深夜の攻防
キリヤが横へ転がったのは、ほとんど無意識だった。
彼の立っていた場所に、一瞬遅れてランネイの拳が突き刺さる。爆破魔術でも炸裂したかのような音がして、屋上の床がひび割れた。
「――ほう、この初撃を避けるか」
今にも崩れそうな足場の上で、ランネイはニヤリと笑みを浮かべる。
彼女の服装は、見た限り戦闘行為にはそぐわないものであった。革のグローブとブーツこそ物騒な見た目をしているが、その身に纏うのはワイン色のドレスのみで、頭部を保護する防具すら身に着けていない。
だがそれも、彼女にとっては些細な事だ。装甲魔術より硬化した体表面と、生命魔術により強化された筋肉。その理不尽なまでのマナ量は、皇族の血筋たる証明でもあった。
キリヤはバックパックに手を伸ばすと、片刃の短剣を二本取り出す。ランネイは鼻で笑いながらその様子を眺めていた。
「そんな玩具で私と闘うつもりか……? 魔術も使わずに。死ぬぞ」
「すまないが、捕まる気もなければ、魔術の痕跡を残すつもりもない。もちろん死ぬつもりもな」
キリヤは右手の短剣を前に突き出しながら、左手の短剣を逆手に持って背中に隠す。彼が操るのは、今は亡き師匠から教わった東方流の双短剣術だ。
「……その構え。お前、東方の血筋か?」
「答える義理はないな」
「ククク……舐められたものだな。この私から、その程度で逃げ切れるものか……ッ!」
言うや否や、爆音と共に襲い来るランネイ。
彼女が繰り出した強力な回し蹴りを、キリヤは流れるような短剣捌きで受け流す。そして反撃とばかりに、体を回転させながらランネイへと斬りかかる。
キリヤの短剣を受け止めたのは、ランネイの手刀だった。
「でたらめな硬さだな……!」
「ハハハ。お前こそ、パンツ泥棒にしておくには惜しい人材だ」
ランネイは片足を高く上げた。するとドレスの裾がめくれ上がり、彼女の穿いているパンツが露になる。
それは、金色の紐パンツだった。
キリヤは再び横に転がり、振り下ろされた足を避ける。だがその強烈な踵落としは、屋上の床へと突き刺さる衝撃でキリヤを跳ね飛ばした。
「ゴホッ……金パンツ。七色だけじゃないのか」
「あぁ、知らなかったのか。探偵としての私は七色のパンツで思考方法を切り替える。一方で、武人としての私は五種類のパンツで闘い方を切り替えるのだ。全十二種、なかなか拝めるものではないぞ」
ランネイは徐々にボロボロになっていく不安定な足場を跳ねながら、次々と蹴り技を繰り出す。そしてその度に、ヒラヒラと揺れるドレスからパンツが覗く。
キリヤはそれらの攻撃を器用に躱しながら、屋上の隅の方へ徐々に追いやられていった。
「なぁ、怪盗パンコレ。お前はパンツが好きなのだろう。じっくり見るがいい……これは『近接格闘の金』、お前が人生で目にする最後のパンツだ」
そんな言葉と共に繰り出された前蹴りを、キリヤは回転しながら受け流し、大きく後方へ跳ね飛ぶ。
「……なるほどな。俺が女のパンツに弱いと踏んで、あえて見せるような闘い方をしているのか」
「あぁ。よもや卑怯だなどとは言うまい。弱点を狙うのは基本中の基本だ」
ランネイの口から、コオッと息が漏れる。
キリヤは思考を巡らせる。
ランネイに与える情報は可能な限り少ないほうがいいだろう。そのため彼には、魔術や投擲具の使用はおろか、血を流すことも許されない。また、マナ操作のみで操れる黒腕も、正体に勘付かれる危険があるため大っぴらには使えなかった。
「一つ聞いておきたいんだが……」
「時間稼ぎか? まぁいい。なんだ」
「どうして今日、ここを狙うと分かった?」
その問いに、ランネイは口角を上げる。
「簡単なことさ、怪盗パンコレ。お前はな……パンツを盗みすぎたんだ」
「……?」
「ククク。そう難しい話じゃない――」
暴風のように拳を振るいながら、彼女は少しずつ言葉を重ねる。
この国には帝国美女名鑑なるモノが存在する。それは帝国貴族の女をその容姿で評価し、ランキング形式でまとめたものである。
もっとも、それを閲覧できるのは帝国美女会議の議長であるランネイと、父である皇帝、弟である皇太子くらいであるが。
「――帝都に住んでいる貴族の美女・美少女。おそらくは10歳から40歳頃までがお前のターゲットなのだろう? 美女名鑑の中から当てはまる者だけをピックアップすれば、それがお前のターゲットリストだ」
ランネイの言葉から、キリヤは今の事態に陥った原因を悟る。
依頼の納期さえ厳しくなければ、ターゲット以外のパンツを盗むことで捜査を撹乱することもできただろう。だが現実は、余計なことをしている時間はなく、ターゲットになり得る者を狙うだけで精一杯であったのだ。
「該当者が無限に存在するわけがないだろう? 被害者が増えれば増えるほど、残る選択肢は絞られていく。あとはその中で……」
「ランキング上位者の屋敷を張る」
「ふふ、正解だッ――」
ランネイの回し蹴りが頭上を掠める。
屋上の隅に立つキリヤは、狭い足場の上で膝を落とした。もう逃げ場は残されていない。絶体絶命と言って良い状況だ。
「私をここまで手こずらせた者はいなかった。素直に称賛しよう、怪盗パンコレ。お前の悪行は帝国の歴史に刻まれるだろう」
そう言って突き出された手刀は、荒々しいマナを纏う。キリヤは身を捩って躱そうとするが、その動きは精彩を欠いていた。
――闇夜に鮮血が舞う。
そのまま倒れ込むようにして、キリヤは屋上から落ちていった。
「逃げたか……まぁいい。この血があれば、お前は追跡から逃れられない。勝負あったな」
ランネイは手についた血をハンカチに染み込ませると、唇を三日月の形に歪めた。生ぬるい風が吹き抜け、彼女の頬を撫でる。そして、ドレスの裾がめくれ上がる。
その丸い尻が布に覆われていないことに気づくのは、もう少しだけ後のことであった。
キリヤは肩で息をしながら、路地裏の片隅で目立たないように腰を下ろす。
最後の瞬間、勝利を確信したランネイは隙だらけだったため、黒腕を伸ばしてパンツを奪うのは容易だった。
「暗殺依頼だったら、あの瞬間に毒でも浴びせてたところだな……いや、アレには効かないか。真正面からやり合うのは、これきりにしたいところだ」
そう言って、顔から黒布を剥がす。
少なくとも彼に確認できる範囲で、その身には傷一つなかった。疲労こそ酷いものの、休息を取れば問題なく回復するだろう。あとはどうにか拠点にたどり着くだけだ。
「……シローネに感謝だな。念の為、仕込んでおいて良かった」
キリヤは黒布を全身に掛け、体内にマナを循環させて回復を図り始める。再び動き始めるには、もう少しだけ休んでいる必要がありそうだった。