1話 ちくり
「登れ!犬飼耕助、登れぇぇーーーー」
ーー登り切ったぁぁぁぁぁ…
ーーぁぁぁぁ…
――ぁぁ…
みーんみんみんみん。
セミの号哭がけたたましく鳴り響く朝、耕助は自室のベッドの上で目を覚ます。
そして寝ぼけ眼で周囲を見回しーー
夢か、と真空ジェシカの如く落胆した。
目をこすりながらデジタル時計を見ると、日付は8月3日ーー
夏祭りの翌日。
耕助はおもむろに昨日の記憶を辿る。
しかしどういう訳か、花火を見た後の記憶だけがぽっかりと抜け落ちていた。
どうやって家に帰って来たのかも分からないーー
耕助は腑に落ちぬまま、ベッドを出て一歩、二歩と歩き出す。
するとその瞬間だったーー
「わ、わ」
踏み出した足の回転がどんどん加速して止まらず、耕助は部屋のドアへと一直線に進み続けていく。
そしてーードアに額を思いきりぶつけ、部屋中に衝突音が響き渡る。
反射的に額を抑えて蹲り、じんじんと痛みが込み上げてくると同時にーー耕助は自分の身体の異変に気付いた。
軽いのだ。
身体が自分のものとは思えぬ程、途轍もなく。
「何だこれ…」
耕助が額をさすりながらドアを開けようとするとーーバキ、という鈍い音と共にドアノブが砕け散る。
驚いて自分の掌を見るとーー指先が溢れんばかりの力を制御できぬかのように、ビクビクと脈打っていた。
しかもそれだけでは無い。
パジャマをたくし上げて自身の腹筋を見ると、見事なまでのシックスパックになっておりーー更に猫のように丸まることができる程、身体も柔らかくなっている。
本来身体能力は普通の小学生並みである筈の耕助がーー今はさながら体操選手の様な身体能力を手にしていたのであった。
「これは…」
耕助はしばしの間、ぽかんとする。そしてーー
「SAS◯KE完全制覇、ってコト!?」
耕助は唐突にそう叫ぶと、ドアをぶち破るかの勢いで部屋を出る。
そして羽毛のように軽くなった身体をリズミカルに動かしながら階段を降りて、真っ直ぐに玄関へと向かう。
「おはよ…うわ!」
掃除機をかける母の横を爆速で駆け抜けると、母はぐるりと一回転し、掃除機の中身を全てぶちまけてしまった。
その様子を尻目に、耕助は勢いよく玄関を開け放ちーーパジャマのまま外に出る。
そして興奮による身体の疼きに身を任せるように、庭をがむしゃらに走り回りながらーー耕助は今日の夢を思い出す。
あの完全制覇は夢ではなく、現実の記憶だったのだ。
1号は本当に、願いを叶えてくれたのだーー
耕助は1号に感謝し、ひとしきり庭を走った後、今度はその強靭な指の力を活かし、するすると屋根の上へと駆け登っていく。
そして初めて屋根の上から町の全貌を見渡しーーその優越感に、耕助は思わず「うは」と高い声を上げる。
そしてその興奮を発散するかのようにーー
「ふぉー!」
二階建ての屋根からジャンプ一番、胸を突き出して飛び降りーーそして空中でモモンガのように手足を目いっぱい広げて宙を舞い、前方に一回転しながらーー
すたっ。
砂埃と共に、庭の中央へと綺麗に着地したのだった。
そして、耕助がその快感にぶるりと身体を震わせているとーー
「おぉ」
周囲に誰かのどよめきが響き、耕助は辺りを見回す。
するとそこにはいつの間にか大勢の記者が耕助を囲むように立っており、耕助に無数のカメラとマイクを向けていた。
その異様な光景に耕助は慄くが…そんな耕助をよそに、記者達は口々に耕助に質問を投げかける。
「犬飼君!史上最年少の完全制覇おめでとうございます!是非お話を聞かせて下さい!」
「普段からそうやってトレーニングされているんですか!?」
「好きな食べ物は何です&w?roj」
「普段の学校生活では何をjo/&//tjwiliーー」
「@#@mgp@pdwydw'hdwgw-----」
次々と耕助に押し寄せてくる記者達の質問の波。
自分のパーソナルな部分が土足で踏み荒らされていく感覚。
その吐き気を催すようなおぞましさに、田舎町の素朴な少年の脳の処理能力は一瞬にして破綻し…耕助はぐるぐるぐると目を回しながらーー
「あぁぁぁぁぁぁ」
狂乱の叫び声をあげた。
〜〜〜〜〜〜
「はぁ、はぁ、はぁ…」
耕助は家まで押し寄せてきた記者達を全て追い返すと、思わずその場にへたり込む。
なるほど、完全制覇しても良い事ばかりではないのかーー。
そう思いながら耕助は、1号が言った「願いを叶えた後の事までは保証できない」という言葉の意味を改めて理解した。
「耕助君」
その時、近くから誰かの声が聞こえた。
耕助はまた記者か、とうんざりした表情でその方向を見る。
しかしそこには先程の記者達とは少し雰囲気の違うーースーツとシルクハットを着た40歳手前くらいのダンディな男性が立っていた。
「耕助君、大きくなったね。マスコミに囲まれて大変そうだったけれど、大丈夫かい?あ、僕はマスコミじゃないよ。僕はね…」
そのダンディな男性はそう1人で話しながら耕助に近付いてきて、優しい笑顔を耕助に向ける。
その時の瞳の歪み方が、小雪ちゃんそっくりで…
耕助はこの人が小雪ちゃんのお父さんーー叔父だと確信した。
「そうそう。叔父さん。よく分かったね」
そしてこの男性が叔父である事に気付くと同時に、耕助は大切なことを思い出す。
そういえば今日は小雪ちゃんが泊まりに来て4日目の朝…
小雪ちゃんはもう、東京に帰ってしまうのだ。
そしてその瞬間、耕助の胸が少しちくりと痛む。
それは耕助にとって、初めての感情だった。
〜〜〜〜〜〜
「やっぱり小学生でSAS〇KE完全制覇者にもなると、厚かましいマスコミが沢山来ますからねぇ。僕の方から各局に失礼な事しないように念押しときますね」
「あ、ありがとうございますぅ。え、マスコミ来てたんですか?掃除機かけてて全然気付かなかったわ、おほほ」
「僕も仕事してて全然気付かなかった。いやー、助かります」
叔父と両親が話している中、1人黙って考え込んでいると、母に小声で2階にいる小雪ちゃんを起こすように言いつけられ、耕助はリビングを出た。
「小雪ちゃん」
そして耕助は未だ釈然としない心待ちのまま、2階の客間へと小雪ちゃんを呼びに行く。
返事がないのでドアを開けると、小雪ちゃんは既に起きていてーー
ベッドの上で窓の外の景色を眺めながら、ちょこんと座っていた。
「小雪ちゃん、お父さん迎えに来たよ」
耕助はそう用件を告げながら、小雪ちゃんの横に座る。
そして小雪ちゃんの横顔を見ると、その大まかな顔立ち自体はあまり変わらないがーー
その表情には今までと違って、少し艶っぽい雰囲気が漂っているような気がした。
「うん、知ってる」
小雪ちゃんは鈴の音のように澄んだ声で頷く。
小雪ちゃんの声をこれほど心地よいと思ったのは、これが初めてだった。
「ここってほんとに、良い所だね」
「でしょ」
「うん。東京と違って…ここの空気はほんのり甘くて、心地いい」
そしてそう言うと、小雪ちゃんは耕助に綺麗な顔を向ける。
清く美しい瞳が耕助を熱っぽく捉えると、小雪ちゃんは頬を少し朱色に染めながらーー
「また来るね」
そう言ってふわりと微笑んだ。
するとまた耕助の胸がちくりと痛んだがーー
その理由を、耕助はまだ知らない。




