5話 境地
ーーまだもんじゃタイムの余韻が残っている。
翌日、耕助は昼頃になってもベッドで仰向けに寝転がりながら、天井に付着する小さなシミをぼぅと見つめていた。
今日は平日なので無理矢理起こしてくれる母もおらず、このままだとずっとこの状態で1日を終えてしまうがーー今は何もしなくとも危機感が全く湧いて来なかった。
もういっそ一日中こうしていようか。
そんな事を考え始めているとーー
「犬飼氏」
玄関先で耕助の苗字を呼ぶ声がする。
そして耕助はその声を聞いた瞬間ーーとある用事を思い出した。
「犬飼氏、いるかい?」
◯◯氏という呼び方をするのは、耕助の友達には1人しかいない。
耕助はようやく重い身体を起こし玄関に向かうとーー
「あ、犬飼氏。お世話になります」
一時期の耕助と同じようなスキンヘッドの少女が、合掌しながら立っていた。
〜〜〜〜〜〜
耕助がスキンヘッドになった際、本書では◯ノ内サディスティックになぞらえて『僧になった』と形容したが…実際は罰で髪を刈られただけの耕助とは違って、この少女ーー尼崎柚子胡は正真正銘、本物の僧なのであった。
いや、正確には尼と言うべきだろうか。
「しかし犬飼氏、今日は特に元気が無いように見えるが…何かあったのかい」
柚子胡が心配そうに耕助の横顔を覗き込んで言う。
そして耕助が柚子胡に昨日の『もんじゃタイム』の一部始終を伝えるとーー
「なななななにぃ!?ききききききすぅ!?そそそそそそそそ」
柚子胡は耕助が2号から口づけされた話を聞いた途端、露骨に顔を真っ赤にして、着ている虹色の袈裟を振り乱しながら激しく狼狽える。
「そそそんなの、普通ならば煩悩塗れになる筈なのに…何故、犬飼氏は寧ろ、悟りを開いたような顔をしているのだ!?」
「これが『もんじゃタイム』です」
「いや、そんなメンタリズムみたいに言われても…!!くうっ…」
柚子胡は突如として唇を噛むと、おもむろにその場で座禅を組んで瞑想する。
そしてしばらくするとーー
「失礼、取り乱してしまった。なるほど、もう既にその感じなら、今日は更に深い境地へと行けるかもしれないね」
柚子胡はまた平常心に戻り、平然とした表情で会話を続けた。
〜〜〜〜〜〜
凸洞寺。柚子胡含む尼崎家が江戸時代から代々受け継いできた、この町唯一の寺院である。
耕助は小6になったくらいから、1ヶ月に一度の第二月曜日、この寺院に習い事のような感じで通っており、同級生で次期住職の柚子胡と共に修行を行っていた。
「こんにちは、耕助君。お世話になります」
凸洞寺に着くと、現住職で柚子胡の父の寛永が穏やかな笑顔で迎え入れてくれた。そして寺に上がるとすぐに奥の間へ案内されーー耕助と柚子胡はいつものようにその真ん中で座禅を組みながら、各自でお経を唱え始める。
そしてそうやってお経を通じて会話をする事で、お互いの心の深層部分を徐々にほぐしていきーー
やがて悟りの境地へとその身を預けていくのだった。
今、耕助は一面真っ白の何もない場所にいた。
そして目の前には見上げる程に大きく重厚な扉ーー耕助はその扉に手をかける。
そしてゆっくりとーー両足を踏ん張って扉を押す。
すると鈍い音と共に扉が開いてーー
耕助はその中に身を投じた。
耕助がこの扉を開けて境地に入る事が出来たのは、これまでわずか2回ーー
更にその2回とも、境地には何も無かった。
しかし今回はーー
「あれ…」
耕助が扉の繋がった先に入るとーー
そこは誰かの家のリビングであった。
耕助は初めて扉の先に風景がある事に驚きながら、辺りを見回す。
そこに人の姿はないが、部屋の電気は付いていてーー誰かが暮らしている痕跡はあった。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
すると赤ん坊の泣き声がして、耕助は反射的に身を隠す。
「よしよし」
そしてその赤ん坊をあやす女性ーー
その女性の顔を見て、耕助は驚く。
「叔母さん…?いや…」
その顔は叔母とそっくりであったがーー今の叔母よりは遥かに若く美人であった。そしてーー
心から幸せそうに大きな瞳を歪ませて笑っていた。
そしてその特徴的な笑い方に…耕助は心当たりがあった。
「…小雪ちゃ」
きぃ、ばたん。
そう扉が閉まる音がしてーー
耕助は現実へと引き戻された。
「犬飼氏、お疲れ様」
目を開けると、そこには柚子胡の顔があってーー耕助に冷たい麦茶を差し出していた。
そして耕助はそれを一気に飲み干す。
「遂に、見えたようだね」
柚子胡が嬉しそうに笑いながら言うと、耕助は無表情で頷いた。
「多分、未来が見えた」
「未来、なるほど。それはどのようなーー」
柚子胡が目を光らせながら興味深々と言った様子で聞いてくる。
しかしーー住職の寛永は片手で柚子胡の両頬を掴んで制止した。
「柚子胡、あまり他人の境地の内容は聞くものではありませんよ。境地の内容は人それぞれ。だからこそ見たものは自分自身の内のみに秘め、一人で悟りを深めていく事に意義があるのです」
「はい、申し訳ありませんん…」
柚子胡は住職に説教されて涙目で返事した後、それを隠すように走ってお茶菓子を取りに行った。
その様子を見て、住職は呆れたように言う。
「あの様子では、あの子が境地に入るのはいつになる事やら…耕助君、柚子胡と結婚してここの住職になりませんか」
寛永の婿入りの勧誘に、耕助は首をぶんぶんと横に振った。
結婚。
先程境地の中で見た大人になった小雪ちゃんーー
その小雪ちゃんは誰かと結婚していて、子どもまで出来ていた。
「次来た時には、おめでとうって言ってあげないとな…」
耕助はそう小さく呟いて、柚子胡が持って来た高級饅頭を一つ
口に放り込む。
しかし高級な割に、味はあまりしなかった。
また胸がちくちくと痛んでいた。




