記憶と記録 その涙のわけ
記憶と記録 その涙のわけ
サンデッキのあるレストラン 六月初旬の晴れ渡った空の下。
込み合う客、アイスを落っことした男の子がべそをかいている。
その近くの丸テーブルに2人の男が座っていた。
一人は、ホットコーヒー もう一人は、オレンジジュースを注文していた
オレンジジュースの方は、スケッチブックに鉛筆で向いのビルを描いている。時々首を左に向け。
コーヒーを飲んでいるのは貴也 オレンジジュースの方は智弘。
貴也が心配そうな顔を向け智弘に「三っ先のテーブルの子お前の事知っているんじゃないか」
智弘はちらっとその方へ視線を向けるが、首を横に振った。
「ちらちらとこちらの方を見てるぞ」
それには無反応に鉛筆でデッサンを続ける智弘。
一方、三っ先には2人の女の子が座っている。
「奈々枝、あなたあのテーブルの人、知ってる人なの」と顔を覗き込みながら。
奈々枝は驚いた風で「え、どうして」と瑠衣に顔を向けた
「だってあなたあの人の事を何度も見てるわよ」と留衣
「ええ」と曖昧に答える奈々枝
貴也が「智、行って話を聞いてこい」と半分命令口調。
智弘は少し間を開け気の向かない風に椅子から立ち上がり女たちのテーブルの方へ向かう。
テーブルに着いた智弘は軽く会釈をし唐突に
「君たちは、僕の事を知ってる」と言う。少し驚いた風だが奈々枝は
「ええ、智弘くん、竹田智弘くん、みんなはたけとも君って呼んでたけど」と戸惑いながら答える。
それには反応せず、留衣の方へ向き君もかいとゆう風に、留衣は顔の前で手を振り
「すいません、私は初めてです」とすまなそうに。
「座らせてもらっていいかな」と智弘は奈々枝の方を見て「ええ」と首を縦に振るのを見
て座った。 「君がそのニックネームを知っているということは、高校の時の知り合いかな」と尋ねる。
奈々枝は困惑したように頷く、その目はかすかに潤んでいるようだ 智弘は、しばらく無言で居たが、スケッチブックを広げまっさらなページに鉛筆を走らせながら、
「申し訳ないけど、僕は君のことが誰だか解らない」と顔を奈々枝の方に向け続けて、
「五年前に、頭を怪我して、以前の記憶が所々曖昧になってしまつて」 「よかったら君の知っている事を話してくれないかな」
転校生で高1から高3まで同級生 、修学旅行の事などをさらに目を潤ませながら話した。奈々枝の話は怪我の静養で実家に居た頃に聞きとっていた事とほぼ同じだった。 スケッチブックに向かい奈々枝の姿を鉛筆で描きながら、奈々枝の話が途切れるのを待ちしばらく間をおいて、智弘は話し終わったかという風に奈々枝を見
「ありがとう、驚かせたかもしれないけどごめんね」と立ち上がり留衣に軽く会釈をして 「それじゃ」と自分のテーブルに向け歩き出した。
自分の椅子に座り、一言、二言、伝えると、又スケッチブックに向かい奈々枝のデッサンを始めた。
貴也は「そうか」とため息交じりにコーヒーをすすった。
軽やかな足取りでスカートの裾をひらひらと1人の女が彼らのテーブルへと向かう。
貴也は「おお」と軽く手を挙げる、智弘はスケッチブックを2枚めくり、ビルのデッサンへ、それを目ざとく見咎め、女は智弘の前に立ち
「何か隠したわネ」と手を差し出した。
智弘は観念したようにスケッチブックを女に渡しジュースのグラスを持ち上げる。
「誰、この子」と女は気色ばむ風もなく描かれた女の姿を見ながら、貴也の横の椅子に腰を下ろし、貴也と智弘を交互に見ている。
貴也は、その絵を覗き込みながら
「おい、あき、やめろお前が変な態度取るからその絵の子が、涙ぐんでるじゃないか」
あきは貴也の目線をおうと三つ先のテーブルに、ハンカチを握る女の子がいた
「どうしたの」とあきは貴也に向き直り話を待つ、
貴也が話し出すと智弘の方に向き直る。
智弘はスケッチブックを返せとばかりにあきに、手を差し出しそれを受け取り、又デッサンを始めた。
貴也の話が終わり、智弘に向けていた視線を奈々枝に向けおもむろに立ち上がり、
「ちっと行ってくる」と奈々枝のテーブルに向かう。
貴也は驚いた風に「おい」と1言、そして「すまんな」と智弘に言い顔を横に振った。
あきは奈々枝から目をそらさず歩き
「ここ座ってもいいかしら」と言いながらうむをいわせぬ風に座り、
「私進藤あきというの、あなたは」と奈々枝に
「私は大場奈々枝です」と聞くが早いか、
「あなた智の事知ってるのネ」、奈々枝は軽くうなずく、その目は潤んでいた。
あきは留衣の方に向き「あなたも」。留衣は首を横に振る。
又、奈々枝に向き直り
「智から話は聞いたよネ」。
「はい」と奈々枝の声は小さい。じれったそうにあきは留衣に向かい
「どんなふうに聞いたの」と問いただす。
「何か怪我をして、記憶が所々曖昧になっていると言って、奈々枝の事もわからないと言っていました」と留衣は答えた
あきは椅子の背もたれにもたれ、どちらにともなく
「そう、所々曖昧になっているって言ったの」
間があって
「ほんとうはネ、怪我以前の記憶はネ全てなくなっているのヨ」と奈々枝に
「18年何か月かの記憶が全て何もないのヨ」それを聞き奈々枝の目から涙があふれ出す。奈々枝はハンカチを目に当て肩を震わせた。奈々枝の高ぶりは、なかなかおさまらず、それをあきは待った。
そうして間があって
「ああ、それからネ」と明るく男たちのテーブルを指さしながら
「あそこに居るのはネ、智は知っているわよネ、もう1人の体のがっちりしたでくのぼうのような男、あれが私のフィアンセの貴也、智は貴也の職場の後輩」と奈々枝の顔を覗き込みながら微笑む
「それじゃあ、そういう事だから何か思い出した事があったら話を聞かせてネ」と言って去っていった
あきが消えたテーブルは嵐の後のような静寂留衣が「あなた、智弘さんの事、好きだったの」と奈々枝を覗き込む。
奈々枝はハンカチを握りしめたまま小さくうなずき
「高校の時の、私の片思いだけどネ」と、それからさらに小さな声で続ける。
その言葉に留衣は驚いた。
「そう」と合点がいったように
「奈々枝、私これで帰るから、あなたは智弘さんのところに行きなさい」
奈々枝は首を弱々しく振る。
「奈々枝、あなた今でも好きなんでしょ」奈々枝は頷き、留衣の方に顔を上げた。
「今行かなければ、もう二度と出会うことはできないかもしれないよ、それじゃ悲しすぎるでしょ」
奈々枝はうなづき、首を横に振り、どうしていいかわからぬ風にうろたえる。
そんな様子を静かに見守りながら
留衣は「さあ、お化粧を直しに行きましょう」と立ち上がり奈々枝の手を取った。
一方、貴也は気が気でないといった風に女三人のテーブルを見ていた。
智弘はその方へは、一瞥もせずに、スケッチブックに奈々枝を描いていた。
あきが、自分たちのテーブルに着くや否や
「おい、何やってんだよ、なんであの子を泣かせたんだよ」と問いただす。
あきは、すまし顔で
「大丈夫ヨ、あなたが私のいい男だってことはちゃんと言ったから、それにもともと、あの子涙ぐんでたじゃない、そしてあの大泣き」
「あの子じゃ、だめだよネ」
貴也はきょとんと「だめよねて、何がだよ」 「まったく、あなたって人は」とあきは貴也を軽くにらむ。
貴也はわけがわからず「おれがなんだってんだよ」
「女の気持ちがわかっていないって言ってるの」と今度はきっとにらむ。
貴也は黙り込み、
あきの「あの子が、このテーブルに来てくれるかどうかネ」と言う言葉にお手上げをせざるを得なかった。
奈々枝と留衣がテーブルを立ち店の中に向かうのを見て
「こっちに来ないじゃないかよ」とあきにふくれる。
「そうかもネ」とあきはそちらに見向きもせずに。
そんな2人の話に見向きもせず、智弘はスケッチブックに向かっていた。
そんな智弘がふっと香水の香りで顔を上げると、奈々枝が不安そうにこちらに向かってきていた。
貴也は驚きあきに顔を向けるが、あきは素知らぬ顔
「ここに座らせていただいてもいいですか」との声に初めて気付いたように
「どうぞ、何か思い出した事でもある」
「あ、はい」と少しうつむき加減で
「私、智弘くんに、スカートをめくられた事があるんです」と
貴也は驚き、口に含んだ水を吹き出しそうになる
あきはフフとかすかに笑う。
智弘は、奈々枝を、不思議そうに見つめた。 「そういえばもう1人のお友達、名前聞くのを忘れたんだけど」と。
そこへ奈々枝に手を振りながら留衣が歩道を歩き去っていく。
あきは留衣に深く頭を下げた。
智弘は、頭の怪我の関係で携帯を持つ許可がおりていない、あきと奈々枝が電話番号の交換をした。
その夜、奈々枝は興奮して寝付けず智弘との事を思い出していた。
後日 サンデッキの丸テーブルに四人はいた。智弘は相変わらずデッサンに向かっている。「奈々枝ちゃん、あなた智と二人でデートとかしてるの」とあきは指でつんつんと智弘を指しながら奈々枝へ
「あ、はい、いいえ、会うときはいつもお二人と一緒です」
「そう、そうなの、じゃあ二人きりで話した事とかないの、それじゃちょうどいいかもネ、私たち用事があって1時間くらい、出てくるからネ、ふふ、ブライダルの用事なの」と貴也を目で促す。
貴也は「おお」と立ち上がり「そんなに時間はかからないと思うよ」と、照れくさそうに あきは「智、鉛筆,置きなさい」とデッサンに向いたままの智弘を睨み「鉛筆」と指でテーブルを指し「置きなさい」と。
気おされ智弘は、鉛筆から手を放す、
それを見届け
「それじゃネ」と貴也の腕に抱きつくように二人は、店の中へと向かっていった。
二人を見送りながら、智弘は鉛筆を手に取り腕を組んだ、男女の後姿を素早く描き始めた。 奈々枝はそんな智弘の姿を眺めながら無言のままコーヒーをすすった。
どれ程の時が過ぎたのか、奈々枝のコーヒーカップは空になり、智弘のオレンジジュースの氷はなくなっていた。
唐突に、顔を上げた智弘は「うう」と少しうなった後
「大場さん」と奈々枝を一瞥し顔を前に向けなおし
「申し訳ないんだけど、君と会うのをやめたいと思っているんだ、本当に申し訳ないんだけど」
奈々枝は驚きうろたえ、下を向く。
そんな奈々枝を見もせずに「僕には君の事が、ストレスなんだよ」
「君のその香水の香り、どうしてかは分らないけど、苦しくなってしまう」と奈々枝の方を見ず
「ごめんな、ひどいことをいって」と頭を下げた。
奈々枝の目から涙があふれ,ほほを伝っている、ハンカチを探し当て、拭うが、次から次に溢れる。
そんな奈々枝から目をそらして、
「ごめんな」と智弘はつぶやく。
奈々枝のいなくなったテーブル、智弘はスケッチブックに向かっていた。
そこには腕を組む幸せそうな男女の後姿が、だが鉛筆はないどこにいってしまったか。
長い時間が流れたのかどうだろうか。
顔を上げると、貴也とあきがテーブルにいた。「二人でデートする話は出来たのか」と貴也、貴也は二人で歩きながら「奈々枝ちゃんじゃだめなのかしら」というあきの呟きの意味を少し感じとっていた。
それにはこたえない智弘に、あきは「奈々枝ちゃんは」と言いながら腰を下ろす。
「帰りました」と言い、それから頭を振りながら「帰ってもらいました」と言いなおした。「お前」と貴也は絶句し椅子にどっかと座る。あきは何かつぶやいたようだが身じろぎもせずにいた。
奈々枝はどこをどう歩いたのか自分の家に着いていた。
玄関を入りいつもはキッチンに声をかけるが、何にも見向きもせず2階の自分の部屋へ入った。
その足音を聞きながら、母の里枝は居間に居た夫の雅夫の方を見た。
雅夫は里枝と目を合わせ、行って来いと顎を2階へと向ける。
里枝はタオルで手を拭きながら2階へと向かい、
「奈々枝ちゃん」と部屋の扉の前から声をかける「入っていい」
奈々枝は「あっ、ちょっと待って」と涙をぬぐい鏡を見、「はい、いいわよ」
その声で里枝は入り、奈々枝の顔を見ると、そこに涙の跡が見え、悲しそうな奈々枝。
ベットに垂れかかるように座る奈々枝、その横に座りながら「どうしたの大丈夫」
「う、うん」と少し間があって
「今、付き合っている彼から別れを言われたの、もう会うのをやめようて」
「私は彼にとってストレスだって」
「そうなの」と奈々枝の方を向いて「智弘君なんでしょ」
「え」と奈々枝 すこし驚いた風に「どうして知っているの」
奈々枝は母には色々なことを話していた、今付き合っている男がいること、その男の怪我のこと、記憶がないこと、だが智弘の名前は出していなかった。
それなのに何故と。
里枝はそれには答えずに
「三度目の別れになるのネ」とうなだれる奈々枝の顔を覗き込みながら
「短大一年の頃付き合っていたわよネ智弘君と、あの頃のあなた本当に幸そうだったわ」
奈々枝の目から涙がこぼれ落ちていた。
「そんな思い出も智弘君にはないのネ」
「悲しいわネ、つらいわネ」
「でもネ、奈々枝ちゃん、智弘君もつらいと思うはもっともっとつらいんじゃないかしら」 その母の言葉に奈々枝は、はっと顔を上げる。そんな奈々枝に
「あなた、その頃の事彼に話したの」
奈々枝は顔を横に振りながら
「そんなこと出来ないわ、話せばつらくなるもの」
「そうなの、智弘君がつらくなるし、そしてあなたはもっとつらくなるのネ」
「あなたは彼に何を望んでいるの、彼とどう付き合っていこうとしてるの」
「奈々枝、強くなりなさい」
「あなたは、昔の智弘君と今の智弘君、どちらも知っているのヨ、彼よりも知っているのヨ」
「そんなあなたがメソメソしてちゃだめ」
「彼に寄り添って、彼がよろけそうになったら手を差し伸べて支えてあげて」
「強くなって、奈々枝」
サンデッキの丸テーブル、奈々枝は一人座っていた。
昨日あきに電話して待ち合わせしている。
そこに貴也とあきが近づいてくる。
奈々枝は椅子から立ち上がり2人に軽く会釈をし2人が座るのを待って腰を下ろした。
「久しぶりネ」とあきはよそよそしい
「お呼び立てしてすいません」とあきを正面から見て
「智弘さんから別れを言われたことはご存じだとおもいますが」
「私、彼とお別れするのはこれで、三度目になるんです」
「三度目」と貴也は驚きあきを見る。あきは「そう」と
高校の転校、短大一年の頃の事などを話し、「そして、今度が三度目です」
「私、今智弘くんと別れたらもう二度と彼に巡り合うことはできないと思います」
「それは嫌ないです 」
「彼の手を放したくないんです。ずっと握っていたいんです」と少し俯き加減になる顔を上げ「それでお願いが」
その言葉を遮るように、あきは
「わかったわ、智をここに呼び出せばいいのネ、今から」
「いえ、もう一つやらなければならない事があるので」と奈々枝。
それまで黙っていた貴也が「俺たちも一緒にいようか」と
その言葉が終わるや否やテーブルがガタッと揺れコーヒーカップがカタカタと鳴った。 貴也はあきを睨む、あきが貴也の足を蹴り上げたのだ。
奈々枝は軽く頭を横に振りながら「いえ、大丈夫です」と
奈々枝の居なくなったテーブル、あきが貴也を睨んでいる。
貴也は気まずそうに
「すまんすまん」「だげど、あの子、涙見せなかったな」と
「だから言ったでしょ、女はネ変われるのよ、好きな人の為なら」と貴也に微笑み返す。
とある総合病院、脳神経外科の待合室、 多くの人の中に奈々枝は居た。
看護師がやってくる。病状を書き取るためのバインダーを持って
「大場奈々枝さんですね、今日はどのようにあっておいでですか」
奈々枝は「あの実は竹田智弘さんの事をお聞きしたくて来ました、診察ではないんです」 看護師はどういう御関係ですかと聞き
「それは、少しお待ちください、医師に聞いてきますから」と去って行った。
看護師は「真司医師」と声をかける
「新患の大場奈々枝さん、竹田智弘さんの事をお聞きしたいということで、診察ではないようです」
真司は「どういう関係か聞いたのかい」と言い、看護師の話を聞き
「ただお付き合いをしているだけの人に彼の事を話せないだろう」と看護師に向き直って言い、すぐに机のコンピュータに向かう。
「あっ、すいません」と看護師「それが、医師あの方は智弘さんのデッサンにあった女性のようなんです。たぶんまちがいないと思います」
「本当かい」と真司は彼女が頷くのを確認してコンピューターの中から、智弘のカルテを探し出す。
その中には智弘が描いたデッサンが何枚もあり、その中から女性の横顔のデッサンを探し出し
「この女かい」と看護師に指さす。
「はい」と頷くのを見て、又デッサンへと目を向ける。
「あの医師、大場さんには何と伝えましょう」と少し困ったように
「ううん、何もいわなくていいよ、少し放ておきなさい」と
看護師はさらに困ったように「はい」と言って去って行った。
奈々枝は長椅子に腰かけたまま、身じろぎもせずにいた。
真司は患者が途切れ、再び智弘のデッサンの中の女性を見ながら
「この女はまだ居るのかな」と、
看護師が「はい」と言うのを聞いて受話器を取り
「裕美医師、少しお時間をいただけますか、智弘君の事で、例の横顔の女性がみえていまして、彼の事を聞きたいと」
奈々枝は、待合室、たくさん居た人たちも1人減り2人減りして、そして誰もいなくなった長椅子に一人座っていた。
そこに一人の白衣の女性が歩き過ぎる。
診察室の入口を開け中の人と言葉を交わすと、奈々枝の方へ歩み寄って
「智弘君のお知り合いの方ですネ」奈々枝が「はい」と言うのを聞き
「お待たせしました、それじゃ部屋へはいりましょう」と奈々枝を促す。
診察室、真司が椅子に座っている裕美と奈々枝が入ってくると「どうぞ」と空いた椅子をすすめ
「さてと、大場奈々枝さんですね、私は久保真司、脳神経外科医をやっています、こちらは佐々木裕美医師、精神科の担当です」と裕美を紹介する。
二人は互いに会釈を交わす。
「まず、私の担当する人たちの間では、下の名前で呼び合うようにしているので、よろしくお願いします」と言って奈々枝を正面から見、それからコンピューターへと向かう。
「精神科の裕美です、智弘君の状態というのはだいたいお分かりなんですネ」
「頭に大変な怪我をされた事、それ以前の記憶を一切失っている事」
奈々枝は「はい」と強く頷いた。
「今の智弘君には、五年ちょっとの記憶しかないのネ、それ以前の事も少しは知っているけどそれは、みんなから聞き、覚えた事で、彼の言葉を借りれば記録だそうヨ」
「一年位前までは積極的に、知り合いに会って話を聞いていたのヨ記憶の隙間を埋めようとしてたの」
「それが、最近では逆に知り合いを避けているのヨ」と一気に話すと裕美は奈々枝の方から真司へと目線をうつす。
それを受け取って「奈々枝さん、これを見てくれるかな」とコンピューターの画面を指さす。
そこには男女2人が描かれていた。
奈々枝には貴也とあきであることがすぐにわかった。それを描いたのが智弘であることも、そのことを二人の医師に告げた。
真司は「うまく描けているね、二人だとすぐにわかったんだね」
奈々枝が頷くのを見て
「診察の時、彼のスケッチブックを見せてもらってこういう風にコンピューターに取り込んでいるんだが、彼の絵は、建物とか風景とかが多く、たまに人物が描かれていても、後姿だったり、顔がしっかり描かれてなかったりでね」
「それでっ」と真司はコンピューターの中から次の絵を探し
「これをみてくれるかな」と
奈々枝ははっと驚き口に手を当てた。
サンデッキの丸テーブル、そこに座る奈々枝。{初めて、見る絵だ}と思った。
「僕たちは、この女を謎の横顔美人さんと呼んでいたんだよ。そしてこの女が三人目の人物としてね」
「智弘君に聞いても、高校の時の同級生ということだけなんだよ」と裕美を見それから、奈々枝の方に「謎が解けるいいんだけど」
「はい」と奈々枝は少し間をおいて、高校、短大1年、そしてこの絵の時の事を話した・話が終わり少し下を向いて考えごとをしていた裕美が「大学1年の時の事は智弘君には話してないのネ」
奈々枝は「まだ」と頷く。
それを見て真司は「貴也さんとあきさん、お二人の、話題はよく出てくるし、親しくしているし、心安らぐ人たちだと僕は思っている」「奈々枝さん、君にそれを期待しているんだけど」
奈々枝は顔を横に振り「まだ、今はだめだと思います。智弘くんは私の事をストレスだと言いました、私の、私の香水の香りにもストレスを感じると」
真司と裕美は顔を見合わせ無言だった。
サンデッキの丸テーブル、智弘は一人スケッチブックに向かっている。
このレストランを描いている、テーブルにはオレンジジュースが半分ほど残っている。
かすかな香りに誘われるように顔を上げる、そこには奈々枝の姿があった。智弘はそれには反応せず、又デッサンを始める。
奈々枝は「失礼します」と横の椅子に腰を下ろす。
「すみません、今日は貴也さんとあきさんはお見えになりません。私がお願いして智くんをここに呼んでいただいたんです」奈々枝はまっすぐに見ていた顔を少し横に向け
「先日、智くんは私にもう会わないようにしようと言いました、私の事をストレスに感じていると」
「私、智くんからもう会わないようにしようと言われたのは二度目なんです」
奈々枝の言葉に、智弘はピクンと顔を上げかけるが又元に戻す。
「私たち、大学一年の春のあの日に再会していたんです。高三の私の転校で、お別れして一年もたたないうちに」
「そして、お付き合いが始まったんです、九重夢大吊り橋にも一緒に行きました、院内の石橋群も何か所も渡りました、智くんに色々説明してもらいました、動画の撮影にも一緒に行って私が車の運転をしました。お誕生日プレゼントもいただきました、私からもさしあげました、とても楽しい幸せな日々でした。」奈々枝は話を切り智弘を見るが、智弘はあいかわらずスケッチブックを見ている。
「それが突然、何の前触れもなく、本当に突然もう会わないようにしようって言われたんです、え、何故、どうしてと思いました、何故、今日そんなことを言うのと」
「とても悲しかったし、智くんあなたを恨みました。涙が枯れるほど泣きました。でも、涙って枯れることないんですネ」と智弘の方を見やる
が、智弘は相変わらずスケッチブックの方を見ているが、鉛筆は動いていない。
「私、とても後悔しました、何故イヤだと言わなかったのか、あなたと別れるのはイヤだと」
「私のどこが嫌いなのと」
「そのあと何度も連絡しましたでも連絡が着かなかったんです」奈々枝は智弘の方に向き直り
「私は高校の時から、あなたの事がすきでした、会えなくなっていた時もずっと想っていました、だからあなたとお別れするのはイヤです。今、お別れして又今度いつ会うことができるのでしょ」と首を振りながら
「だからイヤです、あなたの手を離さずにいたいんです、お願いです」奈々枝は話を終えた。涙は無かった、感情の高ぶりはあったが、{あの泣き虫奈々枝と言われていた自分なのに}とおもった。
智弘は、何か考えているようだったが、おもむろに顔を上げ「君は僕の怪我の事知らなかったよね」と奈々枝に向き直る。
「え、ええ」と一旦下に向きかけた顔を智弘に向け
「智くんから、別れを告げられたのは五年前の八月三日です」一息おいて「次の日の八月四日が私の二十歳の誕生日でした」
智弘は遠くをみるような目線の定まらぬように「五年前の八月三日;;;そして八月四日」とつぶやく。
そしてさらに小さな声で
「自業自得だな」と。
その声は小さかったが、奈々枝にははっきりと聞こえた。
{え、自業自得}{私の何がどんなことが、智弘に別れを告げさせたのか}と恐れ戦く思いでいた。
急に智弘は片手を挙げウエイトレスを呼んだ「ホットコーヒーを1杯、薄いやつ」
「はい、アメリカンですね」
「うん、それから彼女にはオレンジジュースを」と奈々枝の方を指す。
「はい、アメリカンとオレンジジュースですね」とウエイトレスは朗らかに復唱して、すっとスケッチブックに目を移し
「うわあ、お上手ですね」とスケッチブックを見やる。
智弘もスケッチブックに目をやり
「いや、だめだね、全然なってないよ」というなり突然消しゴムをスケッチブックに押し当て、ゴシゴシと消し始めた。
ウエイトレスは驚き
「あ、申し訳ありません」と言うと逃げるように去って行った。
智弘は消しゴムを置き、再び鉛筆を持つとデッサンを始め
「君には、本当にひどい事をしたんだね、前の僕は、すまなかったね」
その言葉は奈々枝には唐突に響いた、うろたえ、混乱した。
「え、はい、いいえ」と言うのが精いっぱいだった。
急に智弘の手がテーブルの上を滑ってきた
「スマホを持つお許しがでてね」と奈々枝の前に差出し
「よかったら登録してくれないかい」と奈々枝は受け取り、ボタンを操作し始めるが、頭の中は混乱が続いていた。
{たとえ智弘に拒絶されても何度でも何度でもお願いして、別れだけはなしにしてもらおうと想いをめぐらし、覚悟してここに来た。それなのに、今スマホを私に渡し登録をしてくれと言っている。 五年前の別れ、ひどい事をしたと言っていた、それへのお詫びということなの、でも、彼は私の方を向いてくれない、私と目を合わせるのを避けているようだもの}と色々な想いが奈々枝の頭をよぎる。
そこへ先程のウエイトレスが飲み物をお盆に乗せ持ってきて、テーブルに置き、
「先程は大変失礼な事をして申し訳ありません」と頭を下げる。
スケッチブックを覗き込んだことへの詫びである、恐縮している。
智弘はウエイトレスの方へ顔を向け「いや」と言うとデッサンを彼女に向ける。
「うわあ」と一言言い口に手を当てる、そしてその手を奈々枝の方へ向け、小さく頷きながら
「素敵ですね」とデッサンをまじまじと見ていたが我に返って
「有難うございました」とペコリと一礼すると軽い足取りで去っていった。
奈々枝はそのデッサンを見せてほしいと思った。今まで病院で真司医師のコンピューターの中のデッサンを見た以外、直接見せてもらった事はない、それはそれでいいと思っていた。でも、今はどうしても見たかった。
奈々枝は智弘の方へ手を差出し「見せてください」と
智弘は頷き、スケッチブックを渡した。
そこにはこのレストランの丸テーブルや人影がかすかに写るガラス、そしてサンデッキの丸テーブルや椅子、手前の丸テーブルに座る男の後姿そして、その横に座る髪の長い女の横顔・それは奈々枝であった。
{消しゴムを使い私の姿を書き足してくれたんだ}と思った。うれしかった。
でも、その描かれた横顔は奈々枝には悲しそうにみえた。
スケッチブックを返すと、智弘はコーヒーを飲み干し
「それじゃ出ようか」と伝票を持ち立ち上がり店内へと歩き出す。
「あ、はい」と奈々枝は後を追い智弘の指の間から伝票を抜き取り
「これは、わたしが」とレジの方へ向かう。 この店のマスターが二人を追うように歩み寄り
「店を描いてもらったそうだけどよかったら見せていただけないかな」
智弘は「ええ」とスケッチブックを差出す。受け取ったマスターは「ううん、これはいいね」
智弘に「この絵、譲ってもらえないかな、店に飾りたいんだけど」と。
唐突な申し出に智弘は驚き、ためらいを覚えた、
そして「それは、ちょっと」
「もちろんお金は払わせてもらうよ、ぜひ、お願いしたいんだけど」とマスターは頭を下げた。
「え、お金なんかはいりませんけどこれをお店の中に飾るんですか」
マスターは「うん」と頷き「あそこらあたりに」と正面の壁を指さす。
智弘は指された方を、しばらく眺めていたが「わかりました、でもまだなんで、仕上げてから持ってきます、それでいいですか」とマスターに言う。
「ありがとう、本当にありがとう、それから今日のお勘定はいいから」とレジ係のほうへ「いえ、それは困りますから」と奈々枝の方を向き、勘定をうながす。
勘定を終えた奈々枝の横を歩き過ぎながら 「それじゃ又、次の時は僕が」
「はい」と奈々枝も後を追い店の外へ出た。 智弘はスタスタと歩んでいた、少し俯き加減で、何かをつぶやきながら。
街の喧騒の中、智弘はつぶやき、時に首を横に振りながら歩いてゆく。
そのあとを追いかけながら奈々枝は後悔していた
{八月三日の別れの事、八月四日の誕生日の事、そんな事何故話してしまったのか、智弘に又、ストレスを与えてしまっている}と。 俯き加減の智弘、その足元を見ながら後に続く奈々枝。
急に智弘が立ち止まる、奈々枝は危うくぶつかりそうになりながら止まる。
「え」と言って、智弘は振り返り{ついて来ていたの}
奈々枝とは「それじゃ、又」と言ってレストランで別れたと思っていた。
その彼女がここに居る、どうしようと思った、それなのに
「ここが僕のアパート、お茶でものんでゆく」と言っていた。
「あ、はい、お邪魔じゃなかったら」と奈々枝は素直に応じた。
智弘の部屋は、小さなキッチン、その奥に2人掛けのソファー2脚とテーブル、部屋の真ん中に置かれた机、その横にいくつかの扉があって、バスやトイレそして一っが寝室になっている。机の正面に小さなベランダがついていた。
「よかったら、座っててくれる」とソファーを指さし、キッチンでお湯をわかしだす。 {ここで、彼は暮らしているのか}と奈々枝は思った。
整理されていた、というよりも何もなかった、殺風景という言葉が浮かんだ。
いくつか置かれた食器、本棚の中の本、それがかろうじて人の生活を映していた。
智弘が湯呑を2つテーブルに置き、それから急須にお湯を注ぎ持ってきた。
「コーヒーはなくてね、緑茶でがまんしてくれる」とテーブルを挟んでソファーに座る。
二人で温かい緑茶をすすった、互いに無言でどちらも何を話したらいいのかわからずに。 智弘の湯呑が空になり、立ち上がろうとする智弘を
「あ、私が」と制して、奈々枝は急須を取ってキッチンへと向かい、お湯を注ぎ、横に置かれた、お盆に急須を乗せソファーに腰を下ろし、智弘の湯呑に注ぐ。
「このお盆、辛抱して使ってるよね」とお盆を持ち上げる。
たしかに、そのお盆の底には表と裏に板のような物が張られていた。 焼け焦げかなにかついて、しまったのか。
「これも、捨てよう、捨てようと思って、ついつい忘れてしまってね」
「いえ、捨てないほうが、何かおもいでが・・」と言って、奈々枝は言いやめた。
「思い出す事の無い、思い出か」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」と奈々枝は、自分に腹を立てた。
「え、そうだね」と俯いてしまった奈々枝を見ながら「大丈夫だよ、気にしなくていいよ」と優しく言う 。
{ああ、この人は私の事を慰めてくれている、本当は私が彼を、智くんを励ましてあげなければいけないのに}と奈々枝はどんどん落ち込んでいった。
「それじゃ、君の家の近くまでおくるよ」と奈々枝を促す、
「その前に少し買い物に付き合ってくれる」と智弘は明るく言う。
智弘が入った店は1階が事務用品、2階には画材が並んでいた。
スタスタと店員に歩み寄り、そして、店員に促され、又歩き出す智弘の後を追って奈々枝も進む。
「どういった額をお探しですか」と店員はいくつかの額をケースの上に並べ
「よろしかったらデッサンを拝見できます」と智弘からスケッチブックを受け取り、しばらく眺めていたが、ちらっと奈々枝の方へ視線を送って
「ありがとうございました」と広げたままのスケッチブックをケースの上に置き、
「どのような部屋に飾られますか」と尋ねる。智弘は「このレストランのマスターが店に飾りたいといっている」といって、店の様子を話し出す。
あのレストランは、外にはサンデッキがあるが、店内はブラウン系で統一されシックな落ち着いた感じになっていた。
智弘の話が終わると
店員は「それでしたら、このデッサンを浮きだたせるために少し明るい色合いのナチュラル系統なんかいかがでしょう、それか、思い切ってホワイト系など」
智弘は首を横に振り
「いや、できれば同化させたいんです、ブラウン系とかダークオーク系とかがいいかなと思っています」
「そうですか」と店員は少し残念そうに言って、幾つかの額を並べはじめた。
店内には客はまばらだったが、ほかの店員は忙しなく動いていた。そして2人の横を通りすぎるとき「いらっしゃいませ」と挨拶をして広げられたスケッチブックに目をやっていた、何人も店員が。
智弘の選んだ額は、ショコラウオールナットという色であのレストランの店内の色調よりさらに濃い色だった。
奈々枝は自分の家の手前の公園で智弘と別れた。
「又会えますか」と奈々枝は智弘の顔をみて言った。
「うん、連絡するよ」と智弘が答えてくれた。 智弘に抱き付きたい衝動に駆られたがそれを何とかおさえ「それじゃあ、待ってます」。 「うん、又」と別れた。
智弘からの連絡はいっこうに来なかった。奈々枝は自分の方からと何度もスマホを手にしたが出来なかった、
{どうしたらいいのか}と。そんな日が続いた。
夜の9時過ぎにスマホが鳴った、智弘から、
「もしもし、奈々枝さんこんな時間にごめんな、今電話大丈夫かな」と
「あ、はい、大丈夫です」と奈々枝は慌てて答えた。
「ありがとう、実は、今度病院の診察があるんだよ、定期的に行ってる、その診察に付き合ってもらえたらと思って、色々話もあるし聞いてもらえたらと思って、平日だから大変かもしれないけども」
「あ、はい、行きます、お仕事のほうは大丈夫だと思いますから行きます、大丈夫です。」奈々枝は心が浮き立つ思いでいた。
12時に待ち合わせ軽い昼食を取って2時の診察に行く事などを決めてスマホを置いた。
うれしかった、こんな時にも涙が出そうになる、自分をいぶかしくおもった。
しばらく、想いをめぐらしていたが、奈々枝は「はっ」となった。
{私は、真司医師や裕美医師と会って話を聞いた事を智くんに話しただろうか}
{どうしよう、話していない}
いつものレストラン、奈々枝が店内に入ると「いらっしゃませ」とウエイトレスが親しげに頭を下げサンデッキの方を指さす。
智弘の姿があった、軽く頭を下げ歩み始め、ふっと横の壁を見るとあの額に入った智弘のデッサンが掛けてあった。
みんなが言うように{素敵}だと思った。
智弘がいる丸テーブル、横の椅子に座り、
奈々枝は「おまたせしました」と言った
「いや」と智弘は奈々枝を一瞥して視線を移す。今日はデッサンをしていなかった。
奈々枝は「あの、お話しておかなければいけない事があるんです。」と硬い表情で切り出した。
智弘は奈々枝の方へ視線を向ける。
病院に行った事、そこで真司と裕美と会った事、真司のコンピューターの中の自分のデッサンを見た事などを話したが、
真司が「貴也さんやあきさんのような存在になってほしい」と言ったことは話せなかった
智弘は驚いている風に聞いていたが「そう、医師たちに会ったの、そうか」
診察室 四人は椅子に座っていた。
奈々枝は部屋に入ってすぐに二人の医師に
「先日はありがとうございました」と挨拶をした。
二人の医師は「あ、いや、どうも」と合点がいったように返した。
真司が「最近どう変わった事はないかな」とやさしく問う。
智弘は「特に何もないです」とスケッチブックを真司に渡した。
真司は受け取ったスケッチブックを膝の上に広げてめくりはじめる、裕美もそれに、目線を持っていく、そしてその中の一枚に目を留める。
そこに描かれていたのは、あのレストランに掛けられていたデッサン。丸テーブルの椅子に座る奈々枝の横顔の姿が描かれていた。
{もう一度描いたのかしら、この2人の医師に見せるために}と奈々枝は思った。
真司はデッサンから視線を移し智弘それから奈々枝の方を見た。
裕美はやさしく微笑みながら奈々枝を見ていた。
真司がコンピューターに向かいデッサンを取り込む。
それが終わるのを待って、智弘が口を開く
「彼女から話は聞いたとおもいますけど、大学1年の時に彼女と再会して、それから付き合いが始まったということです」と真司と裕美に言う
「残念ながら何も覚えていないんですけど」と首を横に振り奈々枝の方をちらっと見て、「聞いたところでは、彼女と別れたのが、もう会わないようにしようといったらしいけど、それが五年前の、八月三日だそうです」と一旦話を止める。
真司と裕美は互いに顔を見合わせる。
さらに智弘は「そして次の日、八月四日が彼女の二十歳の誕生日だったそうです」と続け「ひどい事をしてますね」と
智弘は奈々枝に向き直り「その八月四日の明け方に、僕は、救急車でここに運ばれてきたんだよ。」
「自業自得だね」と
奈々枝は急に向き直った視線に驚き、その言葉の意味を探った、そして驚愕した
{あのつらかった、八月四日の二十歳の誕生日に、智くんは大怪我をして、全ての記憶を失くしてしまっていた、あの涙を流すことしかできなかった、八月四日に} 目の前が真っ白になった、めまいがし倒れそうになった。
そっと支える智弘の手にも気が付かなかった。
真司は天を仰いでいた、裕美は心配そうに奈々枝を見やっていた。
二人は病院を出た。
「大丈夫」と智弘は、俯く奈々枝の顔を覗き込み「どこかでお茶でも飲んで休もうか」と 「いいえ、大丈夫です」
奈々枝は何が、どうして、何故、いろんな疑問符が浮かぶが、何の答えもでてこなかった。 どこをどう歩いたのか、気が付くと智弘のアパートの前にいた。
「少し僕の部屋でお茶でも飲んで休もう」と智弘に言われた。
奈々枝は躊躇した、本当は自分の部屋のベットの上で泣きたかった。頭を整理したかった。 そんな奈々枝の手を取り智弘はアパートの中へと歩きだした。
智弘の部屋のソファーに俯き座る奈々枝
智弘はキッチンから急須と湯呑二つをお盆に載せソファーに腰かける。
奈々枝の目に入ったのは、あの継ぎの入ったお盆だった。
「さあ、飲んで気分が落ち着くから」
{ああ、又、この人は私の事を慰め、いたわってくれている、又彼にストレスを与えている}と奈々枝は泣きそうになるのを、必死にこらえ{メソメソなんかしてたらだめ}と思った。
ふいに、智弘がソファーから立ち上がった。{あ、私が}と顔を上げ智弘を見た。
だがちがった。
智弘はキッチンの方へは向かわず部屋の中ほどに置かれた机に向かい、ベランダの窓の方を向き外を眺め始めた。
「僕はこの窓から見える景色が好きなんだ、ベランダの目隠しの上から見える街並み、そして遠くに見える山、何とわなく、落ち着くんだよね」と誰にともなく言う。
それから「こっちに来て見てごらん」と奈々枝に向き直って言う。
奈々枝はソファーからゆっくり立ち上がり、智弘の横に立ち窓の外を眺めた。
晴れた日だった空に小さな雲が浮かびゆっくりと流れてゆく。
智弘の腕が背中から周り奈々枝の肩を抱いた。 「前の僕と君との事を、色々想い悩んでも、しかたないと思う、それは答えの出ない事、たぶん永遠に」
「今の僕と君との事の答えは」そこで一息いれ「そのうちいつか、出てくると思うから」と
奈々枝は横顔を智弘の肩に寄せた。
智弘の手の温もり、腕の温もり、触れ合う体の温もり、全てを感じ、心が温もっていくのを感じた。
{いつまでもこうしていたい、この時がずっと続いてほしい}と思った。
しばらくして、智弘が「そろそろ送ろうか」と奈々枝の顔を覗き込む。 奈々枝は、まだ、こうしていたいと思ったが
「あ、はい」と言って顔を離した。
夕方の明かりの中、奈々枝は歩き出す智弘の腕に自分の腕を絡ませ、
「今日は、私のお買い物に付き合ってもらえます」と智弘の顔を見上げる。
智弘は少し慌てた風だったが「うん」と
街の繁華街、高級そうな店の並ぶ通りを歩きながら奈々枝は「香水を買おうと思って、智くんはあまり好きではないようだけど、今つけているのを」
「いや、嫌いというわけじゃないけど」と言う智弘の言葉に
「え、嫌いじゃないんですか」と奈々枝は智弘の顔を見上げ
「そうなんだ」と微笑む。
目当ての店につき、自動ドーアーが開き二人は入っていった。
「いらっしゃいませ」と若い店員が二人に椅子を勧め、「今日は何かお探しですか」と尋ねる。
そこへ、少し年長の落ち着いた感じの店員が歩み寄って
「こちらのお客様は私が」と若い店員に言う、
「はい、チーフ」と去ってゆく。
「いらっしゃいませ、お久しぶりでございます」と、
さらに、このチーフと呼ばれた人は
「お待ちしておりました」と智弘の方へ笑顔を向けた。
「あ、はい」と智弘は戸惑いがちに答える。 奈々枝も戸惑った。
{このチーフは、私たちの事を覚えている、あんなに親しげに挨拶をしてくれた}
{でも、私たちが以前この店に来たことがあるとは、智くんには話していない}
「智くん、私たちこの店に一緒に来たことがあるのよ、そして今、私が付けているこの香水」とショーケースの中を指さし
「智くんがプレゼントしてくれたのヨ、私の十九歳の誕生日のお祝いに」と言った。
智弘はショーケースを見やっていた。
チーフはそんな二人をいぶかしげに見ていたが、振り返りあの若い店員に
「この品物にリボンをかけて下さい」とショーケースの中からあの香水を取り出す。
奈々枝は「彼、頭にけがをして以前の事をあまり覚えていないんです」とチーフに言った。 「それは、大変でしたね、そういうことでしたの」と思案気に言う。
そこに、リボンのかかった香水が届き、
「実は、奈々枝さま、この品物は、智弘さまからのプレゼント、二度目のプレゼントでございます」とチーフは香水を差し出す。
「え、どういう事ですか」と奈々枝は驚き智弘を見やる。
「あの日、この香水を二つお求めになられたんです、そして一つをお渡しして、後の一つは奈々枝さまが後日、お買い求めにいらしゃった時にお渡しするように伺っておりました」とチーフは奈々枝を見、それから智弘の方を見やった。
智弘は「気障なことをやってるな」と上をむく。
チーフはふふっと笑って「あの日も智弘さまはそうおっしゃっていました、ちょっと、気障だけどねと」
奈々枝とチーフは顔を見合わせ微笑みあった、智弘は天を仰ぎながら苦笑いを浮かべていた。品物を受け取り店を出る二人に、チーフは明るく
「ありがとうございました、又のご来店、お待ちしております」と見送る。
奈々枝は、智弘の腕に自分の腕を絡ませながら歩いた、そうしながら、{ああ、一緒に来てよかった}と思った。
{思ってもみない事、そう今日思ってもみない事が二つもあった。病院で智弘から告げられた事実、そしてここにある香水}と腕にある店の紙袋の中の香水を少しゆすってみた。 ウキウキした気持ちの半面
{じゃあ、どうして一年後に私たちは別れる事になったの}と思った
{いや、やめよう智くんが言っていた、答えの出ない事に想い悩むのはやめようと、今の私たちの事を考えていこう}と
もう、暗くなって二人は公園に着いた。奈々枝の家の近くの公園、
いつも智弘はここまで送ってくれる。
「それじゃあ」と智弘が言うのに、奈々枝は飛びつくように智弘の唇にキスをして「又ネ」と足早に去っていった。
奈々枝は家に着き、キッチンの扉を開けると、母の里枝がテーブルにいた。
「ただいま」と明るく言い、リビングのソファーに座る、父の雅夫にも「ただいま」と言う。
雅夫は読んでいた新聞から目を上げ「おお」と一言言うと、又新聞に目をやった。
里枝は「ご飯食べたの」と奈々枝の方を見「ううん、まだ」と言う返事に「そう」とキッチンに向かい、料理を温め始め
「彼と一緒だったの」と尋ねた。
奈々枝は大きく頷き、香水の入った袋を里枝にみせた。
母の里枝は奈々枝にとって善き話し相手であり、善き相談相手であった。
特に、智弘との三度目の別れがあってからは、智弘との事は全て話し、励ましてもらっていた。
父の雅夫も母から智弘の事は聞いているようだった。
父が智弘の事を心良く思っていないと聞いていた、そのことが悲しかった。
{彼が悪いんじゃないのよ、お父さん}と キッチンテーブルで奈々枝は今日の事を里枝に話した。
雅夫はいつのまにかいなくなっていた。
里枝は驚きとほほえましい想いとを感じながら
{ああ、この子は一段一段階段を上って行っている智弘君と、智弘君と奈々枝が、何時までも一緒に居られますように}と思わずにはいられなかった。
自分の部屋に戻って、奈々枝はスマホを手にした。
{この中には智弘との思い出が詰まっている。たくさんの写真、送信メール、智弘からはぶっきらぼうな返事しか返ってこなかったけれど、これをどうしていいのか分らない、二人して笑顔で見れる日がやって来るのか}
智弘は軽い夕食をすませ自分の部屋にいた。ソファーに座りスケッチブックを広げていた描いているのは、この部屋、寄り添う二人の後姿、肩にもたれた頭から長い髪がなびいている、正面の窓にうっすらと写る部屋、そして肩にもたせかけられた顔や柔らかそうな体、一心不乱に描いていた、忘れてしまはないうちにと。
デッサンを描き終え、智弘はお茶が飲みたいと思った、立ち上がり、キッチンの方へ2・3歩歩みかけたが、思い直して向きを変え、机の方へ向かい椅子に腰かけた。
大きく息を吐き、智弘は一番下の戸を引きそこにあるアルバムを取り出した。
そのアルバムの存在は知っていた、だが広げて中を見てはいない、見ても仕方がない、見たからといってどうなるものでもないと思っていた
だが、今は違う、奈々枝と再会して、前の自分の色々な事が解ってきた、今、これをこのまま見ぬふりをしてはおれなくなったとおもった。
アルバムをゆっくり開く、そこには橋の写真があった。まず、目に入ってきたのは、吊り橋、夢大吊り橋と書かれた石碑、それから石橋の写真が何枚も続いていた。
その中には、人物は写されていなかった。 何枚かをめくると、2枚の台紙を縦に帯で束ね、上の方に金具で留めたページが出てきた。 これは、何の為のものなのか、その帯はたやすくはずすことが出来る、
{もし本当に見られたくないもの、あるいは見たくないものであるなら、もっと違ったやり方があるはずなのに、こんな簡単な事をして}と。
智弘はその帯をずらしてはずした。そして、ゆっくりと広げた。
そこに、あるものを見て驚愕した、
「俺は何て事をやってるんだ」とつぶやき、両手で頭を抱えこんだ。
サンデッキのレストランの丸テーブル、貴也とあきと智弘の三人が座っている。
あきから「ちょっと、頼みたい事があるの」と連絡をもらった。
「今日は、奈々枝ちゃんは来ないの」と言う声に
「はい、用事があるとかで」と智弘は頷く。 「そう、ところで、貴方たち、うまくいってるの」
「どこまでいったの」とのあきの問いに
「はあ」とあきを見返す。
「あなた、子供じゃないんだから、言っている意味分るでしょ」とさらに問い詰めるように。
智弘は「ああ、ええと、まだ何もありません」とこたえた。
「そう、あなた大丈夫なの」
智弘はあきの言う意味は分かっていたが、とぼけてみせた。
貴也は素知らぬ風をしていたが、顔はにやけていた。
いきなり、テーブルがガタッと動いた。あきが貴也の足を蹴ったのだ。
貴也は「いた」と顔を歪め、あきを睨みつけるが、あきはさらに怖い顔で睨みつけていた。 「なんで、私がこんな事言わなきゃいけないのヨ、貴の役目でしょ」と。
智弘は慌てて「あっ、すいません、分ります、分ります、大丈夫です、男としての機能には問題ないから、何ならあきさん試してみます」と
あきの足が飛んでくると思ったが、足は来なかったが、さらに怖い顔がこちらに向いた。{あっ、まずい}と思った
「すいません、くだらない事をいって」と頭を下げた。
貴也も「すまん、すまん」と顔の前で両手を合わせていた。
「もう、貴方たち、私の事を馬鹿にして、私、今、本当に怒っているんだからネ」と二人を交互に睨み付け
「気分悪いワ、どうしてくれるのヨ」と
貴也は「わりい、わりい、今日は何でも、あきの言うこと聞くから、気分直してくれよ」と智弘の方を見る。
あきは少し顎を突き出し、「そう、何でも言うことを聞くのネ、今日は私は女王様だからネ」と
男二人は、うん、うん、と大きくうなずいた。
あきは「頼んでたスケッチブックもってきた」と智弘の方へ手を差出、受け取ると
「実は、今度地区のコミニテーセンターで絵画展をすることになって、そこのスタッフが私の友達なの、その子に誰か出展する人いないかって頼まれたの、だから、あなたに頼もうと思ったの」とそこで一息入れ
「あなた、出展するわよネ」と
「あ、はい」と智弘はうなずいた。
「どれを出展するかは、私が決めるわヨ」とあきはスケッチブックをめくりは始めた。 {あきの頼みならもちろん喜んで協力する、まして今の状況ならなおさらだ、だが、どのデッサンを出すかは自分で選びたかった。特に最近描き上げた、あのデッサンだけはやめてほしい}と智弘はおもった。
あきはゆっくりと一枚一枚めくっている。
二冊目をめくり始め「ふーん」と言い手を止めた
「これにするわ、これでいいよネ」と智弘の方に向ける。
貴也もそれを覗き込んで、「おお」と
智弘は「あの、それは、ちょっと」とあきの方をみやる。
「え、なに、奈々枝ちゃんの承諾がいるのだったら私から頼んでみるから」とあきが言うのに
「はい、分りました、そのデッサンでお願いします。それから、奈々枝さんには僕から話しますから」と智弘はあきに頷きながら答えた。 「あなた、彼女のこと、奈々枝さんって呼んでいるの」とあきは智弘が頷くの見て
「そう、ま、いいっか」と「それじゃいきましょう」と智弘にスケッチブックを渡しながら立ち上がる。
「え、どこに」と貴也は訝しげに、あきを見上げた。
「どこにって、さっき言ってたコミニテーセンターヨ、そんなに遠くないし、いいでしょ」と貴也に甘えるように言っていたが、急に胸を反り
「行かないとは言わないわよネ」と二人の男を見下ろす。
「はい、はい、女王様」と貴也も立ち上がりながら、智弘に目配せした。
大きなはめ込みのガラスが何枚も並び、その中ほどにこれまた、大きな両方に開くガラスの自動扉、明るく近代的な建物、こじんまりとした公民館風のものを思っていた、智弘は、圧倒される思いだった。
三人がセンターの中に入ると、一人の女性が立っていた
「あき、メールありがとう」と駆け寄ってきた
「なつみ、どう私、頼りがいがあるでしょう」とあきはどうだ、といった顔で言う
「うん、うん」となつみはおどけた表情で敬礼のまねをする。
あきは三人をそれぞれ紹介する。
なつみさんは、季節の夏に美しいの美だと {そういえば、あきさんはどんな漢字なんだろう}と智弘は思った。
「わたしは、ひらがなのあきだけどネ」と言うあきに智弘は驚いた。
それから、本題の絵画展の話になった。夏美は、あきの選んだデッサンを見て、本当に喜んでくれた。うれしかったが、少し気の重い感じもあった。
打ち合わせで、どんなふうに並べるとか色々話した、デッサンの題名を聞かれ智弘は「寄り添う」と名をつけた。作者名は匿名にしてくれるように頼んだ。
最後に夏美は「これを額に入れて持ってきてほしいんですけど、額は個人負担でお願いしてるんですけど」とすまなそうに言った。
絵画展が始まって、数日して夏美から連絡があった。
「出展していただいた作品、とても好評で、みなさん立ち止まってしばらく眺めていらっしゃいますのよ、本当にありがとうございました」
「そう言っていただけると、僕もうれしいです」と智弘は答えた。
「それで、実は」と夏美はためらいがちな声で
「あの絵をとっても気に入られた方がいらっしゃいまして、譲ってもらえないか話してほしいとか、作者の方の連絡先を教えてもらえないかとか、おっしゃって、一応どちらもお断りしました」と一旦話をくぎった。
「でも、何度もお見えになって、熱心にあの絵をご覧になられて、時には一時間近くいらっしたこともあって、それで、これは私の一存なんですけど、智弘さんのご意向をお聞きして、それをその男性の方にお話ししようかなと思いましてお電話しているところなんです」
智弘は「それは、申し訳ないけどお断りしてください。僕はどなたかに差し上げる為に描いているのではなく、自分自身の記録として描いているので、申し訳ないですけど」ときっぱりといった。
夏美は「はい、分りました、どうもごめんなさいね、こんな電話をして、今度ぜひ、会場に見に来て下さいね」と電話をきった。
「はい、伺います」と智弘も切った。
奈々枝を誘っていこう。
奈々枝はスマホを耳に押し当て、智弘が出るのを待っている。
あの日、病院に行った日、香水を買った日、自分からキスをした日
あの日以来智弘には会っていない、電話やメールは何度もしたが、会いたかった。 智弘の声が聞こえた。
「あっ、智くん、今電話大丈夫」
智弘の「ああ、いいよ」との声を聴いて
「智くん、会いたいんだけど、あなたに」と。 奈々枝は驚いた。
自分の発したその言葉に{単刀直入}という言葉が浮かんで消えた。
「あ、うん、僕も君に、連絡しようと思っていたんだ、一緒に行きたい所もあるし、見てもらいたい物もあるんで」と言う智弘の声に、奈々枝は「はい、うれしい」と答えた。
それから奈々枝は少し言いにくそうに
「実は、母さんが智くんを紹介しなさいって言っているんですけど、今回かそうじゃなかったら、次の時とかに会ってくれると」
智弘は「そう」と言って考えを巡らし
「今度一緒に会おうか、ただ後で二人きりになりたいんだけど」
奈々枝は天にも昇る気持ちで「うん」と一言、言うのがやっとだった。
「それじゃ、又連絡するね」と言う智弘の声を聞いていた。
祝日の水曜日、奈々枝と里枝は絵画展の会場についた。
待ち合わせの時間より少し早めに着くように出たが、すでに智弘は入口の前で待っていた。 智弘の方に歩み寄り
「お待たせしました」と
「いや、大丈夫だよ」と智弘が返す。
「智くん、母です」と里枝を紹介する。
智弘はその方に向かい
「はじめまして、竹田智弘です」と頭を下げた。
「母の里枝です、奈々枝から色々お話は伺っています、大変な思いをなさったんですね」とやさしく
「智弘さんとは、二人が高校の時に何度かお会いしてるし、少しお話もしたことがあるんですけど、覚えていらっしゃらないんですね」 「あ、はい、すいません、まったく」と智弘は答える。
奈々枝は驚いた、初耳だった
「お母さん、智くんと話したって、どんな事話したの」と里枝を見やる
「え、どんなって、そんなたいした事ではないはよ」と微笑む。
「だって」と奈々枝は不満そうにしていたが 里枝は、「ごめんなさいね」と智弘の方に向き直り、それからセンターの方を見る。
「こんな所を待ち合わせ場所にしてすいません、今ここで絵画展をやっているんで、奈々枝さんと一緒にと思っていたもんで」と頭をさげる。
「そうですの、それじゃ、入りましょうか」と二人を促す。
センターの中には何十点もの作品が並んでいた。順路に沿って三人は作品を見ながら進んだ。
里枝が「まあ」と小さな声をあげる。奈々枝はその声につられ額に入った絵をみる。
{ああ、これは智くんと私、あの日の智くんの部屋での智くんと私}
奈々枝はその絵から目が離せなかった。
里枝は「寄り添うという題名なんですね」と奈々枝に顔を向けそれから智弘の方へと向けた。
三人は長い間その絵の前にいた。
そんな、三人の方へ中年の紳士とその後の女性が歩み寄ろうとしていた。
「奈々枝さんじゃないか」との男の声に、奈々枝ははっと我に返り、振り返った。
「あっ、社長」と驚きながら頭をさげた。取引先の社長である。
若い奈々枝たちにも、気安く声をかけ、時にはギャグで笑わせてくれるとてもいい人だ。 奈々枝は後ろの女性にもお辞儀をした、落ち着いた感じの、その女性は丁寧にお辞儀を返してくれた。
奈々枝が、それぞれを紹介し合った。
すると、妻と紹介されたその女が
「あなた、この絵の女性、奈々枝さんに似ていらっしゃらない」と夫を見上げる。
そう言われた社長は絵と奈々枝を交互に見て「そうか、どこかで見かけたことのある女だなとおもっていたんだけど」と奈々枝の方に直って「君なのかい」と
奈々枝は一瞬戸惑ったが「はい」と答えた。 「そうすると、この後姿の男性は君、智弘君だったね、君なのかい」と智弘の方をみやる。 「はい」と智弘は頷く。
「そうか、いやあ奇遇だね、いやあおどろいた」と社長は大げさに驚いてみせ
「ということは、君たちは、この絵の作者を知っているという事だね」と二人を交互に見て
「実は私はね、この絵を本当に気に入ってね、譲り受けたいと思っていたんだよ、ここのスッタフの人に、そう言って作者の人に取り次いでもらったんだけど、だめという返事をもらって、ガッカリしてたんだけど、君たち親しくしてるんだろこの作者の人と、君たちの方から何とか頼んでみてくれないかな」と両手を顔の前で合わせる。
「あなた、おやめになって下さい、お二人が困っていらっしゃるわよ」と後ろにいた妻が社長の手を取った。
「あ、そうか、すまんな」とばつの悪そうに頭に手をやった。
「あの、よろしでしょうか」とそれまで静かにやりとりを聞いていた里枝が口を開く。
「この絵は私共が頂くという、お約束ができていますの、大変申し訳ないのですが」と 「それは、ああそうですか、これは大変失礼な事を申し上げてすみませんでした」と社長は里枝に頭を下げた。
落胆しているのが誰の目にもわかった。
その社長の後ろから一歩前に出て妻は、真直ぐに智弘を見て
「主人はこの絵を見るととても心が癒されると言っていましたの、それで、あの、主人が頂けるような作品が出来たら、お知らせ願いませんか、よろしくお願いいたします」と丁寧に頭をさげた。
社長は目を見張り妻を見、それから、智弘を見やる。
「はい」と智弘は答えてから
「ただ、何時になるかは」と首をかしげる。 「それは、いいんですよ、急がなくても楽しみにお待ちしていますから」と笑顔で智弘を見、
そして、「ね」と社長にも笑顔を向ける。 「ああ」とあっけにとられたように答える。二人は丁寧に礼を言って去っていった、腕を組み、明るい日ざしが差し込む出口へと進む、男の顔を見上げる女の横顔、微笑む横顔。
三人はセンターを出た。
「それじゃ私はこれで」と頭を下げる里枝に「あのお母さんよかったら、一緒にお昼でも」と智弘は里枝を見、奈々枝にも「ね」と促すように言う。
「お母さん、そうしょう」と奈々枝は里枝の腕を取り「ね」とその手をゆする。
三人はタクシーに乗った。
「先程はありがとうございました、あのデッサンは、あきさんに言われて出展することになったんですけど、どなたかに、差し上げるというもじゃないので、たすかりました」と礼を言う。
そんな智弘を見ながら、奈々枝は心が晴れ晴れとしているのを感じた。
この約束をした時に、
智弘は「一緒に行きたい所がある、見てもらいたい物がある」と言った。
その言葉が頭の片隅に残っていた。
前にも同じような事を言われた事がある。
「君に聞いてほしい事がある」と、そう、病院に一緒に行き、真司と裕美と智くんと私と四人でいる時に、言われた、五年前の八月四日の出来事の話、
{今度は何を私につきつけるの}、そんな想いに駆られていた、一生懸命振り払おうとしたけど、ダメだった。
そして、今日、智くんが見せてくれたあのデッサン、心の中の黒い雲が一気に消し飛んだ、あのデッサンを、他の人に見られるのは少し恥ずかしかったが。
そして、お母さんも一緒に食事をしようといってくれた智くん。
奈々枝は頬に手をやった、{泣いていたりしたら、どうしょう}と、しかし、そこに、涙はなかった。
昼食をすませ「それじゃまたね、今度は家にいらしてね、手料理をごちそうしますから」と挨拶をして別れた。
智弘はそれには答えず、丁寧にお辞儀をして里枝を見送りそして歩き出した。
奈々枝はそんな智弘に腕を絡ませ、体を寄せて歩いた。
幸せに満ちていた、交わす言葉はなくても、智弘の温もりを感じていた。
智弘のアパートの部屋に入った。
「お茶を、入れるネ」とキッチンの方へ歩き出そうとする、奈々枝に
「いや、いらないから、座っててくれる」とソファーを指さす。
「え、はい、」と奈々枝は戸惑いながらこたえた。
智弘のその言葉、その表情、どきりとする程硬かった。
{智くんと声をかけたかった、幸せに浮かれているのは私だけなの}と思った。
そんな、奈々枝を見返りもせず、智弘は、机の方へ行き、引き出しの中から何かを取り出し、両手に抱えて、ソファーに戻ってきた。
二人掛けのソファーの端に座る奈々枝の前に、それを置くと、対角の端に腰をおろした。
{アルバム}と奈々枝は思った{これを私に、見てほしいと言っていたの、この中に何があるの}
「見てくれる」と智弘は奈々枝の方は見ず、真直ぐに前を見て言った。
奈々枝は腰をずらし、ソファーの中ほどに移って、そのアルバムをゆっくりと開いた。 その中には、智弘の大好きな橋の写真があった。九重夢大吊り橋、院内の石橋、とりわけよく覚えているのが、久地橋、欄干もなく、恐る恐る橋に立つ、私を智くんは写真にとった、おどけて、両手でピースをする、私のすがたを。
奈々枝は、アルバムをめくる、そのうちに2枚の台紙を縦に帯がされている所にきた。
{ここは、見ない方がいいのかしら}と智弘の方を見やると、智弘の手が伸びてきて、その帯をするりと外した。
奈々枝は凍えた。智くんは私を見ようともしない。
恐る恐る台紙をめくり、その中の写真を見た。
奈々枝は驚き、口に手をあてた。
そこに、あるのは、その中に居る人物が切り取られた写真、橋の写真の中に居る自分の姿が切り取られていた。
あの、久地橋のおどけた表情をした私も。奈々枝は、指で写真をなぞった、切り抜かれた自分の姿を探すように。
智弘は俯き加減に、その指を見ていた。 {奈々枝ちゃん、僕をせめてくれ「なぜ、こんなことをするの、そんなに私のことがいやなの」と言って、この部屋を出ていってくれ、それの後を僕は追わない。そうすれば、これで終わりになる。もう、君を傷つけ、苦しませる事もなくなる}
しかし、奈々枝の口から言葉はでてこない、ただ震える指で写真をなぞっているだけだった。
唐突に奈々枝は、
「平成二十五年八月四日」と言いながら、智弘の方へ顔をむけた。
智弘も思わず奈々枝を見、その指の指し示すところを見た。
アルバムの下の端にその文字はあった。これを、見つけた時には気付かなかったが。
奈々枝は、再びアルバムに目を落とし、そして
「私は、これからどう、八月四日を迎えればいいのかしら」と呟く。
智弘は、脳みそにパンチを食らったような衝撃を受けた。
{僕はどこまでこの女を苦しめるつもりなのか、なんという野郎なんだ}と、
置いてあったメモ紙に、平成二十五年八月四日と書いた。
八月四日、八月四日と、何度も書いた。そして、八と四、八と四と書き続けた。
「智くん、私
、智くんの事が好きです;;;。前の智くんの事も嫌いになんかなれません、いいでしょ」と言う奈々枝に
{何ていうことを言うんだ、そんなことはダメだ、そんなことが許されるはずがない}と思いながら、鉛筆を動かす。
八と四、八と四、八四、八四,
智弘の指がはっと止まった。
それを見ていた奈々枝も、はっとなった。 智弘の指が鉛筆を動かす。
八と四、その間に何かを書き足す。
(盆)と鉛筆は書き上げた。
奈々枝は、「お盆」とひとこと言うと、キッチンの方を向いた。
智弘はソファーから腰を浮かせたが、立ち上がることなく、ソファーに深く座り込んだ。 「え、なぜ」と奈々枝は言うとすばやく立ち上がり、キッチンにむかう。
あった、それは、その継ぎのはいったお盆は、いつもの所にあった。
それを持ち、智弘の隣に腰を下ろし、彼の前に置いた。
「ここに、何があるか見ましょう」と言った。
「うん」と智弘はお盆を見ながら「今度、調べておくよ」と小さな声で。
「いや、今開けてください、今、ここで」と奈々枝は智弘の腕をゆすった。
「ああ」と智弘はひとこと言ったままで、動こうとしなかった。
そんな、智弘の腕を、奈々枝はゆすり続けた。
「わかった」と言って、智弘は立ち上がり、机から小さな工具箱を持ってきた、カッターナイフを取り出し、継ぎにあてられた板の四辺に、切れ目を入れていった。そして、その板を動かした。
{これで、終わりだ、この女との終わりだ}と思いながら、その板を取り外し、テーブルの上に置いた。
しかし、そこには、何もなかった、何も書かれてもなかった。
裏側に当てられた板も外す、同じように、そこにも、何もなかった。
外した板を、前の板の上に重ねた。 コッ、パサッ、その音に二人は、同時に板を見やった。
そして、その板をゆっくり震える指でひっくり返した。
そこに、透明なビニール袋に包まれた青色の四角い封筒がセロテープで貼り付けられていた。 それを取り出し、ゆっくりと中身をテーブルの上に滑りだした。
あった、やはりあった、
そこには奈々枝の写真が、奈々枝の姿に切り抜かれた写真が。
奈々枝は震える指でそれを手に取り、アルバムの台紙に押し当て始めた。
1枚、そしてまた1枚と「ピッタリはまるネ、パズルのピースみたい」と奈々枝は俯いたままで言う。
{奈々枝の姿が切り刻まれていなかったのが、わずかな救いだったが、何の慰めにもなりはしない}と智弘はおもつた。
奈々枝の姿に切り抜かれた最後の1枚を奈々枝は手に取った。
そこに、残されたのは、四角い、カッターナイフの入っていない写真、智弘はそれを手に取った。
遠くの方を真剣な表情で真直ぐに見つめる奈々枝の横顔がそこにはあった。
その写真に、もちろん見覚えはなかったが、なつかしいという思いがうかんだ。
智弘はうろたえた{なつかしい、いやそんなはずはない、その姿は、今の奈々枝よりもっと若いころのものだ。}と。
そして、ゆっくりと、裏返してみた。
パチン、すぐ隣で聞こえた、その音に奈々枝は我に返り、智弘をみやった。
智弘は両手を拝むように合わせ、額に押し当てていた。その手の中に最後に残った写真があった。
肩が震え、胸は大きく波打っていた、固く閉ざした目の縁には光るものが
{智くんが、泣いている、あの、いつも冷静な智くんが}
智弘のこんなに感情を高ぶらせている姿を見るのは奈々枝は初めてだった。
奈々枝は智弘の方へ姿勢を変え、真直ぐに智弘を見、
「智くん、見せてください」と手を差し出した。
智弘は小さく頷くと、腕で涙をぬぐい、奈々枝の方へ真直ぐに向き直った。
固く閉ざした瞼を開き、奈々枝を見た。涙が頬を伝い落ちた。
奈々枝は息をのんだ。
胸の鼓動が高くなるのを感じた。
智弘はゆっくりと、差し出された奈々枝の手の上に、その写真を載せた。
奈々枝は智弘の目を見ていた。智弘も見返してくれていた。
{この写真、これを見たら、私たちどうなってしまうの、いっそ無かったことにして} 奈々枝は頭をゆっくりと横に振った。
そして、ゆっくり、ひっくり返し、裏を見た。
目の前が真っ白になった。 そこには
[さようなら愛しき女
守ってあげれずにごめん ]
平成二十五年八月四日
涙が溢れてきた、頬を次から次に流れ落ちた。
智弘の手が、奈々枝の両肩をつかんだ。
「ありがとう、そばに居てくれて、ありがとう」
「う、わーん」奈々枝は、智弘の胸に顔を押し当て泣き崩れた。
そんな、奈々枝の背中をやさしく智弘は抱いた。
奈々枝も智弘も涙が枯れることのないように。 ふっと、奈々枝が顔をあげる、二人はキスを交わした、長い長いキスを。
唇が離れ、抱き合ったまま、二人は見つめあった。
「抱いて下さい、;;だってあなたは、私の最初の男だから」
智弘は大きく頷き、奈々枝を抱き上げ、寝室の方へと向かう。
奈々枝は、智弘の部屋で二人きりの長い時間を過ごした。
そして、いつもの公園で智弘に見送られて、自宅の前に居る。
あたりは暗くなっていた。
その手には、あのアルバムがあった、あの切り抜かれた写真を、元のように戻したいと借りてきていた。
奈々枝は、そっと玄関の扉を開けた。
キッチンの扉を開け、中を覗いた。
ダイニングテーブルに三人が座っていた。 父の雅夫、母の里枝、そして妹の矢枝。
「ただいま」と奈々枝
「おかえり、ご飯食べたの」と里枝
「うん」と奈々枝が頷くと
「そう、智弘君と一緒に」と
{そうだった、今日はお母さんと一緒だったんだ、智くんと三人でお昼ご飯もたべたんだった}遠い昔の事のように、奈々枝には思えた。
奈々枝は椅子に座った。雅夫は、席を立ちリビングの方へ歩きかける。
「お父さん、見てもらいたい物があるの。みんなに、智くんのアルバムを見てもらいたいの」
アルバムをテーブルの真ん中に置いた。
そして、台紙をめくり、縦に帯がされたところを開け、ゆっくりとその帯をとった。
そして、矢枝の方に顔をむけた。
「えっ」と驚く矢枝に小さく頷いた。
矢枝はゆっくりと台紙をめくる。そこにある写真を三人は見た。
「ええ、なにこれ、ここにお姉ちゃんが」と後の言葉を飲み込み
「ひどいわ」と口に手をあてた。
里枝も驚いた{あの、智弘君がこんなことを}と思った。
雅夫はアルバムから目をそらし、天井を睨みつけていた。
奈々枝はバックの中から、青い封筒を取り出し、アルバムの上へ切り抜かれた自分の姿の写真を広げた。
矢枝は、それを見るなり「ひどい、ひどいあんまりよ」と言って、両手で顔を覆ってしまった。
里枝はゆっくりと、その奈々枝の姿の写真を手に取った。
雅夫は、それに一瞥もせず、天井を睨んでいた。
里枝が「でも、とても丁寧に切り抜いているはネ、奈々枝ちゃんの姿に傷一つないもの」と
その言葉のすぐあと、テーブルが[ごっ]となった。雅夫の拳がテーブルを叩いた音だった。
{いけない、みんなに悲しい想いをさせる為に見せたんじゃないのに、お父さんは怒っている、智くんの事を、どうしよう}と慌てた。
奈々枝は封筒に残っていた、例のあの写真を取り出し、矢枝の前に差し出した。
「矢枝ちゃん、これ」と、
矢枝は両の手で涙を拭うと奈々枝の方を見た。そして、前に置かれた写真を手に取ってみた。「お姉ちゃん、かわいいネ」と奈々枝の方へ悲しそうな泣き笑いの顔を向けた。
{ありがとう、でもじれったい}と思いながら、手で写真をひっくり返すまねをした。 「えっ」という顔をして、奈々枝を見返していたが、写真に目をやり、ゆっくりとそれをひっくりかえした。
一瞬間があった。
矢枝は写真を握りしめたまま、テーブルにつっ伏ぷし、泣きじゃくった。
奈々枝は矢枝の肩に手を置き「矢枝ちゃん」と呼びかける。
その声に、矢枝は顔を上げ「おねえちゃん;;」と一言声を絞り出す。
「矢枝ちゃん、そこに何て書いてあるか、お父さんとお母さんに読んで聞かせてあげて」 「私が」と不服そうに奈々枝の顔を見たが、そこにある、涙が溢れ頬を伝う奈々枝の顔を見て
「うん、わかった」と矢枝は姿勢を正して、読んだ。
だが、声は出なかった、口をパクパクとさせているだけで。
矢枝は深く息を吸い、声を絞り出した
「さようなら、愛しき女、守ってあげ・」
最後まで言い終わらずに矢枝は又、テーブルへつっ伏し泣いた。
里枝は、矢枝の指から、その写真を抜き取り眺めた。
その目からは涙が溢れていた。
雅夫は、ガタッとふいに立ち上がり、キッチンの方へと背を向けて歩いて行った。
その後姿を目で追いながら
{お父さん、智くんは悪くないのヨ、智くんの事を嫌いにならないで}と心の中で叫んでいた。
矢枝はまだ、顔をテーブルに付けたまま、
里枝は、例のあの写真を、手のひらで押し伸ばしていた。
雅夫は、キッチンに立ち背中を向けていた。 「お母さん、智くんがネ、ありがとうって言ってくれたの、そばに居てくれて、ありがとうって」
矢枝は顔を上げ奈々枝の方を見やったが、すぐに又テーブルにつっ伏し
「おねえちゃん」声にならない声をあげ大きな声で泣き出した。
里枝は、両手で顔を覆い、肩を小刻みに震わせていた。
雅夫は、キッチンで天を仰ぎ目を固く閉ざしていた。
{みんな、智くんの事を、好きになって、私の大好きな智くんの事を、}奈々枝は祈っていた。
キッチンから香ばしい香りが流れてきた、コーヒーの香り、父の雅夫が入れたコーヒーの。
雅夫は、テーブルにカップを4つ置き、ポットからコーヒーを注ぎ込む。
「あっ、私が」との里枝の声を無視して、コーヒーの注がれたカップを、それぞれに配り
「さあ、飲んで、落ち着くから」とコーヒーを口に含む。
「ありがとう」と三人もコーヒーカップを手に取る。
コーヒーの香りにつつまれて、
「奈々枝、父さんは、な、こいつがな」とアルバムをトントンと指でたたいて
「もし、家に来るようなことがあったら、2・3発ぶん殴って、たたき出してやるつもりだった」と奈々枝を見つめ
「父さんは、な、奈々枝お前の事を信じている、だからな、お前が好きになったこの男の事も信じてやろうと思う、それで、いいな」と雅夫はもう一度「な」と言いながら頷く。 奈々枝はガタリと椅子をいわせ立ち上がると、雅夫の方へ歩み寄り父の背中の両肩に、手を置き額を押し付け
「ありがとう、お父さん」声を震わせた。 雅夫は「よし、よし」と奈々枝の頭に手をやった。
奈々枝の柔らかな髪に手が触れた。小さな頃には、よく頭をなでて触れていた髪の毛。 「よし、もういい、よくわかった、席に戻りなさい」と天井を仰ぎみる。
「はい」と奈々枝は素直に応じ、席の方へと歩む。
「奈々枝」と雅夫は声をかけ「早く父さんに会わせろ、家に呼んで飯でも、一緒にどうだ」
今度は里枝の方へ向きを変え
「今度の日曜日なら空いてるが、どうだ」と「え、お父さんそんな急なことおっしゃっても」と
奈々枝の顔を窺う。
矢枝も驚いたように
「お父さん今度の日曜日って、」 木・金・と指を折り
「後、四日後よ、いくらなんでもネ」とこちらも奈々枝を見る。
「善は急げと言うだろう、なあ、奈々枝」と奈々枝に顔を向ける。
「う、うん」と奈々枝は思案気に首を傾げていたが
「ちょっと、智くんに、聞いてみる」とスマホを手にリビングの方へと向かう。
テーブルでは、里枝が
「お父さん、そんなに急いでも」と雅夫に
「お前はこいつに会っているが、俺は、まだなんだからな」と里枝を睨み返す。
そんな父を、矢枝は不思議そうに見ていた。泣いたり怒ったりこんなに感情を表に表す父を見た事がない。
特に泣き顔は
{そうだ、スマホに撮っておこう}と思ったが、すぐに思いなおした。
{そんなことをして、見つかったらスマホを没収される。お父さんは怖いから}
奈々枝がテーブルに戻ってきた
「智くんは伺いますって、日曜日の午前中に、時間は相談してから決めるネ」と奈々枝はにこやかに、少し恥ずかしそうにいった。
土曜日、奈々枝は智弘のアパートのチャイムを押していた。
扉が開き「やあ」と智弘が顔を出し、奈々枝を中に招きいれた。
二人は見つめあい、キスを交わした。
{こんな日が又、くることを望んでいた、そして今、私はこの人の腕の中にいる}
二人はソファーに座り、お茶を飲んだ。 奈々枝が来たのは明日の事を打ち合わせるため。
それともう一つ、あの社長のお宅を訪れるためでもあった。
智弘から「社長の奥さんから言われてたデッサンが出来上がったから、そのことを先方に伝えてほしい」と言われ、社長と連絡を取り合って今日、ご自宅に届けるという約束ができていたからだった。
智弘と奈々枝はタクシーを降りた。 閑静な住宅街、洋風の洒落た家。
玄関のチャイムを鳴らすと、
「はーい」と声がして扉が開いた。
「いらっしゃい、お待ちしてましたのヨ」と、にこやかに奥様が出迎えてくれた。
ソファーに案内され腰を下ろすと、そこへ、社長が
「やあ」と声をかけながら現れた
「ありがとう、こんなに早く描き上げてもらえるとは思っていなかったよ、気長に待っているつもりだったんだが」と
そこへ、コーヒーカップをお盆に乗せた奥様が
「あら、そうでしたかしら、いつ頃描きあげてくれるんだろうって、何度か、仰っていましたヨ」と夫をからかう。
「うん、そうだったかなー」ととぼける社長。 そんな二人の前に、智弘は紙袋から額を取り出し、テーブルの上に置いた。
そこには、陽光にきらめく出口へと向かう二人の後姿、女性は腕を組み男を見上げ、ほほえむ横顔。
奈々枝は智弘に、出来上がったデッサンを見せてほしいと言ったが、智弘は「後で」と言うだけだった。
{あっ、あの時のお二人だ}と奈々枝は思った。
社長と奥様は、同時に驚きの声を上げた。そしてじっとデッサンに見入っていた。
そこへ、「こんにちは」と明るい声で智弘と奈々枝に、挨拶をしながら女の子がソファーに近付いてきた、中学生くらいだろう。
「こんにちは」と二人は挨拶を返す。
「あっ、これお母さん、ね、お母さんでしょ」と母親の顔を覗き込む。
「この、後ろを向いているのがお父さん、へーすごい」と言うなり智弘と奈々枝の顔を交互に見比べて
「お兄さんが描いたの、ねそお」と
智弘が頷くと
「へえー、すごい、すごいネ」と大げさに驚いてみせ、家の中を見回し
「ねえ、どこに飾るの」と尋ねた。
「おい、おい、これはな、会社のお父さんの部屋に飾るよ、そう思って、彼に頼んだんだからな、うん、そうだ、あそこの壁に掛けよう」と自分の部屋を思い浮かべながら一人頷いた。
「ええ、お家に飾るんじゃないの」と口を膨らませていたが、すぐに笑顔になり
「まあ、いいか、お父さんお母さんの事、大好きだもんネ」とニヤニヤと二人を見やって、「それじゃネ」と智弘と奈々枝に軽く会釈をして、キッチンの方へとむかった。
「こら」と社長は娘の方へ振り返り「まったく」と言って、照れ臭そうに二人に頭を下げた。
「すみませんネ、お行儀がわるくて」と奥様も。
それから、額を両手で持ち、じっと見て、それを社長の方へ向け
「あの時の私たちですネ」とデッサンの中の笑顔をむける。
社長は静かにうなずいた。
社長は智弘に向き直り
「これは、気持ちばかりのお礼で」と智弘の前に準備していた封筒を差し出す。
「え、それは、そんなお気遣いは、本当に結構ですから、すいません」と頭を下げた。
「いや、そういうわけには、いかないよ、こんな額にまで入れてもらって、これは受け取ってもらはないと、なあー」と奥様に助けを求めるように顔をむける。
「いえ、これは、差し上げるという約束で、今日お持ちしたんで、喜んでいただけた、それだけでいいんです」と固辞し続ける。
「うう、ん、しかし」と社長は智弘のようすを見て困り顔になる。
奈々枝は何も言えず、はらはらしていた。 そこに、奥様が
「あなた、智弘さんが、ああ仰っていらっしゃるですから、今回は彼のご厚意に甘えたらいいんじゃないんですの」と
夫の顔を覗き込み
「若いお二人の事ですもの又、別の時にネ、お祝いを差し上げる事もあるでしょうからネ」と夫を見やり、それから、奈々枝の方へ笑顔を向けた。
奈々枝は顔が赤らむのをおぼえた、そして、小さく頷いた。
日曜日、里枝、奈々枝、そして、矢枝の、三人はキッチンに立ち昼食の下ごしらえをしていた。
キッチンに立ちながらも、奈々枝は耳をそばだてていた。
チャイムが鳴った、一〇時きっかりに。
前の日、智弘には「一〇時頃に来てネ」と伝えていた。
「それから、普段着でいいって、お父さんが、ああ、それから、変な気は遣わなくていいって、これも、お父さんが」とも伝えていた。
智弘は、頷いていた。
奈々枝は玄関の扉を開けた。
智弘は、背広にネクタイ姿だった。手には、果物の入った籠。
奈々枝は{ええ}と少し驚いた。
そんな奈々枝に、智弘は小さく顔を横に振りながら
「君の言うような訳にはいかないよ」と果物の籠をさしだした。
奈々枝は智弘を、父の待つ部屋へと案内した。
八畳ほどの和室、床の間を背に雅夫は座っていた。
里枝と矢枝もいつの間に来たのか雅夫の右手の方に座っていた。
雅夫の正面に座布団が二つ並べられていた。 二人はその上に正座をし、
智弘が挨拶をした。
「はじめまして、奈々枝さんとお付き合いをさせてもらっている、竹田智弘と申します。今日は、お招きいただいてありがとうございます、どうぞこれからもよろしくお願いします」と言いながら、深く頭を下げた。
智弘の緊張が、奈々枝にも伝わり、胸がドキドキとなった。
「うん」と雅夫は「私が父親の雅夫、こっちが」と里枝の方を見やりながら
「母親の里枝、それから、妹の矢枝」と紹介した。
二人は智弘に、会釈をしながら
「よろしく」と声をかけた。
里枝は用意していた、お茶をそれぞれに差し出しながら、
「先日はありがとう、お昼までご一緒させてもらって」と笑顔を智弘に向けた。
「そういえば、あそこでお会いした社長様に、デッサンをお届けしたって、聞いたんですけど」
「はい、喜んでもらえたようで、良かったです」と智弘は答えた。
そんな、智弘に雅夫は「まあ、そんなに、固くならず、足を崩したまえ」と自ら、あぐらになる。
「はい、ありがとうございます」と智弘は答えるが、その姿勢のまま、
「奈々枝さんから、色々お話はお聞きになっているとは思いますが、私は以前の記憶がなくて、それで、以前の奈々枝さんとの記憶もなくて、」と 智弘は自分に腹をたてていた。 これだけは言わなければと、何度も心の中で練習してきたのに、こんなにしどろもどろになってと
「あの、それで」と続けた。
「又、奈々枝さんと付き合いが始まって、色々な事が飛び出してきて、そのたびに、彼女を悲しませてしまって、申し訳なく思っています。これからも又、どんなものが飛び出して来るか、それで、もう少し時間をいただけたらと思っています」と智弘はやっとの想いで言い終え、頭を下げた。
「私、大丈夫です。だって高校の時の片思いから始まって、そして、今、私大丈夫だから」と智弘を見やり、それから父の顔を見た。 「うん」と雅夫は頷くと
「智弘君、君の言おうとしている事は分かった、私は君を信じている、ただそれだけだよ」
「はい」と智弘は答え、足を崩し胡坐になった。
部屋の中は静まりかえっていた。
ふいに、里枝が口を開く
「奈々枝ちゃん、智弘君、私だけが知っている秘密の話をしましょうか」といたずらぽく笑う。
{え、秘密の話}奈々枝は不安げに母を見た。
智弘も、雅夫も、矢枝も、里枝の方を向く、矢枝も不安げな顔で。
そんな、四人の視線を無視して
「あの例の写真あったでしょ」と里枝は奈々枝に顔を向け
「あれはネ、あなたの高校二年生の時のものなのヨ」
奈々枝は「高校二年生」と首をかしげて
「でも、あれは智くんが持っていたのヨ、高二の時の写真っていっても」
「あれはネ、あなたが高二のとき、みんなでハイキングに行った時、そう、伐株山にネ行った時の物なのヨ」
「あなたの転校が決まって、最後のPTAの時に智弘君と話をする機会があってネ、
寂しくなるわネって、私が言ったら、智弘君が、あなたの写真を下さいって、いきなりだったから驚いたけど、それで、私の一番のお気に入りの写真を差し上げたの、それがあの写真なの」
奈々枝は驚き口に手を当てた。
智弘も驚いていた、そして二人は目を合わせた。
突然、矢枝が
「なにそれ、それじゃ、お姉ちゃんの片想いじゃなくて、両想いじゃん」と大きな声で。 「ううん、違うわヨ矢枝ちゃん、両方が片想いってことヨ」
「ええ、あっ、そうか」と矢枝は額に手を当てた。
奈々枝は
{両方が片想い、私は高校の時から智くんの事を想っていた、その時、智くんも私の事を想っていてくれた、私の事を}
智弘は不思議そうな顔で里枝をみていた。 その視線に気づいた里枝は、智弘の方へ頷きながら
「奈々枝ちゃんには内緒にしていて下さいって言ったのヨ」
奈々枝は母を見、それから、智弘の方に顔をむけた。
「奈々枝ちゃん、それからネ、もう一つあるのヨ。この際だからお話しておくはネ」 奈々枝は母の方へ視線を移し、静かに頷く。
「あなたが短大に入ったすぐの頃、お母さん智弘君から電話をもらったの、あなたと会うことが出来て、お付き合いを始めたって。そして、これもあなたには内緒にしてって」 智弘は「すいません、何も憶えてなくて」と小さく呟いた。
奈々枝は智弘に抱き付きたい衝動に駆られた、その胸で甘えたいと思った。
雅夫が「おい、もう終わったか」と里枝の方へ
「食事の支度はいいのか」
「あ、いけない、もうこんな時間、急いでやりますから」と部屋の時計を見て立ち上がり「矢枝ちゃん」と娘を促す。
奈々枝は戸惑った、母たちと一緒にキッチンに行った方がいいのか、このままここに居る方がいいのかと、母を見上げると里枝はここに居なさいっていうように、目配せしてくれた。
三人残された和室。
ふいに雅夫が「奈々枝お前も母さんたちの食事の支度を手伝いなさい」と顎をしゃくりながらいった。
奈々枝はためらった。
だが、智弘が小さくコクリコクリと頷くのを見て、立ち上がった
{お父さんと智くんと二人きり}と思いながら部屋をでた。
後ろ髪を引かれるという言葉が浮かんだ。
二人きりの和室、雅夫が
「智弘君、君は怪我で大変だったんだね、そして今もその大変な想いっていうのは続いているんだな」と智弘を真直ぐに見る。
「あはい、でも大丈夫です」 言ってしまってから
{何が大丈夫なんだろう}と思った、
{何が大丈夫で、何がだめなんだろう}
「君はさっき時間を下さいといった、これから何が出て来るか分らないからと、奈々枝の親としてはありがたいという気持ちもある」と言葉を切って
「だがな智弘君、君のいう何か、何かとんでもない物が出てきた時に、君はあの子を一人残して消え去るのかね、それはあの子には耐えられない事だと思うな、君は耐えられるのかい、」
智弘は下を向いた、頭を上げることが出来ない
{奈々枝と別れる、奈々枝ちゃんともう会うことが出来ない日々そんなことが}
智弘は顔を上げ雅夫をみた。
そして正座に戻り
「お父さんありがとうございます」と深々と一礼して
「すこし中座させて下さい」と又頭を下げ立ち上がり部屋を出た。
キッチンの方へ向かい
「奈々枝ちゃん」と呼んだ。
後ろ向きの奈々枝には届かなかったが、それに気づいた矢枝が
「おねえちゃん智弘さんが」と奈々枝に声をかける。
奈々枝は「はい」と笑顔で振り向く。
「奈々枝ちゃん、君の部屋を見せてほしいんだけど」
「あの、お食事のあとでいい」と答えるが、智弘は「いや、今がいいんだけど」
奈々枝は少し首を傾げた。
そんな奈々枝に
「こっちは大丈夫ヨあなたは行ってらっしゃい」と里枝が優しく言う。
「うん、それじゃ」と奈々枝はエプロンを取り智弘の手を取り2階の部屋へと入った。 奈々枝は「疲れたでしょ」と明るく智弘の顔をみた。
智弘はそんな奈々枝に笑顔も返さずに奈々枝の両腕をつかみ
「奈々枝ちゃん、僕は、僕の中からいろんな物が飛び出す、まるでびっくり箱のように飛び出してきて、君を傷つけてきた」
奈々枝は智弘の話を遮るように
「お父さんが何か」
今度は智弘が話を遮るように首を大きく横に振り
「これからもどんな物が飛び出すか分らない」と奈々枝を見つめる。
「私は大丈夫;;」と言いかける奈々枝の唇に指を当て見つめ続け、
そして奈々枝の前にひざまずき両手を取り見上げて
「奈々枝さん、僕と結婚してください、そして、いつもそばに居て下さい」 奈々枝は智弘を見つめた。
大好きな智弘の顔を、その瞳から涙が溢れ出ていた。
奈々枝もひざまずき智弘の首に抱き付いた「はい、お受けいたします」と。
涙が溢れて止まらなかった。
智弘の体の温もり、背中に回された腕の温もり、そんな全てを感じながら涙を流していた。 そんな奈々枝を優しく抱きしめながら
「奈々枝ちゃんだけどごめんな、今日はまだ、指輪は用意してないんだ」とすまなそうに言う智弘から体を離し見つめ、
「今度な」と言う智弘の唇に自分の唇を重ねた。
長い口づけが続いた。
智弘は、部屋を出て雅夫の待つ和室へと向かう。
奈々枝は「お化粧を直してから行くネ」と。
奈々枝の瞳にはまだ涙が溢れんばかりに光っていた。
奈々枝は部屋を出ようとして、もう一度鏡に自分の顔を写し「よし」と一言呟き部屋を出た。
キッチンへと向かう。
矢枝が振り向き
「おねえちゃん涙」と自分の頬を撫でた。
「ええっ」と奈々枝も頬を撫でた。
涙が又頬を伝っていた。
奈々枝はそれを隠すように後ろをむいた。 「おねえちゃん大丈夫」と心配そうに奈々枝の背中に声を掛ける、
矢枝に振り向きながら笑顔で
「幸せな時にも涙って出るのネ」
終