表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/6

酒場の主人の依頼事

 全米が泣いた衝撃の追放事件から五日経った。

 流石に五日も経てば俺の心も安定して酒浸りになるようなこともなくなった。

 酒に頼らずとも自我を保てるって、いいね。

 まともな人間って感じがするや。

 更に、武闘大会でアリゲスを殴る、という目標もできたことで、かなりモチベーションが高くなっている。

 目標を持って動く、っていうのはかなり重要なことだと思う。

 そんな真理を悟った俺は今、テミスの街の北の方に来ている。

 目の前にはとてつもなくデカいお屋敷。

 外見にも気を使っているのか、そこはかとなく高級感を感じ取れる。

 持ち主の裕福さが伺い知れる気品と大きさを誇っている。


「でっっっっけーーー…………でけー………」

「デカいな」

「………俺さ、こういうでかい家に来たら一回やってみたいことがあったんだよ」

「というと?」

「家の中で本気の鬼ごっこ」

「楽しそうだけど止めとけ。家主に叱られるぞ」


 俺の隣で屋敷の大きさをともに感じ取っているのは、A級冒険者のモスク。

 つるりとしたスキンヘッドに太陽が反射し、輝いている。

 モスクも鬼ごっこには興味があるらしい。

 全男子の夢だよな、超でかい室内で鬼ごっこって。

 こんないい天気の日に屋敷の前で(たむろ)しているのには理由がある。

 先日の夜通しの飲み会のあと、俺もモスクも財布の中身は空っぽで支払いができない状況にあった。


『店主、足の速さに自信はあるかい?』

『食い逃げすんな。騎士団に通報するぞ』

『騎士団だけは………騎士団だけは………』

『泣きつくな気色悪い………支払いの代わりと言っちゃなんだが、丁度いい、頼みがあるんだ。俺の妹が北の方で商人の家に嫁入りして数年になるんだが、最近その息子、つまり俺の甥の様子が可怪しいらしいんだ』

『可怪しい、と言うと?』

『詳しくは知らん。妹によれば、まるで悪魔が取り付いたよう、らしい。頼みってのは、甥の様子を見て、場合によっちゃ除霊やら何やらをしてほしいってことだ。モスク、お前そんな格好だが僧侶だろ』


 モスクは頷いた。

 確かにモスクは僧侶だ。

 筋肉質な、いわゆる筋肉僧侶と言われる、物理で殴るタイプの僧侶。

 僧侶としての回復魔法や神聖魔法も習得済みのハイスペックマン、それがモスクという男。

 そんじょそこらの霊はモスクの敵ではない。

 店主は、甥の豹変の原因を突き止め、できれば解決までしてほしいと言った。

 その代わりに今回の飲食代を無料にすると。

 モスクは勿論快諾した____騎士団にしょっ引かれるか簡単な除霊を行うか。

 考えるまでもなく後者のほうがいいだろう。

 店主はモスクが依頼を承諾して、嬉しそうだった。

 曰く「A級冒険者様にタダで依頼できるなんてラッキーだ」だそうだ。


 で、俺はモスクの付添として一緒に北の方の屋敷にやってきた、というわけだ。

 モスクだけを働かせるわけにもいかないだろう。

 なんてったって、先日の飲み代の9割は俺が飲み食いした酒代とつまみ代なのだから。


「モスク、会話は頼んだぞ」

「何でだ」

「知らない人と話すとかマジムリ」


 そう、俺は生粋の陰の者。

 コミュニケーション能力ヒエラルキーで言ったらゴキブリよりも低い。

 フードを目深にかぶる。

 こうすれば事故で誰かと目が合うことも、黒髪や黒い目が見られることもない。

 口元を覆うように標準装備のマスクをたくし上げれば、完全防御態勢のハルの完成だ。

 よし、これで緊張せずに他人と話せる。

 屋敷の中の人に挨拶もできちゃう気がする。


「………不審者だな」

「え?」

「いや………何処から見ても不審者だな………怪しく見られるという一点において今のお前の右に出るやつは居ないんじゃないか」


 心外である。

 このフードとマスクは俺の心の防具。

 人前で外すことなんて考えられない。

 そう例えどの方向から見ても完璧な不審者になるとしても。


「まあ俺の不審具合は置いといて、依頼の話だ。ここ数日、俺は頑張ってこの家の息子さんと例の店主の妹さん、つまりこの家の婦人について調べまわりました」

「おお、すごいな」

「凄いな、じゃないよ。モスク、お前依頼を受けるのに下調べもしなかったのか?」

「しなかったな」

「下調べって重要なんだぞ? 討伐依頼でも採取依頼でも、今回みたいな町民の依頼でも、スムーズに進めるためには前もって目標について調べて、準備することが大切なんだよ」

「大切なのか」


 モスクはオウム返しに言った。


「…………お前よくそんなんでA級冒険者様に成れたな」

「実力って奴だ」

「そっかぁ…………」


 運も実力の何とやらと言うしな。


「いやそれは別にどうでもいいんだ、そう、依頼の話な」


 俺は懐から手帳を取り出した。

 得られた情報を簡単にまとめている物だ。


「まず、今回の依頼人はこの屋敷の奥さん、名前はクラリス・ケアード。酒場のオッサンの妹だな。で、この家は代々この街で豪商としての地位を築き上げてきたケアード一家。この街じゃ結構な有名人だな。クラリスさんは数年前にこの屋敷の持ち主である商人のお嫁さんになって、まもなくめでたくご懐妊。可愛い息子さんを出産しました」

「その息子が、例の悪魔憑きの子か?」

「いや、違う。その子はまだ赤ん坊。悪魔憑きみたいだって言われてるのは、今十六歳の男の子。この子は商人がクラリスさんが嫁入りする前の前妻との間に作った子供らしい」

「商人はバツイチだったのか」

「そうなるね。噂を聞き回った結果、前妻は結構な賭け事好きで、商人も手を焼いていたらしい。ある日前妻は遂に賭け事で大きな赤字を出して、商人に離婚を突きつけられ屋敷を追い出されたって。で、既に前妻とヤることはヤッてて子供が居たんだけど、純粋無垢な子供に罪はないってことでそのまま屋敷に残ることを許された。商人としての勉強も頑張って、将来は安泰だなぁなんて言われるくらい出来のいい子なんだそうだ」

「その出来のいい子が、悪魔憑きのように様子が変わった、と」

「そう。原因は分からないけど、最近は人が変わったみたいだって言われてる。以前からは考えられないくらい荒れてるって」


 事前に調べた情報はここまでだ。

 手帳を閉じて懐にしまう。


「霊的な何かが取り憑いているだけだったら、オレの神聖魔法で一発浄化するだけですむだろう」

「そうだな。それで済むといいけど」


 会話はここまで、あとは実物を見て判断しよう。

 そう思い、どデカい屋敷のどデカい玄関をノックする。

 モスクの筋肉質な腕で鳴らされたドアノッカーは、損傷を心配してしまうほど大きな音を立てて俺達の来訪を家主に伝える。

 おいモスク、この家のドアを傷つけたらどうするんだ、もうちょっとパワー抑えろ。

 暫く待つと、中から幸の薄そうな顔をした女性が現れた。

 艶のある茶髪が美しい女性だ。

 立派な屋敷に見合う、上品な出で立ちだった。

 モスクが挨拶をする。


「依頼を受けた冒険者のモスクだ。奥方か、ご主人はいるか?」

「私が妻です」


 この人がクラリスさんか。


「兄上様から聞いていないか? あなたの息子が、まるで人が変わったかのようになった、とのことで、依頼を受けたんだが」

「ああ、兄が…………。聞いております。では、どうぞ。中にお入りください」


 クラリスさんに案内され、モスクは中に入っていく。

 俺もそれに続いて中に入った。

 屋敷の中は、外から見た華々しさと同じように豪奢で、でもそれでいて落ち着いた上品さも兼ね備えていた。

 玄関脇には見るからに高そうな壺が置いてある。

 凄い、装飾品としての壺なんて初めて見たかも知れない。

 この壺が違和感なく装飾品としての価値を発揮できる屋敷、すごい。

 多分だけど俺の家にこの壺があったら場違い感が半端ないんだろうな。

 足元には赤いカーペット。

 常日頃から掃除は欠かさないのだろう、塵芥一つ見当たらなかった。

 この屋敷を土足で汚すのが申し訳なくなる。

 モスクは…………そんなこと微塵も気にしていないようだ。

 クラリスさんに続いてズカズカと歩を進めている。

 モスク、このカーペットだけでいくらするのか分かってんのか?

 俺達の一ヶ月の収入と同じくらいじゃねえの、これ。

 ああそんなに足音立てちゃって、もうちょっとひっそりと歩こうよ。

 クラリスさんは俺達を応接室に案内して、茶を用意します、と言って奥に下がった。

 モスクと二人して長椅子に座る。


「すごい家だな…………あの風景画、見たか。このテミスの街と夕日を描いてたな」

「ああ…………ああいう絵画っていくらするんだろうな。名のある絵師が描いてたら、俺の家1個分くらい…………行くかな?」

「昔、オレの親父が自慢してた絵画は、金貨五百枚で買った一品だったらしい」

「ごヒャッ…………!? モスクの家って、金持ちなんだな」

「数年前に査定してみたんだが、実際は有名な絵師の絵を模した贋作で、金貨一枚に満たない価値しかないって言われたぜ」

「え…………そりゃ…………ご愁傷さまだったな」

「あのときの親父の絶望顔は忘れられん、最高だった」

「お前性格悪いな。仮にも聖職者だろうが」

「聖職者で性格が良いやつなんて居ねえよ。オレの親父だって聖職者だが、絵画を買い漁って自慢するタイプのクズ男だった。自分の財力を見せつけたかったんだろうな」


 絵を買うだけでそんなボロクソ言われるモスクの親父さんが可哀そうだ。

 金があるんだったら何を買ってもいいじゃないか、別に他人に迷惑かけてるわけじゃないんだから。


「因みにその絵を買うために用意した金貨五百枚は、協会が運営してた孤児院の資金を横領したものらしい」

「ああクズ男だな。まごうことなきクズ男だ」


 重くそ他人に迷惑かけてたわ。

 孤児院の方々が可愛そうだろ、親父さん。


 しばらくしてクラリスさんがお盆を持って応接室に戻ってきた。

 即座に口をつぐんで、そっとフードとマスクの位置を直す。

 クラリスさんはこれまた高そうなコップに入った茶を俺とモスクの前において、自身もまた俺達の向かいの長椅子に腰掛けた。


「今日はようこそいらっしゃいました。私は主人の妻の、クラリス・ケアードです」

「冒険者のモスクだ。もてなしに感謝する」

「本日はわざわざ遠いところお越しいただいて、ありがとうございます」

「いや、こちらも仕事なのでな」

「…………」

「…………」

「…………」


 しばしの沈黙が、応接室を支配した。


(モスク、何か言えよ、気まずいだろ)

(ハルは何で名乗らないんだ)

(横の方は…………何故喋らないのでしょうか…………?)


 …………。

 あ、これ俺が名乗るのを待ってる感じですか。

 そうですか。


(モスク、俺のことは置いといて話を進めろ…………! コミュ障の俺に名乗りを上げるという行為は自殺に等しい…………!)

(ハル、さっさと名乗れ。話が進まないだろうが)

(モスクさんのパーティメンバー…………いえ、ガールフレンドでしょうか。目配せがまるで熟練の夫婦のそれですわね)


 更にしばしの沈黙が場を占める。

 モスクが肘で俺の脇腹を突いた。

 やはり俺の名乗り待ち…………!

 ちょっと待ってくれ、本当に初対面の人に名乗りを上げるのは難易度が高いんだ、本当に。

 特にこういう美人が相手だと余計萎縮しちゃって、ああ心の臓の打つ音が聞こえる…………!

 やばい、俺のせいでこの場が停滞している…………クラリスさんに迷惑をかけているッ…………!?

 マスクの下でモゴモゴと口を開く、しかし喉が閉まったように息が吐き出されず、声が出せないっ…………緊張するっ。

 目線が机の上のカップの周囲を泳ぐ、水泳選手よりもなお泳ぐ。

 全身の汗腺から何かが湧き上がる、これは冷や汗!

 ああ陰キャの悲しい特性、知り合い相手じゃないとまともに話すことさえ叶わない、酒の力でも借りない限りは…………!

 おおお落ち着け、まずは一回深呼吸。

 素数、そう素数だ、確か素数を数えることで落ち着けるんだったよな、よし数えよう。

 二、三、五、七、十一、十三、えっと、十七か、次は十九、二十一、いや違う!

 二十一は素数じゃない、三掛けることの七!

 アババ素数は、素数は何処だっ!?


 ____口をモゴモゴさせて聞き取れない声量で何かを呟き始めた黒ずくめの不審者を、クラリスさんは生暖かい目で眺めていた。ごめんなさい。


 落ち着け、簡単なことだろう、「私はハルというものです」と言えば良いんだ。

 いやそんな長文じゃなくてもいい、「ハルです」、この四文字でいい…………!

 状況からしてその四文字が名乗りであるということは理解されるはず、よし!

 行くぞ、喋るぞ、さあ今行くぞ。

 あと五秒したら名乗ろう、そうだそうしよう。

 五、四、三、二、一、零ッ!

 いやあと二秒で名乗ろう、うん。

 イチニの三で、そう勢いづけて、ハイサイ、イチニの三!


「はっ、ハル「じゃあモスクさん、依頼って………あっ」

「…………」

「…………」

「…………」


 被った。

 俺が何も話さないのをみて、話を先に進めようと思ったのであろうクラリスさんと、俺の名乗り口上が、被った…………!

 顔から火が噴くように顔面が一瞬で火照る。

 目線が一層激しく泳ぐ。

 今はもうマグロよりも泳いでる。

 眼前三十センチくらいの何も無い空中を泳いでる。

 もう一生クラリスさんの顔を見れない、そんな気がするそんな気がしまくる。


 発言のブッキングがさらなる沈黙を産む。

 もうこの空気は俺にしか壊せない、行け、男だろ勇気を振り絞れ!

 静かな応接室の中、小さく、本当に小さな声で、ポツリ。


「ハル、です…………」


 言った。

 言い切った。

 室内が俺の生成した沈黙に包まれていたこともあり、小さな呟きのような俺の言葉でもクラリスさんに届いたようだ。

 しかし続いた言葉は俺の心を削った。


「ハルさん、というのですね…………とても可愛らしい名前ですね!」


 …………………………。

 うん、可愛らし…………そっか…………。

 多分また女だと思われてるな…………。

 無理もない、今世の俺は背が低い上に肩幅も狭く、一見みただけではほぼ百パーセント女子だと思われる。

 否、真正面から顔面をまじまじとみられても女だと思われる。

 一年近くも同じパーティ内で仕事をしてきたアリゲスたちでさえ俺のことを女だと思っていたくらいだ。

 さらに言えば体の成長が遅いのか十九歳になる今まで声変わりすら来ておらず、いまだ甲高い声は俺を悩ませている。

 喋るのが上手くない俺を案じたのか、名前にお世辞を言ってくれたクラリスさんに、ちょこっとだけ苦い気持ちになったのは内緒だ。

 …………もう、訂正するのも失礼な気がするので、早く依頼の話に移ってほしい。

 お願いだモスク、早く息子さんの様子を見てくれ。

 そいで早く悪魔を祓って帰らせてくれ。

 頼む。


「…………じゃあ、依頼の話をしよう。クラリスさん、オレ達は酒場で店主として働いているあなたの兄上様から依頼を受けた。依頼人はあんたということでいいか?」

「ええ、その通りです。兄に相談したところ、酒代を払わなかった客に依頼を受けさせた、と聞きました」

「ハッハッハ! 恥ずかしながらその通りだ。オレ達もまだ詳しい話は聞いていないんだ。あんたの息子のこと、話してくれるか?」


 息子、と聞いて、クラリスさんは顔を曇らせた。

 今の言葉が指しているのは、彼女の子ではなく前妻の子の話であると分かっているのだろう。


「…………私は、今から四年前にこの家に嫁入りしました。ただ、主人には私の前にも結婚した方がいました。その方は主人とは十年前に離婚していて、もう関わりもほとんど無いと聞きます」


 十年前に離婚、か。

 そう考えるとご主人はかなり歳を食ってるのかな?

 クラリスさんはまだ二十代に見えるけども、年の差婚ってやつか。

 まあ、この世じゃそう珍しいことでもないな。


「主人はその方の間に一人の息子を産んでいました。その子の名前は、シリル・ケアード。今年で十六歳になります」


 クラリスさんはそっと目を伏せた。


「私は、シリルとは血はつながっていませんが、それでも実の息子のように愛してきました。シリルはまだ幼い頃から聡明で、勉学へもよく取り組んで、商家の後継ぎとして申し分ない子です。ただ…………」


 数ヶ月前から様子が変わった、と、クラリスさんは悲しそうに語る。

 我が子のように可愛がっていた子が豹変したら、それは心情も穏やかでないだろう。


「以前のシリルは、優しい子でした。数ヶ月前にトールを____私と主人との間の子を出産した時には、産後に良いという茶をわざわざ外国から取り寄せてくれたり、年の離れたトールの面倒もよく見てくれて。夫も社会勉強だと言ってシリルを商談に連れて行ったり、実際に商売の一部を任せたり。けれど最近は何故か怒りっぽくなって、事あるごとに怒鳴り、勉学にも身が入らず…………」

「原因になにか、心当たりは?」


 クラリスさんは、少し考え、恐る恐るといった様子で口を開いた。


「原因と言えるほどのことではないのですが…………最近はよく昼間から外に出て酒を飲んだり喧嘩をしたり…………そして、女神教に熱心なんです。教会に多額の寄付をしたり布教のためにビラを配ったり。聖書も買って読んでいるようです。以前はそんなことなかったのに、女神教の教えにいっそ狂信的と言えるほど入れ込んでいて」


 なるほど、と、モスクは少し考え込む。

 モスクが特に怒った様子もないのを見て、クラリスさんはホッとしているようだ。

 モスクは女神教の徒。

 しかも今日は聖職者服を着ている。

 見るからに女神教徒な、しかも筋骨隆々で威圧感たっぷりなモスクの前で、神に対する不遜とも取れる発言をするのは、さぞ気に掛かった事だろう。


「そうか…………では、シリルは今いるか? 性格が急に変わったというのなら、悪魔憑きの可能性もある。浄化の魔法を試してみよう」


 クラリスさんは、シリルを呼んできます、と言って退出した。

 再び俺とモスクの二人だけとなる。


「本当に悪魔憑きっていうことは無いと思うがな」


 モスクが唐突にそう言った。


「どうして?」

「悪魔憑きが女神教に熱心なんて、そんな皮肉があってたまるか」

「はぁ」

「冗談ではないぞ。悪魔に体が乗っ取られているのなら、逆に女神教を貶める活動をしてもおかしくない。悪魔は女神が大嫌いだからな」

「ふうん」


 そういうもんなのか。


 しばらく待つと、クラリスさんがシリルくんを引き連れて戻ってきた。

 クラリスさんの「ついて来い」という言葉を素直に聞けるようなら、それほど性格が悪くなったと思わなくてもいいかも知れない。

 さて、話題の御本人の登場だ。

 応接室に入ってきたシリルくんは、パッと見た感じ、だいぶ不健康そうだ。

 頬は痩せこけ眼窩は落ちくぼみ服の下から覗く腕は細く全体的に線が細い。

 不健康な痩せ方だ。

 身長は平均より高いだけにその痩せ具合も相まって幽霊のような様相を呈している。

 彼は部屋に入ってきてすぐ、


「黒! 不吉だ! お前はどうしてそんな服を着ているんだ!」


 と言った。

 この部屋で黒い服を来ているのは俺だけ、ハイワタクシのことでございますね。

 ヒステリックである。

 そんな印象。

 ただ黒い服ってだけなのに、こうも言われるとは。

 黒を不吉な色であるとするのは、女神教の教えによるところが大きい。

 彼が聖書を読み込んでいるという情報を踏まえると、なるほどなかなか女神教に毒されているのかも知れない。


 と、冷静に分析などしていたが、シリルくんは驚くべきことに俺のフードをひん剥いた。

 ズカズカと扉から俺の座る長椅子の後ろに回り込み、俺がそちらを見ていないのを良いことに勝手にフードをひん剥いた。

 俺の黒髪が露わになる。

 途端、先程の文句も比にならない声量でシリルくんが叫んだ。

 思わず、といった様子で、反射的に。

 まともな言葉にもならないような彼の叫びから、しかし「黒髪」「黒目」等といった単語が聞き取れた。

 先ほどフードをひん剥いた手で俺の髪を鷲掴みにする。

 痛い。

 目線を向けるとこちらを親の仇と言わんばかりに睨むシリルくんの顔が見えた。

 血走った目は、なるほど正気の人間のそれには見えない。

 クラリスさんも、彼が正気だなんて思いたくなかったのだろう。

 これはもう悪魔憑きだと言われてもおかしくない。

 それくらい恐ろしい形相だ。


 シリルくんは左手で俺の髪を掴んでいた。

 そして更に驚くべきことに、もう一方の手で振りかぶった。

 俺は反射的に腕を上げて顔を守る。

 明らかに、彼は俺の顔を殴ろうとしている。

 きつく握られた拳が振り下ろされ。

 しかしその拳は俺に届くことはなかった。


「シリル。その手を離せ」


 ドスの利いた声でシリルくんに話しかけるのは、立ち上がってシリルくんの腕を掴んで拳を止めた頼れる僧侶、モスク。

 シリルくんも背は高いほうだと思うが、モスクの熊のような体格には敵わない。

 その体から発せられる威圧感に、シリルくんは一瞬怯んだが、続いて雄弁に自分の正当さを語った。


「こいつは黒髪黒目、悪に連なるものだ! 魔族の系譜、世界の害悪! 神敵を排せよと、聖書にもあるだろうが!」

「…………」

「貴様も聖職者ならよく知っているだろう、魔族の数々の所業を! 断じて許してなるものか、こいつのような魔族を想起させるような髪色の者を! 神敵には天誅を、与えなければならんのだ!」


「シリル」


 モスクが、声を低くしてシリルくんに話しかける。

 地の底から響くような重厚な声は、雷のような怒りを含んでいた。


「こいつは断じて神敵などではない。オレはこいつを生まれたときから知っている。これまでの生涯でこいつが女神教を謗ったことは一度もない、女神教に害を為さんとしたことも一度もない」


 モスクの巨大な手指がシリルくんの細腕を力を込めて握り込んでいる____シリルくんの手がミシリと不穏な音を立てる。

 注意がそっちに向いたのか、俺の髪を掴んでいる方の手からは力が抜けている。


「もう一度言う。その手を離せ、シリル」

「し、しかし…………」

「シリル!」


 クラリスさんが諌めるようにシリルくんの名前を呼ぶ。

 シリルくんは苦々しい顔で俺の髪を掴んでいた手を解き、モスクの掴んでいた腕を振りほどいた。

 乱雑に俺達の向かい側の長椅子、クラリスさんの隣に腰を下ろす。

 俺のことを睨めつけているのがすごく気になる。

 視線が痛い。

 シリルくんだけではなく、クラリスさんも。

 先ほどシリルくんにフードを取っ払われた際、クラリスさんにもしっかりと俺の黒髪黒目を見られてしまった。

 シリルくんのようにあけすけに敵意を向けられることはないが、黒髪という事実に対して同情のような、一抹の嫌悪のような、そんなものが入り混じった視線を感じる。

 それはそうだ。

 誰だって黒髪に対していい顔はしない。

 この屋敷みたいな立派な家だったら尚更だ。

 この世界ではそれが常識、当たり前なのだ。

 ____しかしまあ、それでもシリルくんのような態度で暴力を振るおうとするのは普通ではないが。


 俺はフードを深く被り直して立ち上がる。

 俺がこの場にいては、シリルくんが落ち着かないだろう。

 モスクが心置きなく彼に治療を施すためにも、俺はここで一旦外に出て、シリルくんの視界から消えるべきだ。

 そう思ってドアの近くまで歩く。


「おいハル、どこに行く」

「外に」

「…………分かった。後で合流しよう」


 こちらの意を汲んだのか、モスクはあっさりと退出を了承した。

 本音としては1、2発シリルくんの顔面に蹴りを入れてやりたいが、俺は感情的になって依頼を台無しにするほど子供じゃない、あくまで仕事に対して真摯に忠実に。

 腹いせとばかりに多少勢いよく扉を閉める。

 バシン、というなかなか良い音が鳴った。


(これじゃモスクのことも責められないな)




   ■ ■ ■




 ケアード家の屋敷の前で、しゃがみながらモスクを待つ。

 待っていると白い首輪をつけ灰色の毛並みをした猫が通りかかったので懐の干し肉を与えてナデナデしている。

 可愛い。

 感情に任せて飛び出してしまったが、もう外に出てしまうとやることがないな。

 依頼はモスクに任せてしまうことになるし、もう本当に猫を撫でるくらいしかやることがない。

 ちらりと視線を屋敷に向けると、2階の窓からクラリスさんの後頭部が見える。

 おそらくあそこが応接室なのだろう。


 更に十五分ほど待っていると、急にケアード家の屋敷の扉が開いた。

 中から出てきたのはシリルくんだった。

 かなり怒っている様子で、大きな音を立てて扉を叩きつけるように閉めた。

 ナデナデしていた猫も驚いて視線を向ける。

 俺もシリルくんの方を見ていると、シリルくんもこちらに気づいたようだ。

 足音を立てながらこちらに近づいてくる。


「お前、どうしてまだここに居る!」

「…………」


 どうしてって、そりゃモスクを待ってるからだが。


「家から離れろ! お前がいるだけで家が穢れる!」


 そして再び驚くべきことに、シリルくんは俺に向かって蹴りを入れてきた。

 腕で防ぎ体への直撃は避けたものの、しゃがんでいて受け身を取りづらかったということもあり尻餅をついてしまう。

 この野郎、モスクがいないからって調子に乗りやがって。

 しかしシリルくんは依頼人の息子、こいつに暴力を振るって依頼を台無しにするわけにはいかない。

 俺はあくまで冒険者、依頼には真面目に真摯に真剣に。

 シリルくんに今度は首根っこを掴まれるが、決して反撃はしない、穏便に済まさなければならない。

 他になにか手を出される前に2階の応接室の窓を指差す。

 シリルくんは俺を掴んで持ち上げたまま、


「?」


 と俺が指差指した方を見上げる。


 ____そこには般若像の立ち絵の如き、こちらを睨むモスクの姿が。


「!!!」


 シリルくんはキュウリを見た猫の如く縮み上がり、俺を放り出して足早にその場を去らんとする。

 転んでしまった時についた泥を払い、立ち上がる。

 応接室の窓を開けたモスクがシリルくんに向かって一喝。


「たった今教えたばかりだろうが! 我が身の如く隣人を愛せよとは、神の御言葉だぞ! 待て、逃げるな! 待ってろよ今そっちに行って教えを説いてやる! こら逃げるな!」


 俺を心配したかのように、灰色の猫がこちらを見上げて「ナー」と鳴いた。

 よしよし、俺は大丈夫だよ。

 軽く撫でると、灰色の猫はシリルを追うように去っていった。

 彼らを見送ると、ドッタンバッタンとシリルくんとは比べ物にならないほど大きな物音を立ててモスクが扉から飛び出した。


「あの野郎、絶対に逃がさん…………! おいハル! あいつは何処に行った!?」

「さあ。どっか行っちゃったね」

「クソがっ! おいハル! お前もお前で、どうして反撃しなかった! お前ならあいつの拘束程度、すぐ解けるだろうが! ついでにあいつの顔面に一、二発パンチをお見舞いしてやればよかっただろ!」

「そんなことしたら依頼が大失敗に終わるだろ…………」


 怒り心頭なモスクを連れて適当なカフェに入る。

 誰にも聞き耳を立てられなさそうな店の奥の方のテーブル席を選んで、モスクにシリルくんの様子を聞く。


「で、どうだったの。シリルくんは、悪魔付きだったの?」

「いや。あれは悪魔憑きじゃねえな」


 怒りに任せてプロテインを振るモスクは、そう断言した。

 っていうか、カフェに来たのにプロテイン飲もうとしてるんじゃないよ。

 駄目だろ食べ物飲み物持ち込んじゃ。

 それよりももっと美味しいものがたくさんあるだろうが。


「オレが知ってる除霊効果のある魔法は全て試した。が、抵抗されるどころか手応えすらなかった。確実に霊的なものの仕業では無いな」


 モスクがそう言うのなら、そうなんだろう。

 なんてったってモスクはA級冒険者の僧侶だ、モスクを超える神聖魔法の使い手なんて、それこそ王様子飼いの宮廷魔術師くらいしかいない。


「神聖魔法を片っ端からシリルに掛けながら聖書の御言葉について説法してやったら、途中で逃げ出しやがった! 女神教徒を騙るハイエナが、何が『聖書にも〜』だ、まったく! 何も知らんではないか!」

「珍しいな、モスクがそんなに怒るなんて」

「ああ? そうか?」


 2つ注文したプリンの片方をモスクにも与え、機嫌を取る。

 モスクの愛飲するプロテインと合うかどうかは知らん。

 多分飲み合わせは最悪だと思う。

 自分もまたプリンを掬いつつ、集中を別の場所に向ける。

 魔力のつながりをたどり、自分の眷属の目を通して走り去っていったシリルくんの行く先を見る。


 俺の固有魔術は、眷属たる生物の生成を可能とする。

 眷属は俺に対して常に五感を共有し、俺は彼らの見る世界を覗き見ることができる。

 やっていることはテイマーとほぼ同じだ。

 生き物を使って依頼をこなす。

 だが、俺自身はテイマーと俺の固有魔術とに明確に区別している。

 まずこの世に蔓延るテイマー共、あれは一部例外を除いて魔物や動物を使い捨てることしか考えていない実利主義者だ。

 レア度の高い魔物にこそ丁重な扱いをし、長く使えるようにと世話をするが、偵察目的にそこらの鳥なんかをテイムして用が済んだら契約解除、場合によっては今晩の夕食にする、なんてことも珍しくない。

 テイムされた動物は基本的に野生には戻れない。

 一度テイマーと契約した時点でその魂にはテイマーの匂いが染みつき、捕食者や餌となる生き物に対して気づかれやすくなるのは勿論、テイムする際に思考能力を鈍化させて命令に従順にさせるという手順を踏むため野生の頃の生き方というものを忘れてしまう。

 言葉の通じる上位種の個体などはその限りではないが、大抵の動物はテイマーにとって鼻をかむちり紙と同じように使い捨てなのだ。

 あいつらは動物たちの未来のことなぞ微塵も気にかけずに気軽にテイムする、そのくせに使い倒せるだけ使い倒したあとは鍋にする。

 必要なくなった動物も野生に放置するわけにもいかないのでその手で殺した後、売れそうな素材を剥ぎ取る。

 彼らは自分の仕事と生き物の命を天秤にかけ、金稼ぎのために生き物の命を犠牲にすることを選んだ。

 割り切っているのだ。

 そんな実利主義な態度には一周回って好感が持てる。


 が、俺は違う!

 俺と眷属はいわば家族、生みの親とそれを慕う可愛い子供!

 喜びを分かち合い悲しみを慰め合い寝食を共にし、ときに彼らに教えときに彼らに教えられ、窮地の際には頼り頼られる、そんな存在なのだ!

 テイマーのように眷属を使い潰すなんて、俺にはできない。

 だからこそ俺は彼らを戦闘には連れて行かない。

 家族を戦地に赴かせるのは俺の流儀じゃない。

 が、たまにこういう諜報活動は手伝ってもらう。

 勿論彼らが望むご褒美を報酬として用意して。

 勘違いしないでほしい、先述の通り俺は動物を使い捨てするテイマー共とは違うのだ。

 これは一種の雇用契約関係だ。

 俺と彼らの立場は対等、互いが互いを尊重するビジネスライクな面を持つ関係でもある。


 と、言うわけで今は白い首輪に灰色の毛並みの猫、柴三郎にシリルくんを尾行してもらっている。

 シリルくんの家____ケアード家の前で出会った猫だ。

 柴三郎は今年で十一歳になる高齢のおじいちゃん猫、しかしその肉体はいまだ衰えを知らず寒い冬のテミスの街をも元気に飛び回っていた。

 今シリルくんの後をつけている道中も実に楽しそうである。

 年の功というやつだろうか、柴三郎の足取りがシリルくんに悟られることはなく、シリルくんは柴三郎の存在に気づいてすらいない。

 シリルくんは曲がりくねった裏道を進んでおり、目的地に着くのはまだ先のようである。


「ハル、お前はどう思う」


 プリンを難儀そうにつつくモスクの声で、意識がカフェの中に引き戻される。

 プリンと一緒に出されたおしゃれなスプーンは、モスクの巨大な手の中では細い小枝のように頼りない。


「シリルには霊一体も取り憑いていなかった。生霊も悪魔も精霊も、何もだ。オレが保証する。でもそれじゃ一体、シリルの豹変の原因はなんだったんだ?」

「なんだったんだろうなぁ」


 さっぱりだ、と言うように手を振る。

 俺のそんな仕草に、しかしモスクは懐疑の目を向けた。


「何もわからないのか?」

「何もわからん。精神的治療は俺の専門分野じゃないしな」

「そんな訳はないだろう」


 モスクが俺の目を覗き込む。


「そんなに見つめるなよ、照れるだろ」

「良いかハル、俺はお前を冒険者として尊敬している。依頼に対する態度は真摯だし、戦闘の腕前は俺と肩を並べるほど、武器を使えば俺を上回るかもしれん」


 そんな直球の褒め言葉を食らうとは思わなかった。

 こちらからもまたモスクを見つめ返す。


「荒くれ者の集いである冒険者の中で、客観的に見て最も信頼できるのはお前だ。最も頭が回るのもお前だ。高い実績に長い活動歴、もうちょっと喋ることさえできれば、今頃町人からの依頼がひっきりなしに来るほどの偉大な冒険者と鳴っていただろう」

「ちょっと引っかかる褒め言葉だな。誰が喋るのが下手だって?」

「お前はまだ俺と同じ若干19歳だが、十年以上のキャリアを積むベテランの冒険者だ。固有魔術を生かした高い偵察能力、根気強い張り込みへの態度、人間とは思えないほどキショい観察力」

「暴言が混じってるな?」

「ハル。お前、何故あの時、()()()()退()()()()?」


 部屋から退出。

 それは、俺がシリルくんに殴られた後に応接室を出たことを指しているのだろう。


「シリルくんを刺激しないためだよ。何やら黒髪の俺のことをひどく嫌っていた様だったし。モスクも俺が居ないほうが治療をやりやすいかなって」

「嘘だな。いつものお前だったら、シリルの態度が変わることなど気にせずにシリルの観察を続けただろう。お前はそういう男だ。口下手のくせに自分に向けられる敵意に関しては気にも留めない」

「一言余計だな」

「どうせお前、俺達の目から逃れて、裏でコソコソしてたんだろ。シリルを見てなにかに気づいて、調べてたんだろ」


 んー。

 何故俺がモスクから詰問されなければならいのか。

 不本意だ。

 しかし彼の言う通り、俺は()()()シリルくんの豹変の原因に心当たりが着いている。

 流石モスク。

 親友の名は伊達じゃない、隠し事はすぐにバレてしまうか。


「分かった。話すよ」

「意外と早くゲロったな」

「俺を犯罪者みたいに言うんじゃないよ…………ただ、モスク、俺がお前に話そうとしなかったのにも理由があるんだ。今から話すことは他言無用で」

「クラリスにもか?」

「うん。今のところはまだ」


 プリンを一口掬って口に入れる。

 甘くて美味しい。

 俺も家で時々作ったりするが、流石は老舗の味、俺の作ったプリンとはレベルが違う。

 俺の固有魔術を使っていると脳みそが疲れてくるので、この糖分は尚更美味く感じられる。


「じゃあお聞かせ願おうか。名探偵ハルの名推理を」

「止めてくれ、そんな御大層なもんじゃないから。じゃ、結論から言おう。シリルくんは多分、麻薬をやってる。性格が変わったと言われたのはそれが原因だろう」

「麻薬か」

「うん。あの妙な痩せ方見ただろ。種類にも寄るけど麻薬やってるとああなるんだよ。昨日下調べしたときは、以前のシリルくんはちょっとふっくらしてるくらいだったって聞いてたから、意外だったってのもある。そいで先に応接室を出てシリルくんの私室を漁ってみたら、ドンピシャリ。引き出しから出るわ出るわ、怪しげな白い粉」

「痩せていたから麻薬だと思ったのか? いくらなんでもそれは短絡的では」

「それだけじゃないよ。他にも色々。最近じゃ結構噂になってるけど、新たな麻薬販売組織も台頭してきたし」


 例えば体臭。

 ある程度長く冒険者をやってると、裏社会とのつながりも多少はできる。

 俺はその繋がりをよく利用するので、麻薬やってる人間を見かけるのも珍しいことではないのだ。

 彼らの特有の体臭はなかなか忘れられない。

 腐乱死体を清い水に溶かして薄めたような、汚れを無理やり薬で浄化した化学薬品と微生物の奏でる匂いのハーモニーのような、そんな体臭。

 彼らからはかすかに、だが確かにそんな匂いがする。

 嗅ぎ慣れているからよく分かった。

 あれは確実に麻薬をやってる。

 そして、俺の髪を掴んでいたときの握力。

 あの細腕からは思いもよらぬ馬鹿力だった。

 応接室の中では一瞬しか掴まれず確証は持てなかったが、外で待っているときにまた首根っこを掴まれて、やはりその力強さの異常に確信を持てた。

 麻薬は使用者の頭の働きを麻痺させる効果がある。

 人間は皆、常に無意識下で身体能力にブレーキを掛けている。

 100%の力で筋肉を酷使すると、骨は軋み肉は千切れ関節は歪み、その身が傷つく。

 故にブレーキが掛かる。

 全力の7、8割までしか力を発揮できないように。

 いつもは無意識下で身体にかかっている制限が、麻薬によって開放される。

 その結果があの剛腕だ。

 俺はいくら身長が低いと言っても150センチくらいはあるし体重だってそれなりにある。

 あの痩せぎすの男に子猫のように掴まれて持ち上げられるなんて、本来はありえないことだったのだ。


「そうか…………では、クラリスに話してはいけないというのは? 彼女は今回の依頼主だぞ。原因が分かったのに教えないのは何故だ」

「ケアード家の名誉と利益のため、かな。ケアード家は代々この街で商業を営む歴史ある家だ。その後継ぎが犯罪に手を染めたなんて知れ渡ったら、ケアード家の信用は失われる。あの家の商売のすべてが断ち切られるってことはないと思うけど、それなりの損害は出るだろうよ。商売ってのは信用が物を言うからな」


 ケアード家にはもう一人、クラリスさんが産んだ子供がいる。

 が、その子供はまだ赤ん坊だ、経営学を学び商家の後継ぎとしての教育を受けたシリルの代わりにはならないだろう。

 現在のケアード家の商売を取り仕切る父親が引退し、その妻クラリスとの間の息子(トールくんと言ったか)が家を継げる年齢になるまで____それがどれくらいの期間なのかは知らないが、シリルくんが父親の商売の手伝いをしていた、ということは、父親が引退を予定していたのもそう遠くない時期だったのではないか。

 換えの効かない跡継ぎのシリルくん、彼を俺達の報告で犯罪者にすることは、果たして依頼人の利益となるのか。

 ____依頼内容は「シリルの豹変の原因を調べること」であり、「事実を都合よく隠蔽すること」ではない。

 冒険者の立場としては、今すぐケアード家に舞い戻ってクラリスさんに報告するべきだろう。

 「あなたの義子(むすこ)は麻薬中毒の犯罪者ですよ」、と。


「なんにせよ証拠が足りない。怪しげな白い粉が見つかったと言っても、まだそれがなんなのかは分からい。もしかしたら単に栄養剤なのかもしれない。それが麻薬であるという客観的な証拠はない」

「ならば、次にオレ達がするべきは証拠固めか」

「そう。クラリスさんに報告するにしても、ケアード家を思ってそれを秘密裏に隠蔽するにしても、もうちょっと情報を集めてからだな」


 目を閉じ、再度意識を柴三郎の視界に集中する。

 すると…………。


「…………やっぱそうだよねぇ。やってるよねぇ」


 柴三郎の視界に、顔を完全に隠した怪しげな格好の何者かと、そいつから袋に入った何かを受け取るシリルくんが映る。

 麻薬の匂いが____あの特徴的な匂いが____柴三郎を通して俺の嗅覚に働きかける。

 まごうことなき麻薬の取引現場。


「あーあ…………未来ある若者がこんなことに手を出しちゃうなんて…………」


 もったいないなぁ。

※良い子は麻薬なんてやめましょう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ