5話 はじめて
硫黄の独特な香りが2人の鼻先を優しく撫でる。
誰も知らない様な山奥の、誰も知らない様な所にある、通称千合温泉。
子ども2人であれば少し余裕を持って入れるくらいのその小さな秘湯にーー耕助は海パン姿、小雪ちゃんは梨乃から借りたスクール水着姿で浸かっていた。
2人は何も喋らず、ただひたすら温泉に身を任せ、至福のひと時を味わう。
「あ…」
ふと耕助の目の前に、辺り一面の美しいお花畑が出現した。
そこではヨーロッパ系の赤ちゃんに白い羽と輪っかが備わった典型的な造形の天使が、楽しそうにラッパを吹きながらお花畑の周りをふわふわと飛び回っている。そして徐々に耕助の視界に映るそのお花畑と天使達の情景がぐにゃぐにゃと歪んでいき…それに比例して微睡のような絶妙に心地よい感覚が、耕助を襲う。まるで脳内麻薬。夢見心地とはこういう事なのだと耕助は虚ろな意識の中で思う。身体中を包み込む至福に全てを任せ、没入していく感覚。この感覚を一度味わってしまえば、もはや元には戻れないーー
「コーちゃん、コーちゃん」
突如としてお花畑が消え、目の前に整った顔。
耕助が我に帰ると、小雪ちゃんが心配そうにこちらの顔を覗き込んでいた。
まだいつもよりはトんでいなかったのだが…初めて見る小雪ちゃんからすると、十分に心配な領域だったのだろう。
「大丈夫…?白目剥きそうになってたけど…」
「うん、だいじょーぶ。いつもあんな感じ」
小雪ちゃんに余計な心配をかけさせる訳にはいかないなーー
耕助はそう思い、今回は普通に温泉に浸かる事にした。
〜〜〜〜〜〜
この辺にはたまに猿が出るので、1号が温泉に入りつつ辺りを見張っている。
そして猿が来たら、そのタコ足のような触手を伸ばして掴み、遠くへ放り出してくれるーーという仕組みになっていた。だからたまにウキャ、という猿の呻き声が聞こえるが、2人はあまり気にせず、もうかれこれ30分くらい、ゆったりとお喋りや暴露話などをしていた。
「コーちゃんはさ、将来やりたいこととかあるの?」
耕助はまだしっかり湯に浸かっているが、小雪ちゃんは流石にのぼせたのか、既に上半身を湯から出し、足だけを湯に浸けている状態である。
そして各自の学校の話などもひとしきりして、話題は将来の話に差し掛かっていた。
「うーん、SAS◯KE制覇かなぁ」
「さ◯け?」
耕助は先日TVでやっていたSAS◯KEに感化されて、何となくそんな事を口走ってみる。
「ふーん。さ◯けかぁ。ちょっとボクはあんまし分かんないけど…」
「そっか。小雪ちゃんは将来何したいの?」
逆に耕助がそう質問を返すと、小雪ちゃんはなぜか俯いて黙り込んでしまった。
心なしかほんのり顔が紅潮している気がする。
「あ…いどる」
「え?なんて?」
小雪ちゃんがボソボソと言うので、耕助は野々村議員のように耳に手を当て聞き返す。
すると小雪ちゃんは遂に決心したようだった。
「…アイドルになりたいの」
そう言ってふいと目を逸らす小雪ちゃん。どうやら相当恥ずかしがっているようだがーー
耕助はその事には気付かず、至って平然とした様子で言う。
「なれるよ」
耕助が何気なく放ったその言葉に、小雪ちゃんは心底驚いたように大きな目を丸くする。
「え…だってボク…」
「なれるよ。小雪ちゃん可愛いし」
12歳という多感な歳でこういう素直な事を言えるのが、耕助が同世代の男子より逸脱した点の一つだった。
しかしそれ以外の点が逸脱し過ぎて、いつも女子人気には結び付かないのだが。
「可愛い…?」
「うん」
その耕助の言葉を脳が認識した瞬間ーー今度は熟れた林檎のようにはっきりと分かるくらい、小雪ちゃんの顔が紅潮した。
小雪ちゃんはそれを咄嗟に、耳にかかる髪をかき分けるような仕草で誤魔化しながらーー耕助にぎりぎり聞こえないくらいの音量で一言呟いた。
「…うれしい」
しかしその姿を、完全に捉えていた者が一名。
「1号、そろそろ帰ろっか」
耕助が言う方を見るとーー1号がニヤニヤといやらしく、ドラ◯もんの「温かい目」のような表情でこちらを見ていた。
どうやら見かけに寄らず、大分俗っぽい感性を持っているようだーー小雪ちゃんは1号に対しそのような感想を持った。
千合温泉を出ると、2人は再び1号の車に乗り込んで帰路に着いた。
往路と同じように耕助と小雪ちゃんは後部座席に座っているが、耕助の方は気持ち良さそうにいびきをかいて眠っている。
そのいびきの音をBGMにしながら、小雪ちゃんは先程の耕助の「可愛い」という言葉を思い出し反芻する。
一人っ子の小雪ちゃんは、この2日間を通して、耕助を兄のように慕い始めていた。
急に泊まりに来たほぼ初対面の自分を手厚く面倒見てくれて、色々な場所にも連れて行ってくれる、優しいお兄ちゃんーー
耕助に対する小雪ちゃんの感情はそんな『家族』としての尊敬の念が大半を占めていた。
しかし先程の「可愛い」という言葉で、耕助を『男の子』として意識した瞬間ーー
小雪ちゃんの耕助に対する尊敬の念が、全て別の感情に変換された。
それは小雪ちゃんにとって、初めての感情だった。
小雪ちゃんは眠る耕助の肩に、衝動的にもたれかかる。
ドキドキと鳴り響く心臓の鼓動と耕助のいびきの二重奏に聴き入りながら、小雪ちゃんは幸せそうに目を閉じた。




