2話 水遊び
「おじゃまします」
小雪ちゃんはそう礼儀正しく言いつつ、きょろきょろと辺りを見回しながら耕助の勉強部屋に入る。
思えば、この部屋に家族以外を上げたのは久しぶりだった。
最後に部屋に入ってきたのは、確か幼馴染で学級委員長の梨乃ちゃんーー耕助が風邪で休んだ時に、プリントと切ったりんごを持って来てくれて、それ以来だ。
「わぁ、いっぱい図鑑」
小雪ちゃんは突然そう叫ぶと、本棚の図鑑に飛びつく。期待の篭った目でこちらを見る小雪ちゃんに、耕助が読んで良いよ、と言うと、小雪ちゃんは遠慮なくうつ伏せになってペラペラと自由に図鑑を読み始めた。
先程までは恥ずかしそうにもじもじしていたのに、この部屋に来てからは急に元気になったような気がするーー
耕助がその事を疑問に思って尋ねてみると、小雪ちゃんはその理由を教えてくれた。
「ボクね、知らない大人の人が苦手なの。知らない大人の人の前だと人見知りしちゃって、何も喋れなくなっちゃう」
女の子なのに自分のことボクって呼ぶんだ、という点に少し違和感を抱きつつも、耕助はそこには特に触れなかった。
そして知らない大人の人ーーそれは耕助の母の事であった。
更によく話を聞いてみると、どうやら小雪ちゃんは典型的な大人嫌いで、今回来たのも、同じTV局に勤める両親が同じ番組で海外出張に行くタイミングで、いつもならば東京にいる父方の祖父母に預かってもらう所を、今回はその大人嫌いを少しでも変えるため、また夏休み中に田舎の空気に触れる経験をするためということでーー半ば無理矢理ここに泊まらされる事になったらしい。
「さっきまでは不安で泣きそうだったんだけど…コーちゃん優しそうだからよかった」
コーちゃん。いきなりのあだ名呼びに耕助は少し閉口する。
やはり都会の子の距離の詰め方は分からない、と思った。
「ねぇねぇ、ゲームとかないの?」
小雪ちゃんは辺りを見回しながら言う。
やっぱそうなるよな、と思いつつ、耕助はゲームが無い事を小雪ちゃんに告げる。しかし小雪ちゃんは全く残念そうな顔をせず、次に予想外の提案をした。
「そっか。じゃあお外いこ」
お外。耕助も外で遊ぶのは大好きだが、あいにく外は大雨である。しかしその事を言うと、小雪ちゃんはこう続けた。
「カッパ着ていこーよ。カッパ」
小雪ちゃんはこの大雨でも、どうしても外に行きたいようであった。
今まで耕助の中では、大雨の日は家の中にいるもの、というのが当たり前のようにインプットされていたため、カッパを着て遊ぶ、という発想にすら行き着いた事が無かったがーー
しかし今小雪ちゃんからそういった異端の考えを聞くと、耕助も沸々と興味が湧いて来た。
今までの常識からの逸脱ーー。
その魅力的な響きに、耕助は少し身を震わせた。
〜〜〜〜〜〜〜
凄まじい勢いで雨がカッパを打ち付ける音が、耕助の鼓膜を心地良く刺激する。意外にも大雨の中の居心地は悪くない。こうやってぼーっと立っているだけで、まるで異世界に来たかのような高揚感がふつふつと湧いて来て、耕助は無性に叫びたいような、そんな気持ちになる。
「はんばーぐーーー!!」
そんな耕助の気持ちに呼応するかのように、雨音を切り裂く叫び声が隣から聞こえた。
見ると小雪ちゃんが大きな瞳を歪ませて楽しそうに笑いながら、こちらを見ていた。
「えへへ、はんばーぐ師匠」
あまりお笑い番組を見ない耕助はそれが何か分からなかったが、小雪ちゃんも自分と同じように、叫びたくなる程に昂っているのだという点だけは理解できた。
そしてその勢いに乗っかるように耕助も叫んだ。
「牛すじカレーーーっぷ!!」
叫んでいる途中で顔に水がかかり、耕助は思わず仰反る。
見ると小雪ちゃんが手を水鉄砲のようにして、悪戯っぽく笑っていた。
そしてその後、耕助も笑いながら、すぐさま同じようにして小雪ちゃんに反撃する。
小雪ちゃんから「きゃっ」という声が漏れ、小雪ちゃんは無邪気にきゃはきゃはと笑い声を上げる。そして耕助も声を上げながら、お互いに水をかけ合うーー。
先程初めてまともに話したばかりの2人。
しかしその仲睦まじい姿は、側から見れば深い絆で結ばれた兄妹のようだった。
「お、思ったより仲良くしてる。良かったぁ」
その様子を見て、いつの間にか外に出てきていた叔母は、安心したように母と顔を見合わせ微笑んだ。
そしてその後、叔母さんは母に駅まで車で送られて東京へと帰って行った。その瞬間だけは小雪ちゃんは少し寂しそうな顔をしていたがーー
耕助と水遊びを再開するとまた無邪気な笑顔に戻った。
〜〜〜〜〜〜〜
気がつくと、17時半の「夕焼け小焼け」が流れ始めていた。
もうかれこれ3時間くらい豪雨の中で遊んで、今はもうすっかり雨は上がり、雲間からオレンジの陽光が差し込んでいた。
そしてその空を見上げながら、2人は庭で横並びになって、仰向けに寝転んでいた。
「つかれたね…」
「うん…」
2人は疲労で頭が回らず脳死で会話をする。
耕助自身、これほどヘトヘトになるまで誰かと遊んだのも久しぶりーーそれこそ、夏休みに入る前の体育の授業以来だった。
心地よい疲労感に身を任せながら耕助は、たまには誰かと遊ぶのも悪くない、と思った。
「あ、みて」
小雪ちゃんが何かに気付いて指を差す。
見るとその方向には、綺麗な虹がかかっていた。
「きれい」
虹の方向を向いているため小雪ちゃんの表情ははっきりと見えないが…声のトーンから、きっと自分と同じようにうっとりしているのだろう、という事は想像できた。
自分と同じようにーー自分のその言い回しに少し引っかかり、耕助は少し物思いに耽る。
耕助の周りの子達はみんなゲームやYouTubeの話ばかりで自然や動物にはあまり興味が無いのに、逆に都会で育った小雪ちゃんは自然の景色に興味を持っているーー。
この現象は『ないものねだり』という人間の本質をまだ理解できていない11歳の耕助にとっては、どこか整合性の無い事のように感じられた。
「2人とも、お風呂沸いてるよー」
お母さんの声で耕助は一度考えるのをやめて立ち上がる。
そして玄関へ歩きだそうとするとーー後ろからカッパの裾をくいと引っ張られた。
見ると小雪ちゃんが俯きながら、不安げに耕助のカッパの裾を小さな手でぎゅっと掴んでおり、
そしてその瞬間、ひとりっ子の耕助は、生まれて初めて表面的な『兄』を体験したことで、少し優越感に浸りながら、小雪ちゃんに「大丈夫」と優しく声をかけて、一緒に家の中に入っていった。
その夜はハンバーグ牛すじカレーだった。




