「放しなさいよ!」
男は私の力が弱く、男を振り解けないことが分かったのか、ニヤリと唇を歪めた。
気色の悪い。
数日前の、あの鶏冠頭の大男を思い出す。
今目の前にいる男は、あの時の大男ほど図体は大きくないが、威圧感は同じくらいあった。
「おい、何をしている」
「あ? 邪魔すんじゃ…………って、モスクの旦那!?」
もう一人、今度はスキンヘッドの男が話しかけてきた。
モスクの旦那と呼ばれたその人物は聖職者服を身に纏っているが、そのガタイは明らかに聖職者のそれでは無い。
「ナンパなら他所でやれ。騒がしい」
「へっ、いや、これは違くてですね、旦那、」
「お前は人にちょっかいをかけている余裕があるのか? おら、行け。口じゃなく手と足を動かして稼いでこい」
「はいっ!」
よほどこのモスクという男が怖かったのか、二言三言話しただけでナンパ男はそそくさと去っていった。
「あ、ありがとうございます」
「気にするな。ああいう輩には気をつけたほうがいい。特に最近は春祭りのせいで他の街の冒険者も集まってきているからな、無作法な奴も増えている」
そう言いながら、モスクというらしい男は依頼板の前に立ち、迷うことなく討伐依頼の紙を手に取った。
チラリと横目で見ると、驚くべきことに、そこには「B級」の文字があった。
さっきのナンパ男がC級。
彼が迷いなく手に取ったのはB級。
しかも、同じような討伐依頼を複数枚手に取っている。
かなりの実力者のようだ。
「…………お前は、冒険者になってからまだ日が浅いのか?」
「え、ええ。そうですわ。今日で七日目ですの」
「そうか。では、この辺りの依頼が良いだろう。この依頼者は冒険者協会の常連で、かなり気立てがいい。内容も側溝掃除…………まあ、服は汚れるだろうが依頼料は悪くない」
モスクという男はなんだかんだと説明をしながら、私にもできそうな依頼を見繕ってくれた。
この依頼者は性格が悪いとか、この依頼は簡単そうだが意外と難しいとか。
知らないことを質問すれば、私が理解するまで根気よく丁寧に説明してくれた。
冒険者の「ぼ」の字も知らない私にとって、その説明は非常に役に立つものばかりだった。
その厳つい見た目に見合わず事細かに話をしてくれて、意外とまめな性格なんだな、とか思った。
「ありがとうございます…………正直、右も左も分からなくって。助かりました」
「気にするな。『隣人を愛せよ、自らにそうするように』これも女神の御言葉だ。ああ、それと、言葉遣いは直した方がいいな。さっき聞いていたんだが、お前、受付嬢にも敬語で話していただろう。敬語はやめておけ。冒険者として舐められるぞ」
「わかりま…………いや、分かったわ」
「ああ。それじゃ、邪魔したな」
そう言って彼は依頼の紙を手に持って、仲間と思しき誰かの元に歩いていった。
彼は依頼の紙を渡して「これでいいか?」と問う。
頭から足の先まで真っ黒な服の男か女かも分からない小柄な人物は、黙ったままモスクの手から依頼の紙を受け取った。
どの依頼にするのか吟味しているようだ。
これから彼らは、依頼を共にこなすのだろうか。
仲間がいることが少し、羨ましくなった。
優しい大男のモスクに助言をもらったものの、やはり、依頼はそう上手くは行かなかった。
ヘトヘトになりながら今夜の宿になりそうな場所を探す。
宿屋に泊まるだけのお金がないから、今日も野宿だ。
ここ数日ですっかり屋外で寝ることにもなれてしまった。
家にいた時は、私がこんなふうに生活するなんて、自分でも予想していなかった。
先日と同じ橋の下で一夜を過ごそうかと思い、持っているだけの服を着込んで暖をとっていると、意外なことに、見覚えのある灰色の毛並みに、白い首輪が見えた。
「あら。確か、シバンラス?シバブロース? とでも言ったかしら」
「ンニャー」
名前はうろ覚えだったが、そうだよ、というように猫が鳴いたので、きっとこの猫の名前はシバブロースに違いない。
シバブロースが橋の下で座っている私に近づき、膝の上に乗ってきた。
まだ二回しか会ったことがないというのに、まるで昔からこうしていたかのような、不思議な安心感を覚える。
「いい子だね」
「ゴロロ…………」
実家で猫を飼ったことはなかった。
猫がいると、母のくしゃみが止まらなくなるからだ。
だけど私は猫が好きだったから、時々、野良の猫に餌をやったりしていた。
私の服についた猫の匂いを嗅ぐだけで、母は顔を顰める。
表立って口には出さないが、きっと気分を害していたのは事実だろう。
私は猫が好きだ。
だから、母が猫を嫌っているのが、なんとなく嫌だった。
シバブロースの体を、毛並みに沿ってゆっくりと撫でる。
彼は(確認すると、ちゃんと金玉がついていた)心地良さそうに目を閉じた。
そうして長い時間を過ごしていると、突然、何者かが姿を現した。
うんざりな事に、それはまた不審者で、やはりその目は私を捉えていた。
下半身に服をまとわず「見て! 見て!」と言ってくるその男からは、以前私をレイプしようとした大男とは別の不快感と嫌悪感と、そして恐怖が感じられた。
走って逃げた。
これまでの人生でこれほど早く走ったことはなかったと思うほど、全力で逃げ出した。
それがシバブロースを抱えながらの疾走だったのだから、驚いたものだ。
男はまだ寒い時期だと言うのに裸足で、丸出しの股間を見せつけるように両足を左右に大きく開きながら走るという大道芸を披露してみせた。
その姿はまさしく「変態」の二文字を冠するにふさわしい。
いやむしろ「変態」以外の何者でもない。
しかもその走りで全力の私に遅れを取っていないのだ。
どうしてそんな変な走り方でそんな速度を出せるのか。
泣きそうになりながら走る。
夜の街は暗く、人通りは全くなかった。
人がいれば助けを求めようと思ったが、いくら走れど、人影は一つも見えない。
昼間、冒険者協会でモスクに言われたことを思い出す。
『近く春祭りが開かれるから、そのせいで無作法なやつも集まってくる』
このような変態も、春祭りの魅力に誘われてこのテミスの街にやってきたのだろうか。
勘弁してほしい。
本当に勘弁してほしい。
近くを一周して、元いた橋の下まで戻ってきた。
依然不審者は振り切れず、私の後を追ってきている。
「見て! 見てくれ!」と一本調子の陽気な声で叫び続けている。
全力で目を逸らす。
後ろを見ないようにして走る。
泣きそう。
腕の中のシバブロースの温もりだけが、私を勇気付けてくれる。
それでも怖いものは怖い。
橋の下を通り過ぎようとした時、足が滑った。
窪んだ涸れ川の、ぬかるんだ泥の中に落ちてしまう。
「っ!」
泥が肌に冷たい。
だがそれ以上に、足を止めてしまったことを恐怖する。
思わず視線を向けると、不審者が、ちょうど私達のいる川の中に飛び込もうとしているところだった。
川べりから、跳躍した男が放物線を描く。
「見てぇぇぇぇ!!!!」
「きゃぁぁぁあああああああ!!!!!」
放物線を描いていた男は、跳躍の途中で、横から現れた白い影に蹴り飛ばされる。
「憤!!!」
「ぐベラッ!?」
白い影のドロップキックは不審者の首にヒットし、そのまま不審者は川の向こう岸まで等速直線運動を始めた。
数日前にも見た、白い猫仮面だった。
吹き飛ばされた不審者は、驚くべきことに、人を横に四人並べてもまだ足りないほどの幅の川を飛び越え向こう岸の地面に着地、いや撃墜した。
白い猫仮面は一度ぬかるみの中に着地してから、追撃を加えんとして不審者の方に再び跳んでいった。
「お前、一体、何を、している、柴三郎に、手を、出したな、許さん、死ね」
「うっ、おうっ、オボっ、ガっ」
私のところからはその姿は見えなかったものの、連続する打撲音と、だんだん聞こえなくなっていく不審者の情けないうめき声が、耳に入った。
「不適切、情操教育に、よろしくない、不潔、不衛生、ヒョロガリ、変態…………」
しばらくの間、完全に不審者の声が完全に聞こえなくなり、しつこいほど念入りに蹴っているのか殴っているのか、リズミカルな打撃音が響く。
「精神異常、虫ケラ、馬鹿、粗チン、エロ猿、クソ野郎…………」
長い。
何が長いって、打撃音が続く時間が長い。
リズムに合わせて吐かれる罵詈雑言も、よく尽きないものだと思うほど、バリエーション豊かだ。
私が今いる場所からは、白い猫仮面が何をしているのか分からない。
分からないけど、多分、見るも悲惨な状態になっているんだとは思う。
耳をすませば、打撃音に加えて何かしらの液体の、ぐぢゅぐぢゅという音が、聞こえる。
え、怖い、すごく怖い。
何なんだ、私の見えないところで一体何をしているんだ。
こんなこと言ったらあれだけど、不審者を庇っているみたいな言い方になるけど、あれだ。
あの不審者は、ただ下半身丸出しで走り回っただけなのだ。
変態だったし不快だったけど、法の定めるところによる処罰は受けるべしだと思うけれども、それでも、それだけだ。
その報復がこの、何ともしれない体液が飛び散るほどの制裁というのは、割に合わないのではないか。
「ふー…………よし…………」
何が「よし」なのだろうか。
何を持って「よし」としたのだろうか。
白い猫仮面は、ようやく不審者への暴行をやめて私の前に姿を現した。
つい数日前に見かけた、あの時の白い服を着て、その上に私にくれた物と同じような上着を羽織っていた。
足元まで白ずくめだったが、よくみると、靴周りには泥汚れにまじって赤い液体が付着している。
「助かりました。貴方が抱えて逃げてくれなければ、危うく私の猫はあの下半身丸出しの変態糞ヒョロガリの毒牙にかかっていたことでしょう。助かりました」
「あ、ええ…………で、その、変態糞ヒョロガリは…………生きてるの?」
「まあ生きてますよ。あ、殺しといたほうが良かったですか」
「いやいやいや! 殺さないで! 殺さないほうが良いわ!」
泥の中でへたり込んでいる私の腕の中、シバブロースが鳴いた。
私が涸れ川の泥の中に、シバブロースを抱えたまま倒れ込んだせいで、シバブロースの毛皮も泥だらけだ。
どうやら怪我はしていないようだが、手触りの良かった毛並みが台無しだ。
「ナー」
「おお、よしよし。怖かったか? もう大丈夫だぞ」
「ナー」
「ああ、泥だらけ…………寒いだろ、ほら、おいで」
白い猫仮面が両手を広げて、その服が汚れることも厭わずに、シバブロースを抱きしめた。
するりと腕の中からシバブロースの温もりが消え、急に、寒さが身に染みて感じられた。
風が吹き、私の体から体温を奪う。
街では春祭りだと言って屋台なども出ていたが、まだまだ冬の寒さは続いている。
「寒い…………」
思わずそう口に出す。
家出を決意する前は、望みさえすれば毎日でも湯を沸かして風呂に入ることができた。
だが、最近は風呂なんてめっきり入っていない。
そもそも風呂というのは貴族や金持ちの特権のようなもので、多くの使用人に湯を沸かさせて湯船に注ぎ、温度を保つために絶えず新しい湯を注ぎ続けるという労力が必要なものだ。
だから、一般的な平民は濡れタオルで体を拭いたり水浴び程度で済ませるのだと聞く。
私も、それに倣って濡れタオルで体を拭いていたが、しかし温かい湯に浸かれないのは少しもの寂しい。
「ああ、貴方も泥だらけですね。さっさと着替えたほうがいいですよ」
「着替え…………ない…………」
言われて思い出した。
私が持っている服は、今、全て防寒のために重ね着していたため、全てが泥に汚れ水に濡れている。
元々家から持ってきた服も数少なかったのに数日前の鶏冠頭の大男による暴行で破かれてしまったこともあり、手持ちの服というのが、もう無いのだ。
「おや。そうだったんですか…………じゃあ、私の服をあげましょう。貴方のサイズに合うものもいくつかあったはずです。風呂もありますよ」
凍えていた私は、猫仮面のその申し出に一も二もなく頷いた。